王平伝⑧

王平伝⑧

8-1
 南へ進むにつれ視界に山と緑が増え、空気がじとりと肌にまとわりついてきた。餓何は宕蕈の供となり、涼州を出て漢中に向かっていた。途中の氐族の地は魏からの搾取により廃れ、村人が漢中に逃げ出したため荒れに荒れていた。羌も選択肢を誤ればいずれこの様になる、と迷当は何度も言っていた。
 廃れてはいるができるだけ人目のつく所は避け、宕蕈と餓何は山中で野宿をしながら漢中を目指した。
「俺は心配ですよ、宕蕈殿。まだ漢中に入ってもいないのにこんなに涼州とは違うなんて」
「お前が心配しているのは漢中に行った馬のことだろう。始めは戸惑うかもしれんが直に慣れる。人の体も、馬の体もそういうものだ」
火の光の届かぬところから、虫の音が響いて煩わしかった。焚火を遠巻きにして一晩中鳴く虫のせいで深く眠れず、餓何は夜中にしばしば目を覚ました。宕蕈はそれを気にすることもなく、鼾をかいてよく眠っていた。
 ある程度南に進んだところで東へ進路を変えた。あと二日の道程で蜀の入り口である陽平関に着く。夜中の虫の音と空気の湿りの不快さで十分に眠れず、餓何は何度も欠伸をした。
「何もないからといって気を抜き過ぎではないか。お前は俺の護衛なんだぞ」
「おかしな奴が出てきたらちゃんと戦いますよ。それにしても宕蕈殿はこんな慣れない地でよく眠れますね」
「蜀との交渉事は俺にとっての戦だ。戦に臨んで虫が煩わしいなどと言っていられるか。お前もその自覚を持て」
「わかっていますよ」
 荒れた西雍州には魏の手の者どころか山賊の気配すらなかった。奪おうにも奪う物がないのだ。
 陽平関まで四十里の山中で日が暮れ野営の準備をした。明日は漢中で美味いものを食い、静かな寝台で眠れると思うと胸が躍った。
「この虫の音とも今夜でおさらばだ」
 餓何は焙った羊の干し肉を頬張りながら言った。早く漢中に行き、食い飽きた干し肉ではなく穀物や野菜の料理で腹を満たしたい。
「蔣琬はどのような声を聞かせてくるのかと俺は気が気ではないのに、お前は呑気なものだ」
「この山中の虫よりはましでしょう。漢中に近付くとまた違う虫がいるようですね。まるで人の声みたいだ」
 いつも聞いている虫の音の中に聞き慣れない音が混じっていた。それは周囲八方から聞こえていて、徐々に近づいてきた。その異様さに気付き餓何はしゃぶっていた羊の骨を焚火に吐き捨てた。
「人の声のようではない。これは人の声だ」
 宕蕈と餓何は同時に立ち上がった。虫の音に惑わされ、かなりの接近を許してしまっていた。森に住む獣ではない。統率の取れた人の集団だ。
 餓何は腰に佩いた剣を抜いて構えた。いつもより重く感じられた。慣れない地で体が弱っているのだ。
 一人。茂みの中から飛び出してきた。餓何は声を上げ力一杯剣を薙いで敵の体を両断した。同時に左肩に痛みが走った。見ると短い矢が突き立っていた。
「宕蕈殿、伏せて」
 餓何は突き立った矢を力任せに折りながら言った。応戦しようとしていた宕蕈が地に伏せた。二矢、三矢。剣で叩き落とした。肩から流れる血を見ると頭がかっとして力が湧いてきた。もう剣は重くない。矢。体を捻って掴み取り、飛んできた方に投げ返した。人の倒れる音がした。後ろから敵。咄嗟に出した足が鳩尾に食い込み、悶絶した敵の首を払った。地に伏せた。頭上に何本もの矢が飛んだ。
「卑怯者。姿を見せて俺と戦え」
 恐らく敵は魏の忍びだ。どこからつけられていたのか。こんな時にも虫は鳴き続けていた。その虫の音が、一斉にぴたりと止まった。矢はもう飛んでこず、多人数による闘争の気配が周囲から伝わってきた。
 餓何は這って宕蕈の体に覆い被さった。何が起こったのかわからないが、この人が死んで自分だけ生き残ることだけは許されない。肩から流れる血が、宕蕈の髪を濡らした。
 繁みの向こうから、木の上から、敵の気配が消えていく。そして頭上から二人の体が落ちてきた。眼帯をした男が、もう一人の男の腕を捩じ上げ組み伏せている。
「俺たちの庭に入り込むとは良い度胸ではないか」
「ゆ、許してくれ。俺たちはそこの羌族を狙っただけで、あんたたちと争うつもりはない」
「言い訳なら後でゆっくり聞いてやろう。お前の体に直接な」
「頼む、それだけは勘弁してくれ」
 周りから三人の黒装束が現れ、許しを乞う男が連れて行かれた。山中に男の泣き叫ぶ声がしばらく響き、やがて消えた。そしてまた虫の音が聞こえてきた。
「私は句扶という。あなた方は羌からの使者ですね」
「礼を言う、句扶殿。私は伐同の主人である宕蕈だ。こっちは、護衛の餓何という」
 宕蕈が餓何の体から這い出しながら言った。餓何は助かったという思いで体から力が抜けて何も言えなかった。
 句扶と名乗った男が矢尻の刺さった左肩に手をやり、傷口から血を吸い出して地に吐いた。
「毒はない。やり方から見て、魏の下っ端忍びが功を焦ったというところか」
「すまない」
「剣の腕はあるようだが、護衛はもう少しつけた方がいい」
 餓何は何も言い返せずに頷いた。句扶が現れなければ間違いなく殺されているところだった。心が落ち着いてきて、蜀には忍びの部隊がいると聞いたのを思い出した。
「あんた、蚩尤軍か」
「そうだ。蚩尤軍は夜目が効く。部下を案内につけるから、野営は止めてこのまま陽平関に進め」
 句扶はそう言い残し闇に紛れていった。
 蚩尤軍の先導で宕蕈と餓何は夜を徹して東へ進み、夜が明けた頃に陽平関に辿り着いた。早馬で伝えられていたようで、二人は陽平関の門衛に丁重に迎えられ、すぐに餓何の矢傷の治療が始められた。肉を裂いて鉤型の矢尻が取り出され、素早く傷口を縫って薬草を磨り潰したものが塗られた。
 その様子を部屋の隅で物珍しげにじっと見ている若者がいて、目が合った。
「小僧、血を見るのは初めてか」
 餓何はからかうように言った。椅子から腰を上げ近づいてきたその文官体の男は、自分より少し下の二十歳程といったところか。
「昔、叔父が目の前で首を落とされました」
 若い文官は笑みを湛えて何でもないように言った。
「すまん、つまらんことを聞いた」
「いえ、私は王訓と申します。肩の傷が落ち着いたら、宕蕈殿と御一緒に蔣琬様の所に案内します」
「こんな傷は何でもない。今からでも行ける」
 餓何はそう言って立ち上がったが、血を失ったせいか足がふらつき、王訓が素早く餓何の体を支えた。
「御無理をなされずに。宕蕈殿もお疲れのようですから、せめて今日一日は陽平関で体を休めて下さい」
 餓何は王訓の体を押しのけ、治療を受けていた台に座り直した。悔しいが、ここは従っておいた方がいい。
「宕蕈殿が言うならそうさせてもらおう」
 王訓が何か指示を出すと、部屋に食事が運ばれてきた。肉と野菜の入った粥が器を一杯に満たし、湯気と共に良い香りが立ち昇っていて餓何の食欲をそそった。食べると腹の中が熱くなり、その熱さが体の隅々にまで染み渡っていくようだった。
 腹が膨れるとそのまま眠ってしまい、起きると辺りは薄暗く夕方まで眠ったのだと思ったが、窓の外を見るとどうやら次の日の朝まで眠っていたようだ。
 窓から目を移すと室内に居眠りをしている王訓がいて、餓何はぎょっとした。その気配に気付いたのか、王訓も目を覚まして一つ欠伸をした。
「ああよく寝た。あなた程ではありませんが」
「何故、ここで寝ている」
「傷の手当をしようとしたのです。でもよく眠っているのでどうしようかと思っていたら、自分も寝てしまいました」
 多分、この男は自分のことを監視していたのだろう。王訓は布を水に浸し、乾燥した血と薬草を丁寧に拭った。餓何はそれに怪訝の目を向け続けた。
「膿んではいないようですね。薬草がよく効いている」
 王訓は餓何の目を無視するように言った。
「蜀の文官はこんなことまで自分でやるのかい」
「どんな小さなことでもやれることなら自分でやれと、蔣琬様に言われております。小さなことの積み重ねが、後に大きなものになるのだと」
「それは御立派なことだ。ともかく、傷を治療してくれたことには礼を言うよ」
「今や羌と蜀は同じ仲間ですから、これは当然のことです。よく眠ったから腹が減ったでしょう。今から飯を持ってきますね」
 王訓の足音が部屋から遠ざかっていった。
同じ仲間と言われて悪い気はしなかった。そして監視されていたと少しでも疑った自分を恥じた。蜀と共闘するといっても、羌の属する先が魏から蜀に替わるだけだと思っていた。それを、王訓は同じだと言った。その意外な言葉が、寝る前に食った粥のように、餓何の心に染み込んでいった。
蜀は羌にとって敵になり得る国だった。現に、羌軍は昨年の戦で蜀軍とわずかではあるが争った。その認識は改めるべきなのかもしれない。
朝食を摂り、外が明るくなってから宕蕈と餓何は王訓の案内で漢中の政庁へ向かった。陽平関を越えるともう蜀の領地で、街道には人や物を運ぶ牛の往来があり、氐族や羌族の顔もちらほら見かけた。餓何はそれを見て、羌とは違う国に来たのだと実感した。
大きな城郭に入り、漢中に駐在している伐同と合流した。伐同は思っていたより大きな屋敷を与えられていて、暮らしぶりも良さそうだった。
宕蕈と伐同は王訓に連れられ屋敷を出て行った。餓何は留守番である。
しばらくして、王訓がまたやってきた。
「これから羌族の居住区を廻ります。蔣琬様の話は長くなりそうですし、餓何殿も一緒に行きませんか」
 餓何は退屈だったのでそれに乗ることにした。
 漢中の街に馬を歩かせると、そこには羌の遊牧の暮らしとは全く違う世界があった。関と城郭と軍によって守られた土地に人が集まり、物と銭が動いていて、羌の暮らしに欠かせない羊は一匹も見かけない。
「ここは賑やかなところだな。長安もこんな感じなのか」
「長安にいたことはありますが、城郭の規模はここより大きいです。人も、たくさんいました」
「俺は驚いているよ。初めて外の世界を見て、羌が勝てないのがわかったという気がする」
「羌には羌の良さがあるじゃないですか。私は毎日書簡と向き合っていると、遊牧の暮らしが羨ましくなってきます」
「そういうものなのかな」
 城郭を出て、漢中に流れる漢水に沿って二人は馬を歩ませた。そこには畑が広がり働く者たちの集落が点々と連なっていた。
「涼州から来た奴らは問題を起こしてはいないか」
「問題が無いとは言い切れませんが、大きなものはありません」
「俺に何かできることがあれば言ってみろ。おかしな奴がいれば俺が怒鳴りつけてやる」
 その言葉に喜んだのか、王訓は一つ笑顔を見せた。
「ここで起こる問題の全ては我らに責任があります。餓何殿の手を煩わせるわけにはいきません」
「お前は若いのに偉いことを言うんだな」
「偉いだなんて。至らないこともたくさんあるんですよ。例えば、ここが魏軍に攻められ陽平関を突破されれば、城郭を持たない彼らは真っ先に犠牲になるでしょう。これはどうしようと防ぎようがありません。だから魏と戦をするのなら、なるべく漢中から離れた所でやるべきなのです」
 そういう事情もあるのだなと、餓何は納得した。
「その時は涼州から一軍を率いて加勢してやろう」
「それは頼もしい。餓何殿は迷当様の懐刀であると伐同殿から聞いています」
 そんな話をしながら進んでいると、畑の向こうに馬の牧場が見えてきた。見知った馬も、知らない馬もそこで飼われていて、馬の世話をしている者はほとんどが羌族だった。何人かの顔見知りが近寄って来たので、餓何は彼らに労いの言葉をかけた。
「ここの馬は良い顔をしている。毛並も悪くない。これを見て俺は心から安心できたよ」
「餓何殿は本当に馬がお好きなのですね」
「馬は優しいからな。涼州で王平将軍と手合わせをしたことがあるんだが、あれは良い騎馬隊だった。普段から馬を大切にしているからこその強さだった」
「へえ、父とやり合ったのですか」
「なんだ、王訓は王平将軍の息子だったのか。それなら早く言ってくれれば良かったのに」
「どうも父の名を借りるようで気が引けまして」
 魏も蜀も、漢人の文官など居丈高なものだと思っていたが、王訓は謙虚な男だった。自らの手で傷の手当てをしてくれ、同じ仲間だとも言ってくれた。そして自分を負かした王平の子だと知り、さらに親近感を覚えた。
「お前の父は強かったぞ。あの人が同じ戦場に立つのなら、これ程心強いものはない」
 王訓はそれに照れるように苦笑していた。
「餓何殿の御父上はどんな方なのですか」
「父は小さい時に戦で死んだ」
「そうでしたか」
「おっと、湿っぽくはならないでくれよ。俺にとっての父は迷当様だ。孤児だった俺を拾ってくれて今まで育ててくれた。騎馬隊の隊長になれたのも、ここでこうして王訓と話ができるのも、迷当様のお蔭だ。王訓にとっての王平殿と同じだな」
 何か気に障ったのか、王訓は少し困った顔をした。親の七光りだと思われるのが嫌なのだろうか。
「王訓は父上のことがあまり好きではないのか」
「そうではありません。私にとっての父は他にもいまして、昨日申し上げた叔父の王双がそうでした。叔父の首を落としたのは、実の父である王平です。叔父は魏の軍人だったのです。父のことは嫌いではありませんが、そのことは未だに許せていません」
「そうか。長安のことを知っているのは、昔は魏にいたからか」
 餓何は何と言っていいのかわからず話を少しずらした。王訓はそうですねと言ったまましばらく沈黙が続いた。触れてはいけない所に触れたのだと思って気まずくなり、餓何は少し後悔した。
「句扶殿も私にとっての父です。叔父が死んで腐りかけていた私を叩き直してくれました。蔣琬様にも様々なことを教えてもらいました」
「句扶殿には危ないところを助けられた。俺がやられそうになった時、むささびのように木から落ちてきたんだ。とにかく身のこなしが尋常ではなかった。捕らえられた敵は今頃酷い目に遭っているんだろうな」
「句扶殿はあれで優しいところがあるんですよ。これを本人の前で言うと殴られてしまいますが」
「蔣琬様はどのような人なんだ」
「国のことになれば非常に厳格です。普段は剽軽で親しみ易い御方なんですけどね。漢中の都督となられてからは、心の休まる暇がないようです」
「蔣琬様は立派だ。若くても王訓のような賢い男を使っているのだからな」
「賢くなんかはありません。蔣琬様に言われた通りのことをしているだけですから」
「それが難しいのだ」
 羌族の居住区を任されているのは、頭の固いもっと年上の爺さんだろうと想像していた。
「迷当様はきっと馬を御すのが上手いのでしょう。餓何殿を見ていてそう思いました」
「ほう、そんなことまでわかるのか。王訓の言う通り、迷当様は涼州一の馬乗りだ」
「私の父は、私に馬の乗り方一つ教えてくれませんでした。餓何殿が羨ましいという気がします」
「なら俺が教えてやろう。宕蕈殿が戻るまでまだ時間はあるだろう」
「いいんですか。私は文官なのでなかなか馬術をやる機会がなかったのです」
 餓何は返事の代わりに馬腹を蹴って手綱をしごき、王訓を中心にぐるりと一周して見せた。
「先ず肩の力を抜いて、背を猫のようにしてはいかん。背筋を伸ばして胸を張って、尻から頭の先まで鉄の棒が通っていると思うんだ」
 王訓は餓何に言われた通り背筋をぴんと伸ばした。
「これは疲れますね」
「馬に乗るには体が強くなくてはならん。騎馬兵の体を見ればよくわかる」
 そのまま馬を早足に走らせ、王訓の姿勢が崩れる度に餓何は檄を飛ばした。王訓は意外な程に従順で、時を忘れて馬を駆けさせ早足にさせるということを繰り返した。
「そろそろ帰る頃かな」
 日が落ち始めた頃には、王訓は全身を汗に濡らしていた。
「ありがとうございました。次に会う時までにもっと練習しておきます」
「王訓も涼州に来るのか」
「戦になれば、自分も随行したいと思っています。蔣琬様には止められていますが、もっと上手く馬術ができれば考えを変えてくれるかもしれません」
「そうか。なら楽しみにしておこう」
 蜀の文官に馬術を教えたということに妙な快感があり、矢傷の痛みすらどこかに置いてきたかのようだ。王訓が戦場に赴き馬を駆けさせることがあるならば、それは羌族である自分が力を貸したことになる。こうしたものの積み重ねで、羌と蜀は交誼を深めていけばいい。
 餓何が屋敷に戻るのとほぼ同時に、宕蕈と伐同も政庁から帰ってきた。二人の表情から、会談はあまり良いものではなかったのだと察することができた。
「戦になりそうですか、宕蕈殿」
 王訓が帰った伐同の屋敷で、餓何は宕蕈と向き合った。
「戦はしない。ただ、いざ戦になればどうするかという話はしてきた。その時には、お前には働いてもらわなければならん」
 宕蕈が戦を望んでいないことは知っている。迷当は魏には一度だけでも勝っておくべきだと言い、二人の考えは違う。餓何にはどちらの考えが正しいのかわからず、ただ迷当に従おうと心に決めていた。
「戦なら俺に任せておいてくださいよ」
「他に、漢中に移った羌の民五千から上がる税の取り分について話してきた」
「取り分って、税は蜀に丸々入るんじゃないんですか」
「蔣琬はそれを折半しようと言ってきた。単に作物を半分貰うわけでなく、必要な物資に換えてもいいと」
「随分と太っ腹な話じゃないですか」
「馬鹿を言え。俺は財物が欲しくて漢中に来たわけではない。羌族からの税収を無償で我々に呉れてやるということは、それで軍備をやれと暗に言われているのだ。無償なものほど恐いものはない」
「心配することはないですよ。俺も迷当様も、戦になれば必ず勝ちます」
「この世に必ずがあるものか」
「王平将軍の子の王訓と友になりました。王訓は羌を同じ仲間だと言ってくれ、俺は馬術を教えてやりました。蜀は共に戦うに十分値すると俺は思います」
「あの若造に籠絡されただけではないのか。一人が言ったからといって、全員がそう思っているわけではないのだぞ」
 餓何は宕蕈の懐疑的な言葉に辟易し、後は適当に相槌を打って聞き流した。実際に見た王訓の情の厚さはとても嘘だとは思えない。それを無下なものにしようとする宕蕈の言葉が、餓何には腹立たしかった。
 会談の内容に宕蕈は不満そうだが、餓何はそんなに悪いものだとは思わなかった。それはあえて口にしない。迷当ならこの会談をどう評価するのだろうか。自分はその迷当の評価に付き従うだけだ。


8-2
 成都からはしばしば費禕からの書簡がやってくる。
 書簡によると、今のところ宮廷に大きな問題はなく、成都周辺の領民も静かに治まっているという。慢性的に続く南方の問題を除けば後顧の憂いはないと思えた。
 諸葛亮が南蛮征伐を行ってから徴税と徴兵を課し続け、それは南蛮人の不満となって時に大小の叛乱となって噴出し、南方の地方軍の手に余れば成都から大軍を出して鎮めた。成都にいる軍にとっては数少ない実戦経験を積む機会になるため、叛乱は必ずしも悪いものではない。将校の質の見極めと、兵站の手順を確認するには丁度良い相手だった。
 蔣琬は南蛮を搾取する立場にあるだけに、国が滅びることの恐ろしさがよくわかる。反抗の力となり得る財や知識は取り上げられ、或いは破壊され、人は物として扱われる。西雍州に住む氐族も、魏からそのように扱われていた。
 国があるからこそ、その中で老いた者から若い者へと知恵と技術の伝習が行われ、何十何百年と続く継承の積み重ねが人の世をより良いものに変えていくのだ。魏が漢を潰し、前の王朝を否定するということは、それまで続いていた伝習の連なりを断つことを意味し、その新しい国の中で生きる人間はかつての知恵と技術を失い、その心はより獣に近いものになってしまう。
 国の変革によってもたらされる人間の頽廃に抗うため、劉備と諸葛亮は漢の流れを受け継ぐ国としての蜀を建国した。その蜀を生き永らえさせるためなら、知恵と技術に乏しい南蛮人が搾取に苦しもうともそれは些細なことでしかない。蜀はどんなことをしてでも滅ぼしてはならない国なのだ。
 諸葛亮が死んでから、蜀の臣は箍を失ったように権力闘争を始め、その中で蔣琬は勝ち残った。政敵だった楊儀や呉懿は、国の存在意義を理解せず、国は己の欲を満たすためのものと思っている愚か者だった。諸葛亮から正当な後継者だと認められた蔣琬は、妥協することなく彼らを粛清した。諸葛亮は彼らのような者を粛清できなかったため、大きな過ちを何度か犯し、その度に蜀は不幸に見舞われた。その二の轍を踏むわけにはいかない。
 蔣琬が漢中から軍を指揮し、宿敵の魏軍から勝利を得ることで、分裂しかけていた蜀は再びまとまりを取り戻しつつあった。成都にいる蔣琬嫌いの宦官の中には、戦はしないはずじゃなかったのかと声を上げる者もいたが、それは大きなものではなかった。いくら蔣琬を嫌おうと、漢中軍が魏軍を寄せ付けず成都の安寧が保たれればむしろそれは宦官にとって喜ばしいことなのだ。戦で消費した富も、魏軍に勝利することで獲得した氐と羌の民で十分に賄える。
 昔から、国論をまとめるには外敵を作るのが一番だった。その外敵から勝利を得るという大きな山場は越えた。これからの戦には慎重になるべきで、一度でも負けてしまえば過去の勝利は帳消しとなり、蜀はまたまとまりを失い国の瓦解を迎える危険すらある。
 戦の危険を減らすため蔣琬は、羌との同盟関係を重視した。名目上、羌は魏の属国ではあるが、魏に反感を持つ羌族は少なくない。魏に反発しているのは迷当という族長で、蔣琬は彼に目をつけ多くの物資を支援した。こうして羌が武力を持てば魏の目は羌に向かざるを得ず、それは蜀の安寧の保証に繋がる。
