わしは消火器だ
わしは消火器だ。当然だが、名前なんかない。ごくごく普通のABC火災対応の粉末式消火器だ。ちなみに、Aは普通火災、Bは油火災、Cは電気火災である。
わしが置かれているのは、とあるホテルの廊下だ。通行の妨げにならぬよう、壁の凹んだところに納めてある。ちなみに、こういう凹みをニッチという。
ああ、気付いたと思うが、わしには教養がある。わしを作った工場のじいさんがやたらと独り言をいう癖があり、まさに『門前の小僧習わぬ経を読む』という状態なのだ。
えっ、そんなものが何の役に立つかって?
お生憎さまだが、役に立たないからこそ、教養なのだ。
ところで、わしがこの場所に設置されて随分経つが、一向に活躍するチャンスがやって来ない。まあ、それだけ平穏だったということだろう。それに、わしが活躍するときとは、すなわち、わしの命が尽きるときだから、おかげでその分長生きできたのだ。
だが、そうは言っても、当初の想定以上にわしの体は老朽化が進行しているから、このままでは、一度も使用されないままお払い箱になる可能性もある。ちなみに、お払い箱とは、本来はお祓い箱と書いて、伊勢神宮のお札を入れる箱だった。
えっ、もういいって?
ふん、知的好奇心がないんだな。それとも、わしのような年寄りの言うことなんか、あ、ちょっと待て。なんだ、このニオイは。何かが焦げるような、いや、焦げくさいぞ。
あっ、あの部屋のドアの上から、煙が漏れてるじゃないか!
誰か、早くあの部屋を調べろ!
あ、来た、ガードマンだ。インカムで何かしゃべってるぞ。
「はい、煙感知器が発報した6階に来ました。焦げくさいです。あっ、煙が出てます。行ってみます」
ガードマンが部屋のドアをノックした。
「ホテルの者です!ドアを開けてください!」
中から応答がない。
そこにマスターキーを持ったスタッフが駆けつけた。
「緊急ですので、ドアを開けます!」
カギを開け、部屋の中に入った二人は、口々に「あっ、何をしてるんですか!」「お金を燃やすのをやめてください!」と叫んだ。
二人に両腕をつかまれた状態で、半ば強引に部屋から連れ出された宿泊客は、それでもニヤニヤと不気味に笑っている。だが、それ以上は暴れたり抵抗したりする様子がないのを確認し、ガードマンはスタッフに頼んだ。
「こちらのお客さまの避難誘導をお願いします!自分は初期消火にあたります!」
周囲を素早く見回すと、ガードマンはわしのところに駆け寄ってきた。
ああ、ついにわしも役に立つ時が来たのだ。さあ、急いでくれ。しかし、慎重に頼むぞ。
ガードマンはわしを抱えて部屋に戻った。中は煙が充満している。見ると、テーブルに置かれた大きなクリスタルの灰皿で、なぜか札束が燃えていた。
ガードマンはわしのピンを抜き、ノズルを灰皿に向けると、レバーを力いっぱい握った。わしのノズルから、勢いよく薬剤が噴射する。良かった、間に合ったぞ。
薄れていく意識の中で、わしは使命を果たした満足感に包まれた。
(おわり)
わしは消火器だ