20160608-僕だけのアフロデーテ


「ねえ、先生。わたしを描いて」
 辻茜はそう言って、美術室のドアから顔をのぞかせた。僕は筆をとめ、セーラー服を身にまとったこの生徒に思わず目を細めてしまう。放課後の校舎が冬の夕暮れに包まれようとしている中、彼女はドアを後ろ手に閉めて、僕に歩みよった。
「辻君。君、突然どうしたんだ?」
「今のわたしを、残してもらいたくて」
 その言葉に僕の胸は高鳴った。前々から描きたいと思っていた、この気品高い辻茜を。だが、その彼女の方から描いて欲しいと言っているのだ。僕はうれしさを隠して、さも平然と言った。
「いいよ、実は僕も静物画ばかりで飽きてたところなんだ」
「ありがとう。じゃあ、今からお願い」
 僕は急いで新しいキャンバスを用意していた。だが、衣擦(きぬず)れの音がして振り返ってみると、辻茜はセーラー服の上を脱いでいる。シミーズの白が、僕を激しくあわてさせた。
「えっ! な、なにしてるんだ!」
「なにって、描いてもらうのは裸に決まっているでしょ?」
「待て! 僕は裸を描くなんて一言も言ってない。早く服を着なさい!」
「イヤ! 裸を描いて! それとも、わたしじゃ不服?」
「そうじゃなくて……、立場上よくない」
 辻茜の裸体が描けるなら、僕は教師を首になってもいいとさえ思った。だが、ここで描いていたら、いつか誰かに見られて、彼女が傷つくことになる。それは、耐えがたいことだった。
「でも、先生。いいモチーフがないって、嘆いていたよね。わたしが、それを買って出るのよ。それに、いい記念になるし。ね、お願い」
「……わかった。描かせてもらうよ。ただし、ここじゃなくて、僕のアトリエでね」

 僕は、こうして辻茜の申し出を受け入れた。彼女には、誰にも言わないように言った。それが、僕の唯一の条件。彼女はそれを素直にのんだ。
 高校の教師と生徒。それも裸体を描くなどと、本当なら拒否する。だが、彼女の裸体を描ける。その魅力には、僕はあらがえなかった。
 辻茜。彼女は気品高く、今にも弾けそうなみずみずしい身体をしていて、もうすぐ開くであろうときを、今や遅しと待っている。その裸体を描けるという機会に恵まれて、僕の胸は高鳴った。

 僕はその日、どうやって帰ったのかわからなかった。


 あの日から二日後、冬休み最初の日。僕は朝から落ち着かなかった。あと少ししたら辻茜が来る。僕は気を静めようとして、コーヒー豆をすり、ゆっくりドリップして、彼女が来るのを待った。
 九時を少し過ぎたころ、トントン、と玄関を叩く音がした。僕は、あわてて扉を開けた。
「先生。おはよう!」
 辻茜は緊張を隠すように、元気に声を出した。ダウンにジーパン、頭には白い毛糸の帽子をかぶって、そして足には毛皮のスノーブーツが暖かそうに彼女を包んでいる。僕はつい見とれてしまう。彼女はなにを着ても似合うようだ。
「辻君、よく来たね。さあ中へ入って」
「おじゃましまーす」
「あれ、そのバスケットはもしかして?」
「そうよ、作ってきたの、サンドイッチ。お昼に食べましょう?」
「わざわざ、ありがとう。ああ、そこのテーブルの上に置いて」
 辻茜は天井をぐるっと見上げた。
「へーずいぶん天井が高い。それにロフトが付いている。ちょっとオシャレね」
「これは山小屋だよ。お店を出そうとしてつくられた物が、訳あって売られていたんだ」
「ふーん。いいなー、このおうち」
 辻茜はダウンを脱いでイスにかけた。セーターから形のいい胸が存在をアピールする。僕は目をそらした。
「そうだろう。それに雪に強いんだ。いくら降っても雪下ろしする必要がない。おまけに冬は暖かだし、夏には天井を開けるとけっこう涼しいんだ」
「へー、そうなんだ……。ねえ、先生」
「なんだい?」
「わたしも、ここに住みたいな」
「い、いくらなんでもそれは。ご両親に殺される。もっとも、今の状況でもかなりまずいが……」
「なに言ってるの。これからわたしの身体を細部まで描かなきゃいけないのに」
「……」

 この空気を打ち消すために、僕は彼女にコーヒーを出した。ちょうどいい温度にするために、あらかじめコーヒーサーバーに入れて置いたのだ。
 辻茜は、まだ部屋の中をグルグル見渡している。その姿は、小動物が木の枝をかけずり回っているよう。僕は、これから脱ぐ小動物のために、ストーブにマキを足した。
 彼女は、ようやくイスに腰かけコーヒーに口をつけた。それにはホイップクリームを落としてある。ウインナーコーヒーのまねごとだ。
「おいしい!」
 僕は、緊張を隠すように型通りのスマイルを作って、それに答えた。
「そう? 気に入ってくれてよかった」
 大人しく飲んでいる。僕は彼女が飲み終わるのを待った。その間に部屋も暖まるだろう。時計の音がコツコツとやけに響く。僕は、もう一杯コーヒーをお代わりした。
 辻茜はコーヒーを飲み干すと、コトンとマグカップを置いて、指差した。
「先生。あの脱衣所で脱ぐのね?」
「ああ。脱いだら中にあるバスローブを羽織(はお)ってくれ」
「うん、わかった」
 そう言って辻茜は脱衣所に入った。
 僕は、画材のチェックを再度した。六Bのエンピツが少しトガっているのが気になって角を取る。今、そこで彼女が脱いでいると思うと、落ち着かない。僕は彼女の裸を見ても平静でいられるだろうか? 初めて女性の裸体を描いたときも、これほど緊張はしなかった。

 少しして辻茜が姿を現し、モジモジしている。だが、意を決したようにバスローブを脱いで全裸になった。全身が赤くほてっているのがわかる。僕は、心のうちを隠すように、機械的に作業を開始した。
「さあ、ここに立って」
「あら、裸体だったら寝た方がいいのに」
 彼女は気丈(きじょう)に言ったが、声が震えている。それは僕も同じだ。
「僕は女神像を描くつもりだ」
「まあ、わたしが女神?」
「そうだよ。アフロデーテ」
「え? アフロ……なに?」
「アフロデーテ。古代ギリシャの女神。美神として名高い。そして、戦いの神としての側面も持つけどね」
「先生。うれしい」
「だから苦しくても我慢してね」
「うん」

 僕は彼女にポージングをした。
 左足は後ろに。両手は胸の前でクロスさせて。顔は天に向かって。そして、目は閉じて。
 戦いが終わって、亡くなった者たちを、天に向かって祈るように。そのイメージで描くことに決めていた。
 ――美しい。やはり、この娘(こ)は美しい……。
 それ以外に言葉がなかった。だが、実物に絵が負けるということは、避けなければならない。僕は気を引きしめ最初のエンピツを入れた。

 僕の描き方。それは遠い昔、ルネサンス時代に描かれた画法。まず、デッサンを正確に描き、全体に背景の色を塗って、次いで陰影をつけて、それから人をくっきりと浮かび上がらせるやり方だ。これだと、人物画がキレイに描ける。
 それとは反対に、デッサンを正確に描かないと、どこまで行っても淡いリンカクになってしまう。鮮明でない物を描くにはよいが、それではルノワールのようになってしまうのだ。それはそれでいいのだが、今回のイメージとは違う。
 だから、僕は今回、ルネサンス時代の画法をとる。

 描き始めて気がついたことだが、なにか淫靡(いんび)な香りがする。女が発情しているときに発する香りだ。見ると、彼女の足を伝わって流れ落ちる一滴(ひとしずく)が……。
 それがわかっても、僕は口には出さなかった。きっと、彼女も気づいている。だが、ふたりして気づかない振りをして、黙々とお互いの役割、描くこととポージングに専念した。もちろん、ときどき休憩を入れて彼女を休ませたが。

 気がつくと十二時になっていた。僕はお昼にしようと言って、辻茜にバスローブをかけた。僕が、昼食の支度をしていると、彼女は脱衣所で服を着て手を洗っている。食事前に手を洗う。それは気品高い彼女には、ごく普通のことだろう。僕はコーヒーと残り物のシチューを用意した。パンにはシチューがよく合う。
「いただきまーす」
 辻茜は口いっぱいにサンドイッチをほお張った。その食べ方も気持ちがいい。
「おいしいね、先生」
「うん、おいしいね。これ、全部自分で作ったの?」
「そうよー、本当苦労したわ。どうしてくれる?」
「えー、困っちゃったなー。どうしたらいい?」
「えへへへ。じゃあ、キスして」
「……」
「いやだなー冗談よ、忘れて。あははは」
 本当か冗談なのか、僕にはわからなかった。だから反応ができなかった。
「それより先生。なんで結婚しないの? あ、これは答えてね。じゃないと、モデルやめるからね」
「ふー、仕方ないな。それは相手がいないからだよ」
「じゃあ、わたしが結婚してあげるって言ったら? ああ、もちろん高校を卒業してからね」
 僕はサンドイッチを持つ手をとめて、少し考えて言った。
「僕は、……それほどいい人間じゃない。それに、お金も、特別な才能があるわけじゃない。だから、君を幸せにする自信がないんだ。悪いな」
「そんな……」
「ただ、美しい君を描いてみたい。その衝動には逆らえなかった」

 彼女は落胆の色を隠さなかった。
 たとえ彼女が僕を好きでも、僕はそれに応えられない。それは、僕が先生で彼女は生徒だからじゃない。そんなことは彼女が言ったように卒業するのを待てばいいのだ。
 だが残念ながら、僕には彼女を幸せにする確固たる自信も、彼女を愛する資格もないのだ。

「さあ、食べたら一休みしてから始めるよ」
「はい……」
 僕はそうそうに話を切り上げ、食事を続けた。冷めたコーヒーとシチューを胃に流し込んで。

 僕がデッサンを描き終えたのは、夕方の六時。あたりはすでに暗闇に包まれていた。それに気づいた彼女はだいぶあわてた。
「いけない! もう、こんな時間だわ」
「ああ、もう帰っていいよ。ありがとう。それからデッサンは大体描き終えたから、もうモデルの仕事はおしまいね」
「え、もう来なくていいって? そんな……。でも、仕上がるまで、わたし通いますから」
「……わかった。好きにしたらいいよ」
「はい。好きにします!」
 辻茜はそう言って帰って行った。暗いので送ると言った僕の申し出を断り「誰かに見られたらいけないでしょ?」と笑って言って。確かに……。

 もしかして、本当に僕のことが好きで、一緒にいたいと言ったのだろうか? それとも、絵の仕上がり具合が気になるのだろうか? 僕には判断できなかった。ただ、絵が仕上がるまで彼女と一緒にいられる。そのことが僕の失ったはずの心を呼び覚まそうとしていた。だが、それには堅いカギをかけて、目を覚まさないようにしている。もう、あの二の舞はごめんだ。

 夕食はあまり食べられなかった。久しぶりにウイスキーを飲んで眠った。


 僕は美大生時代、ひとりの女性を殺した。

 大学に通いだして半年が過ぎたころ、僕に恋人ができた。女性に告白されたのだ。初めてのことだったので大切に付き合っていた。
 だが、二年目の初め、僕は再会してしまった。小学校のころ、大好きだった彼女と。
 いつも笑っているような瞳。どこかニヒルなくち元。少しふっくらとしたホオ。そして、右肩を下げて歩くクセ。どれもが僕のなつかしい記憶を呼び起こした。
 そして、間もなく付き合っている女性にお別れを言った。

 そりゃ、聞かれるよ。
 どうして急にお別れを言うの?
 わたしの悪いところは直すから。
 ほかに好きな人ができたの?
 もう、わたしに飽きちゃったんだね?
 あたしの身体が気持ち悪いんだね?

 僕は、ごめんとしか言えなかった。
 彼女と別れ、幼なじみにようやく告白できて、ふたりは付き合うことができた。夢のような時間だった。

 だが、ある日、別れた彼女が死んだ。飛び降り自殺だった。
 そして、僕は遺書を受け取る。
 読みたくはなかった。でも、彼女の弟がたずねて来て、断ることができなかった。

『ごめんね。もう、わたし疲れちゃった。
 彼、この二十年生きた中で、一番わたしをわかってくれた。
 それなのに、フラレちゃって。
 わたしは生きることに疲れちゃった。もう、ダメ。

 ××は、一生けんめい生きて。そして、わたしの分も幸せになって。
 それじゃ、さよなら。

ダメな姉より』

 弟さんによると、彼女は二年ものあいだ闘病生活を過ごし、やっと生きながらえていたのだ。彼女の腹部には縫合痕(ほうごうこん)があり、片方の腎臓と、胆のうと、腸の一部、それに子宮がなかった。僕は傷を見たときは最初驚いたが、それほどの内臓を失っているとは思わなかった。彼女は、その身体の傷のせいで僕にフラレたと思ったのだ。そして、いつ再発するかわからない病気におびえていたのだ。

 それ以来、僕は女性とつき合っていない。幼なじみの彼女には僕から別れを言った。理由なんて言えなかった。ただ、別れたいと。
 そんな僕が、これから新しい海にこぎ出そうと力を蓄えている少女とつき合う?
 できやしない。


 辻茜は、デッサンを終えてからも毎日僕の家にやって来る。サンドイッチのバスケットを持って。僕は、こばむこともできず、それを許している。
 辻茜は絵の仕上げ工程をものめずらしそうにながめていたが、やがて飽きたのか持ってきた小説を読み始めた。彼女の好きなのは、デビュー仕立ての若い作家。僕は若い作家の本はあまり読まないが、一度彼女に本を借りたが、やはり読めやしなかった。

「ねえ、先生」
「なんだい?」
「その背景はどこから持ってきたの?」
「これはね、アフロデーテが戦った戦場だよ。そこで、血の涙を流しているんだ」
「ふーん。だから、彼女の身体にはヤリだとか矢が刺さっているんだね」
「いやかい?」
「ううん、平気。でも、女神が傷ついているってことは、女神も人間の死によって傷ついているってことね?」
「そうだよ。人と同じように彼女の心も傷ついている。これは、その比喩(ひゆ)だ」
「彼女、かわいそうね……。ねえ、先生?」
「なんだい?」
「どうして、人は戦いをやめないのかしら?」
「それは、きっと戦わざるを得ないからだと思う」
「うん」
「食料や、土地の権利や、恋人を守るためだったりする。そこら中に戦いの種はあるんだ」
「もしも、戦いをやめたら人間はどうなるのかしら?」
「さあ、どうなるんだろうね?
 しかし、これだけは言える。僕たちは常になにかと戦ってきた。そして、生き残ったのがホモサピエンスだ。ほかの種はみんな途絶えた。そう考えると、戦いをやめるということは、イコール滅亡ってことだね。残念ながら」
「……先生。夢がない。そして希望がないよ。そんなんじゃ生きてる価値がない。人間はそれを考えるために進化したんでしょう? そのトップにいるわたしたちが平和を願って努力する、その責任があるとわたしは思うわ」
「……すごい。まるでオバマだ。ノーベル平和賞、あげちゃう」
「ありがと」

 辻茜は、小説の続きを読もうとしていた。僕はそれをさえぎり、ずっと気になっていたことを聞いた。
「ところで、君は毎日来てるけど、家の人はなにも言わないの?」
「うちは放任主義なの。なんでもしていいって。ただし、自己責任があるって言われているからね。だから、それを守っていて、あとは朝食と夕飯をうちで食べていさえすれば文句は言われないわ」
「ふーん、物わかりのいい親だね。だけど、正月の朝もいつものように家に来たときはさすがに驚いたよ」
「先生が正月にサボるのを監視するためよ。だから、わたしにつきまとわれるのがイヤだったら、早く仕上げてね」
「はい……」

 その日、お昼ごはんはサンドイッチではなく、小ぶりのオニギリだった。僕は、みそ汁を温めてマグカップにそそいだ。それを見て彼女はケラケラ笑った。オニギリの具は、明太子、みそ和えキュウリ、納豆、オクラ、そしてタマゴ焼き。僕はよく味わって食べた。

「先生。わたし子供は最低三人は欲しいわ」
 彼女は、オニギリをほお張って話した。
「ひとりだとさみしいし、ふたりならケンカしそう。でも、三人いれば皆で力を合わせてなんだってできるような気がして。
 でも、悪いことはダメよ! 人に迷惑かけないようにしなきゃ。
 仕事は、ひとりは漁師、ひとりは旅館の女将、ひとりは板前なんていいなー。
 そして、わたしは旅館にお泊りして、お料理をたらふくいただくの。
 どう、ステキでしょう?」
 僕はそれに答えられなかった。ただ、暖かく見つめることしかできなかった。そして、彼女の夢がかなうことを祈った。

「あっ」
「どうした?」
「……」
「鼻血が出てるじゃないか」
「……ごめんなさい」
「いいから、ソファーに横になって」
「うん」
「ほら、これを鼻につめて」
「ありがと、先生」
「いいから、だまって寝てなさい」
「はい」

 毛布をかける前に、彼女は、すー、すーと寝息を立てて眠ってしまった。その姿は、水の中で眠る妖精のように、穏やかにたたずんでいる。眠っている姿を描けばよかったと少し後悔した。
 それにしても、突然鼻血なんて。きっと、冬で湿度が低いのが原因だと思うが……。そう思い、ストーブにヤカンをかけてから、食事を片づけた。

 辻茜は夕方、心配したのがウソのように元気に帰って行った。僕はほっとして毛布を片づけようとした。そのとき、長い髪の毛を一本だけ見つけた。それをしばらく見つめていたが、頭を振ってゴミ箱に捨てた。僕は一体なにをしようとしてたんだ? はずかしく思い、毛布を強く叩(はた)いた。
 気を取り直して描画を再開した。あと、もう少しで絵が完成するのだ。彼女と、もうお別れだと思うとさみしいが、いずれにしても今年の春で卒業してしまう。仕方がないのだ。僕は彼女への思いを振り払うかのように、遅くまで絵を描き続けた。夕食は摂らなかった。


 短い冬休みも、あとわずかになって、僕は最後の筆入れに没頭していた。お昼も忘れ、水もとらずに。

「見て。できたよ!」
「そのようね。……」
 辻茜はそう言って、完成した絵を正面から目を細めて見てる。
 僕は不安だった。彼女を満足させられたのか。
「ありがとう。わたしをキレイに描いてくれて」
「本当に?」
「ええ、素晴らしいわ」
 辻茜は、目に涙をためて言った。
「よかったー。君にそう言ってもらえて安心したよ。ヘタねなんて言われたら、もう僕は……」
「僕は?」
「落胆して、筆を折ってしまっていただろう」
「うれしいわ。そんなにシンケンに描いてくれたなんて」
「ああ、これは今までにないほど、精魂を込めたから」
「ふふふ。ところで、この絵どこかに出すの?」
「うん。秋の全道展に出そうと思う」
「もしかして、もどってこないの?」
 辻茜は、今にもすがりつきそうな目で言った。
 僕は、あわててこう答えた。
「いいや、ちゃんともどってくる。心配しないで」
「よかった。……この絵は一生大事にしてね」
「え? この絵、いらないの?」
「うん。大事にしてね、わたしだと思って」
 まるで死にゆく人の言葉のようで、僕はとまどった。でも、もう一方でこの辻茜の絵を手に入れられることに、僕の心は踊った。
「……ありがとう」
「ねえ、先生」
「なんだい?」
「これでお別れね」
「……そうだね」
「最後にキスして」
「……」
「これで、もうまとわりついたりしないから」
「……わかった」
 辻茜とのキスは、涙の味がした。

「それじゃ、行くね」
 彼女はダウンのチャックをあげてそう言うと、今にも泣き出しそうになっていた。そして、僕に涙を見せまいとするかのように、足ばやに歩いて行った。僕は未練がましく、それをいつまでも目で追っていた。呼びとめてしまえばいいのに。だが、たった一言が言えなかった。好きだと。
 そんな資格はないのに。

 十月の全道展への絵の搬入を、早々と美大の先生に電話で頼んだ。絵の具が乾いて落ち着くころの一週間後に送るようにした。


 冬休みが明け、みな元気に登校して来た。スノボーで真っ黒に日焼けした顔もあった。受験勉強で青白い顔もあった。冬休みのできごとを楽しそうに話す生徒もいた。
 だが、彼らの中に辻茜はいなかった。僕は胸騒ぎがして担任の言葉に耳をそばだてる。
「辻さん。白血病らしいわ。かわいそうにね。でも、今の医術だったら治るって、お母様が言ってらしたわ」

 ……。僕は心配になった。本当に大丈夫だろうかと。
 そして、彼女の言葉。『今のわたしを、残してもらいたくて』をあらためて思い起こす。彼女は、もしかして自分が死ぬかもということを覚悟して、絵を僕に描かせたのか?
 彼女のすがりつくような目が、今も忘れられない。僕はそんな辻茜の気持ちも知らないで、自分の過去にこだわって、彼女の愛の告白に耳をふさいでいたんだ。
 もしも、彼女が死んだら……。そう思うと、足は勝手に病院へ向かっていた。

 放課後、病院へ行ってこっそり辻茜の姿を探した。彼女は普通に検査を受けていた。僕はいくぶんホッとしてその場を離れた。きっと、彼女は大丈夫。また元気に登校してくるさ。僕は、彼女の顔を遠くからながめて病院をあとにした。

 一週間たち、二週間がたち、一か月がたった。だが、彼女はまだ登校してこない。気になり再び病院を訪ねる。
 病室には面会謝絶の文字が。僕は動揺して通りかかるストレッチャーにぶつかった。すみませんと謝っていると、彼女の病室から看護師が出て来た。その扉の向こうに見えた物は、きっと無菌室……。その中に彼女はいた。
 やせ細って、あばらが浮き出て、腕には無数の管がつながれている。僕は、それ以上見ることができず、病院を抜け出した。

 僕は、必死で祈った。どうか、辻茜を助けてくださいと。ただ、祈ることしかできなかった。


 辻茜の卒業証書を彼女の母親が受け取りに来た。彼女はまだ戦っている。僕は、ひたすら彼女の回復を祈った。
 しかし、新年度が始まり新しい生徒たちが元気いっぱいに校舎をかけめぐるころ。辻茜は、帰らぬ人となった……。

 僕は、その知らせを放課後の美術室で、彼女の母親から聞かされる。
「失礼します」
「はい?」
「わたしは、辻茜の母です」
「は、はい」
 僕は、ゴクリとツバを飲み込む。
「先日、娘が亡くなりました」
「……」
 なにも言えなかった。こうなることはうすうす感じていた。
「……先生には、このたびは色々ご迷惑をおかけしました……。あの子も、きっと満足して逝(い)ったと思います」
 そう言って辻茜の母親は深くおじぎをした。地味な身なりは、まだ喪(も)が明けていないことを示していた。
「それじゃ、お母さんは娘さんの病気のことを知っていて?」
「……はい。それでできるだけ早く、絵を描いてもらいなさいって」
「……」
「変でしょ? 母親なのに、治療を優先しないなんて」
「……ええ」
「でも、あの子の従妹が同じ病気で亡くなったんです……。だから、悔いを残さないようにと思いまして……」
「そうだったんですか……」
「……これ、あの子の手紙です。受け取っていただけますか?」
 僕はだまって手紙を受け取った。女の子らしいピンクの封筒で、封を開けるといい匂いがする。文字は丸文字ではなく、気持ちのいい楷書(かいしょ)で書かれていた。あの子らしいと、口元で笑ってしまった。

『先生。こんにちは。
 って言っても、先生がこの手紙を受け取ったってことは、もうわたしはこの世にいないか。
 先生、もしかしたら泣いた? だったら、うれしいな。

 ところで、あの絵はどうした?
 先生のことだから、全道展から帰って来たら、きっと大事にしてくれるんでしょうね? もし、お金のために売っちゃったら悲しいけど。さすがに、それはないか。先生を信じているからね。
 あれを、わたしだと思って大切にしてね。

 わたしは、十八年という年月(としつき)でこの世を去るけど、わたしの生きた証はあちこちに残したからね。
 それは、先生に描いてもらった絵だったり、先生の目にきざんだわたしの身体だったり。それに、ふたりで食べたサンドイッチ。ふたりで笑った時間。ふたりで話した将来の夢……。将来なんてなかったのに、ごめんね。
 でも、本当に楽しかった。それは、あなたがいたから。
 あなたがいたから、わたしは精いっぱい生きることができた。
 最後のときまで、幸せに包まれて過ごすことができた。
 本当にありがとう。

 それから、病気を隠していてごめんなさい。
 でも一度、あなたはお見舞いに来てくれたわね。そして、わたしのやせ細った姿を見て帰ってしまった。わたしは、自分の姿が壊れていくのが怖くて、あなたにさよならをしたのに。あのときは、つらかった。
 せめてもの救いは、あなたがわたしに会わずに帰ってくれたことです。ありがとう。

 最後に、もう一度言わせてください。
 わたしは、幸せだった。

 それじゃ、先生。さようなら』

 不意に涙がこぼれた。あとからあとから、とめどなく流れた。それを満足そうに見て、辻茜の母親はおじぎをして行ってしまった。涙は、中々とまらなかった。

 僕は、今も君を見てる。君のみずみずしい裸体を。静粛(せいしゅく)と情熱にあふれる身体を。
 僕は、君に感謝しなくちゃいけない。にえきらない僕の態度を非難するのでなく、感謝してくれたことに。
 だから、これからも君を愛す。君の愛にこたえるために。

 茜。僕も幸せだよ、君と出会えて。
 愛してるよ、僕だけのアフロデーテ……。


(終わり)

20160608-僕だけのアフロデーテ

20160608-僕だけのアフロデーテ

36枚。修正20220313。放課後の美術室。ある日、女生徒がわたしを描いてほしいと言って、セーラー服を脱ぎはじめた。――彼女が最後に残した、『わたしは、幸せだった』の言葉が、今も忘れられない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-12

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