パイカルアン
シレイトク
今鳥修司は目を覚ました。ひどい疲れが残り、先ほどの夢が修司のシャツをびっしょりと濡らしていた。ふと居間の窓から外を見たが、今日は吹雪いてはいないようだ。
時計は朝の五時半を指しており、彼は一度大きく伸びをして立ち上がるとストーブのスイッチを入れた。あたりはまだ暗いが、北海道警察の駐在員の彼は、いつも決まってこの時間に起きる。そしてこの日も、温めてあった缶コーヒーと煙草を手に握ると、駐在所の扉を開けて表に出た。
修司は息を吸い込んだ。氷点下の冷たい空気が肺に突き刺さり、それが彼の身体全体に染み渡ると、眠気を吹き飛ばして意識をはっきりさせる。そしてその後にその空気は真っ白な吐息となって、同じように真っ白に染まった知床連山に向かって吐き出された。二十一世紀も半ばを過ぎ、世間は温暖化やらなんたらで賑わっているが、ここ斜里では関係ない。斜里の冬はいくら時が過ぎようとも寒い。
バイクの音が聞こえたと思うと、新聞配達員が暗い道をライト一つ頼りにこちらへ向かってきた。
「いやー、駐在さん。今日もまたえらくしばれるねぇ。本当に毎日毎日、ご苦労なこったべさ」
「なんもなんも」
修司は笑顔で答える。
「それはお互いさまっしょ。あんたもこんな朝から大変だべさ。ほれ、あっためといたよ」
修司が温まった缶コーヒーを渡すと、配達員は手袋をはずし冷えた手を温めるようにコーヒーをいじくり回した。修司は煙草に火をつけると大きく息を吸い込み、ふたたび山に向かって今度は煙の混じった息を吐き出した。
「ひゃー、あんたのコーヒーはうめえなぁ」
「なんも。あんたも吸うかい?」
修司は煙草を差し出すが、配達員は苦い顔をして首を横に振った。
「いらんいらん」
「なしてよ? 禁煙でもしとんのかい?」
「いやー、家内がおっかないんだべさ。近頃、健康がどうのこうので騒がれとるっしょ? それでうちのも過敏になっちまってさぁ。俺にも『煙草ばっか吸うんでねぇ、早死にしてぇのか』って、すげえ剣幕で怒鳴るんだもん」
修司は煙草の煙を吐き出しながら小さく笑った。
「それだけ大事にされとるってことっしょ。あんた幸せもんよ?」
配達員は悲しげに首を振る。
「とんでもねぇ。もうすぐ定年なんだから、もう早死にも何もないべよ。今から煙草止めたっていまさらどうにもならんっていうのに」
「定年ねぇ――」
修司はさらに煙草を吸い込むと、バツが悪そうに配達員から目を背けた。すると配達員は困った様な顔をして、声を大きくした。
「ああ、そういえば駐在さんももうすぐで定年っしょ? どうするの、神奈川にでも帰るんかい?」
彼がそう言うと、修司は少しの間、学生時代の友人たちのことを思い起こした。同じ部活の同期たち、親兄弟、昔に愛した女のこと。それらは修司が遠く神奈川に置いてきた思い出だった。おそらくもう二度と会うこともない人も中にはいるだろう。だが、それは仕方のないことだと修司は思っていた。それらは彼自身が諦め、捨ててきたものなのだから。捨ててきたものは二度と自分の元には帰らない。
駐在所の事務所に戻ってパソコンを開いてデスクワークに取り組んでいると、机の端においてある電話が突然鳴り響いた。二鳴りしないうちにすぐに受話器を取る。
「もしもし。斜里駐在所、今鳥です」
北海道警察本部からの電話だった。修司は気持ちを引き締めると、冷静に受け答えた。
「お疲れ様です。はい、はい――。警視庁からですか?」
奇妙なことだった。もとよりこんな北海道の地の果てに電話をよこす者なんてそうそういやしない。斜里は老人たちばかりで、いつも静かで平和なところだ。さすがに世界遺産だけあって、夏になれば、観光客で賑わいは見せるが、それにしたってたいしたことはない。なんにしても、とにかく静かで何もないのだ。
そんな何もないところに、わざわざ警視庁から連絡をよこしてきたのだ。これはよっぽどのことがあるのだろうと勘繰っていたが、それは道警の方から引き継がれた、警視庁の声の主によって取り越し苦労に終わった。
――修ちゃん? 元気かい?
修司は溜息をついた。
「新ちゃんかい? いかんっしょ、本部の電話なんか使っちゃあ」
だが、呆れた声と顔はみるみるうちに笑顔へと変わっていき、修司の声は懐かしさと嬉しさに震えていた。
羽田新一は、警視庁に勤務する警官である。彼は修司と同じ大学に通い、同じ部活で苦楽を共にし、そして共に警察官になった。その際に修司は逃げるように北海道に移り住み、道警の試験を受け、新一は警視庁の試験を受け刑事として生きてきた。
――ははは、お前の電話の番号まったく分からないからさ。仕方ないだろう。
「そうかい、そうかい。それにしても懐かしいねぇ」
――ほんとにな。こうして話すのは何年ぶりかな。最近はどうよ?
「何十年間も北海道にいるんだべや。もうすっかり道産子だ。ところでそっちのみんなは変わりないかい? みんなもう立派な爺婆になっとるべさ」
新一はすぐには答えなかった。一瞬、会話が途切れると、新一は電話越しで溜息をついた。
――いやー。それがさ、修ちゃん。
修司は新一の声の重さを感じ取り、笑顔を消して彼の続きの言葉を待った。
――村田がね、死んだのよ。癌を患ってね。
修司は目を閉じた。そして村田の顔を思い浮かべた。
「そうかい。それで――、どんな最期だったんかい?」
――家族みんなに見送られて逝ったらしい。娘夫婦も、お孫さんも寄り添っての別れだったらしいよ。
「それなら何も思い残すことはないっしょ。大往生だべさ」
「――末期の肝癌です」
修司は少し前のことを思い出した。
体調が優れなく、最近になって身体のだるさがずっしりと圧し掛かってくるように感じていた。念のための健康診断を小さな診療所で受け、そこの先生からは『肝機能数値の微小な異常』の診断をもらっていた。一応、さらに念を入れる形と先生から説明され、斜里病院での治療を説得された。その際に斜里病院の細川先生宛てにと、修司の検査結果が同封してある手紙を持たされた。
だが、修司はこの検査結果に大して興味を示さなかった。そして、どうせ斜里病院に行く気はないのだからと、手紙の封を開けた。そして思いがけないその内容に愕然とした。
『当患者末期の肝癌に侵されており、それは全身に転移しているため切除は不可・治療は困難』
と、手紙には記されていた。
次の日、さっそく斜里病院で診察を受けた。
斜里病院の内科医、細川はうつむきながら淡々とそう言った。
四十前後の若い医師である。医師というものは本来多忙を極める職業らしいのだが、この医師はその多忙なスケジュールの中でも遊び心を忘れず、常に周囲に笑顔を振りまくことで、病院内の注目を集めている若者である。結婚はしているが、女遊びはするし、愛煙家であり酒豪。だが、前向きな笑顔と確かな腕を持つ医師として、信頼は厚い。
だが、このときばかりは笑顔の絶えない彼でも、さすがに深刻な表情を浮かべていた。
「治療は非常に困難です。手術をしようにも転移が広すぎて摘出のしようがありません」
「末期癌――」
修司は目を泳がせながら、まるで独り言のようにそう呟いた。細川は修司を見つめながら小さな溜息をつくと、端から端までぎっしりと文字で埋め尽くされた紙を修司の前に置いた。
「今鳥さん、あなたはいくつかの選択ができます」
「選択ですか?」
修司は顔を上げて細川を見つめた。
目の前に差し出された紙は、これからの治療法の書かれたものだった。
「そうです。一つは、入院して抗癌剤を投与しながら病と闘うこと。二つ目は、入院はしないながらも抗癌剤を投与する。しかし入院をしない抗癌剤治療は健康保険の適用外だから莫大な費用が掛かります。三つ目は、緩和医療というものがあります」
「なんですか? その緩和医療っていうのは」
「近年注目されている治療なのですが――」
細川は首を振って、少し考えた。
「いや、治療じゃないかな。簡単に言うなら、これはどのような最期を迎えるかという患者さんの意思を手助けする医療なんです。痛みを緩和するための薬や麻薬を投与し、少しでも日常生活で病気による苦痛を取り除いて、日常生活を送りやすくするものなんです」
「緩和医療で、お願いできんでしょうか」
修司は顔を上げて細川を見据えると、きっぱりと言い放った。
「いいですか、今鳥さん。たとえ緩和医療といえども、身体の気だるさと痛みは日に日に増していく。最後には、起き上がることも話すことも困難になるでしょう」
「いいんです、仕事さえできれば――」
「――その仕事もそのうちにままならなくなりますよ」
細川は遮って、鋭く言った。
「それでも――」
修司は目を吊り上げて細川を見つめた。細川も唾を飲み込んで彼を見つめ返した。
「それでも、私はやらねばならんのです。一生をかけての仕事なんです」
――修ちゃん、修ちゃん。
新一の呼びかける声にハッとして、修司は我に返った。
「うん――」
――それでな、俺明日から長休もらってな。そっちに行こうと思ってんだ。
新一の明るい声が、修司の耳の奥まで響き渡る。彼は目を閉じると、その友人の心地よい声の温もりをじっと噛み締めた。
「いや――」
だが修司はその温もりを手に入れることを遮ろうとした。
「せっかくの休みだべさ。俺なんか会いに来ないで、ゆっくりしときなさいよ」
――だから、幸子との旅行で網走に行くから、お前はそのついでだよ。結婚四十年記念だ。
新一はどもった声で言い返した。
「ああ、さっちゃんか――。さっちゃん、元気でやっとるのかい?」
――元気だから二人で旅行に行くんだよ。
修司は若い頃の新一と幸子の熱愛ぶりを思い出し、口許に笑みを漏らしながら彼をからかった。
「なんだべさぁ、まだラブラブしけこんどるんかい。相変わらず元気なこったねぇ、新ちゃんは」
――俺はいつでも若いよ。
「そうかい、そうかい。まぁあんたのことだから明日のことは期待せんよ。もう切るよ――」
レラ
ふっとすると、グラウンドの中央に立っている自分自身がいた。ふわふわする感覚にこれがすぐに夢であるということに気がついたが、金縛りに掛かったときのような苦しみはなかった。むしろいま自分の立っている場所が、遠い昔に通った大学のグラウンドであることに懐かしさを感じていた。
甲高い打撃音が聞こえて修司は顔を上げると、小さな白球が彼の前に転がってきた。修司は球拾い上げると、顔を上げてこの球の持ち主を探した。目の前には巨漢な青年がファーストベースの横に倒れこみ、荒い呼吸を整えようとしている姿があった。青年の練習着はグラウンドの土にまみれて泥だらけとなり、それと大量の汗が混じりあい、体育会特有の臭いを醸し出したが、彼はそれに構うことなく立ち上がると、ホームベース上でバットを持っている人に掛け声をした。どうやらノックを受けているようであった。
「三山――」
修司は身体の肉を揺らしながらもはつらつと動き回る姿を見ると、すぐにその青年が、自分が学生時代に死んだ三山であることに気づいた。修司は彼の存在に気がつくと、すぐに隠れようと一瞬全身の筋肉を緊張させた。
――まあ、所詮は夢だから。
そう思うと、隠れることをやめて、グラウンドの端っこにあるベンチのほうへ歩き出し、そこに腰をかけると煙草に火をつけた。
「もったいなかったな」
修司は煙を吐き出すと、三山を見ながら呟いた。
思えば、修司が警官になろうと心に決めたのは彼の存在が大きく関わっていた。
大学を卒業して警官になり、二年目で少年課の刑事となった。多くの青少年の心の中に入り込み、彼らの中に溶け込むことで、彼らの抱える心の闇を目の当たりにした。北海道とはいえ、札幌市街にも東京や横浜などといった大都会と同様に、人々の誘惑や心の闇を生み出す環境は数多く存在する。
修司が刑事となった頃は、不況の波が世界中に広がり、その波に日本も飲み込まれていった。その波は、時には人々から生活を奪い、また時には生きること自体を奪っていった。それは人々の心を曇らせた、毒を持った波だった。その毒を持った波は人ひとりひとりにも降り掛かり、毒に侵された人々が札幌市街に蔓延り始めた。
毒は時には人の生命そのものを奪った。修司は雪の降り積もる冬の街の路上で、冷たくなって横たわった人々の身体を何度も見つけては、検証し、弔った。
