夏の速度と、蒼い海症候群

「願いが叶う座礁船?」
 私がそう訊くと、彼は「うん」と鷹揚にうなずいた。
東京海(とうきょうかい)のどこかの海辺に打ち上げられた座礁船があって、それに願いを掛けると、戦火の夜に願いが叶うらしい」
 彼の吸い込むアイスコーヒーがずるずると音をたてる。持ち上げたSサイズのグラスには汗のようにきらりと雫が光る。
「座礁船が願いを叶えるって、なんだかおかしいね。岩とかにぶつかって使えなくなっちゃった船のことでしょ?」
「そう……だけど、厳密に言うとちがうかな。海面が上昇して港から押し流されてきた船だ」
「どっちでもいいかなあ。使えない船に変わりはないもの」
「それもそうだね」
「船が私たちの願いを叶えてくれるの? 戦火の夜に?」
「うん。水平線に“敵”の船が炎上する光が煌めく夜に、その願いが叶うんだってさ」
「へんなの。どうやって船が叶えるの? 『お金持ちになりたい』とかでもいいの?」
「さあ……まあ、ある種の都市伝説だし、そもそもその座礁船が実在する証拠なんてないんだよね。このご時世海辺なんて危なくて行けないから、実際に見た人なんていないんだ」
「ええー。なんだ、つまんないの」
「見てみたいのかい?」
「んん、どうだろ」
 私があいまいに返事をすると、彼はグラスの縁を指でなぞりながらくつくつと笑った。
(れい)が行く疎開先の田舎には、少なくとも座礁船はないだろうけどね」
「海ないんだから当たり前でしょ。それに秩父(ちちぶ)は田舎じゃないし」
「どうだか」
「で、もし、それがほんとうだとしたら、(こう)くんはなにをお願いするの?」
「そうだなあ」
 彼は額に手を当てて考え込んだ。なんてことない些細なことを考えているときにも、深刻な悩みを抱えているときにも出る、彼の癖のひとつだ。
「たくさんありすぎて決められない。澪が決めてよ」
「なんでよ」
 あきれて笑うと、彼もつられて笑ってくれた。ふたりの笑い声が静かな喫茶店に響く。
「じゃあ、澪はなにをお願いするんだい?」
 そう言われて、私は逡巡した。なにをお願いするんだろう。もしも願いが叶うとしたら、それを叶えてくれる座礁船に、私はなにをお願いするんだろう。
「……はやく戦争が終わりますように、かな」
 戦争、と彼が私の言った言葉を繰り返した。窓から外を見上げると、空には燦然と輝く初夏の太陽があった。これから暑くなりそうだな、と私は思った。
 喫茶店のテレビでは、今日もニュースキャスターが視聴者にさわやかな声を振りまいている。
『ただいま、御茶ノ水防衛線の定点カメラからの映像をご覧いただいております。本日も真っ青な東京海に浮かぶスカイツリーがきれいですねー。本日は比較的“敵”の来襲が穏やかですが、安全のためにくれぐれも海岸には近づかないようにしてください。このあと一三時半から気になる天気予報、そしてそのあと週間“敵”来襲予報をお届けします。今年の夏も暑い日が続く見込みです、熱中症にはご注意ください。それではみなさん、よい週末を』


