落ちた人

 私は小さなデザイン事務所で働いていた。 
事務所といってもマンションの一室でデザイナーの先生と
アシスタントとは名ばかりの雑用係の私の二人きりだ。

休み明け 仕事にでてくると
マンションの入り口に人型をした白い線があった。
事故や事件で死んだ人のまわりをチョークでなぞってあるあれだ。

なにかあったんだろうか?
事務所にいったら先生に聞いてみようと思うまでもなく
ドアを開けたとたんに先生は飛び出してきて
勢い込んで教えてくれた。

「ゆりちゃん 見た?見た?玄関のところの人型」

「はい見ました。 なにかあったんですか?」

「それがねっ私はほらここに住んでいないから管理人から聞いたんだけどね。
 土曜日の夜中2時くらいに飛び降りたんだってっ 8階から」

「……自殺ですか?!」

「と思ったんだけどね。どうやら事故らしいの」
急につまらなそうになる。
先生はワイドショー的なものが好きなのだ。
----------------------------------------
自殺じゃないかとも思われたがベランダのはしに
洗濯物がひっかかっていた事から
それを取ろうとして誤って落下したのだろうという
見方が強い。

そう教えてくれたのは事務所の下の階の人で
沖屋さんというジュエリーデザイナーだ。

彼女の事務所の宣伝パンフレットを
先生が作ってからのつきあいで
以来、気が合うらしくしょっちゅう遊びに来ている。

先生がいなくても全然気にせず
私を相手に勝手にしゃべって
勝手にお茶を飲んで帰っていくのだ。

「洗濯ものって・・干せるんですか?」

ここのマンションのベランダはとても狭い上に
室外機が置いてあるので人がひとり立ったらもういっぱいだ。

「その気になれば干せるわよ。
 女の一人暮らしなんだし……干すと言っても下着くらいじゃない?」

なるほど……それで取ろうとして室外機にでも登って
乗りだしたところバランスを崩して落っこちた。と?
-------------------------------------------------

昼休み、近くのコンビニに弁当を買いに行くと少し上の階で
怪しげなデザイン事務所を開いている三好さんに会った。

彼とは朝エレベーターでいっしょになった時知り合った。
「君は6階の「アル・レイル」で働いている子だよね?」
初対面だというのに彼はひどくなれなれしく話かけてきて
「君はイラストは描けるかなぁ?」
「よかったら うちの仕事やってみない?」
「気が向いたらいつでも訪ねてきてよ」 10階だからといった。
原稿代は払うというので行って見たら
よくある 出張マッサージのチラシを主に作っているようだった。
ポスティングも請け負っているのだと胸を張った。


「ゆりちゃん最近来ないじゃい?
 忙しいの? ところで聞いた?例の」

「朝、みました。 チョークの跡、なんか事故ですって?」

二人でマンションに戻りながら三好さんは少し声を落として言った。

「そういうことになるみたいだけどねぇ……あれは自殺さ」
妙に自信たっぷりに自殺だと言い切る。

「どうしてですか?」
「僕ね 彼女のこと知ってるの。 
彼女はねちょっとノイローゼ気味だったんだよ」

「ノイローゼ……ですか?」
「そう。 彼女はさ僕らと違ってあのマンションに住んでるのよ」
「はあ」
「ゆりちゃん僕のとこに来たとき狭いですねぇって言ったでしょ?」

「それでも僕のところは住んでないからベッドが片付けてあるからさ」
「えっ? ベッドなんてどこにあったんです?」
「あの壁の戸棚みたいなやつね。開けるとベッドになるのさ」

壁一面に本棚のように棚になっていて、真ん中あたりは
観音開きの扉がついていた。
てっきりクローゼットだと思っていたのだ。

「へえ、ベッド出したら歩く場所ありませんねぇ」
「そうでしょ? 彼女の部屋は僕のところと同じタイプだからね」

「最後にあったのは先月だか先々月だったかなぁ。
 夜になると静かで 部屋はせまいし窓も小さいし息苦しいって
 言ってたんだよねぇ」

「それでノイローゼで自殺ですか?」
「信じてないのね? そうよ。だって彼女
 あんまり息苦しくて時々死にたくなるっていってたもの」
--------------------------------------------------------

事務所に戻ってお昼を食べながら三好さんの言っていた話を
思い出していると電話が鳴った。

一階に入っている歯医者からだった。
そうだった 予約を入れてあるのを忘れていた。
以前 ここに勤め始めてすぐに歯が痛くて我慢できなくなったとき
先生がこの下の歯医者は腕がいいし近いからそこに行きなさい・・といって
紹介してくれたのだ。

