アナグマ

アナグマ

プロローグ

本当に幼い時のことはよく覚えていない。
一緒に暮らしていたサミュエルおじいさんは、僕の両親は流行り病で死んだという。
サミュエルおじいさんは森の植物にも詳しかったし、熱を下げる薬の調合や、家畜の病気を防ぐまじないを村人からよく頼まれていたから、なぜ僕の両親を助けられなかったのか疑問に思ったことがある。
おじいさんにその疑問をぶつけると、おじいさんは寂しそうに笑って言った、それが運命(さだめ)というものだと。
その時は、村の子供たちから両親がいないことを理由に仲間外れにされていたから、煮え切らないおじいさんを腹立たしく思った。

それから4年ほど経ち、おじいさんの右腕として村の病人を訪ね、生死と隣り合わせの今なら分かる。
人を助けるということは万能ではない。
助けられない命もあるのだということを。
そして、自分が村の子供たちからいじめられていた理由は、村の大人たちが自分を疎んでいるからで、その理由が、自分が黒い髪、黒い瞳、褐色の肌をしているからだということも理解していた。
サミュエルおじいさんは明るい茶髪、緑色の瞳、白い肌をしている。
自分の髪の色や肌の色が違うのは母親がこの地の原住民だからだ。

"野蛮な原住民(あくま)"

そう、僕は悪魔の子供だ。

1.呼び出し

≪クルックーケー・クルック・クルックー≫

明るい昼下がり、森のほうから野鳥の鳴き声がした。
<黒いワシ>が僕を呼んでいる。

「サミュエルおじいさん、森に行ってきていい?」

薬草の日干しは終わり、タン切りの水薬は煮込み終わっている。
しかし、サミュエルおじいさんはあまりいい顔をしなかった。

「いいか、わかっていると思うが」

「誰にも見られてはいけない。悪魔と交流があることを絶対に知られてはいけない、でしょう。」

「本当は森に行くことを禁止したいが、奴らはお前の母親の仲間。
わしが先に逝ってしまったあと、お前を助けてくれる唯一の仲間だからの。」

僕はおじいさんがこの話をすることが大嫌いだった。
大好きなおじいさんが死ぬなんて考えたくないし、おじいさんという後ろ盾を失くした自分がこの閉鎖的な村でどんな目にあうかを考えただけでも憂鬱だった。
でも、森に行くなら避けては通れないお説教だ。

「おじいさん、わかっている。ごめんなさい心配かけて。でも絶対に約束は守るから。」

≪クルックーケー・ケー・ケー≫

<黒いワシ>が急かしている。
僕は申し訳ないと思いつつも、夕食前には帰ることを約束し、家の裏口から周囲に村人がいないことをよく確認すると、森のいつもの場所へ急いだ。



「おい、<アナグマ>。遅いじゃないか。」

<黒いワシ>は僕を<アナグマ>と呼ぶ。
彼らの一族は、真名(ほんとうのなまえ)を自分の親と総長と生涯の伴侶にしか明かさない。
名前を呼びあうときはいつも呼び名を使っている。
<黒いワシ>は僕よりいくつか年上の健康的な小麦色の肌をした青年だ。
総長の一番孫で、狩りの腕は一族の中でも3本指に入る。
教会のある秩序だった白人世界での生き方を教えてくれたのがサミュエルおじいさんなら、
精霊と自然と大地と共存する原住民の生き方を教えてくれたのは<黒いワシ>だ。

「おじいさんが最近、神経質なほど心配している。
無理もないと思う、この前も隣の村で魔女が出たって。
5人も絞首刑になったんだ。
魔女狩りの知らせが入ると、いつだって村の人たちは僕を嫌な目で見るし。」

いつもなら笑い飛ばす<黒いワシ>が神妙な顔をした。

「<黒いワシ>、どうかしたの?」

「今日呼び出したのは、いつものように狩りの方法やカチーナ人形の作り方を教えるためじゃないんだ。
ばあさまが<アナグマ>を呼んでいるから、急いで連れてこいとじいさまが言うから。」