 地球温暖化により、この国は国土の多くを失った。海岸線は後退し、都市は海に沈んだ。東京の首都機能は完全に麻痺し、この国の発展の象徴であった超高層ビルは青い海に浮かぶ単なる金属の塊となった。
 そしてこの夏の始まりに、なんの前触れもなく”敵”は襲ってきた。”敵”は海から来襲し、建物や家屋を破壊し尽くして、沿岸部にあった都市の大多数は壊滅した。自衛隊やアメリカの軍隊が駆けつけたが、”敵”はそれらを上回る力で攻めてきた。温暖化による海面の上昇、海岸からの”敵”の来襲により、人間は海に近づくことができなくなった。私の住んでいた赤羽のアパートは、海に沈みこそしなかったものの、進出した海の目の前という立地により特定沿岸危険区域に指定され、住むことができなくなった。海からいつ”敵”が来てもおかしくはないのだ。必要最小限の荷物を持って、私は秩父にいる祖父たちのもとへ疎開することにした。
 ”敵”の正体は不明。はるかに発達した文明を持った宇宙人だとも言われているし、人間が海に放り投げた産業廃棄物の化け物だとも言われている。でも、私にとってはどっちでもよかった。私にとって”敵”は、赤羽のアパートを奪い、自分の生活をかき乱した——そして自分の両親を奪い去った存在だということにすぎないのだ。それ以上でも以下でもない。

   ◯

 秩父に引っ越しをする当日、いつもの喫茶店で久しぶりに彼と会うことにした。彼はかろうじて残っている「東京」の部分に住んでいて、引っ越すつもりはないんだという。これからあんまり逢えなくなるね、と私は言った。小振りのきれいなペンダントを渡して、「私がいない間、それを私だと思ってね。ぜったいになくしちゃだめだよ」というと、彼はゆっくりとうなずいた。
 ふいに彼が視線を落とした。
「澪はさ」
 めずらしく大きなLサイズのコーヒーをすすりながら、彼はふと言葉をこぼす。
「生命って、なんだと思う?」
 その言葉を聞いて、私の動きはとまった。店内には小じゃれたBGMが流れ、冷房で心地よく冷やされた空気を震わせている。私は自分のカフェオレをテーブルに置いて、彼を見据えた。
「航くん、それってどういうこと?」
「僕はね」私の問いかけに応えるようすもなく、彼はその奇妙な話を続ける。「病気だと思うんだ」
「病気?」
「そう。生命とは、性行為によって感染する、致死性の病」
 妙ちきりんなその彼の言葉を聞いて、私はすこし笑ってしまった。いや、なにかがおかしかったわけではない。きっとなにかの小説の受け売りなんであろうその言葉が、いまの私にとってはひどく他人事のように聞こえたからかもしれない。
「どういうことなの?」
「”I was born”、だよ」
「『わたしは、生まれた』?」
「うん、『生まれた』なんだ。”be born”、受動態なんだよ。この世に生まれることに、自分の意志は介在しない。『踏む』と『踏まれる』、『撃つ』と『撃たれる』。それと同じように、僕たちは両親の『生む』という行為によってしかこの世に現れることはできない。彼らの身勝手な性行為によってのみ、僕らは『生まれる』ことができる。それはある種の病気のようなものだ」
「ちょっと……よくわかんないんだけど」
「澪はどう思う?」
「どう思うって——」
「僕はいやなんだ」
 彼はもうほとんど空になったコーヒーのグラスをあおり、口のなかに黒い液体を流し込んだ。そして、注文前に店員が運んでいた水に手を伸ばす。彼がこんなに飲み物を欲しがるのをはじめて見た。のどが渇いてるんだろうか、それにしてもペースが異常だ。私がSサイズのカフェオレを飲み終わる前に、彼はもう水も飲み干そうとしている。
「僕はいやなんだよ」
「なにが?」
「いずれ戦争に巻き込まれて、死にたくもないときに死にたくもない場所で、死にたくもない方法で死ぬのが。いまこの国にはそんなやつらばかりじゃないか。きみの両親だってそうだろう」
「航くんっ!」
 私は思わず声を荒げた。彼はばつの悪そうな顔をした。からん、と彼の握るグラスの氷が渇いた音をたてる。
「……ねえ、どうしちゃったの。なんだか今日へんだよ? 熱でもあるの?」
「熱よりもっとひどい病気さ。このままではもうこの国は終わりなんだ。僕は自分で死に場所を選ぶよ」
「どうやって」
「志願兵だよ」
 まるでなにかに取り憑かれたような、(こご)りのたまった瞳。
「民間の軍事企業が、志願兵を募集してるんだ。”敵”に対抗するための強力な兵器も開発してる。自分たちの居場所を守るために、彼らはみずから生命を捧げようとしている」
「……航くんもそれに行くの?」
「うん。なにもできず部屋でじっとしているよりはよほどいい」
「……そう。勝手にして」
 私はカフェオレを飲み干した。彼もグラスに残った水をあおり、話は終わりだとでも言うようにテーブルに置いた。たん、とぶつかる音が店内に響く。彼は立ち上がり、レシートを持ってテーブルを去って行ってしまった。私にはもう、彼の後ろ姿を見つめることしかできなかった。
 その夜、私は祖父たちのいる秩父へ行った。彼にさよならも告げずに。きっと彼は彼で、東京の軍事企業に行くんだろう。
 でも、いつか戦争は終わると思っていた。めぐる季節とおんなじように、この夏がいつか終わるように。
 少し剣呑すぎたかもしれない。戦争が終わって彼が帰って来たら、私から謝ろう。そして、彼が取り戻した東京の海辺を、いっしょに歩こう。 

   ◯

 秩父での暮らしは穏やかに過ぎていった。
 ”敵”の戦力は強大だが、どうやら水のそばでないと活動できないらしく、内陸部の町は戦争の影響を受けることがない。沿岸の都市は壊滅したが、内陸は安全だということで、私はここ秩父に疎開することに決めたのだ。
 テレビのニュースは、はじめのころは連日戦争の話題を報道していたものの、戦争が膠着状態となると、しだいに報道しなくなった。芸能人の不倫報道、政治家のカネの問題……公共の電波に乗せて垂れ流される下衆な話題の数々をぼうっと眺めながら、私は過ぎ行く日々を過ごしていた。
 その日も私は、垂れ流されるニュース番組の映像をなんとはなしに見つめていた。自衛隊の軍備強化のための財源を確保できるよう、首相が増税を検討している、と言っている。祖父がとなりで「今月もきついってのに、政治家はなにをやっとるんだ」と不満を垂れている。そろそろこっちで仕事みつけないとなあ、とのんきに考えごとをしていると、ニュースは次の話題に切り替わった。
『特定沿岸危険区域に指定されている東京都赤羽地区で、本日未明、“敵“の遺骸と思われる物体が複数発見されました。物体は海岸に打ち上げられており、昨日の東京海(とうきょうかい)海上での戦闘で発生したものと思われます。“敵“の打ち上げは今夏で四件目であり、研究機関は“敵“の正体究明に全力を挙げています。また、打ち上げられた物体のうちのひとつにはペンダントが絡み付いており、警察は戦闘での被害者の所有物である可能性を視野に入れ、被害者の捜索に当たっています』
 私は溜息をついた。「被害者の捜索」といっても、いつも被害者の身体は発見されないのだ。“敵“に襲われたと思われる人々は、決まって忽然と姿を消してしまう。“敵“に襲われた遺体が見つかったことなんていままでない。“敵“に襲われた人には、永遠の眠りについたその安らかな姿にさえ、二度と逢うことはできない。
 テレビの映像に視線を向けたとき、私の目に飛び込んできたものを見て、私の心臓は震え上がった。
 テレビの映像には、私があのとき彼にあげた、小振りのペンダントが映っていた。
 まさか、彼が——。
 いや、落ち着け、私。被害者の確認はできていないというんだ。だいいち、あのペンダントが彼のものであるかどうかなんてわからないんだ。もしかしたらまったくおなじものを赤の他人が持っていたのかもしれない。ありきたりなペンダントだ。私とおんなじような思考回路を持った人が、しばらく逢えない恋人に贈ったものだという可能性もありえる。
 でも、ほんとうにそうなのか? 見つかったのは赤羽だ。以前私が住んでいたアパートのある街だ。これはほんとうに偶然の一致なのか? 私の住んでいた街の海岸で、私の贈ったペンダントとまったくおなじものが見つかるなんて、ほんとうにありえるのか?
 もし仮にあれが彼のものだとしても、被害者自身はまだ見つかっていない。もしかしたらペンダントを落としただけかもしれない。赤羽の海岸を歩いているときにペンダントを落として、それが偶然“敵“の遺骸に絡み付いて……。
 私の頭ははち切れそうだった。これ以上なにかを考えたら、容量不足で破裂してしまいそうだった。
(こう)くん」
 私は彼の名前を呼ぶ。すると、あのとき喫茶店で聞いた彼の言葉をふいに思い出す。
 ——僕はいやなんだ。
 ——なにもできず部屋でじっとしているよりはよほどいい。
 ——(れい)はどう思う?
 いつのまにか私は、荷物をまとめて出かける準備をしていた。祖父が「どこ行く、澪」と訊ねてきたが、それにちゃんと応えている余裕はなかった。「ちょっと」とだけ言い残すと、私は祖父の家を飛び出した。

   ◯

 池袋にあるアパートに彼の姿はなかった。ついさっきまで人間が生活をしていたにおいはある。しばらく部屋のなかで待っていたが、彼が帰ってくる気配はなかった。このあたりは、海沿いではないため特定沿岸危険区域にこそ指定されていないが、海は近いため川を上ってきた“敵“に襲われる危険性は高い。はやくこんなところ引っ越せばいいのに、と私は彼の頑固さを恨めしく思ったが、それどころではないことを思い出して、アパートを後にした。帰り際、部屋のなかをすこし物色してみても、あのペンダントは見つからなかった。
 東京の交通網はほとんど分断されていて、京浜東北線や埼京線は海に沈み、山手線も内陸側の一部だけがかろうじて動いている。バスやタクシー事業も東京から撤退し、池袋から赤羽まで移動できる手段は徒歩だけだった。
 私は赤羽まで歩き続けた。戦争の爪痕は街のいたるところに残っている。舗装された道路はでこぼこと波打ち、まともに歩くこともままならない。池袋を発って二時間ほどたっただろうか、幾度となくつまづきながらも、私はようやく赤羽にたどり着いた。
 街は変わり果てていた。建物は破壊され、残骸が道路に散乱している。信号機の多くはへし折られ、一本も灯りが点いていなかった。歩いている人もいない。「特定沿岸危険区域」といってもその範囲は沿岸地域のほぼ全域なので、自衛隊の警備の手も行き届いておらず、区域への立ち入りは容易だ。でも、やはりみずから進んで死にたい人もいないのだろう。こんな危険な街に暮らし続けたいと思うような人はいないようで、街は水を打ったように静かだった。
 アパートはまだその原型を残していた。海岸からすこし距離があるため、周辺は街なかと比べると被害は少ないように思えた。私は自分の部屋のドアを開け、中のようすをうかがった。街とおなじように、私の部屋は静寂に支配されていた。写真立てやアルバムなど、一次避難のときには持つことのできなかった品々をかばんに詰め、アパートを出た。
 私は東京をさまよい歩いた。彼の残した足跡をたどるように、彼の存在の残像を確かめるように、思いつく限りの「彼がいそうなところ」をたずねて回った。以前の勤め先、学生のときにバイトしていた店、そして東京の民間軍事会社。どこにも彼の姿はなかった。まるで暗礁に乗り上げた船のように、彼の捜索は行き詰まっていた。
 座礁船。
 まるで座礁船みたいだな、と私は思った。岩にぶつかって使えなくなった船。広い海の上で、私はもうどうすることもできない。こんなときに誰かが願いを叶えてくれるとしたら、私はなにをお願いするんだろう。
 東京海(とうきょうかい)のどこかの海辺にあるという、願いが叶う座礁船。
 それを見つけることができたとしたら、私はなにをお願いするんだろう。
 この戦争の終わりだろうか。果てのない彼の捜索の終わりだろうか。それとも、両親の身勝手な行為によってはじまってしまった、この「生命」という名の病気の終わりだろうか。
 ——熱よりもっとひどい病気さ。僕は自分で死に場所を選ぶよ。
 疲れたな、と思った。さんざん歩き回ってすっかり疲れてしまった。でも、たぶんそれだけじゃないんだろう。この夏の始まりに、両親を失い、自分の住む場所を失い、そして愛する人を失おうとしているこの人生に、私は疲れてしまったのかもしれない。
 秩父への電車が発着する池袋へと戻る山手線、その静かな車内で、私は重くなった身体を椅子に預けながら、ゆっくりと目を閉じた。


