ランチタイムブルース

ランチタイムブルース

社内の社員食堂で日替わりランチの油まみれの、こってりとした豚の生姜焼きを一人で食べていると、ここ良いですか?と経理課の顔は知っているけれど名前は知らない若い女性社員が、私の目の前の空いている席に座った。

五十を過ぎた私には油が濃過ぎる豚の生姜焼きを食べ終わり、私は妻にメールを打ち始めた。''本日の昼食 ・豚の生姜焼き定食 油が濃い''メールを打ちながら名前の知らない若い女性社員が食べている弁当をチラと見ると、鳥の竜田揚げやほうれん草の和え物、かぼちゃの煮物など手作りのおかずの種類が豊富で栄養バランスの良いとても美味しそうな、私の妻が毎日作ってくれていた様な弁当だった。

「自分で作ってるの?」
私はその弁当に感心して名前の知らない若い女性社員に話し掛けた。
「いえ…母が、母が作ってくれています」
「そう。お母さんに感謝しなくちゃね」
私自身、今迄妻に感謝した事など一度たりとも無かったのだけれど。
「一口、いかがですか?」
名前の知らない若い女性社員は弁当箱を差し出してきたけれど、お腹がいっぱいだからと断り私は席を立った。

私の浮気が発覚し、妻が家を出てから二か月が経とうとしていた。結婚して約三十年、浮気の一つや二つは今迄も無くは無かった(妻が気付いていたかは別として)。今回もちょっとした出来心で、昔からの悪友に誘われて行った風俗での一回限りの遊びのつもりだった。けれど、風俗嬢の名刺をスーツのポケットから見つけた妻は激高した。おいおい、ちょっとした息抜きだよ。私は妻を諭したが、妻の怒りは収まらなかった。今迄の浮気も見て見ぬふりをしてくれていたのかもしれない。怒りと悲しみが頂点に達した妻は、私も息抜きしてもいいですよね?と言って家を出て行った。行き先は職場の近くで一人暮らしをしている息子の所だろうと予想は付いていたので、何処か知らない場所へ行ってしまう心配が無かった事に私は心から安堵していた。

妻の怒りを静める為に距離を置くのも悪くない選択だ。けれど、このまま妻が帰る事なく離婚する事になるかもしれないと私は不安になり、妻に謝りたくて携帯に電話を何度しても出てくれず、悪かった、話がしたいとメールを送り続けてもなしのつぶてなのが今の現状だ。息子は親父は酷い、最低だ、と私を軽蔑していて完璧に妻側に付いているので私と妻の仲直りに協力してくれる事に期待は出来そうにない。

妻が家を出て行ってしまって、一番困ったのは食事だった。朝食、昼食に弁当、夕食。当たり前に食事を作ってくれていた妻の有り難みを私は初めて感じていた。妻が居なくなってからは、朝食は抜き。昼食は会社の社員食堂。夕食は同僚と呑んで帰るか、そうでなければコンビニで酒のつまみの惣菜を買って帰る、そんな侘しい生活が続いている。栄養バランスの非常に悪い食生活を心配して欲しくて、私は毎日の食事のメニューを妻にメールする。今夜のメニューはこれだ。''本日の夕食 ・焼き鳥セット ・ポテトサラダ ・枝豆 全部コンビニで購入''妻からの返事はもちろん無い。

次の日、社員食堂でざる蕎麦を啜っているとまた顔は知っているけれど名前は知らない若い女性社員が私の前の席に座り、弁当を広げた。おかずは鰆の西京焼き、出し巻き玉子、里芋と蓮根の煮物。どれも私の妻の得意料理だ。
「一口、いかがですか?」
若い女性社員の言葉を待たずに私は箸を伸ばした。頬張った出し巻き玉子はとても懐かしい味がした。その出し巻き玉子は紛れもなく私の妻の作る出し巻き玉子だ。何年も食べていたのだから、分かる。私は一口で終わらずに他のおかずにも箸をつけた。全部妻の味がした。私は若い女性社員の弁当を夢中で殆ど平らげてしまっていた。それを見て若い女性社員はニコニコ笑っていた。

昼食を食べ終わり人事部の自分のデスクに戻った私は、顔は知っているけれど名前は知らない若い女性社員が何故私の妻が作った弁当を食べていたのか疑問に思っていると、息子からメールが届いた。''今週末、親父に逢わせたい人がいるから連れて帰ります。お付き合いしていて結婚も考えてる人です。実は今、同棲中なんだ。だから、母さんとも同居中。母さんも連れて帰るから、ちゃんと母さんに謝ってあげて。宜しく'' 添付されていた写真には、息子と妻、そして顔は知っているけれど名前は知らない若い女性社員が楽しそうに写っていた。

私は息子に了解のメールを送り、妻にもメールを送った。''本日の昼食 ・ざる蕎麦 ごく普通 ・君の手作りの弁当 久しぶりに食べてとても美味かった いつもありがとう''

ランチタイムブルース

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-19

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