人形の見る夢は

数年前に書いたものを改題・修正したもの。
このころはたしか某ホラー大賞を目指していたような気がする。あの中だと恒川光太郎が好きです。

 ――それは、吐息の凍える冬の夜のこと。
 芳原辰也はいつもの約束の場所で、彼女を待っていた。住宅街から少し外れ、街頭すらまばらなその待ち合わせ場所は、ありふれた、寂れた公園であった。吐く息が白いのかすらわからないほど暗いそこで彼はベンチでただボンヤリと、やって来るかどうかもわからない彼女を待っている。
 ……もう十二月だからなぁ。
 今にも雪が降りそうなほど冷え込んでいる。日中は然程寒さを感じないが、さすがに深夜二時過ぎともなると、かなり寒い。彼はコートの襟を立てた。そして、明日はマフラーや手袋も必要だろうか、とまるで他人事のように思った。
 要は、自分はどうでも善いのだ。
 ――ただ、約束してしまったから。
 だからまだ、自分は死ねない。いつも公園へ向かうときは、今夜こそ彼女がやって来る、と信じ込む。でなければ、あの日からこうしてずっと待っていることなんてできないのだ。
 それは、彼女を彼に託したもうひとりの彼の所為。それでもいい、と思ってしまった自分の責任だ。彼は、寒さで脳の奥がズンと痛むのを感じた。もしかしたら、偏頭痛の原因は寒さだけではないかもしれない。彼は目頭を押さえて、暫し目を瞑った。すっかり馴染んでしまった筈の眠気がすぐそこまで来ている。このまま目を瞑っていれば、いずれ眠ってしまう――彼はベンチから立ち上がり、軽く伸びをした。背骨が鳴る。肩が鳴る。ああ、凝っているのだ。
 眠気が少しばかり飛んだところで、彼はまたベンチにかけた。彼はふぅ、とひとつ溜め息を吐くとまた彼女を待つ。
 ……自分はただ、約束を守った気でいるのが好きなのかもしれないな。
 自嘲気味に彼は思う。二年前のあの日の約束は、まるで夢の中の出来事のような曖昧な記憶だ。そう考えると、彼女などもとよりやって来る筈がない。
 信じたい。ただそれだけの動機。
 彼は、腕時計を見る。文字盤を光らせると、デジタルは二時三十二分を示していた。どおりで眠い訳だ、と彼は欠伸をした。
 ――いつもは二時で切り上げるのに。
 もしかしたら、少しばかり眠ってしまったのかもしれない。
 彼はベンチを立ち、家路を辿ることにした。眠気によって、踏み出す一歩一歩が酷く不安定でぐらついている。彼はボンヤリと子供の頃、熱を出したときを思い出した。今、歩いている感覚はそれに似ている。

 ふと足音が聞こえて、針で突かれたように、彼は振り向いた。目を見張り、見えもしない闇を必死で捉えようとした。彼女が来たのかもしれない、と胸が高鳴った。
「――辰也?」
 現れたのは高校生時代の先輩、恭子だった。当時から五年経って、すっかり女性らしくなった彼女は何故か妙に着飾っていた。
「どうしたの、こんな時間に」
「いや……別になんでもないですよ」
 ふぅん、と呟いて、恭子は彼の前に立ち回った。狐か何かのような、しなやかな動きである。
「こんな時間に出歩くなんて、普通ないでしょ?」
 香水のにおいがほんのり馨る。芳原は艶かしくもある彼女を目の前に、暫く思考した。そして、漸く口を開く。
「先輩こそ、どうしてこんな時間にいるんですか」
「今日はちょっと、ね。仕事柄、この時間は眠れないの」
 なるほど、と彼は幾分納得する。きっと彼女は夜の仕事をしているのだろう。
「それで、あんたはなんでこんな夜に出歩いているのかしら?」
「……強いて言うなら、ちょっと人を待っていて。彼女、夜じゃないと会いたがらないんです」
「本当に?」
 ――そう訊ねられれば、確証はないな。
 彼は口ごもった。
「まぁ、嘘なら嘘でいいよ。別に」
「いや。嘘じゃない」
 今、嘘と認めてしまえば彼女を待ち続けた二年間はどうなるのだ。
「本当に待っているんだ」
「へぇ……」
 恭子は彼に微笑む。
「なら、聞かせなさいよ。あんたすごく眠そうだから、今日じゃなくてもいいけど」
 彼が返答に困っていると、彼女は煙草を片手に去っていった。

