詩になり損ねた言葉たち
『未遂』
「ぼくは、すべてのひとを憎む」
そう言って、誰をでもなく睨んだ瞳からこぼれた涙。
少年だったその時の君は、とても繊細で、とても綺麗で、とても――美しかった。
君は、君が憎んでいた全てが、誰でもない『君自身』である事にまったく気がついていなかった。気がつかないままに、ガラスみたいに繊細な心を割って、誰かを憎んで、割れたガラスの破片をこぼしたみたいに、キラキラと泣いてた。
貝殻みたいな爪のついた細い指を丸めた、小さな拳。その震える拳を振り下ろす場所を知らなくて、君は、抱きつくみたいにして、憎くもない僕を殴る。
君はそれから、自分のその行動に自分で驚いてしまって、おろおろと泣きながら、何度も「ごめんね。ごめんなさい」と僕に謝ったけれど、僕は全然気にしていなかった。
僕はその時、うっとりと君に見惚れてた。君があんまり繊細で、君があんまり綺麗に見えたから。
美少年と言うなら、あの時の君がそうだった。
穢れたモノをまったく知らなくて、ただ純粋で、その分、繊細で。
僕は、あの時の君より美しい人を知らない。
そんな君もすっかり大人になって、世の中を知って、自分を知って、穢れたモノを知って、大人になるにつれて、君の中の美しかったモノを全て失ってしまった。
殺すべきだった、と、思う。
あの時に君を殺しておけば、君は永遠に美しい少年のままだったから。
僕は、ケーキでも切るみたいに、君の柔らかい胸にすぅっとナイフを刺し入れて、君の時間を止めてしまうべきだったと、そう、思う。
『世界の果て』
「貴方が見たがっていた世界の果てはここにあるよ。ここが世界の果て。私のいる所が世界の果て。世界は丸いんだもの。世界に果てがあるのだとすれば、ぐるっと回って一周した場所、ここがそうだよ。
ねえ、私を見て。私の体を見て。貴方は今、世界の果てを見てる。
どう? 世界の果てには何が見える? 貴方が見たがっていた綺麗なモノが、ここにはある?」
『歪んだ月』
夏の夜、少女と海に行った。
浜辺につくと、少女はすぐにサンダルを脱ぎ捨てて、海に向かって駆けた。真っ暗な空と同じ色の海を、スカートからのびる白い素足で割って、ざぶざぶと水を踏みながら深くまで走っていく。
海面には、空から落ちてきた月が映って、波にゆられていた。
少女は腰まで波に飲ませて脚を止め、いぶかしげに月を見た。波にゆられてカタチを変えていく月。海の上で歪んでいく金色の月。
海にそっと両手をさしいれ、月を掬おうとする。
海の底には真っ白な薔薇が咲いていた。黒く、見透かすことのできない海の底に咲き乱れ咲き誇る、純白の薔薇の園。波にゆられて少女の脚に触れた白い花びらは、はらりとほどけて水に散っていく。
夢中で月をすくい上げている少女は、自分の脚が絡みつくイバラに傷つけられて、血を流していることに気がつかない。こぼれた血は、舞い落ちた花びらに吸われて波間をただよう。
不意に、ぴくん、と身を震わせた少女は、月をさらう手を止めた。
ゆっくりと振り向いて、砂浜に立ち尽くす僕の顔を見つめた。
そして、波の音に消されてしまいそうなほど小さな声で、
「こんなふうに歪んだ時間の中に閉じ込められて、滅びてしまえたらいいのに」
と呟いた。
僕を見つめる少女の瞳の色は、澄んだ夜の海と同じ色。
少女が海の中から腕をあげると、両手の中に月が収まっていた。波にゆられて歪んでしまった、イビツなカタチの月。自分の姿さえ忘れてしまった、波間の月。
やわらかな金色の光を放つイビツな月をそっと抱きしめて、少女は空を見上げる。そこにはもう、月はない。
「こんなふうに歪んだ時間の中に閉じ込められて、滅びてしまえたらいいのに」
もう一度小さな声で同じ言葉を囁いて、少女は月を海に返した。
ぽちゃん、と沈んだ月は、波に押されて海を泳いで、やがて見えなくなってしまった。
『少年の日々』
「ねえ、どうして蝶の中には、卵のままで死んでしまう蝶がいるの? ねえ、どうして蝶の中には、サナギのままで死んでしまう蝶がいるの?」
開け放った窓から、夏の日差しとそよ風が忍び込んでくる学園寮の自室、ボクが、ベッドに腰を下ろして本を読んでいた美津里くんに問いかけると、美津里くんは本から顔を上げて、「外に出るのが怖かったからサ」と答えた。
「……怖かった?」
「そうだよゥ。生まれるのが、外に出るのが、楽園の中から追い出されるのが怖かったのサ。卵から生まれる時、蝶はどうやってその時期を知ると思うね?」
「体が大きくなったから、それで知るんじゃないの?」
「残念」
と、美津里くんが微笑んだ。「毒が出るのサ」
「毒…?」
ボクは問い返す。
「そう、毒。卵の内側から毒が出る。蝶はね、卵の中で選ぶのサ。このまま安らぎに抱かれて卵という楽園の中で死ぬか、体を芋虫に変えて生き延びるか。蝶は常に進化しなくちゃいけないンだ。卵から芋虫へ、芋虫からサナギへ、サナギから蝶へ。死にたくなければ体のカタチを変えて進化し続けなくちゃいけないンだ」
そこまで言うと、ふふ、と笑って、美津里くんはボクに尋ねた。
「清美くんならどうするね? 卵のまま此処で死ぬかい? それとも、体のカタチを変えて外に出ていくかい?」
学園寮の静かな部屋の中、時間が止まっているかのような夏の午後のひとときの中で、ボクはそっと呟いた。
「此処で、ずっとこのまま――」
言葉の続きは、開けた窓から吹き込んだ風が、机の上の便箋と一緒に優しく連れ去ってしまった。
『ピーターパン・シンドローム』
少年の頃のぼくが、僕を迎えにこないかな。
星空を映す窓に小石があたって、猫の鳴き声が聞こえる。
その合図に部屋の窓を開けると、少し照れた表情のぼくが木の陰から現れて、
「ほら、遊びに行こうよ。ぼくは何も持ってないけれど、自由ならたくさん持ってるよ。楽しいコトだって、たくさん知ってるよ」
そう言って、僕を誘ってくれないかな。
うん…。
行くよ、必ず。
僕が大人になりきれずにいるのは、キミがいるから。キミともう一度、いろんな場所へ行ってみたいから。
キミが見せてくれた世界は、本当に高くて、本当に広くて、本当に綺麗だったから、僕は今でも忘れられずにいる。
うん、行くよ、必ず。
キミが迎えにきたなら、今持っている物を全部捨てて、またキミと二人で、どこまでも行こう。
『俗天使』
いつか、キミは飛び去ってしまうのだと思っていた。
僕のそばでこぼれるあどけない笑顔も、僕の頬を撫でる小さな指も、僕の胸にしがみつく小さな体も、その背中についた白い翼と一緒に、いつか飛び去ってしまうのだと思っていた。
「いかないよ、どこにも。ボクがいなくなったら、あなたは寂しいでしょ? ボクもそうだよ。ここで二人きり、こうして暮らしていけたら、すごく幸せだよ」
キミはそう言って微笑むけれど、キミの背中についた翼が、僕にその言葉を信じさせなかった。
キミは天使で、僕は人間で──。
キミにはいつでも空を飛べる翼があって、僕には空を飛ぶ翼がなくて──。
だから、キミはいつか、ふわりと舞い上がって、どこかへ飛んでいってしまうのだと思っていた。
鳥が空を飛ぶのに理由なんかない。飛べるから飛ぶのだ。神から与えられた才能の翼を広げて、飛べるだけ、どこまでも飛んで行くのだ。
僕だってきっとそうする。
僕にはなんの才能もないから何処にも行けやしないけれど、もし飛べるなら、風に乗ってどこまでも飛んでいく。
そうすることに理由なんかない。飛べるから飛ぶ。飛べる翼があるから、高くまで登れる力があるから、風に舞い上がってどこまでも飛ぶ。
もし叶うなら、もっと高くまで行きたい──。
そう思うのは、僕が俗物だからだろうか。僕には翼がないから、あの空が、高く、眩しく見えているだけなのだろうか。
地面の上で、ただ二人、寄り添って暮らす──、そんな普通の幸せがつまらなく、色褪せて見えるのは、僕がなんの才能も持ち合わせない平凡な人間だからだろうか。
自由に空を飛べる天使は、空に、何を見ているのだろう。僕の欲しかった翼をすでに手に入れているキミは、空に、幸せを想い描いているのだろうか。当たり前のように持っているモノに、持っていない僕と同じ価値を感じているのだろうか。
分からない。
僕は分からないままに、キミがいつか、飛び去ってしまうのだと思っていた。キミがいつか僕のそばからいなくなってしまっても恨まないようにしよう、そう思っていた。
僕には翼がなく、キミにはあった、それだけのことだ。キミが風に誘われてしまっても、それは、ただそれだけのことだ。
キミがいなくなってしまった時に、寂しさと、悲しさと、翼を持つキミへの嫉妬の気持ちを感じないように、僕は心を閉じて、今をやり過ごそう。
そうすればきっと、僕は笑顔でキミと暮らすことができる。笑顔で、キミと別れることができる。それが、翼を持たない僕にできる、精いっぱいのこと。
そう、思っていたのに──。
あの日、キミが自分の手で翼を切り落として、ナイフと、血に染まった翼を放り投げて、「ほら、これであなたと一緒だよ。ボクは、ずっとそばにいるよ」そう言って、背中の痛みを涙に変えたまま、無理に微笑んだあの日。
そこには、翼を無くしたキミに安心した僕がいて。
そこには、翼を切り落としてしまえるキミに嫉妬する僕がいて。
そこには、そんな理由で翼を捨てたキミを恨む僕がいて。
僕はキミの捨てたそれが欲しかったんだと、叫び出しそうな僕がいて。
そこにいた僕は、うんざりするぐらい俗物だった。
キミがそうした理由を理解できず、人それぞれ幸せのかたちが違うことさえ理解できない、どうしようもないほどの凡人だった。
僕は、それがただ、悲しくて。
血まみれのキミを抱き締めることもできず、自分のことばかり考えていた僕は、翼を持っていたとしても、凡人にしかなれないのだと思い知ったことが悲しくて。
こんな僕のために翼を捨てたキミを見るのが悲しくて。
それがただ、悲しくて。
涙も出ないぐらいに、ただ、悲しくて。
『神様の話』
すべてが『無』であった最初、神様はきっと、孤独だった。
独りきりで寂しかったに違いない。だから、宇宙を創り、惑星を創り、動物を創った。
地球という器を創り、その中に、自分を愛してくれる動物を創った。神様が魂を込めて創り上げたのは、人間という名の動物。
神様は、自分に似せて人間を創った。
最初に創ったのが男だったのだから、神様も男だったのだろう。
だが、それ故に、神様は人間から愛されなかった。
自分と似たモノを創ったから、性別を同じ男として創ったから、神様は、自分が創ったモノ、自分に似せて創ったモノに愛してもらえなかった。抱き締めてもらえなかった。
神様は絶望して、諦めて、男の骨を一本抜き、そこから女を創った。せめて、自分に似たモノが幸せになれるように。
そして神様はいなくなった。
多分、自殺したんだと思う。
神様は、自分と似たモノに愛されたかった。
人間は、自分と似たモノを愛せなかった。
『月の天使』
月の上には小さな天使が一人。
天使は独りで、ずぅっと寂しさを胸に抱いていたから、月の砂を涙で濡らして土にして、こねて、固めて、焼いて作った、月のオカリナを吹いて。
胸の寂しさを吐息と一緒に吹き込んだオカリナの音は、透明で、誰にも聞こえない音。
その、誰にも聞こえないはずのメロディを聞いたのは、もうすぐ消えゆく老いた星。
星は、ひっそりと独り、消え去ってしまうのが寂しくて。
オカリナの音色をたどってやってきた寂しい星は、消えゆく間際に、寂しい天使におやすみのキスを。
星は消えた。
天使は死んでしまった。
おはようのキスが唇に触れるまで、小さな天使は生き返らない。
『太陽と花』
あなたは青い海。
私は小さな魚。
あなたの腕の中は広すぎて、どこまで泳いでもあなたに届かない。
私は、広い海の中で溺れてしまう魚。
あなたは青い空。
私は白い雲。
あなたの胸の中は広すぎて、流れているうちに、自分がどこにいるのか分からなくなってしまう。
私は、やがて消えてしまう雲。
あなたは金色の月。
私は銀色の星。
あなたの心は遠すぎて、近づこうとするほどに、流れて、落ちてしまう。
私は、星降る夜の小さな星。
この広い世界の中で、あなたを想う小さな私。
あなたは見つめる太陽。
私は、微笑む花。
『タイムウェーブ・ゼロ』
時間の流れは速く、どんどん速く加速していって、時計の針はやがて、九千九百九十九時の極限を越えて。
あまりにも速く流れすぎ、あまりにも速く回りすぎて、時間は急速に崩壊していく。壊れていく時間が悲鳴をあげる。
その悲鳴はゼロの産声。
激流に飲まれてバラバラにちぎれた体から、新たに産まれた時間の産声。
タイムウェーブ・ゼロ。
時の流れが限界を越えて、やがて時間は止まってしまう。
時計の針はリセットされ、零時を指してそれっきり。
そして、制止した時間の中、閉じ込められた静寂の中で、大いなる神の産声を聞く。楽園の誕生を知る。
美しい娘は美しいままに、可憐な少年は可憐なままに、善人は善人のままに、悪人は悪人のままに、秘めた誓いは秘められたままに、引き裂かれた恋人たちが一途な想いで胸を焦がすままに、あらゆるモノがそのままに、ゼロの神様に抱きとめられる。
タイムウェーブ・ゼロ。
その日は神様の産まれる日だから、全ての者が穏やかに。
その夜は神様の産まれる夜だから、全ての者が安らかに。
もう二度と夜は明けない。
ゼロの楽園の中で、すべてが閉じる。
『目覚まし時計は鳴らない』
時計がない。
目覚ましは鳴らない。
だから僕は眠ったまま。朝も昼も夜も、眠ったままで動いてる。
そろそろ起きなきゃいけないのに。
そろそろ目を覚ましたいのに。
目覚まし時計はどこにあるんだろう?
僕の目を覚まさせてくれるモノは、どこにあるんだろう?
眠ったままで目覚まし時計を探してる。
ねえ、僕はここにいるよ。ここで眠っているよ。
今は眠っているけれど、
眠りから覚めないけれど、
目を覚ましたら、
目が覚めたら、
きっと…。
目覚まし時計はどこにあるんだろう。
昔に持っていた目覚まし時計は、どこに落としてしまったんだろう。
無くしたことにも気づかないまま歩き続けて、今ではもう、その目覚ましがどんな形だったのかさえ思い出せない。
だから僕は眠ったまま。
眠ったままでふらふらと歩き続けて、目を覚まさせてくれるモノを探してる。
今日も時計は見つからない。
目覚ましは鳴らない。
僕は眠ったまま。
目が覚めない。
『愛について』
世界を包むのは溢れる愛。
親子の、友人の、恋人の、見知らぬ者同士の間から産まれ落ちた愛で、満たされていくこの世界。
愛という包帯で包まれた、素晴らしきこの世界。
人を──。
人を、長く傷つけてきた一番のモノとはなんなのだろう。人間が知恵を持ち、争うコトを覚えてからずっと、人を傷つけてきた一番のモノは。
ナイフ? 刀? 拳銃? 大砲? 核爆弾?
多分、そのどれもが違う。
もっとも古くから、もっとも長く人間を傷つけてきたモノ。
それはきっと、愛だ。
愛こそが、もっとも多く人間を切り裂いて、もっとも多く人間を撃ち抜いてきた。
ネアンデルタール人が初めてらしい。死者を弔うということをした初めての人間は。
それまでは死者に対して何も感じなかったのだろう。動物と同じように、動かなくなった者に対して、多少困惑するぐらいだった。
ネアンデルタール人の化石のそばからは、花粉が多く検出される。
供えた花束の残した、たくさんの花粉。
涙が残るモノであったなら、その場所からは、愛する者の死に対して流された、悲哀の涙も発見されるのだろう。
金髪の少女ばかりを何十人も殺した男が語った言葉は、「女性を深く愛している」だった。
少年を誘拐して殺害した男も愛を語った。
殺した恋人のペニスを切り取って、それだけを抱いて逃げた女も、その口からは愛の言葉を。
世界を包むのは溢れる愛。
親子の、友人の、恋人の、見知らぬ者同士の間から産まれ落ちた愛で、満たされていくこの世界。
愛という包帯で包まれた、素晴らしきこの世界。
包帯の下には、醜く切り裂かれた傷。
『宇宙の蒼い海』
今年の夏は例年よりも暑くて、まだ7月なのに気温が3万度を越えてしまったから、地球上のありとあらゆるモノが自然発火してしまいました。
人も海も空も、全部が火に飲み込まれました。
人から建物へ、建物から大地へ、大地から海へ、海から空へと燃え広がった炎は、ついに地球まで燃やしてしまいます。
ロシア製宇宙衛星の中に一人で暮らしていた、ロシア人宇宙飛行士の男だけが、その様子を見ることができました。
彼が言うには、青い宝石のような地球が、赤い炎に包まれていく様子は、すごく綺麗だったって。
そのあと地球はどろどろに溶けてしまって、キラキラと輝くコバルトブルーの液体になって広がって、宇宙に海ができました。
燃え尽きた生命をたくさん含んだ海だから、いずれまた、そこから生物が生まれてくるのかもしれません。
『石の世界』
体が石になってしまえばいいのだ。
心をうるおす涙が瞳からこぼれた分だけ、乾いて、干からびて、固くなって、石になってしまえばいいのだ。石化した体で、死神に抱き締められてしまえばいいのだ。
もう二度と、悲しみに心が震えることのないように。
世界は、涙を流さない人間達が手に入れればいい。
『過保護』
ねえ、ボクを食べないで。
お願いだから、ボクを食べてしまわないで。
ボクの翼、ボクの手足を咬みちぎらないで。
父親に、母親に、友人に、恋人に、美味しいモノにそうするように、ボクは毎日、少しずつ食べられていく。
広げる翼を食べられて、歩き出す足を食べられて、掴みとる腕を食べられて、ボクにはもう何もない。
どこにも行けないように、彼らの手の内から逃げられないように、ボクからすべてが奪われる。
胴体だけのボクが大事にされる。
鳥篭に閉じ込めるよりも残酷に。
それが愛だと言うのなら、いっそ殺して。
ねえ、ボクを食べないで。
お願いだから、ボクを食べてしまわないで。
ボクの翼、ボクの手足を、これ以上食べないで。
自分で歩く足も、掴む腕も、空に広げる翼もあるのに、みんなでそれを奪わないで。
ボクを大事にしないで。
それが愛だと言うのなら、いっそ殺して。
『遠くへ…』
「とおくへ、どこか遠くへいこう」
キミはそう言ってボクの手をひいた。
とおくってどこさ?
ボクはキミの手をふりほどいて膝をかかえる。
「わからないけれど。どこか、とおく」
キミは寂しそうな顔。
ばかじゃないの。いきたくない。
膝のうえにおでこを押し当ててボクは言う。
自分でも嘘だってわかっているのに。嘘。うそだよ。どこかとおくへいきたいのはボクだっておなじ。
「そうだね、ごめん…」
つぶやいたキミはいなくなって。
キミのあけたドアから吹き込んだ風が、ボクがささやいた、うそだよ、という言葉を吹き飛ばしてしまって。
ボクはひとり。
ねえ、気をわるくしてないなら、あしたまた、ボクをさそって。
あしたなら、どこへでもいける気がする。
吹き込んだ風が部屋にのこした翼に乗って、どこか、どこかとおくへ。どこか高い場所へ。キミと二人なら、どこか、どこか、とても遠いところまで。
ねえ、とおくへ、どこか遠くへいこう。
どこか、ボクらが自由でいられる場所へ。
『望む世界』
毎日、部屋の隅で膝を抱えているひきこもりの少年を憐れに思って、神様は世界を創りなおす力を少年に与えた。
少年は神になった。そして、全てを自分の望む世界へと創り変えていった。
まず、山が無くなった。少年は山へ行かない。必要のない物だった。次に海がなくなった。少年は海へ行かない。空がなくなった。太陽がなくなった。それらは必要のない物だった。蛍光灯さえあれば他に明かりはいらない。街がなくなった。大地がなくなった。動物がなくなった。人間がなくなった。神様もいなくなった。少年にとって必要のない物は全てなくなった。地球でさえも。
結局残ったのは、少年の部屋、ただ一つだけだった。
お気に入りの音楽と、お気に入りの小説と、お気に入りの映画が封じ込められた、彼の全て。
部屋のドアを開けると、その向こうには宇宙しかなかった。太陽のなくなった宇宙は、どこまでも深い闇。
少年は闇の彼方へ身を投げて、そして誰もいなくなった。
結局残ったのは、少年の部屋、ただ一つだけだった。
『透明な存在』
春になったら草原へ行こう。
誰も知らない草原に寝転んで、誰も知らない空を見よう。
夏になったら海へ行こう。
誰も知らない砂浜で膝を抱えて、誰も知らない海を見よう。
秋になったら森へ行こう。
誰も知らない森の中にたたずんで、誰も知らない老木を見よう。
冬になったら山へ行こう。
誰も知らない山の深くで雪に埋もれて、誰にも知られず眠りにつこう。
ぼくはただ、空気みたいに。
雨上がりにできた水たまりが、ゆっくり消えていくみたいに。
そうっと生きて、そうっと死にたい。
『ナイフ』
ナイフを研ぐ。
日々の苛立ちとか、焦燥感とか、劣等感とか、寂しさ、空しさ、悲しさを鉄に変えて、怒りの炎に晒して溶かし、やりきれなさの金槌でぶっ叩く。
そうして作り上げたナイフを、心にすりつけ、心をすり減らしながら、ギラギラと光るまで研いでいく。先端がアイスピックのように尖るまで。
突き刺す相手はいない。突き刺す方向がわからない。
わからないまま、ただナイフを研ぎ続ける。無言のまま、そばに誰もいないまま。いつか、いつか刺すのだと思いながら。誰を? 何を? その答えが見つからないままに。答えはないのだという現実から、ずっと目を逸らして。
ナイフは研いでも研いでも、すぐに錆び付いていく。
『喪失』
ぼくは、世界を失いました。
赤という色、人のカタチ、風のカタチ、月の光のカタチ、ぼくの信じていたそれら全てのモノ、世界を、失いました。
人間の体に流れる血、赤の色は、毒々しいまでに鮮やかでした。
これが生命だというのなら、赤を身に宿しているヒトという生き物は、毒を体に流して生きているのと一緒です。暴力や殺人が絶えないのは、きっと血のせいだと思います。血が毒々しいせいだと思います。赤の色は、ぼくが思い描いていた罪の色をしています。
風の匂いや、月の光の匂い。風の感触や、月の光の感触。ぼくが体で感じていた風のカタチや、月の光のカタチなんて、どこにもありませんでした。頬に触れる柔らかな風のてのひらも、夜にかざした指の隙間に、そっと絡めてくる光の指も、目には映りませんでした。見えないのです。カタチがないのです。そんなモノは存在しなかったのです。ぼくは世界から、風と月を失いました。
ぼくは世界から、ほどんど全てのモノを失いました。ぼくの世界はずっとシンプルで、ずっと柔らかで、体で感じた全てのモノは、ずっと綺麗なカタチをしていました。人も、動物も、植物も、ずっと綺麗でした。
思えば、ぼくの世界には『生命』というカタチがなかったのかもしれません。この世界が、あんなにも皆、うるさいぐらいに生命を主張しているなんて知りませんでした。動物は毛の色によって、肌の色によって、植物は茎の色によって、花の色によって、いやらしいぐらいに強く、他と個の区別を主張しているなんて知りませんでした。
ぼくの世界は、もっと、ずっとシンプルだったのです。
皮膚の先で、指の先で、体を通して見えるモノしか、なかったのです。
ぼくは、世界を失いました。
赤という色、人のカタチ、風のカタチ、月の光のカタチ、ぼくの信じていたそれら全てのモノ、世界を、失いました。
一歳の時に失明し、十三歳で角膜を譲り受け、光を取り戻した少年は、その三ヶ月後に、そっと命を絶った。
目が見えるのは喜ばしいこと。
少年が自殺した理由を、誰も知らない。
『地雷』
地雷を踏んで、カチッと音がするのを聞いて、思わず足を止めてしまった時の気持ちって、考えたこと、ある? ないよね。僕もない。
それじゃあ、そのまま足を離すことができずに、足元に『死』を踏んだままで、ずーっと立ちすくんでいる人間は何を思うか、なんて、考えたことは? ないよね。僕もない。
でも、今の僕の気持ちは、きっと、地雷を踏んだまま立ちすくんでしまった人のそれに似ている。
……もう、足を離してもいいですか?
『金色の海、青色の海、乾いた月』
その昔、月はもっと潤んでいて、もっとぷよぷよしていた。
月の内側は深い海に満たされて、たくさんの魚たちが月の金魚鉢の中を泳いでいた。太陽の光を乱反射した月の海はキラキラと輝いて、それは金色の海。
大きな神様は宇宙の上にふわふわと寝ころんで、大きな指で月をつつくのが好きだった。指でつつかれたやわらかな月は、恥ずかしがるみたいにぷるぷると身を震わせるから。
しかし、ある日、神様は少しやりすぎてしまった。可愛がるあまりに、赤ちゃんのほっぺたのようなぷにぷにの月を、指でつつきすぎてしまった。月の表面が、ぷよんぷよんと動きすぎて破れてしまったのだ。
ぶしゅ、と、水の漏れる音を神様は聞いた。
クレーターの底を割って、月の中から魚を乗せて海が溢れた。
滝のように吹き出した月の水は、宇宙の上に川をつくって流れていく。川が流れつく場所は海。月の川は何かに導かれるように、青い海に満たされた星、地球を目指して。
地球の上から初めてその様子を見たのは、一匹のプラキオサウルスだった。一人ぼっちの恐竜は、毎晩、長い首をもたげて月を見上げていたから。
プラキオサウルスは、夜空から、星の天蓋を割って滝がこぼれてくるのを見た。月の川が地球の海に注がれていくのを見た。水の流れに乗ってやってきた、イルカやクジラや、大王イカたちが、滝の中から月夜に跳ねて、ぽちゃんぽちゃんと海に飛び込むのを見た。
海に注がれた大量の水は地上に溢れて、大地をごくごくと飲み込んでいった。
一人ぼっちのもプラキオサウルスも、他の恐竜たちも、昆虫も植物も小動物も、みんな一緒に水の底に沈んで眠りについた。月からやってきたイルカたちがしてくれる、おはようのキスが唇に触れても目覚めないほど、おだやかに。
地上から水がひくのは、それからずっと後のことだ。
水をぜんぶ吐き出して乾いてしまった月は、白い砂を従えながら、今でもふわふわと宇宙に浮かんでいる。
魚たちと遠く離れてしまった月が寂しそうに震えるから、神様はおわびに、ウサギを二匹プレゼントしたそうだ。
『水のようにやわらかいもの』
ぼくの胸が水のようにやわらかいものだったらいいのに。
あなたの手が、ぼくの胸の表面に小さな波紋を広げながら、すぅっと奥まで入っていってくれたらいいのに。胸の深くに沈んでいるぼくの心を、その指で掴んでくれたらいいのに。
そしたらきっと、真実だけを誓えるのに。
心には翼があって、自由を求めて高く、どこまでも遠くへ飛んでいこうとするから、いつしかぼくの言葉は嘘になってしまう。誇りも気高さも、生も死も、愛も神様も、いつしか心に置き去りにされて風化していく。今日、震えるほど綺麗だと思ったものさえ明日には朽ち果てて、なにも感じなくなってしまう。
ぼくの胸が水のようにやわらかいものだったらいいのに。
胸に突っ込んだあなたの両手が、ぼくの心を握り締めていてくれたらいいのに。
もしもぼくの心があなたの手を離れようとするなら、
もしもぼくの心が今日感じた素晴らしいものを忘れ去ろうとするなら、
その時は、あなたの手でぼくの心を握り潰して。
今の気持ちが嘘になって、涙がこぼれるほどに綺麗だった思い出を綺麗だと思えなくなるその前に、あなたの指でぼくを壊して。
真実だけを誓うよ。
握り締められた心を、その証に。
『サイノカワラ』
愛情を石のかわりに積み上げる。
愛しき鬼がすべてを崩す。
サイノカワラで石を積む幼子のように、積み上げては崩され、積み上げては崩され、一つ、一つ、積んで、積んで、崩されていく。
地面に散らばる愛情のかけらを大事に拾い上げて、積み重ねて、積み重ねて、積み重ねてもどこにも届かず、無慈悲なまでにあっさりと、あなたの足で倒されていく。
悲しいほどになんの音も聞こえない。ゆっくりと、愛情は蹴散らされて。
私はただ、積み上げたものが音もなく崩れていくのを見つめてる。
すべてが崩れてしまったあとに、私はまた、小さな愛情を拾い集めて積み上げるのだろう。この、アイノカワラで。行き場を知らぬ幼子がそうするように。
愛しいあなたがもう一度、私の積み上げたものを崩してしまうその時まで、ただ、その時まで。
一つ、一つ、大事に拾い上げて。
一つ、一つ、ゆっくりと積み上げて。
崩されないことを祈りながら、一つ、また一つ。
愛情を、石のかわりに。
『青空と太陽と風に向けて開け放たれた窓』
辞書を借りようとキミの部屋に行き、小さくノックしてドアを開けると、キミは日溜まりの中に眠っていて。
読みかけの本を胸に広げたまま、ベッドにやさしく背中を抱かれてうたたねしているキミの姿は、なんだか、とても綺麗だった。
開いた窓の向こうから、青空がキミを包んで。
忍び込んでくる風が、キミの前髪をそっと揺らして。
太陽の日差しが透明なてのひらを伸ばして、キミの肌を白く撫でて。
肌から滑り落ちた光はシーツに吸われて、柔らかな熱を残して。
おだやかに眠るキミがあまりに綺麗だから、ぼくは、キミに触れるすべてのものに嫉妬してしまう。
あぁ、青空と太陽と風に向けて開け放たれた窓!
窓を閉めてカーテンを閉じて、ぼくはキミを隠してしまった。
『少年と螺子』
少年は一つ、ネジを飲む。
一日に一つ、小指の先ほどの大きさのネジを、こくんと飲みこむ。
父親からふるわれる暴力が嫌だったから。殴られるのが嫌だったから。
父親の機嫌をそこねないように脅えて縮こまっている自分が嫌で、父親と母親が毎日ケンカするのが嫌で、それなのに、幼い日に見ていたしあわせだったころを思い描いて、離婚して欲しくないと思っている自分が嫌だったから。
かなしいと思うのは、心がしっかり締まっていないせいに違いない。
ゆるくなった涙腺から涙がこぼれるのは、心のネジが抜け落ちてしまったせいに違いない。
だから少年は一つ、ネジを飲む。
飲みこんだネジできつく、きつく、余計なものが入りこんでこないぐらいしっかりと、心を金属で止めておくために。かなしいことなんて感じずにすむように、ゆるんでいく心を右回りに締めておくために。
毎日一つずつ心に開いていく穴を、ネジの螺旋で埋めていく。
飲みこんだネジの数だけが、少年を日常につなぎとめていた。
ある日、少年は母親に手をひかれて家を出た。バッグを片手に、「もう、この家には帰ってこないのよ」と話しかける母親の言葉に、少年はなにも答えなかった。
ただ無表情に、坂のある道を歩く。
坂道をのぼり終え、振り返って、小さくなっていく自宅を見た。ずっと昔には、父親と母親と自分とが、しあわせに暮らしていたその家。
ふと、ネジがゆるんだ。
心がゆるんで、瞳が濡れて、少年はこみあげるままにネジを吐いた。
これまでに飲みこんできた沢山のネジが、少年の口から吐き出された。
口からこぼれた大量のネジは坂道に落ちて、ざあざあと金属音をたてながら下へ転がっていく。
大雨のように坂道を流れていくネジを見つめながら、少年はもう、すべてが終わってしまったことを知った。
ネジと一緒に、自分の子供時代が流れていってしまったことを知った。
『地雷の恋』
春の日差しがやわらかく染みこんでいく土の中に、わたしはひっそりと埋まっています。
宝の地図を破り捨てられたあとの宝物みたいに、誰にも知られず埋もれています。
一人きりの春が舞い散って、一人きりの夏が燃え尽きて、一人きりの秋が枯れ果てて、一人きりの冬が白く閉じて、そうして季節が過ぎ去っていく中で、わたしは誰にも笑いかけず、誰にも悲しまれずに、ただ平穏に毎日をおくっています。
わたしを埋めたあの人は、きっとわたしの存在など忘れていることでしょう。たくさん埋めた中のひとりの女のことなど、思い出せもしないでしょう。
ソ連製PMN地雷、通称:黒い未亡人。それがわたしの名前です。
フリスビーみたいな小さな体の中に激しい熱情を詰めながら、ただ静かに埋まっています。大地に埋もれて、青い空を見上げています。
対人地雷は、青い空を舞う紋白蝶が大好きです。
雲ひとつない真っ青な空を、白い羽をふわふわ揺らして飛んでいくその姿は、とても自由な感じがするから。
生まれ変われるなら自由を舞う蝶になりたい。それが地雷の望みです。
対人地雷は雨に濡れるのが大好きです。
ざあざあと地面に染みこんでくる雨水が、熱をおびた体を心地よく冷やしてくれるから。地面を流れゆく雨の濁流が、わたしをどこかへ連れ去ってくれるような気がするから。
できるならば雨に流されて、いつか空想の中で思い描いた遥か遠い海へ行きたい。それが地雷の見る夢です。
わたしは空を見上げ、雨音を聞き、季節をやりすごし、そうして平穏に生きてきました。あの日、あなたに出会うまでは。
あなたはどこからともなくやってきて、気づかないままにわたしを踏みました。
わたしはとても驚いたけれど、あなたはなんでもない顔で「驚かせてごめんね」と太陽のように笑うから、その瞬間に、わたしの心はとろとろに溶かされてしまいました。
わたしの心からこぼれた甘い気持ちはやがて二人の心を結び付け、それからは幸せな日々が続きました。
あなたがわたしを踏んでいる、ただそれだけのことです。誰にも知られずに一人でいたわたしが、今はあなたと二人でここにいる、ただそれだけのことです。ただそれだけのことが、かけがえのない幸せなことのように思えたのです。
しかし、その幸せも長く続きませんでした。
わたしの愛は変わらなかったけれど、あなたにはその愛が、わたしを踏み続けるという「一生」が、重すぎたのかもしれません。あの青空を舞う紋白蝶に、あなたも心を奪われたのかもしれません。もしかしたら、雨水があなたをさらっていこうとしただけなのかもしれません。
わたしにその理由はわかりません。わからないけれど、ただ、あなたが足を離したから、わたしは──。
一度わたしを踏んだなら、ずっと離さずにいて欲しい。
それが地雷の願いです。
『自転車』
海へ行こう。
車の助手席ではなく自転車の後ろにキミを乗せて、初めて二人で過ごした夏の海へ行こう。
歳月が少しずつ宝石に変えていくキミへの気持ちを、初めて出会った頃の胸を焦がす原石に戻すために。空気のように寄り添うキミの重さを忘れないために。
10代の頃の面影を乗せて自転車は進む。
海風の手のひらがぐいぐいと僕らの背中を押していく。
落ちてきた太陽の光がアスファルトに砕けてキラキラと輝く。
真っ赤なラジオがオールディーズのラブソングを歌いながら篭の中を跳ねる。
あの頃と同じように、あの頃と違う僕らが行く。
僕の腰に手を回す少女の体は、あの頃よりもずっと重たくて。
キミが頬を押しつける少年の背中は、あの頃よりもずっと広くて。
積み重ねてきたものの重さをペダルに乗せて自転車は進む。
大人になっても変わらない、少年と少女の絆を乗せて自転車は進む。
『サファイアの海』
白砂糖が敷き詰められた、さらさらの砂浜。
サファイア色の羽を輝かせては寄せて返す、蝶で埋めつくされた海。
僕は、太陽がてのひらに絡めてくる暖かな指をそっと握りかえしながら、蝶の流れる音を聞いていた。
水平線の向こうまで敷きつめられた那由他の蝶が、甘く香る砂浜を舐めるように、さらさらと寄せて、さらりと引いて、返っていく。はばたく蝶の羽からこぼれた真っ青な燐粉は、砂化した宝石のようにキラキラと輝きながら、波打ち際に舞い上がる。
呼吸する羽。
はばたく蝶。
青くうごめく海。
蝶の群れはどこまでも続く。
遥か遠い異国の空の下を流れ、青い羽で世界を覆いながら、どこまでも巡りゆく。
僕は衣服を脱ぎ捨てて砂浜を走り出す。柔らかな素肌で太陽の光を受け止めながら、白い砂を蹴って高く飛びあがり、きらめく蝶の海へ──。
蝶達は、ゆるく震わせた羽で沈む僕の体をふわりと浮き上げて、彼方へ向けてそっと押しやる。肌をくすぐる数千の羽の上を僕は漂う。遥か遠い、ここではないどこかを目指して。
サファイア色の蝶の海にさらわれて、僕は眠るように旅に出る。
『sweet chocolate & candy』
わたしのからだがチョコレートでできていたらいいのに。
そしたら、あなたの舌の上で、甘く溶けてしまえるのに。
舌先で優しく撫でられて、とろとろにこぼれてしまえるのに。
わたしの心がキャンディーでできていたらいいのに。
そしたら、あなたの口の中で、ゆるくほどけて消えてしまえるのに。
舌の上でそっと転がされて、蜜に揺れてなくなってしまえるのに。
朝を迎えるベッドの上に、泣き出すみたいに真っ白な光が降りそそぐから、わたしは、なんの言葉も言えない気がして黙ってしまう。
涙みたいにあたたかな光の中では、「寂しいね」って、弱く微笑むことさえ許されてしまいそうだから、わたしは、なんの言葉も言えない気がして。
心を溶かした言葉は、幼子のように無防備な気がして。
あなたに溶けてしまえたらいいのに。
あなたに溶かされて、消えてしまえたらいいのに。
朝を迎えるその前に、あなたの舌で甘くとろけて、なくなってしまえたらいいのに。
『忘れるということ』
愛する人が死んだ。
あの人が病床で僕にかけた最後の言葉は、「早く私を忘れて。あなたが、立ち直るために…」だった。僕は、涙した。
僕は、通夜にも葬式にも出なかった。あの人の遺言を守るためだ。僕は、早く、あの人を忘れる。あの人の遺体を、死に顔を見たら、目に焼き付いて、二度と忘れられないような気がした。
愛する人と二人で暮らしたのは十二年。幸せだった。哀しくなるほどに幸せな時間だった。思い出を胸の中に映し出すだけで涙が溢れてとまらなくなるほど、幸せだった。残酷なぐらいに。
二人で暮らした家の中の、二人で眠ったベッドの上で、僕は独り、身を起こした。ベッドに腰をかけて、部屋の中をぼんやりと見渡した。部屋の中の物は何も変わっていない。ただ、あの人がいない。ああ、ダメだ。ここに居てはいけない。忘れられない。あの人がいないことを思い知ってしまう。捨てよう。全て捨てよう。あの人の匂いのする物も、あの人と過ごした場所も、全て。家も、街も、全て。全部を捨てなければ、僕はあの人を忘れられない。心から愛していた人のことを、忘れられない。
ベッドから立ち上がって服を着替えようとした時、ふと、左手の薬指に指輪がはまっていることに気がついた。これは、あの人
とお揃いの指輪。二人で暮らすようになって半年もした頃、お互い離れないことの証として買った、安物だけれど、僕らにとっては、どんな高価な宝石よりも貴重な指輪。僕は指輪を外すと、ゴミ箱へ捨てた。
クローゼットを開けて服を手に取ると、これも、あの人の匂いがすることに気がついた。そういえば、服は全部、あの人に選んでもらっていた。一緒に買い物に行くと、あの人は、「あなたにはこっちの方が似合うよ」そう言って笑うのだ。これも、あとで捨てよう。
着替えた僕は、財布だけ持って家を出た。腕時計は、あの人から誕生日のプレゼントで貰った物なので置いていった。僕は、愛しい人と過ごした家と、愛しい人の匂いの染みついた物を、捨てた。
駅まで歩く途中、適当な洋服屋に入って、服を買った。自分で選んだ洋服は、どこか、センスがなかった。試着室を借りてあの人の匂いのする服を脱ぎ捨てると、あの人の匂いのしない服に着替える。脱いだ服は袋に詰めて、店を出た。
駅に着くと、駅のゴミ箱に服を捨てた。北へ向かう電車に乗って、愛する人と過ごした街も捨てた。これで、全て捨てた。
しかし、僕はあの人のことを忘れられなかった。電車の窓を流れていく風景を見ながら、あの人のちょっとした仕草とか、言葉とか、笑顔とか、そういったものを思い出して、涙がこぼれた。忘れられない。あんなに愛した人のことを、忘れられるはずもない。涙は、止まらなかった。
泣き震える身体を抱くと、自分の身体からふんわりとあの人の匂いがした。ああ、これもだ。あの人が触れて、愛したものが、ここにも。
次の街についたら、これも捨ててしまおう。
それでようやく、僕は愛した人のことを忘れられる気がした。
『音』
眠りにつく少し前。薬を飲んで、毛布を肩まで引き寄せて小さく祈る。「二度と、眠りから覚めませんように」
目が覚めて、ベッドに差し込む光に傷だらけの腕を透かせて、「…生きてる」と実感する時が寂しい。
人間はきっと、生きてることを忘れていられるから生きてゆける。
それはテレビを見ることだったり、仕事をすることだったり、食べることだったり。そうしている間は、生きていることを考えずにすむ。
生を意識してしまうのは、時計の針の音を意識してしまうことに似ている。気がつかなければなんでもないのに、気がついてしまえば、その精密な音はひどく耳障りで、不安になる。
生命の音。
生きている、という、ただそれだけの、聞こえない音。
血が、体の中を流れる音。
聞こえない音。
耳障りな音。
僕は最近、自分が生きていることを忘れられない。
『審判の日』
今日は、審判の日。
世界中のありとあらゆる存在が、かみさまの審判を受ける日。
今日が審判の日だなんて誰も知らなかった。かみさまの存在さえ、誰も知らなかった。誰も、何も知らない内に審判は始まって、みんな、納得のいかないままに死んだ。
春風に誘われるようにかみさまは青い空の中に現れて、7人の御使いを空に、地に、水に放った。御使いは、みな純白の翼を背中に負った少年の姿で、手には小さなラッパを持っていた。
1人目の御使いがぷぅぷぅとラッパを吹くと、青い空から赤い血の雨が降り、水に溶けて、水に棲む生き物の半分が死んだ。それらは悪い生き物だった。他の、水に棲む生き物を殺して、食べてしまうから。
2人目の御使いがぷぅぷぅとラッパを吹くと、青空から突然カミナリが落ちて、それは信じられないぐらいたくさん落ちて、人間以外の、地に棲む生き物の半分が死んだ。それらは悪い生き物だった。他の、地に棲む生き物を殺して、食べてしまうから。
3人目の御使いがぷぅぷぅとラッパを吹くと、空に嵐が吹き荒れ、竜巻となって雲をぐるぐるとかき混ぜた。その嵐に巻き込まれた空に棲む生き物は、宇宙まで放り上げられて死んだ。半分ぐらいそれで死んだ。それらは悪い生き物だった。地に棲む生き物、水に棲む生き物を殺して、食べてしまうから。
4人目の御使いがぷぅぷぅとラッパを吹くと、大地が割れて、中からたくさんの蜂に似た生き物が飛び出した。人間と蜂が一緒になったような、ちっちゃな妖精みたいなその生き物は空に溢れて、人間をみんな、尻尾にある針で刺した。刺された人間はチクリと死んでしまった。いい人も悪い人も、偉い人も偉くない人も、みんな死んでしまった。それらは悪い生き物だった。空に棲む生き物、地に棲む生き物、水に棲む生き物を殺して、食べてしまうから。
神様を信じていた人達は、とても納得いかない様子のままチクリと死んでしまった。彼らが信じていたそれぞれの神様は、この世界に現れたかみさまとは違っていたのだから、敬虔に教えを守っていても仕方なかった。
人間は蜂に似た生物に刺されて、一人を除いてみんな死んでしまった。蜂に似た生き物は、刺す人間がいなくなってしまうと、また地の底に戻っていった。
5人目の御使いがぷぅぷぅとラッパを吹くと、青空を照らしていた太陽が一瞬、とても明るく輝き、その光は地に棲む生き物、空に棲む生き物の身体を焼いて、残った罪深い半分を殺してしまった。草や木さえも、その光で燃えてしまった。空と大地に生き物はいなくなった。
6人目の御使いがぷぅぷぅとラッパを吹くと、水に混じった血が濃くなって、血そのものになって、水に棲む生き物の半分が呼吸できずに死んでしまった。空と大地の間に生き物はいなくなった。
7人目の御使いがぷぅぷぅとラッパを吹くと、空から大きな剣が7本降って、御使い達の身体を串刺しにした。御使いは全員、剣に貫かれて死んだ。彼らは悪い生き物だった。地に棲む生き物、空に棲む生き物、水に棲む生き物を、食べるでもなく殺してしまったから。
そしてかみさまが、ボクの前に現れた。
地球上で、ボクだけが悪くない生き物だった。
生まれて一年目、脳に出来た腫瘍によって植物状態になり、点滴だけを命に取り込んで、11年間、眠るように生かされていたボクだけが、なんの罪も犯していなかった。
ただ残念なことに、ボクの寿命はあと30分で尽きてしまうらしい。今日、脳にできた腫瘍が、1ミリほど大きくなってしまったそのせいで。
人に似たカタチのかみさまは、ボクを憐れんで、小さな奇跡をボクにくれた。植物状態だったボクが、死ぬまでの30分、ベッドから離れて自由に動き回れる奇跡。それと、赤ん坊のまま知恵の時間が止まっていたボクに、知恵の林檎を一つ。
ボクがお礼を言うと、かみさまは、「いやいや、それほどでも…」とはにかんで、その後、ボクのいた病室のドアノブにタオルを引っかけて、座り込むようにして首を吊った。かみさまは悪い生き物だった。全ての生物を、彼の独断で裁いたから。
かみさまと、チクリと死んだ人間の死体の転がる病院を抜け出して、ボクは街に出た。
街の中は静かだった。動く物は何もなかった。草木は焼け焦げ、人は地面に転がり、車は忘れ去られたように止まっていた。電気が供給されない信号は色を無くしていた。
静かにたたずむコンクリートのビル、だんらんの途切れた家、動かない電車を待つ地下鉄の入り口。
風さえも吹かない街の中は、暑苦しいぐらい静かだった。誰も、何も、動かない。
海へ行こうと思った。
海ならば、波の動きが生き物の匂いを感じさせてくれるかもしれない。
歩いて10分ほどの距離にある砂浜に行くと、血の匂いが鼻についた。海は、目に映る水平線の向こうまで赤く染まっていた。波は寄せない。海も止まっていた。血でできた、大きな水溜まりだった。
ボクは砂浜にちょこんと座り込んで、赤く広がる海を眺めた。
青い空の広がる下に、どこまでも続く赤い海。太陽の光が血の海に反射して、ルビーのようにキラキラと輝いていた。
ちらりと腕時計に目をやると、そろそろ約束の時間。ボクの、死ぬ時間。
今日は審判の日。
ボクが死んでしまえば、この世界には人も動物も神様も、誰も、いなくなる。
『最後に見る夢』
ナイフ一本で、世界中のありとあらゆるモノを殺してやろうと思った。
白人も黒人も黄色人種もアルビノも、動物も、植物も、全てを──世界を、殺し尽くしてやろうと思った。
ぼくのナイフは太陽を切る。
横に真っ二つになった太陽は下側だけするりとズレて、そこから、内部で燃えさかる炎が溢れて爆発する。その熱は世界を蒸して、パチンコ屋の駐車場で赤子を蒸すみたいに蒸して、乾く。みんな、乾いていく。
友達のいないぼくが、休み時間、教室にいたくないだけのために水飲み場に行って、飲みたくもない水を飲んだ量と同じ分だけ乾く。ぼくが潤った分、他の人が乾いていくのは道理だった。
ぼくのナイフは青空を切る。
横に真っ二つになった青空は下側からぺらりとめくれて、その裏側にある真っ赤な空が顔を覗かせる。そこからポタポタと赤い雨が降る。それは血の雨だ。ぼくの手首からこぼれた、血の、雨だ。
ポタポタと、小人が足跡を刻むみたいに地面に落ちてくる雨は、やがて土砂降りになる。ぼくの血に触れたモノはみんなジュウジュウと溶けていく。溶けて、どろどろとした塊になる。
ぼくを笑う女、ぼくを殴る男、ぼくに吠える犬、ぼくが殺し損ねた猫、みんな、どろどろに溶けて肉の塊になる。塊からは大きなタンポポが咲いて、それはすぐに白い綿毛に変わって、空へ舞い上がる。世界は、ふわりふわりと舞う白い綿毛でいっぱいになる。
だけれど──。
あの人だけは死なないで欲しい。
ぼくの隣の席に座っているあの人だけは。
ぼくに無関心でいてくれるあの人だけは。
3ヶ月に一回ぐらい、返答を期待しない独り言みたいな言葉を、一言二言ぼくにかけてくれるあの女の子だけは。
正面から顔を見るコトなんてできないから、ぼくは横目でちらりと見たあの人の横顔しか覚えていないのだけれど、退屈そうに授業を受けているあの人の横顔は、とても綺麗に見えた。
あの人だけは死なないで欲しい。ぼくみたいな人間でも人を好きになるんだと気づかせてくれた、あの人だけは。
だからきっと、ぼくの血はあの人だけを殺さない。キリストが自分の血をワインに変えたみたいに、あの人の上に落ちるぼくの血もワインに変わる。あの人はぼくの赤ワインを飲んでほんのり酔って、世界に舞うタンポポの綿毛と一緒に、ふわりふわりとワルツを踊る。あの人はきっとワルツなんか知らないから、四分の三拍子のかろやかな踊りではないだろうけれど、でも、それは、世界の終わりのワルツ──。
溺れそうになって意識を取り戻した。
思わず水面から頭を出し、こみあげる吐き気に襲われるままに、バスタブの外に真っ赤なお湯を吐いた。一緒に、胃の中にあった食べ物も吐いた。
苦しさで溢れた涙と鼻水を拭かないまま、ぼくはゆっくりとお湯の中から左手を持ち上げた。手首を横に切った傷口から溢れていた血は、もうほとんど止まっていた。ポタリポタリと、浅く、血が落ちるだけ。
太陽も、青空も、タンポポも、あの人も、全て、ぼくから遠ざかっていった。
最後に見る夢の中、世界を壊しながらぼくが死ねば、それは、世界のありとあらゆるモノが死ぬということ。
赤くぬめるお湯の中、ぼくはぼんやり、世界を壊し損ねちゃったな…と、それだけを思った。
『白く閉じた世界で』
アイスを販売するために使われる、箱型の冷凍庫を買った。
赤い色に塗られた長方形の箱の、長方形のガラス戸を上に引き上げて、白く霜の張ったその中に入った。
ガラス戸を閉めて、中に丸くなる。
中は狭くてひんやりとしていた。
ぼくを凍らせようと低くうなる冷凍庫の音に抱かれながら、ぼくは、まぶたでゆっくりと世界を押し潰すように、そっと目を閉じた。
少しずつ、皮膚の上をしゃりしゃりとした氷のかけらが包んでいって、少しずつ、ぼくの体は冷たく、固くなっていく。
やがて心まで凍りついてしまった後には、その赤い箱の中の、白く閉じた世界で、氷と化したぼくが、静かに眠っている。
詩になり損ねた言葉たち