飛べない蝶

 僕は僕を蝶だと信じていたので、飛んだのでした。
 学校は四階建てでした。つまり屋上は五階に値する高さでしたが、恐怖心というのは一切感じなかったのです。
 何故なら僕は、蝶だからです。
 蝶は空を飛べる。
 僕の背中には翅があります。あるでしょう。あるのです。見える筈だ、キミにも。教会のステンドグラスを思わせる翅が。見えないのならばキミも一度、眼科に掛かるべきだ。僕は、僕の翅が見えないというお父さんにも、お母さんにも、お姉ちゃんにも、おじいちゃん、おばあちゃんにも、眼科で診察を受けるよう薦めました。僕の家系で蝶なのは僕だけで、僕以外は皆人間なのでした。けれどもキミや、クラスメイトの○○や、担任の××先生や、学校の売店で働く△△さんやその他大勢、この学校のヒトたちは僕以外皆人間で、キミたちの家族も皆人間なのですから、人間であることを気に病むことはない。しかし、残念だね。蝶は良いよ。人間のように小難しいことを考える必要がない。生きる意味を自問自答する暇もない。だって花の蜜を吸いながら生きる意味をのらりくらり考えているあいだに、死んでしまうかもしれないもの。人間と違って蝶は脆いよ。翅はデリケートであるから触れば鱗粉や毛がぼろぼろと零れ落ちる。胴体は人間のそれより柔らかく、弾力がない。肉というものを纏っていないからね。指で摘ままれ、力を加えられようものなら一瞬で潰される。
 蝶には天敵がたくさんいる。大方が卵のままで、死ぬ。成虫まで育つのは片手で数えられるほどの選ばれた者です。つまるところ、僕は選ばれた者なのです。お分かりか、キミ。
 しかし、どうしたものか。
 空を飛ぶことなく、僕は落ちた。
 翅を広げて飛び立ったというのに、気づけば空は遙か遠くにあり、鳥たちの鳴き声がまるで飛べない僕を嘲笑っているようだった。
 幸い落ちた先が植え込みの中だったこともあり、一命はとりとめました。僕は蝶は蝶でも人間のからだに蝶の翅を持った異種ですから、彼らのように脆くはありません。肋骨の骨が折れていましたが、折れた骨が臓器を傷つけることはなく、切れた額からもどくどくと血が流れていましたが、脳に異常はないとのことでした。家族にも担任の××先生にも泣きながら怒られた。死のうと思ったのかと訊かれたので、空を飛ぶ筈だったと答えたら、皆は世にも奇妙な生き物と対峙したかのような面持ちで僕のことを見つめた。僕は気にも留めなかった。そんなことよりも背中の翅がところどころ破けていたのが、大変ショックだった。僕は翅を優しくそっと擦りながら、皆の言うことなんぞ何一つとして聞こうとしなかった。僕は蝶である。人間のからだをしているが立派な蝶の翅を持った、異種の選ばし者である。僕は心の中でそう繰り返し唱えました。自分に暗示をかけているみたいで、何だか複雑だった。
 ねェ、キミ。
 キミは自分が何者だと思って生きている。
 例えばキミの脚は、飛蝗のようではないか。人並み外れた跳躍力を持っているとか。
 例えばキミの腕は、蟷螂のようではないか。キミが触れたものは全て切り裂かれたりしないか。
 例えばキミの鼻は、獣のそれと合致しないか。やたらと鼻が利くようならば、その可能性は大いにある。
 インターネットで蜻蛉の翅を持つ女性の日記を読んだことがある。掲載されていた写真を見ればなるほど確かに、女性の背中には蜻蛉の翅が生えており、「うそつき」「翅なんて見えませんけど」というコメントが寄せられていた。コメントを寄せた奴らもすぐ眼科に行くべきだ。僕には見えますよ、翅。そうコメントを送ってから三ヶ月が経つが、女性が日記を更新する気配はなく、当然コメントに対する返事もない。返事はなくとも女性が不自由なく、人間としての生活を謳歌していればいいと思う。
 ところでキミ、僕と一緒にいて恥ずかしくないのかい。
 屋上から飛んだ一件以来、僕は今や一際浮いた存在だ。異物扱いだ。誰も話しかけてこない。近寄ってもこない。キミ以外は。
 机に片肘をつき、ぼんやりと外を眺めているキミに、僕は訊ねた。キミはいつだって上の空だ。何を考えているかわからない。その不明瞭さが、アンバランスな僕には心地よい。
「なんでよ。人間でも蝶でもそれ以外の何者かでも、キミはキミでしょう」
と呆れたように言うキミに、もしかしたら僕は生かされているのかもしれないと思った。金曜の午後。
 窓の外を、ミカドアゲハが飛んでいる。

飛べない蝶

飛べない蝶

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-19

CC BY-NC-ND
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