 大きな物音で目が覚めた。どうやら電車のなかですこし眠ってしまったようだ。外を見ると、池袋のひとつ手前の高田馬場あたり。物音の出どころを探そうと立ち上がると、電車が大きく傾き、ぎしぎしといやな音をたてた。よろめいて転びそうになったが、なんとかつり革につかまった。どうしたんだろう、脱線かなにかだろうか。電車のなかは人々の悲鳴で溢れかえっている。車内アナウンスが響いた。
『現在、この電車は“敵“の襲撃を受けています! ご乗車の皆さまは、安全のためにぜったいに車外へ出ないでください! この車両は“敵“の攻撃に耐えうる設計となっております、くれぐれも車外へ出ないようにお願いします!』
「ふざけるなっ! ここで死ねって言うのか!」
「出して、死にたくないっ!」
 まるで地獄のようだった。車内は泣き叫ぶ女性や子どもの悲鳴、怒り狂う男性の怒声に満たされ、それに“敵“のあげるうなり声が重なる。寝覚めの音楽には最悪だ。
 “敵“の襲撃。
 気が遠くなりそうだった。
 この高田馬場の近辺は、神田川で海と繋がっている。きっと海から川を上ってきた“敵“が、この電車を見つけて襲撃したのだろう。
 しびれを切らした人々が、手動で開閉できる窓を開け、そこへ身体をねじ込んで車外への脱出を試みた。ひとりが成功すると、もうひとり、またひとりと車外に出て行く。私も持ち物をまとめ、車外へと出る人々の流れに乗って、車窓へと身を投じた。
 疲れきった身体を必死に動かしながら、線路をたどって池袋へ向かった。太陽は西の空に沈み、あたりはすっかり暗くなった。まるで私の恐怖や絶望をめいっぱいかき混ぜてできた色みたいに、夏の東京の空は真っ暗闇に染まっていた。遠くからはまだ“敵“の吠える不気味な音が聞こえてくる。
「だめだ、ここは通れない」
 前を歩く人の焦燥した声が聞こえた。見ると、大きな建物が崩れ落ちて線路を塞いでいた。夕方まではふつうに電車が動いていたので、この被害も先ほどの“敵“の襲撃と同時間に起こったものだろう。
「迂回ルートを探そう」
 そう言って乗客たちはもと来た道を引き返しはじめる。なんだか足が痛むので、その場にうずくまって足許を見てみた。右足が靴擦れを起こして出血している。ふくらはぎが発熱でもしているかのように痛む。今日一日じゅう歩きづめだったのだ。不安による心労も重なって、もう限界だった。
 このままここで眠ってしまおうか、そうすれば夢のなかで彼に逢える気がする……そんなことも考えたが、私は必死で邪念を振り払った。だめだ、こんなところで眠ってはだめだ。池袋まで行けば、あとは電車が秩父まで運んでくれる。池袋まであとすこしなんだ。くじけないで、前を向かなきゃ。
「……あれ?」
 気づくとまわりにだれもいなかった。みんな自分のことに必死で、ひとり靴擦れを気にしている私のことなんて気に留めていなかったのだ。
