くらげみん

午後6時の電車内は、繁華街の雑踏のように息苦しい。皆家路を急ぐ、せかせかと走るあの空気が、私は苦手だ。これから街へ向かう煌びやかなお姉さんも、こっくりこっくりと居眠りを続けるおじさんも。そして何よりほとんどの人々が下を向いて、若しくは前を向いて、掌の中の小さな画面を見つめている。淀んで溺れそうな空気の中の金太郎飴たち、なんて滑稽なんだ。

すし詰めの車内から飛び降りて、改札を出た時ふと気がついた。駅前のラーメン屋が潰れている。どうやら次は韓国料理屋になるらしい。しばらくその場に立ち止まって、グレーになった店内を眺めていた。ここのラーメン、なかなか美味しいと思っていたのに。多い時は週に3日は通っていたのに。あれ、いつの間になくなってしまったのだろう。

はあ、と聞こえる声でため息をついた後、一歩踏み出そうと足を地につけた瞬間膝が崩れた。どうやらパンプスのヒールが折れたらしい。折れたヒールを眺めていたら、ポツポツと水が落ちてきた。どうやら雨が降り始めるらしい。

今日はなんて日なんだろう、と思った。普段は午後6時の電車も気になんてならないし、潰れたラーメン屋なんて今になって気付いたくらいなんだから、素通りして帰宅してもおかしくなかった。ヒールが折れそうなパンプスを選んで履くことは避けるし、天気予報を見て傘だって持ってくる。今日はなんて日だ!最悪とはこの事だ!今この瞬間、世界で一番不幸なのは私だ!

ここで何処ぞの素敵な殿方が、大丈夫ですか?なんて声をかけてくれたらなあ、なんて濃く深い色に染まってゆくアスファルトを見つめながら阿呆らしい事を考えていると、あの、と低い声が聞こえてきた。はっと思い顔を上げた。この顔を持ち上げるおそらく2秒ほどの間に考える。ここまでの不幸はこの奇跡的な出逢いの布石だったのであろうか!と。

「あの、大丈夫ですか…?」

声をかけてくださったのは、あの午後6時の電車の空気に当てられたようにくたびれた、ちょっと痩せているおそらく50代程の男性だった。失礼だが思い描いた殿方とは正反対とも言えた。私は男性の掌をぼうっと見つめて、そして暫くそこから目が離せなくなった。

「…はい、大丈夫です。どうもありがとうございます。」

ついさっきまで地へ落ちた腰が大変に重く感じていたのに、自分でも驚くほどはっきりと返事をした。すっと立ち上がり、両方のパンプスを脱いで歩き始める。男性のあっという声が聞こえたが、気づかぬふりをして足を進める。

靴を履かずに歩いていると、何だか気持ちが高揚してきた。思わず走りたくなって、バシャバシャと足の裏で水を感じながら、頭のてっぺんから足の先まで水に溺れるように走った。
なんて滑稽なんだろう!私はなんて滑稽なんだろう!可笑しくて笑いが込み上げてきて、このまま空も走れるんじゃないかと思った。

大丈夫ですかと声をかけてくれた男性の掌には、紺色のハンカチが握られていた。あのチカチカした小さな機械ではなくて、柔らかくて優しい深夜の空のような四角の布。それを見た瞬間に腹の底から何かあたたかいものがこみ上げてきて、私は世界で一番不幸などでは無い!と思ったのだ。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-14

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