花を吐く病

 さいきん、花を吐く。
 咳をしたとする。ごほごほと咳き込んでいると、なにか柔らかくて冷やっこいものが、胸のあたりから喉の方へと迫り上がってくる。喉の違和感に、思わず顔が歪む。(この時、わたしはこの上なくブスな顔をしていると思う)違和感はすぐ不快感に変わり、めまいがするほどの吐き気が襲ってくる。てのひらで口を覆い、今にも出てきそうな柔らかく冷やっこいものを飲みこもうとするが、飲みこもうとすればするほど柔らかく冷やっこいものは喉につかえ、咳を誘起する。ごほっ、ごほっ、ごふっ、と三回目の咳と同時に抑えられなくなり、とうとう吐き出す。柔らかくて、冷やっこいもの。それが、花なのである。
「なんの花を吐くの?」
と暢気な声で訊ねてくるのは、予備校で知り合った同い年の女の子だ。彼女には蟻を潰すクセがあって、道ばたで蟻の行列を見つけようものなら容赦なく踏み潰すような女の子で、わたしは彼女のことがはんぶん好きで、はんぶん嫌いだった。好きなところは蟻を潰すときに一切の迷いがないところ。嫌いなところは幼い頃カブトムシを川で遊ばせてそのまま流してしまったことがあるわたしに「残酷ね」と言い放ったところ。
 オーニソガラム・ウンベラツム、ラナンキュラス、ハナビシソウ、コンボルブルス・サバティウス、アレナリア・モンタナ、シクラメン。
 わたしが過去に吐き出したことのある花の名前を言い連ねていくと、はじめは呆け顔をしていた彼女がシクラメンのところで「シクラメンは知ってる」と片手を挙げた。
 なんかヘンな呪文唱え出しちゃったのかと思ったよォ、と愉快そうに笑う彼女の頬を引っ叩きたい衝動に駆られることは、度々ある。
 ほんとうは大学になんて行きたくない。詩を書いて、写真を撮って、それをときどきポストカードや、写真集なんかにして、のんびり暮らしたい。
 花を吐くのは、けっこう辛い。
 ふつうの吐瀉物と違うせいか、嘔吐後は指ひとつ動かすのも億劫である。花を吐き出した後はしばらく、お布団の上で横になっていたい。呼吸を整えるのに時間はかかるし、めまいがするあいだは意識も朦朧としている。
 視界に映る景色が蜃気楼のように揺れているあいだに、わたしは三度、夢を見る。目を開けたまま、夢を見る。
 ひとつは詩人として、詩集を出版する夢。わたしは若き鬼才として、様々な業界から注目される。わたしの書き綴る形式ばっていない自由で、無垢で、残虐で、搾りたての牛乳を飲んだあとの口の中に味が濃く残るような、そんな詩が、同年代の女の子たちから支持を受ける。ちょっぴり死にたがりの女の子が、世に流行る。
 ひとつはカメラマンとして、写真集を出版する夢。被写体はわたしが美しいと感じたもの。男でも女でも、人間でも動物でも、有機物でも無機物でも、なんでもかまわない。あわよくば詩も添えたいところだが、カメラマンになって写真集を出版する夢の中のわたしは詩的な言葉がなにひとつ思い浮かんでこなくて、カメラだけで勝負している。それは少し頼りなくて、けれども誤魔化してない感じがして、悪くない。
 そして最後のひとつは自分の吐いた花に埋もれて、部屋から一歩も出られなくなる夢だ。
 目を開けているときに見る三度の夢の中で、この夢がいちばん鮮明で、匂い立つほどで、感触がはっきりしていて、生々しさがある。咳をしたときの息苦しさ。柔らかくて冷やっこいものが迫り上がってくる感覚。違和感、不快感、めまい、そして嘔吐感。三時間に一回のペースで、花を吐く。それなものだから、お布団から一歩も出ることができない。横たえたからだを動かすことすら、叶わない。自分の吐き出した花に囲まれながら、絶望と添い寝をしている。最悪な夢。
「せっかくだから花を吐くところ、見せてよ」
 わたしたちの前を横切っていく小さくて黒い蟻の列に、おもむろにウェッジソールサンダルを置きながら彼女は言った。彼女が足の先を、ぐりっと左に向ける。次は右。そしてまた、左。彼女のサンダルの下で小さくて黒い蟻たちはおそらく、誰が誰だかわからないくらい粉々になり、擦り潰され、玉となり、蟻という原形を失っていることだろう。
 花を吐くわたしだって、おなじことだ。
 そのうち人間という原形を、留めていられなくなるかもしれない。
 吐くときブスな顔してるからヤダ、とわたしは答えた。
「そんなことないよォ。だって花を吐くなんて、二次元の世界みたいで素敵じゃない?」
と彼女は笑った。笑いながら蟻たちを潰す、巨人。
 とつぜん列が途切れ、大量の仲間を失った蟻たちがそそくさと、彼女の足先の前を通り過ぎていく。
 駄目よ。もっと散り散りになって逃げなくちゃ。
 そう思っているあいだに、彼女が一歩進む。彼女の前を通り過ぎようとしていた蟻たちに、ウェッジソールサンダルが襲いかかる。巨人は微笑みながら、そういえば昨日のあのドラマおもしろかったよね、などと喋っている。理由なく潰される蟻たち。カブトムシを川に流したことのあるわたしに「残酷ね」と言い放った彼女。花を吐くわたし。
 世界は一秒単位で、混沌を生むよ。

花を吐く病

花を吐く病

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-19

CC BY-NC-ND
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