 私は憔悴した。池袋は彼のアパートに寄るくらいで、地理にはあまり明るくない。それに加え、すでに陽は沈んでしまった。“敵“の襲撃を受けた街にはところどころしか電気が通っておらず、街は重苦しい闇に沈んでいる。まるで陽の光の届かない深海に沈み込んだかのように、私は息が止まってしまいそうな思いだった。
 無心に足を動かした。付近の基地局がやられてしまったのか、スマホの電波がつながらないため、自分がいまどこにいるのかもわからない。それでも歩き続けるしかなかった。それがどれだけ危険なことなのかわかっていても、私には歩を進め続けるしかなかった。
 でも、もうどうでもよくなった。どれだけ捜し歩いたって彼は見つからない。両親だって帰ってこない。帰る場所も意味も見失ったこの人生に、私は疲れてしまったのだ。
 生命はある種の病気だ、と彼は言っていた。『生まれる』ことに対して、人間は自分の意志を介在させることはできない。それは病気のようなものだ。自分の意志で生まれることができないなら、死ぬときくらい自分の意志で死にたい……なんだかいまなら、彼の言っていることがわかるような気がした。
 なら、私の死に場所はどこだろう? 赤羽のアパートだろうか。秩父の祖父たちの家だろうか。それとも——。
 ざあ、ざざあ。
 波の音が聞こえる。
 渇いた瞳でしっかりと前を見据えると、目の前には水が広がっていた。ほのかな月明かりを反射した水面は、深いふかい(あお)の色。
 海。
 いつしか私は、どこかの海辺へたどり着いていたのだ。
「……きれい」
 思わずつぶやいた。久しぶりに見た夜の海は、荒廃した東京の夏を深い蒼に染めている。その上に輝く銀色の月。どこかべつの惑星に迷い込んだみたいな気分で、私はその光景にしばらく見とれた。
 しばらく眺めているうち、海の上にぽつんと浮かぶ、あるものを見つけた。
 願いが叶う座礁船。
 海が反射する銀色の月光に包まれながら、座礁船は静かな影を海面に落としている。ざあ、ざざあ、と波の音が東京海の海辺に響く。私はそっと目を閉じて、座礁船に祈った。べつに都市伝説を信じていたわけではない。藁にも縋る思いだったというわけでもない。ただ私は、彼の残した言葉を信じたかっただけなのかもしれない。彼の存在とのつながりを示すあらゆる事柄を、私の胸のなかに留めておきたかっただけなのかもしれない。
 ——じゃあ、澪はなにをお願いするんだい?
 決めたよ、航くん。たったひとつの、いまの私の願いごと。
 夏の東京の海辺で、私は「願いが叶う座礁船」に祈る。
「どうか、どうか……もういちどだけ、航くんに逢わせてください」
 私の声は波音にかき消えた。そろそろ夏も終わろうとしている。夏の速度——それはだれかの帰りを待ち続けるにはあまりにも遅く、だれかを喪った哀しみを癒すには、あまりにも速すぎるのだ。

