贖罪の少年 第8章 1部
樫之木千里
虚像の幸せ1
何日が過ぎた頃。
川崎家では佳代子の退院祝いをかねた、家族だけのホームパーティーが催された。美雪は数人の家政婦と一緒にせっせとリビングの飾り付けを行っていた。
「張り切っているね、美雪ちゃん」
稲月は美雪に声をかける。
「うん、だってお母さんが帰って来るし。それに、お父さんも私と稲月さんの仲を賛成してくれたし、テンション上がらずにはいられないじゃない」
「そうだね。あれには僕も驚いたよ」
……………………………………
話しは数日前に遡る。
その日、美雪は稲月とのドライブデーとを楽しんでいた。しかし心から楽しめていたわけでは無い。
それは稲月の様子に疑問を感じ始めたからだ。
(稲月さん、私の目を見て相打ちをしてくれない時がある。運転中ならたまだしも、目的地に着いてもそうなんだから、何か変)
そう美雪が思ったのは、先日高橋が渡した本のおかげであった。その本には『男が女の目を見ないのは、やましいことを考えている可能性がある』と記載されていたからだ。
(稲月さん、私に嘘ついてるの?)
そう思い始めると、稲月の美雪への態度にはいくつか疑問に思う所が出て来た。
(……あの本を読みすぎたせいよ! 高橋君に後で文句を言ってやる)
美雪は誤摩化す様に、心中高橋へ悪態をついたのだが、心は以前もやもやのままであった。
(どうしたらいいの)
思い悩んだ美雪の脳裏に、本の言葉が浮かんだ。
『分からない事が出て来たら、考え込まないこと。他人に疑問を尋ねることにより、新たな意見がもらえ、そこから問題が解決することもあります』
(こうなったら……よし! 思い切ってやってみるか)
美雪はある提案を稲月に出した。
「稲月さん。突然であれだけど、私のお父さんに会ってくれる? お父さんも稲月さんに合いたいって言っていたから、お願い」
稲月は美雪の急展開すぎるお願いに、驚きはしたものの
「僕は今日の予定はもうないし、全然かまわないよ」
と返事をした。
そう答えたのも稲月自身、川崎誠という人物をこの目で確認したかったからだ。
稲月の目的は美雪と結婚し、川崎家の遺産と権力を手に入れることだ。
なのでこの急展開は、彼にとってはむしろ喜ばしい誤算なのだ。
稲月の返事を聞いた美雪は「ありがとう」と言うと、スマホで父親にその胸を連絡した。
父の誠の返事も賛成だった。
こうして稲月は急遽ではあるが、川崎誠に合うこととなった。
川崎家に着いた美雪は
「ただいま」
と言い、玄関を上がると、そのまま稲月を家の中心にある大きな広間へと案内した。
その広間にはすでに、父の川崎誠が上座のソファーに座っていた。
「おかえり美雪」
「ただいま、お父さん」
美雪が先に広間に入り、後ろから稲月が会釈をし、広間へと入って行った。
「初めまして、稲月健吾といいます」
「君が稲月君か。君も美雪も、ソファーに腰を下ろしなさい」
誠は二人を対面のソファーに座らせると、真剣な面持ちで稲月に質問をした。
「君は娘と、どういう関係なんだ」
「美雪さんとは仲のいい友人です」
「友人か……」
「はい」
誠はジロリと稲月を睨んだ。しかし稲月は慌てる様子も無く、落ち着いた表情で誠の方を見ていた。
ハラハラ見守る美雪の頭上に、父の言葉が響いた。
「友人というなら、君は美雪に近づくな」
稲月はその言葉を聞いて、やはりなと思った。名家の頭首がそう易々と、娘に男を近づかせる訳が無い。やはり説得が必用かと思った。
「……私と美雪さんの関係は認めないと言う事ですね」
「そうだ。中途半端な友好関係は、川崎家の娘である美雪には必用ない」
稲月としては出る幕が無かった。
計算はしてはいたが、説得には骨の折れる相手だと、稲月は川崎誠をそう評価した。
