クローンなわたしとわがままドクター
トリニティな関係
初夏の金曜日の午後、竹中鞠子はシャツと短パンというラフな格好でごろ寝していた。玄関のチャイムが鳴った。鞠子は面倒くさそうに玄関に行き、戸を引いた。目を丸くした。
そこには、鞠子が会ったことのないような、鞠子が知らないような男性が立っていた。にこやかに男性が名乗った。
「こんにちは。私、ジャパン・ハイドロジェン・ソリューションの緒方と申します。水素水のご紹介に伺いました。もしよろしければ、少々お時間いただけますでしょうか」
「あっ、いっ、いいですよ。あの、どうぞ」
こんな訪問販売、いつもだったら追っ払うのに。しかも水素水だなんて、絶対怪しいに決まってるのに。
緒方が腰かけた。鞠子はそばで正座した。
「ではさっそくご説明させていただきます。こちら、サティスファイド・トリニティ・ウォーターという名前の、水素水でございます。でも誰もその名前で呼んでおりません。そのまま、水素水と呼んでおります」
緒方がペットボトルを持ち、効用をこと細かに説明し出した。しかし鞠子はペットボトルには目もくれず、緒方だけを見つめていた。血管が透けそうなほど白い肌に、まっすぐ通った鼻筋、薄くて赤い唇。緑がかった明るい茶色の瞳は、ぼんやりしているのに、なぜか求心力があった。
緒方が鞠子にパンフレットを渡した。鞠子はそれを膝に置き、熱心に見ていた。けれど本当に見ていたのは、緒方の白くて細長い指だった。パンフレットの文字が、緒方にそっとなぞられていく。鞠子の心臓の変速機が、何度も切り替わった。
そういうふうにして鞠子は、緒方との熱い午後を過ごしていた。
ところでこれおいくらですか、鞠子がそう尋ねた。すると緒方が、新規購入キャンペーンについて話し出した。
「当社ではただいまキャンペーンを行っておりまして、いまならはじめてご購入のお客様に限り、7本1000円で販売させていただいております。とてもお得でしょう? 7本でしたら1日1本として1週間で飲めますが、水素水の効果を実感するには十分です。いかがいたしましょうか」
「あの、えっと、買います」
「ありがとうございます。では商品を持ってまいりますので、少々お待ちください」
鞠子は財布を持ってきた。アルバイトの給料日前だし、緒方が言うほど優れた商品だとも思えなかったけれど、なぜか得した気分になっていた。
緒方が段ボールを抱えて戻ってきた。そしてその中からペットボトルを取り出し、どんどん鞠子に渡していった。何本目かのとき、鞠子の指に緒方の指が少し触れた。鞠子はびくっとして、ペットボトルを落としてしまった。緒方が謝り、今度は床の上に置いていった。
鞠子は緒方に1000円札を渡した。それを受け取った緒方は、帰り支度をはじめた。が、しまったと言って、スーツのポケットから名刺入れを取り出した。
「申し訳ございません。これをお渡しするのを忘れておりました」
そう言って名刺を鞠子に差し出した。
「もし水を気に入っていただけましたら、この番号にお電話ください。お届けにあがりますから」
「わざわざ届けてくださるんですか」
「ええ、ですが当社のホームページからでもご購入いただけますよ。そちらのほうが便利かもしれませんね。その場合は」
「あっ、うちパソコンないので届けてください」
「スマートフォンからでも大丈夫ですよ」
「あ、す、スマホもないんです」
「かしこまりました」
緒方はにっこりして、さらりと続けた。
「私もぜひ、鞠子さまにまたお会いしたいと思っております。本日はどうもありがとうございました。失礼いたします」
緒方が戸を閉めた。
鞠子はしばらくぽかんとしていたけれど、頭をひと振りし、反省会をはじめた。
まずひとつ、指のむだ毛処理を忘れていた。しかもノーメイクで服も適当。ありえない。ポケットから丸見えなのに、スマホがないなんて言ってしまった。恥ずかしすぎる。でもいいか。あの人は、私も、って間違いなく言ったんだから。にんまりして、魚のようにぴちぴち跳ねた。
鞠子はスキップして部屋に戻った。畳に寝っ転がり、さっきもらった名刺を眺めた。緒方博樹、そう書いてあった。じっくり透かして見たあと、胸元にそっと押しつけた。そして緒方の言葉を、ひとつひとつていねいに繰り返した。私も、鞠子、お会いしたい。でもなんで名前を知っていたんだろう。そっか、表札か。
1000円を無駄にするのももったいないので、鞠子はさっそく飲みはじめることにした。水素水なんてと思っていたのに、飲用開始2日目にして考えを改めた。体重の減りが早くなっている気がした。あれだけ悩んでいた肌の乾燥も、少し収まったような。髪のパサつきもだいぶ治ったし。これは本当に効果があるのかもしれないぞ。科学なんてあてにならないな。
冷蔵庫に入れていたので、母も気になったようだった。これなに、母が尋ねた。水素水と鞠子が答えた。へえと半信半疑だった母に、鞠子は2本分けてあげた。こんなんじゃ効果でないでしょ、そう言う母に鞠子は、私も2本飲んで効きはじめたんだからと言った。
2日後、ちょっとまり、水素水効いてるみたい、母が体重計の上から報告した。
月曜日、さっそく電話した。また持ってきてください、今度は1ケースでお願いします。
鞠子の姿は、前回とはだいぶ違っていた。メイクもばっちり決め、服装も上品かつ色っぽいコーディネートにした。気合いを入れていることがばれないように、まずはそれを念頭に置いた。
チャイムが鳴った。緒方が来たようだ。鞠子はわくわくして、がらりと音を立てて戸を引いた。違った、宅配便だった。鞠子はずっとうつむいていた。配達員が帰った後、鞠子は反省会を開いた。こんなに急いで出たら、待ってましたって感じになる。それはだめだ。もっとおしとやかに、大人の女っぽく余裕を持とう。
またチャイムが鳴った。鞠子ははやる気持ちを抑えてゆっくり歩き、静かに戸を引いた。さわやかな笑顔を浮かべた、緒方がいた。相変わらずの美しさだった。
「こんにちは、鞠子さま。再度ご購入いただきありがとうございます」
「当然ですよ。本当に効いたんですから。さあ、入ってください」
鞠子には、緒方がなにか笑いをこらえているように見えた。私またやらかしたのかも。鞠子はいぶかしげに尋ねた。
「どうかしたんですか」
「あっ、いえ」
緒方が慌てて言った。えらく焦っていたことに、鞠子は気づいていないようだった。緒方は下駄箱の上のあれを発見し、にやにやした。
「スマホ、お買いになられたんですね」
あっといいそうになった口をさっと結び、急いで背中に隠した。そして動揺していないふうに言った。
「そうですよ、最新型です。色はシルバー」
「私も同じ機種です。ゴールドですけど」
緒方がくすくす笑った。鞠子はそれに気づかないふりをして、つんけんして言った。
「あの、水素水」
「ああ、失礼いたしました。えっと、お電話いただいた際にですね、大事なことをお伝えするのを忘れておりまして」
「なんですか」
「1ケースとご注文いただいたんですけれども、ただいまこの商品非常に人気がございまして、注文数が急激に増加しております。ですが当社の水素水生成技術は質をなによりも大切にしますから、大量生産にはあまり向いていないのです。新鮮なままお届けするというポリシーもあり、在庫もなるべく作らないようにしております。そこで1回のご購入につき、1家族さまあたり7本までとさせていただいております。申し訳ございません」
「そうなんですか、困ったなあ。私だけじゃなく母も飲みますから。でも大丈夫ですよ、分け合うので」
「ご協力ありがとうございます。それで、お母さまもお飲みに」
「はい、勧めたんです。はじめは母も疑ってたんですけど、もうはまっちゃってて」
「それは私としましても、大変嬉しいことでございます。しかしお母さまもということは、鞠子さまも相当ということで」
「ええ、そうです。本当に効果が出てるような気がして。身体のいろいろなところの調子がよくなっているような、そんな感じがするんです。気のせいかもしれませんけど」
「いいえ、気のせいではございませんよ。先週お会いしたときも本当にお綺麗でしたけど、今日もさらにお綺麗になられています。ほれちゃいそうです」
鞠子はさっと下を向いた。あからさまなセールストークなのに。
「あ、それでちょっとご提案が。あのですね、実は7本で1000円キャンペーンは初回ご購入のお客様にのみ適用されますので、2回目以降は7本で4500円になります。しかし今回鞠子さまには、1000円だけお支払いいただきたいと」
「なんでですか、4500円じゃないんですか」
「実を言いますと私、この4500円というのは、少し高いのではないかと考えております。もっと安くなればもっとたくさんの方に、このよい水を買っていただけるのに。個人的に、そう思っております。鞠子さまは私のとても大切なお客さまです。学生さんですから、あまり金銭的な負担をおかけしたくないと。お金が足りなくなってこの水が買えなくなるなど、あってはいけないと。それにそうなったら、もうお会いできなくなるし」
ふわりとした視線を、緒方が鞠子に向けた。どういうふうに答えればいいんだろう。鞠子はなんとか言葉を絞り出した。
「じゃあ3500円はどうするんですか」
「それは私が出します。お願いします、どうかご協力していただけませんか」
鞠子は黙って1000円札を差し出した。緒方はほっとしたような表情をした。
「ありがとうございます。それでですね、話は変わるのですが、お母さまに私のことお話なされましたか。なにかひと言でも」
「しましたけど。14時ごろ水素水の販売員の人が来たから、7本買ったって言いましたよ。何かあるんですか」
「いや、それならばかまわないのですが。なんといいますか、ちょっとした事情がありまして。おそらく鞠子さまもご存じの通り、訪問販売というのは、なにぶん嫌われやすい商売でございます。私もただご挨拶しただけなのに、水をかけられたことがあります。真冬だったのに」
「かわいそう」
「もちろん私は、ひとさまにご迷惑をおかけするようなことなどいたしません。が、同業にひどいやつらがおりますので。もしかしたら鞠子さまのご家族も、噂を聞いておられるかもしれません。緒方という販売員がなかなか帰らないとか、色白で背が高いやつはしつこいから追い返せとか。緒方という販売員も、色白で背が高いやつもどこにでもおります。しかしそれが私のことだと勘違いされたら、私はもう鞠子さまに水をお届けできなくなります。それは困りますので、なるべくご家族に私の情報をお伝えしないでいただけますか」
「ええ、わかりました。大変ですね、犯罪でもないのに」
「本当にそうでございます。鞠子さまはお優しいのですね」
またリップサービス、営業スマイル。心をじんわり侵食していって、自分専用のスペースを作ってしまう。
「でも母も緒方さんに会えないなんてかわいそう。緒方さん40代ぐらいの女の人にすごく人気ありそうだもん。なんか、韓国ドラマに出てそうだし」
「鞠子さまにそう言っていただけて、とても嬉しいです。でもちょっとだけショックだな。若い女性には人気がなさそうに見えますか?」
首をかしげて、鞠子の目を見た緒方。ああ、もう。
鞠子さまはお話がお上手ですね、そう言いながら緒方が立ち上がった。それまで鞠子たちは野球の話で盛り上がっていた。緒方がかばんを持ち、外に出た。
「本日はありがとうございました。来週も金曜日の14時ごろに、お伺いしてよろしいでしょうか」
「はい、お願いします」
「ありがとうございます。では失礼いたします。あ、言い忘れてました。そのワンピース、とてもお似合いですよ」
甘い言葉製造マシーンの緒方。綿あめのような言葉たちを、たくさん作り出していく。べたべたしているのに、ふわふわ。
鞠子は思った。緒方さんに勧められたら、サプリでも絵画でもビルでも会社でも、ジャンボジェットでも国でも、なんでも買ってしまうんだろうな。
鞠子はおかしくなるくらい緒方に夢中になっていたけれど、水素水にもそれなりにはまっていた。ついに鎖骨の浮きがはっきりと見えるようになり、鞠子は確信した。やはりこれは効く。友達にそれを嬉々として報告すると、爆笑された。やっぱりあんただまされやすいのね、水素水なんかにはまるなんて。
緒方のことも話した。すると彼女は言った。そういうのはマニュアルに書いてあるの、綺麗だとか似合うだとか会いたいだとか言えば買ってくれるって。どうせ最初から仕組まれてるんだよ。7本4500円もそう。はじめから1000円でもと取れるようにしてあって、営業マンはお金なんか払わないよ。というか4500円なんてただのばかでしょ。
鞠子はふくれた。別にいいもん、嘘でも。
次の週も緒方がやってきた。やっぱり鞠子は1000円しか払わなかった。雑談のあと、緒方は鞠子にセミナーのチラシを渡した。そこには大きな文字で、『水素水が切り開く未来 水素水って素敵やん』と書かれていた。鞠子はひと通り読み、興味を持った。緒方に言った。
「これよさそうですね」
「はい、とてもよいセミナーですよ。絶対に鞠子さまご自身のためになります。非常に内容が濃く、レベルの高いものになっておりますから。今年もまた有名大学の教授をお招きして、たっぷりお話していただこうと。しかも水素水の世界的権威ですから、なかなかあるチャンスではありません。参加されたお客さまはみな、すばらしかったとか、水素水に出会えてよかったなどと、高い満足を得てお帰りになられます。ですから当社の主催するセミナーの中でも、1番人気となっております」
「へえ、行ってみたいな」
「それがですね、こちらのセミナー、もう席が残っておりません。広い会場を用意したのですが、あっという間に埋まってしまいました。参加をご希望されるお客さまはたくさんいらっしゃるのですが、お断りしなければならなくて」
「あら、それは残念。せっかくだったのに」
それを聞いた緒方は、急に熱く語り出した。白い頬が赤に染まりはじめた。
「鞠子さま、よくお聞きください。鞠子さまにぜひセミナーに参加していただきたい、いや参加していただくべきだ、私はそう考えました。しかし席はもうない。悩んだあげく、上司に訴えました。私のお客さまのために、席をひとつ確保してくれないかと。当然そんな身勝手なふるまいが許されるはずありませんから、上司は私を叱りつけました。たくさんのお客さまがセミナーを心待ちにしてるんだ、わかってるのかと。わかってるに決まってます、私にも他にたくさんのお客さまがおられますから。ではなぜ私が鞠子さまに、他のお客さまを犠牲にしてでも、セミナーに参加していただきたいのか。鞠子さま、おわかりになりますか」
緒方があのふしぎな瞳で、鞠子を優しく見つめた。それが赤くなった頬と合わさって、鞠子を必要以上に混乱させた。
「私が水素水に興味を持っているから、ですか?」
「そうでございます。ですが半分正解、といったところですね。いやほとんど不正解でございます。正解は、他のお客さまの何倍も、水素水に情熱を注いでいらっしゃるから、です。他のお客さまは私の説明を、いつもどこか上の空で聞いておられます。特に女性のお客さまに多いですね。ただ綺麗になればいい、そう考えていらっしゃるようで。もちろんそれは悪いことではありません。が、鞠子さまだけは違います。私の下手な話を私の目を見て、真剣に聞いてくださいます。パンフレットなどを説明するときも、しっかりと文字を目で追ってくださいます。他のお客さまは説明する私ばかり見ておられます、私の顔に水素水の効用など書かれておりませんのに。ともかく私は鞠子さまのその姿勢に感動いたしました。ただ飲めばいい、だけでなく、しっかりと成分を理解し、自ら進んで水素水をわかろうとし、つながってゆく。すばらしいです」
「そんなことないです、私も他のお客さんと同じです」
文字を追ってるのではなく、指を眺めて妄想してるだけだし、魅力的な瞳を観察してるだけなのに、そんなふうに思われていたなんて。緒方さんにとって、私はほかの女の人とは違う。少なくとも顧客としては。
「謙遜なさらずに。そしてですね、もうひとつございます。それは、鞠子さまにずっと水素水をご飲用いただきたいから、です。実はお客さまの中には、1年ほどしてご飲用をやめられる方が多くいらっしゃいます。理由はさまざまでしょうが、私はこう思うのです。水素水のことをそれほど詳しくご存じないから、ではないかなと。水素水の奥深さをご存じないから、すぐに飽きて、ぽいと投げ捨ててしまわれるのだと。でもそれってすごくもったいないことだと思うのです。一度深く知れば、二度と抜け出せないはずなのです、私のように。給料も高くなく、ときにはおまわりさんも呼ばれるこの仕事を、私はもう何年も続けております。それはなぜか。たくさんの方に水素水をご飲用いただきたい、そう強く思っているからです。すみません、自分のことばかり話してしまいました。ともかく水素水を愛してらっしゃる鞠子さまに、このままずっとご飲用いただきたいのです。それには、鞠子さまにセミナーに参加していただくこと、これが最も必要だと考えたのです」
「私ももう、抜け出せません。魅力を知ってしまいましたから」
熱弁する緒方に鞠子も同意した。水素水的な意味でも、もうひとつの意味でも。
「いいえ、まだまだ深いんですよ。もしかしたら鞠子さまは、さわりのほうしかご存じないかも。もっと奥を知っていただかないといけません。それにね、鞠子さまがご飲用をおやめになられたら、私はもう鞠子さまにお会いできなくなります。実を言うと、それがいちばん嫌なのです」
鞠子も嫌だった。この甘い金曜の午後を、なによりも楽しみにしているのに。緒方は鞠子の返答を待っていたようだったけれど、鞠子は何も言わなかった。緒方が続けた。
「ああ、話がそれてばかりですね。それで上司にしつこく訴え続けましたところ、席をひとつ確保することに成功いたしました。同僚からは文句を言われましたが、鞠子さまのためなら仕方がない。鞠子さま、参加なさいますか?」
「はい、ぜひ」
「よかった、努力が実りました」
緒方が目を細めて、安心したように息を吐いた。そうして明るい声で、当日のスケジュールを話し出した。
「会場はちょっとここからは遠いですので、私がお送りします。そうだ、来週の金曜日の分の水はどうしましょう。日曜日にお会いしますから、そのときにでも」
「いや、届けてください。あの、毎日飲みたいので」
鞠子が慌てて言った。緒方は笑顔で、かしこまりましたと言った。
その日緒方は、いつもよりも長い時間鞠子の家にいた。そろそろお暇します、そう言って立ち上がった。
「ずっと不安でした。鞠子さまがこういうのをお好きでなかったら、どうしようって。そうなったら私は。ああ、また長くなってしまいますね。やめておきます」
思いを最後まで伝えないまま、緒方が去った。鞠子はいつも通りぼうっとしていたが、すぐにきびきび動きはじめた。着ていく服を選ばなければ、あまりいいのがないので新しく買おう。冷蔵庫に水素水を入れ、一直線に自分の部屋に向かい、パソコンを立ち上げた。
うそつきオリジナル
緒方さんの車に乗ること、つまりそれはドライブデート。鞠子はそう思いこんでいた。すさまじい論理の飛躍は気にしなかった。
鞠子はいささか、気合いを入れ過ぎているように見えた。昨日のごはんはペペロンチーノだったけれど、口のにおいを気にして食べなかった。今朝の納豆もそう。歯磨きも念入りに、もちろんむだ毛の処理も怠らなかった。メイクのりもよかったし、新調した服も母に褒められた。
待ち合わせ場所へ向かいながら、鞠子は妄想していた。もしかしたら、緒方さんが言うかもしれない。もうセミナーなんか行かなくていいでしょう、代わりに私がいろいろ教えてあげますよ。あっ、だめです、そんなつもりじゃ。下を向いて、むふふと笑った。が、電柱にぶつかってしまった。それを見ていた近所のおじちゃんが、がははと笑い、ちゃんと前見て歩かんかいと言った。鞠子は顔を赤らめて、歩く速度を上げた。
船着き場に着いた。ベンチに座り、緒方を待った。波は穏やかだったけれど、鞠子の心は真逆だった。何度も手鏡を見て、おかしなところがないかチェックした。
鞠子以外には誰もいない船着き場に、1台の黒い車がやって来た。鞠子の顔がぱっと明るくなった。たぶんあれだ。車が止まり、妄想物語の相手役が降りてきた。
「おはようございます。お待たせしました。さあ、行きましょう」
鞠子が後部座席のほうで待っていると、前にどうぞと緒方が言った。こういうのってふつう後ろじゃないの。ぐうたらな脳みそを高速で回し、自分なりの答えを出してみたものの、なんてことない顔をして助手席に乗った。
緒方は、オリンピックみたいなエンブレムがついた、いかにも高そうな車に乗っていた。鞠子はそれに違和感を覚えた。水素水の訪問販売員が乗るような車だとは、とても思えなかったから。シートベルトを締めながら、疑問をぶつけてみた。
「あの、この車って会社のなんですか」
「いいえ、違いますよ。これは私のです。お客さまをお迎えするのに、車が全部出払ってしまっていて。それで自家用車を使わせていただいております」
「そうなんですか。ということは緒方さんって、相当お金持ちなんですね。たぶんこの車、2000万ぐらいするはずですよ」
「友人から譲ってもらっただけです。私にはこんな車を買う余裕などございません」
情けないことを言っているのに、なぜか自信ありげだった。
車が走り出した。鞠子は窓の外の、おもしろくもない見慣れた景色を眺めていた。本当は、そうしたくなかったのだけれど。
出発して何十分かが経ったころ、鞠子は気づいてしまった。この道を通っても、目的地には到着しないということに。目的地に行くには、必ず高速に乗らなければならない。なのにいつまでたっても、一般道のまま。この道を通ると、最終的には山の中の公園に着いてしまう。窓の外を見たまま、おそるおそる緒方に聞いた。
「あの、これって近道ですか」
「はい、そうでございます。おそらく私しか知りません」
緒方は楽しそうに言った。一方で鞠子は、こんな近道などないと確信していた。公園に行くため、昔からここを何度も通っているし。これはまずい、もしかしたら危ないかも。鞠子は両手で、自分の身体をぎゅっと抱いた。
信号に引っかかった。緒方がジャケットを脱ぎ、ネクタイを外して、シャツのボタンを何個か開けた。客が横にいるのに。これはもう、そういうこととしか考えられなかった、少なくとも鞠子には。不安げな視線に気づき、緒方が口を開いた。
「ここ近道じゃないですよ。ていうか会場になんか着かないでしょうね、一生」
いままでとはだいぶ違った口調で、とんでもないことを言った。鞠子はさっとシートベルトを外し、ドアノブにそっと手をかけた。そしておびえた目で緒方を見て、震える声で言った。
「私をどうするつもりなんですか」
「どうされたいんですか、俺に」
緒方はにこにこしていた。悪魔の笑みだった。鞠子の瞳に涙がたまっていった。こんな方法で結ばれたかったわけじゃない。もっとこう、愛のある方法で結ばれたかった。あんな妄想しなきゃよかった、現実になっちゃったじゃない。鞠子はしくしく泣き出した。緒方は残酷なほど軽い声で、おもしろそうに言った。
「大丈夫だよ、君の考えてるようなことはしないから」
「じゃあそのまま殺すんですか。お金なんて持ってません、殺したって無駄です。まだ生きたいんです。生んでくれてありがとうって、まだ言えてないんです。殺さないで、なんでもしますから」
それを聞いた緒方は、とうとうこらえきれなくなったのか、声を上げて笑い出した。車はいつのまにか、公園の駐車場に着いていた。
「本当になんでもしてくれるの?」
「はい、なんでもします。だからお願い、命だけは」
「そうだな、なんにしようかな。うーん、決めた。じゃあ、今から俺が言うことを聞いても、絶対に怒らないでね」
鞠子はまだ泣いていたけれど、ちょっと拍子抜けしていた。てっきり、恐ろしいことを指示されると思っていたのに。誰かを暗殺してこい、とか。
「はい」
「本当? 怒らないでね。言うよ、水素水とかのくだりは全部嘘だよ」
鞠子はうるんだ目をぱちくりした。
「嘘って、どういうことですか」
「どういうことって、嘘ってことだよ。サティスなんちゃらウォーターとか、ハイドロジェンソリューションとか、セミナーとか全部」
「えっ、じゃあ緒方さん」
「ああ、その名前も嘘だ。緒方博樹なんていないよ。俺が適当に作った名前なんだから」
またぱちくりした。怒るどころか、事態が全く飲み込めていなかった。緒方さんじゃないんなら、この男の人は誰なの。なんでこの男の人は嘘をついていたの。頭をぐるぐる回していても、一向に答えはつかめなかった。明らかに混乱している鞠子を見て、緒方と名乗っていた男が言った。
「なんで嘘ついてたのかとか、そういうのを話そうと思って、ここまで君を連れてきたんだ。だましてごめんね。でもこうでもしないと、絶対についてきてくれないと思って、うん。今日は天気もいいし、外で話そうよ、ね? 大丈夫だよ、変なことは絶対しないから。ほら人もたくさんいるじゃん、できるはずないよ」
男がそう話しているあいだも、鞠子はうつむいて泣いていた。困った顔をした男が、鞠子が頬に落とした涙を、そっと手でぬぐった。鞠子はひっくひっく言いながら、男の顔を見た。男は鞠子を見つめ返して、ごめんねと言った。鞠子は頷き、嘘もなんでも許してあげた。
鞠子は本当にちょろかった。よく言えば、それだけその男に惚れていた。
車から降りたふたりは、長い遊歩道を歩いて、中央広場へと向かった。その両サイドには、赤とピンクのつつじがいっぱい育っていた。たくさんのカップルや家族が、それを眺めながら散歩していた。ふたりもそれにならい、ゆっくりと歩いた。
いつのまにか鞠子は、完全に泣き止んでいた。目は真っ赤だったけれど。しばらくのあいだ、お互いになにも喋らなかった。が、男が先に沈黙を破った。
「だましてしまって、本当に申し訳ない。あと、怖がらせたことも」
「いいですよ。それに、もう大丈夫です」
「ありがとう。実はね、話したいことがたくさんあるんだ。本題以外にも。質問にはあとから答えるから、とりあえずなにも言わないで、聞いてほしい」
「はい、わかりました」
「じゃあ話すよ。とりあえず、自己紹介からね」
男は立ち止まって、深呼吸した。歩き出すのと同時に、前を向いたまま話し出した。
「僕は緒方博樹ではなくて、白石薫って言います。白石って名字の通り、僕は君のお母さんの弟です」
「ええっ、嘘つかないでください。母の弟はひとりしかいません」
「なにも質問しないでって言ったよね。そういうのはあとから答えるから」
いきなり約束を破った鞠子は、口をつぐんだ。
「僕はハイドロジェンなんちゃらではなく、丹花製薬っていう製薬会社の研究所で働いています。当然水素水とは、なんの関わりもありません。ではなぜ製薬会社の研究員が、君に水素水を売ったのか。それは19年前にさかのぼります」
鞠子はどきどきしていた。こういうシーン、ドラマで何度も見たことがある。まさか自分がこうなるなんて。
「僕は当時、東京の大学に通っていました。自分で言うのもなんですが、僕は天才でした。あまりにも優秀だったので、現役大学生であるにもかかわらず、製薬会社の研究所で働いていました。ちなみにその会社とは、丹花製薬です。そこでは、人間のクローンを作る研究が行われていました。世間には内緒でね。しかもそれは、少し特別なクローンでした。クローンといってもふつうは、女性の身体の中で育ちます。ですが丹花製薬が作りたかったのは、いちども女性の身体を通さない、完全に機械の中のみで育つクローンでした。つまり、映画でよくありがちなクローンだということ」
薫がクローンについて言及したときから、鞠子は立ち止まっていた。そんな世界が現実に存在しているなんて、信じられなかった。薫も1歩先で立ち止まり、ひとりで話していたけれど、途中で振り返って言った。
「まあ気持ちはわかるさ。でももうちょっと待っててね」
鞠子は頷き、再び歩きはじめた薫に、遅れないようついていった。
「そしてみごと、研究所はクローンの作成に成功しました。クローンが、女性の身体にいたことのないクローンが、この世に生まれたのです。ねえ、ここまできたらだいたいわかるでしょ?」
薫が鞠子に問いかけた。鞠子はなにも言わなかった。薫は続けた。
「あ、研究所では、クローンのことを複製って言ってます。複製の反対は原物ですね。それはともかくとして、実は生まれた複製の原物は、僕でした。つまりこの世には、僕の遺伝情報をそのまま引き継ぐ人、僕の複製がいます。さあ問題です。それはいったい誰でしょう? 答えてくれないのか。じゃあヒントをあげよう」
鞠子が足を止めた。薫も立ち止まった。少し黙ったあと、さらりと言った。
「僕のとなりにいる女の子」
いちゃいちゃしているカップルに、走り回っている小さな子ども。にぎやかな音たちが、ふたりを囲んでいた。鞠子はぎりぎりかき消されないぐらいの、低い声を絞り出した。
「やめて、嘘つかないで。そんなはずないでしょ。そんなこといまの科学じゃ、絶対無理に決まってる」
「そう、みんなが知ってる科学ならね」
「クローンなんてものが、生きられるはずない」
「そうかなあ。君は、元気に生きてるけど」
薫がそう話した10秒後、鞠子は走り出していた。どこに行くのかも決めていなかったけれど、周りの視線をあびていたけれど、かまわなかった。整備された遊歩道から、木の根が浮き出た、ごつごつした道に来た。ヒールの高いパンプスが邪魔になって、脱いで手に持った。
私はクローン、あの人のクローン。そのフレーズだけを、ずっと頭の中で繰り返していた。
走って走って走りまくって、誰もいない、開けたところにきた。はあはあ言いながら先のほうに向かい、木の柵に思いっきり身体を預けた。
そこはとても見晴らしがよく、眼下には気持ちのいい景色が広がっていた。青い海にぽつぽつ浮かぶ島と、濃い抹茶をまぶしたような山。小さな白い建物たちが、うんざりするほど多く敷き詰められている。鞠子はその眺めが大好きなのに、その日はなぜか気に入らなかった。すぐに背中を向けて、地面に腰を下ろした。
やっぱりあの人は大嘘つきだ。クローンなんてばかげてる。小説みたいなことを言って、また私をだまそうとしてる。ショックを受けて弱った私に、なにか変なことをするために。僕がなぐさめてあげるとか言って、どこかに連れ込もうとしてるんだ。
考えてみればいろいろおかしい。あの人はお母さんの弟だって言ったけど、ばあちゃん家にあの人の写真なんて1枚もないし、弟がもう1人いるなんて聞いたこともない。
それに私があの人のクローンっていうことは、お母さんとお父さんと私は、親子じゃないってこと? ありえない。そんなの嫌だ。
太陽が鞠子を照り焼きにした。鞠子は両手を顔に押しつけた。嫌な声がした。
「大丈夫ですか? 急に走り出したからびっくりしたよ」
鞠子はなにも反応しなかった。はあ疲れたと薫が言い、鞠子の右に座った。鞠子は左に顔を向けた。それでも薫は鞠子に、優しく話しかけた。
「君の気持ちはわかるよ。あなたは僕のクローンですっていきなり言われて、へえそうなんですねって言うやつなんかいるわけないだろ。でもね、信じがたいだろうけど、事実は事実だ。世の中には君の知らないことがたくさんあって、これはその中のひとつにすぎない。だからとにかく、落ち着いて話を聞いてくれよ。そうしないといつまでたっても進まないよ。いいね?」
鞠子は左を向いたままで、やっぱりなにも言わなかった。薫は気にせず続けた。
「で、どこまで話したっけ。そうそう、研究室の機械の中で、僕の複製がめでたく誕生しました。しかし僕は学生でしたから、当然育てることはできません。なのでお姉ちゃんの家に連れて行き、代わりに育ててくれるよう頼みました。この赤ちゃんが僕の複製であるということも、ちゃんと伝えた上で。お姉ちゃんと義理のお兄ちゃんはえらく驚いていましたが、結局赤ちゃんを引き取ってくれました。でもお姉ちゃんは、僕にきつく言いました。この子は私が産んだことにするし、私たち夫婦が責任を持って育てる。だからこの子の前で、自分が本当の親だなんて、ましてやクローンだなんて、絶対に言わないで。僕はそれを了承しました」
鞠子はか細い、震える声で、薫に尋ねた。
「じゃあお母さんも、私がクローンだってこと、知ってるの?」
「そうだよ。上司と一緒に行ったから、ちゃんと信じてるはずさ。それに姉ちゃんは言ったよ。確かにあんたなら、クローンなんて朝飯前でしょうねって。でも帰ってから聞こうとするなよ。姉ちゃんは君が知ってることを知らないし、そういう約束なんだから」
「あなたの写真は、ばあちゃん家には1枚もなかった。ばあちゃんもじいちゃんも泉兄ちゃんも、もうひとり家族がいるなんて、いちども言わなかった」
「へえ、徹底してるね。あの人完璧主義だったからなあ。それでみんなにも緘口令を敷いたんだろう。あーあ、俺、すっかり嫌われてるんだな。べつに俺の存在まで、消さなくてもいいのに」
とても悲しいことであるはずなのに、薫はあっけらかんとしていた。けれどその表情が、この話が嘘ではないということを、鞠子に証明していた。
「まあいいや。それから時が経ち、鞠子はもう19歳になりました。僕もすっかり大人になり、一時は離れていたものの、また丹花製薬で働くようになりました。あるとき、偉い人が言いました。複製の脳に、特別な装置をつけろと。どうすればいいんだろう、僕は悩みました。いまからあなたの脳みそをいじりますので、研究所までついてきてください。それで鞠子がついてくるとは、到底考えられなかったからです」
薫はまるで教科書を読むかのように、さらさらと話した。
「そこで思いついたのが、訪問販売でした。学生時代に訪問販売のバイトをしていたので、少し経験があったんです。こう計画しました。商品にはまらせて、セミナーかなんかに誘い出し、無理矢理麻酔をかけて、頭を開いてしまおうと。それでホームセンターで水素水を買い、パンフレットなどを適当に準備して、お姉ちゃんたちが住む家に向かいました」
ひと息置いた。
「しかし鞠子に会って、計画を練り直しました。僕はすっかり忘れてしまっていました。複製が人間であるということを。で、決めました。お姉ちゃんとの約束を破ることになるけど、仕方ない。鞠子に事実を伝えて、ちゃんと同意してもらおうと。そしていまに至る、というわけです。さて、僕の話はここまでです。なにか質問はありますか」
「私がクローンなのって本当ですか」
「はい、本当です」
「クローンっていうことは、人間じゃないってことですか」
「いいえ、違います。あなたはふつうの人間です」
「なんでですか。私はあなたのコピーなんでしょ。人間をまるまるコピーした人間なんか、どこにもいませんよ。しかも機械の中で生まれただなんて。こんな人間、私以外にいるんですか」
「たぶんいないでしょう。だからといって、複製は人間ではない、ということにはなりません。もうこのキャラ疲れたな、やめよう。複製って、そうだ君も複製って言ってよ。つまるところ複製って、人工的に作った一卵性の双子なんだ。そう考えたら大したことないだろ」
「じゃあみんな作るんですか、複製を」
「いやそれは作らないけどさ。作っちゃいけないけど作っちゃったんだよ、俺は。たぶん地獄に落ちるだろう。でも後悔はしてないね」
「なんでですか」
「元気な君に会えたからだよ。すごく嬉しいんだ。自分の作った人間が、こんなに大きくなって、幸せそうに生きていて。俺が罪を犯さなかったら、竹中鞠子という人間は、この世に存在していなかった。もしかしたらそっちのほうが、罪なのかもしれない」
鞠子の口が、だんだんと緩みはじめていた。が、それを隠すように、ごにょごにょつぶやいた。でも、とか、人間じゃないし、とか。薫が諭すように言った。
「君はかけがえのないひとりの人間なんだ。ちょっと人と違うルートを歩んできただけ。君は俺の遺伝情報を丸ごと引き継いでいて、生物学的には母親がいない。いちども人間の体内にいたことがない。でも違うっていっても、たったそれだけだろ。君はどこからどう見ても人間だし、おしゃれもして野球も応援して、たぶん恋愛もしている。いたってふつうの、そこらへんにいるような人間だよ。これでも自分は特別なんだ、人間なんかじゃないって言い張るのか? それはちょっと違うよなあ」
ちょろい鞠子が完全に納得するまで、あと少しだった。
「でも私のお母さんとお父さんは、本当の親じゃない」
「遺伝子が家族かどうかを決めるんじゃない。俺は鞠子に会ってすぐわかったよ。愛されてるな、家族に恵まれてるんだなって。君は俺と違って、穏やかで暴力を振るわない、いいお父さんのもとで育ってるみたいだ。おそらくお母さんも同じだろうね。それでいいじゃないか、なにが不満なんだ。親子って証明するには十分すぎるよ。遺伝子なんてどうでもいいだろ。会ったばかりの男よりも、自分を大切に育ててくれる人を、自分を娘として愛してくれる人を、親と思うべきだ」
薫の熱弁を聞いて、鞠子はこくりと頷いた。家族とのつながりを疑ってしまった自分が、とても恥ずかしかった。あれだけ愛情を注いでくれているのに。大事な娘だと思ってくれているのに。血のつながりなど関係なく。なのに私だけが、血のつながりにこだわっていた。それがどんなに失礼なことか。
私の親はあのふたりだけ。私がクローンであることは、その事実になんの影響も与えない。
あれだけ悩んでいたのが嘘みたいに、クリアな気分になった。久しぶりに顔を上げて、薫のほうを見た。薫がにっこりしていたので、鞠子もにっこりした。
危険を感じた行きがけとは違い、帰りはまるで遠足のように、楽しく過ごした。けれども薫には、ちょっといじわるなところがあるようだった。
「そうそう、鞠子の性格は姉ちゃんに似てるね。鞠子は水素水にすっかりだまされてたけど、姉ちゃんも昔勧誘されて、50万ぐらいする美顔器を買ってた。いまさっき思い出したよ。やっぱり親子って似るんだなあ」
「美顔器はともかく、水素水には本当に効果があります。私はだまされてません。間違ったことを言わないでください」
鞠子はいたってまじめな顔をして言った。薫はそれを見て、ぷっと吹き出した。
「やっぱり俺には似てないな。俺は水素水なんか絶対信じないもん。それにね、鞠子の顔とスタイルは、昔の姉ちゃんにそっくりだよ。俺と血がつながってるとは、とても思えないねえ」
若いころの写真を見る限り、鞠子の母は、信楽焼のたぬきに似ていた。鞠子の目が吊り上がった。
もう少しで船着き場に着くというとき、薫が急に慌てだした。
「本題を話し忘れてた。あの、手術なんだけど、どう?」
「いいですよ。しないと怒られるんでしょう、偉い人に」
「まあそうだけど。でも鞠子が嫌ならいいんだよ」
「全然嫌じゃないです」
そして霧のように消える声で、白石さんのためなら、と続けた。薫には聞こえていなかったようで、ありがとう、助かるよと返された。
鞠子が車から降りた。じゃあ来週の日曜は空けておいて、薫がそう言って窓を閉めた。が、すぐに窓を開けて、こう付け加えた。
「全然関係ないけど、俺は君を自分の子どもだと思ったことはないし、自分が君の父親であると思ったこともない。これからもそうするつもり」
オリンピックのランナーのように、黒い車がさっそうと走り去った。
我が家に帰った鞠子。たまたまなのかどうなのか、夕食のメニューは親子丼だった。ふだん通りの光景と、おいしそうな親子丼。ふたつが力を合わせ、鞠子の心を動かした。親子丼を前にして涙する鞠子を、母と父は気味悪がっていた。
毎日欠かさず行っている、就寝前の妄想タイム。その前に、ほんの少し考えごとをした。
白石さんは言った、君を娘だと思わない。私も白石さんを、父親だと思わない。私にはお父さんがいるもの。そしたら私たちは他人。そしたら白石さんと、そういうこともできちゃうかも。
鞠子はにやけ顔を隠すため、薄い毛布にくるまった。それでいつものように、ちょっと危険な妄想をはじめた。やっぱり懲りていなかった。
クローンなわたしとわがままドクター
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。次話は3、4日後あたりに投稿する予定です。