   ◯

 目を覚ますとそこは病院だった。
 どうやら、海辺でそのまま気を失い倒れてしまったらしい。海辺で眠るなんてなにを考えているんだ、死にたいのかと医師からも看護師からもひどく怒られた。
 死にたかったのだろうか。私はあの夜、みずからの生命が終わることを望んでいたんだろうか。たぶんそうではない。「死にたい」わけではないんだ。死ぬ時、死ぬ場所を自分で選びたいだけなんだ。「願いが叶う座礁船」は、まだ私の願いを叶えていない。死ぬのはそれからだ。
 彼と逢わなくなって、もう二週間近くがたっていた。もうすぐ夏は終わる。でも、いつまでたっても戦争は終わらない。
 窓の外を見た。青い空と深い木々の緑が濃い影をつくり、まるで油絵みたいに鮮やかに見える。飛行機が空を引き裂いた軌跡が、だんだんと空の青を白く塗り潰していく。なまあたたかい晩夏の風が、静かな時を運んでくる。この光景に名前をつけるとしたら、「この夏の終わりに」かな、と私は思った。私のまわりでたくさんの出来事が起こった、この夏の終わりにふさわしいほど鮮やかな光景だった。


『東京海に打ち上げられた“敵“の研究を進めている民間の軍事企業が、本日“敵“に関する驚くべき事実を発見したとのことです。放送予定を変更し、ただいまより緊急記者会見の模様をお送りいたします』
『——東京海で打ち上げられた複数の“敵“の遺骸を回収し調査したところ、当社は驚くべき事実を発見いたしました。“敵“の遺骸のDNAは、われわれ人間のDNAと酷似しておりました。これがどういうことかと申しますと、“敵“はもともとは人間であった可能性が高いということです。たいへん申し上げにくい事実ですが、“()は人間のなれの果て(・・・・・・・・・)だということです。……みなさん落ち着いてください、質問はあとで受け付けます。順を追って説明しますと、“敵“は新種のウイルスへの感染により、脳や身体の組織が突然変異を起こして発生するものです。このウイルス——便宜上「UMウイルス」と命名します——は、人体に感染してから約二週間の潜伏期間をもって症状が現れはじめます。初期症状は、極度ののどの渇き。これはおそらく、水辺でしか活動できない“敵“の習性の前兆でしょう。そして、UMウイルスに感染してから約一ヶ月で、人体は完全に変異し、“敵“の姿になります。このときはすでに、「自我」や「人格」はないものと推定されます。自我を失った“敵“が人間を襲い、被害者はUMウイルスに二次感染して、“敵“となってふたたびべつの人間を襲う。この繰り返しによって、“敵“はその勢力を拡大しているのです。
 なお、現在当社では、このウイルスに対する抗体を研究中です。現在膠着状態にあるこの戦局を打破するべく、われわれは全社を上げて開発に取り組んでいます。この活動に賛同いただける方は、ぜひ当社への寄付金をご検討ください。また、当社では勇敢な志願兵の方々を募集し——』