受付には顔なじみになった同い年の衛生士がいた。
「また忘れてたんでしょう、普通は電話なんてしないわよ」
「うん。 助るよ。ありがとう」

「ところで今日の・・聞いた?」
「うん。聞いた聞いた。今日はあちこちでその話だもの」

「榊さんって最近ここに通っていたのよねぇ・・
 まさかあんなことになるなんてねぇ」

「榊さんって言うの?」
「そうよ、榊 恵美子さん。 差し歯を作っていたのよ」
------------------------------------------
「きれいに磨けてるね。 うまくなりましたね」

ここでは虫歯を治した後、歯石を何回かにわけて
徹底的に除去し、歯磨きの指導をこれでもかとやらされる。
虫歯ゼロを目指しているのだそうだ。

そんなことになったら失業するのにいいのかしら
と不思議に思ったものだ。

「じゃ、もういいかな。今日で終り。 また何かあったら
 電話してください」

はい。と返事をしながらふと思いついて聞いてみた。
「榊さんを診ていたのは先生ですか?」

ここには他に二人の歯科医がいるのだ。
「いや・・榊さんって事故の方でしょう?
 お友達だったんですか?」

「えぇ。まあ すこし……」 本当は嘘だけど。

「そうですか。残念でしたね。せっかく来週には
 差し歯が出来上がってくるとこだったのに」

「じゃ、彼女は仮歯のまま?」

「そうだね。あの殴った人は知ってるのかな
 付き合っている人なんでしょう?」

「殴った?」
 
「あれ? 知らなかったのか・・いやまずかったな
 いや、てっきり友達だったら知ってるかと……」

「転んだって聞いてたので……それで歯が折れたって」

「いやぁ……うん。 まいったな」
---------------------------------

事務所には先生が戻ってきていて
印刷屋の営業の人と雑談をしていた。

「ご苦労様です。先生遅くなってすみませんでした」

「いいのよ。今日はもう暇だから……歯医者どうだった?」

「はい。もういいですって」

営業さんと先生にコーヒーを入れていると
二人は榊さんの話をしはじめた。

先生はあまり知らないようだったが
なぜか営業さんは彼女に詳しかった。

先生が何でそんなに知ってるのよ と突っ込むと。
ちょっとテレながら
「 ほら、一度故障でエレベーター閉じ込められたって言ったじゃないですか」

「ああ、そんなこと言ってたわね。あの時は私いなかったのよね」
  
「あの時、一緒に閉じ込められたのが彼女だったんですよ」
「あらっそうだったの?」

「一時間近く、閉じ込められてたんで黙ってるのも気詰まりですからね
 雑談してたんですよ」

「それに……美人でしたからね。彼女」

「へえっ 美人だったんだ」

「先生知らないんですか?」

「うーん。 見たことはあると思うけど女に興味ないからねぇ」

「デパートで働いているっていってました」
「ちょっとなまりがあるから田舎はどこかって聞いたら
 もう誰もいないけど岩手だって言ってましたね」

「なんだって死んじゃうかねぇ。 まだ若いのに」

「やっぱ男関係ですかね」

「あら? そうなの?」

「顔にね痣がありましたよ。美人なのに」

「ほーっ?」

「殴られてね、前歯が折れちゃったんですって。
 それでその日は休みを取って歯医者に・・
 差し歯って高いんですねって言ってましたよ」

--------------------------------------------------------

PM5:45

「それじゃ 先生お疲れ様でした。お先に失礼します」

「はいよ。じや 明日悪いけど直接 版下持って行ってね」

「はーい。 午後までに来ますから」

先生のお疲れさんという声を背中にききながら
エレベーターに乗込んだ。

「お疲れ様」 管理人のおじさんが小窓から顔を出す。

「はい。さようなら」

「君ね。死んじゃだめだよ。もったいないよ」

……

「飛び降りなんてさ……きれいな人だったけどね。
 飛び降りちゃったらおしまいよ。顔なんてぐちゃぐちゃだったよ」

「私は……死にませんよ」


玄関を出るとすぐに消えかけたチョークの人型が目に入る。
8階に住んでいて、狭いベランダで洗濯物を干し、ノイローゼ気味で、
殴られて折れた前歯を差し歯に変える途中で、差し歯の値段に驚き、
岩手出身でデパート勤めの美人な榊 恵美子さん。
最後は顔がつぶれちゃった榊 恵美子さん。

一度も会った事のない榊 恵美子さんのことを
たった一日でこんなに知ってしまった。

結局、不幸な事故で処理されたようだけど
本当のところはわからない。

でも……私は三好さんの意見に賛成だな。
わざと落ちたんじゃないかな。そう思った。

郵便配達のバイクが人型の上をよけもせずに
走っていった。

落ちた人

落ちた人

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted