Mind and memory
As will receive in their hearts…
序章
--ここは、どこ?
全てがゆっくりと沈んでいくような、深い、真っ暗な闇。
光のささない、静寂な空間。発した言葉は声にならず、闇に溶けていく。
少年に残された僅かな光も闇に呑み込まれ、次第に小さくなっていく。それをぼんやりと感じながら、少年は薄れていく残り僅かな記憶を、ただ思い返していた。
少年を包む光は次第に弱まり、小さな体は闇に呑み込まれていく、その時。
-声?
一筋の光が少年の無機質な瞳にうつり込む。その瞬間、応えるように少年を包む光に暖かさが蘇り、呑み込もうとしていた闇は動きを止める。
少年に届いた一筋の光。声。
『--思い-して!-大切な--達のこと-!!』
切れ切れになりつつも、その悲痛な叫びは深い闇の中の心に、確かに届いた。
『--お願い!あなたを-待っている人たちがいるの!!---!!』
別の声が少年に問う。お前の名前は? と。
少年は、ゆっくりと呟く。
確かめるように。
握りしめるように。
「俺の、名前は--」
第1話 思い出はどこかへ
夏の日差しが、地面にジリジリと照りつける。
「エウェル!こっち頼んでいいかー!?」
夏の暑さに耐えながら、畑に立って3時間。だいぶ慣れたものだけど、やっぱり暑い。
「待って!今行くー!」
木々の隙間からのぞく手に向かって返事をして、よっこらせ、と赤い実がいっぱいに詰まったかごを持ち上げる。
季節は夏。この島では、この時期にたくさんのりんごが実る。水をはじく赤い実は、まるで夏の暑さに汗をかいているように見えた。
「今日も大量だったな!」
行きの何倍も重くなった荷車の前から、ラシムの嬉しそうな声が聞こえる。
「まあ、いつもと変わらない重さだなー」
「うるせっ!」
夕日に照らされたいつもの道を、いつものように二人で話をしながら帰る。ここに来て3か月。いつもと変わらない、平和な毎日だ。
-3か月前-
「ラシム!舟に積んだ縄おろしてきたか?」
「あ!忘れてた!!」
盛大に扉を開け放ち、全速力で海岸へ向かう。この世に親父ほど恐ろしいものはない。小さい頃、梯子を畑に忘れたのを取りに行くのが面倒だから、と黙っていたら、夜中に墓地に一人で置いていかれたことは、いまでも忘れられない。
数分足らずで戻ってきた砂浜には、波にならされた自分の足跡がまだうっすらと残っていた。
「ああー……息切れた…」
ゼイゼイと息をしつつ、ふと顔を上げると---砂浜に人が打ち上げられていた。
「うおっ!!……人間だ…」
恐る恐る近づいてみると、それはさして自分と年の違わないような少年だった。
「うへぇ……嫌なもの見ちまったなあ…」
ラシムが顔をしかめて手を合わせていると、波の音に紛れて、かすかにヒューヒューと空気の抜ける音が聞こえた。ガバッと膝をついて近づく。
少年は、微かに息をしていた。
「生きてる!?…えっ…ええと…そうだ!医者だ!!医者!」
背中に少年をおぶって、やっと落ち着いてきた息をまた弾ませながら、ラシムは全速力で砂浜を後にした。
ラシムが縄のことを思い出したのは、息を切らして家に転がり込んだ瞬間だった。
少年は次の日の朝、目を覚ました。しかし、ラシムが手伝いを終えて家に戻ると、朝方と同じように、虚ろな瞳でじっと宙を見つめていた。
魂が抜けたみたいだ、と思いながら、ラシムは昨日から聞こうと思っていたことを思い出した。
「お前、どこの島から来たんだ?」
「……………」
「…船に乗ってたのか?」
「……………」
「えーと…」
「……………」
少年は何も答えず、なおも宙を見つめる。その瞳には、ラシムも周囲の風景同様、その一部分としてうつるだけだった。
-お袋は、こういう奴にはゆっくりと休める時間が必要だって言ってたけど…そんなこと言われても気になるしなあ…
「じゃあ最後、お前の名前は?」
「………」
一切の変化の無い対応に、変な奴拾ってきちゃったなあと、ラシムは小さくため息をついた。
窓から射し込む光によって、夕暮れの部屋は静かに朱く染まっていく。
もう夕方か、とラシムは呟く。少年を最後にもう一度じっと見つめたのち、諦めて席を立とうとした、その時。
「…………………」
思い出して-
あなたの名前は--
「……おれの名前は……エウェリデス…」
初めて聞くはずのその声を、呆然と立ち尽くす少年は、どこか懐かしく感じた。
第2話 休日と悲鳴
「聞いたか?また一人死んだってよ。」
このところ、町では殺傷事件が頻繁に起こっている。年齢、性別関係なく、多くの被害者が出ているためか、町全体にピリピリとした空気が流れている。
「あそこの…前に行ったパン屋の娘さん?だっけ?」
パンを口いっぱいにつめこみながら、エウェルは今朝、横目で見た新聞の見出しを思い出す。
「そーそー。また同じ奴の仕業じゃないかって、おばさんたちが騒いでたぞ。」
「…お前らも気いつけろよ。特にラシム。」
突然の父の指摘に驚くラシム。
「え!?何で俺!?」
「お前の方がフラフラしてるからだ。」
「俺はガキじゃねえっ!!てか、エウェルの方がいっつもボケっとしてるだろ!」
「何でおれなんだよ!」
「ほらほら、食べる時くらい落ち着きなさい?」
やんわりと入る母親の優しい仲裁の声、と裏腹に部屋に響く重い包丁の音に、首をすくめて黙々と食べ始める。
「んじゃ、行って来ます!」「行って来ます」
