浜文具店の赤えのぐ
0、白メモ帳の置き手紙
雨の音が好きだ。
世界中を優しく打つその音は、私の階段を上る足音を鈍らせる。
いや、もっと別の理由がこの階段を上る足を止めているのかもしれないけれど、今はそれを考える暇もない。この優しい音を聞く事で忙しい。
また一段登りかけて、目を閉じてその音に包まれる。
また一段登りかけて、目を閉じてその匂いに包まれる。
そうしてゆっくりと階段を上って、三階、自宅のドアの前に辿り着く。
肩下げ鞄から、赤いフェルトで作られた花のモチーフのストラップを取り出し、先についている鍵をつまむと雨音がいっそう強くなった気がした。
首だけで振り返ってみると、景色はさっきより冷たくなって、淡くて鈍い水彩画のようにその輪郭をなくしていた。
+++
「……ただいま」
誰にも聞こえないような小さな声が玄関でぽたりと落ちる。
普段着のジーンズの裾と高校指定の白いスニーカーが少しだけ汚れているのに気付いた。
ふと視線の先、磨りガラスの向こうには食事の時に付けるぼんやりとした灯りが付いているのが見える。
おかしく思って時計を見てみるも、まだ食事には早すぎる時間だった。
五月三日、午後6時数分前。
今日からゴールデンウィークだし、そろそろみことは店番してるかな。
お父さんは車が無かったし、出かけているようだ。
……そういえば姫はなにをしているだろう。そこにいるはずの音が聞こえない。
「姫?」
戸を開けた磨りガラスの向こう、すぐ見える食卓には一人分の夕食と、端が破れた白い紙が置いてある。
『家出をします。帰らないよ』
コピー紙みたいに薄いその紙にはそんな文字と、イラストが書いてあった。
三角と四角をくっつけただけの簡単な家。そこから階段が三段伸びていて、恐らく姫本人と思われる棒人形がサンタクロースのみたいに大きな荷物を抱えて歩いている。その隣に四角の建物と強引な看板らしきイラスト、その看板の中には浜文具店と書いてあった。
「……え?」
雨の音がいっそう強く聞こえる。
これが姫の家出、初日のことだった。
1、浜文具店の新商品
五月二日。
「あか」
「ん?」
「何色が、いいですか?」
「ん……たまには青は?」
「青は嫌いです」
「どうして」
「あかに、にあわないです」
「……それ、私に言ってる?」
「さあ」
「……じゃあ、赤は?」
「うん、素敵です」
「結局いつも通りだけど姫、ご満悦だね」
「はい、です」
金曜は下校したらそのまま、姫と浜文具店に行く。その約束は今日も果たされていた。
ここは文具から手芸用品、またそれらに関する雑誌や雑貨等幅広く取り揃えているのでいつ来ても飽きない。
木の匂い、紙の匂い、文具達の匂いが混ざって独特の匂いになっている店内は、広すぎず狭すぎない。ぎっしり並べられた商品は一見雑に陳列されているように見えて、かなり整っているので見やすいし、探しやすい。何より私と姫がこの店に足繁く通うようになった理由は、このお店、赤色系統の文具が多いのだ。絵の具やインクはもちろん、文具自体の色まで。
「あ、新しいの入ってる……!」
歩き回っていると、好きなシリーズのボールペンの新色を見つけた。
綺麗で落ち着いた紫色のボールペンのキャップをちょっとだけ大げさにあけて、試し書きの紙にぐる、ぐる、ぐる、と書いてみる。
「わ、やっぱりいいなぁ……どうしよう」
そうそう、浜文具店の試し書きはちょっと変わっているのだ。
各文具コーナーにそれぞれ単語カードのようなリングが紐で結ばれていて、多種多様の紙が雑にくくられている、というものだった。色の付いた紙や、画用紙、コピー紙に試し書きできるというのは中々に便利で、私が浜文具店をひいきにしている理由の一つだ。
「わ……すごい」
ぐるぐると線が引いてある薄い水色の紙や達筆な文字が書いてある灰色の紙、まっさらな白い紙をめくっていくと薄紅の紙には線だけで花が描いてある。
試し書きの紙に書いていなければ、絵はがきになりそうなその絵は、まるで誰かに見つけられるのを待っていたかのようだった。
でもこの花、何処かで見た事があるような……。
「公園に咲いてる花は、強いです」
「え?」
ん、とその絵に指を指す姫。
姫が描いた絵らしい。
「姫、こんな絵も描けるんだね」
私は漫画のようなイラストを描いている姫しか見た事がない。
「かけます」
少しだけ自慢げな姫がおかしく思えて、くす、と笑ってしまった。
「絵の具は?もういいの?」
「だいじょぶです」
「ん、わかった」
「そのペンは」
「ん?」
「そのペンは姫も、素敵だと思います。色がとても赤によくにあう」
「ふふ、そっか。どうしよう……買おうかな」
「素敵です」
現状ぱんぱんの、あまり入らない筆箱に入るか少し不安だったけれど、きっとなんとかなるだろう。新しい筆箱が、少し大きいのが欲しいな。
「お? おうおうおっすー。おかえりーただいまっ」
「みこと」
私の親友が帰宅したようだった。
「いつもウチに来てくれてありがと! 姫さんもこんばんは! いやー相変わらずお綺麗で。いいなーいいなーあたしのこれと交代してくださいっ」
と、顔を両手でぱち、と覆うように叩きながら頭を下げるみこと。私の親友は終始こんなテンションなので、疲れないのかな、と思う。
姫は、少し考える仕草をしたあと、右手をゆっくりゆっくりみことの目の前に突き出す。指がピースサインを作っていた。
「ふ」
「余裕の笑みだ!?」
「ちょっと姫、止めて恥ずかしい」
「ありがとうでした」
何を考えているのか、一礼して先に帰って行った。
私達はまさかそのまま帰ると思っていなかったので、二人で顔を見合わせたのだった。
+++
「なんて言うか相変わらずだねー、姫さんは」
「うん。恥ずかしい……」
「ははは、恥ずかしい事なんてないでしょう。しっかしあれだね、姫さんもだけどやっぱり、あかも可愛いなあ」
「そんな事ないよ」
「いやいやいや! あるあるある……って、お? 見つけたんだねぇそのペン。きっと気に入るだろうとは思っていたから、あえて教えなかったのだよ」
私に指を指しながら、みことは得意げな様子だ。
「ああ、これ? うん、すごく気に入った。買おうかな」
「でしょでしょ? へっへーお買い上げありがとうございまっす!」
「ふふふ、うん、じゃあレジ通してくるね。みこと、今日はお店の手伝いは?」
「んー今のところお客様は見当たりませんからねえ。別に確認するまでもなくいらないんじゃないかな」
「そっか」
「ん! あっそーだ! 昨日のドラマ見た? 見た? 9時からの方!」
「録画はしたけど、まだ見てはいないよ。姫は見てたみたいだけど」
「マジで! しまったー姫さんにも話振ればよかった! あのねあのね」
嫌な予感がした。
「あ、ちょ」
「前回、同居始めたじゃん? あのカップル」
嫌な予感というのは、どうしてあたるのだろうか。
「うん、だからちょっと」
人との会話でドラマや映画、アニメ等を話題にする時、もっとも気をつけなければならない事。
「彼女の方がね」
ネタバレ、というやつだった。
「家出しちゃったんだよ」
2、あかとみことと別れ事情
公園のブランコの前には、柵がある。
ブランコを漕ぐ人と、その付近で遊ぶ人がぶつかってしまったり、危ない思いをさせてしまわない為なのだろう。
滑り台の下には、砂場がある。これもきっと、安全面を考えての事なのだろう。
ここの公園にはないけれど、シーソーの下にもタイヤだったりなにかしらクッションがある。もちろんそれは、足等を挟まないようにだったり、衝撃を和らげてくれる意味があるのだろう。
つまり、公園にはルールがある。
みんなが楽しく安全に使えるようにという思いがある。
それと同じじゃあないだろうか。
うん、きっとそれと同じようなものなのだ。
人と人の会話にももちろんルールとまではいかなくとも、互いが有意義に話をする事が出来る話し方というものがあるのだ。あるはずなのだ。
例えば、ネタバレしないとか。
「本っ当にすみませんです……」
太陽が地平に遮られ、薄暗い闇にその光が散っていく公園には、寂しげなブランコの音がゆっくりと響いていた。
「ね……あか、あのう……」
私はブランコ前の柵に腰掛けて、ぼーっと姫が試し書きに描いていたモチーフの花を見ていた。
その花は、私がいるところからは離れた真正面、公園の東屋の近くにあるので、しっかりと見えている訳ではないのだけれど。
「き、聞こえていますでしょうか? ……この距離だもんね、そりゃあ聞こえてるよね」
一方のみことはブランコに乗っていた。
「あ、あかってばぁ」
「私ね」
「! うんうん! なに?」
「お別れって言うのが、怖いんだ」
「お別れ?」
みことからしたら唐突な話題だったかもしれない。だからきっとみことは今、いつもみたいに大げさに首を傾げて聞いているのだろう。
でも私からすれば、唐突ではなかった。
さっきの話、ドラマの「家出」と言うワードを聞いてしまった、私からすれば――。
「そう、お別れ。ドラマの話じゃあないけれど、カップルと言えばお別れじゃない」
「それはどうかと思う考え方だよ……」
うん、わかってるつもり。でもね、どうしても考えてしまう。
誰かとお付き合いなんてした事ないし、そもそも誰かを好きになった事がないからはっきりとしたことは言えないけれど、好きな人と結ばれて、嘘偽り無く愛し合ったはずの二人が不仲になるという現実を、私は知っている。
「……そうだけどさ、ほら。恋愛ドラマも家族ドラマも、別れというのもは付き物じゃない。わたしはそれを見るたびにものすごく嫌な気持ちになる。切なくなる。悲しくなる。涙が出る。どうしてって、言いたくなる」
ブランコの音はいつの間にかなくなっていた。
柔らかい風が吹いていた。
「そっか。なるほどね。あかはお別れ、怖いんだね」
そう。とても怖い。あの空気が、怒鳴り声が、沈黙が、涙が……
「うん」
「そっかそっか。あたしはどうかな……うん、きっと大丈夫かも」
その言葉を聞いたとき私は、とても寂しくなった。
みことに置いてけぼりにされたような、お別れを告げられたような気持ちになっていたのかもしれない。
「だってお別れってきっと、避けて通れないものでしょ? だったっらあたしは覚悟するかなー。そんな難しくは考えられないけど、まあ、いつかくるお別れの時に笑えるように、全力で誰かと接する! みたいな感じで、さ」
私はやっと、みことの方を振り返った。
「……なんて、完全におとうの受け売りだけどね。はて、それを聞いたのはいつだったかな……」
「素敵な言葉だね」
でも、私には言えそうもない。私にそんな覚悟はきっと、できない。
「でしょでしょ? あたし、それ聞いた時になんかこう……ピッキーンと来たんだよね」
「………ピンときた、じゃないの?」
「いや、ピッキーンだよ」
ピッキーンって……。
「ま、こんなこと言うあたしは誰かとの大きな別れなんて、経験した事が無いからちょっとよくわかんないけどさ。説得力も無いと思うし」
「私は」
「ん?」
「私は、すでにもう少し怖かったりする」
何が?と大げさに首を傾げるみこと。
「……だって、私たちも来年は3年になって、もしかしたら離ればなれなんだよ?」
うちの高校は全校生徒少ない上に普通科の他に二つ科があるので、クラスは三年間みんな一緒だからまだよかったけれど、中学の時なんかは本当に嫌だった。みことくらい仲のいい友達なんて一人もいなかったけど、それでも、嫌だった。
一年に一度、クラスが変わるから。
体育祭や文化祭を終えてやっとクラスの雰囲気に慣れて来たというのに、またその雰囲気が崩される。やっと自分の居場所を見つけたような気がしていたのに、またそれがなくなってしまう。大して仲が良くもない友達でも、離ればなれになるのは嫌だ。