その影響を受けているのかどうか定かではなかったが、その毒は子どもたちの中にまで広がっていった。街中が毒で侵されると、修司にはその不穏な空気が子どもたちを毒したように見えた。彼らもその毒にもがき苦しみ、その痛みを紛らわすために、誘惑という薬に手を出した。薬は当時の情報社会の中に埋もれていた。情報社会は誘惑を叶える薬として大きな効力を発揮していた。
薬漬けになった子どもたちの惨状は凄まじいものだったのを修司は覚えている。幻覚症状などの禁断症状をはじめとして、毒の含んだ波に飲み込まれた子どもたちの心はボロボロに朽ち果てていた。少年課の刑事として、彼も町に出向き、荒波から子どもたちを守ろうと必死に働いたが、そういった子どもたちは後を絶たなかった。そればかりか自分が保護し、指導した子どもたちがふたたび同じ波に飲まれ、そして自ら命を絶つ子どももいた。
大学を出て警官になったばかりの頃は、修司も社会に潜む危険から人々を守ろうと必死に励む警官だった。だが刑事として何年も何年も事件を解決してきても、一向に減ることのない被害者。良くなるのは自分の警察官としての階級だけだった。警部補ともなると、それなりの階級に合わせて北海道警本部に呼ばれて、そこでは大きな事件を担当するようになった。
減らない被害者と、被害者を減らそうと努力をしない上の人間と対立したこともあった。上司も階級では立派な立場ではあったが、所詮は己の利権とプライドを守ろうとするだけの人間であった。自分たちの身を守ろうとする彼らにとって、修司の熱意は邪魔臭いものだった。そうしているうちに修司に辞令が下り、斜里という田舎町の駐在所に飛ばされることとなった。
――所詮、刑事一人が足掻いたところで世の中は変えられない。
そう悟るようになり、斜里で静かな駐在生活を送ることになった。だがそのような目に遭っても、変わらずに警官としての仕事を続けてこられたのは、三山に対する想いからだった。
ふたたび球が転がってくると修司はまたそれを拾い上げた。
泥だらけの巨漢の影が目の前で立ち止まると、修司は顔を上げてその影を見上げた。
「修ちゃん――」
およそ四十年ぶりに聞くひどく懐かしい声に、修司は声も出なかった。全身の筋肉が凍りつき、ただ三山の顔を見上げていた。
「修ちゃん、随分歳をとったんだね。もう立派なおじいさんだ」
爽やかな笑顔は、修司の胸の内の氷を照らし始めた。修司から微かな笑みがこぼれる。
「いい笑顔だなあ」
「修ちゃんこそ」
「元気かい?」
「うん。修ちゃんはいまなにしているの?」
修司は頬を強張らせた。
「警察をやっているよ」
「警察? どうして?」
三山は怪訝な顔で彼を見ると、修司は三山から目を背けた。
「おもしろいねぇ、まさか修ちゃんが警察に入るとは思いもしなかったよ」
「俺もだよ――」
修司は目を背けながら、ボソリと呟いた。
「なあ、三山。どうして死んだ?」
修司がそう言うと、三山は緩んだ口許を引き締めた。
「やっぱり俺が――」
「修ちゃん――」
三山は修司を遮ると、彼を見つめながらふたたび微笑んだ。
「人間なんて放っておいたって、みんな死ぬんだよ。遅いか早いかだけだよ」
修司は顔を上げると、睨みつけるように三山を見つめた。
「ああ、だけどお前は早すぎたよ」
「同じだよ。俺はもう死んだんだよ、修ちゃん。俺は早かった。だけど修ちゃんはまだ生きている。それだけだよ。死んだ人間のことは忘れたほうがいいよ」
修司はすでに燻っていた短い煙草を一吸いした。
「吸うかい? 随分久しぶりだろう」
三山は相変わらず微笑みながら首を横に振った。
「いや、いいよ。修ちゃんと新ちゃんがたまに墓に遊びにきて吸わせてくれただろう。それで充分だよ」
「ああ、すまなかったなあ。俺は警察学校に入って以来、まったくお前のところへは行ってなかったな。その仕返しに俺を祟りにきたんだろう?」
三山を温かい笑みを浮かべたまま、ふたたび首を横に振った。
晴れた日の夕方、雪の降り積もった斜里の駅のホームを朗らかな風が舞った。修司はホームに立って電車の到着を待っている駅長に近づいた。
「やあ、駅長さん」
「おお。どうしたんだべさ、駐在さん」
「なあに、出迎えだべさ。こんなじじいでも客人ぐらいいたっていいっしょ」
駅長は小さく笑った。
「何十年前だっけさあ、駐在さんがこの町へ越してきたのは。無精に蓄えた髭で顔は窶れててなあ、疲れきっとったっしょ。一生分の力を使い果たしたような顔しとらしたべさ」
修司は微笑した。
「なにも、おかしなことはないっしょ」
「そうかい?」
「なんも。その何十年も前に、こっちに来る前に会ったきり久しぶりの再会だべさ」
修司は感慨深げに笑みを浮かべると、網走方面から走ってくる電車を見て目を細めた。電車はやがて速度を落とすと、ホームに差し掛かり古い車輪の音を立てながらゆっくりと停車した。
「斜里~、斜里~」
駅長の低く心地良い声が横から聞こえるのと同時に扉が開くと、昔よりも大分肥えながらも、ひどく懐かしく、明るい笑顔を浮かべた男が修司の目の前に立っていた。
「やあ、修ちゃん。おつかれ――」
友人は昔と変わらぬ挨拶をした。その様子に釣られて修司も明るい笑顔を浮かべると、彼も昔と変わらぬ挨拶を、同じように返した。
「おつかれ――」
修司は新一を見渡すと、丸々とよく肥えた腹部に目を見張った。
「新ちゃん、また肥えたんでないかい?」
「正月太りが未だに響いていてな。また太っちまったよ」
「正月太りって。新ちゃん、もう二月の半ばよ。正月太りはないんでないの」
修司は苦笑した。そうしながらも、新一を先導しながら歩き始めた。
「ところで、さっちゃんはどうしだんだべさ? 一緒じゃないんかい?」
「いやぁ、昨日まで一緒に来る予定だったんだけどな。修ちゃんと会う約束をしたって言ったら、じゃあ初孫の顔見てるから一人で行って来い、ってよ」
「へえ。新ちゃん、じいさまでないの。いつ生まれたのよ?」
新一は照れたように、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「へへ、先月の初めだよ」
「それじゃあ新ちゃん、その腹は正月太りじゃなくて、初孫太りだべさ」
二人は駅を出ると、道路を挟んだ目の前にある駐在所に入っていった。
「それでどうだべさ、こっちの冬は?」
修司は、事務所と居間を繋いでいる玄関の土間に大きな腰を落とした新一に背を向けながら、灯油のストーブのスイッチを入れた。
「いやぁ、相変わらず寒いよ。よくこんなところに住んでいられるねぇ。まぁだそんなストーブ使っているし」
「北の冬は灯油の方が温かくなるって、青森の辰夫が教えてくれたんよ。もう何十年も前の話だべさ」
「ふーん、最近の斜里はどうよ?」
「最近もなにも、斜里はずっと変わらねえべさ。釧路のほうはメタンが大量に取れたっていって騒いどるべよ」
「おおー、メタンハイドレートか。そういえばテレビが言っていたな」
修司は溜息をついた。
「釧路の独立特区も時間の問題だべさ。でも斜里はなんも変わらん」
「それが斜里のいいところだよ」
修司は徳利を鍋から取り出すと、台所から戻ってきて新一を座らせた。
「じゃあ余り物ばかりで悪いけど、二ヶ月遅い正月でもやるだべさ」
「おお、そうしよう」
二人は互いに注いだ熱燗のお猪口を勢いよく啜った。酒を飲み込むと、二人は暫くのあいだ黙り込んだ。夕焼けの光の帯が次第に失せ、あたりが闇に包まれ始めた。街灯も車も滅多にない、この町の暗黒の時間の中で、自分たちのいる部屋の明かりだけが静かに点っている。
「なあ、修ちゃん――」
沈黙は、溜息混じりの新一の呼びかけによって遮られた。
「これからどうするんだい?」
「これからって?」
修司は新一のお猪口に酒を注ぎ足しながら返事をした。
「修ちゃん、もうすぐ定年だろう? そうしたらここにはいられないだろう。神奈川に帰ってくるのかい?」
新一が真面目な顔で見つめる最中、修司は煙草を口にくわえ火をつけ始めた。
「修ちゃん?」
新一は修司に迫って彼の顔を覗き込んだ。
「神奈川に帰るって言ったって、俺の帰る所なんてねえべさ」
修司は溜息をつくように煙を吐き出しながら答えた。
パイカルアン