今日は久しぶりの休日。何日も前から2人でどこへ行くか話し合い、楽しみにしていた。
久しぶりの市場は相変わらず賑やかで、人に溢れていた。
「まずはダナさんのとこだよな!」
「うん。でも、ダナさん?の所の向かいじゃなかったっけ…こないだのパン屋って…」
-沈黙。町の空気がさらに凍りついた…ような気がした。
「…とにかく行こーぜ!たぶん大丈夫だろ!」
ラシムの伯母にあたるダイアナ(ダナおばさん)の開く宿屋は、温厚で穏やかな人柄に人が集まり、町では信用の置ける宿屋として親しまれている。
「ダナさーん!こんにちわー!」「こんにちは!」
店の奥から、エプロン姿で忙しそうにしている女性が顔をだす。
「あら、珍しいね。今日の手伝いは?」
「収穫がひと段落ついたから休み!」
嬉しそうに話をする甥っ子を眺め、微笑む。
「ふふ。ああ、そうだ。今新しいお菓子が焼けたところなんだけど、食べてみる?」
「おおー!!いるいる!!」
ラシムが大はしゃぎで騒ぐ横で、じっとダナを見つめるエウェル。その視線に気がつき、
「エウェル…だったね?あなたも食べる?」
こくんと頷き、答える。
「ありがとう。」
焼けたばかりの新作クッキーは、口の中でほろりと溶けて、とても美味しかった。
小さな袋いっぱいに入ったクッキーをつまみながら、人の間を縫って通りを下っていく。
「美味かったなー!早くお袋たちも驚くぞー」
「あんまり食べたら、親父さんたちの分が無くなるぞ?」
次はどこへ行こうかと笑いながら通りをくだっていた、その時。
女性の悲鳴が通りに響く。
「ど…泥棒!誰か!」
どこだ、何が起きた、と疑問の声が飛び交う。その指を指す方向では、一人の男が派手なピンク色のカバンを抱え、 人混みをかき分けて走っている。
「最近は物騒なことが多いなあ…すぐ警備隊に捕まるぞ?あいつ。」
「…そうだな。」
人混みに紛れ、逃げる男をじっと見つめる。
「キャーーー!!!!!!!!」
またもや叫び声。今度は駆けつけた警備兵が男にナイフで刺されたようだ。
「…行くぞ、エウェル。」
「うん…。……あ、剣…」
カラカラと音を立て、倒れた警備兵の剣が少し離れた人混みの足元に転がっていた。
急かすラシムに押されて、エウェルは半ば行く末を気にしながら、人混みを抜けようと踏み出した。
男は、焦っていた。
邪魔だ、どけ、と叫びながら、周囲の野次馬たちを突き飛ばして必死に走る。
男が手に持つナイフは昔盗んだもので、とても古いために物を切る事は出来そうにも無かったが、脅しには十分だった。
そうしてやみくもに走っているうちに、ついにその人混みに終わりが見えた。
-やった。これで逃げられる。おれの勝ちだ。
男はそう思っていた。
同時に、同じ場所に。3人は、人混みを抜けた。
第3話 急転
夏の午後、雨雲が空を覆い、時折ぽつぽつと昼下がりの通りを濡らす。
ラシムは、混乱に巻き込まれないように、エウェルを連れて人混みを抜けたはずだった。
声を荒げてナイフを構える男と鉢合わせになった瞬間、ラシムはとっさにエウェルの手を掴んだ-と思ったが、そこに今しがたいたはずのエウェルの姿は無かった。
-それは、僅か数秒の出来事だった。
突然頭上に現れた影に、さっと顔をあげたラシムは驚きの表情を浮かべた。
-ラシムが見たのは、空高く、人混みの上空を跳ぶエウェルの姿だった。
突然、後ろに高く積み上げられていた樽や木箱の山がガラガラと音を立てて崩れ、これを踏み台にしたのか…!と、慌てて避けながら、ラシムは驚愕する。
弧を描くように宙を跳ぶ少年は頂点でくるり、と体をまるめると、そのまま男めがけて放射状を保ったまま落下し、直前に素早く足を突き出す。
落下と遠心力によって勢いを増した蹴りは、男の顔面を陥没させ、ほぼ同時にその体を硬い地面に叩きつける。
-周囲の人間が気づいた時には既に、少年は男をひとりで昏倒させていた。
「……」
-沈黙。
降り始めた雨の中、誰もが呆然としている、のも束の間、なにがおきた、あいつがつかまえたのか、と、ざわめきが広がる。
すると、人混みをかき分け、ラシムが声をかける。
「お…おい?…エウェル…だよな?」
その声に答えることなく、少年は降り注ぐ雨のなか、ゆっくりとした動作で足元に転がる剣を拾い上げ、倒れている男の首元に刃を構「っ!!エウェル!!」
とっさに飛び出して手を掴み、
「おまえっ…何して………」
ラシムの掴んだその手は、小さくカタカタと震えていた。「……?エウェ…」
「おい!何事だ!道を開けろ!」
突然、大きな声が通りに響き、兵士がぞろぞろ人混みをわって近づいてくる。
「…ひとまず後だ。逃げるぞ。」
ひと言だけ言うと、少年の手を引き、急いでその場を後にした。
-ラシムの頭の中では、たくさんの疑問が渦巻いていた。
-同じ頃-
「おい!あんたそこで何してる?」
昼間でも薄暗い路地裏で、若い兵士が男に声をかける。
「名前聞いてもいいか?最近この辺りは物騒なんでね。今も、通りで何かあったらしいけど」
ひとりでに喋る兵士に、男は背を向けたまま無言を貫く。
「…おい、聞いてんのか?」
「……」
兵士の呼びかけに応じず、男はスッと歩き出す。
「お、おい!」
兵士は男の腕を掴み、振り向かせようとする、その瞬間。「え?」
視界が反転し、一瞬で背中が硬い地面に叩きつけられた。
衝撃で息がつまり、げほげほと咳き込む。
-なんだ?何が起こった?