自分の居場所というのはきっと自分で作る物じゃなくて、いつの間にかできているものだと私は思う。
居心地良い居場所を作る為に努力したところで、そんなものは無意味なのだ、きっと。だっていつかは何かが変わって、やがて何もかもが変わってしまう。いくら努力したところでそれは変えようの無い事実だ。
そんな事はわかりきっている。だから私が感じるこの別れに対する感情だって、無意味なのだろう。でも。それでも。
「……離ればなれになるの、嫌なんだ。みこととは一緒にいたい。みことと、姫と……お父さん、と。お別れなんてしたくないな。ずっと、こんな日々を生きていたい。お別れは嫌なんだ」
嫌なものは嫌だ。
みことは少しぽかんとして私の話を聞いていたけれど、やがて
「そっかそっか。ありがとう、なんだか嬉しいなあ」
といいながら照れ笑いのようなものを浮かべていた。
「あか、あたしも一緒。浜みことは、桑染あかと離ればなれなんて嫌だ!」
大きな声と一緒に、みことは立ち上がった。
ブランコが大きく揺れた。
「ねね、一緒の大学行かない? あれれれ、あかはもしかして専門学校とか考えてた? ももももしや就職ですか! なにそれ聞いてない! さすがにあたしも就職は考えてなかったな……。さてどうしようか」
「ちょ、ちょっと待って。私まだ就職なんて考えてないから! というか、将来の事はまだ全然、考えていないんだ……」
「およ? そうなの? なんだか意外。姫さんはイラストのお仕事とかもしてるんでしょ? あかも絵はうまいし、美大とか考えてるんじゃないかなーと思ってたよ」
「まあ、ぼんやりと、美大ってどんなところなんだろう、どうしようかなくらいには考えていたけど……。それと姫はイラストなんかの仕事、滅多に受けないよ。気が乗った時くらいしか」
今受けてるお仕事があるのか無いのか、私は知らないけれど、前は小説の挿絵やキャラクターのデザイン等、漫画系のイラストのお仕事をしているようだった。
何故私がこんなに姫の仕事に疎いのかというと、姫があまり自分の仕事について語りたがらないのが原因だった。
なんでも、私に見られるのがなんとなく恥ずかしいらしい。
「え? そうなの! 実はそれでバリバリ稼いでるのかと思ってた」
「うんん、ないない」
気が付けば、妙にざわざわしていた胸中がいつの間にか落ち着いていた。
みことの明るさは、周りをいつだって巻き込む。それがとても、心地よかった。
「へへーそっかそっか」
「みこと」
「ん?」
ありがとう。
口に出すのは照れてしまいそうだったので、心の中でそう言った。
「進路の事、私ちゃんと考えてみるね。それでその、もしも、二人とも真面目に考えた結果、みことと一緒の進路に進めたら、良いね」
「だね! まあ早すぎるという事はないからしっかり考えてみよう! オープンキャンパスとか行っちゃおう!」
「うんっ」
そして進路と一緒に、お別れというものとも、ちゃんと、私は向き合わなくてはならないのだろう。
「すっかり暗くなって来たねー。はは、なんの話からこうなったんだっけ?」
「……ネタバ」
「はっ! 墓穴掘った……」
「ふふふ。あのさ、どうせなら教えてよ」
「ん?」
「その、ドラマの続き」
「おお、いいよいいよー!」
私達が家に帰ったのは、それからまた少し後の事だった。
3、味の無くなるジェノベーゼ
四階建てのアパート、つまり私の家は綺麗とか新しいとかそういう言葉からは縁遠い佇まいだけれど、そんなに嫌いじゃなかった。
市街地から少し離れたここは山だったのか丘だったのか、とにかく高いところにあって、当然、どこへ行くにも帰り道は登り坂になってしまうのだけれど、振り返るとそこにはまあまあ綺麗な景色がある。
遠くに街の光が見えて、あとは家、家、家。一軒家からマンションまで、雑草のようにところ狭しとならんでいる。この時間だとちょうど灯りの付いた家々が綺麗に見える頃だ。
何となく家の中に入りそびれた私は自宅玄関のドアの前、この三階の階段からそんな景色を横目で見ながら、手の中で赤い花のストラップを遊ばせていた。コンクリートの手すりに肘をおいて、ぼんやりと景色を眺める。
このストラップは姫が作ってくれた。姫は手先が器用で、手芸も得意なのだ。
家には四部屋あって、ダイニングとリビングのくっついた部屋、お父さんの寝室、私の部屋、そして姫のアトリエもどきの部屋にわかれている。
そのアトリエもどきの部屋で姫は絵や手芸をしていて、酷い時には丸一日そこから出てこない。趣味だろうがいつも全力で、没頭して作業している。
あまりにも出てこない時はさすがに心配になって様子を見に行くのだけれど、真ん中だけ綺麗に片付いた部屋の床に猫のように寝ていたり、あれがないこれがないと散らかしながら探していたり、イーゼルに大きな鏡をたてて自分の姿をぼけっと見ていたりして、絵を描く、とか、物を作る、とか言う作業を私はあまり見た事が無かった。なんでも、イメージを固めるまでに時間がかかるのであって、実際に作品を作り上げるのは短時間で済むらしい。
主にイラスト、趣味なのか仕事なのか、水彩画、ちょっとしたアクセサリや小物。
姫が作った物はみんな息づかいが感じられて、私はとても好きだ。
「あか」
ぼんやりしていたところに急に玄関のドアが開く音がして、びっくりした。
お父さんだった。
「遅いから心配したよ」
「……ごめん、今行く」
「ああ」
そう言えば中学の頃だっただろうか。
私が、私に優しいお父さんが苦手になったのは。
そして私が姫の事を、姫と呼び始めたのは。
+++
「ただいま」
靴を脱いで揃える。
そのまま洗面台の方へ向かうと、リビングにはいつものぼんやりした灯りがついていた。
昔は蝋燭を灯して夕飯を食べてたっけなあ。
洗った手を拭いて、ふと、静かだなあと思う。
姫はもう自室に籠っているのかな……だとしたら、今日も三人では、食べられそうにないな、と思った。
寂しく軋む床を踏んでリビングへ。
「おかえり」
「うん」
案の定、姫がいなかった。
「姫は?」
「……………………阿月(あづき)なら、部屋にいる」
「……そっか」
「学校はどうだった」
「どうって……いつも通り、だったよ」
「そうか」
テーブルの上には姫が作ってくれたであろう、ジェノベーゼとひっくり返ったおわん、お父さんが開いているノート型パソコン。
「お父さんはもう食べたの?」
「ああ」
「なにしてるの?」
「……プリンタとデジカメを探している」
「そっか。両方、うちにないもんね」
「ああ」
そっか、と返事をしつつ、ジェノベーゼをレンジに入れ、みそ汁を温める。
姫はどんな料理にでも、みそ汁をつけるのだった。なんでも、おいしいし栄養があるから朝食と夕飯には絶対必要です! らしい。
そう言えば、みことに聞いたあのドラマ、夕飯を食べ終わってから見ようかな、なんて考えながら作業していると、そのみそ汁を沸騰させてしまった。
慌てて火を止めて、おわんに注ぐ。
パスタは取り出してテーブルへ。
準備完了。
「いただきます」
こうして、静かな食事が始まる。
部屋にはお皿とフォークの音、時折お父さんが叩くキーボードの音。
この何とも言えない雰囲気はどうにも好きになれそうにない。
パスタをフォークに巻き付けながら、ちら、と斜め前、対角線上のお父さんの方へ視線を向ける。
機械音痴なお父さんは難しい顔のまま、ディスプレイとのにらめっこで忙しそうである。何をしているのかは、こちらからは伺えない。
そのまま視線を戻して、ふと、昔の事をぼうっと思い出す。
昔はどんな食事をしていたかな。
少なくとも、こんな風ではなかったはず。
姫も今みたいじゃなかったし。
……お父さんは、あまり変わらないけれど。
そう。変わらない。
昔から、お父さんはあまり私に喋らない人だった。
さっきのように、当たり障り無い会話ばかりな気がする。
どちらかと言えば私の方も、そんなに会話上手ではないので、ぼんやりと私はお父さんに似たのかなあなんて思っていたけれど、中学のある時に、それを否定したくなった。というより、否定せざるをえなくなったのだ。
会話下手は似ていても、それ以外は絶対に似ていないと、思うようになった。
姫にとっては、ちょうど今のお仕事を初めたばかりの時だったと思う。
怒鳴り合いの喧嘩が起こった。
別に今まで一度も喧嘩した事が無い訳でもなかったけれど、その喧嘩がかなり酷かったのでよく覚えている。
いや、よく覚えていない。
ひたすらに怒鳴り合っていたという印象だけが強く記憶に残って、内容がどうだったとかは詳しく覚えていない。
ただ、お父さんがあんなに怒鳴るのを初めて見た。
そして。
姫が強く言い返したのも、初めて見た。
今までの喧嘩との違いはそこだ。姫が言い返すなんて事は、これまでには一度だってなかった。何か言ったとしても、それは言い返すなんてものじゃあなく、そっと確認するような、おそるおそる訂正するような、そんな言葉を放つくらいだ。
その大きな喧嘩の中、私は怖くてその場から逃げ出したかったけれど、身体が錆び付いたように動かなくて、ただただその場にいた。
思考は何故かぼんやりしていて、あんな風にお父さんから怒鳴られた事も無ければ、強く怒られた事も無いな、なんて考えていた。
そのとき、あれ、と思ったのだ。
あれ、私は、お父さんに、相手にされていないのかな、と。
数年経った今なら核心を持って言える。
お父さんは、姫以外の人間に心を開いていない。
考えてみればすぐに分かる事だった。
洋服の準備も、仕事の愚痴も、何処かへ出かけるのもトイレに入っていてもお風呂に入っていても姫が体調を崩した時でさえ、何をするにも阿月、阿月、と呼びつけ、言いつけ、姫は黙ってそれに従う。楽しい事も嫌な事も全部お父さんは姫に報告する。
本当の怒りや愚痴っぽい態度や心底楽しそうな笑顔をお父さんが私に向けた事は、ただの一度でもあったのだろうか。
私は無表情だけをよく知っていて、笑顔や怖い顔は、横顔しか見た事が無い。
それに気付いてしまってから、お父さんに苦手意識をもつようになった。まるで他人のような上辺だけの優しい言葉に、人の家の子をたしなめるような注意に、どういう風に返事をしたら良いのかわからなくなった。
話がそれたけれど、その大きな喧嘩は大きな変化をつれてきた。
姫。
姫が「姫」になったのはその頃からだ。
突然、口調が変になった。
昔は普通だった口調が、丁寧というか慇懃無礼というか、妙な敬語を使うようになり始めた。それはお父さんに対してもだ。
私とお父さんは混乱した。
何かの病気かと思って心療内科に連れて行く事も考えた。
しかし本人にそれを伝えると「どこか私がおかしいですか? 何か迷惑を、かけましたか? 私は、一応、これでも普通です、健康です」と答えたので、何も言えなくなってしまった。
そしていつからか私は姫を「姫」と自然に呼ぶようになり、姫もそれを受け入れたのだった。
「食べ終わったのなら、片付けなさい」
「……!」
目の前の食器が全部空になっていたのと、お父さんの声にびっくりした。
大好きなジェノベーゼも、姫のみそ汁も、捨ててしまったような気分だ。
4、公園に咲いた馬鹿話
「 どうして ですか!」
「 ! いつ そんなこと !」
「 そう ないですか!」
5月3日。
次の日のこと。
昨日は結局、みことに話も聞いてしまったしドラマも見ずに、済ませる事を済ませて、ぱたりと寝てしまった。
そして今、好きな雨音を時折大きな怒鳴り声がかき消す最悪な朝を迎えた。
薄暗いどんよりとした朝の空気の中、のろのろと起き上がって携帯電話を確認する。
11時56分、メール一件。
……とっくに朝ではなかった。
『おっすー
あか、あかー
ゴールデンウィークの課題の数学のプリントやった?
なんなのあれ! 全然分かんないんだけど!』
止まない声や音の中、目をこすりながら眩しい画面と向き合う。
みことのメールは顔文字や絵文字が踊っていて、寝起きの私には目の毒だった。
『こちらまだしてない
どこがわからないの?
都合合えば一緒にやらない?』
と、メールを打って携帯をベッドにぽんと置いた瞬間、返信を知らせるバイブレーション。
……みこと、打つの早すぎじゃないかな?
『今日! 今! ね、今は暇? 今日はどうかな?
ご飯は食べた? 一緒に食べる? どっちの家に行く? 図書館行く?
問1からわかんないよ~』
さっきの倍は派手なメールが来る。
質問攻めで、最後の絵文字は怒りマークが、たくさん。
『今日、いいよ
図書館は雨だから、遠いしやめておこうかな
うちは今日、無理だと思う
みことの家はどうかな?
大丈夫?
ごめんね
ご飯は何処かで適当に買おうかな』
『あたしん家?
良いよ良いよ良いよー!
ご飯はおかあが作ってくれるよ!
あーでもお菓子が欲しい……
それはどっかで買おうか!』
相変わらず返信が早い。
『ええ、悪いよ
ありがとう、気持ちだけいただいておく
準備できたら一応また連絡するね』
『あか、もう作り始めてる(おかあがね)
早くおいでよ、きっとおいしいよ!
待ってるね!』
+++
正直、助かった。
最近頻繁になってきつつある怒鳴り合いは聞いていて気持ちのよい物じゃあないし、かといって何処かへ出かける気力もないので、だいたいいつもは自室に籠りきりになってしまう。
「いらっしゃいませー」
どうして愛し合ったはずの二人は、ああも大きな声でお互いを否定し合えるのだろうか。いつ、歯車は狂って行くのだろうか。
やがて訪れるかもしれない誰かとの別れ、大きな決別というものを恐れている私は、もしかしたら単純に、姫とお父さんの確執を埋めたいだけなのかもしれないな、と思った。
「ファミマできないかなー」
「ちょっとみこと、ここセブンだよ、声大きいよ」
手慣れたようにカゴをとるみこと。
「だってさー、スッウィーツとか、お菓子とか、あっちのが好きなんだもん」
雨だからなのか、それともここが市街地から離れているからなのか、昼過ぎのコンビニは貸し切り状態だった。
「おっ見てみて! この大福すごいよ! チョコといちごと抹茶と小豆でこんなに安い!」
「……みこと、勉強会に大福は、どうかな。もっとこう、手が汚れにくくてつまみやすいのにしようよ。あめ玉とかさ」
「あめちゃんもいいけど! 大福は食後のデザートに最適だと思われる!」
あれから私はすぐに支度をして、一応ひとこと二人に声をかけてそそくさと家を出た。その後はみことの家でご飯をごちそうになって、そのままおやつを買いに最寄りのコンビニへ来たところだ。
私の家、浜文具店、公園、そしてこのコンビニは全て徒歩十分圏内なので、何処もついつい立ち寄ってしまう事が多い。
「まあ気持ちは分からなくもないけど、さ」
「わかるなら買おうよ! だいたい勉強するのにおやつは必要不可欠なのだよ何故ならば! 頭を動かすには糖分がいる! 嫌な勉強の為に手を動かすには糖分がいる! そもそも生きる為には」
「糖分?」
「……なんで言っちゃうのさー」
「え、あれ、ごめん」
「まーいいけどさー」
なんて言いながらいつの間にかカゴには大福が入っていた。
「い、いつの間に……」
「んーポテチ系は外せないよね。あとは家にも飲みのも多少はあるけど、好きなのがあれば買っちゃおう!」
「うん」
店内を私たちは、一体何周するのだろうか。
「見てみて! このペン!」
「お」
「ウチの方が安い」
「だからみこと、声大きい」
でも本当だ、安い。
「ウチは結構、なんでもそろってるからね」
「ね。いつも思うけれど、いいなあ文具店が自分の家だなんて。好きなもの使い放題じゃない」
「使い放題でもないよー。ほら、あかが欲しいって言ってたあのメーカー……名前なんだっけ」
カランダッシュ。姫が一本そのボールペンを愛用していて、私も使わせてもらった事がある。ブルーのデザインがとても可愛くて、一度だけねだったけれどダメって言われたっけ。
それにしても、みことより私の方が文具に詳しいなんて、妙な話だった。
「そうそうそれ! ああ言うガラスケースに入ったやつはあたしも触った事無いや」
「そうなの?」
「うん。ていうかあか、これ言わなかったっけ? あたしの文房具、全部お小遣いで買ってるんだよ」
「!」
「おとうがその辺厳しくてさー。そりゃあ少しは安くで買えるけど、消しゴム一つでもちゃんとお金取られるのだよ」
「そうなんだ……みことのお父さん、厳しそうだもんね」
「うん。寡黙で昔気質。その分おかあがうるさいけどね」
「ふふ、みことはお母さん似ってことだね」
「あ! それはどういう意味かなあ?」
やっぱりみことといるとなんだか落ち着くなあ。
人によって態度を変える人がいるというけれど、あれはもしかすると逆なんじゃないかと思ってしまう。相手の雰囲気に影響される事もあるだろうし、逆にこの人の前ではこういう自分でありたいという無意識が自分を変える。そんな事もあるんじゃないかなと思う。
少し話は変わるけれど、私とみことは、クラスが違う。
放課後、掃除当番で一緒になったことがあって、その時は年に一度の屋上の掃除だった。一人で掃除する私に突然話しかけてきたのがみことだった。第一声が「あれれれ? うちの常連さんじゃん! あのよく、綺麗なお姉さんとくる人だよね?」だったのを今もよく覚えている。さらにみことは「初めて見た時はウチの店だったけど、なんて言うか初めて会った気がしなかったんだよね、親近感沸きまくり。店番の時はおとうに客とあまり喋るなって言われてるんだけど、それ言われてなかったら話しかけてたね。良かった、こうして話せて」なんて言っていたけれど、とうの私は店員さんの顔なんて気にした事が無かったし、立て板に水で話を次から次にころころと変えるみことに全然ついて行けなかった。
「悩んでいますねえ」
「え?」
なんて考え事をしていたら、急にみことに話しかけられる。
気付けば飲み物の棚の前で座り込んでいた。
「……あ、うん、飲み物どうしようかなって」
「どれにするー?」
実際に飲み物の事を考えていた訳ではないので、またぼうっと飲み物の棚のガラスに映るみことを見てしまった。
「およ?」
ガラス越しに目が合ってしまった。
「悩んでいますねえ」
「え?」
――顔を見ればわかるのだよ、これが。さてはまた姫さんとおじさん、喧嘩したな? というみことの言葉が、耳を通り抜けた。
+++
「ありがとうございますー。またお越し下さいー」
私たち以外の傘が、傘立てにはささっている。なんだかその光景が少しだけ寂しげに映った。
「やっぱりそうだったかー」
青い傘をさしながらみことはそう言った。
「うん。まあいつもの事だから慣れちゃったけどね」
言いながら私も、赤い小さな傘を開く。
「それはどうかな。あかはきっと慣れてなんかいないよ。むしろ慣れちゃダメでしょう」
「……そうだね」
「ウチは喧嘩したらおかあ凄いもんなー。おとうは何も言い返せないからすぐ喧嘩が終わっちゃうし」
「はは、なんだか想像できちゃいそう」
赤信号で止まる。
「なんだろーね、どうして喧嘩するんだろうね」
「そうだよね。どうして……うまく噛み合ないのかな?」
「うん、そうだね。言葉じゃ伝えきれないところに、お二人の噛み合ない部分があるのかも」
言葉じゃ伝えきれないところ、か。
いったいそれは何処にあるのだろうか。
「何処にあるんだろうね、その、言葉じゃ伝えられないところって」
「うーんわからないなー。自分で言っておいて。なんかあたし恥ずかしい事言っちゃった!?」
ははー、と笑うみこと。
信号が青になる。
「そんなことないよ。でもあれかな、だから姫は絵を描くのかな」
「どういうこと?」
「お父さんとの確執とかそういう話じゃないにしても、言葉じゃ伝えられないところってあると思う。そういうところを、姫は絵で描きたい、のかな、なんて……」
自分で言っていて、なんだかわかったような事を言ってしまっている事に気付く。恥ずかしくて顔が熱くなって来てしまった。しかしみことは
「おお! そうだね! 多分そうだよ!」
と言ってくれたから良かった。
「……姫の作品、もう一回全部見なおしてみたくなってきたな」
「ん? なーになーに? なんだって?」
小声だったので、聞こえなかったようだ。
「うんん。何でもない。ねえみこと、ちょっといつもの公園寄っていいかな?」
「ん? なんで? ま、別にいいけど。いいよいいよー! あ、ちょっとだけお菓子も食べちゃう?」
「いいね」
「よっし! そーしよ!」
二人とも、歩くスピードが少しだけ早くなった。
傘にあたる雨粒が景色を逆さまにしながら落ちて行く。
そんな光景が確かに目に映った気がして、この一瞬が思い出として切り取られた気がして、私は少し嬉しい気持ちになった。
みこととの時間はいつどの部分どの一瞬を思い出しても楽しいと思う。
「よっし! 誰もいない!」
そうこうしているうちに、公園に着いた。
そのまま東屋の中に入って、二人で傘を閉じる。
草葉の湿った匂いがした。
「……人間ってさー、顔を大事にするようにできてるのかな」
「え、どうしたの急に」
ベンチに腰掛けて、コンビニ袋をあさりながら喋るみこと。
「いやあ、あのさあ、傘さしても足とかめっちゃ濡れるじゃん? 意味無いよ!」
「まあ、確かに。でも無意味ってことは無いと思うけれど……」
「うーん。でもさでもさ、雨から守ってくれるのなんて頭くらいじゃん。だからあたしは、豪雨のある日に傘を閉じてみたんだよ」
それこそ無意味だと思うけれど。
「そしたらね、顔がものすっごく不愉快だった」
「あらら」
私の親友は何がしたいんだろう。
「いやね、頭はまだ我慢できるんだよ。でも顔がね……。大きな雨粒がぼとぼと当たる不快感ったらなかったね。ほい、あめちゃん」
「ありがとう………そうなんだ。でも私は、小さい頃に傘を忘れて雨に打たれた時は、なんだか、何かが吹っ切れて気持ちよかったけれどなあ」
「本当?」
「うん」
「本当に本当?」
「うん」
「本当と書い……」
「マジ」
「……あかってさー、たまにキャラに似合わず食い気味でレスポンス飛ばすよねー」
「え、あ、ごめん」
「まーいいけどさー。しっかし、なんか吹っ切れて気持ちよかったのかー」
「うん」
「つまり私は吹っ切れていない? その何かとは何だ? あれれ、なんか凄く気になって来たよあか!! よし、もう一度やってみる! 今!」
「いやいや、いいよ! 単純に人それぞれって話だと思うし!」
慌てて立ち上がったみことを止める。
「………そうかー。人それぞれかー。人それぞれ。はは、あたしとあかって、前は結構似てると思っていたけど、結構違うよねー」
「ふふ、なにそれ」
どっちなのだろう。
「……話が戻っちゃうけどあれかな、姫さんもおじさんもそんな感じなのかな。同じだけど違う。そんで、その違う部分がこう、諍いのもとになってしまうというか……」
「うーん、どうだろう。私から見てあの二人は、全然違う気がする。あんまり似てない同士って感じがするかな」
「へえ、そうなんだ。そう言えばあたしはほとんど姫さんしか知らないけど、姫さんに似ている人を知らないかもしれないや」
みことは『姫』になる前の姫の性格を知らないわけだし。
「そうだね、私も知らない」
「あ、でもあか、顔は姫さんそっくり! まあ当たり前だけど」
「ふふ、よく言われる」
「お二人が喧嘩をしてる時にこんな事言うのもあれなんだけどさ、姫さんもおじさんもすっごい綺麗だしイケメンだよね。羨ましい」
「ありがとう。二人の容姿が良いのは、ちょっと私もそう思う」
「ねー。そりゃああかも可愛いわけだよ」
「そんなことないよ」
「あーるーよー!」
「ないない」
「このう、モテるクセに」
「男子に好かれるのはみことの方でしょ。可愛いし、性格は……まあこんなだけれど」
「けなしてるの! 褒めてるの! けなしてるな!」
「褒めてる褒めてる」
「本当かな……」
膝を抱えていじけるみこと。
風の噂でしか聞いた事が無いけれど、みことは結構モテるらしい。
「あーなんか勉強面倒になってきたー。 あか、このままどっか行って遊ばない?」
「……ちょっと魅力的な提案だけど、止めとく」
「えーなんでさー。……あれ、そもそもなんで公園に来たんだっけ?」
「ああ、ちょっとね」
「え、何? 何?」
「ちょっと、花を見に」
「んん?」
雨に打たれながらも、あの花は凛と咲いていた。
それから私達はみことの家に行って、数学の課題の問1から頭を抱えるのだった。
5、浜文具店の岩絵の具
「お邪魔しました」
「おー、またね」
「うん」
みことの家の玄関は浜文具店出入り口の裏手にあるらしい。いつもみことは店内を突っ切って、店の奥に手書きで書いてある『関係者以外立ち入り禁止』の戸から家に入るので、みことに付いて行く私は、玄関を見た事が無いのだった。
つまり、店の出入り口での会話だった。
「雨止まないねー」
「うん」
「……そろそろ混みだすかなー」
「そうなの?」
「うん。今日土曜だし。週末はだいだい6時前後から混みだすかな。ま、雨だからわからないけどね。………店番、めんどいな」
「今日もするの?」
「お客さんの数次第かなー」
「そっか」
店内にはすでに、何人かのお客さんがいた。
時刻は5時を過ぎた頃だった。
「しっかしあれだ、プリント進んでよかった」
「うん、本当に。最初はどうなるかと思ったね」
「ほんとほんと。まあでもなんとかなるもんだねー」
「みことのお母さん様々だね」
結局何も分からなかった私達は、みことのお母さんを頼ったのだった。
「……おかあって頭悪そうなのに凄く良いから腹立つ」
「腹立つって」
「そしてあかは頭良さそうなのに私と同じレベルだよね」
返答に困る言葉だった。
私とみことははっきり言って、頭が悪い。分かりやすく言うのなら、平均点やや下、苦手科目は赤点ギリギリだ。
「私って頭良さそうかな?」
「良さそうだよー めちゃくちゃ良いっぽいよー」
「もどきだと言うのを強調しないでよ」
さすがに苦笑いだった。
「だってさー? 今はそこまで思わないけど、始めの頃は無口だったしー、容姿は綺麗だし、筆箱は皮の良いヤツつかってるし、休み時間は本読んでるし!」
みことの言う通りの人間がいたとして、確かに頭は良さそうだった。
「私、本なんか読んでたっけ?」
「あれ? 読んでなかったっけ?」
「適当だなあ」
「いやいや、読んでたよ! 記憶あるもん!」
ああ、あの本の事かな。
「色見本のやつかな?」
「え、それを見てたの?」
「うん、一時期はまって見てた。色んな色に名前がついてて、素敵だなって」
「へえ、そうなんだー」
……浜文具店で買ったのだけれど、みことはその存在自体知らないようだった。
「あ! そうだ、そうだった! ねね、あかはさ、何色が好きなの?」
「……うーん」
いつも思うのだけれど、私は自分が何色が好きなのかわからない。
何かの色が好きかどうか聞かれたら、例えば洋服だとか、小物だとか、そういうものの色を聞かれたら答えられるけれど、好きな色、というのがどうしてもぴんと来なかった。
「…………赤、かな」
結局、適当に答えてしまった。
「おお! やっぱり? そっかそっかー思い出してよかった! ちょっと待っててね、良いものがあるんだよ」
「?」
そう言い残してみことは店内に戻って行った。
何だろうと思っていると、すぐに戻って来た。
「あげる!」
みことの手には小さめの瓶が二つ、握られていた。
ひとつは綺麗な赤い粉末の入った、化粧品のような瓶。
ひとつは半透明の液体が入った、調味料みだいな瓶。
「岩絵の具って知ってる?」
「ごめん、知らない」
「知らない? 知らないの? へっへーじゃあ説明してあげよう!」
得意げだった。
「この赤いのね、天然の絵の具なんだー。さっきも言ったけど、岩絵の具って言うの。んで、こっちの液体は膠液」
「にかわえき?」
「うん、そう。この粉末に膠液を混ぜて、指で練ってあげると絵の具になるんだよ。実際使うとなるとクセがあるらしいけど、とっても綺麗だよ」
「そうなんだ……本当に、綺麗」
雨の中でもこの瓶は輝いて見えた。
「あかが使っても良いし、姫さんにあげても良いよ。お店の整理を手伝ったらね、あたしが見つけたんだ。それで、あかにあげたいって言ったら、くれた!」
「え、悪いよそんな……」
「うんん、いいのいいの。ほら、うちって何でもサンプル置きたがるでしょ? それでおとうが岩絵の具もサンプルを作ろうと思ったらしいんだけど、おかあが反対してさ」
「反対したの? どうして?」
「あー……うーん……、ま、ぶっちゃけ普通の絵の具より高いのだよ」
なるほど。
「でも、それなら尚更悪いよ」
「うんん、大丈夫。これはね、おとうが勝手に作ったサンプルの余りの寄せ集めでさ、もう売り物にならないんだよ。だから、処分に困ってたって」
「……そうなの?」
「そうなの。だから、もらっちゃって」
「………ありがとう。姫にも少し、あげようかな」
「おお、いいねえ。何かに使ってほしい!」
「そうだね。もし使った時は教えるね」
「よろしく!」
「あ、そうだ、みことのお父さんに御礼を言ってくるよ」
確かカウンターにいたはずだ。
「あ! 待った、あか。良いよそれは。伝言預かってるのすっかり忘れてた」
「伝言?」
「うん」
――これからも浜文具店を、ごひいきに。
+++
貰った岩絵の具を見つめていた。
何時間か前に来た公園の東屋で、ぼうっと時間を過ごしていた。
みことは、相変わらず優しい。きっと私が家に帰り辛いのを察して、最後に店番ギリギリまでお話をしてくれたのだろう。そうじゃなくても、私は嬉しかった。
「綺麗だな」
耳元でさらさらと音をたてる絵の具は、私の心をつかんで離さない。
これを絵の具にして、姫に何か描いてもらったらどんなに素敵だろうか。そんな風に思う。
「……帰りたくないな」
そう。
大好きな雨の景色も、あの怒鳴り声を思い出すとなんだかどんよりして見える。
みことと一緒にいる時間は嫌な事全部忘れられたのにな。
やっぱり、こんなに小さな「別れ」でも私には辛いのかもしれない。
「なんで、うまくいかないの」
なんで、うまくいかないのかな。
それでも、帰らなくちゃいけない。
「帰らなきゃ」
傘をさしながら、最近、独り言が増えたかもしれないと思った。
東屋を出ると傘を叩く雨音の大きさに少しびっくりする。
でもやっぱりこの音は、嫌いじゃない。それにこの風景も。なんだか、そう、異世界にでも来てしまったかのようにがらりと変わる風景の色、雰囲気が好きだ。
そしてこの音は、なんだか私の心を静かにしてくれる気がする。
そんな事を考えながら歩いているとすぐアパートの駐車場についてしまった。まあそこからそこなので当たり前なのだけれど。
「……あれ? お父さん、出かけたのかな」
車が無かった。
そういえば私は雨の日のドライブも好きだ。
雨音が聞こえる車の中、走り抜けて行く風景。窓を開けるといつもお父さんが短く閉めなさいと怒るのを思い出す。
家の下、階段について深呼吸。
うん、やっぱりこの匂いが好き。コンクリートの湿った匂いなのだろうか。よくわからないけれど、落ち着くのだ。
傘を閉じて一歩一歩階段を登りながら、ふと、お父さんが出掛けているという事は、あの怒鳴り声が今日はもう聞こえなさそうだという事に気付く。それだけで私の心は少し穏やかになった。
「そうだよね。少し気持ちを切り替えて行こう」
階段を登る。
見えない何かに足を重くさせられても、一歩一歩。
そうだ、雨の音を聞こう。
風の音に耳をすまそう。
今日は大好きな雨の日だ。
大好きな匂いに包まれる日だ。
そうしてゆっくりと家の前に辿り着き。
少しだけためらいながら鍵を差し。
玄関を開けて時間を確認して。
靴を脱いで家に入り。
戸を開けなんとなくいつもと違う雰囲気の部屋に行って。
私は。
あの白いメモ帳を。
端の破れたメモ帳を。
浜文具店が描かれたメモ帳を。
家が描かれたメモ帳を。
家出をしますと書かれたメモ帳を。
帰らないよと書かれた置き手紙を見つけるのだった。
6、あかストラップと姫の意図
「え?」
五月三日。
なにもかも真っ白だった。
白い壁に白い灯り。白い置き手紙に真っ白な頭の中。
空白の駐車場に空っぽのアトリエ。
まるで余白のようにこの家はぽつんと在る気がした。
「……姫? お父さん?」
わけもわからず、姫に電話する。
電源が入っていないのか、繋がらない。
不安が今にも溢れ出しそうな私は、みことに電話する。
三十秒程コールしたが、出なかった。当たり前だ、でも私はみことが浜文具店の店番をしている最中であろうことすら、その時は思い当たらなかった。
妙に落ち着いた心と、冷たい不安がゆっくりと、しかし追いつめるように心をどんどん空にしていく。
ただただ雨の音が響く家の中で私は、一番恐れていた事が起こった事を自覚した。
――別れ、である。
姫の気まぐれで明日には帰ってくるかもしれない小さな小さな家出だったとしても、私にとって少なくとも今は、大きな、大きすぎる不安で、悲しみで、喪失で、そして別れだ。
「姫え……」
雨音が攫いかき消したその声は、姫に届く事はない。
ぺたりと床に座り込んで、動けなくなってしまった。
「おとう、さん」
その声も届かなかった。
そこではっと思い出し、お父さんに電話をかけてみるも、出る気配はない。
お父さんは姫を、探しに行っているのかな……。
これから私はお父さんと二人でこの家に暮らすのかな。そしてそれは、痛い程辛いと思った。
これが、別れというものなのだろうか。
あまりにも唐突で、こんなにも一方的で、こんなにも自分勝手で、こちらの都合なんておかまい無しだ。
そういえば今まで経験してきた『別れ』というものも、そうだったかもしれない。
クラス替えだって、卒業だって、お気に入りのペンだって、消しゴムだって、着られなくなった洋服だって、イヤリングだって、大事にし過ぎてぼろぼろになって結局なくしてしまったあの赤い花のモチーフのストラップだって――。
いつかその時が来るとわかっていてもいなくても、その時が来てしまえば、やっぱり唐突に感じた。一方的に感じた。自分勝手に思った。こちらの都合なんか、おかまい無しだった。
何故、私の側から離れていってしまうのだろうか。私がそういう不運を持ち合わせているのだろうか。
このままお父さんもいなくなって、みこととも離ればなれになってしまったら、もう私は生きていく自信が無い。
気がつくと、床に置いた携帯の上にぽたぽたと涙を落としていて、他に頭を使う事はたくさんあるはずなのに「このままじゃ携帯、壊れちゃうな」なんて思ったその時だった。
「!」
一気に意識が現実に引き戻される。
携帯電話の液晶画面が眩しい光放っていて、みことからの着信を訴えている。
電話を受け取るという簡単な操作がうまくいかなくて、何回目かの着信音でやっと電話に出る。
「おっすー。どったの、あかー。電話なんて珍しいじゃん。いつもメールばっかで、たまの電話はほぼ確実にあたしからするもんねー。そういえば聞いてよ、今日店番してたらさあ、いつも来る例の……」
「みことぉ……」
「おっとごめん。あれれ? どうした?」
「――」
家中に私の声が、降り続く雨のように響いた。
+++
どうやら私は一時間以上、家のリビングのあの場所に座り込んでいたらしい。
みことからの電話は、浜文具店が七時に閉店してすぐかかってきたようだった。
「だいじょぶ? 落ち着いた?」
私が何を言っているのかわからなかったみことは(ちなみに自分でも何を言ったかなんて覚えていないけれど)会って話そう、と言ってくれて、今は公園にいる。今日は私にとって三度目で、みことにとっては二度目であろうあの東屋のベンチだ。
雨はいつの間にかやんでいて、虫の声がよく聞こえる。
「………うん」
「大変だったね。いや、違うね。大変なのは、今もだね……」
おおよその流れは、もう話した後だった。
みことと会ってすぐ私は、怒鳴り声で目覚めた事から帰った後の事まで一つ一つを話した。
一つ一つとは、途中から言えなかったけれど。
また泣いてしまって、姫と会えなくなる不安をぶちまけて、お父さんも帰ってこなくなるかもしれない不安を垂れ流し、みことと離れたくないと懇願した。
怒鳴るように喚いて、時に聞こえないくらいの小声で話し、無言で泣き始め、そしてようやく事の次第を話終えた。
みことは、聞き上手だと思う。
普段は喋ってばかりでうるさいくらいなのに、こういう時はしっかりと聞いてくれて、聞き漏らした時は聞き返してくれて、理解しようとしてくれた。
ふう、と、ひとつ息をついて、私は気持ちを落ち着かせる。
「ごめん、泣いちゃって」
いくら休日とはいえ、こんな時間に、しかも店番をしたあとに話を聞いてくれているみことにも、やっと気が回るようになって来た。
「謝る事なんて無い無い。私も同じ状況なら、あかと同じ。泣くね」
その一言でまたぐらぐらと気持ちが揺れて涙腺が震えだしそうになるけれど、ぐっと堪える。かろうじて声に出せた「ありがとう」は、届いたのだろうか。
「ねね。姫はさ、置き手紙を置いて行ってくれたんだよね」
「うん」
足の上に置いた手をぐっと握る。
何故か持って来てしまった姫からの置き手紙が、ポケットの中でわずかに音をたてた気がした。
「それってさ、私にも見せてもらってもいいかな? いつでも、いいからさ」
「持って来てるよ」
「持って来てるの? そっかそっか。あのね、なんで見せてほしいのかって言うと」
「……うん?」
「姫さんの事だから……なんて、知ったような事を言ってごめんね。えとえと……あのさ、あかが持ってる家の鍵のストラップあるよね」
「うん」
「その話をした時の事覚えてる?」
「え? うん」
昔、みこととそんな話をした記憶があった。みことと一緒に過ごすようになって間もなくの事だったと思う。
私が何気なく鞄から出した例のストラップに、みことが食いついて来たのだ。
『おお! 可愛い! それいいなあ……。何処で買った?』
『姫が、作ってくれたの』
『え、マジで? 姫さんって、手芸もできるんだ……』
『うん』
『ほー……売り物みたい。なんて名前の花なの?』
『これは、実在しない花なんだって』
『そうなの? これだけ綺麗に出来てるから、こういう花があるのかと思ったよ』
『私も、知らなかったのだけれど』
『うん?』
『花びらが、赤いでしょ?』
『うんうん』
『で、この……真ん中の部分が、少し茶色っぽい黄色でしょ?』
『うんうん!』
『この真ん中の色ね、桑染め色って言うんだ』
『おおおお! 桑染あかだ!』
『うん。なんだか恥ずかしいけど、姫が私の花だって言ってくれたの』
というやりとりだったと思う。
「あれをあたしは思い出したんだ」
今、その話が関係あるだろうか、と思いながらうなずく。
「姫さんはさ、作品にたいして、何か意図を込めるんじゃないのかな」
それが例え、置き手紙だったとしても。というみことの言葉を聞き終わる前に私はポケットの置き手紙を取り出す。くしゃくしゃになってしまったその手紙を、必死で綺麗に伸ばす。
そして、まじまじと二人でその手紙を覗き込む。
「あか。あのさ」
「うん」
暗くてよく見えなかった。
「あーっと……なんてかいてあったんだっけ」
「家出をしますって、書いてあって、その下に私の家とみことの家がイラストで書いてあった」
「ウチが描いてあったの!?」
そこは伝え忘れていたようだ。
確かに、考えてみるとおかしい。
何故、姫はこの置き手紙に浜文具店のイラストを描いたのだろうか。
「もしかして、さ。みこと」
「なになに? なんか思いついたの?」
「姫は浜文具店にいるの?」
「いないよ! あ、でもちょっと待ってね」
そう言って電話をかけるみこと。
「あーもう、早く…………………もしもし! おとう? あのさ、今日姫さん来なかった? うん、そう。あかの家の。…………あー、今そんなの関係ないじゃん! 姫さんだよ、姫さん! え? ……そっか。わかった。それだけ。うん、了解。それじゃ」
どうやら、浜文具店に姫が来ていなかったか確認したようだった。
「お待たせ、あか。もしかしたらウチに寄ってないかなーと思ったけど、違ったみたいだ」
「そっか。うんん、ありがとう」
私は全然そこまで頭が回らなかった。
「うーん、しかしわっかんないなー……。じゃああれかな、姫さん、定期的にウチに来てるから、またお店には顔をだすよ、的な……」
「うーん……」
そもそも本当に、この置き手紙に何か意図が込められているのかどうかも不安になってきてしまった。
「……ごめん、余計な事を言っちゃったかな」
「そんな事無いよ。なんだか、少し気持ちが落ち着いたから」
「そっか、なら良かったけど……もしさ、あかがお父さんと二人で気まずい時はウチに泊りにおいでよ。あかならいつでも大歓迎だからさ」
「本当?」
「本当。大丈夫だよ、さっきも言ったけどさ」
あたしはあかが望む限り、ずっと一緒でずっと友達なんだから。
みことは笑顔でそんな風に言ってくれた。
その言葉に私は、溺れてしまいそうだ。
そして私は、改めて思う。
自分自身の中にある、この『別れ』に対する感情と、向き合わなくてはいけないと。
と、そこで。
「うお、びっくりした。あかの携帯だね」
お父さんからの着信が入った。
すぐさま電話をつなげる。
「今、何処だ?」
この人は何を言っているのだろうかと思った。
それはこちらの台詞で、娘をほったらかしにして連絡の一つも残さずに何処かへ言ってしまう父親の台詞ではないはずだ。
「お、お父さんこそ!」
思わず大きい声が喉をついた。
「……すまない。阿月があんな妙な手紙を置いていったから……探してみたんだが」
見つからなかった、という声は、心無しか震えているように聞こえる。
「………」
「もう遅い時間だ。帰って来なさい」
「………」
「少し、話をしよう」
「…………はい」
気持ちの悪いものが渦巻く胸の中を吐き出すように、息を吐き、電話を切る。
その後も心配してくれて、優しい言葉をかけてくれたみことにたくさんの御礼を言って別れ、また空っぽになりそうな心のまま、私は家に帰る。
黙って遅くまで連絡をよこさなかったお父さんに何か一言言おうかと思ったけれど、あのぼんやりとした灯りの中、食卓の椅子に崩れそうになりながら座っているお父さんを見つけるともう何も言う気にはなれなかった。
7、相槌一つで火事の元
「……おかえり」
「ただいま」
「置き手紙は、お前が持っているのか」
「うん、持ってる」
「そうか」
「…………」
「お前も、探してみたのか」
「……うんん。気が動転してたからそこまで頭が回らなかった」
「そうか」
「うん」
「連絡は何も無いか」
「うん、何も。繋がらなかった。お父さんは?」
「……何も、ない。俺もだ」
「…………」
「…………」
「何処に行ってたの?」
「……何処へ行ったか……阿月の行きそうな場所、阿月と行ったこのある場所……まあ、色々と探してみたが……駄目だった」
「……そっか」
「ああ」
「………今朝は姫もお父さんも家にいたみたいだけど」
「俺が、家を出た。お前が出た後すぐまた言い合いになって、昼過ぎには」
「そっか」
「………夕方には阿月も落ち着くだろうと思った………帰ったらもう、もぬけの殻だった」
「………………」
「………………」
「これから、どうする?」
「……どういう意味だ」
「えと………姫がいない、から」
「探すしか無いだろう!」
「――」
「ああ……何を考えているんだあいつは……。ふざけているにも程がある。今朝だって言うに事欠いて……こちらの気も知らないで。あかだって可哀想に……」
私、だって、可哀想に?
「……………ねえ」
「なんだ」
「姫の気持ち、考えた事ある?」
「……何を言っている」
「お父さんは、人の気持ちを考えた事があるの! 阿月は阿月はって、思い通りにいかないから苛立っているんじゃないの? 姫の気持ち、考えた事はあるの!」
「いつだって考えている!」
「じゃあどうして喧嘩ばかりしているの?」
「それは阿月が!」
「ほら! そうやってすぐ人のせい! 何故姫が怒るのか考えた事はないの!」
「………っ!」
「阿月、阿月、阿月阿月ってまるで家来か何かみたいにこき使って、姫の絵もろくに見ないで! 姫に愚痴を、聞いてもらってるお父さんは、姫の愚痴を、聞いてあげた事が、あるの? 当たり前みたいに……空気みたいに扱って、いなくなってまで、悪く言って……何処まで自分勝手を言うの!? どうして姫に優しく出来ないの?」
「……………や、優しくしているだろう! 優しくないのは阿月の方だ!」
「なら、どうして優しくないのか考えた事は無いの!?」
「!」
「……はあ……はあ。姫は、私に、優しいよ。いつだって優しい。それは、昔から、変わらない!」
「…………………………どうせ、俺が悪いのだろう」
「に、逃げないでよ!」
「……」
「ちゃんと、考えて! それが、姫の、気持ち、を、考える事、で、しょう」
「……」
「…………その後でいいから。その後で、いいから――」
私の気持ちも考えて、と、私は言葉にできただろうか。
散々怒鳴って泣いて頭に血が上って言葉を吐いて血の気が引いてまた血が上って、そうして気付くとその場から逃げ出していた。
そしてそのまま私は、自室のドアを強く閉め切って、そのまま布団に倒れる。
あとの事はもう覚えていない。
+++
五月四日。
なんだか、身体がだるい。
結局、一日中部屋から一歩もでなかった。
みことから、たくさん連絡が来ていたけれど、大丈夫としか言えなかった。
姫の携帯に連絡してみるも、電源を切っているようで繋がらなかった。
当然、姫からの連絡もない。
+++
五月五日。
早朝三時に空腹で目が覚める。
何か無いかと思ってリビングへ行くと、誰もいない食卓にウイスキーの空き瓶とコップが置いてあり、アルコールの臭いが充満していた。
お父さん、あまり飲めないくせに。
嫌な気持ちになって、一刻も早く自室にもどりたくなる。
賞味期限切れの食パンだけ部屋に持ち帰って一切れ食べる。
こんなときでさえ空腹を覚える自分の身体にうんざりした。
そのまま眠って早朝五時にまた目が覚めたけれどベッドから出る気力が無かった。
相変わらずみことから連絡がきている。
姫に何度か電話もしてみたが、やはり電源が入っていない。
姫からの連絡もない。
+++
「……お父さん」
同日、お昼過ぎ。
詳しい時間は覚えていない。
確か、それくらいだったと思う。
目が覚めるとまた空腹感が襲って来て、いい加減に気分を入れ替えたいと思い、ずっと入っていなかったお風呂に入って外着に着替えた後、リビングでの事。
「………ああ」
食卓テーブルの下、テレビの前の絨毯の上で、あぐらをかいて猫背になっている。
お父さんはやつれていた。
髭が伸びて目の下にくまを作っている。
「姫から連絡、あった?」
無言で首を振るお父さん。見逃してしまいそうなほど弱々しい否定だった。
「そっか。……私も、何もない」
なんだか、私はお父さんの見方がまた少し変わった。
それもそうだ、こんなお父さんは初めて見るのだから。
身なりはいつもきちんと整えていたし、私にうるさくしつけるだけあって、いつもピンと背筋の伸びた姿勢を崩さなかったし、何より姫以外の人間の前でこんな姿を見せた事が無いと思う。
不謹慎かもしれないけど、心の何処かで私は安堵を覚えた。
ああ、私はやっぱりこの人の家族なんだ、娘なんだなと思う事が出来た。
こんな姿をさらせるくらいには、私も近しく思われているのだな、と思った。
だからなのかそうじゃないのかはわからないけれど、私は思いきった事を口に出していて、あとから自分でも驚いた。
「……どういう意味だ?」
「えと、だから、私の事、嫌いなの? そのままの、意味だよ」
お父さんの表情はなんというか、あっけにとられたような、何故そんなことを聞くのかと言わんばかりのなんとも言いがたい表情をしている。
「……………」
「……………」
黙ってゆっくりと立ち上がって、食卓の椅子に座るお父さん。
倣って、私も同じように座る。
意識した訳ではないけれど、お互い、いつも座る定位置に座ってしまったので四角いテーブルの角と角、対角線になってしまった。
「お前が生まれてから、お前を嫌いだと思った事は、一度も無い」
「…………………………――」
急にそんな事を言われて、心臓がどきりとはねる。
呼吸が止まりそうだった。
その言葉が、ゆっくりと胸にしみ込んでいく中、うまく言えないけれど、こんな事を思った。
ああ、この人は。
お父さんは。
こんな風にしか生きられないのだろう、と。
私が別れを苦手とするように、お父さんは誰かに溺れる事で、誰かに完全にその身を預ける事でそれ以外の人間に普通に接する事が出来る人なのだろう、と。
依存、と言っても良いかもしれない。
誰かに全てを委ね預ける事でやっと一人前の人間になる事が出来る。
わたしのお父さんは、きっとそんな人なのだ。
「何故そんな事を聞くのかはわからんが、これは本当だ」
「…………うん」
「……どうか、したのか」
「ううん。あ、あのさ。この間は、どうして姫と喧嘩したの?」
「…………」
分かりやすく苦虫を噛んだような顔になる。
「あ、別に言いにくかったら良いよ」
「阿月が」
テーブルに視線を落としたまま、続けた。
「阿月が、俺の話を聞かなかったんだ」
「………………」
また。またそんな理由で……。
そんな風に思った。
姫とお父さんの喧嘩の原因は、いつだって原因が小さい。
どうやってそんな事で怒鳴り合えるのかが、私には理解できなかった。
「適当にうなずいて、ちんぷんかんぷんな相槌を打って、それで」
喧嘩になった。
そう言った。
きっと姫は単純に、また限界がきたのだろう。
過去に数回、姫の愚痴を私は聞いた事がある。
もう無理です。もう嫌です。理解しあえません。意味が通じません。意味がわかりません。疲れてしまいました。ごめんなさい。あか、ごめんなさい。こんな事をあかに言ってしまって、ごめんなさい。でも、もう無理です。
訥々と、こんな風に語っていた。
私はただうなずく事しか出来なかった。
私がもっと、ちゃんと姫の愚痴を聞いていれば、言葉に答える事が出来たのなら、今回のような事には繋がらなかったのだろうか。
「……そっか」
壁にかかっている時計を確認して、私は立ち上がる。
「何処か行くのか」
「うん、そのつもり。何かご飯、買ってこようか?」
「いや、いい。俺も出かける」
何かあったら連絡をいれてくれ、と言い残し、お父さんはリビングを出て行った。
私は、ここ最近ずっと鳴りっぱなしだった携帯電話を手に取って、みことに連絡をした。
8、姫が残したメッセージ
「このやろう」
ぎゅ。
「ちょ、ちょっと」
「……………」
いつもの公園に午後四時にみことと待ち合わせて、落ち合った。
少し早めについてしまったけれど、既にみことはそこにいて、ブランコにぽつんと座っていた。
そして、私が来た事に気付くなり、ずんずんと競歩のように歩いて来て、そのまま抱きつかれる。
「どうし……」
「どうしたのじゃないよう。心配したよう。そりゃあ自分でも、あたし連絡し過ぎじゃね? とか、メール長過ぎ? とか思ったけどさあ、それでも返信が『大丈夫』の一言って! 全っ然大丈夫じゃないし! まあ大丈夫なわけないけど! いやいやそれもわかってたけど! そもそも心配だってあたしが勝手にしちゃって勝手に膨らませただけだし! 全部全部わかってたんだけどわかってたつもりなんだけど……」
「…………ごめんね、心配かけて。ありがとう」
「いやいやいや、良いよ良いよ。本当に、勝手に心配しちゃっただけだからさ」
さらに力を込め抱きしめてくれるみこと。
その温もりはまるで家族のような温かさを帯びていた。
その温もりを感じながら私は、何処かで落として見つけられなかった、大切な大切な探し物がふと出て来たような、そんな気持ちになった。
ああ、こんなにも身近に、こんなにも温かいものがあったのだという気持ちになった。
「……ありがとう」
「うん。………姫さんからなんか、連絡あった?」
「………何も。メールの返信もないし、電話は電源切ってるみたいで繋がらない」
「そっか」
「ねえ、みこと」
「ん?」
別れって、なんだろうね。と、そう聞くとみとこは黙った。私も無言になる。
あんなに怖かった別れが、離れ離れが突然訪れて、家の中はぐちゃぐちゃになった気分で、みことにも心配かけて、そしてこうして、心配かけてごめんと謝って。
それでも確かに、姫という空白が胸にぽっかり空いてしまった穴のように存在し続けていて、私はまだそれに苦しめられている。
そもそもこんな話は何度目だろうか。
いつかこんな話をした時に、別れを覚悟して誰かと向き合うと言っていたみことは、私に今起こっているような状況に陥ったとき、本当に笑っていられるのだろうか。
「わからない。わからないけど、もしもあたしにとって大切な……例えばあかと、急に前ぶれなく離れ離れになったら、確実に泣くね。大泣きだよ。泣き叫んで泣きわめくと思う。だって、そんな覚悟はしていないし、したくないから。でもね、あたしは後悔はしないようにするよ。全力であかを探し当てて文句を言うね。それがあたしにとっての、覚悟なのかもしれない。つまり別れってのはあたしにとって、やっぱり覚悟が必要なもので、それくらい怖いものなんだと思う」
そしてあたしにとっての別れに対する覚悟は、また会うための覚悟で、二度と会えなくなるなんて覚悟なんかしないし、できない。そんな風にみことは言った。
私は。
私は果たして、そんな風な覚悟が出来るのだろうか。
ただ嫌がるだけ嫌がって、別れというものを全力で回避して生きて来たような私に。
「あか」
「……うん?」
「あかにとっての別れって、なにかな? 姫さんがいない現状、なにか変わったかな?」
私にとっての、別れ。
それは何か。
やっぱり嫌だ。嫌なものだ。どうしようもなく避けられないとしても嫌だ。覚悟なんてしたくない。避けて通れるのなら避けて通りたいところだ。
「私にとっては、うんん、きっと誰にとっても、避けられないもの、かな。でも、何をどうやっても避けて通れないなら、私はやっぱり私のままで、こうして泣こうと思う。泣き崩れて、こんな風にいっぱい周りに迷惑をかけようと思う。そしてその後は、今、みことが教えてくれたように――」
なんとしてでも探し出そう。
是が非でも探して、見つけて、会って、話をしよう。
納得いくまで話をしよう。
いや、納得なんてどうせできない。
出来ないのならば――
「私なりの覚悟を、してみるよ」
せめて痛みを小さく。
そんな、大きな別れを、小さくしてしまう方法が、なんとなくある気がした。
だからそうできるようにするのが、私の覚悟。
「……そっか」
「うん! ありがとう、みこと。私ね、やっぱり辛いけれど、でも確かに元気が出て来た。それは全部みことのお陰だよ。本当にありがとう」
「いやいやそんな事言われると照れくさいなあ。あたしはさ、あかが元気になってくれればそれでいいんだ」
「ふふ、ありがとう」
「おー、どういたしまして」
「少しは冷静になってきたから、姫に会えそうな手がかりをもう一度探してみる! 何かあったら、またみことを頼ると思うけど……良いかな」
「おー! まっかせといて! あたしに出来る事ならなんでもするよ!」
「ふふ、そっか。本当にありがとう。とりあえずさ、みこと」
「お、早速何かあるのかな? 何なになんだい? 話してごらんよ!」
「そろそろ離してくれないかな?」
「ん?」
私はここへ来てからずっと、みとこに抱きつかれっぱなしだった。
+++
ゴールデンウィークだけあって、浜文具店は盛況だったらしい。
公園で色々と真面目に話をしていた私達はその後、思いのほか時間が経っていた事に気付いてお互い帰途についた。なんでもみことは、店番を頼まれていた時間がギリギリまで迫っていたらしい。
正直に詳細を言ってしまうと、私もみことも妙にほっとしたような気持ちになっていて、途中から話の内容がすっかりいつもの馬鹿話に変わっていた。最近日が延びて来たよね、夏になるね、なんて言って時計をみて、お互い焦って帰途についた次第だ。
まあ、私の方は特に明確な予定がないと言えば無いのだけれど、とにかく姫の居場所を、姫に会う為の手がかりを探そうと思った。
久しぶりに階段を駆け足で登って、家に入る。
お父さんはまだ帰ってきていないようだ。
ずんずんと勇み足で部屋に行き、机の上に置いたままの姫の手紙を見つめる。
「………姫」
きっと私はどこかで自分の気持ちをごまかしていたのだと思う。現状を崩してしまったら、何もかもが崩れるのではないかという不安にかられ、自分はどうしたいかというよりも、現状維持に必死だったのだ。
素直になれた今、前向きな今の私は、姫が「姫」になる前の生活に戻りたいと思っている。全部じゃなくていいから、少しでもいいから――そんな風に思う。
昔みたいに三人で楽しく話をしたり、何処かへ行ったりしたい。
一緒に食卓を囲んで楽しく食事がしたい、とはっきりとそう主張できる。
まだ、キャンドルを灯して食卓を囲んでいたあの時のようにと――そう、キャンドル。
少し話が変わるけれど、そういえば昔、私はそのキャンドルを食事中に倒してしまった事がある。
姫がまだ「姫」になる前の話だ。
すぐに倒れたキャンドルを戻したし、少し料理にロウがかかってしまったけれど、誰も怪我をしなかった。
でも、お父さんに怒られた。
ぱっと思い出せるくらいには、きつく怒られた。
それは当たり前の事で、私は本当に反省しなきゃと思っていたし、同時に落ち込んでもいた――のだけれど、いつの間にか、何故か姫と喧嘩を始めた。喧嘩というか、一方的にお父さんが姫に怒鳴っていた。
私はびっくりして、いつの間にこうなったのだろうと思ったけれど、今思い返してもよくわからない。確か、姫が私をフォローしてくれるような一言を放った途端、何故かそれに腹を立てたように矛先が姫になって、喧嘩を始めた。
その後、次の日以降もいつも通り、何事もなかったかのように食事の時はキャンドルを灯していたのだけれど、あの、例の姫が初めて言い返した大きな喧嘩以来、キャンドルは灯されなかった。
思えば、そう、姫が「姫」になるはじめての行動がそれだったように思う。
姫はいつもなら食事をテーブルに並べ終わると、最後にキャンドルに火を灯していたのだけれど、それをしなかった。ひとりで「いただきます」と言って、食べ始めた。
私とお父さんはあれ、と、疑問を表情に浮かべながらも、そこまで気にはしなかった。
しかし、その日以降、キャンドルに灯りが付く事は無かった。
そして、姫の言動や行動に至るまで、ゆっくりと今のようになっていった。
昔は、普通に喋る人だった。いつしか、端的に喋るようになった。
昔は、誰かといる事を好んだ。いつしか、よく一人になるようになった。
昔は、周りをよく見て行動する人だった。いつしか、勝手気ままになった。
昔は、よく笑っていた。いつしか、笑い方さえ変わってしまった。
そんな事を唐突に思い出す。
目の前のこの紙は、私に何を伝えてくれるのだろうか。
私の気持ちは、姫に届けられるだろうか。
不安が胸の中にじわじわと広がりそうになるのをぐっと堪えて、目の前の現実と向き合う。
みことにたくさんの力を貰ったんだ。お父さんとも少し、いつも出来なようなお話が出来たんだ。だからきっと大丈夫。私は前に進む事が出来る。
まずは考えよう、姫の気持ちを。
つつ、とゆっくり紙を指でなぞる。そんな事をしたって姫の気持ちはわかるはずもないけれど――それでも一つ分かった事がある。
「メモ帳くらい、綺麗に破ろうよ、姫」
端を破いてしまう程に急いでいたのだろうか――と、そこでふと違和感を覚えた。
こんなメモ帳、家にあっただろうか。
姫なら色々な画用紙や紙を持っているだろうけれど、それにしたって、こんなコピー用紙みたいにぺらぺらな……。
コピー用紙?
