わたしの子どもたち

あおい はる

 子どもがいる。
 たくさん、いる。
 子どもたちの傍らに子どもを一匹、二匹と数えている奴がいて、胸糞悪かったので蹴飛ばしたら、蹴ったはずの腰のあたりが白い煙となり、胸糞悪い奴はキヒヒと嫌な笑いを残して消えた。人間に化けた何らかの生き物であろうが、何の生き物かまでは判らなかった。カブトムシが食べるゼリーのようなニオイがしたので、おそらく昆虫類であると思われるが。
 たくさんの子どもたちは、海にいる。
 海の中で、何かの作業をやっているようだ。
 わたしは砂浜にいて、煙になって消えた胸糞悪い奴は波打ち際から子どもたちを監視していたようで、見渡すとあちこちに胸糞悪い奴の仲間と思われる奴がいる。子どもたちは黙々と、何かの作業に取り組んでいる。手だか、足だかを動かしている子どもたちが上げる飛沫の音と、時折、思い出したように一匹、二匹と数える胸糞悪い奴らの声だけが、わたしの耳に届いてくる。波はない。風も吹いていない。ウミネコなんかとっくに絶滅した。
 最近ではすっかり森も腐り、山は崩れ荒野となり、コンクリートのビルは廃墟と化し、村は地図上から次々と消失し、人間は何故か子どもばかりが増え、大人の人口は目に見えて減少を続け、気づけばカブトムシが食べるゼリーのようなニオイをさせた昆虫類と思われる人型の輩が闊歩する世界となっている。人口衛星から撮影された地球の写真が毎日テレビで流れるが、わざわざ外観を見ずとも地球が最早死んだも同然であることは、生きているわたしたちがいちばんよく知っている。国が設置した半径三十キロ圏内の空気を清浄にできる装置が昼夜稼働しているにも関わらず、日に日に空気は悪くなってゆく。死んで腐った生物の腐敗臭が混じっているのは明らかであるが、数が多すぎて消臭が追いつかないのである。
 そういえばわたしにも子どもがいる。
 わたしは齢三十にして、子どもが八人いる。二十歳から生み続けて八人。
 海にいる子どもたちのほとんどは、わたしの長男と同じ年頃であろう。もしかしたらわたしの長男も、あの中にいるかもしれない。長男とはもう五年以上逢っていない。今現在わたしが育てている四人の子どもたちも、あと一年すればひとり、またひとりをわたしの元を去っていく。大人が大幅に減った国では、子どもたちが働かなくてはならないのだ。テレビから娯楽番組が消え、インターネットは規制が設けられ、世の中からミュージシャンや作家という人たちがいなくなり、愉しみといえ我が子の成長を見守ること。それくらい。それと、セックスをすること。それくらい。
 カブトムシが食べるゼリーのようなニオイをさせた奴がひとり、海から子どもを引きずり上げている。
 子どもは泣いている。
 この世に信じられるものなんて何ひとつないことを悲観し、憤っているような激しい泣き方である。
 わたしはなんだかあの子が、五年前に生き別れた長男のような気がしてきた。
 わたしの子ども。生きていれば十歳になっている。泣いている子どもはちょうど、十歳くらいの身の丈をしている。
(かみさま、かみさま。今さら貴方にすがるなんてちゃんちゃらおかしな話ですが、もしおられるのなら聞いてください。わたしの子どもたちを、家で待っている四人の子どもたちと、それからどこかで生きているはずの三人の子どもたちと、そして今まさに目の前で泣いているわたしの子どもを、どうかお守りください。どうか)
 地球の海は赤色をしている。
 空が赤いからだ。
 人工衛星から見た地球は赤黒くて、皮膚が爛れているみたいだと思った。

わたしの子どもたち

わたしの子どもたち

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-08

CC BY-NC-ND
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