 ――あれは、夢なのか。
「困ったな……」
 ベンチに腰かけ、彼はまだ彼女を待っている。時刻は午前四時を過ぎたところだ。ここまで彼女を待ち続けたのはこれが初めてである。帰る場所すら危うい彼にとっては、これが一番気楽で善い。
 それから彼は、夢に抱かれて死んだように眠り続けた。 

   ※

 ――あいつ、昔と全然変わらないなぁ。
 熱いシャワーを浴びながら、恭子は自嘲気味に薄っすらと思った。夜も明けて昼も近い。偶々出くわした彼は、今どうしているだろう。地道に働いているのだろうか。それとも、まだ公園で誰かを待っているのだろうか。一体、彼にそこまでさせる『彼女』とは何者なのだろう。
 シャワーを止め、恭子は浴室を出た。バスタオルで丁寧に体を拭く。そして部屋着を着ると、リビングのソファにごろりとなった。然して眠くもないのに、何故かあくびが出た。少し目を瞑り、些か感傷に浸った。
 ――こんなに変わるものなんだ。人って。

 学生時代、わたしは美術部の部長だった。女子ばっかりの美術部員の中に、ひとりだけ彼がいたのだ。彼は大して絵がうまい訳ではなかった。なのに、どうしてか惹きつけられる、魅力的な絵を描くのだ。他の部員とは感性が違うのだな、と思った。
 ………わたしは、そんな彼が好きだったのだ。

 今となっては、遠い昔のひとときの夢のようだ。胸の中になにかが熱く広がるような感じがして、恭子はクッションにぎゅっ、と顔を押し付けた。もし今の自分ならきっと、彼に想いを伝えていたのだろう――そう考えて、余計苦しいような甘いような気分になる。
 高校を卒業してから、恭子は今日まで彼に会うことなく過ごしてきた。正直、彼のことなど忘れかけてすらいた。大学を中退し、それからはこの生活――恭子はついにぽろりと涙を流した。しゃくり上げて泣くことはなく、ただ涙だけがぼろぼろ出る。
 ――馬鹿、馬鹿、馬鹿。
 当時の大人しいだけのわたしを知っている彼は、今のわたしをどう思うだろう。すっかり女になったわたしをどう思うのだろうか。
 ソファから立ち上がり、洗面所へ向かう。顔を洗い、身支度を整えた。
 ―――今すぐ彼に会おう。泣くのはそれからでいい。

 いぶし銀のハッキリしない空が広がっている。
 恭子はあの公園へ向かう。足取りは何故か急いでいた。……どうしてか、急がなくてはならないような気がした。彼が公園にいる確証はないのに、ひたすらあの公園を目指す。
 公園へは然程かからずに到着した。到着するなり、恭子は蒼褪めた。
「ちょっと、起きてよ――」
 今朝と同じベンチに腰掛けた芳原は、ぐったりとしている。眠っているのか死んでいるのかわからない。恭子は何度も彼を揺さぶり続けた。しかし、芳原が目覚める気配は一向にない。
「いい加減、いつまで寝てるつもり――!」
 恭子が少しだけ声を荒げたところで、芳原がもそりと動いた。
「……ん、ああ。先輩?」
 よかった、と心から思った。しかし、それより気持ちが先走ってしまう。恭子は芳原を睨みつけ、怒鳴るように言った。
「――――ねぇ、誰を待ってたの?」
 芳原が怯えたような目で、こちらを見た。ゾッとするほど、虚ろな目だった。焦点の合わない彼の目を見て、情けない、と恭子は呟く。実際のところ、強がりだが。そして漸く、芳原が口を開いた。
「……先輩、変わりましたね。昔とは大違いだ」
 今にも死んでしまいそうなほど、弱く細い声が彼の口から漏れる。
「なら、先輩なんて呼ばないで。恭子、でいいわ」
「ふぅん。恭子、ね。もう上下関係もない訳だ」
 投げやりなその言葉に恭子はやっと気が付く。彼は、かつての彼とは全く違う人物なのだ。
 なんて馬鹿――――
 あの頃の想いは、やはり一瞬の幸せな夢でしかなかったのだ。そう思うと、今にも涙が溢れそうになる。恭子は、泣きそうな衝動を心を握りつぶして堪えた。しばらくの沈黙の間、次第に体が冷えていくのを感じた。

「帰らないの?」
 先に口を開いたのは恭子である。彼は虚ろな眼差しをこちらに向けた。
「帰らないんじゃない。帰れない」
「どうして?」
 彼は薄ら笑いを浮かべている。
「帰る場所もなにもかも全部、今日で必要なくなるからさ。アパートも引き払ったし、バイトも辞めた」
 なんでそんなことを、と恭子が問うと、彼は更に口元を歪ませた。
「今日、俺は死ぬんだ」
 それを聞いて、恭子は言葉を詰まらせる。一体、どんな言葉をかけてやればいいのだろうか。今日死ぬ、まるで休日の予定を言うような気軽さで彼は言ったのだ。
「今日俺は彼女に殺される、と思う」
「なんでそんなことがわかるの?」
 彼は遠い目をして答えた。
「俺は、二年前のあの日からずっとそう考えてきた」
 この日にまた会おう――と彼が芝居の科白のように言う。
「二年前に殺された、もうひとりの俺が言った最期の言葉だった。最初は意味がわからなかった。ただ、あの日から毎晩彼女がここに訪れるのを待ち続けた。……去年のこの日、やっとあの言葉の意味がわかった。たまたま俺はその日、ここで彼女を待つことをしなかった」
 そこで、彼の話が止まる。それで、と問いたくなるほどの間が空いたが、恭子は問わなかった。何故なら彼の顔が、引き攣り、歪み、不気味な笑みを浮かべていたからだ。思えば、それは自嘲の笑みだったのかもしれない。
 そしてやっと、彼はまた語りだす。
「その日、丁度この砂場のあたりでひとり子供が死んだ。他殺だった」
 恭子は彼が指差した砂場を見た。とても、この傍で殺人が起きたとは思えなかった。
「殺されたのは夜の七時頃だったそうだ。何でも、日中に友達と遊んだ時に忘れた玩具を取りに父親と公園へ行って、父親が煙草を吸いに目を離した隙に殺されたそうだ。一方の俺は、仲間と一緒に居酒屋だ」
「それが『彼女』の仕業だった、って訳?」
 偶然起きた不幸という可能性もある。恭子が疑うのも無理はない。
「そうだと思う。――その死体には心臓がなかった」
 恭子が砂場を見ていると、彼も砂場を見遣る。ちょっと目を離している間に、まさか自分の子供がそんなことになっているとは思わないだろう――想像して、恭子は幾分心が痛くなった。
「……彼女は、どうして心臓を取ったの」
 充分過ぎる間をおいて、彼は漸く口を開いた。
 
「彼女は人間になりたいんだ」

 人間になりたい。
 恭子は一瞬だけ彼の言葉の意味がわからなかった。しかし刹那にその意味を知った。
「じゃあ『彼女』は、人間じゃない?」
「ああ、そうだ。多分、人類の歴史の中で最高の発明品だと思う。だからこそ、こんなことが起きるんだ」
 さも憎々しげに彼が言う。
「彼女は、本当に善くできた人形だった。人間となにひとつ変わらないし、こんな言い方可怪しいかもしれないけど、人形みたいに美しかった」
 不意に恭子は幼少の記憶を思い描いた。それは、妹と一緒に人形遊びをした記憶だった。笑い合いながら、互いに人形の科白を喋っていたっけ、と。金髪の外国人を模したその人形は、今どうなっているかわからない。ただ当時、ふと思ったことがある。
 ――この子も、喋ったり動いたりできればいいのに。
「動いて喋って、俺たちとなにも変わらないが、彼女は人形だった」
 耳元で冬の風が声高く叫んだ。長めに伸ばした前髪が顔に張り付き鬱陶しい。恭子は、妙に我に返った。そして、自分がずっと立ちっ放しであることに気がつく。
「……ところで、善い加減寒いわよ」
 ほぉ、と彼がわざとらしく呆けたような顔をした。


 恭子は、芳原を半ば強引に公園から引き剥がし、マンションの自室へ向かった。そして、もう数日間ほど風呂に入っていないという彼を浴室へ放り込んだ。下着は、帰る途中にコンビニで買った。
 部屋の中は暖かくも寒くもない。ただ、彼が同じ空間にいると思うだけで何故だか胸が高鳴る。恭子はコートを脱ぎ、ソファでボンヤリしていた。だが、不思議と完全に脱力できない。どうにも意識が浴室へ向かってしまう。
 ――馬鹿ね。諦めが悪い。
 なんでだろう、と溜め息を吐く。彼も自分もあの頃とはすっかり変わってしまった筈なのに、この気持ちはなんだろう。
 芳原が浴室から出てくるまで、恭子はできるだけ『彼女』のことを考えないようにした。このままでは嫉妬に焦れてしまう、と判断したからだ。

 芳原は浴室から出ると、恭子が買ってきたコンビニ弁当を黙々と食べた。そして彼は、それを平らげると恭子に言った。
「世話をかけて、済まない」
「いいのよ、別に。放っておけないの」
 ここで自分の本当の気持ちを曝け出せたなら、どれほど楽だろうか。そんなことを考える自分に気がついて、恭子は自分が厭になる。
「その、今までどうしてたの?」
「大学を中退して、それからバイトを転々として……その日その日、とにかく生きることだけを考えて生活していた。でも、ある日突然それが馬鹿馬鹿しくなった」
 ――わたしと同じじゃない。
 恭子は、つい彼の過去に自分を重ねてしまう。
「ちょうど二年前の今日、俺は自殺を図ったんだ。だけど、死ねなくなった」
「どうして?」
 なんとなく、答えはわかっていた。
「彼女に出会ったんだ。そして、彼女に殺されるまで生きなくてはいけなくなった」
 やりきれない焦燥感がじわじわと胸に広がる。それは喉を突き、言葉になろうとするが、恭子はそれをのみこんだ。今まで感じたことのないほどの嫉妬だった。そしてそれは、恭子の言葉となる。
「ねぇ、なんで『彼女』にこだわるの」
 言ってしまって、恭子は後悔した。
「俺の理想の人だったんだ。容姿も、なにもかも――」

 胸の中が乾いている。そこに、ちくちくと穴が出来ていく。喪失感に似た寒い気持ちが広がる。失ったものは何ひとつない筈なのに、なにか大きなものをなくしたような気分だった。恭子は、唇を噛み締めるでもなく、表面上は何事もなかったかのようにしている自分に些か腹が立った。
 見遣れば、彼はテーブルに向かい座ったままウトウトしている。やはり疲れが溜まっていたのだろう。恭子は自分のものと並べて掛けてある芳原のコートを取り、その彼にかけてやった。
 ――これは古傷なのだ。
 刺激があれば、またひどく痛む。きっとそんなものなのだろう。恭子は長く、深い溜め息を吐いた。そして、目を閉じた。
 頬に熱いものが伝っていくのがわかったが、なにもしなかった。

   ※

 つい数日前まで己の天下の如く咲き誇っていた桜の花が散り、青々しい緑たちは枝々を占領している。ぽつりぽつりと花が残り、まるでツギハギの服のようだった。高校生活の中のこの風景も今年で見納めだと、赤嶋恭子は美術室の窓からその総天然色の奇妙な模様を眺めては膝に置いたスケッチブックに描いた。
 ――しかしもっと奇妙な模様が、目の前で創られていくのだ。
「恭子、先に帰ってるよ?」
「……あ、うん。わかった。じゃあね」
 中学校からの友人のエミが怪訝そうな表情で恭子の傍にいた。彼女も恭子と同じ美術部である。
「ねぇ、最近なんかあった? ずっとぼぅっとしてるから」
「いやなんにもないよ。そんなに変?」
「うん、変」
 じゃあ、とエミが軽く片手をあげて去っていく。恭子も曖昧な愛想笑いを浮かべて、手を振り返した。数瞬して、恭子は手を降ろした。そして、また目の前の模様に目を遣った。
 幾何学模様の鮮やかな色が、その模様に似合わないありふれたスケッチブックに飛び散っていく。どうして水彩でああして、色が濁らないのだろう。何も考えないで描き殴っている風に見えるが、実際はかなり思考を廻らせて描いているのだろうか。ひとつひとつの色や形が、見ていて安心するような位置に描かれているのだ。もしこれが何の考えもなしに描いているのならば――それは天性なのだろう。
 恭子は手を止めて暫くそれを見つめた。もしかしたら、それがいけなかったのかもしれない。
 その絵を描く彼にいつの間にか見惚れていた。
 とてもそれが素晴らしいことに思えた。嬉しいような、気持ちいいような、そんななにかが心に流れ込むような気持ちだった。ずっとこの時間が続けば善いのに、と恭子は思った。時間が止まって、これからずっとこの気持ちのままでいれたらいい、と。
 ふと、彼が窓の外を見た。そして恭子の存在にちらりと気付く。
 心臓の音が跳ね上がるように高鳴った。
 恭子は焦って、わざとらしく目を逸らす。そっと視線を戻したとき、彼がこちらを向いて微笑んでいた――