「…邪魔をするな」
兵士が最後に見たのは、男の顔を隠す白い面と、振り下ろされる大きな刃だった。
第4話 信頼と疑い
賑やかな町から離れた島の端、ラシム一家の家の近くには、長らく人の手の加えられていない古い農場がある。
激しくなっていく雨に耐えかねて飛び込んだ農具小屋は、天井から雨が滴り、腐りかけの木の壁は、激しい風雨にさらされてキイキイと音をたてる。
「……大丈夫か?」
膝を抱えてうずくまるエウェルに声をかけるが、反応は無い。
「………」
ため息をつきながら、ラシムは初めて出会った時の事を思い出し、あの時みたいだな、と呟く。
外の豪雨と対象に、天井から滴る雨が静かな小屋の中でピチョン、チョン、と音をたてる。
「…クッキー、落としちまったな…」
「……………うん…」
ラシムは重い空気を押し切り、思っていた事を口にした。
「お前、剣なんてここに来て触った事無いよな。…記憶戻ってたのか?」
少年はふるふると首を振り、小さな声で答える。
「…戻ってないよ……剣も、何で使えたのかな…自分でも分かんないや…」
そう言うと、また膝を抱えて小さくなった。
「…あの泥棒に最後にした事も、自分の意思じゃ無いってことか?」
「……」
「…エウェル?」
気づけば、少年は膝を抱えたまま寝息をたてていた。
「…」
静かな小屋の中、ラシムはひとり考える。
-俺の知ってるこいつは、少なくとも悪い奴じゃない。
……でも、その前は?記憶を無くす以前は?
-子供が憧れて真似する程度じゃ、あんな芸当は絶対に出来ないはずだ。
-それに、俺が止めなかったらきっと、こいつはあの泥棒を殺してた。
遠くで雷が聞こえる。
「…お前は、何者なんだ?」
雨は変わらず激しく降り続け、灰色の空は夕日を隠したまま夜の闇に沈んでいった。
-とある島-
暗い静かな部屋に、話し声が響く。
「捜索は進んでいるのか?」
「いやあ…全くっすね。はははは」
キーボードをカタカタとたたく音が重なる。
「尽力して捜索にあたれ」
冷たく言い放ち、男はくるりと背を向ける。
「あ!ちょい待って下さいよ!それらしいのは見つけたんですよ!」
慌てる男に対し、なおも冷たい目と口調で言い放つ。
「…また間違いではないだろうな」
「今回は結構自信あるんですよ!」
自信ありげにふふんと鼻をならし、キーボードをカタカタとテンポよくうつ。
「一応no.9に向かってもらったんすけど、対象に接触する前にちょいミスったみたいで。…けどそのまま任務続行で?」
「ああ。…珍しくお前にしては手際がいいな。今のところは、だが。」
「いやあ…てことは、給料増えちゃったりします?」
ニヤリとする部下を他所に、男は言う。
「…任務を果たせ。報酬はそれからだ。…さぼるなよno.6。」
「たまにはなんか差し入れ持ってきて下さいよー!」
暗い部屋を出て、廊下を進む。
-計画は順調だ。
薄暗い廊下には、ひとりほくそ笑む男の足音だけが静かに響いた。
第5話 ともだち
-ここは…海?
-潮のにおいがする…。
波の音に重なって、声が聞こえる。
…?誰か呼んでる?
誰?だれ?名前が顔が出てこない
知ってるのに分からない?だれ?
手を振る影は、気付けば目の前に立っていた。
-誰なんだ?
「生きて。エウェル。」
少女は消えた。
ガバッと大きな音を立てて飛び起きる。握りしめた手には汗が滲んでいた。
「ほー!ひょうはめずらひくはやいなー!」
口にパンを詰め込んだまま喋るラシムに、母親の注意がとぶ。
「はは…なんか目が覚めちゃって…」
ふーん、とラシムは答えると、ごちそーさまー、と食器を持って立ち上がった。
その対応に少し違和感を感じながら、エウェルが席に着こうとした時、ラシムがすれ違いざまにぽそりと呟く。
「…ちょっと話しがある」
そう言うと、部屋に戻っていった。
すると、台所からふふ、と笑い声がもれる。
「ケンカでもしたの?」
首を振り、答える。
「…違う。でも、思い当たる」
うつむくエウェルの前で膝をつき、ふわりと手をにぎる。アップルパイの香りがする。
「…そうね。私は2人の間で何があったのかを知らないけど…何か、よくないことがあったのね」
エウェルはスッと顔を上げ、目を見つめる。
「…お互い、何かすれ違っていることがあって、それをどうにかしなきゃいけない、って思っているなら、しっかりと話し合ってきなさい。
…思いは口にしないと、伝わらないのよ」
少し悲しそうにそう言うと、ほら行った行った、とエウェルの背中を押す。
エウェルは入り口でくるりと振り返ると、「ありがとう」と言い、少し笑った。
驚いた顔の母親をおき、エウェルは急いでラシムのあとを追いかける。
朝方の静かな部屋では、いつもと違う、少しぴりぴりとした空間が流れていた。
「…話しに来た。」
「…おう」
どこか落ち着きなく椅子に座るエウェルと、ぶっきらぼうに返事をするラシム。
「…面倒くせえからそのまんまきくぞ。」
沈黙。
「お前…記憶戻ってたのか?」
「まだ。…前にも言った気がする。」
「こないだの…通りの時のは何だったんだ?」
「………分からない。」
わからないっておまえな…、と、ラシムはため息をつく。
「…まあいいや。とにかく、俺が聞きたい事は一つだ。」
「?」
空気がぴりっとする。
「…殺そうとしてたよな?あの時。」
「……」
問い詰めるように、ラシムは続ける。
「あの泥棒のこと、殺そうとしてたよな?」
射るような目で見られ、エウェルはびくりと肩をゆらす。
「正直、今までのお前のことは信用してる。でも、人を殺すような奴は、おれは信用できない。
…なんで殺そうとした?」
ーうつむき、手をぎゅっと握りしめる。
「…おれも、分からないんだ。何か、感覚っていうか…そんな感じのものがあって…何にも考えてなくて、ただその通りに動いてて…その…自分で、っていうのじゃなくて、気づいたらっていうか…その……」
しどろもどろに喋るエウェルの話を、じっと聞いていたラシムがため息をつき、口を開く。
「…落ち着けって」
「…う……」
再び沈黙し、部屋に、窓の外を飛ぶ鳥のさえずりが響く。
唐突に、小さな声が呟く。
「……おれはここの人達が、みんな好きだ。みんな優しくて、あったかい感じがするから…」
うつむいていた顔を上げ、ラシムを見て言う。
「だから、おれは人が死ぬのは嫌だ。殺すのも…嫌だ。」
ー長い沈黙の末、
「…そうか。…うん」
行きなりガタッ!と音を立ててラシムが立ち上がり、驚くエウェルに言う。
「よし!畑行くぞ!ほら立て!ほら急げ!」「え?うわっ!」
ラシムの突然の行動に戸惑うエウェルを、外に蹴り出す。
「何だよ!」「畑まで競争なー!行くぞー!」
勝手に走り出すラシムを呆然と見つめた後、はっと我に帰り、慌てて追いかける。
「ラシム!!まだ話終わってないだろ!!」
「うるせー!!俺が納得したからいいんだよ!!」
「なっ…意味分かんねえよ!!」
怒りを口にしながら親友を追うその顔には、いつの間にか笑顔が浮かんでいた。
りんご畑では、今日も2人の笑い声が響く。
しかし、安息の日々は長く続かないことを、2人の少年はまだ知らなかった。
第6話 アップルパイ
ーラシムと仲直りができた。
エウェルの気分は朝から絶好調だった。
一昨日の一件によって気まずくなっていた空気は消え去り、いつもの日常が戻っていた。
「ラシムー!!帰ろー!!」「おう!ちょい待ち!」
昼間の暑い日差しのなか、満面の笑みで家に帰る。
今日は珍しく町の用事でラシムの父が不在のため、手伝いは昼過ぎまでとなっていた。
「んじゃ、町…行くか?」
にやりと口の端をあげ、ラシムが言う。
「やったー!行くー!!」
夏の日差しをもろともせず、走り出す。
吹き出す汗が気にならないほど、エウェルは幸せな気分に浸っていた。今、この瞬間までは。
家に着いた二人の目に入ったのは、家の入り口で母親と対峙する一人の大男。言い争う声が聞こえ、二人とも異変を察する。
「だから知らないって言ってるでしょう!帰って下さい!警備隊を呼びますよ!」
「ふん…ハッタリだな。方法が無ければ時間もない。」
そう言うと、男は手に持つ大剣を向け、言った。
「…正直に答えろ。エウェリデスはどこだ?」
ぞわりと、エウェルの背中を冷たい汗が伝う。
やばい、逃げなきゃ、と頭で警報が鳴るのを感じながら、同時に、助けないのか?と頭の中で声が響く。
剣を向けられてなお口を開かない母親が、はっとこちらを向くのにつられ、男が二人に気がつく。
面から覗く口だけがにやりと笑い、言う。
「…久しいな。エウェリデス…」
「逃げなさい!二人とも!!」
母親の叫び声でハッと我に帰り、ラシムを見る。
ーラシムは、これまでに見たことがないような、真っ青な顔をしていた。そして、カタカタと手を震わせながら、男を睨みつけ、エウェルに言う。
「エウェル…先に、逃げてろ。俺は、お袋を…助けなきゃ…!!」
