空色絵の具
校舎の屋上には、今日も青空が広がっていた。
あの空のあの青を手に入れたくて、私はいつもここへ来る。黄色い絵の具のついた部室の扉からベランダへ忍び出て、腰を屈めて足を運び、そっと屋上に出る。そして倉庫へと続く三段階段の最上段に座るのだ。そうすれば、先生に見つからず、誰にも邪魔されず、この空を独り占めできる。
いや、正確にはもう一人いた。ここから見る空を知っている人間が。
「諒太」私が彼の名を呼ぶと、彼は手を振り、階段の右端に寄った。そして、空いたところを指差し、私にそこへ座るように促した。
私は彼の横に座って、お母さんの作った弁当を開いた。紫の風呂敷がスカートの上に菱形に広がる。蓋を開けると、中にはいつもの卵焼きといつものウインナーが並んでいた。
「今日は格別いい天気だね」諒太が自分の弁当を頬張りながら言った。
私は顎を突き出し天を仰いだ。青くて澄んだ秋空が、天井いっぱいに広がっていた。
「今日はマンドリンの練習しなくていいの」私は尋ねた。
「今日はこの空だから、昼練はやめて、屋上でゆっくり食べようかと思って」諒太はにっこりと微笑んだ。
私と違って、諒太は毎日ここでお弁当を食べているわけではない。諒太は普段は早弁して、昼休みにはマンドリンの練習をしている。
でも、とりわけ天気がいい日にはこうやってここへやって来る。ギタマン部の部室も、この屋上に繋がっていて、代々伝わる秘密の鍵で、こっそり扉を開けて屋上に出てくるらしい。
「ねぇ、どう。いい絵の具は見つかった?」諒太が私の肩を軽く叩いて言った。
「まあ、見つからないよね。水彩もアクリルも油も色々と試したけど、全部だめ」私は答えた。
諒太は昔、私が「あの空のあの青が欲しい」と言った時、笑ったり馬鹿にしたりしなかった。「見つかったらいいね」そう言って、いつものように微笑んだ。それで、私は少しだけ自信を持てた気がした。
それから、私は美術部に入った。
「ああ。なんとか、あの色をパレットに集められないかな」私が呟くと、諒太は頷いて「なんで、あんなに綺麗なんだろうね」と言った。
空の色はどうやっても絵の具では表せない。完全に同じ彩度、明度に出来たとしても、たぶん違う色になる。
何が足りないって、透明感なのだと思う。空の色はガラスのように透き通り、柔らかなパステルカラーで、けれどもそれでいて、なんと鮮やかなことか。見上げていて飽きない。
そして、今日のような真昼の澄んだ空はとりわけ美しい。
パレットに収めて、その青を私のものにしてみたい。それが私の密かな、けれども大切な夢だった。
「ねえ、諒太。諒太は空を見るのが好きなの」私は尋ねた。
「うーん。まあ、普通ぐらいかな。でも、こんな日は空を見ながら、お弁当を食べたくなる」諒太の眉毛と目尻が、暢気に垂れ下がった。
下の音楽室から、合唱部が練習しているのが聞こえてきた。ユーミンの『飛行機雲』だ。そういえば、この曲を主題歌にした映画が人気になっているらしい。
―あの空を駆けてゆく―か。
いいかもしれない。ここで立ちあがって、駆け出して、あの柵を飛び越えれば、そこは空だ。
できるな。
私はそう思った。ちょっと走ってみるだけなのだ。難しいことじゃない。柵一つを乗り越える、ただそれだけのことだ。
私はその場で立ち上がってみた。空がほんの少しだけ近くなった。柵の向こうの手前側に鉄棒やらバスケのシュートやらが並び立っているのが見える。遠くには茶色い山が見えた。
手を広げ思いっきり深呼吸をすると、細胞の一つ一つがエネルギーで満たされた。体が潤ってゆく。
「ここで立つと、先生に見つかるよ」諒太の声で私は再び階段に腰をかけたが、浮き立った気持ちは変わらなかった。何でもできる気がする。あの空にだって辿り着けるかもしれない。
けれども不意に、その行為が自死以外の何事でもないことに気づき、私は驚いた。そして死というものが、あまりにも簡単で身近で、単純なものだという事実をひどくおもしろいと思った。
なんと当たり前のことなのだろう。人はいつだって死ねるのだ。こんな明白な事実があるだろうか。
考えてみると可笑しくて、くすくすと笑いがこみ上げてきた。そして諒太の顔を見た。諒太は私の笑顔に微笑み返した。
彼は今何を考えて笑ったのだろう。まさか、目の前の人間が、死について考えていたとは思うまい。
諒太の半ば反射的なその優しい笑みに、私はほんの少し戸惑った。でも、その揺れを彼に悟られるつもりはなかった。
「唐揚げもーらい!」私は諒太のお弁当の唐揚げにお箸を突き刺した。
「あ。それ、駄目。ああ、ダメだって。俺の好物だから、とっておいたのに」諒太は唇を前に思いっきり突き出した。そして、私のお弁当を凝視し、何かを狙った。
「なんだ、もうほとんど残ってないじゃないか……。仕方ないから、そのタコさんウインナーで手を打つよ」
諒太は私の弁当箱のウインナーを指先でつまみ、ウインナーは諒太の口に放り込まれた。諒太は脂のついた指をペロリと舐めた。
「あーあ。タコさん巨人に食べられた」私がそう言うと、諒太はごちそうさまと手を合わせた。
その時私は何故か、巨人の口に投げ入れられる自分の姿を想像した。
巨人に胸ぐらを掴まれ、空高く持ち上げられ、持ち上がった手はある程度までくると突然止まる。そして大きな指がぱっと離され、私は巨人の口の中に天を仰ぎながら落ちてゆくのだ。天空からの自由落下だ。
そこから見る空はさぞ美しかろう。
透き通った青の中に、自分は取り込まれゆくのだ。
そうだ。空を斬り裂きながら落ちてゆくのだから、その時なら空の色を集められるかもしれない。
両手をめいいっぱい広げ、掴むのだ。掴んでパレットに投げ入れる。
なんと幸せな妄想だろう。
でも、巨人なんてどこにもいない。
私が溜息をついた時、始業五分前のチャイムが鳴った。
「ああ、また退屈な授業が始まるね」諒太はそう言いのっそりと立ち上がった。
私は諒太の背中を押し、遅刻するよと声をかけた。それで諒太は面倒くさそうに授業に向かっていった。
私も授業に行こうとした。
部室へと続く扉に向かおうと階段を降りた時、私は何気なく後ろを振り返った。
さっきまで座っていた階段が目に入った。倉庫へつながるたった三段の階段だけれども、それは天へつながるもののように、空に向かって真っ直ぐに伸びていた。
私は思わず、戻って駆け登った。
そして、倉庫扉の前で振り返り、空を仰いだ。
両手を広げた。思いっきり空気を吸い込んだ。肺が大きく膨らんだ。
―突き落として! 誰か。お願い。突き落として!―
叫びたかった。でも、声は出なかった。息がわずかに漏れただけだった。
こんなところで叫んだら「気が狂ってる」と言われるに決まっている。それくらいわかっている。
いっそ狂ってしまいたい。狂って、何もかもわからなくなって、空を掴むと嘯いて、そのまま飛んでしまいたい。
でも、今のままじゃ飛べないから。
家族、友人、先輩、先生、なんちゃらかんちゃら、複雑で無駄な人間関係が、私を地上に縛り付ける。常識的にする。動けないよ。
ああ、あの透き通った、なんのしがらみもない空を自由に落ちてゆくことができれば。
そこまで考えて、私はまた死について考えている自分に気づき、思わずしゃがみこんで、声を出して笑った。
どうせ五分後には数学の問題の解き方なんかを考えているわけだし、さらにその五分後には授業に飽きて、今日の晩御飯なんかを想像しているだろうに。
なんと馬鹿なことを、考えていたことか。
私はやっぱり、とってもまともだ。
始業を知らせるチャイムがなった。流石にもうこれ以上だと遅刻になる。
私はこっそり屋上をあとにした。
屋上を去る前に、もう一度、空に目をやった。
今日は美しい秋晴れだ。
とってもまともで普通な私が、いったいどうして手にできようか。空色絵の具を手にできようか。
空色絵の具
「青春ほど死の翳を負い 死と背中合わせな時期はない」
空に魅せられ、空に吸い込まれそうになりながらも、そこに生きている少女の物語を描きたくて、こうなりました。
お読みくださりありがとうございました。