しかし誠の次の言葉は、稲月の予想もしなかった意外なものであった。
「ただし、君が『美雪を幸せにしたい』と本気で望むのであれば話しは別だ。美雪と正式に婚約する気は無いのかね」
この誠の言葉に、美雪も稲月も目を丸くして驚いた。
「どうして、初めてお会いした私を、ここまで信用して下さるのですか」
稲月の言葉に誠はすこし笑って答えた。
「美雪を見れば分かる。美雪は最近笑顔でいることが多くなった。そして今まで私をさけていたのだが、最近では私の話しにも耳を傾けてくれる様にもなった。心の余裕ができたのだろう。
それもきっと稲月君が美雪の側にいて、美雪を支えてくれたおかげだ。君のような男になら、一人娘を安心して託せることが出来る」
その話しを聞いた美雪は、ぽろぽろと涙をこぼした。
(お父さん、少しは私のことを思ってくれてたのかも)
そう思った彼女は
「お父さん、ありがとう」
と感謝の言葉を口にした。
隣にいた稲月も、彼女の背中をさすりながら慰めた。
「美雪ちゃんよかったね。じつは僕もね、君に伝えたいことがあるんだ」
「伝えたいこと?」
潤んだ黒真珠の瞳で見つめる美雪に、稲月は優しく目を見て答えた。
「君を全力をかけて幸せにしたい。だから僕は、君と婚約したいんだ」
その言葉を聞いた美雪は、またもや目を大きくして驚いた。
「稲月さん、私と結婚してくれるの?」
「ああ。君と夫婦になって幸せになりたい。美雪ちゃんはそれでもいいかい」
「うん。私、稲月さんと幸せになりたい」
美雪はそのまま稲月の胸の中で泣き崩れた。幸せすぎて涙が止まらないなんて、彼女にとっては初めての体験であった。
そんな彼女を優しく抱きしめながら、稲月は答えた。
「分かった。一緒に幸せになろう。だからお父さん、美雪さんとの婚約を認めて下さい。お願いします」
稲月は誠にお辞儀をしながらお願いをした。
「いいだろう。君と美雪の仲は私が認めよう。美雪、幸せになるんだよ」
「はい……」
美雪は笑顔で微笑んだ。
この瞬間、父に認められ、大好きな男性と未来を約束したこの瞬間が、美雪にとって人生で一番幸せな時だと感じていた。
虚像の幸せ2
こうしてあれよあれよと言う間に、稲月と美雪の婚約話しは進み、今日の稲月は美雪の婚約者として、川崎家のホームパーティーに参加することとなった。
稲月としても予想どおり川崎家へ上がり込むことが出来たのだが、いかんせん事が早く進みすぎているのが気になった。
(川崎誠は何かを企んでいる)
稲月はそう思うものの、今の所企みの一片も見えて来ない。
(こういうときは慌てない方がいい)
そう考えた稲月は、今日一日を川崎家の観察だけにとどめておこうと決めていた。
外で車の音がした。
「お父さんの車だわ」
誠は病院まで佳代子を迎えに行っており、今しがた彼女を連れて戻ったようだった。
「ただいま」
佳代子の声が聞こえると、美雪は大慌てで玄関まで迎えに行った。
「お母さんお帰り! 準備して待ってたの」
美雪は大はしゃぎで母、佳代子を広間へと案内した。
広間を見た佳代子は驚いて周りを見回した。
「この飾り付け、美雪がしてくれたの?」
「うん。私と、家政婦さん達がしたのよ」
広間はピンクの花飾りが至る所に飾られ、中心の天井に近い壁には『お帰り、お母さん』と書かれた横幕が飾られていた。その様子はまるで子どものお誕生日会のようであったが、美雪が心から、母の退院を喜んでいることを伺い知る事が出来た。
感動している佳代子の視線は、あるところでぴたりと止まった。
そこにはテーブルが置かれており、その上に正方形の箱が置いてあったからだ。
「佳代子、開けてご覧」