そう言うや否や、走り出し、担いでいた桑を男に向けて振り回す。
「…ガキに用はない。」
振り回される桑を剣が粉々に砕き、剣を持っていない方の手でそのままラシムを殴り飛ばす。
母親の悲鳴がなり響き、砂埃の中で動かないラシムが、エウェルの頭の中でさらに警報を鳴らす。
ー逃げなきゃ、逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ…
逃げろと叫ぶ声と、助けに行けと叫ぶ声が重なり、波になって押し寄せる。突如目の前に大きな影が重なり、ハッと我に返って顔を上げる。
「さあ、戻ろうか?エウェリデス。我らの研究所へ…」
にやりと笑う口元と、白い面が手を伸ばす。
ー殺サレル、と頭で声が響く。
瞬間、男が吹っ飛ぶ。そのまま宙を飛び、驚くエウェルの横から怒声が響き渡る。
「おい!!俺が町に行ってる間に、ずいぶん荒らしてくれてんじゃねえか…ああ!?」
怒鳴りながらラシムの父はエウェルを引っ張り起こすと、「良かった…無事か…」
「あ…ラ、ラシムが…あいつに…吹っ飛ばされて…!!」
「!?」
バッと振り向いた瞬間、一瞬で周りの空気が殺気立つ。
「…エウェル。お前は、走れるな?」
「あ…ああ」
急変した声の温度にびくりとしながら答える。
「なら、母さんとラシムを連れて逃げろ。…いいな?」
そう言い放ち、面の男に向かって走る。
「立てクソ野郎…!」
「言われずともな」
お互いにぶつかり合い、ギリギリと音をたてるように競り合う。ドンという生き物の重量感ある音が響き、土埃の中、両者が向かい合う。
我に返ってラシムの元へ駆け寄るエウェル。
「ラシム!!おい!!」
慌てて揺さぶり声をかけると、
「う…ゲホ!…エウェル…?」
咳き込みながら、エウェルの声に答える。
「良かった…!あ…そうだ!親父さんが逃げろって!」
「な…!…逃げるわけ、ないだろ…」
そう言うと、脇腹を押さえてよろよろと立ち上がる。
「ダメだって!さっきのでわかっただろ!」
「…お前馬鹿か!!」
ラシムが大声で怒鳴る。
「親父を見捨てろっていうのか!?…俺だって弱いけど!あいつがどのくらいヤバいかぐらいは分かる!どっちが強いかぐらいも…見りゃ分かる…!!」
「分かってるなら早く…」
「ホントに馬鹿かよお前!!それでも放っとけって言うのか!!」
エウェルの胸倉を掴み、怒鳴る。
「怖えなら!!そこで縮こまって…」「全く…親子揃って五月蝿い事この上ない」
男の大きな影が二人を隠す。
視界の端で、地面に倒れてうずくまる父親の姿が見えた。
「たかだか農家のガキの分際で、我々の邪魔をするな。」
ラシムの頭上に振り上げられた大きな刃が、夏の陽を浴びてキラリと光る。
振り下ろされる刃と同時に、じゃりっと勢いよく地面を蹴る音が聞こえる。
アップルパイの、香りがした。
第7話 背中
うっすらと空には夕日が浮かびはじめ、あたりを赤く染める。
ー刃は、母親の肩から胸にかけて深々と斬り込んでいた。
ラシムの顔に母親の血が飛ぶ。
「あ…あ、お、お袋…」
「…ふん…殊勝な心がけだな。」
ジャッと音をたてて、面の男は剣を引き抜く。
自身に寄りかかる母親の体から、その振動が伝わり、ラシムの手がカタカタと震える。
「あ…あ、ああああああああ…」
どさりと地面に尻餅をつくと、母親もまた、ズルリと音をたててラシムの体を滑り、人形のように地面に倒れた。
「全く…子供の為に命を差し出すなど、愚かな」
面の男の後ろから、嗚咽の混じった声が聞こえる。
「アンナ…アンナ…すまない……!」
「…ふむ…こちらもか…理解に苦しむな」
沈んだ空気に似合わぬ冷徹な面の男は、鼻で笑って言う。
「さてと、こうなればあとは連れて帰るだけだな」
「…なんなんだよ」
地面についたまま、ラシムは叫ぶ。
「なんなんだよお前!!いきなり来て!!お袋を…殺して!!みんなに怪我させて…!!」
叫びを遮り、呆れたように男は言い放つ。
「身勝手な考え方も大概にしておけ。私は元々、殺しをするために来たのではない。人を捜しに来たのだ。そして、それを邪魔したのは…貴様らだ。」
「っーー!!!!」
ギリギリと歯を食いしばり、今にも飛びかかりそうな勢いで、ラシムは男を睨みつける。
その時、一人の声がぽつりと響く。
「お前…おれを捜しに来てたんだよな?」
バッと振り向くラシムから、うつむくエウェルの表情を見ることは出来ない。
「…………ああ。そうだな。」
ーー沈黙。
ゆっくりと顔を上げ、エウェルは男に言う。
「……なら、連れてけ。その代わり、…ふたりは殺すな。」
男はしばらく黙り込んだあと、口を開く。
「………ふむ…私としては全員殺してから連れて行っても構わんのだが…まあ、サービスといこう。いいだろう。」
「……そうか」
安堵し、またうつむくエウェル。
ーこれで、親父さんもラシムも助かる。これで良かっ……
「…子供が、親の許可無しに、何出てこうとしてんだ…」
「…?これが、一番いい方法のはずだ。ふたりとも助かるんだ…」「ふざけるな」
怒っている時の父親は、一番恐ろしいーーラシムに聞いた話だったが、初めて自分に怒っている父親を目の前にしても、エウェルは恐ろしさを感じなかった。
「…子供が、親より先に死のうとかしてんじゃねえ!!!!」
そう叫んだ後、
「ラシム!!エウェルつれて町に逃げろ!…男なら、根性見せてみろ!!」
びくりと肩を揺らすラシムに指示し、面の男に向かい合う。
「さあ…続きをしようじゃねえか…」
満身創痍の男は、なおも立ち上がる。
「…無理に決まってるだろ…!」
絞り出すような声で言う。
ーなんで怒るんだ?なんで逃げないんだ?おれが行けばいい話じゃないのか?