 しかし羌族の中には魏に従うことを良しとしている者もいて、それらの者を黙らせるためにも迷当には力を持たせなければならない。そして魏軍に勝ったという事実を作ってやるべきだった。長安を攻め落とす必要はない。羌に攻め込んできた魏の大軍を一度でも跳ね返せばいい。そうすれば羌内の魏を頼ろうという声は減り、蜀に心を傾ける者は増えるはずだ。その時に蜀は、戦に勝ち発言力を高めた迷当を羌の王として承認してやればいい。これで羌はそれまでになかった民族の意志を得ることになる。蜀に親しみを持つ迷当が王になることは蜀にとって悪いことであるはずがなく、羌族にとっても羌の代表が決まることは悪いことではない。
 かつては、涼州の名士である馬一族の馬岱を羌の王にしようと考えたことがあったが、楊儀が余計なことをしたため馬岱は西雍州で魏軍に捕まり殺された。それを思い出す度に蔣琬の胸は痛んだ。友を失ったなどという感傷的な痛みではない。蜀にとって大事なものを失ってしまった。またそれを防げなかったという悔悟の痛みだ。その悔悟は黒々とした獣となって蔣琬の心を乱し、不快感という糞を残して去ってはまた思い出したようにやってくる。嫌なものを体から追い出すため、蔣琬の体は咳をすることを欲した。悔悟の念が去来する度、蔣琬は何度も咳こんだ。
 これからの軍の方針を話し合うため、蔣琬は王平と劉敏を呼んだ。
「我々の支援により迷当はかなりの軍備を進めている。これに対し魏が何か手を打ってきそうなものだが、何か動きはないか」
 王平の騎馬隊は常に少数の斥候を蜀の外に出して長安周辺を探らせている。
「不気味なくらい動きはない。郭淮と替わった夏侯玄がどういう男なのかもわからん。一戦でも交えれば見えてくるものがあるのだが」
 魏には二つの大きな派閥があった。司馬懿派と、曹爽派だ。司馬懿派の郭淮は昨年の敗戦で長安都督の任を解かれ、曹爽派の夏侯玄が替わって任じられた。この若い文官は曹爽の傀儡であると蔣琬は見ていた。
「司馬懿が遼東での叛乱を鎮めて戻ってきています。何かあるとすればそろそろでしょう」
 言った劉敏に向かって蔣琬は頷いた。
「長安から大袋を乗せた大量の牛車が涼州に向かったらしいな。夏侯玄は軍備を進める羌をどう思っているのか、いまいち読み切れない」
「長安から兵糧を買っているのは、恐らく梁元碧という族長です。この男は蜀より魏に心を寄せ、迷当のことを快く思っていません。この男を通じて蜀と羌の連携が長安に筒抜けになっているかもしれません」
 羌と交渉をしに行った劉敏と句扶は、口を揃えて梁元碧に注意すべきと言っていた。だからといって蜀が迂闊に梁元碧に対し圧力をかけることはできない。無闇に口を出せば、羌全体から無用の反発を買ってしまいかねない。
「梁元碧を殺せと言っているのか」
「できれば」
 蔣琬は込み上げてくる咳に堪え、堪えたが耐えきれずに噎せ返ってしまい、冷めた茶で口を濯いで気を落ち着けた。梁元碧に羌軍の兵站を任せたのは、羌族の代表になりつつある迷当の意志だ。ここで蚩尤軍を使い、迷当の意志を無視して梁元碧を殺せば、羌の心は蜀から離れ魏につくだろう。そうなることを蔣琬は怖れた。
「何のために句扶殿を同行させたのですか」
「いざという時のためだ。これはまだ、いざという時ではない」
 劉敏は俯いた。
羌のことは羌に決めさせるというのが蔣琬の方針だった。部外者である蜀が嘴を挟むことで、下手をしたら一つの州が丸々蜀の敵になってしまうかもしれない。迷当への援助が、できることの精一杯だった。この前ここに来た宕蕈は、羌の移住者からの税を半分渡すと聞いただけで嫌な顔をしていた。蜀が羌の要人を暗殺し、もしそれが明るみに出るか、もしくは明るみに出ずともそういった類の噂が広まってしまえば、羌は蜀から離れて完全に魏に付くことになってしまう。
「蔣琬殿は内の者には厳しいのに、外の者には優しいのですね」
「そんなことを言うな、劉敏。楊儀を殺すのと、羌の者を殺すのとでは訳が違うではないか」
 諸葛亮の死後、蔣琬は楊儀や呉懿の他にも政敵となった者を何人か葬った。それは蜀を生き永らえさせるためには仕方のないことだった。最近では李福を処断したことも、この二人は知っている。
「王訓が羌族の移住者たちと上手くやってくれている。できればこの関係を崩したくはないのだ。羌族から上がる税で迷当を支援する道もできつつあるのだからな」
 蔣琬は王訓の名前を出すことで劉敏の言葉をいなした。王平が、少し表情を動かした。
「北伐の時、李厳が兵站を放棄したことで蜀軍は大きな痛手を受けた。魏に近しい梁元碧が羌軍の兵站を担っていることは、もう少し大きく捉えた方が良い」
 蔣琬は、わかっていると言うように頭を振った。兵站の大切さは、成都から北伐を支えた蔣琬にはよくわかっている。
「隴西に軍を置いてみてはどうだ、蔣琬」
「軍を置いてどうする」
「空白地帯になっている隴西に軍を置けば、羌はこれを圧力だと感じるはずだ。当然、こちらから羌に何かするということはしない。あくまで無言の圧力によって魏に心を寄せる者の言を封じ、迷当の後押しをする。西雍州に軍があれば、長安の動きにも迅速に対応することができる」
 雍州の西である隴西に軍を置くというのは蔣琬の頭にもあった。問題は軍の維持費だ。今や蜀と魏の緩衝地帯になっている西雍州まで兵站を繋ぎ続ければ、成都の宦官どもが何を言ってくるかわからない。
 王平らの言うことと自分の考えには違いがあり、そこに苛つきを感じて蔣琬は腕を組んだ。羌のやることにはできるだけ介入せず、自らの意志での決定を促すべきだ。梁元碧を討つのなら、それは蜀の手ではなく迷当の手でやらせたい。そうして羌が一つの国としてまとまれば、羌は蜀にとっての力強い味方になってくれるはずだ。
 苛ついている。蔣琬はそんな自分に気付いて慌てて組んだ腕を解いた。古今東西、人の心に生まれるこの種の苛つきこそがあらゆる国や組織を滅ぼしてきたことを蔣琬は知っていた。蔣琬は開いた掌で両の頬を二度叩き、改めて王平と劉敏の目を見た。
「長安が本格的な動きを見せるのはどのくらいと見る」
「半年以内だろうな。魏の意志に反して軍備を進める羌族を、長安が許し続けるはずはない」
 半年程度の維持なら、無理だということはない。蔣琬は決断し、決断することで苛つきを殺そうとした。
「これから漢中軍は速やかに編成を整え、隴西へ向かえ。駐屯の地は王平と劉敏の判断に任せよう。魏軍が動く前に先を制するのだ」
 王平と劉敏が頷いて軍営に戻って行くと、また一頻り咳が出て蔣琬は胸を押さえた。あの二人なら、明日の朝にはもう編制は終えていることだろう。蔣琬は咳に堪えつつ、部下に早く兵站を整えるよう下知した。咳が、おかしな音を立て始めていると思った。

 蜀軍に対するべきか、羌軍に対するべきかで話が割れていた。どちらかに対するかではなく、どちらにも対するべきであり、或いはどちらにも対するべきではない、と郭淮は思っていた。
軍議では必ず夏侯玄が首座につき、それを曹爽の息がかかった者が囲み、その中には夏侯覇も含まれている。司馬懿派と見做されている郭淮は長安の軍団長という立場ではあったが、どこか蚊帳の外に置かれてほとんどの発言は黙殺された。鄧艾も何か言おうとするが、吃音のせいで曹爽派からの失笑を買うばかりで相手にもされない。
この軍議も戦のようなものだ。手も足も出なければ内に籠って沈黙し、諸葛亮が攻めてきた時の司馬懿の如くひたすらに守りを固めて余計な口出しはすべきでない。郭淮は夏侯玄の軍議を拙いと思いながらも、反論はせず黙々としていた。
夏侯玄は軍議を重ねるばかりでいつまで経っても結論は出なかった。ただ、羌を攻めるという方向に傾きつつはあった。それでも決めることができないのは、都の曹爽が決めかねているからだと郭淮は読んでいた。夏侯玄は、曹爽の意のままに動く人形に過ぎないのだ。
 漢中を出た蜀軍が隴西に入ってから一月が経った。すでに雍州の西半分は魏の領土と言い難く、このままでは涼州までもが魏から脱しかねない。そうなればその責任は夏侯玄に向かい、夏侯玄が失脚すれば次は司馬懿派の誰かが都督の座に就くはずだ。それは郭淮である可能性が高い。郭淮は、蜀と羌を見ながら右往左往する曹爽派を俯瞰しているだけでよかった。
 ある日、調練が終わると、鄧艾が司馬懿の書簡を携え郭淮の居室にやってきた。郭淮は早速その書簡に目を通した。
「流石は司馬懿様だ。洛陽にいながらにして遠い西方のことをよくわかっておられる」
 書簡には、魏軍は絶対に長安から動かすなと書かれてあった。またか、とは思わない。郭淮もここは軍を動かす局面ではないと思っていた。西雍州まで出てきた蜀軍は漢中から補給を受け続けていて、その兵站線はいつまでも続くはずがない。隴西で徴発を行おうにも、徴発できるものがそもそもない。
ここは待てばいい。待ち続ければ、蜀は勝手に自分の体から血液を垂れ流し続けてくれる。
 しかしその待つことが難しかった。諸葛亮と相対した司馬懿の気持ちが今ではよくわかる。待とうとすれば、それを壊そうとするものが必ず内から湧いて出るのだ。
 洛陽の司馬懿は、涼州に出兵しろと言う曹爽を抑えている。郭淮は長安にあって、夏侯玄らが兵を出そうとするのを止めなければならない。
「あの、梁元碧、でしたか。あの者のことは、言わなくてもいいんですか」
「そのことは口外するなと言ったはずだぞ、鄧艾」
 郭淮が強く言うと、鄧艾は小さくなって頷いた。梁元碧を調略するため自ら涼州まで行ってみたが、実戦になればどう転ぶかわからない。確実性に欠ける調略を、曹爽派にあえて言うべきではない。
「蜀軍が漢中へ退いたら、速やかに軍を出す。その時の進軍路を言ってみろ」
「御意」
 鄧艾は嬉々として地図を取り出し説明を始めた。
「蜀軍が退けば涼州に攻め入ります。それで蜀軍が戻ってくるようなら軍の進路を変え、蜀軍の体勢が整わない内に決戦を挑みます。その予定戦場は……」
 鄧艾はやたらと地形に執着し、長く長安にいる郭淮ですら知らないことを調べ上げたりしていた。そして地形の話をする時は、吃りが一切消えていた。妙な男ではあるが、司馬懿が使えと寄越しただけの能力はある。昨年の戦でも、自ら兵の先頭に立ち、矢雨を凌ぎながら廖化の陣に肉薄した。はじめは煩わしく思っていた吃音も、慣れてしまえばどうということはない。
 鄧艾としばらく地図の上で駒を動かしていると、意外な人物が郭淮の居室に訪ってきた。
 夏侯覇だ。郭淮を前にした夏侯覇が、所在なさげに一礼した。
「なんだ、俺を暗殺でもしに来たか」
「何を言われますか、郭淮殿。言っていいことと悪いことがありますぞ」
 いきなりやってきた夏侯覇の出鼻を挫いてやったと思い、郭淮はほくそ笑んだ。
「冗談だ。何用か言ってみろ」
「蜀と羌のことです。幾度軍議を重ねようとも何も決まらず、郭淮殿は何も言おうとされません」
「弁舌を振るうのは武官の仕事ではない。文官の仕事だ。俺はその決定に従うだけさ」
「郭淮殿が発言をし難いところに置かれているのは解ります。だからこうして直接話を伺いに参りました」
「俺の話を聞いても仕方のないことだろう。軍人は無駄なことをするものではない」
「郭淮殿は、この危急の時に何も考えておられないのですか」
「考えているよ。今日の晩飯のこととかな」
「話にならない」
 夏侯覇は怒って足を鳴らし、郭淮は面倒臭そうに頭を掻いた。
「動くな」
「えっ」
「動くなと言っている」
 言われて夏侯覇は直立不動の姿勢をとった。
「お前がではない。魏軍は長安から動かすなと言っている」
 夏侯覇は思い違いしたことで鼻白んだ。
「では、西方の敵は無視しろと言われるのですか」
「隴西に蜀軍が徴発できるものはない。漢中からの兵站線がいつまでも続くはずもない。蜀軍が撤退するまでひたすら動かず待つのだ。鄧艾、蜀軍の兵站はいつまで保つと思うか言ってみろ」
 鄧艾が立ち上がった。
「い、い、一年は長い、です。半年以下だと短いです。半年から九か月程かと」
「そういうことだ、夏侯覇。それまで動くな」
「しかし、そこまで敵に時を与えてしまって良いものでしょうか」
「お前な」
 郭淮は夏侯覇の胸倉を掴み壁に押し付けた。部屋全体が、みしりと音を立てた。
「お前が話を聞きたいというから言ってやったんだ。敵に時を与えてしまうだと。そんなことお前からわざわざ言われなくてもわかっているわ」
「私はただ、つまらない派閥争いのためでなく、魏国のためにと思い」
「ならば聞こう。戦場で俺からの命令と夏侯玄の言うことが異なった時、お前は夏侯玄の言葉を蹴って俺の命令に従えるか」
「それは、……命令によります」
「長安の軍権は俺にあり、夏侯玄に戦の経験はない。なのにお前はそんな抜けたことを言いやがる。話にならないと言ったが、それはお前の方だ」
 郭淮が胸倉を離すと、夏侯覇はしばらく噎せこんだ。
「派閥争いはつまらないなどと言って、派閥に拘っているのはお前ではないか。俺からの話は以上だ。帰れ」
「私は、喧嘩をしに来たのではありません」
 郭淮は夏侯覇の目をじっと見た。あえて何も言わず、夏侯覇の次の言葉を待った。
「半年待つべきだと、夏侯玄に言ってみます」
「言うだけじゃだめだ。必ずそうさせろ」
 曹爽派の武官で一番有力なのは夏侯覇で、それよりも有力な武官が司馬懿派の郭淮である限り、夏侯玄は夏侯覇の言葉を無視できるはずがない。
「わかりました。魏国のためにも、半年は軍を出させません」
 郭淮は背を向けて、もう行けと言う風に手を振った。戸が開閉する音と共に、夏侯覇の気配が背後から去って行った。
「上手く言いましたな、郭淮殿。夏侯覇はう、う、上手くやってくれますかね」
「あれは愚直な男だ。やるだけのことはやるだろう。それがだめなら俺が首をかけてでも軍を止めなければならん」
 夏侯覇は曹爽派ではあるが、現実が見える男ではある。現実を見ようとせず、出世を求めて曹爽の言葉を盲目的に代弁しようとする者は夏侯覇と潰し合わせればいい。そこで潰れてしまえば、夏侯覇はそこまでの男だったということだ。


8-3
 隴西での駐屯が半年を過ぎた。魏は予想に反して軍を出さず、漢中から送られてくる兵糧がいたずらに消費され続けていた。
 成都の宦官が軍を国外に置くことに反対し、その出兵を差配している蔣琬が非難の的となっている。漢中の天険に拠って守りを固めておけばいい、というのが宦官の考えだ。蜀の国防上、羌を押さえておくことの重要性を成都の宦官は理解しておらず、それどころか蔣琬は漢中を蜀から独立させる野心を持っていると帝に吹聴する者までいるらしい。幸い、蜀の帝である劉禅はそれを信じるほど愚かではなく、蔣琬を支持する費禕や董允の言葉をよく聞いているようだ。
 それでも、半年の約束だった。その間に動くと思っていた司馬懿は動かず、進出した蜀軍を無視するように洛陽に腰を落ち着けていた。王平と劉敏の目論見ははずれた。
 それでも羌は蜀軍の接近を心強しと見たのか、或いは脅威と思ったのか、魏から離脱し蜀に付こうという気運は高まりつつあった。これを魏が無視し続けるはずがない。
 ならば、魏軍はどこで出てくるのか。
「司馬懿には完全に見透かされているのかもしれんな」
 隴西の幕舎で王平は言った。劉敏も同じことを考えていたのか、眉間に皺を寄せている。
「見透かされているとしたら、撤退時が危険です。蜀軍の撤退に合わせて長安の軍が羌に攻め入れば、蜀軍はこれを助力できるか非常に際どい」
 当然、魏軍は蜀軍が戻って来ることを計算に入れて作戦を立ててくるだろう。下手に羌を助けようとすれば蜀軍まで大打撃を与えられてしまいかねない。羌からの信頼を失うことになっても、蔣琬からの撤兵命令が来たら一直線に漢中に戻るべきだ。
 蜀軍の撤退を喜ぶのは魏軍だけでなく、成都にいる宦官も喜ぶ。戦にしろ何にしろ、宦官は富を消費することを本能的に嫌うのだ。富はこういう時に使うものではないか、と軍人の王平は思う。ここで兵站を惜しんで撤兵してしまえば羌は完全に魏のものになってしまい、そうなれば羌は蜀にとっての新たな脅威になる。遠い北方の戦線のことなど、平和な成都に暮らす宦官には理解できないことなのだろう。
「わからんものだな、劉敏。蜀は魏と争っているはずなのに、内部では蔣琬と宦官が対立している。戦とは何なのだと思ってしまう」
「魏も、曹爽派と司馬懿派で割れているようです。羌も迷当と梁元碧では立場が違いますし、人の心はどうも他人のやることに反発するようにできているのかもしれませんな」
「お前も俺のやることに反発するか」
 王平はからかうように言った。
「まさか。私は、人の心は他人に反発する、ということを知っています。だから誰かに反発しそうになれば自戒し、建設的な話をするよう心がけています」
「それを知らぬ者が争いを引き起こすと言うのか」
「誰かと反対の立場を取り、相手を屈服させる喜びは、誰の心にもある卑しさです。相手に反対したいというだけで、人は道理に合わないことを選択することができるのですから」
「蔣琬と宦官、道理に合わないことを言うのはどちらかな」
「それは、宦官でしょう」
「では魏の曹爽と司馬懿では」
「恐らく、道理は司馬懿にあると思います」
「その話だと、魏が滅びるには司馬懿が失脚し、道理に反する曹爽が力を持たねばならん、ということになるな。蜀が司馬懿の没落を願い、曹爽を支持することになれば、魏の心ある者は蜀を恨むだろうな」
「曹爽の力が強まれば、魏は弱体化します。かつての北伐で馬謖が発言力を持っていたのと同じことです」
「その話で言えば、俺たちは軍人として曹爽が力を持つことを願うべきなのだろう。だがそれは蜀の宦官に味方することと同意になりはしまいか」
「国とは厄介なものです。自国の正義を貫きたいがために他国の不義を歓迎することがあるのですから、争いは絶えないはずです。なら始めから国なんて失くしてしまえばいいかと聞かれれば、それは違うと思います」
「失くしてしまえばまた大小の国が湧くようにして出現し、乱世がまた繰り返されてしまう。国はあった方がいい。ただ、漢という国は大き過ぎた。人の手には追えない程、大き過ぎた」
「国は蜀くらいの規模が丁度良いのです。兵を強くし国を守り、その中で民は栄えていく。それでいいと思った時、あながち宦官の言うことも間違っていないかもしれないという気になるのです」
「それは恐ろしいことだ。宦官に道理があり、蔣琬に道理がなかったとする。蔣琬を支持する俺達はそれを受け入れることができるかな。それを受け入れるということは、今までの己を否定するということだ。これはなかなかに勇気が要ることだぞ」
「受け入れざるを得ないでしょう。大きな過ちが認められなければ、大きな問題が起こってしまいます」
「さっきからそこに突っ立っている王訓、お前はどう思う」
 王平が呼ぶと、気恥ずかしそうに王訓が顔を覗かせた。劉敏がそれに振り返った。
「なんだ、いるならいると言え」
「何やら込み入った話をしていたので遠慮をしておりました」
 王訓は蜀に来てから蔣琬の下で働き続け、今では漢中に移住した羌族の監督を任されている。このまま年月が経てば、王訓は蜀の中で決して小さくない権力を持つことになる。
王平は、顔にまだ青臭さの残るこの息子を少し試してやりたくなった。
「なにやらお前は羌と仲が良いらしいな。迷当と梁元碧ではどちらと組むべきだと思うか言ってみろ」
「それは、迷当様でしょう」
「当たり前のことを聞くなという顔をしているな。それでは何故、迷当と組むべきだと思う」
「餓何殿から馬の乗り方を教わり、それに感謝しています。それまで誰も教えてくれなかったことです」
 誰もとはつまり、父である王平のことを指している。王訓はこういう皮肉を言うことがあったが、王平はその度に閉口しつつ聞き流した。男がそういう女々しいことを言うべきではない。かと言って、言い返し難いことでもある。
「迷当の従僕に乗馬を教わったから、蜀は迷当と組むべきだと言うのか」
「いけませんか」
「いいはずがあるか。大局を見ずに私的な感情で自国の同盟先を決める馬鹿がどこにいる。お前も政に関わる者なら少しは頭を使って考えろ」
「父上は、梁元碧と組むべきだと言っているのですか」
「迷当と組むべきだ。しかしお前のように誰かが好きだからという理由ではない。梁元碧は魏の下に入ることで自らの選択の機会を放棄しようとしている。こんな者とは組むべきではない」
「結果は同じではありませんか」
「結果が同じならいいという話ではない。お前は自ら考えることを放棄し、蔣琬の言葉に盲目的に従っているだけだ。従う理由など、どうとでも言い繕うことはできる。だから餓何に乗馬を教わったから迷当と組むべきだなどと抜けたことが言えるのだ」
「私にどうしろと言っているのですか」
「普段から蔣琬になったつもりで考えろ。今は誰かに従っていればいい。しかしいずれ蔣琬は死に、自ら判断しなければならない時が来る。判断の力が無ければ愚かな意見に惑わされ、大きな過ちを犯すことになるだろう。それは蜀の滅びにすら繋がる恐ろしい過ちだ」
「私の判断が蜀の将来を左右するなど考えられません」
「考えられないなら、今から考えろ。それができないと言うのなら、政に関わることなど止めてしまえ」
「それは蔣琬様が許してくれません」
「そうだ。もう政に関わらないという選択はお前にはない。だからこそ自ら考えろと言っている。そして自分がこうだと思ったら、例え全ての臣が反対しようとも貫徹する強い意志と覚悟を持たなければならない。その気概を日頃から養っておくのだ」
 死んだ諸葛亮は英傑だったが、愚かな言葉に惑わされるところがあった。その惑いが馬謖や李厳の起用に繋がり、蜀に大きな不幸をもたらすことになった。先帝であった劉備に従うだけであれば、諸葛亮はあんな失敗を犯すことはなかっただろう。王訓にはそんな失敗をしてもらいたくない。