「!」
声にならない声が喉を突いた。
頭の中は纏まらないながらも、何かひらめいたという感覚が核心をくすぐる。
私は姫の置き手紙をポケットに入れて走り出す。
行き先は浜文具店。
+++
「いらっしゃ……お? どしたの、あか」
浜文具店の出入り口に立ち尽くす。
ちょうどエプロン姿のみことが目の前にいて驚いたけど、今はそれどころではない。
私の予想が正しければ、ここにヒントがあるはずなのだ。
「みこと、ごめん、今日は買い物、しないかも」
「え?」
ぽかんとしているみことを追い抜いて、気持ちは恐る恐る、でも足はずんずんと進んで私は目的の場所へと向かう。
先日買ったペンのコーナーまで来て、ふう、と息をついてから、私はそれを一枚一枚、丁寧にめくる。
一枚、また一枚。
一枚、そして一枚。
一枚、一枚。
一枚、一枚。
「あ……………………」
あった。
間違いない。
これは、間違いなく、姫の、文字だ。
やっぱりあった。
私はそのままぺたりと床に座り込んでしまう。
「わかりづらいよ……姫……」
みことが言っていた事は正しかった。
確かに姫は私に、メッセージを残してくれていたのだ。
紐でぶら下がり、リングで束ねられている試し書きの紙がゆらゆら揺れている。
あの花の絵の上にはAM6:00と、赤いペンで書いてあった。
+++
翌日の五月六日、早朝。
午前五時半の公園は薄いミルク色をした朝もやに包まれていた。
お父さんには何も言わないで家を出て来た。
なんとなく、その方が良い気がして。
そう。
絶対にそうだとは言えないけれど、ほぼ間違いなく、姫はメッセージを残してくれていたんだと思う。それも、きっと私に。
あの置き手紙は、浜文具店の試し書きの紙だったのだ。
家にあんなコピー用紙のようなメモ帳は無いし、そもそもプリンタがない。
紙の端が破れていたのは、リングから紙を取る時に出来たものなのだろう。
どうして始めに手に取った時に頭が回らなかったのだろうか……いや、あの時は気が動転していたし、気付くわけないか。
そして、浜文具店をあの手紙にわざわざ描いていた事から、私は、もしかしてと思い、浜文具店へ向かったのだった。
気付いてしまえばなんとも姫らしい手段だった。だって、なんだかひねくれているから。
その後みことには、また、物凄く心配をかけてしまった。
お店の床にぺたんと座り込む私に「どうしたの!?」と駆け寄ってくれて、私があたふたしながらも事情を説明すると、ゆっくり、それでいてしっかりと耳を傾けてくれた。最後に例の試し書きを見せると「おとう……姫さん来てるじゃん……」と言って、私も気付かなくてごめんと、謝られた。つくづくみことは優しいと思った。
今日、その場所に立つには勇気がいるだろうからあたしが一緒に行こうか? とみことは言ってくれたけれど、それは断った。
私は私なりに決意して、一対一で姫と向き合いたかったから。それに、みことにそこまで迷惑をかける訳にはいかない。
代わりと言ってはおかしいけれど、ポケットには、今日は姫の置き手紙ではなく、小ビンに入った浜文具店の赤絵の具を入れている。それだけでなんだか心強い気がした。
緊張やら不安やら、姫に会うだけなのにたくさんの感情が胸をうずまいて全然眠れなかったけれど、不思議と眠気はない。
言いたい事をまとめて姫に伝えるシュミレーションを頭の中で何度も何度も繰り返ししたけれど、途中でどれもこれもうまく伝えられない気がして、結局言いたい事を全部言おうと思っている。
あの日から姫は、午前六時にこの公園に毎日来ていたのだろうか。
そもそもあの文字は、そう言う意味で書かれたものなのだろうか。
いや、だいたいあの文字は、本当に姫が書いたものなのだろうか。
様々な不安がどうしてもよぎってしまうけれど、もし、全てが勘違いで早とちりで今日この場所に姫が来なかったら、私は次の行動に進むだけだ。
どんな手段を使っても、私は姫を探すだけ。そして言いたい事を全部伝える。
みことに教わった事、お父さんと話が出来た事、たくさんの胸中にある言葉をすべて吐き出す。
それだけの事だ。
午前六時まであと三十分近くあるので、私は歩いて例の花を見に行く。
東屋の下はコンクリートになっていて、それに沿うようににあの花は咲いていた。
名前も知らないけれど、姫はどうしてこの花を書いたんだろうか。
何か、思い入れがあるのかな。
そんな事を考えながらしゃがみこむ。
朝露で濡れた花は控えめだけれど、とても綺麗だった。
そう、私が何故この場所に姫が来るのではないかと思ったのかと言えば、この花がここにあるからだ。
確か姫は言っていたはず。
「公園に咲いてる花は、強いです」
そう、そんな風に。
「………え?」
「踏まれてもめげずに咲きます。それに比べて、私は弱いです」
そして唐突に、姫は私の後ろにいた。
9、浜文具店の赤絵の具
「ごめんなさい。急に、家出なんかしてしまいました。少し司さんと距離を置きたくなったのです」
司(つかさ)とは、お父さんの事だ。
「距離を置かないと、もう、やっていけないと思いました。自分が壊れてしまうのではないかという恐怖を覚えてしまいました。人はきっと、誰かを、途轍もなく嫌いになる前に、それ以前に、疲れてしまうのではないかと思うのです。嫌いになるのにも、力がいります。私はその力さえも尽きてしまいそうになって、家出をしようと、そう決意しました。もちろん、あか、あなたの事がありますから、私は酷く迷った。あなたと離れ離れになるんて嫌だったし、あなたを置いていくのは心配だった。それでも私は、自分自身を守る為に、それだけの為に自分勝手をしました。こうやって、あなたとお話ししたくて、あなたからも離れたかった訳じゃないと、そう伝えたくて、回りくどい方法でメッセージを残したりしましたが、それに気付いてもらえて本当に良かった。良かったです」
私は、何か言おうと、口をあけようとするも、出来なかった。
泣く事さえ出来ない。
頭が真っ白だ。
「………あか、私は、あなたに許してもらえるでしょうか。あなたは私を、許してくれないのでしょうか。こんなにも、弱くて、自分勝手な私をどう思っているのでしょうか。何度も何度も連絡しようと、携帯電話を握りしめました。でも、司さんからの鳴り止まない着信音が怖くて、電源をきってしまいました。そしてその後も、きっと司さんからたくさん連絡が来ているだろうからと、それを見たくなくて……電源を入れられずにいました。ただ、あなたが私のメッセージに気付きますようにと、祈っていました」
「……姫」
「私は隣町の安いビジネスホテルにいました。正直すぐにはどこへも行ける当てが私には無かったので、もしもの時は、我慢の限界が来てしまったらと、前々から調べておいたのです。あか、あなたにだけはそれを伝えるべきでしたね。……………そんな顔を、させるくらいなら」
私は今、どんな顔をしているのだろうか。
泣いてはいないし、怒った顔もしていないと思う。
「家出をします、なんて置き手紙には書きましたが、私はただ逃げ出しただけなのです。ふらふらと適当に荷物をまとめて逃げ出した。それでもあなたとどうにか繋がっていたくて、浜文具店へ行って……みことちゃん達にばれないようにサングラスなんかかけたりしました。とにかく私は私を、私だけを守る為に」
姫は、今にも泣きそうな顔を必死で取り繕っているように見える。
姫が「姫」になってから、いや、昔からそんな表情は、見た記憶が無い。
そんな事を頭の片隅で考えながら姫の言葉に耳を傾けていた。
「食事はちゃんととっていますか? みそ汁は飲んでいますか? ゴールデンウィークの課題はしっかりやっていますか? みことちゃんは元気ですか? 浜文具店へは行っていますか? 体調を悪くはしませんでしたか?」
そして、深呼吸する姫。
「……そして、あの、私を、まだ、家族だと、思ってくれますか?」
「……………姫……」
あか、と呼びかける姫。
姫の目から一筋の涙がこぼれる。
「ごめんなさい」
「姫、大丈夫だから」
「本当に、ごめんなさい」
私は、みことの真似をする。
二度と離すものかと、抱きしめる。
久しく忘れていたこの温もりはみことが思い出させてくれたものだ。
ポケットの中で、浜文具店の赤絵の具がさらさらと音をたてた気がした。
「姫、辛かったね。ごめんね、気付いてあげられなくて。お父さんと喧嘩をしているの、私は嫌だった。私も、嫌だった。だから、私だって逃げてしまった。見て見ぬ振りをしてしまった。どうせ私じゃ何もできないと、耳を塞いだ。どうせ何も変える事なんか出来やしないと、目を瞑ってしまった。馬鹿だ、私。それって、結局、姫の苦しみからも目をそらしていた事になってしまうのだから、それに気付いていなかったのだから」
私は、まだ泣かない。泣けない。お話はまだ、終わっていないのだから。
「ごめんね、姫。でもね、やっぱり、私に愚痴とか、相談とか、何でもいいから私を頼ってほしかったなあ。ほら、昔言ってくれたみたいに。もう無理な時は、もう無理ですって、言ってほしかった。その方が私は、嬉しく思うんだよ。それに、家出もするなら一言、そう言ってほしかったな。だって」
永遠の別れになるかと、思った。
そういいながら、涙をぐっと堪える。
まだ、大丈夫みたいだ。
「お別れは、嫌だよ。お別れだけは本当に嫌だよ。嫌。嫌嫌。絶対に嫌だ! それだけは本当に嫌なの。だから私ね、たくさん考えたんだ。みことともお話して、ふざけながらも、ちゃんと真面目な時は真面目に話をして、それでちゃんと答えをだせたんだよ」
なあに? と聞く姫。
その言い方に私は、懐かしさを覚える。
「私ね、もしもこの先、誰かとお別れする事になっても、諦めない事にしたんだ。みっともなくすがっていかないでって言おうと思う。側にいてほしいと、素直に伝えるようにする。きっと何処かで諦めていたんだ、私。誰かとのお別れが来てしまったら、もう全部無理、どうにもできませんって。でもね、諦めないよ。だから姫、私はあなたにちゃんと言うよ」
――どうか、側にいてください。
「帰って来て、ください。何処へもいかないかないで今すぐ帰って来て。お父さんとのことは私がなんとかするから。もしも直接言いにくい事があるのなら、私が真ん中に立つから。なんでもする。何でも出来るよ。だってね、そのくらい嫌なの。姫と離れ離れに、なるのが、嫌なの」
この温もりを手放すのが、嫌なんだ。
「………ありがとう、ありがとうね、あか」
やっぱり、その言い方に懐かしさを覚える。
また感情がこぼれそうになるのを、ぐっと堪える。
「うん。全然良いんだよ。だからね、お願い、帰って来て。そんな事? って思うかもしれないけど、これが私の出した答えなんだ。もしも姫がこのお願いを断るのなら、私はまた考えるよ、帰って来てくれる方法を。それでも断るのなら、それでも考える。繋がっていたいんだ、どんな形でもいいから。だって、姫は、家族だもん。大好きな、家族、だもん。また、さ、家族で、キャンドルに、火を、灯して、ご飯、食べようよ。ね。だから……」
「…………あか」
――ありがとう。
優しく言う姫。
「………………姫」
だから、そんな言い方は、ずるいよ。
「ひ、め……」
昔みたいに、優しい言い方、しないでよ。
「…………お……」
私、我慢が出来なくなってしまう。
「おか……」
もう、駄目だ。
「おかあ、さん」
お母さん。
久しぶりに、本当に久しぶりにそう呼べた私はとうとう、我慢できずに、姫の、お母さんの胸で泣いた。
何処かでそう呼んではいけない気がして、お母さんの重荷になってしまうのではないかと恐怖して勝手に作った呪縛のようなものから、私は解放された。
+++
私が家の鍵のストラップに使っている、あの赤い花のストラップは、最初は、お父さんに買ってもらった。
小学生の頃に一目惚れして、目が離せなくて、どうしても欲しくて、でも、欲しいと言えなくて、じっと見ていて、デパートの一角でずっとそれを矯めつ眇めつしていた。
なんて素敵な赤なんだろうか。
なんて綺麗な花なんだろうか。
なんて私好みのデザインなんだろうか。
これはこっそりと、誰かが私に買わせようと用意したのもじゃあないのだろうか。
そこまで思った。
そうしていると、お父さんがひょいとそれを取って、
「気に入ったのか?」
と私に聞いた。
私は照れくさくなってしまって、とっさに何も言えなくなってしまったのを覚えている。
その場であたふたしている私をお父さんはしばらく見つめてから、無言でレジへと向かった。
「……ほら」
大事にしなさい、と言われた。
本気で、大事にしようと思った。
少し無愛想なお父さんからのプレゼントと言うのも嬉しかった。
それからというもの、私は肌身離さずそれを持ち歩いた。
学校へ行く時も、家に帰っても。
何をするのにも何処へ行くのにも持ち歩いた。
やがて、ストラップの花と紐を繋ぐ部品が壊れてしまった。
本当にショックだった。
このストラップとはもう、お別れしなきゃいけないのかな、と思った。
でも、お母さんがすぐに直してくれた。
それはまるで魔法のようで、前よりもなんだか綺麗に見えて、嬉しくなった。同時に、二度と壊すものかと誓った。
以来、鞄に入れて持ち歩く事が増えた。たまに気が向いた時は、鞄にそのストラップを付け替えたりしていた。
そうして中学生になった時、事件は起きてしまった。
まあ、事件と呼べる程の事ではないのかもしれないけれど、私にとってはそれくらい大事だった。
無くしてしまったのだ。
当時の私はそのストラップの存在が、大事なもの、なくてはならないものという以上に、あって当たり前になっていた。
そして、お父さんへの苦手意識はこの頃に芽生えてしまったので、なんとなく、お父さんと私と、そして姫をつなげるものがあるとすれば、このストラップだけなのかもしれないと思っていた。
今思うとちょっとおかしい話だ。
苦手なのに、ストラップに繋がりを感じようとしていたなんて。
苦手以上に、お父さんに振り向いてほしかったのかもしれない。
まだ、大切にしているんだよ、と。姫が直してくれたんだよ、と。
付けるところも増えて、気分によってあちこちにつけていた。筆箱、鞄、家の鍵、制服、スカート、財布……。
そのストラップの紐が痛んでいる事にも気付かず、色々なものに付けて、付け替えてを繰り返した。
結果、いつのまにかなくなった。
最後につけたのは髪だった。
休日、家族三人で近所のデパートやらに買い物に行った帰り、家に帰ってから気付いた。
もともとヘアゴムにむりやり付けていたのがいけなかったのだろう、帰り着いて髪を解くと、ヘアゴムしか無い。慌てて探しても何処にも見付からない。両親に言ってみんなで探しても見付からない。何処で落としたのかもわからない。
そしてそれはちょうど、姫が、お母さんが「姫」になった頃の出来事だった。
自分の母親の性格が、言動が急変していって、どう接したら良いのか戸惑っていた時期。姫は、お母さんは、私にあのストラップを作ってくれた。
なくしてしまったストラップそっくりだけれど、ちょっと違う、もっともっと素敵な、桑染色と赤色の花のストラップ。
私はそれがあったから、お母さんを姫としてすんなり受け入れられた。
ああ、この人は家族なんだ、それは絶対なんだと思った。
始めに浜文具店に連れて行かれて「好きな赤色を選んでください」とフェルトが並ぶコーナーに連れて行かれた時は、何事かと思ったけれど。
だから、私にとって浜文具店の赤色は、魔法のようだった。
そして姫は、まるで魔法使いだ。
+++
「………ただいま、です」
「おかえり、姫」
「……………」
「ほら、お父さんも」
「………おかえり」
五月六日、桑染家の玄関。
こうして、姫は。
お母さんは、帰って来てくれた。
お父さんはがみがみ姫に怒るのかな、と思っていたけれど、そんな事は無く、なんだか安堵を通り越して疲れているようだった。単に安心しきっているだけかもしれないけれど。小さく「心配したぞ」といい残し、そのままリビングだか自室だかに戻っていってしまった。
「姫、いい加減入って来たら?」
この後か、もしくは明日か、それ以降か、私達三人はきっとたくさんの話をする。それは未来の話だからどうなるのかなんてわからないけれど、私はきっと大丈夫だと思う。
「うん」
だって、もう私の決意は固まっているのだから。
これからも三人で暮らしていけるように努力する。
もう二度とこんな事が起きないように、何だってするつもりだ。
「あ、そうだ、姫」
もしも私が、どうしても遠いところへ進学したりする時は、可能な限り家に帰ってくるつもりだ。それが出来ないなら、二人に来てもらおうと思う。
それが出来ないなら、鬱陶しく思われる程の手紙やメールを書こう。電話もしよう。
「なんですか?」
そうやって私は、可能な限り別れというものを小さくしていくのだ。
そしていつか、どうしても別れというものを受け入れなくてはならない時は、姫がそうしたように、メッセージを、意思を残そうと思う。
「これ、半分こしようよ」
私はあなたと離れ離れになるのが寂しいです、いつまでも一緒にいたいですという思いを込めたプレゼントを渡すのだ。
「それは……なんですか?」
やっと靴を脱いで家に入って来た、帰って来た姫にポケットのものを渡す。
「何だと思う?」
番外編
そう言えばうちは、閉鎖的な家庭だったのかもしれない。
ご近所付き合いなんて全然ないし、唯一家族ぐるみの付き合いに近いのはみことの家くらいだ。それも、私が高校に入ってからの事なので、けっこう最近だ。
まあ、姫はあまり社交的でないし、姫になる前のお母さんは人当たりこそ良いけれど、人見知りが激しかったように思う。そしてなによりお父さんが他人との付き合いが苦手だった。
驚く事に、お父さんが友達と電話したりメールしたりする姿を私は、一度も見た事が無かった。会うだとか、飲みにいくだとかなんてもってのほかだ。
そんな家庭だったからこそ、私はこんな風なのかもしれないけれど。
さて、この番外編は、家族での話が一段落して、夏を迎えたある日の事を書こうと思う。
食卓のキャンドルに火が灯り、家族で和気あいあいと昔話なんかもするようになった最近のこと、私は古いアルバムを引っ張りだした。
みことが遊びに来ていたので、今はクーラーのきいたリビングに私と、姫と、三人だ。
「え、これ私?」
「そうですそうです素敵でしょう」
「うっわー! なにこれ! 子役になれるよ、あか!」
「い、今言われても」
もう気付いているとは思うけれど、姫は結局、姫のままで口調が昔のお母さんのように戻る事は無かった。きっとその方が、姫は生きやすいのかもしれない。
だから私も相変わらず姫と呼んでいる。
「幼稚園の頃かあ……おぼろげにしか覚えていないな」
「私は鮮明に覚えています。昨日の事のようです」
「ほわー。姫さん凄いですねー。あたしは全然覚えてないや」
そんな風に会話しながらアルバムをめくると、姫とお父さんが若い頃の写真が一枚だけあった。
「えええ!?」
「え、姫さん、これなんですか!」
若い頃の、というか……なんだか、演劇のような派手な衣装を着ている。後ろにはセットらしきものもあって、本当に演劇のようだ。
「あれ、あか、覚えていないですか、これ、幼稚園でした劇です」
「…………………あ! 思い出した」
そうだ、確か先生に混じって、希望した園児の家族なんかも一緒にみんなで劇をする、みたいな催しがあったような気がする。
「……あれ、姫、劇に出たいって希望したの?」
「へえ! 姫さん、意外とアクティブだったんですね!」
対して姫は
「ううん」
と首を振った。
「なんか、いつの間にか出る流れになってしまって、断れなかったです。そして、私の劇の稽古に迎えに来てくれた司さんまで気に入られて、結局二人で出る事になった、のです。写真は記念に、と園長先生にいただきました」
へえー。と私とみことは声を合わせていった。
写真の姫も、お父さんも、なんだか生き生きしているように見えて、案外、楽しんだんじゃないのかなあと思った。
「あれ?」
これはなんの劇で、姫は何の役かなあと聞こうとしたところで、みことが首をかしげていた。
あれれれれ、といいながらアルバムをめくるみこと。
「え」
次のページの写真には、幼稚園の服を来た小さな私と、もう一人、やんちゃな笑顔をした女の子が並んで映っていた。
「これあたしなんだけど」
え?
+++
夕方になるとみことは帰っていった。
今日も浜文具店の店番をするらしい。
「びっくりしたね」
「うん、びっくりしました」
まさか一緒の幼稚園だったなんて。
まあ考えてみれば当たり前なのだけれど。こんなに近所に住んでいるのだ、きっと小中高と一緒だったに違いない。
「なんで気付かなかったのかなあ」
「本当です」
……まあ、引っ込み思案で人見知りの私は、学校でも孤立していたし、気付かないのも当たり前と呼べそうだったけれど。
「みことちゃんとはきっと、友達になる運命だったのです」
「そうだね、きっとそうなのかもしれない」
ちょっとだけ昔の出来事を思い出す。
姫が家出した時、いいや、もしかしたらあのとき、屋上で話をした時からずっと、私はみことに助けられていたのだなと思った。
「今日は素敵な日になりました」
「本当だね。嬉しいな」
「私も、嬉しいです」
「うん!」
「ふふふ」
「あ、ねえ姫。さっき聞きそびれたのだけれど」
「なんですか?」
「あの劇、結局、姫は何の役をしたの?」
「…………」
「え? ごめんもう一回言って?」
「………オリジナルの、童話をごちゃ混ぜにしたような、お話でした」
「へえ。そうなんだ。それでそれで? 何の役?」
かあ、とみるみる顔を赤くした姫は果たして。
「………お、お姫さま、です」
と言ったのだった。
終わり
浜文具店の赤えのぐ