悪い知らせを予感させられ、僕はうすら寒さを覚えた。

「<アナグマ>、なに暗い顔してんだよ。
お前はいつだって弱虫なんだから。
大丈夫、いざってときはおれが守ってやるから。」

「<黒いワシ>、カチーナ人形作りや、ダンスカチナは僕のほうが上手いんだからね。」

本当は<黒いワシ>にとても感謝しているけれど、憎まれ口をたたく。
村の人たちと比べれば色濃い肌も、一族の人たちに比べれば薄くて、どっちつかない<アナグマ>なのに、
実の兄弟のように愛してくれる<黒いワシ>。

「そうだな、<アナグマ>は大地と精霊の愛し子だもんな。
霊力が一族の中の誰よりも高いことは分かっているよ。」

<黒いワシ>の大きな手が僕の背中を叩いた。
僕は鼻をすすった、また弱虫とからかわれるのを承知で。

2.打診

ホラ(こんにちは)<金のキツネ>(じいさま)。遅くなりました。」

一族の総長である<金のキツネ>は白髪の老人だが、まだまだ狩りでは活躍するだけあって筋肉質でがっちりとしている。

「<アナグマ>、待っておった。<フクロウ>(ばあさま)から大事な話がある。
こちらへ来なさい。
<黒いワシ>は外に出ておりなさい。」

<黒いワシ>は短く返事をすると、岩窟の出入り口の見張り役のところへと向かっていく。
一族が夏の間住んでいる岩窟は天幕で区切られており、その最奥に僕は招かれた。
岩壁には、一族が祭る精霊や動物たちが描かれている。
足元に敷かれている狼の毛皮は、<黒いワシ>が初めて自分ひとりで狩ったもので、それを彼は精霊に捧げ、晴れて一人前の成人と認められた。何年も前の話である。
それに引き換え、僕は狩りによる成人の儀を行っていない。
狩人として成人するには、狩りの腕がまだまだ足りなかったし、願わくば僕は呪術師として成人の儀を行いたいと考えていた。
ただし、半血(ハーフ)で、大地の侵略者たるオワイト(教会のしもべ)の村に暮らす<アナグマ>が、<フクロウ>のような立派な呪術師になれるとは思っていなかったので、自ら打診したことはない。
呪術師の成人の儀は、一族の精霊と契約すること。
トント(白人にへつらう人間)が一族の神聖なる精霊と契約できるとは思えなかった。


「<アナグマ>、座りなさい。」

「はい、<フクロウ>。」

僕は狼の毛皮の上に座り、<金のキツネ>は<フクロウ>の隣に座った。

「<アナグマ>や、成人の儀について考えたことはあるかね。」

<フクロウ>の深いしわがれ声は僕を驚かせた。

「…僕にはその資格がないと思っています。」

「<アナグマ>、私たちは大地を、水を、木を、動物を、精霊を敬う。
たとえオワイト(教会のしもべ)だろうと、大地を讃えるものは、一族の成人になれる。」

考えたこともない言葉だった。
なれるものなら、<フクロウ>のような呪術師になりたい。
自分を迫害する村で生きるのではなく、一族の成人として生きたい。
しかし、と僕は唇を噛んだ。
サミュエルおじいさんはどうしたらいいのだろう?自分のせいで村から疎まれているおじいさん。
薬屋は村になくてはならない存在だが、人の死に関わるため忌み嫌われる職業でもあり、異端狩りの際は一番最初に被害者となる。
自分が悪魔の仲間入りをしたら、サミュエルおじいさんは確実に教会の手で処刑されてしまうだろう。
殊更、最近は風当たりが強い。
僕は即答ができなかった。
そんな僕の葛藤を見透かしたように<フクロウ>は静かに告げた。

「<アナグマ>、迷っても良い。
だが、決断は必要だ。
決断したら、私と<金のキツネ>に知らせなさい。」

僕は感謝の意を述べると、その場を辞した。
岩窟の外に出て明るい日差しに目を瞬いていると、<黒いワシ>が目ざとく見つけて声をかけてきた。

「<アナグマ>、送っていくぜ。」

村への帰り道、<黒いワシ>は何を言われたのか、と質問してきた。

「よかったじゃないか!
成人の儀をしないか、ってことだろう。これでお前も一人前だな!」

混血の僕が成人の儀をできるかどうかが分からず、<黒いワシ>は昔からそんな僕を気遣ってあえてその話題に触れないようにしてきたのは知っている。
喜んでもらえて嬉しいが、複雑な心境は晴れなかった。