   ※

 ――どくん。
 はっとして目を覚ますと、時計の針は四時半を過ぎたところを指していた。体中が痛く、視界がぼやけている。恭子はあれから眠ってしまったのだ。軽く伸びをして、眠気を追い出す。それと同時に、とても大事なことに気が付いた。
「……芳原、いるの?」
 小さく言ってみるが返事はない。それから、恭子はトイレに向かった。数回ノックしてみるが彼がそこにいる気配は全く感じられない。
 腹の底から厭な予感がした。
 恭子は急いで身支度を整えた。身支度と言っても、防寒具を身につけるくらいだ。
 コートを着て、マフラーを巻き、手袋をする。
 きっと今夜は冷え込むだろう――――
 途中、化粧が崩れているのではないかという心配をちらりとしたが、結局、時間の方を優先した。こんなときに、自分の心配をする暇はない。恭子は何も持たず、玄関を飛び出した。
 既に外は薄暗く、青い冷気が空を満たしている。
 ――タクシーに電話しておけば善かった。
 恭子の住むマンションの近辺は比較的静かな土地だ。ベッドタウン、という表現が相応しいとも言える。こんなところに、タクシーが自らやって来るとは到底思えなかった。自転車を使うにも、自転車は夏に盗まれてしまってからそのままだ。
 歩くしかない、と恭子は逸る気持ちを抑える。
 こうしている間にも彼はまた、彼女を待ち続けているのだ。殺されることをわかっていて、ただ彼女を待っている。『彼女』になることはできないが、それは今、唯一自分の為にしてやれることなのだろう。
 そう考えて、恭子は強く歩を進めた。


 冬の寒空はすでに暗く澱んでいる。そんな中でぽつぽつと灯る街灯は、光の弱い懐中電灯だった。まるで深海を進むような気分である。
 公園に着いて、恭子はベンチを見遣った。案の定そこには芳原がいた。彼は、ベンチに座りながらうずくまり、頭を抱えている。
「なんで突然いなくなったの」
 芳原が顔を上げた。
「これからいなくなる人間といても、つらいだけだろう」
「だったら、いなくならなきゃいいのよ」
 恭子は芳原のすぐ傍まで進み、彼の手を強引に握った。そして、引っ張る。
「お願いだから、馬鹿な真似は止して」
「駄目だ」
 握る手に力を込める。恭子はそうやってあがくしかない。
「俺は去年の今日、確実に殺されていた。それからずっと、生きた心地がしなかった。だから、今夜潔く殺されることを心の底から望んでいる。これは決して馬鹿でも愚かでもない、俺のちっぽけな人生の中で最も有意義な決断だ」
「黙って殺されることが命よりも大事なの? 信じられない。幾ら『彼女』があんたの理想の女だとしても、よ。それって馬鹿げていると思う」
 言いながら、酸欠になりそうな恭子の胸が祈る気持ちでいっぱいに満たされる。そんな恭子を見て芳原が口の端を上げて、まるで嘲笑のような笑みを浮かべた。
「ああ、先輩は俺のことが好きだったんだっけ? 可愛いなぁ」
 頭の芯が一気に燃え上がって白くフラッシュしたのを感じたあと、恭子は衝動に任せて芳原の頬を叩いた。そこにもはや化粧で塗り固めた大人の理性はなく、子供のようにあどけない感情しか存在しない。芳原は雷に打たれたように目を見開いて、込み上げる裸の感情に震える恭子を見た。芳原がまともに彼女を見た、最初で最後の瞬間だった。そのとき彼女はうつむいて、両目に溜まっていく熱い思いを堪えていた。
「そうよ、あたしは――」
 
 恭子がその言葉を言いかけたとき、ようやく彼女は芳原の変化に気がつく。芳原――いや、芳原だったはずのモノは、血の一滴も流さずにすらりと優美なナイフに貫かれて事切れていた。そのナイフの柄を握っていたのは、恭子と全く同じ顔をした『彼女』だった。
 まさか、と思いかけてそこで思考を止めた。過ぎ去ったことや私情を考えるよりも先に今は目の前で奪われた命のことを考えなくては。恭子はぐしゃぐしゃに凍りついた頭を必死に奮い立たそうとする。しかし、考えれば考えるほど思考は絡まり、現実が見えなくなっていった。

 そんなとき、『彼女』が口を開いた。
「わたくしは姉にあたるこの人形の回収に参ったのです。芳原辰也様はちょうど一年前、暴走した姉に殺されました」
 そう言って『彼女』は深々とナイフの突き刺さった芳原をいとおしげに抱き上げた。芳原だったモノは、明らかに人間的なしなやかさや肉体のやわらかさを失っていた。
言われてみれば確かに人間ではなく蝋などで出来た人形のようにも見える。
 わたしは何を考えているんだろう、恭子はつい先ほどまでの芳原の姿を反芻する。

 恭子の中の『芳原』という存在が急に曖昧になった。
 それどころか、さっき『芳原』を殺したのは自分であるような気さえした。

「人間になりたい、と姉はよく言っていました」
 『彼女』はやわやわと言葉を紡ぐ。
「あの日、人間の芳原辰也は死にました。そして、わたくしたちの父は彼を似せて姉を造り替えました。……姉は、確かに人間でしたか?」
 かすかに笑ったような表情を見せて、『彼女』は芳原――いや、芳原をかたどった人形をベンチにそっと置いた。それから、突き刺さったままのナイフを優しく引き抜いて、恭子に差し出す。
「このナイフは一年前、姉が芳原様の心臓を取り出したときに使ったものです」
 心臓を取り出されたのは幼い女の子なのでは、そう思った恭子に答えるように『彼女』は言った。
「姉の記憶は芳原辰也として支障のないように書き換えられています。このナイフをあなたに差し上げます」
 なんの疑問も抱かず、恭子はナイフを受け取る。ずっと鏡で自分を見ているような、奇妙な気分だった。

 『彼女』は一礼すると、芳原のかたちをした人形を抱えて風のように去っていった。
 ひとり残された恭子は、鋭利に光る銀色のナイフを見て思う。自分も人形なのではないか、と。次第に思いは強くなり、試しにナイフで指先をほんの少し切ってみた。
 
 すっかり冷えた指の先からは全く血が滲まなかった。

 ふつふつと笑いが込みあがってきて、恭子はあの姉妹のことを思う。よくできた、いや、悪趣味な冗談だと思った。
 夜風はここ数日の中で最も冴え冴えとしていて、空までもが震えている。そうして恭子が立ち尽くしているうちに湿った雪が降ってきた。更に馬鹿げているな、と恭子は苦いものを飲み下す気分になった。

 恭子はなにもかもを忘れたくて、自身に語りかける。
 すべては夢だった、きっといずれ思い出せなくなるような淡い夢だった――
 無造作にナイフをベンチに置くと、帰り道が揺らがないうちに歩みだした。

人形の見る夢は

人形の見る夢は

芳原は約束の場所で、『彼女』を待ち続けていた。 ある冬の夜のこと。芳原は『彼女』を待っているとき、高校の先輩である恭子と再会する。恭子はかつて芳原に淡い恋心を抱いており、得体の知れない『彼女』を待ち続ける芳原に対して複雑な感情を抱く。しかし、芳原の『彼女』への想いは止まらない。そして、『彼女』とは何者なのか?

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  • 短編
  • ファンタジー
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  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-02

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