『——次は本日の“敵“来週予報です。本日は東京海への“敵“の進撃が予想されます。決して海辺には近づかないように——』

   ◯

 私は静かに目を閉じた。
(れい)
 彼が呼ぶ声が聞こえる。彼の笑顔が脳裡に浮かんでくる。
(こう)くん」
 私はそれに応える。彼は私の名前を呼び続ける。「澪」とやさしい声で語りかけてくれる。
「航くん。いま行くよ」
 それに呼ばれるように、私は病院を抜け出した。
 夜の街はしんと静まり返っていた。点灯している街灯は少ないが、不思議と怖くはなかった。彼の呼ぶ声を聞いていると、ひとりじゃないように思えた。
 どのくらい歩いたのかはわからない。気が付くと、私は海辺にいた。ざあ、ざざあと波の寄せる音が響いている。銀色の月の光に照らされて、深い蒼に浮かぶ座礁船。遠く水平線にはきらきらと戦火が瞬いている。満月の銀、戦火の赤、深い海の蒼。そして、この夏の終わりに煌めく、かすかな生命の輝き。
「航くん」
 私は彼の名を呼んだ。すると彼は、ひらひらと手を振ってそれに応えてくれる。
「やあ、澪。久しぶりだね」
 そう言って彼は微笑んだ。久しぶりと言ってもたった二週間なのだが、なんだか何十年ものあいだ離ればなれだったようにも思えて、私はとくとくと早まる胸を抑えた。
「どうしてここがわかったんだい?」
「どうしてもなにも、航くんが呼んでくれたんじゃない」
「僕の声が届くとは思わなかったよ。元気?」
 それの言葉を聞いて、私は吹き出してしまう。
「『元気?』じゃないよ。だれのために歩き回ったと思ってんの」
「ごめんごめん」
 ざあ、ざざあ。
「いつ気づいたの?」
「今日テレビで見たの。発症するのは感染してから約一ヶ月だって聞いた。私が秩父に行ってから、まだ二週間しかたってない。計算が合わない」
「そうだね」
「初期症状として、『極端に水分をほしがる』ようになるみたい。水のあるところでしか活動できないから、その前兆としてたくさんお水を飲むんだって。それが発症の二週間前。ちょうど私たちが最後に会った日」
「うん」
「航くん、たくさんお水飲んでたね。コーヒーも珍しくLサイズだったし」
「そうだっけ」
「そうだよ。航くんのことならなんでも知ってるよ」
 彼は静かに顔を伏せた。
「……見せたかったんだ」
「……え?」
「『願いが叶う座礁船』。きみに見せたかったんだ。きみが秩父に行く前に、早く戦争が終わって東京に戻って来られるように、願いを叶えてやりたかったんだ。だから海辺に行った。そしたら——」
「……」
 私は彼を見つめた。わかっている、これは幻想だ。私がいま見ているのは、この夏の終わりに海の(あお)が見せる、蜃気楼のような儚い夢だ。
 群青症候群(ウルトラマリン・シンドローム)
 PTSDみたいなものだという。
 戦争で強い心的ストレスを受けると、“敵“を連想させる海の深い蒼が神経を刺激して、幻聴や幻覚を呼び起こす。これもその症状なんだろう。そう、それはある種の病気のようなもの。自分の意志では選び取ることのできない、「生命」という名前の致死性の病。
「私も見つけたんだよ」
「見つけた?」
「そう。『願いが叶う座礁船』。この場所で、見つけたの」
「……なにをお願いしたの?」
 私はひと呼吸おいて、彼にこう言った。
「また航くんに逢えますようにって。私の願い、叶ったね」
 遠く水平線に浮かぶ戦火。ひとつ、またひとつと輝いては消え、輝いては消えを繰り返している。
「叶ったんだよ、私の願い」
 ぽろぽろと大粒の涙が目から流れ落ちた。ざあ、ざざあと、波の音は私のすすり泣く声をかき消していく。
 そう、叶ったのだ。「彼に逢いたい」という私の願いは、この美しい戦火の夜に叶った。“敵“と化した彼に再会するという、考えうるかぎり最悪の形で。
 幻想が消えた。私の目の前には、変わり果てた“彼“の姿があった。“彼“のうなり声が海辺にこだまする。私はポケットから小振りのナイフを取り出した。月の光を受けてナイフが銀色に閃く。“彼“の紅い眼がナイフの閃きを捉えた。それと同時に、私は“彼“の喉元にその閃きを突き立てる。ぷしゅう、という間の抜けた音とともに、真っ赤な液体が夏の空に舞った。
「航くん」
 "I was born"。私たちは生まれてしまった。それは病気のようなものだ、と彼は言った。ううん、ちがうよ航くん。生きるということは祈りのようなものなんだよ。願いが叶うことを祈りながら、人々は与えられた生命を生きる。祈りの成就、それが生命の本質であり、終着点なんだ。
 “彼“が砂浜に倒れた。波打ち際の蒼はみるみるうちに赤く染まっていく。
 波をかき分けて、私は海を進んだ。座礁船はなにごともなかったかのように。静かにそこに佇んでいる。
 私は空に浮かぶ銀の月を見つめた。その下方には、赤く煌めく戦火が空から墜ちた星のように瞬く。ざあ、ざざあと海の断末魔のようなささやきが聞こえる。
 航くん、見て。この夏の終わりに見た蒼い海は、こんなにも美しい。
「航くん」
 私はもういちど彼の名を呼んだ。きっとまた逢える——そう信じて、私は自分の心臓にナイフを突き立てた。うすれゆく私の意識は、ゆっくりと深い海の蒼のなかに沈んでいった。

夏の速度と、蒼い海症候群

夏の速度と、蒼い海症候群

エルプロジェクト第一回登録作品。お題「この夏の終わりに」

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted