三題噺「夏日」「万有引力」「ベートーヴェン」(緑月物語―その8―)
緑月物語―その7―
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緑月物語―その9―
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「――関東地方南部は北の風のち南の風、一日中快晴で昨日に引き続き真夏日となるでしょう。次は明日以降の一週間の天気――」
校庭脇の並木道で、数えきれないほどのセミのオスが鳴いている。
そんなメスの気を惹くための全身全霊、命を削った鳴き声の大合唱が響く中、教室で酒野修一は電子ペーパーに映し出された補習問題とにらみ合っていた。
「あー……わからん」
かつて酒野は神童などと呼ばれていた。
校内模試ではトップクラスの成績で、全国模試でも上位に入るほどだった。
しかし、それも昔の話。中学、高校と上がるにつれて今や凡人にまで成り下がっていた。
スポンジのように知識を吸収していた頭脳は、興味を持ったものの知識を溜め込む倉庫としての役割しか持たなくなった。
湯水のように湧いて出てきた発想力は、源泉が枯れてしまったかのように途絶えてしまった。
学力に裏付けられていた自信も、その低下に伴い失われていった。
そうして中途半端に聡かった酒野は、早々と自分の人生に見切りをつけた。
「はぁ……緑月が学校に落ちて補習がなくなれば良いのに」
そんなことばかり考えていた結果が、夏休みにもかかわらず学校の補習を受けている今の状況につながってるのだが。
酒野はそんな自分を省みることなく机につっぷした。
「おーぅ修一。馬鹿なこと言ってないで、さっさと終わらせて俺にも夏休みくれよー」
監督役の担任教師が注意する。しかし補習中に三次元放送映像投影機『マイクロテレビ』で天気予報を観ながら、女性気象予報士に鼻の下を伸ばしている時点でやる気の欠片も見られない。
酒野は現実という名の電子ペーパーから目をそらすと、窓の外へと視線を向けた。
そこには、今日も緑月が浮かんでいた。
「――緑月への推薦試験の申し込み、しておいたぞ」
マイクロテレビに顔を向けたまま、ふいに担任教師が酒野に告げた。
「……そっか。ありがと叔父さん」
「……酒野先生だ」
それからしばらくの間、教室にはマイクロテレビの音とセミの声だけが響いていた。
「ベートーヴェンじゃねえがな、お前が俺の家に来た時には運命の扉が叩かれた気がしたよ」
マイクロテレビを消して酒野の叔父、酒野吾郎がしみじみと言った。
「本当に良いのか? お前も知っているだろうが、緑月は……」
「わかってるよ。だけど叔父さんにも子どもが生まれるし、行くなら今しかないんだと思うんだ」
月が緑化してからの百年。緑月と名を変えた衛星は万有引力の法則を無視して地球から遠ざかっていた。
このままいくと月が衛星から準惑星になるのではないかとも言われている。
月が緑月となった当時ならいざ知らず、今の緑月には地球へロケットを飛ばすだけの潤沢な資源やエネルギーがない。
そのため、特殊な事情がない限り緑月から帰還できる可能性は極めて低く、それにともなって緑月への移住も厳しく制限されるようになっていた。
現在、緑月に行くための方法は三つ。一つ、国際宇宙局から認められた仕事として行く場合。二つ、その家族として行く場合。そして、三つ目は――
「国立緑月調査部隊育成学校への入学が認められれば緑月に行ける。そうしたらきっと何か変わる気がするんだ」
吾郎がそれを見てあきれるようにため息をついた。
「はぁぁぁぁぁぁ。本当になんでこんな風に育っちまったんだろうなぁ!」
吾郎に言わせれば、酒野の決断はただの逃げである。
地球での人生に見切りをつけ、緑月に行けば何か変わると思うのは自由だ。だが、本当に変わるには自分で変わろうとしなければ駄目なのだ。
そんなことを考えている吾郎が、酒野の推薦試験受験を許したのには理由があった。
『酒野がどんな人間になろうとも、その意志を出来る限り尊重する』と、兄である酒野の父親に墓前で誓ったことと、そして――
「……まあ、こいつがそう簡単に推薦試験に受かるはずもないから良いだろう」
という吾郎の、酒野に対する適切な期待によるものだった。
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