 王訓は理解しているのか、或いは理不尽なことを言われていると思っているのか、俯き床の一点を見つめているだけだった。
「まあいい。何か報告があって来たのだろう。言え」
「漢中への移住を希望する百の氐族が出発の準備を終えました。それと、蔣琬様からの書簡です。一月以内に漢中に引き上げろとのことです」
 やはり撤兵は免れなかった。ここで撤兵すれば、魏軍は十中八九出撃してくる。漢中に帰る旨を迷当に伝えれば、蜀に傾きつつあった羌の心はどれ程動揺するのか。
「お前はこれから羌に行って蜀軍の撤兵を伝えてこい。この役目には、お前のいかなる感情も交えてはならん」
「御意」
 王訓は直立して軍人のように答えた。だが目には不安を滲ませていて、その姿は軍人の真似事にしか見えなかった。
 蜀軍が退いて、魏軍が出てくれば、羌軍はその大軍を一手に受け止めなければならない。それは迷当もわかっているはずであり、撤兵するからと言ってすぐに納得するかは微妙なところだ。王訓を人質に援軍を要求してくることもあるかもしれない。それでも、王平は王訓を使者に選んだ。王訓の中になる甘さを消すには、一番厳しい所に追いやるしかない。
 護衛は部下の中から十騎を選んで同行を命じた。王訓が覚えたての馬術で涼州に向かうのを、王平は後ろから腕を組んで眺めていた。

 羌族には倦怠の色があった。蜀の使者としてやってきた王訓に冷ややかな視線を向けてくる者もいる。蜀軍が隴西に進出してから半年、涼州から目と鼻の先に駐屯することで絶えず彼らには戦の緊張を強いてきたのだ。
 迷当とその側近はさすがに嫌な顔は見せず、王訓の到来を歓迎してはくれたが、蜀軍の隴西からの撤兵を告げると迷当の側近は見る間に失望の色を浮かべたり、露骨に溜め息を吐いたりした。
「王平殿に承知したと伝えておいてくれ」
 迷当は何か言おうとする側近を押さえ、落ち着いた面持ちで言った。王訓の目にはそれが悲痛なものに見え、内心戸惑った。
「撤兵しますが、これは蜀が羌を見捨てたという意味ではありません」
「わかっている。蜀には蜀の事情があるのだろう。儂はそれを理解しているつもりだ」
「王平将軍は私の父です。私の一存では軍を動かせませんが、働きかけることはできます」
 迷当はその話題には触れようとせず、和やかな表情で王訓に労いの言葉をかけた。
 なんとかして羌を助けてやりたい。蜀が隴西へ出兵したのは、遼東を鎮めた司馬懿が次は西に来るだろうと見たからだ。しかし魏軍はいつまでも動かず、来ない客を待ち続ける蜀軍を嘲笑っているかのようだった。
 来なければいつまでも待つわけにはいかず、かと言ってこちらから長安を攻める備えもない。せめて涼州の羌軍から隴西に兵站を繋げられればいいのだが、それは羌の力を削いでしまうという理由で蔣琬は許可を出さなかった。羌軍の兵糧を管理している梁元碧が出し渋っているだけではないのか、と王訓は思っていた。
 使者に出る前に父である王平は、自分で考えろと言っていた。もし自分が司馬懿なら、蜀軍が退いた間隙を突いて長安の軍を涼州に進めて羌に楔を打っておく。そうなれば、迷当や餓何は魏の官吏によって殺されてしまうかもしれない。
 自分で考えたところで何になるのか。蜀は父である王平や蔣琬等の大人たちが物事を決め、王訓のような若者がその決定に嘴を挟むことはできない。そんな中で自分が考えても空しいだけではないか。空しいだけなら、蜀の大人たちの命令を聞いている方がいい。
 それでも、父は自分で考えろと言うのだろう。その考えるという行為が、羌への同情と何もしてやれないという自分の無力感の再確認でしかないのなら、自ら考えるという行為に一体どんな意味があるというのか。
 王訓は馬を歩かせながら頭と胸を掻き毟り、不快を取り払おうとした。あの王平という男は、自分に苦痛を与えるためにいるのではないかと時に思う。今ではもうほとんどなくなったが、王双を目の前で殺されてからしばらくの間、王訓の心は荒れに荒れた。その時の苦しみがふとした拍子に蘇ることがあり、今が正にそれだった。まるで羌に対する刑の宣告者のようなこの使者の役目は、せめて他の誰かに命じればよかったのではないか。
「王訓ではないか」
 言われて王訓は掻き毟る腕を止め、馬上での姿勢を正した。騎上の餓何が、王訓の姿を見つけて近づいてきた。
「乗馬の訓練はしているようだな」
「あれから仕事の合間に毎日一刻は乗るようにしています」
「見ていればわかる。心なしか顔つきも変わったようだ」
 餓何の息が弾んでいる。調練をしていたのか、馬も餓何も体が汗に塗れていた。
「何か苦しそうな様子だったが、どうかしたのか」
 掻き毟る姿を見られていたかと思い、王訓は愧じた。
「隴西の蜀軍が漢中に撤退することになりました。今日はそれを迷当様にお伝えにきたのです」
「そうか。ではようやく魏軍が出て来てくれるか」
 皮肉ではないと示すように、餓何は快活な笑顔を向けてきた。王訓はそれに胸を打たれたと同時に、心の中に棲む獣の蠢きを感じた。
「恐くはないのですか」
「恐くなんかないさ。人はいずれ死ぬ。それが戦で幾らか早くなるかもしれないというだけのことではないか」
「魏との戦になれば、餓何殿は死にますか」
「死ぬかもしれん。死んだとしても、意味のある死だ。そういう死に方をすればいい。例え戦を回避して長生きしても、死んだように生きるよりはましだ。ここだけの話、梁元碧がそれだ」
 言って餓何は悪戯をした子供のように笑った。
「蜀にもそういう人間はいると思います」
「どこにでもいるのだろう。俺は羌のそういう者と戦わねばならん。死んだように生きる者の声が大きくなれば、羌全体が死んでしまう。俺はそっち側にはなりたくない。死んでも、なりたくない」
 父である王平が、気概を養えと言っていた。これが気概なのだろうかと、王訓はなんとなく思った。
「私は羌を助けたい。餓何殿を殺させたくない」
「何を女々しいことを言うか、王訓。ちょっと俺の後についてこい」
「どこへ行くのですか」
「少し戦のようなことをしていこうではないか」
 言って馬を歩ませる餓何に黙ってついていった。
 ある村に入り、肉や雑貨を売る店を横目に二人は進み、一軒の家の前で下馬した。中から漂ってくる香の匂いで、ここが妓楼だとわかった。
 王訓は使者の役目を理由に断ろうとしたが、餓何は強引に王訓の手を曳いて中に入った。
「この男に一番良い女を頼む」
 餓何は番の老婆に銭を投げつけた。銭に老婆は顔を喜ばせ、手を招いて奥へ入って行った。餓何の銭は恐らく、蔣琬から迷当に贈られたものだ。妓楼に来たことがない王訓は戸惑いつつも、餓何に背中を押されるようにして老婆の後に続いた。
 一人で通された部屋に女がいた。幾らか年上で大して美しくはないが、嫌な感じのする女ではなかった。もうなるようになればいい。王訓は服を脱がされ、途中で女を制して自ら全て脱ぎ、女にされるがままになった。
やがて、果てた。それでも隆起は収まらず、次は自ら快楽を求めて女の体を抱いた。女はそれを受け止めた。嫌なものが体から抜けていき、その空いた隙間を快楽が埋めた。
 全てを終え、息を荒げて伏している女に何と言っていいかわからないまま、王訓は黙って服を着て部屋を出た。
 しばらく待っていると、餓何も出てきた。
「女との戦はどうであったか、王訓」
「戦ですか。餓何殿はおかしな言い方をする」
「戦さ。男にとっての喜びという点で何も変わらない」
「魏軍と戦うことは、女を抱くということなんですか」
「俺が、自分のことを男だと確認できる。これは大切なことだ。だから男は戦い、女を抱かねばならん」
「半分だけですが、わかるという気がします」
 餓何は半分だけという言い方が気に入ったようだった。
 窓の外の地平に陽が落ちようとしている。少し長居し過ぎた。
 老婆が焼いた肉を持ってきて、王訓と餓何はそれを貪り食った。塩が効いていて美味い。喜びを得ることはこんなに容易なはずなのに、何故命を懸けてまで戦に行こうというのか。肉を食いながら王訓はそう思ったが、口には出さなかった。戦場に立ってみたいという願望は、昔から自分にも少なからずあるのだ。
「今日はここに泊まっていくか」
 王訓は少し考え、首を横に振った。
「我が陣営に帰還します。漢中に帰り、餓何殿の戦ぶりを眺めさせてもらいますよ」
「それでいい。悲観的になることなど何もない」
 餓何は口の中のものを飛ばして笑った。戦になればもう会えないかもしれず、その笑顔にはどこか寂しげが感じられた。或いは、餓何は少しも寂しがってはいなくて、自分の弱い心が餓何を寂しげだと見ているだけなのかもしれない。


8-4
 東から西へと流れる雲がそろそろ雪を落とす季節になった。迷当は陣営内にありながらその雲を眺め、雲の上から地上を見下ろす気持ちで戦の計画を練っていた。迷当の麾下五千を中核とする羌軍二万は楡中を中心に展開し、蜀軍を後ろ盾にして魏軍の到来を待ち受けていた。しかし長安の魏軍はそれを無視して動かず、待ちわびた蜀軍は一斉に漢中へと帰ってしまった。
 それに合わせて魏軍が動いた。涼州に孤立した羌軍はその六万の兵力を一手に受けなければならず、戦を心待ちにしていた血気盛んな者共は三倍の敵に士気を阻喪させていた。迷当は、期待はできないが援軍を再度乞う使者を漢中に出した。
 羌は遊牧民族であるため漢族が持つような堅牢な城郭を持っておらず、攻められれば城郭に籠って援軍を待つといった戦い方はできない。長安を発した魏軍六万が楡中に達すれば二万の羌軍は散り散りとなり、各個に潰されてしまう。羌軍が追い散らされようとも、羌族の若い戦士たちが山野の獣が狩られるが如く殺されるのは避けたい。この者たちを残さねば、羌はこれからもずっと魏の下に置かれて子々孫々は苦渋を舐めさせられてしまう。
 光明の見えない戦が迫り、それでも羌軍二万から脱走する者は出なかった。餓何に調べさせたところ、兵を率いる各族長は蜀から援軍が来るかどうかに注目しているようだった。蜀軍が来ないとわかればどっと逃げ帰ってしまう恐れがあるということだ。
「よく憶えておけ、餓何。これが軍事を他国に頼るということだ。一見頼もしく見える二万の兵のなんと心許ないことか。それでも儂らは戦うことを止めてはならん。これは破れかぶれで言っているわけではない」
「わかります、父上。羌族の未来を守るため、私は首だけになっても魏軍に喰らいつきます」
「それでいい。我らに悪さをする者は痛い目を見るのだと、奴らに教えてやらねばならん」
 餓何は迷当が育てた勇敢な戦士で、三倍の魏軍を前にしても死を厭わず戦う。そして、死ぬ。
 餓何は生かしておきたかった。戦では人が死ぬ。つまらない者も、死んではならない者も、等しく死ぬ。餓何はこの戦で生き残り、羌を指導する者の一人になるべき男だった。