「しかしなあ、だったらどうしてばあさま(フクロウ)じいさま(金のキツネ)は、深刻そうだったんだろう。
おれはてっきり悪い話だと思っていたから、どうやって弱虫<アナグマ>を慰めようかと考えていたんだ。」

<黒いワシ>は揶揄するようにからりと笑った。

「簡単な話ではないからだと思うよ。
僕はサミュエルおじいさんや、村での事情を考えないといけない訳だし、」

そう言いながらも、本当にそれだけだろうかと疑問だった。
唐突に成人の儀を打診した理由を<フクロウ>に質問すればよかったと後悔した。
僕はもう今年で11歳になる。
同年代の一族の子供たちは全員成人の儀が終わっているが、その時には声をかけられなかった。


突然の成人の儀の打診
隣村の魔女狩りと5人の処刑
自分を見つめる村の人たちの嫌な目
神経質なほど心配するおじいさん


僕は人生の岐路に立っていた。

3.暴徒

森のいつもの場所で<黒いワシ>と別れ、夕闇に乗じてひっそりと家に帰った。
帰宅の挨拶をし、夕食の支度をしているサミュエルおじいさんを手伝う。
その間は無言で、僕も成人の儀について敢えて話さない。
おじいさんは僕のことを愛してくれていたが、僕の仲間については聞きたがらなかった。
もしおじいさんに信用できる親族が一人でも生きていたら、その人を僕の後継人にして、森へは決して行かせてくれなかっただろう。

その日の夕食は、畑でとれた旬のトマトと、豆を煮込んだスープ、収穫前に間引きした小ぶりのジャガイモと、裏庭で飼っている雌鶏の卵で作ったキッシュ、トウモロコシをひいて作ったコーンブレッド。

教会への感謝の言葉を述べ、質素だが暖かい夕食を静かに食べていると、騒がしい足音がして、家のドアが蹴破らんばかりの勢いで叩かれた。

「サミュエル!来てくれ!急患だ!!」

「森で襲われたんだ!」

森、と聞いて、僕は心臓が凍った気がした。
サミュエルおじいさんは、けが人を処置するための準備を素早く整え、ぼさっとするな、と僕を叱り飛ばした。
その声で我に返り僕も慌てて立ち上がり、急いで準備をする。
村人たちがおじいさんに状況を説明するのを聞くと、森でグリズリーに襲われたようで、1人がすでに息絶え、もう一人も危ない状況だという。
僕にとっては一族であり仲間の"野蛮な原住民"と、村の人たちが森で一戦交えたのかと肝を冷やしたが、そうではないようで、安堵した。
原住民と白人の対立は、新大陸に白人が渡ってきた翌年から各地で起きている。

家に駆けこんできた村人たちも、狩りに同行していたようで、頭から血を流したりと皆どこかしら軽傷を負っていた。
そんな破れかぶれな状態でも、僕を睨むことを忘れない人もいたが、僕は睨まれることくらい慣れすぎてしまっていて、何の感情も湧かなかった。


翌朝、森でグリズリーに襲われ2人が死亡した事件は村中に知れ渡っていた。
僕とおじいさんはもう一人の重傷者を救えなかった。
内臓を半分近くえぐられても生きて村まで辿り着いたことこそ幸運な奇跡だったが、村人たちの考える幸運には際限がないらしい、『生きて村に帰ってきて、サミュエルおじいさんを呼んだのに、死んでしまった』と嘆き、そればかりが独り歩きしていた。
村は仲間を失くした悲しさだけでなく、夏も終わりに近づき、収穫が始まるのに、農作業に必要な男手を2人も失ったという実利的な喪失にも苛まれている。
そして、そのはけ口は葬式を訪れた僕だった。

「昨日!お前の顔を見た時から嫌な予感はしていたんだ!
いやらしい薄ら笑いを浮かべた悪魔が!
お前がジョセフを殺したんだ、そうだろう!」

内臓を半分えぐられて今朝早くに亡くなったジョセフおじさんの従兄のサムおじさんが僕に怒鳴り散らした。
サミュエルおじいさんは間を取り持とうとしたが、一人の村人の怒りはあっという間に伝播した。

「野蛮な悪魔め、お前があの化け物みたいなグリズリーをけしかけたんだろう!
お前が今、何考えているか当ててやろうか?悪魔に捧げる供物ができてよかったと喜んでいる、そうだろう!」

「この野蛮人、お前が死んでしまえ!」

「俺は、ジョセフの治療しているときに、こいつがブツブツ何かを言ってたのを聞いたぜ。
呪いをかけてたんだろう、ええ?
人を殺す呪いをな!」

悪魔、死ねの大合唱が始まる。
取り囲まれ、今にも集団私刑の直前だった。
周囲を見渡すと幸いなことに、サミュエルおじいさんは暴徒と化した村人たちの輪の外にいた。
僕は長年の経験から村人たちと分かり合う努力をすでに放棄していたし、ここまで興奮している人たちに何を言っても火に油を注ぐだけだろう。
おじいさんが必死に村人たちをかき分けてこちらに来ようとしているのが見え、僕がここにいるとおじいさんまで巻き込まれてしまうと判断し、仕方がないので僕はその場から逃げ出した。
固いものが背中や頭に当たったが、構わず走る。
誰かの家畜小屋に逃げ込んで身を隠したとき、悪魔の子を追い払ったと歓声が聞こえた。
しばらくして、息も整ってきた。
教会から鐘の音が聞こえて、葬式が始まるのを確認してから、僕はそっと家に帰った。

4.詰問

葬式があった日の夜、僕は教会の牧師から呼び出しを受けた。
頭や背中の傷はまだ痛むが、葬式が終わるなり急いで家に帰ってきたサミュエルおじいさんが手当てをしてくれた。
今までも石を投げられたり、数人に囲まれて暴力を受けたことがあるが、村の過半数によるここまで大規模な私刑まがいのものは初めてだった。
だから、エヴァンス牧師から理由を説明されずに呼び出しを受けたとき、謝罪とまではいかなくても、労いや同情の言葉をかけられると思っていた。

村にある教会の隣にあるお屋敷にエヴァンス牧師一家は住んでおり、その扉をノックすると、僕が名乗る前に扉が内側から開いた。
扉を開けたのは厳しい顔をしたエヴァンス牧師その人だった。
エヴァンス牧師は自宅に僕が足一本でも踏み入れたら呪われると思ったのか、僕の二の腕を有無を言わさずつかむと隣の教会まで引きずるように連れて行き、聖堂の椅子にたたきつけるように座らせた。
対するエヴァンス牧師は僕の前に立ち、顔は正面を向いたまま、目線だけで僕を蔑むように見下ろしていた。

僕は昔からエヴァンス牧師が苦手だった。

感情の機微が伺えない厳格な表情。
安息日の長い長い説教。
背の高い格式ばった姿勢。
僕を見下ろす氷のように冷たい眼差し。

この日も、氷のような冷たい眼差しはさらに温度を下げており、どうして労いや同情の言葉が彼の口から出てくると考えたのか、思い出せなかった。
夏とはいえ暗い聖堂はひんやり涼しい。
ささくれだった椅子を掌に感じ、底知れない恐怖と戦いながら、僕は牧師の青い瞳を見上げていた。

「君は、毎日神に祈りをささげているかね?」

「は、はい、牧師様。」

牧師の問いは唐突に始まった。
失敗は許されない、ここで異端児の烙印を受ければ、待っているのは拷問と処刑。
それも自分だけでなく、おそらくサミュエルおじいさんも。
歯の音も合わない恐怖感じた。

「神に誓って、信心深く正しい行いを毎日しているだろうね。」

「神に誓ってもちろんです、牧師様。」

「悪魔の申し子という話があるな、君には。」

「牧師様、それは事実無根です。僕は誓って、」

エヴァンス牧師はうるさそうに、僕の言葉を遮った。

サレム(隣の村)の魔女裁判の話は聞いているな。」

「は、はい、ですが、僕は」

「君の周りで死人が2人も出たな。裁判の判事のお手を煩わせるのは恐縮だが、この村にも彼らに来てもらおうかと考えている。」

エヴァンス牧師の青い目の奥が燃えているように見えた。
僕は本能的に椅子から飛び降り、牧師の足元に膝まづいて、牧師のズボン裾に接吻した。

「牧師様!!!僕は従順なる教徒です。
今までより、もっと、たくさん、尽くします。
どうか、ご慈悲を、どうかこの哀れな子羊にご慈悲をお願いします。」

「…よかろう、だが、次はない。
私はいつでも君を監視していることを忘れるな。」

「ありがとうございます。ありがとうございます。
寛大な牧師様に主のご加護がありますように。」

僕は恐怖で泣きながら、それでもしっかりと挨拶をすると走って家へと帰った。
怖くてエヴァンス牧師の顔を見上げることはできなかった。
どんな顔をしていただろう、いつもの冷徹な蔑んだような表情だろうか、それとも納得した表情か。
サミュエルおじいさんは泣きながら息を切らせて帰ってきた僕の背中を優しくさすりながら、温めたヤギの乳を渡してくれた。


いつもよりもっと気を付けて行動しなくては。
森へはもう行ってはいけない。
成人の儀は受けれない。
ぼくのためにも。
おじいさんのためにも。

5.弾劾

エヴァンス牧師に呼び出されてからから数日は穏便に過ごせた。

人目を恐れて家に引きこもっていると、悪魔崇拝の儀式をしていると疑われるのではと恐怖した僕は、適度に水汲みや畑の様子を伺いに行き、村の人たちに健全で信心深い生活をしている自分を無言で主張した。
小突かれても、石を投げられても、丁寧に教会の挨拶をする。
エヴァンス牧師を見かけたときは特に丁寧に挨拶をした。
毎食前には以前より長くお祈りをし、寝る前は村人たちに受け入れられない罪深い自分を神に懺悔した。
一度、<黒いワシ>が野鳥の鳴き声で呼んでいたことがあったが、それに返答もしなかったし、森へも行かなかった。
成人の儀を断りに挨拶したかったが、今、森に近づくことは自ら絞首台に上るようなものだった。
サミュエルおじいさんも僕に対する村人の憎悪をとても心配して、薬屋としての村人の呼び出しに僕を連れていかなくなった。
もし村人の治療に僕を連れていき、治癒しなければ、僕が呪いを行ったと責めを受けることは明白だったからだ。

慎重に慎重に生活をしていた。
しかし、瓦解は一瞬だった。


それは月が薄くなった蒸し暑い夜、僕は讃美歌を口ずさみながらトウモロコシ収穫用の籠を編んでいた。
おじいさんはうちに1本しかない鎌を丁寧に研いでいる。
少しでも涼風をと窓が開け放たれ、虫の鳴き声がリーリーと響き、静かで穏やかな夜に、突然絹を裂くような悲鳴が村に響いた。
先日のグリズリーのように突然の悲鳴や物音は、自然と隣り合わせの入植地ではままある。
緊急事態に慣れた村中の人が、各々灯りを手にその悲鳴のもとに集まっていく。
野生動物の襲撃を予期し、銃や縄、鍬を手にしている人も見受けられた。
僕とおじいさんも、何か事故が起きていても対応できるように簡単な救急治療の準備をして駆けつけた。
おじいさんは僕を家に置いていこうとしたが、一人で家にいても危険と判断したのか、久しぶりに僕を連れて行った。

悲鳴のもとはリーズ家の農園で、先に到着した村人はざわめいている。

「家畜が死んでいるぞ。」

「全滅だ。」

「まるで、石化してしまったみたいだ、血の一滴も出ていない。」

オレンジ色の灯りが、村の人たちの不安そうな顔を揺らめき照らした。
なぜなら、リーズ家の羊と馬、20頭ほどが、ひっくり返って硬直し、動かなくなっていたからだ。
悲鳴は、この惨事を見つけたリーズ夫人のものだったようだ。
月明かりに息絶えた不気味な塑像たちが黒々と光る。

「困ったぞ、収穫を前にして、馬が全滅とは。」

村人が口々に動揺を口にしていると、よく通る声がした。

「何があったんです。」

エヴァンス牧師の一声で、その場が静まった。
村人は安堵の表情を浮かべ、僕は恐怖からおじいさんの後ろに隠れた。
そして、事態は僕にとって悪いほうに転がった、リーズ夫人が思いもよらないことを叫んだのだ。

「あの子はどこ!あの悪魔の子は!
あの子がやったのよ、うちの家畜をみんな、石にしてしまった。
石にして殺してしまった!!」

「…違う!僕は何も!」

声を出したことで、僕の立っている場所が皆に知られてしまった。
一斉に灯りを向けられ、何人かの屈強な男たちが、エヴァンス牧師の前に僕を引っ立てる。

「君には前に警告したはずだ。」

エヴァンス牧師は冷たく言う。

「違います、神に誓って僕は一度もここを訪れていません!本当です!」

「嘘おっしゃい!じゃあ、あの血の手形はなんなのよ!
うちに呪いの儀式のために悪魔の手形を付けたんでしょ!!!」

リーズ夫人はヒステリックに家畜小屋の壁の一点を指さした。
皆が灯りをそちらに向ける。

そこには子供の小さい黒い手形があり、恐ろしいことに僕はそれに身に覚えがあった。
ジョセフおじさんの葬式の日に石を投げられ、逃げ込んだ家畜小屋はリーズ家のものだった。
頭から流れる血を手で抑え、その手で壁を触ってしまったのだろう。

今でも悔やんでいる、この時僕はしまった、という顔をしてしまったのだ。
そして、そこにいる全員が僕の顔を見ていた。

「手形を確認しろ!大きさを合わせてみろ!!」

僕はされるがまま男たちに引きずられ、黒い手形に手を押し付けられた。
寸分たがわず同じ大きさだった。当たり前だ、自分の手形なのだから。
村人は一気に湧いた。
悪魔の子供は本当に悪魔だったと叫ぶ者、
悲鳴を上げてその場から走り去る者、
火あぶりにしろと手を叩いて囃し立てる者、
皆が騒ぎ立て、混乱を極めた。

「待ってくれ、これはジョセフの葬式の日に石を投げられて、ここにうちの愚孫が逃げ込んでしまったんだろう、離してやってくれ!」

「うるさい!そこをどけ!」

唯一サミュエルおじいさんは両腕を振って、空気が漏れるようなかすれ声で叫んでいたが、暗くて顔の判別がつかない誰かに殴られて倒れ、僕からは見えなくなった。

「おじいさん!サミュエルおじいさん!!!
離して!僕じゃない!おじいさん!!!」

僕は声の限り叫んでもがいた。
すると一瞬、僕をつかむ手が緩み、その隙を見て僕は闇夜に駆けだした。

本当はおじいさんを探して助け起こしたかったが、僕がおじいさんのためにできることはおじいさんがいるであろう場所から離れることだけだ。
僕が悪魔と証明されたことで、おじいさんにその咎が飛び火する可能性も考えられるが、おじいさんを失えばこの村には薬屋がいなくなってしまう。
今回の僕のように、なにか決定的な証拠がない限り、おじいさんに命の危険は訪れないだろう…訪れないことを切に祈っている。
それよりも、今は僕がいるところに悪魔を祭り上げようとする村人たちが集まってきてしまう。
現に村では、そこここで、かがり火がたかれ、闇夜が明るく照らされ始めている。
これ以上、灯りが増えて、影が消えればどこへも逃げられなくなってしまう。

僕はおじいさんの無事を祈りながら、できる限り物陰に隠れつつ森に向かった。
この前のグリズリーに怯えて、村の人たちが森に入ってこないことを願っていた。

6.庇護

<黒いワシ>ほどは優秀な狩人ではないが、僕も訓練されている、夜の暗い森を音もなく駆けることは容易ではないが困難でもなかった。

≪ゥウオォォーン・ウオーオォン≫

昼は野鳥、夜は狼という決まりごとの通り、僕は狼の遠吠えで<黒いワシ>に緊急の合図を送った。
返事はすぐに返ってきた。
いつもの場所で待つ、ということだった。
僕は訓練された通り、音を出さない草踏みをして、足跡を残さないように獣道を時折使い、匂いで追えないように何度か川を渡り、通常の倍の時間をかけて待ち合わせの場所へ辿り着いた。
<黒いワシ>は戦闘用の盾と槍を持って、僕を待っていた。
声を上げて泣くことは、一族では子供のすることだから好ましくないと知っていたが、僕は<黒いワシ>に抱き着くと嗚咽を抑えられなかった。
太陽の匂いがする<黒いワシ>は、僕を抱きしめ返すと、低い声で安らぎの精霊を呼ぶ唄を歌う。
僕は安心して、気が付かない間に眠りに落ちてしまっていた。


目が覚めると空がうっすらと白み始めていた。

「起きたのかい?」

<フクロウ>が僕の枕もとで、悪夢除けのお香を取り換えているところだった。
重い体をのろのろと起こすと、ハッカの香りがする絞った布が額から落ちた。
どうやら一族の岩窟まで<黒いワシ>が運んでくれたようだ。

「何があったのか説明してくれるね。」

<金のキツネ>が天幕をくぐり、僕の隣に腰を下ろすと、僕の背中を軽くさする。
サミュエルおじいさんもそうやって背中を優しくさすってくれたことを思い出し、昨晩の出来事が一気に現実として戻ってきた。

「ぼ、僕!サミュエルおじいさんが無事か確認しないと!」

「村への様子は、<黒いワシ>と他の仲間が見に行っているから大丈夫だ。」

<黒いワシ>は一度だけ、サミュエルおじいさんに会ったことがある。
昔、村に住んでいたオワイト(教会のしもべ)の父と、オワイト(教会のしもべ)たちの言葉が話せるので彼らの道案内をしていた一族の母が、駆け落ちするようにサミュエルおじいさんの前から姿を消し、僕が生まれた。
ところが、二人は病気で亡くなったため、サミュエルおじいさんのもとに幼い僕は届けられた。
その役を担ったのが、母と同じくオワイト(教会のしもべ)たちの言葉が話せる幼年の<黒いワシ>だ。
当時、一族はもっと大所帯だったが、彼らはオワイト(教会のしもべ)たちの侵略に抵抗するので手いっぱいだった。
また、そんな中、オワイト(教会のしもべ)と子供をもうけた母にも風当たりが強く、一族の岩窟では幼い僕を育てられる環境ではなかったため、危険がなく安定した暮らしをしているサミュエルおじいさんに預けられたという。
褐色肌に差別はあれど、異端者狩りや魔女裁判は遠い地の出来事だった時代だ。

きっと<黒いワシ>なら、僕の意図を汲んでおじいさんの安否を確認してきてくれると安心し、昨日起こったことを<金のキツネ>と<フクロウ>に説明し始めた。


「そうか、では<アナグマ>はもう村には戻れないだろうね。」

「はい、<金のキツネ>。
一生懸命働くので、こちらに置いてください。」

「それはもちろん構わない、だがわしには村のオワイト(教会のしもべ)たちがこのまま諦めるとも思えない。
戦いに備えるしかないだろう。」

「…はい。」

どこへ行っても問題を引き起こしてしまう自分を恥じた。
<金のキツネ>はそれを察したように僕の背中を叩くと、一族の者たちに戦いに備えるよう申し伝え、自らも天幕の外へと去っていった。

「<アナグマ>、成人の儀はどうするか、心は決まったかな。」

残された<フクロウ>は僕の目を真正面から見据えた。
村には戻れない。
成人していない自分は弱く、おじいさんの安否を自分で確認することすらできない。
もう、成人の儀を断る理由はなかった。

「<フクロウ>、呪術師の成人の儀を受けさせてください。」

アナグマ

アナグマ

異世界転生のお話に飽きたあなたに読んでほしい。 本格史実系ファンタジー。 植民地に生まれた、白人と現地人のハーフの男の子が迫害される。 しかし、精霊と契約して愛する人たちを守るため奮闘する物語。 児童文学テイストです。 ※この作品はその他の小説連載サイトでも公開されています。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-06-08

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND
  1. プロローグ
  2. 1.呼び出し
  3. 2.打診
  4. 3.暴徒
  5. 4.詰問
  6. 5.弾劾
  7. 6.庇護