ヌァグアレダネムという男
三題話
お題
「できるだけ早く」
「よりどりみどり」
「食パン」
男は独りで歩いていた。
孤高を気取っているわけではない。むしろ人とわいわい楽しむほうが好きだ。
だけど、友達は少ない。
それは上背が百八十以上あるのに極度の猫背で十センチは損していたり、その猫背のせいで上目遣いのようになって常に睨んでいるように見えたり、服装がいつも首元がだらりと伸びたTシャツと膝部分が擦り切れたデニムでだらしなかったり、そういったことも関係しているのかもしれない。
「おい、そこのおっさん」
本人は望んでいなくとも、何故かこうして絡まれてしまうことが多い。
まだ二十四歳なのに「おっさん」呼ばわりされてしまうのは、そのみすぼらしい風貌のせいか。
アウウ、とくぐもった呻き声を上げて立ち止まると、五人の高校生達に周りを囲まれて逃げ場を失った。
リーダー格の男がポケットに手を突っ込んだまま睨みを利かせる。
「おい、俺とぶつかっておいて謝罪の言葉もないわけ?」
このように凄まれると恐怖感から猫背を更に悪化させて声も出せなくなってしまう。
身体は大きいが、元来気弱な質なのだ。
アウウ、と俯いたまま呻き声を上げると、高校生達の下卑た笑い声に包まれた。
肩を軽く押されただけで、大きくよろめいてしまい、更に笑われた。
「ヌ、ヌイラ、レン……」
「はあ? 何て言ったんだ?」
高校生達は互いに顔を見合わせて、首を傾げている。
そのうち一人が「ラーメンじゃね?」と言うと、別の一人が「ぶっ飛び過ぎだろ」と言って全員が笑い出した。
この人達はさっきから笑ってばかりだ、と男は思った。
そこで男も笑おうとしてみたが、歪んだ唇から呻き声が漏れただけだった。
案の定高校生達の反感を買ってしまう。
「調子こくのもいい加減にしろよ。とりあえずソレには何が入ってるんだ?」
男が右手に持つトートバッグを指差して、ニタニタと頬を歪ませている。
「ヌ、ウ……ヌォク、マン」
「は?」
「ヌ、ヌォ、クマン」
男の言葉は一つとして高校生達には伝わらない。
再び互いに顔を見合わせて、険しい表情で男へ目を向ける。
「ウォークマン?」
その問いに男が首を横に振ると、遂に痺れを切らしたのか男の胸倉を掴んで額を突き合わせた。
「何言ってんのかわかんねえよ!」
男を怒鳴りつけてトートバッグをもぎ取り、突き飛ばすように荒々しく手を離すと、男は尻餅をついて呻き声を上げた。
「なんだ、食パンじゃねえか」
高校生達は集まってバッグの中身を見ている。がさがさと中に手を入れ漁り、まだ立ち上がらない男の方を見た。
「普通の食パンに、イチゴ風味、ヨーグルト風味、ホテル食パン。何だこれ、食パンしか入ってねえぞ」
「アァ……ウゥ……」
高校生達は変なモノを見る目で男を見下ろす。
男はパンが大好きで、こうして週に一度近所のスーパーでまとめ買いをしている。同じものではなく、よりどりみどり様々な種類の食パンを買って置いておかないと心が落ち着かない。
高校生達はバッグの中のものを次々と放り投げてゆく。最後にはバッグも地面に落として、何度も踏み付けた。
食パンは袋に入ったままだから大丈夫。トートバッグは踏まれても汚れるだけだから大丈夫。
こういう時は相手が飽きるまで大人しくしているのが一番。下手に動くと余計に状況が悪くなるだけ。
男はこれまでの経験からそう判断して、黙って高校生達の動きをぼんやりと眺めていた。
どちらにしろ、一人では勝ち目はない。
そんな男の期待通り、予定通りに高校生達は笑いながら男から離れて行った。去り際に近くの食パンを蹴飛ばしていったのは余計だったが。
高校生達の姿が見えなくなったのを確認して、男は散り散りになった荷物を拾い集めて、自宅へ向かう。
食パンは潰れていたり、少し袋が破れていたりしたが、それは考えないようにする。
嫌なことで頭の中を満たされてしまうのは、何よりも嫌だった。いつでも楽しいことだけを考えながら生きるのが、この男のポリシー。
歩き出したところで、ズボンのポケットの中で携帯電話が震えて着信を報せた。
「アイ、ヌォスヌォス」
「あ、今何してる? 暇なら一緒に飲まない?」
今でも仲良くしてくれる幼馴染からの電話。男はその誘いを喜んで受けることにした。
…
男は一度自宅へ戻り、荷物を置いて、こういう時のために買っておいた服に着替え、鏡を見ながら寝癖を直した。身体を少し後ろへ反らして背筋を伸ばしたが、猫背は直らない。
携帯電話とサイフだけを持って外へ出て、電話で伝えられた場所へ向かうと二人の女性がいた。
「うん、なかなか早かったね。それでは、二人は初対面だからまず自己紹介。ユキちゃんからどうぞ」
幼馴染によって男の前に立たされたユキは、おずおずと口を開く。
「初めまして。多中沙雪です」
挨拶とともに丁寧なお辞儀をして、かわいらしい笑顔を見せた。
続いて男も自己紹介をするため口を開いた。
「ア、アォ、ウォグハ、ヌァグアレ、ダネム、ネゥ」
「はい、サユキちゃんとタケルくんね。それじゃあ寒いから早く中に入ろ」
サユキとタケルは引っ張られるように居酒屋の中へ入ってゆく。
この幼馴染に感謝しつつも、タケルは複雑な気持ちになっていた。
ヌァグアレダネムという男