おしっこ

私はフリーターで大手のクリーニングの
受付店でアルバイトをしている。

お客さんの持ってくる洗濯物を受け取って仕分けして
出来上がりの商品を渡すだけのかんたんな仕事だ。

土日専門のオバサンが一人と
月曜から金曜までの私と
月曜日と水曜日の湊さんの3人だ。

湊さんは結婚したばかりでまだ若く
私のお姉さんくらいの年で
いつもニコニコと優しく、すぐに仲良くなった。

湊さんはお菓子作りが趣味でよく作っては持ってきてくれる。
一口大のマドレーヌとかクッキーとか
仕事の合間にちょいちょいっとつまめるようなやつで
それが 手作りとは思えないほどおいしい。

来週は得意のプリンを持ってくるね といって
水曜日にわかれた。

そして月曜日…プリンはなくて
なんとなく元気のない湊さんがそこにいた。

「どうしたんです?
 ご主人と喧嘩でもしましたか?」
冗談半分に たずねると

湊さんはなんとも憂鬱な顔をして
実はね…と 話し出した。


 湊さんは犬を飼っていてだいたい決まった時間に
決まったコースを散歩に連れて行く。
そのとき必ず通る道があって
そこには湊さんが素敵だと思っている家がある。

その家は大邸宅ではないがこの辺ではまだ新しく
そこここに建売ではない雰囲気を漂わせ
ガラス製の表札にはこったローマ字が彫られ
バラのアーチをつけた門があり
塀にも花屋かと思うほどプランターがぶら下がり
赤や黄色や白や紫の花が咲き乱れていて
そこの主婦らしき女性はしじゅう 枯葉をとったり
水をやったりと それらの世話に余念がない。

最初にその家を見つけた時はいい場所を見つけたとばかりに
散歩コースに入れて好んでその道を通っていた。
まめに手入れされてきれいに咲きそろった花をみるのは気分がいい。

そして通るたびに生活に何の心配もない優雅な暮らしをし
花好きの優しくおっとりした奥さんを勝手に想像していた。

……が、これがとんでもない間違いであったことが判明した。
湊さんの犬がその家の塀におしっこをかけたからだ。

犬はおしっこをする。
当たり前のことだ。 
ウンチを持ち帰りましょうはよく言われるが
最近はおしっこもかけたところは水で流せという風潮がでてきた。
とはいえ ウンチの始末はするものの
まだまだおしっこ用にと水を持ち歩く人は少ない。
湊さんもまた気にしつつも水は持ち歩いていなかった。

そして 湊さんの犬はおしっこをした。
そして 湊さんは水を持っていなかった。
そして そんな時に限って誰かが見ていたりする。

ちょうどその奥さんが買物にでも行くのかバラのアーチをくぐり
そのすぐ横で湊さんの犬はおしっこをし終り手足をバタバタさせているところだった。
電柱にしている所を見られてもどこか気まずいものなのに
人の家の塀にしかもその家の人に見られて知らん顔して立ち去る勇気はなく
とっさにあやまった。

「あ……すみません。ごめんなさい。
 すぐ流しますから すみません。すみません」
とはいってももちろん水などもっていない。

その奥さんは怖い顔をして無言で立っている。

「えーと 水…… あれ? あれ?」
湊さんは持ってもいない水をさもあるようなしぐさで
かばんの中を探す振りをした。

奥さんが何か言ってくれるのをそうして待っていた。

想像通りのおっとりと優しい奥さんなら「いいのよ。あとで流しておくわ」とか
「散歩の時は水も持ってね」とか
最悪でもちょっと怒った風に「気をつけてくださいね」とか
そんなふうな言葉をだ。
けれどもなんの言葉もふってこない。
空気の流れまで止まったような息苦しさ。
……どうしよう……

探しながらちらちらと奥さんを覗き見て湊さんは血の気が引いた。
そこには無言のまま般若のような顔になった奥さんが
静かに冷たい目で湊さんと犬を見下ろしていた。

水を貸してください と言えば良かっただろうか
水を忘れてしまったんです。掃除しますから水を貸してください。
そう言えば少しはましだっただろうか。

恐ろしさに湊さんはとっさにかばんからつかみ出した蓋付の缶を開けて
「ありました」 といい あやまりながらその中身を塀にふりかけた。

すでに正常な判断ができなくなっていて
とにかく何かしなくちゃで頭がいっぱいだった。
おしっこのままではいけない。
流さなくちゃ……
そのことしか頭になかった。

しゅーっとささやかな音を立て じゅわじゅわとぐずりながら
その液体は広がり甘ったるい匂いを放つ。

湊さんがかけたのは帰ったら飲もうと途中で買ったコーラだった。

奥さんはあっと思う間もなく家に取って返しバケツとブラシを持ってきた。
そしてコーラをかけたあたりに乱暴にバケツの水をぶちまけた。
水は湊さんの足にもたっぷりかかり犬も頭から水をかぶった。

「水も持ってないなんて……」

ぞっとするほど冷たい声でいいながら水のかかったあたりを
ブラシでこする。

「それよりなにより人の家におしっこするような犬なんて」

ごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごし……

「しつけができないなら……」

ごしごしごしっ ごしごしごしっ ごしごしごしっ

「犬 飼う資格ないんじゃない?」

ごしごしごしっ ごしごしごしごしっ ごしごしごしっ

「しかもコーラをかけるなんて そんな砂糖のかたまり」

ごしごしごしごしっ

「アリが来るじゃないっ」
 
ごしごしごしごしごしごしっ ごしごしごしっ

「あなた 頭悪いの?」

そう言って、バケツとブラシを持ったまま家に入り
玄関のドアを乱暴に閉め、それきり出てこなかった。

……

「私… 頭 悪いのかしら…」
湊さんはため息とともにつぶやく。

「そんなこと…」

そんなことないですよ と言おうとしてやめた。
そんなことないに決まっているし
湊さんも そんなことないですよと
言って欲しいわけじゃないと思う。

かわりに私は 湊さんのいう その家の前に行き
住所を確かめた。 その家は「柏木」さんというお宅で
うちのクリーニング店ではなく
駅の反対側のクリーニング店を使っていることを突き止めた。

そして 次にシフトが一緒になった時
湊さんに教えてあげた。

……だからその人がこの店に来ることはないですよ……

湊さんは きょとん として
それから ちょっとだけ笑って
「今日はプリン」と言った。

おしっこ

おしっこ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-04

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