文明に初めて接する男の小話
椅子愛好家が椅子に座るのは、そこに椅子があるからだ、という。
ちなみに、椅子愛好家じゃなくても、椅子があればだいたい座る。
そしてこの小さな部屋には椅子が一つある。
ほう、これが「椅子」というものか…。
どれどれ、座ってみようではないか。
私は膝を折り曲げ、腰を浮かせる姿勢になった。
ほうほう、これが「中腰の姿勢」というものか。
そこからすかさず椅子の上に腰を下ろした。
ほうほうほう、これが「座る」ということか。
私は生まれて初めて椅子に座った。
不思議な感覚だ。
人々は、椅子に座り生活するという。
椅子に座り、本を読むという。
椅子に座り、仕事をするという。
椅子が発明されてから幾千年。
椅子は人々の生活になくてはならない存在だ。
「椅子」がゲシュタルト崩壊しかけたそのとき、けたたましく部屋のドアを叩くものがいた。
何者だ?
反椅子協会のスパイか?
イルミナティか?
私は恐怖におののいた。
そうだ、救援信号だ。
何かメッセージを残そうと、胸ポケットからペンを取り出すと、部屋に備え付けられた紙に文字を走らせる。
書けない。
紙が破けてしまう。
はっ、これは脱出装置か?
ちょうど手の届く位置にある壁のボタンを勢いよく押した。
––––椅子の中で滝のような水流が起きた。
思い出した。
人々は、椅子に座り、用をたすという。
文明に初めて接する男の小話