そぞめくキュビズム
1チャプターにつき1作品になっています。
真珠色の転化
さて、僕はこれからニンゲンじゃなくなる。
それは朝起きたとき、まどろみで呼吸をしたときからわかった。朝一番のくしゃみの味がまるで囀るのだ。なんてうるさいんだ、僕は頭と目をぐしゃぐしゃに掻きまわす。世捨て人の哀愁を僕は知っている、こんな気持ちだ。ニンゲンだから、ニンゲンで居る自分がまどろっこしい。殻を破りたくてもどかしい。そんな僕の希望がとうとう叶ってしまったのだ。
しなびたベッドを蹴って立ち上がると、そこにあるのは全く僕ではなかった。
いや、今までの僕と異なる性質をもつだけで本当は僕自身なのかもしれない。
ただ、少しだけニンゲンじゃなかった。昨日までの僕の頭はこんなんじゃなかった。それは手も、足も、体中のありとあらゆる部分に言える。僕はこんなんじゃなかった。これでは少しだけニンゲンでない、でも大方はニンゲンだ。
僕は混乱する。さっきぐしゃぐしゃにした頭と目を用いて、思考すれば思考するほど形が崩れて混乱した。これでは獣だ。少しだけニンゲンでない僕は、少しだけ獣なのだと悟った。やや落ち着きを取り戻す。
さて、今日は学校がある。どうしよう。
そして、まず、自分の部屋から出なくてはいけない。どうしよう。
こんな少しニンゲンじゃない僕を見て、母さんや父さんや姉ちゃんはどう思うだろう。バケモノと罵るかもしれない、怖れるかもしれない。それは厭だ、悲しくておかしくなって死んでしまう。死んでも同じ墓に入れてもらえないかもしれない。それでは死んでも死にきれずに化けて出るだろう。
情けないくらいにマイナス方向の感情が鬱鬱と溢れだす。もはや鬱鬱という音さえ聞こえそうだ。僕はまたベッドに戻る。布団や毛布やタオルケットをすべて頭から被って恐怖に震えた。僕は少しだけニンゲンでない、それを知られるのが恐ろしい。
目を閉じると視界は黄金色で栄光に満ちていた。くだらない、今すぐ消えてしまいたい僕を馬鹿にしているのか。
いや。
ふと気がついた。
ニンゲンじゃなくなったあと、僕は何になるのだろう?
消えてしまうのだろうか、それとも名も知らぬ獣になるのか、それとも――
そこで僕は自らが魚に変わる幻影を一瞬見た。それから、空を駈る鷹に変わる幻影に、土の中で巣をつくる蟻に、草原で捕食者に怯えるインパラに、次々と幻影が浮かんではたちまちに消えた。くだらない、僕は再び同じ言葉で毒づいた。そして僕自身の安否を投げかける。僕はまだ大部分がニンゲンだ、大丈夫。
そんなとき、部屋の外からまるでイルカがジャンプしたあとのような重量感のある水音が聞こえた。また、カーテンで閉ざされた窓の向こうでは雷で空が唸っていた。
僕だけでないのだ、世界そのものがすっかり変質してしまったのだ!
僕はとろとろに安堵し、それで左の耳朶が少しばかり溶けてなくなった。音が聞こえるものか、試しに手を叩いてみると左耳はどうやら機能しているようであった。若干欠陥してても機能的に支障がないならそれでいい。観賞価値が生じるほど僕の左耳は美的ではなかったし、たいした愛着もなかった。そんなことを考えていると右耳の耳朶が破裂して空中へ飛び散り、消えた。もう一度手を叩いてみると右側の音が欠落していた。耳朶が爆発した音で鼓膜が破れてしまったのだろう――ちっと舌打ちをして僕は何回も手を叩いた。左耳だけ、左半分の体だけがどくどくと脈打っていた。
手を叩いていたせいか、部屋の外から水音に混じって地を揺らすような足音が迫ってきた。母だ、と僕は直感した。僕が手を叩く音に反応して、あるいは憤慨して、その足音は迫ってくる。一歩踏み出すごとに、地球の裏側であらゆる火山が爆発していた。少しだけニンゲンじゃない今の僕にはありありとそれを感じ取ることができた。そして足音、いや母の気配が部屋のドアの前で停止した。
「たかし! 早く起きなさい!」
――そう言いたいのだろう、とは理解することができた。
母の気配を纏ったそれから発せられたと思しきその声は、確かに母の面影を残している。しかし、その原語はまったく知らない世界のものであった。僕らの住んでいるこの国から見て外国語、というわけではない。そもそも地球語ではない、地球にあってはいけない響きを持つ音の塊が左半身に轟々と突き刺さった。途端についさっき目覚めたばかりの頃に抱いたあの悲しみが膨張し、小さな水ぶくれになって足の裏にぽつんと現れた。
そうだ、世界は変わっていく。今までとは違う、新しい世界がやってくる。
「おはよう世界」
ふと声に出してみた僕の心は先ほどの大雨みたいな悲しみを浴びて、すくっと伸び上がった。僕の話す言葉もまた、珍妙な響きを持っていた。足の裏の悲しみは知らない。ただそこにあるのは、すっかり晴れ渡った青い僕の視界だ。今日から僕はこの青々とした新しい世界で、まったく違う生命を受けて暮らすのだ。
もう、僕の半分以上がニンゲンじゃない。そんなことが僕の背中を押した。僕は被っていたタオルケットを紙きれみたいに折って飛行機をつくった。僕が折るとタオルケットは本物の飛行機に、輝くセスナ機になった。その色は白みがかった玉虫色をしていて、貝殻の裏側や真珠のような光沢を放っている。そして小さなセスナ機を紙飛行機を飛ばすふうに、すっ、とドアに向かって飛ばした。セスナ機はドアを突破して、エンジンを唸らせ、更に見知らぬ真新しい世界へと飛び立っていった。エンジンの音はほんの少し母の声に似ていた気がする。ドアの向こうの世界に母と思しきモノはいない。僕は半分指のくっついてしまった手を振って、飛んでいくセスナ機を激励した。やがてセスナ機はみえなくなった。僕は自然な足取りでドアの前まで――それから、息を呑んだ。ここから先はきっと抱えきれないほどたくさんの覚悟が必要だ。でもセスナ機は行ってしまった。
ぐぎぃ、僕の背骨が滑稽な音を立てた。背骨がぐいぐい曲がって、さっきまで二足歩行だった僕は四足歩行になった。もうだいぶニンゲンじゃなくなってきた。
僕はのびやかな四肢を操り、ドアの向こうに広がる知らない世界へ飛び込む。
大丈夫、手の平に書くことはできないけど、きっと大丈夫だ。
詩人と海
「さて、きみは私の顔を想像できるかい。そもそもきみは、私の話に意味や物語性を期待しているのか? また、私の言葉のひとつひとつから『私』というありもしない存在を理解しようと努めているのならば、きみは賢い愚者だ。尊敬に値するよ」
きみは、宇宙から生まれたんだ。
きみは、宇宙からやってきたんだ。
見上げると、ウルトラマリンのオーガンジーを何層も重ねたように、
この世よりもこの世らしい私は愛したい。彼女は、なんてしなやかなんだ。夜空に浮かび上がるシルエットのラインが限りなく儚く、彼女は運命をはらんだ瞳で微笑む。手の平をかざすと、きらきらと光るまたたきが私を眠らせようとする。
ああ、いなくならないで。
それでも彼女はわらっている。
箱舟の中で、私たちは動物のようにたわむれる。理屈に支配された私を、彼女はゆっくり融かしていく。そのたび、ちらちらと視界の端が燃え上がり、またたきの数が増えたり減ったりする。水晶が割れたようなその光を追うごとに、彼女が遠ざかっていく。知っている、彼女がいつか消えることを。流れ落ちるものたちと同じで、彼女はまばたきの中で瞬間瞬間に閉じこめられている。紺青を進んでいく私の舟は何度かおそろしい螺旋に巻き込まれながらも、少しずつ約束の地へ近づいていく。
航海の時は蜜のように流れ、彼女は徐々に欠けていった。
「かつて、タイムスリップなるものをしたことがある。一度きりのこと、しかも予期せぬ偶然のことであったから、その方法など詳しいことはわからない。その上、それが本当にタイムスリップであるのかさえ断定できない。ただ、どこか違う場所へ飛ばされたという経験の記憶が体の奥深くに染み付いているのだ」
※
音のない世界でも暗闇は何故かざわめく。背中のほうから、彼を手招きして呼んでいるのだ。
彼は――沈んでいく。海の中に埋もれていく。
そして、あぶくも何も見えなくなった頃、彼の呼吸は止まった。肺は水ですっかり満たされていて、使い物にならない。また、心臓が動いているのかも定かでない。一方で彼は極めて冷静で、心臓が止まっても、意識はこうしていつまでも永らえているのだか、などと考えていた。彼は知りたくなかった。なにも、知りたくなかった。
なけなしの未来がいとも簡単に、どろどろと解け落ちていく。そして彼の体は暗い水底へ還る。
彼は泡と共に記憶を吐き出した。形のない記憶の泡には、かつて手足や理性のある毛無しの猿だったころの自分が現れる。きっとこの死は、天からのせめてもの贈り物なのだろう。愛した人に冷たい水に突き落とされて尚、彼は至福の心地でいた。
目を瞑る。瞑ると、さまざまな思念が脳を直接叩き出した。耐え切れなくなって、彼はガッと目を見開いた。次第に、やるせなさは藍色をした悲しみに変わった。そんな悲しみを抱えている彼の脳内は、爆発、飽和、――、白に変わった。
「ピエリータの愛は海底を巡り、そしてまた彼の胸の中へと還る。愛しいワルキューレに会うため、海の底の塵芥から生まれた彼は、命と引き換えに愛の言葉をすべて取り上げられていた。初めて地上にやって来た彼は、まずワルキューレを想って喉が潰れるまで泣いたという。……さて、きみは、彼を愚かだと思うかね?」
これは・退廃する
石膏像を割る。
石膏像を割る。
石膏像を割る。
これは誰の任務だ。少なからず自らが望んで受けた任務ではない。いや、少し遠ざかって全体を見渡すならば、これは自分から選んだ任務と見做されるかもしれない。ただ、これは今の自己が望むことではない。
強いて言うなら任務という表現は間違っている。これは、軍事訓練だ。そう、訓練。一般市民を傭兵に育て上げるための訓練なのだ。間抜な一般市民であった自分はプロパガンダに流されて、こうして軍事訓練にいそしむ。非国民のレッテルを貼られるくらいなら、数年間、訓練を受けているほうが余っ程マシだ。
訓練では様々な苦行を強いられる。当初はそれが苦行であるとは微塵も思っていなかった。ただ、あるとき自分がいわゆる「落ちこぼれ」であることに気が付いてから、それは苦行へと変容した。
周囲に置き去りにされ、嘲笑される過程ほど堪えるものはない。自分は特待訓練生だった、だから、手を抜いて訓練を受けていた。それが「間違って」いた。
もう思い残すことはない。ただ、割る。割り続ける。初めて己の意志を噛み締めて、真っ白で無表情な石膏像を次々と床に叩きつける。
砕け散る石膏像たちの最期の姿がフラッシュバックする。
断末魔が鼓膜を揺らす。
マルスも、モリエールも、ジョルジョも、みんな死んだ。
自分はもう軍事訓練を受ける必要はない。
この忌々しいデッサン室も、そしてこの学校も、今日でお別れだ。グッバイ、グッドではないけど。
決して美しいとは言えない午後八時、こみ上げる歓喜にひたすら震えた。
一年しか持たない
どういう因果か、わたしの体は一年ごとに脱皮しなくてはいけない。
わたしの家族――父と姉もそうであった。母については知らない。彼女はわたしが生まれてすぐ、遠い国へ行ったと父が言っていた。その父も、この夏脱皮を忘れて他界してしまった。姉は、わたしが十歳のときにバケモノ退治と称した人間たちに殺されてしまった。
脱皮を忘れれば死ぬ。脱皮の瞬間に殺されれば死ぬ。
しかし、脱皮までの時間、わたしはなにをしても死なない。例えば高いビルから飛び降りても、かすり傷ひとつつかない。通り魔に腹を刺されても、ただ出血するだけで致命傷にはなリえない。
『宇宙からの贈り物』だと、父が言っていた。自分を大切にしないさい、とも言っていた。
幼い頃死ねないことを苦に思ったことがあるが、今はむしろ得だと思っている。年に一度の脱皮さえ忘れなければ、何も食べなくても、事故に遭っても、どこでも最低限のもので暮らしていけるのだから。
今年の大晦日、二十回目の脱皮を迎える。
わたしの脱皮の日は、誕生日と一緒だった。父と姉は脱皮の日と誕生日が別だったが、わたしは奇しくも同じ日である。しかも大晦日なのだから、縁起がいいやら悪いやら、よくわからない。
大晦日、新幹線と電車で生まれた町へと向かった。今住んでいる都市から二時間もかからない。それから、いまは誰も住まない生家を訪れる。家の鍵はわたししか持っていない。
中に入ると、凝縮された年月の匂いが鼻をくすぐった。
それを待っていたかのように、体の奥深くの芯がごそりと動き出そうとする。脱皮まで時間がない。わたしは急ぎ足でかつての自室へ向かう。
途中、きらきらしたものが散らばっていた。こんなものあったっけ、と思い拾ってみると指がいとも簡単に切れた。びっくりして拾い上げたものを投げ捨てた。
わたしの手はこんな簡単には切れないのに。
そう思ってから、脱皮が近いせいで体が弱くなっていることを思い出した。
思ったより深く切れている。脈打つ音と指から血が出る速度が離れたり近くなったりした。耐え切れなくて、わたしはその場に座り込んだ。目を瞑る。頭の中で、青い宇宙が割れたガラス玉みたいにきらきらと光っていた。今、わたしの手を切ったのもこんなものだ。
ああ、遠くで父の宇宙が泣いている。
わたしは人間。今だけはただの人間。痛みが怖い。
大晦日に一年の穢れを祓って、新しい年を新しい身体で迎える。
新月の拙宅にて
我が拙宅に不思議な男がやって来たのは、前の新月の晩であった。
「わけを訊かず、しばらく匿っていただきたいのです」男はそう言って、頭を下げた。見れば男は人の好さそうな、こけしのような顔をしていた。だが、とんと時代錯誤な身なりをしていて、その上なんとも汚ならしかった。銀杏髷など、何十年ぶりに見たものだろう。年齢不詳風であるが、恐らく三十路に差し掛かるほどの年頃ではなかろうか。
男は頭を上げると、懐からくたびれた布袋を取り出し、私の左手を奪ってまで握らせた。大きく膨らんだ布袋からはかすかに古びた金属のにおいがした。裏付けるように、ずっしりと硬い質感を包んでいるのを手が感じ取る。それから――いけない、私は慌てて布袋を突き返した。男は相変わらずこけしのような顔をしていた。
私は右手に持っていたキセルを掲げて、気持ちの悪い奴だ、と吐き捨てた。それから戸をぴしゃりと閉め、鍵までかけた。
そうして、土間には私ひとりだけがいた。私ひとりだけが、先刻の布袋の触感を反芻しながら棒の如く立っていた。
次の晩、男はやって来なかった。
しかし、毎晩こんな夢を見るようになった。それは限りなく"このような"夢である。そして覚醒を迎える度に、左の手の平にあの布袋の感触がありありと蘇る――。
あれから一月ほど経った頃、私はすっかり駄目になっていた。出版社の者に幾ら原稿をせがまれようと、仕事に手が付かなくなっていた。気晴らしになるかと思い、物書き仲間で集ってみたりもしたが、些細なことで悶着を起こして気晴らしどころではなくなった。
一日のほとんどを悪夢を見て過ごした。目が覚めると、そこに手当たり次第酒を流し込んだ。そのうち、目が覚めていても悪夢を見るようになった。そして今日、とうとう家内に愛想を尽かされてしまった。気が付けば、家内は忽然と我が家から消えていたのであった。家内はよくできた妻だった、とおぼつかない頭で振り返る。振り返ったところで、戻って来るわけがないのだが。そもそも、戻って来て欲しいと思ってすらいないのだが。
また、幻聴がきこえる。あの晩、あの男が戸口を叩いた音だ。あの男が、我が頭蓋を内から叩いている。私は壁に頭を打ち付けて男を追い払おうとするが、男はこれ見よがしと言わんばかりに一層大袈裟に頭蓋を叩いた。
「わけを訊かず、しばらく匿っていただきたいのです」
男はそう言った。私の頭蓋を叩いて、私の脳に上がりこんで、一言そう言ったのだった。男は相変わらずこけしのような顔をしているように思えた。
「わけを訊かず、しばらく匿っていただきたいのです」
私は男に対抗するため、何かを言おうとした。しかし何を言おうか思い出せず、そうしているうちに男があの布袋を懐から取り出して、またしても左手に握らせようとする。ええい――、私は渾身の力で布袋を振り払おうとした。こけしのような顔が何度もちらついて、その顔は少しばかり残念そうに見えた。
「わけを訊かず、しばらく匿っていただきたいのです」
幻覚がみえる。
無造作に転がる布袋から、私の首が覗いていた。
こけしのような顔の男が軽蔑するようなまなざしで私を見ていた。
……またしても、戸口を叩く音が聞こえる。恐らく、今度は幻聴ではない。先ほどまでの幻聴と違って、この世のものであるという質感を伴っていた。私は不確かな足取りで玄関へ向かう。その最中、そういえば今夜は新月ではないかと思い出した。
あの晩、私の身に何が起きたのだろう。この一月で私は何故、こうも粉々になってしまったのだろう。
噛み付くように戸を開けると、そこに人影はなく、くたびれた布袋がなんのこだわりもなく放り出されていた。
身をかがめて、そっと布袋に触れる。布袋はあの晩と同じように何か大きなものを包んでいるようだった。
意を決して布袋を取り去ると、人の頭ほど大きいカンピョウがひとつ、ごろっと出てきた。カンピョウは妙に生臭く、それでいてどこか懐かしい感じがした。私はわけもわからずに、ぼろぼろと涙をこぼした。恐らくそれはカンピョウではなかったのだ。
「わけを訊かず、しばらく匿っていただきたいのです」
風の音が遠くからそんな戯言を運んでくる。
私は生臭いカンピョウを抱えて、壊れたように慟哭するばかりであった。
くちづけの夢
その晩、女とくちづけをする夢を見た。
「小さい仏が宿った人を、あなたは信仰したくなる」
夢の中の女は言った。
「あなたがわたしを愛するのは、そういうことなんでしょ? つまり、あなたはわたしに額にキスして欲しい」
そのときの私は、自分の額になにか大事なものを秘めていたような記憶がある。
額にキスするという行為は女を自分のものとして支配する、という意味合いを持っていたような気がする。
そして、女は私のよく知る誰かであった。だが、誰であったかはあと一歩のところで思い出せない。ただ、自分の欲望のままに支配するのは気が引ける相手であった。なので私は、「そんなことは思っていない」と言った。すると女は苛立ったような顔をして、なにか私を非難する言葉をいくつか吐いた。私はその女に対して好意を抱いていたので、ひどく胸に突き刺さるような思いであった。
それなのに、次の瞬間、目の前には女の白い顔があった。
まず頬に、吸い付くようなキスをした。
そして女の唇は私の唇へと移り、ついにはくちづけへと至った。
これならいいんでしょう? ――接吻をしながら女が言った。
トミコ、飛ぶ
今晩、彼女は星になる。
ぐるぐる渦巻き、右も左もブッ飛んでしまい、重力に振り回され、すべてを制御できず、制服のスカートがめくれるほど、地に足がつかずに、上昇気流にぶつかると、きわまったように、四面楚歌をぶち壊して――彼女は飛んだ。少女は玉虫色の夜空を飛んで渡る。
オーロラ色に染まった雲海は、見渡せば彼方にさえ何もない。なにも存在せず、うっとりするような孤独と風だけが彼女を包み込んでいた。彼女はいまや、雲海の魚だった。茫洋たる雲海を泳ぐ、雲海の魚だった。
彼女がこうして高度四千メートルを飛んでいるのにはわけがあった。かつて、彼女の"空を飛ぶことのできる仲間"がそうであったように彼女にも使命があり、それを果たすべく旅立ったのだ。
「あなたは星の民になるべくして覚醒したのです」
……そんな文句を聞いたのはいつだったっけ、と彼女は思い返してみる。しかし、薄い酸素に侵された彼女の脳は、ぽろぽろと記憶を失っていくばかりでちっとも思い出せなかった。代わりにふとよみがえったのは、あの朝、初めて宙を舞ったそのときのことだった。目が覚めてベッドから降りようとしたら足が床につかなくて、何分もひとりで身の縮む思いをしたのだった。
これから更に高度を上げていく。ぼこぼこに殴りかかってくる風は"訓練"で鍛えた力で、できる限り受け流していく。風をうまく従わせることが安定して空を飛ぶコツだと彼女は知っている。そして、風を屈服させるには神経をキワキワに尖らせる必要があった。彼女は目を閉じて、広げた両手の先まで緊張させた。その過程、脳の細胞の小宇宙が今までとは異なる融解・結合・爆発を起こしていた。多くの機能が犠牲になったが、彼女は悲しくなかった――悲しいと感じる機能を失ったからだ。
そうして、彼女はいっそうに人間ではなくなっていく。もう戻ることはできない。
太ももに受ける風が攻撃の手を少しよわめたように感じたころ、彼女はふいに下界を追懐させられた。風に紛れて、どうでもよかった会話が聞こえた。
「トミちゃんって好きな人いるの?」――そしてそれに答える自分。
あのときの自分は確か曖昧な返事をしたような覚えがある、彼女は抜け落ちたまぶたを探った。まぶたの向こう側はすっかり白くなってしまっていた。瑞々しい春の残り香だけがからっぽの胸の中にあって、トミちゃん、という響きがそれを呼び覚ます。
……いや、ちがう。
こんな春のにおいがするのは、そんなことじゃない。
彼女はそのとき、真剣にそれを思い出そうとした。失いかけていた機能が色づいていく中で、それはどうしても見つからなかった。一瞬のうちに何百メートルを昇っていく。飛翔の度に、人間の自分とそうでない自分が入り混じった。雲を突き抜けてびしょ濡れになった体は凍えて強張り、コントロールが利かなくなる。しかし、コントロールが利かなくなった理由はそれだけではなかった。
こわいよ、藍ちゃん。空に飛び立った仲間の声がした。
鼻から深く息を吸っても、気管がぴったりと門を閉じたような感覚だけがこびりついた。呼吸はあてにならなくなっていた。そして、そんな状態のまま、急激に空をのぼっていく。
彼女はもはや、ブレーキが利かない状態に陥っているのだ。
"訓練"ではこんなことはなかった、彼女は心急く。はやる気持ちに、飛ぶための原動力のようなものに火が付いた。冷え切った体からは熱い汗が吹き出る。脳内の変質は先ほどを遙かに超えて破壊的で、猛々しいものだった。ただし、それは今までと違って代価を奪う変化ではなかった。最後に、彼女は悲しんでいた。朝焼けの赤が凍った身を溶かすほど熱かった。最後の朝がやってくる。
すべてを知り、その途端に人間へと、上昇、にもかかわらず脳裏をちらつくのは、雲海が遠退いてゆき、――、彼女は――、
またたく間、彼女は――、
大気圏、鮮やかな思い出がふわっと消えた。
嫌悪する創世記
ある時、ふと、時間に関心がなくなった。それからというもの、私は世捨て人になった。
時間に関心のなくなった私は、まず先に眠ることを優先した。まるで二十数年間分、今まで足りていなかった睡眠時間を埋め合わせるような感覚だった。しがない会社員だった私は、時間と一緒に仕事のこともどうでもよくなった。
まどろみの世界に身を沈めると、二十数年の自分の歴史を垣間見ることができた。それは走馬灯のように駆け巡るものではなく、耳をそばだてるほど静かに流れるものだった。幼少期も、青年期も、そして今も、私の人生は何の変哲もなく無味無臭だった。そこには果てしなく無重力な場所にぽっかりと「私」という存在が在った。ただ、そこでの「私」は自分で認識ができないほど曖昧でぼやけたものだと記憶している。
そして、私は悟る。金色に輝く果実を手でもぎ取るようにして真理を悟った。――思えば、私はそれから人間でなくなったのかもしれない。
目を覚ましたのは本当に突然のことだった。じくじくと肉体が疼き、まぶたの毛細血管の隅々までもが私を目覚めへと導いた。まぶたを透かして流れる血の色がほんのりと赤く、見えた。生きている。目を開かないうちから、眠りから醒めたことを実感した瞬間だった。
粘るような抵抗感を感じつつも、目を開く。
目を開いて、世界がすっかり変わってしまったことにようやく、ようやく気がついた。
そこには、社会も文明も、大地さえもなかった。
目の前にあるのは真っ赤な球体で、それと申し訳程度の月と太陽が今にも死にそうな表情をして浮かんでいる。私はまるで神のようにそれを見おろしているのであった。くれない色のこの球体は私のいた惑星に似ていた。私の知る故郷はもっと違う色をしていたような気がするのだが、本当はこのような色をしていたのかもしれない。赤い惑星はごつごつとした外見をしており、たくさんの汚いモノが蔓延しているのがわかった。
体中の肉が肉が肉する。肉に肉のように反転しては、泣いた。その肉のような真っ赤に変わってしまった大地を思っては泣いた。やがて、私の涙は氷の槍となり、月をつらぬきとどめを刺した。月の断末魔は遠い昔に聞いた女の叫び声と同じものであった。もう一度、私は真理を悟る。
そして、己が×××であることを知った。
ああ、と私は笑う。手を広げると指の先からはヤドリギのような植物がピンク色のツルを伸ばした。私の笑い声に呼応するように、名も知らぬ惑星が爆ぜては失せた。文明を持った惑星も、美しい景観を持つ惑星も、総て同じ様な滅び方をした。その要因が私だと思うと、自嘲の笑みが漏れて、さらに多くの惑星が死んだ。
ピンクのヤドリギはまるで光合成をするように、宇宙のさまざまな要素を吸い上げて、地獄を放出した。地獄には天使もわるいやつも、みんないた。ただそこに境界線という概念はなく、すべての存在が同じ場所にあった。境界性がないということで、滅びという概念も存在していなかった。
私は総ての概念や存在や意義の幸福を願う。そして、いまだ笑い続ける。
そぞめくキュビズム