エウェルの頭の中に、たくさんの疑問が浮かび上がる。
その瞬間、いきなり何かに手を縛られ、持ち上げられる。
「なっ…ラシム!?何すんだよ!親父さんが…」「んなこと、分かってる!!」噛みしめた唇から、血が滴り落ちる。
「でも!!…今逃げなきゃ、全部無駄になっちまう!!」
そう叫ぶや否や、家がぐんぐんと遠退いて行く。
ハッとして振り返ったエウェルには、もう、父親の背中を見ることはできなかった。
放たれた火が畑を燃やし、夕日とともに空を赤く染める。
第8話 旅立ち
町と家との丁度合間に位置する丘の上で、エウェルが呟く。
「ラシム…下ろしてくれ。…戻らないから。」
「……」
立ち止まり、肩で息をしながら縄を解く。
夕日の浮かぶ空の下、丘の上から見る畑には火が放たれ、赤々と燃えていた。
その光景を、エウェルはただ茫然と見つめる。
横で拳を握りしめて、炎を睨みつけていた親友の目からは涙が溢れ、堰を切ったように泣きだす。
「う…うううう…親父…お袋…」
エウェルは夕焼けの空を仰ぎ、三か月間のことを思い出す。ー不意にこぼれた涙が、地面を小さくぬらした。
ー平和な日常は、突然に終わりを告げた。夕日の沈みはじめた夜の空を、尚も炎は赤く染める。
「力が欲しいかい?」
バッと振り向くと、そこにはくすんだ布切れのようなローブをまとった老婆が立っていた。
「力が、欲しいかい?エウェリデス」
「なんでおれの名前知って…」「選びなさい。」
老婆の声に、焦りが見える。
「…このまま何も知らずに、何も確かめられずに奴らに捕まるか、外へ出て、世界を知り、奴らに挑むか」
問いかける老婆の目は、エウェルをじっと見つめる。
「エウェリデス。私はあんたのことを、よく知ってるよ。…今のあんたは知らないだろうけど」
「…エウェルが記憶喪失になる前の知り合い…ってことか」「…ラシム…」
ぐいっと涙を拭い、ラシムは言う。
「ばあさん、あいつの…あの面の奴の事知ってるのか?」
「……ああ…知ってるとも…。……昔のエウェルよりもね」
「…おれはどんなやつだったんだ?」
ふわり、と老婆のまわりを囲むように風が吹く。
「…それは、自分で見つけなさい。…答えは必ずある」
そう言い、とても小さなガラス玉を出す。
「これには、他の世界の砂がはいっている。割ればその砂の持ち主である世界に行く事ができるが、きっと、もうここに戻ってくる事はできない。」
「……」
「…行くかい?」
じっと手のひらのガラス玉を見つめた後、ラシムを振り向く。
「…俺は、仇を討ちたい。……行こうぜエウェル。」
「うん」
そうかい、と呟いた後、老婆は口にした。
「『いつでも平和と争いの合間にあるものは?』」「え?」
唐突な謎々に思わず聞き返すエウェルに、老婆はぽつりと答える。
「『ひとの心』だよ」
そう言うや否や、老婆がスッと向けた指の先、エウェルの手のひらにあったガラス玉がふわりと揺れて宙を漂い、二人の上に浮かぶ。
「魔力を込めたこの砂は、触れたものだけを元の世界へ連れて行くんだ。忘れちゃいけないよ。」
パリンと音をたてて、二人の上でガラス玉が割れると同時に、老婆がポフンと白い煙を残して消える。
その直後、突然二人を中心に豪風が巻き起こる。
「うわっ!?」
あまりの音と風の強さに、腕で目を庇う。
突如、丘の上に現れた小さな竜巻は、二人の少年を飲み込んだ後、スルスルと小さくなっていき、最後にポフンと小さく白い煙を残すと、何事もなかったかのように消えた。
第9話 白い雨
ーまた同じ場所だ。
波の音と潮の匂い。白い砂浜に波が寄せる。
「思い出した?」
突然背後から聞こえた声に、慌てて振り向く。
ー誰もいない?
「こっちだよ」
耳元で声が囁く。
慌てて振り向くと、そこには砂浜に座る幼い二人の子供がいた。しかしその顔は、強い日射しに隠れて見ることができない。
二人の話し声が聞こえる。
「…私は、お医者さんになりたいな。それで、どんな病気も治せて、どんな人も助けられるようになりたい。…君は?」
「…………」
少女の問いに暫く考え込んでいた少年は、ぽつりと言う。
「…強くなりたい。大事なもの全部守れるくらい、強くなりたい。」
「そっか…いい夢だね」
二人の背後で突然火が燃え上がり、黒い煙が空を覆う。
黒く焦げた地面には、所々にたくさんの剣が突き刺さり、幾人もの人間が人形のように転がっている。
悲鳴や叫び、怒声や祈りが飛び交い、思わず耳を抑える。
突然目の前で燃え上がった炎にハッと我に返った瞬間、耳元で声が囁く。
「あなたは何を守れたの?」
パッと振り返った薄暗い廊下では壁一面に鏡が並び、暗闇から何かを引きずる音が響く。
闇の中から現れた人間は、うつむき、血の付いた剣をカラカラと引きずりながら、ふらふらと歩みを進める。すると突然立ち止まり、ゆっくりと顔を上げる。
少年は血の滴る手をスッと上げると、指を差し、呟いた。
「お前が殺した」
その顔は、見慣れた自分の顔だった。
ガバッと勢いよく飛び起きる。
「うおっ!!エウェル!!起きたのか!?」
横で布団を持ちあげたまま、突然飛び起きたエウェルにラシムが驚く。
「…あれ?ここは?…なんか妙に寒い気がする」
「窓の外見てみろよ」
「?」
立ち上がって、近くの窓から外を覗く。
「…!?」
窓の外では、雪が降っていた。
しんしんと降る雪が地面を覆い、白銀の世界を作り出している。
「…白い雨が降ってる…」
「それはね、ゆきっていうんだよ?」
後ろから少女が答える。
「…?君は?」
「私の娘よ」
ギッと扉を開け、女性が答える。
「あなたたち、家の前で倒れてたのよ。こんな雪の中でね。」
「あ…助けてくれて、ありがとう」
エウェルが礼を口にした瞬間、女性はスッと目を細め、二人に問いかける。
「『いつでも平和と争いの間にあるものは?』」
突然出された謎々に、ハッとして答える。
「『ひとの心』…だよな?」
フッと微笑み、女性は答える。
「…やっぱりあなたたち、あの人と知り合いだったのね。このあたりでは見ない服装だし、もしかしたらと思ったのよ」
くすりと笑うと、女性は問いかける。
「私の名前はソフィアよ。さて、旅の理由を聞かせてもらえるかしら?」
顔を見合わせ頷くと、ラシムが話を始める。
時折頷いたり首を傾げたりしながら、ソフィアはゆっくりと二人の話に耳を傾けた。
ぱちんと音を立てて暖炉の薪が赤く燃え、ソフィアの膝で眠る少女が、すうすうと寝息を立てる。
「…あなたたちを守って、親御さんは亡くなったのね」
「俺は仇を討つため、エウェルは記憶を戻すために、島を出た。」
「そう…じゃあ、あなたたちは、というよりは昔のエウェルがあの人と…知り合いだったのね」
ゆっくりと頷き、エウェルは答える。
「…そうなるのかな。…記憶にないけど」
「…あの人は、いろんな世界を飛び回ってるの。だからいろんなことを知ってる。…あなたたちと同じように、私も昔、あの人に助けられたのよ」
そう言うと、ソフィアは窓の外を見つめた。その横顔に炎の影がゆらゆらと映る。
「でも、ごめんなさい。そのお面の人のことは知らないの。…魔女に聞くか、それとも…」
ちらりとエウェルの方を見て、
「…あなたが、その人たちのことを思い出す…くらいしか、今のところ方法はないわね」
と呟いた。
ー部屋の空気がしんと静まる。
「…ごめん…」
「別にお前の所為じゃないだろ。それに、情報もちっとは掴んだし」「?」
ラシムはため息をつき、答える。
「…あいつが『研究所』から来ていること、あいつには仲間がいるってこと、……お前とあの面の奴、まあ、その『研究所』の奴らが知り合いだってこと」
ー再び部屋がしんと静まる。
うつむき、呟く。
「…おれは…」「今は今。昔は昔だ」
突然ラシムが言う。
「昔のお前がどうであれ、今のお前は今のお前だ。…だろ?」
ふふ、と笑い、ソフィアも賛同する。
「…いい友達がいるじゃない」
「………うん。ありがとう。」
思わず、笑みがこぼれた。
第10話 洞穴
「くらえっ!」「わっ!」
町の子供たちの声が響き、パシャパシャと雪玉のあたる音が聞こえる。
「やっぱり方法はそんな簡単に見つからねえよな…」
ため息をつきながら、ラシムが雪をかき分けて前を歩く。
「そろそろ前交代しようか?」
エウェルの気遣いを断り、ラシムはそのまま歩き続ける。
ーラシムの言う通りだ。朝から歩き回って未だに何の手がかりも見つからない。…そのうえ、降り始めた雪に視界が覆われてどんどん前が見えにくくなっていく。
「…なあ」
「…何だ」
エウェルの声に、イライラとし始めたラシムが素っ気なく返す。
「ラシム…帰り方分かってるのか?」
「…………」
外を見てこようとはじめに言い出したのはラシムだった。
「なあエウェル!外行かねえか?外!」
「うーん…道に迷わないか心配何だけどな…」
「大丈夫だろ!行くぞー!」
そう言ってソフィアの家を出て、町を探検しながら雪で遊んでいるうちに、町を抜け、今に至る。
「ああー…さみい…」
ラシムがぼそりと呟いたあと、盛大にくしゃみをする。
「…ん?」
ー地響き?地鳴り?
地面が揺れ、何か大きな音が近づいてくる。
「エ…エウェル…上…」
「え?」
雪崩が間近に迫っていた。
「わああああああああ!!!!!!」「うおおおおおおおお!!!!!!」
全力疾走で山を駆け下りる。叫びながらひたすら足を動かす。
「何なんだよあれ!」
走りながらラシムが叫ぶ。
「雪崩だよ!ラシムがくしゃみしたから落ちてきたんだ!」
答えながら、ふと思う。
ーあれ?何で知ってるんだ?
「エウェル!あれ見ろ!」
ラシムの指差す先に、小さな洞穴がかすかに見える。
「わかった!」
全力で山を下りながら近付き、「やっ!」掛け声と共に、穴へ飛び込む。
すれすれで飛び込んだ瞬間、穴の目の前を轟音が通りすぎ、洞穴の中が真っ暗になった。
「う…いてて…」
飛び込んだ時に打った肩をさすりながら起き上がる。真っ暗な洞穴の中で、ラシムを呼んでみる。
「ラシムー!どこだー?」「ここだ」
真後ろからした声に、驚いて振り向く。じっと目を凝らすと、確かにラシムが見えた。
「なあ、これどうやって出るんだ?」
「さっきの…雪崩?が完全におさまるまで、この中で待つしか無いだろ」
ため息をつき、ラシムが座り込む。
すると、かつーん、かつーんと、洞窟の奥から音が聞こえる。
「…?」
「誰だ!!」
突然叫んだラシムの声が、洞窟の中でぐわんぐわんと響く。
「…何じゃ?何故こんなところに子供がおる?」
暗闇から姿を現したのは、防寒具に身を包んだ初老の男性だった。
「おれたち、雪崩に巻き込まれてここに逃げ込んできたんです」
「爺さん、ここって町からどれくらい離れてるんだ?」
唐突な質問を受け流し、初老の男性は言う。
「ついといで。…ここは外から近くて寒い。」
「……」
ぴちゃん、ぴちょんと水の跳ねる音が響く洞穴には、外からでは分からない奥に続く長い道があった。
洞穴の入り口から少しばかり奥へ進んだところで、男性は立ち止まった。
ゆっくりと腰を曲げて手探りでランプを点けると、そこは大きな広場のようになっていた。
少し奥にはテントが張ってあり、すぐ近くには燃え尽きた細い薪が転がっている。
「…さてさて、話を聞こうかの」
テントの中から持ってきたイスに座り、男性はじっと二人を見つめた。
「…俺たちは、すぐ近くの町から来た。でも道に迷ってるうちに雪崩にあって、ここに逃げ込んだ。」
フムフムと頷きながら、男性は話を聞く。
「それで爺さん、町からここまでってどれくらい離れてるんだ?」
ラシムの問いに、ゆっくりと腰を上げて男性は地図を開く。
「…多分あんたらの居った町はここじゃな。ということは……ここは赤杉林の東だからのう…そうじゃな、ここから北西に1.5フィールくらいじゃな」
「…1.5フィール…なげえ…」
「じゃあ方向もわかったことだし、そろそろ帰るか?」
「そうだな…心配してるかも知れねえしな」
そう言うと、二人は男性に声をかけた。
「そういえば、名前言ってなかったな。俺はラシメラだ。」「おれはエウェリデス。お爺さんの名前は?」
「…儂はイヴァンじゃ。」
そう言うと、イヴァンはランプを持って立ち上がった。
「入り口まで送っていこうかの」
洞窟からゆっくりと手を振るイヴァンは、雪に隠れてすぐに見えなくなった。
「…何であんなところに一人で住んでるんだろ」
「さあなー。早く行くぞー」
小走りで山を下り、教えられた白樺林を通り過ぎる。
二人が家に戻ったのは、ちょうど日が暮れた頃だった。
(1.5フィール=1.5km)
第11話 町の事情
「うおお…ねみい…」
「ラシムおはよー」
昨夜は全力疾走で帰ったあと、家で心配していたソフィアに寒い玄関先で長々と説教をされた。
「あら、二人ともおはよう。昨夜はよく眠れた?」
「…おかげさまで」「よく眠れました」
ソフィアがくすりと笑うと、スープのいい香りがした。
「町で何故か最近、狼がよく現れるのよ。」
「…?おおかみ?」
温かいスープをすすりながら、エウェルが聞く。
「狼っていうのは、こういう雪の降る地域でよく出てくる動物よ。いつもは森から降りて来ないんだけど、最近は町の近くでもよく見かけるのよ。」
「動物なら火で追い払えばいいんじゃねえのか?」
「…なんでも、向こうは火を見てもお構いなしに襲ってくるらしいのよ」
黙々とパンを食べながら会話を聞いていたエウェルの脳裏を、突然映像が流れる。
雪崩に襲われる自身の横を、誰かが走っている。
ーもっと急げちび助!
ーうるせえ!!チビじゃねえ!
わあわあと叫びながら雪を投げつけ、ひらりとかわされる。
ーもっと早く走れよ!!追いつかれるぞ!!
ー待て!!置いてくなあああ!!
「エウェル!」
はっとして横を向くと、ラシムが心配そうな顔をしていた。
「大丈夫か?」
「う、うん。ごめん…ぼーっとしてて」
あははと笑いながら返事をする。
ー何だ?今の?
「前に男達が集まって討伐へ行ったんだけど、こてんぱんにやられたみたいなのよ…」
「でもその狼がいなくなればみんな助かるんだよな…」
ー討伐?標的。雪崩。狼。
突然ふらりとエウェルが立ち上がる。
「エウェル?どした?」
声をかけるラシムに答えず、ぽつりと言う。
「…ラシム。そいつら倒しに行こう」
「…え?」
ラシムが驚いた顔でエウェルを見る。
「狼を?俺たちで?」
「うん。…おれたち畑を荒らす動物くらいとなら戦ったことあるだろ?」
暫く唖然とした顔でエウェルを見ていたラシムは、ぱっと目を輝かせると言った。
「いいなそれ!!やろーぜ!!」
「な…!?ダメよ!…あなたたちは子供でしょ!!」
ソフィアの悲鳴のような声に、ラシムが反発する。
「子供だから何だってんだ!そんなの関係ねえだろ!」
「…倒せるかは分からないけど、いざという時は逃げるから大丈夫。それに、みんな困ってるんだろ?」
「まあ、そうだけど…」
ソフィアが言い淀むなか、エウェルが続ける。
「狼を追い払えばみんな助かるし、困ってるならほっとけない」
話を聞いていたソフィアは二人をじっと見つめると、ため息をつき、諦めるように言った。
「…いいわ。行ってきなさい。…ただし、必ず無事に帰ってくること。」
ソフィアが言い切った瞬間、ラシムがガッツポーズをする。
「よっしゃ!やるぞエウェル!」
「うん」
ーこの間みたいに、戦えば何か思い出せるかもしれない。
ぐっと手を握って意気込む少年の背後では、炎に照らされた大きな影がゆらゆらと揺れていた。
Mind and memory
心って何だろうなあ