誠の言葉に促され、佳代子は箱のリボンを開き、箱を開けた。
そこには佳代子が大好きな『パティシエ・フカホリ』のバラ花の形をしたホールケーキがあった。
そしてケーキの上には、ホワイトチョコの板にメッセージが添えられていた。
『大切な佳代子へ。愛を込めて。 誠より』
この文字を見た佳代子は、嬉しさのあまり涙で視界が滲むのが分かった。
「あなた……」
「お帰り、佳代子」
誠は妻の佳代子に寄り添い、ハンカチを渡していた。
それを見た美雪は、あることを自覚した。
(私が本当に見たかったのは、お父さんが一番にお母さんを思っている姿だったのかも……)
しかし同時に、これは『嘘の川崎家』であることは、美雪も十分に自覚していた。本当の家族の関係は、こんな理想的な場所とはほど遠い、辛くて苦しいものだとも、身を切る様に実感していた。
「…………」
「美雪ちゃん、これ使って」
稲月の声に、美雪はハッと我に返った。
「やだ、私いつのまに泣いていたのかな」
美雪は誤摩化しながら、稲月が渡したハンカチを受け取った。そしてそのハンカチで涙を拭きながら、ついそのハンカチの柄を注意深く観察した。
(サッカーチームのロゴ……ってやだ。こんな時にまで探偵ごっこの癖がついてる)
美雪は自分自身の探偵ごっこの入れ込みように、ついついあきれてしまった。
(本当、自分でも嫌になっちゃう。でも悪い事だけじゃない。最近なんだか、稲月さんの事もお父さんの事も、前より断然分かった気がする)
つい最近など、稲月の過去まで判明したのだ。
実は稲月は考え込む時、眉間を指でつまむ癖があるのを見つけたのだ。
(まるで眼鏡をかけている人みたい)
そう思った美雪は、その事を稲月に話した。彼の答えはこうだった。
「そうだよ。学生のときは授業中、眼鏡をかけていたからね」
そして今、稲月のハンカチを見た美雪はこう思ったのだ。
「稲月さんってサッカー大好きなのね。特に海洋レーベルってチームのファンでしょ」
美雪はハンカチを返しながら言うと、稲月は面食らったような顔をして答えた。
「そうだよ。美雪ちゃんには話した事なかったのに、何で分かったの」
「だってこのハンカチ、小さいけど海洋レーベルのロゴが入っているし。それに稲月さんが今付けている腕時計のCMに、そのサッカーチームに在籍してた有名選手が出てたでしょ。それでピンと来たの」
美雪の答えに、稲月は思わず関心した。
「なるほど、美雪ちゃんは名探偵だね。近頃は特に、僕のことを見てくれる様になったね」
「だって、大好きな稲月さんのことをもっと知りたいから。稲月さんが何が大好きで、何を考えているのか、それを知って一緒に人生を歩んでいきたいの」
美雪の言葉を聞いた稲月は、少し彼女から目をそらし、また目線を戻して彼女に言った。
「嬉しいな。美雪ちゃんがそう思ってくれているなんて。僕は幸せ者だよ」
稲月の、心持ち早口のその言葉とそぶりに、美雪は内心眉をひそめた。
(あ、一瞬目をそらした。それに、こういう浮ついた返事をする時の稲月さんって、早口ですこし芝居かかっている気がする)
この行動が意味することは、たしか『心にもない事を言っている』現れだと、高橋から渡された本に書いてあったのを、美雪は思い出した。
しかしそうは思いつつ、稲月とはもう婚約者になったのだ。美雪は稲月への疑惑心を、そっと胸に閉まった。
「さあさあ、皆様座ってください。私達が腕をかけた、美味しい料理がご用意出来ましたよ」
長年川崎家に仕えている家政婦長が声をかけると
「そうだ、せっかくの佳代子の大好きなロールキャベツが冷めてしまうぞ」
「お母さん、立ちっぱなしはまだ良くないから、食堂に行って座ろ」
と、みんなで食堂へと向かった。
贖罪の少年 第8章 1部