 日が昇って落ち、また昇るにつれて、魏軍が距離を詰めてくる。援軍を求めた蜀軍からの返事は、来るのか来ないのかわからない曖昧なものだった。来ないということだろう。迷当はこれを味方に秘し、しかしどこから漏れたのか蜀軍は来ないと各族長に漏れ伝わり、一つ、二つと部隊が戦場を離れ始め、二万だった羌軍は一万五千を切った。
 それに乗じるように、梁元碧がこの戦から抜けると言い出し、迷当の麾下以外への兵站を全て止めてしまった。残っていた他の部隊も、帰る口実を得たとばかりに自分の集落に帰ってしまった。
 万を超える魏軍の前衛を迎えた時には、迷当の周りからは麾下の五千以外のほとんどが戦場を去ってしまっていた。それでも迷当は戦う意思を捨てなかった。
「戦うことは難儀なことだな、餓何。逃げ去った者の中に、魏の支配に憤慨する者はたくさんいた。しかし現実はこんなものだ」
「何を弱気なことを申されますか。あのような臆病者共は始めからいなかったと思えばいいのです。私に一命を与えてくだされば、一直線に敵陣を断ち割り敵総大将の首を奪ってきましょう。それで戦は終いです」
 六万の大軍というが、魏軍は蜀軍の動きにも備えて兵を割いておかねばならず、羌に向けられた兵力は六万よりずっと少ないはずであり、二万で迎撃すれば決して無理な戦にはならなかった。しかし手勢が五千まで減ってしまえばどうしようもない。
 蜀軍が隴西を離れたのが痛かった。魏軍と戦おうという者は誰もが少なからず蜀軍の兵力をあてにしていて、このあてが消えてしまったことで戦う前から戦意を削がれてしまった。士卒の士気が下がったところを追い討つように、梁元碧が兵糧を送らないと言い出した。これが決定的になり、羌軍の二万は戦わずして壊滅した。
 この半年、魏軍の首脳はただ蜀軍の撤退を待つだけでなく、羌の族長たちにあらゆる根回しをしていたのかもしれない、と迷当は今更ながらに思った。考えてみれば、梁元碧にその気配がなかったとは言い切れない。しかし疑いをかけることで仲違いすることを迷当は恐れた。魏との戦を回避できなくなれば、誰もが武器を取って戦うだろうと漠然と信じていたのだ。
 戦を始める前から羌軍は負けていたのだと、今になってはっきりとわかる。できることなら、時を戻してやり直したい。同じことをやれば、次はもっと上手くできる。上手くできれば勝ちの芽がでてくる。今更考えても仕方のないことだった。
「それにしても梁元碧の野郎は許せません。同じ羌族だというのに、迷当様を裏切り魏軍に味方するとは」
 迷当は既にどうやって負けるかを考えていた。。軍が負けても、餓何を始めとする羌族の若い戦士たちを犬死させたくない。魏軍に負けても、この者たちさえ残れば羌という民族は生き残る。死ぬのは自分のような老いぼれだけでいい。
「餓何、お前に三千騎を与える。今から梁元碧を急襲し、首を奪ってこい」
 梁元碧を罵った餓何だったが、この命令は意外だったのか顔を強張らせた。
「迷当様はどうなさるのですか」
「儂の心配はいい。心配すべきは羌の未来だ。このままでは羌は」
 途中で迷当は口を噤んだ。戦に失敗した老人がこれ以上何を言おうと空しくなるだけではないか。失敗すれば自分が死んで責任を取り、後は生き残った者に任せればいいと考えていた。しかしどうも事はそう容易にはいかないようだ。
「ここには二千が残る。魏軍は万を越える大軍だが、大軍なだけに動きは鈍い。あれが攻めてきても涼州の北のさらに奥へと逃げ込んで徹底抗戦してやろう」
 それを聞いて安心したのか、餓何は強張った顔を緩ませ騎馬隊の指揮に向かった。
 次に、宕蕈を呼んだ。一時は戦に反対する気配を見せた宕蕈だったが、いざ戦になれば逃げることなくここまでついてきてくれた。迷当にはそれが嬉しかった。
 疲労を顔に滲ませた宕蕈がすぐにやってきた。あまり飯を食っていないのか、頬が少しこけている。
「悪いな、宕蕈殿。このような戦に付き合わせてしまって」
「自ら望んだことです。後悔はしていません」
 そう言う宕蕈の郎党もかなりの部分が逃げ去っていた。
「餓何が何やら兵を集めていたようですが」
「三千で梁元碧を討てと命じた」
「それは、いささか無茶ではありませんか。梁元碧とて何かしらの備えをしているはずですぞ」
「宕蕈殿もそれに加わってもらいたい。備えが堅く無理だと思えば退けばいい。餓何だけだと、宕蕈殿が思っているように死ぬまで戦いかねん」
 宕蕈は少し思案し、腕を組んで困った顔をした。
「迷当殿はここで死ぬおつもりですか」
 迷当は、低く笑った。改めて死ぬと言葉に出されると、死がぐっと近づいてきた気がした。
「前に言った通りだ。戦が上手くいかなければ儂が死んで後は宕蕈殿に任せる。迷惑だと思うかもしれんが」
「迷惑な話です」
「儂が死んでも餓何や若い者たちは死なせたくない。宕蕈殿に奴らの面倒を見てもらいたい」
「気は引けますが、受けざるを得ませんな」
「そうか。受けてくれるか」
 迷当は宕蕈の手を取って喜んだ。これでいつでも死ねる。
 餓何と宕蕈は早速三千を率いて陣を離れていった。彼らが戻ってくる前に、迷当は魏軍に殺されなければならない。
 魏軍から降伏を勧告する使者がきたが、迷当は丁重に追い返した。帰還した使者は羌軍本陣に二千騎しかいないことを報告しているはずだ。早く動かねば、魏軍に先手を打たれてしまう。
 日が落ちると迷当は動いた。幸い、月は出ている。涼州での戦なら地の利は羌軍にあり、目を瞑っても行軍できるくらいここらの地形は熟知している。
 夜陰に紛れ、魏軍の本陣を襲う。途中で敵兵に阻まれ敵将の首に届かなくても、羌を怒らせたらどうなるかわからせてやる。
 迷当は二千騎を率いて丘の間を縫うように進み、魏軍を側面から一望できる丘の稜線から顔を出した。陣の中は点々と松明が灯って兵は思い思いに過ごし、相手が寡兵であることに安心しきっているのか緊張の色はない。迷当は、この奇襲は成功すると確信した。
 丘の間に騎馬を隠して夜が更けきるのを待ってから、迷当は敵の本陣目掛けて馬を走らせた。
 餓何はどうしているだろうかとふと思った。今頃は梁元碧の陣を前に攻める算段を練っているところかもしれない。供に付けた宕蕈が上手くやってくれているといい。
 接敵まで一里。迷当は馬腹を蹴った。
 正面に光が見えた。それは鉄片が照り返す月の光で、稜線の向こう側からそれが何本も生えてきて前を遮った。伏兵。何故ばれたと考える前に迷当は馬首を巡らせた。後ろにも、戟。既に逃げ出せないまでに囲まれていた。
 隊長らしき男が丘の上から月を背にして現れた。
「この道から来るとはよくわかったではないか。褒めてやるぞ」
「く、来るなら、こっここしかないと思っていた」
 兵力で劣っていても地の利を生かせば一矢報えると思っていたが、甘かった。やはり、魏軍は強かったのだ。
「と、投降しろ。もう勝ち目がないことはわっわかっているはずだ」
「投稿するくらいなら鼻から喧嘩は売らん」
 迷当は剣を抜き放ち敵の隊長を目掛けて走った。それを塞いで戟が並べられた。迷当は腹の底から声を上げ、馬を翔ばせて敵兵の頭上を舞った。
 並べられた戟の向こうの暗闇から、何かが迷当の胸を貫いた。矢。鄧の旗の傍らで、敵の隊長が弓の弦を震わせていた。
 馬上から地に叩きつけられた。まだ、生きている。部下の二千騎が、魏軍の兵と戦っているのが聞こえてきた。
 せめて敵の隊長を。そう思ったが、力が出なかった。敵がまた弓を鳴らした。その鏃はは鈍い光を放ちながら、ゆっくりと体に入ってきた。

 羌から早馬が届いた。
 隴西から漢中に帰還すると、魏軍は狙いすましていたかのように迅速に動き、王平が迷当からの援軍要請を受け取った時には既に魏軍は涼州の境に到達していた。
 魏の大軍に圧迫された羌軍は散り散りになり、大した交戦のないまま迷当は討ち取られ、羌は改めて魏の支配下に置かれることになった。宦官が大きな声を上げて蜀軍を隴西から撤退させなければ羌が攻められることはなかった。羌族を仲間に引き入れ涼州を魏への橋頭堡にしようという蔣琬の戦略はこれで潰えてしまった。それも宦官という、身内の動きによって潰えた。
 涼州を平定した魏軍はそのまま西雍州にも入り、まだ残っていた氐族のほとんど全てを強制的に東へと連れていった。魏の指導者の頭にも、人頭が国の資源だという意識が強くある証拠だ。
 魏は迷当の代わりに梁元碧を担いで西州都尉に任命し、涼州の統治を委任した。伝わってくる話によると、梁元碧は集まってきた羌の軍勢に兵糧を与えず羌軍の士気を大いに下げ、兵は戦う前に四散した。郭淮辺りが事前に調略したのだろうとは容易に想像できた。劉敏は蔣琬に、梁元碧を消しておけと散々言ったが、何もしなかったことが大きく響いた。
 敗残の将となった餓何と宕蕈が、蜀を頼って漢中に逃げ落ちてきた。三千いた騎馬は追撃をうけて二千にまで減り、皆がぼろぼろの格好をしていた。
 王平はこの二千騎を漢中軍に編入し、いずれは涼州を取り戻すと餓何に言い聞かせた。故郷を失ったと目を腫らして悔しがっていた餓何は、これで幾らか元気を取り戻したようだった。
 さっそく麾下の騎馬隊と模擬戦をやらせてみると、羌兵の一人一人は強いが、集団行動が上手くできない。先ず彼らには軍の規律から徹底して教えなければならない。
「動きに精彩がないな。これでは涼州取り返すことはできんぞ」
 挑発的な言葉に餓何は怒ることなく素直に王平の言葉を聞いていた。隊長がそうなので、下々の羌兵も黙って王平の部下の言うことを聞いている。梁元碧に乗っ取られた涼州を本気で奪還したいのだろう、前にあった餓何の軽率さは全く消えていた。
「この二千騎でお前は涼州を取り返すのだ。これがいかに困難なことかわかるな」
「わかります」
 いざ魏と戦になれば、涼州の羌族とも戦うことになる。その時に餓何が何かしらの役に立つはずだ。餓何の望郷の念を利用し蜀軍のために働いてもらう。酷なようだが王平はそのつもりで餓何を使うことにした。餓何自身も恐らく、そこは理解している。
 羌族の村の方から一騎、顔を赤くさせた王訓がやってきた。
「今は調練中だ。後にしろ」
 餓何が王訓に言い放った。王訓は、懇願するような目で王平の顔を見た。
 王訓は涼州に援軍を送れなかったことを気に病んでいた。援軍を得られず孤軍となった羌軍は敗北し、友である餓何は故郷を追われてしまった。
「構わん。小休止を挟もうと思っていたところだ」
 王平は顎を動かして言った。少しだけ、この息子が何を言うのか興味があった。
「涼州に援軍を送れませんでした。これに全く何と言っていいか」
「よせ、王訓。俺達は弱いから負けたのだ。それと蜀軍と何の関係がある」
「隴西に蜀軍がいれば負けることはありませんでした。餓何殿が涼州を追われることはなく、迷当様が戦死されることもなかった」
「蜀軍が援軍に来て勝っても、それは蜀軍の勝ちであって我らの勝ちではない。それではどの道、根本的な解決にならんのだよ」
 餓何は穏やかな顔で、王訓に諭すように言った。
「迷当様は死なれた」
 餓何は呟いて天を仰いだ。まるで中空に浮かぶ迷当を探しているかのようだった。
「それは、本当に」
「だから、俺だ。俺がやらねばならんのだ。梁元碧の如き臆病者が宰領すれば、羌は魏の食い物にされ続けるだけだ。ならそれは誰かが変えていかなきゃならない。他の誰かじゃねえ。俺がやるんだ」
 意外なことを言われたと思ったのか、王訓は顔を俯けて何か言葉を探していた。
 王平は餓何を見てふと昔の自分を思い出した。魏の兵士として漢中の戦に敗れて蜀に降り、それからは洛陽に残した王歓への想いを原動力に生き続けた。そして王双と戦場で邂逅し、王歓は既に死んでいたことを知った。王平の生きようという意思は王歓が産んだもので、故郷を追われても戦い続けると決めた餓何の強い意志は迷当が産んだものだ。愛する者が既に死んでいることを知っている分、昔の自分より餓何の方が幾らか幸せなのかもしれない。
「力が無ければ、お前の言葉には何の意味もない」
 餓何が目を向けてきた。怒りの色はなく、当然だという目をしている。
「かかってこい、餓何」
 後ずさりして王訓が下がった。
 餓何は無言で棒を頭上に構え、王平も構えると二人は同時に馬腹を蹴った。丸太のような餓何の腕から振り下ろされる棒をいなして空いた横腹を打った。餓何の体が仰け反った。
「実戦なら死んでいた」
 餓何は馬上で何かぶつぶつ呟いている。
 また頭上に棒を構えて突っ込んできた。振り下ろすと見せかけ柄で突いてきた。王平は体を捻ってそれをかわし、棒を薙いで餓何の体を落馬させた。そして馬から飛んで餓何の体に抱きつき首を絞めた。餓何はぐるりと白目を剥いて気絶した。
「王訓、水を持ってこい」
 桶一杯の水がかけられると餓何は跳ね起き棒を構えたが、すぐに気絶させられたことに気付いて棒を下ろした。周囲では羌軍の二千騎が固唾を飲んで見守っている。
「三度死んだな」
「俺は、そんなに弱いですか」
「弱いとは何だ。腕力で俺を倒せなかったから弱いのか」
「死んだから、弱いです」
「その通りだ。百でも二百でもここで死ね。十分に死んだら涼州に行け。それでそうそうのことでは死ねなくなる」
「俺は戦で死ぬことを恐れていません」
「陳腐なことを言うな。生きて戦い続けることは時に死ぬより恐ろしいことだ。生きることが恐ろしく、さっさと死んで楽になりたいというのなら、今ここで自ら首を刎ねて死ね」
 餓何は項垂れた。王平は馬に乗り直し、餓何の顔を見返すことなくそこを後にした。
 餓何とのやり取りを遠くで見ていた姜維が馬を寄せてきた。
「あの二千騎を鍛えてやれ。半年で使えるところまで仕上げたい」
「任せておけ。それより、蔣琬殿がお前を呼んでいる」
 わかった、と王平は頷いた。
 姜維が調練に取り掛かり、王平は蔣琬の屋敷に向かって馬を走らせた。
魏との緩衝地帯になるはずだった涼州は魏に降り、魏の目がさらに西へと向けば蜀との戦は不可避となる。それは蜀の興廃に繋がる大きな戦だ。そのことについて一度深く話しておくべきだと思っていたところだ。
政庁への道中で裸の上半身を汗まみれにして木材を運ぶ人夫たちと行き交った。運ばれた木材は漢水のほとりで組み立てられて船になり、水上を上下し田畑の収穫を運んで漢中を潤す。異民族が入ってきてから船の増産が続けられ、今ではかなりの船が漢水に浮かんでいた。
平時には田畑の作物で満たされる船の腹は、いざ戦になれば兵を満載して漢水を下り、魏領荊州を急襲することができる。戦を嫌う宦官の目を誤魔化すため、これらの船はあくまで作物を運ぶという名目で造られていた。
造船に従事する者はこれで銭を手にし、その銭は漢中の商人が扱う物品と交換され、商人はさらなる銭を求めて南から物品を運び込んでくる。そして物が動けば税が上がる。蔣琬の手腕が漢中を豊かにさせていた。
王平は馬を繋いで蔣琬の館に入った。
「待っていたぞ、王平。まあ座れ」
 綺麗に整頓されている蔣琬の居室には、嗅ぎ慣れない妙なにおいが漂っていた。王平の様子に気付いたのか、蔣琬は思い出したように香を焚きだした。
「成都の方はどうだ。相変わらず口うるさく言ってきているのか」
「隴西から軍を退いてから大分静かになった。魏の兵力が喉元まで来ているというのに、奴らにはまるで他人事で魏の間者のようなことを言いやがる」
 言って蔣琬は痰の絡んだ咳をして、絡んだものを傍らの壺にぺっと吐いた。妙なにおいの正体はこれのようだ。
「魏軍が北から侵入してきた時の想定と備えを今からでもしておくべきだ。今の備えなら十万までは防げる。しかしそれは漢中の民草に被害を出しながらの防衛戦になる」
 豊かになり始めている漢中が荒れてしまえば、例え魏の大軍を追い返したとしても、それは勝利と言えるか際どいところだった。できれば魏軍は陽平関の外で打ち払いたい。
「それは当然、軍人のお前らにやってもらう。蜀の富を守るための軍事と言えば宦官は文句を言わんだろう。それより」
 蔣琬はくしゃくしゃになった紙切れを取り出して広げた。くしゃくしゃなのは、体のどこかに隠してここまで届けられたからだ。
「呉からの密書だ。呉軍は荊州の樊城を攻めるから援軍を寄越せと言ってきている。呉は我らが漢水を下る船を持っているのことを知っているのだ。こちらの宦官にはまだばれていないというのに、全く目聡い奴らだ」
 蔣琬は王平が文盲なのを思い出したのか、しばらく咳きこみ痰を吐いて密書をしまった。
「これはまた急な話ではないか」
「急だからこそ魏の意表を突けると考えているようだ。こっちの事情も知らずに勝手なことだ」
「同盟とはそんなものだろう」
「まあな。それで、できるか」
「あれだけの船があれば兵の輸送はできる。心配なのは兵を返し難いことだ。行きは川の流れに乗ればいい。しかし帰りは険阻な道なき道を通らねばならん。もし樊城で負けでもしたら、かなり厳しい退却戦を強いられることになる」
「負ければ漢中の兵力はごっそりと失われるか」
「荊州で負ければ今の均衡が崩れ、漢中から成都まで一気に落とされるきっかけになりかねない。これはやめておいた方がいい」
「勝ちは、望めそうにないか」
「呉軍のことがわからん。だから何とも言いようがないな」
 蔣琬は難しい顔をして咳きこんだ。蔣琬は、呉の要請に応じて攻めたがっているようだ。
「呉軍のことがわかれば援軍を出せるかもしれないということか」
 涼州での事実上の負けを挽回したいのか、折角造った大量の船を使いたいのか、どちらにしても戦を始める理由としては弱い。理由が弱ければ将兵の士気は上がらず大きな敗北を招きかねない。退路のない樊城攻めは危険すぎる。
「呉の出兵に合わせて北を攻めてみてはどうだ」
「北攻めは宦官の猛反対に遭う。呉への援軍なら理解を得られる。奴らは呉との友好関係を重視しているからな」
「呉が蜀を敵対視することを恐れているだけだろう。宦官の言うことに左右されていては戦はできんぞ」
「そうは言うな。軍事も宦官も、全てひっくるめて政治なのだ。お前の言っていることを突き詰めれば、兵を成都に向けて宦官を全て滅ぼすことになるぞ」
それでいいではないか。思ったがさすがにそれは口に出さず、王平は憮然とした顔を作って抗議した。
「呉軍の実情がわかればいいんだな」
「それがわかったからと言って出兵するとは」
 言い終わる前に蔣琬がまた激しく咳をしだし、やがて顔を赤くして壺の口を引き寄せてくわっと喀血した。勢いで血が飛び散り、王平の衣に鮮やかな赤が点々と染みをつくった。
「おい、蔣琬」
「心配するな。咳をし過ぎて喉が破れて、その傷が癖になっているだけだ」
 香のにおいに混じって血のにおいが微かに漂った。壺の中を見るとかなりの血が溜まっていて、喉が破れただけでこうもなるものかと王平は疑った。
「血はいつから吐いているんだ」
「ここ最近だよ。少し早いが、俺が死んだ後のこともそろそろ考えておくべきかもしれん」
「馬鹿なことを言うな」
 これは病だ。蔣琬もただ傷が破れただけとは思っていない。だから後継のことを口にしている。
 王平は蔣琬の従者を呼んだ。すぐに水と清潔な布が持ってこられた。蔣琬は水の器に口を当て、赤く染まったものを壺に吐き出した。
「俺が生きている内になんとか今の難局を打破したい。王平、お前の力が必要なのだ」
「わかったから、しばらくは喋らない方がいい」
「一撃でいい。魏軍に大きな痛手を負わせてやりたい。数十年は蜀に怯えて攻めてこられない程の大きな痛手だ」
 口の端から血を垂らし、蔣琬は力強い眼光を向けてきた。
「蚩尤軍を使おう。俺もこの眼で直接呉軍を見分してこよう。当面はそれでいいか」
「そうか、やる気になってくれたか」
 蔣琬が手を握ってきた。血を垂らした顔がにやついている。どうも情に乗ってしまったようだと、王平は後になって気付いた。
 蔣琬が、また苦しそうに咳きこみ始めている。


8-5
 涼州の羌族が叛乱を起こし、鎮圧された。洛陽からは長安軍への物資輸送部隊と、戦の地に金のにおいを嗅ぎつけた商人の荷車が、西方に向かって列を成していた。
 それを横目に陳泰は、二千の兵馬を鍛えていた。魏国の敵は呉と蜀だと言われているが、魏の騎馬隊は北方の騎馬民族を主たる敵と想定しておくべきだと陳泰は思っていた。北方の精強な騎馬に勝る騎馬隊をつくれば、呉や蜀の騎馬隊など目ではない。
五十年前、この街は羌族の侵略により破壊し尽くされ、その首魁であった董卓の名は未だ洛陽の人々の胸に消し難く残っている。たった五十年前のことである。しかし洛陽にいる高級軍人の多くは復興した洛陽の中で権益を得て満たされ、魏国の端で起こる戦をどこか別の国の戦だと思っているようで、陳泰にはそれが不満だった。いっそのこと破壊されたままにしておけばよかった、と思うことすらある。
 兵の調練は、常に実戦を念頭に置いてやった。他の隊は課されたことをこなしているだけでとても真剣にやっているようには見えず、逆に真剣に調練をする陳泰は彼らから白い目で見られていた。
 洛陽郊外で騎馬隊同士の模擬戦を終え、軍営に帰還し部下を整列させた。陳泰は二千騎の周りをぐるりと回って一人一人の顔を見た。厳しい調練の後だが誰も下を向いていない。兵はよく仕上がっている。
「今日は解散。たっぷり飯を食って寝ろ」
 陳泰の号令で兵は緊張を解き、それぞれ営舎の方へ戻っていった。
「おい、陳泰。ちょっと来い」
 兵に混じって帰ろうとしていると鄧颺(とうよう)に呼び止められた。先刻の模擬戦で陳泰が負かした指揮官だ。李勝も一緒にいる。
「なんでしょうか」
「いいから来い」
 言われるままに陳泰は付いて行き、鄧颺の兵がたむろする陣営に入った。一人の兵が木の板に寝かされていた。寝かされている兵は白目を剥いて口から舌をはみ出させ、既に胸を上下させていない。
「こいつは今の調練で死んだ。お前の兵が殺したのだ」
 陳泰は心の中で舌打ちした。
「その兵には気の毒ですが、本気で調練をやれば十分にあり得ることです」
「なんだと」
 鄧颺は赤くした顔を陳泰に寄せて凄み、傍にいた李勝はそれを抑えて宥めた。
「陳泰、これは調練であり実戦ではない。戦に赴く前に死んでしまう兵の気持ちもよく考えてみろ」
「ここで死ぬ兵ならば」
 実戦で真っ先に死ぬ。そう言おうとしたが、馬鹿馬鹿しくなり途中で止めて俯いた。怒りを全面にした鄧颺には何を言っても通じそうにない。
「死ぬならなんだ。お前はそういう態度が先ずいけない。父親が魏国の功臣だったからって、お前が軍内ででかい顔をできる理由にはならんのだぞ」
「私にそんなつもりはありません」
「陳泰、あまり怒らせることは言うな。鄧颺ももう落ち着け」
 鄧颺は李勝に抑えられながら肩を怒らせ鼻息を荒くさせていた。恐くなんかはない。それでも平然としていると鄧颺はさらに怒り出すので、陳泰はほどほどに恐がる振りをした。
「死んだ兵はもう戻ってこんのだぞ」
 陳泰に言っているようで、周囲の兵に聞かせているのが見え透いていた。こうやって兵の人気を稼ごうとするせこい男だ。
嵐が通り過ぎるのを待つつもりで鄧颺の怒声を一通り聞き、ようやく帰れると思ったら、詫びとして厠の掃除をしておけと李勝から耳打ちされた。これを無視すれば後日また面倒なことになるので陳泰は素直に従い、雑夫が使う粗末な鋤を手にし、鄧颺の兵が糞をする溝に腰を落とした。
 既に日は暮れていて、松明の赤い光の中で兵の目に晒されながら、臭気が立ちのぼる溝を一人でかいた。
 鄧颺が自分にこんなことをさせる理由はわかっている。普段は曹爽の力を後ろ盾に大きな顔をしているが、陳泰に負かされてしまって兵に示しがつかず、陳泰に厠の掃除をさせることで兵に自分の方が優れていると言いたいのだ。
 軍はもっと健全なところであると、子供の頃は漠然と思っていた。五年前に死んだ父の陳羣は国の官位制度を改めたことのある魏の重臣で、その名声は司馬懿や曹爽と並んでいた。洛陽軍の隊長でいられるのは父のお蔭ではあるが、親の七光りだと言われないよう軍学を修めて自らの肉体を酷使して兵馬を鍛えた。そうすることで健全な軍人の一員になろうとした。
 だが現実の軍人は陳泰が想像していたものと違い、銭を卑しく使って安泰な地位の上に胡坐をかき、下の者に威張り散らして国を顧みようとしないつまらない者ばかりだった。そういうつまらない者は不思議と決まって健全な軍人をあの手この手で潰そうとする。彼らは卑しく、しかし卑しいことが彼らにとっての普通で、その普通を脅かす健全な軍人は彼らにとっての敵でしかないのだ。
 糞に塗れて鋤を動かす陳泰を見て兵がくすくすと笑いながら通り過ぎていく。鄧颺は調練で兵が死んだことに腹を立てて厠掃除をさせているのではない。模擬戦での指揮が優れていた陳泰に恥をかかせ、俺の命令一つでこいつは厠掃除をするのだと周知させたいだけだ。上下の関係ばかり気にするという点で、これは獣とそう大差ない。
 嫌がらせは今までに何度も受けていて、以前は反抗したこともあったが、今はもう諦めて適当に従うことにしていた。見せかけは従っていても、心根まで従うつもりはない。あっち側の人間にはなりたくなかった。
 夜が更け兵が寝静まってくると陳泰は作業を中断して自分の兵舎に戻った。厩の前に一つだけ篝が焚かれていて、陳泰の姿を認めた一人の兵が走り寄ってきた。
「私のせいで隊長に恥をかかせてしまいました」
「ああ、あの兵をやったのはお前か。まあ、気にするな」
「しかし」
 陳泰が馬を繋ごうとするとその兵が率先してやった。そして水を張った桶を抱えてきた。
「せめて、隊長の足を洗わせてください」
 陳泰の足には糞尿が付いていて、所々で乾いてかさかさになっていた。
「お前、済といったか」
「はい」
 名を憶えられていたのに驚いたのか、済は顔をきょとんとさせていた。
「男に体を洗われる趣味は俺にはない。早く戻ってもう眠れ」
「私は隊長に」
「お前は普段と同じ調練をしていただけだ。何も悪くない」
 それでも済は顔を俯け、何か言葉を探していた。
「悪いと思うのなら戦場で一番に死にに行け。俺がそう命じてやる」
 陳泰が肩を叩くと、済は口を一文字に結び一礼して走って行った。
陳泰は桶の水で体を洗って寝台にごろりと横になった。おかしなことを言う者もいるが、慕ってくれる部下もいる。それでいいではないか。特におかしなことを言う者は、鄧颺や李勝を始めとする曹爽派の武官だ。軍人としての務めを果たそうとする気持ちが薄く、上官に取り入るのが上手い者ばかりで、曹爽自身はその風潮を排しようともしない。かと言って司馬懿派の武官が軒並み立派かといえばそうでもなく、陳泰の上官である胡遵は司馬師の腰巾着に過ぎない男だった。
 糞尿の臭いが漂う寝台で陳泰は寝た。どんなに臭くても香は使いたくない。鄧颺や李勝のような男にはなりたくないからだ。
 朝になり、朝餉をとって居室に戻ると調練用の具足が消えていた。陳泰は従者を呼びつけた。
「おい、俺の具足はどうした」
「それが、さっき洗濯のためだと持っていかれまして」
 従者が申し訳なさそうな顔で言った。
「なんだと。誰に何の権限があって俺の具足を勝手に持っていくのだ」
「それが、鄧颺様の命令だと言われまして」
 鄧颺の嫌がらせだ。ここに残された具足は外にかけられている糞まみれのものしかない。調練開始の時刻が迫っている。陳泰は諦め、臭気を放つ具足を身に着け調練場に向かった。部下は奇異の目で見てきたが、事情を察したのか、何も言わずいつも通りに従ってくれたのが救いだった。
「お前、何という具足をつけているのだ」
 陳泰の異変に気付いた胡遵が話しかけてきた。陳泰は事情を説明するのも馬鹿らしく、適当に苦笑いをしておいた。
「司馬懿様がお前を呼んでおられる。俺も付き添うから付いて来い」
「司馬懿様が、俺に何の用ですか」
「用件は聞かされていない。とにかく一刻も早く来いとの仰せだ」
 陳泰は部下に待機を命じ、胡遵の少し後ろについて馬を歩ませた。
「また鄧颺殿と一悶着あったらしいな」
「調練で兵を死なせました。それで厠の掃除を命じられたのです」
「糞のついた具足はそのせいか。兵を死なせるのはやり過ぎだ。お前は手加減を知らんからそんな目に遭う」
 死んだ兵と指揮官が気を抜き過ぎていた。思ったが、それは飲みこんだ。口に出しても面倒なことになるだけだ。
「司馬懿様から呼ばれたのはそのことでしょうか」
「多分、そうじゃないか。場合によっては隊長の任を解かれてしまうかもしれんぞ」
 昨日のことで叱責を受け、これからは鄧颺や胡遵のように振る舞えと言われても、それはできそうにない。任を解かれるのなら解かれてしまえばいい。
 司馬懿の居室の前で名を告げ二人で中に入った。
 肘を立てて組んだ両腕越しに司馬懿がこちらを見ていた。その傍らには息子の司馬師が侍っている。
「なんなのだその格好は」
 司馬師が顔を歪めて言った。
「すいません。これしかなかったもので」
 陳泰が体を動かすと、乾いた糞が粉になってぼろぼろと床に落ちた。何か言おうとする司馬師を、司馬懿が手で抑えた。
「構わんよ。誰かに嫌がらせでもされたか」
 言って司馬懿が笑ったので、陳泰も釣られて笑ってしまった。陳泰は、生前の父と仲が良かったこの老人が嫌いではなかった。
「私の監督不行き届きです」
「構わんと言ったのが聞こえなかったのか、胡遵。儂は陳泰だけを呼んだのに、何故お前まで来たのだ」
「それは」
 司馬師が出て行くよう顎で促すと、胡遵は一礼して逃げるように出て行った。糞で汚れた自分だけが残されて、陳泰は居所無さげな心持になった。
「つまらん軍人ばかりだと思わんか、陳泰。洛陽は特にそうだ」
 白いものが混じった口髭の中で司馬懿の口が動いている。いきなり呼び出されてこんなことを言われ、自分は何か試されているのだろうか。
「蜀軍を何度も破った司馬懿様が洛陽にはおられます。つまらないとは思いません」
「儂のことはいい。戦場で鄧颺や胡遵に死んでこいと言われたら、お前は従うことができるか」
 陳泰は何も答えなかった。
 司馬懿の背後から陽の光が柱を作って落ちている。卓の上に張り付く影と喋っているようだと陳泰は思った。
「正直な奴め。彼奴らの命令では死ねんか」
 道理を通さない者の命令で死ぬなどまっぴら御免だ。無言でそう答えたつもりだ。しかし軍には強い秩序があり、上からの命令は絶対である。やはり胡遵が言っていたように、自分はここで隊長の任を解かれてしまうのだろうか。
「司馬懿様の命令なら、また違うと思います」
「媚びるな、陳泰。媚びればお前も同じになってしまうぞ」
「媚びではありません。私は父の友であった御方に、嘘はつきません」
「言うわ、小僧」
 司馬懿が機嫌良さげにまた笑った。その様子はどうも隊長解任の話ではなさそうで、陳泰は心の底でほっとしていた。
「なら命じてやろう。ちょっとこっちに来い」
 手招きされ、陳泰は数歩前に出た。卓上には荊州の地図が広げられていて、司馬懿が動くとそこに張り付く影も左右に動いた。
 臭いのため遠慮して遠目で見ていると、もっと近くに来いと司馬懿に言われ、もう数歩前に出た。司馬師は顔を背けている。
「呉軍が荊州に数万を集め、二万の先鋒で樊城に攻め寄せている。全軍の規模はまだわかっていない」
 陳泰は糞のついた具足も忘れ、顎を突き出し地図を凝視した。西方の端には蜀領の漢中があり、五万と記されている。
「お前にはこれを撃破してもらいたい」
 ちょっと筆でも取ってくれという具合に言われ、陳泰は面食らって言葉を失った。
「どうした。嫌なのか」
「何故、鄧颺殿や胡遵殿でなく、私なのですか」
「お前が適任だと思ったからだ」
 何かが込み上げてきて、腹の底から叫びたくなった。他の並み居る馬鹿どもではなく、自分が指名されたのだ。愚かな者の中で逼塞していた日々は無駄ではなかった。昨日のことで叱責を受けると思っていた自分のなんと小さいことか。
「嫌ならいい。他に頼む」
「やります。是非、自分に行かせてください」
 興奮気味に言ってしまい、司馬師から睨みつけられた。
「そうか。行ってくれるか」
 司馬懿は洛陽の駒を一つ摘まんで荊州の手前にかつんと指した。陳泰の心の中の何かも同時に動ていた。
「よいか陳泰、この呉軍は速やかに打ち払わねばならん。樊城を抜かれずともこの攻城戦が長引けば、長引いた分だけ危うくなる」
 何故か答えてみろと目で言われた。陳泰は、地図の西端にちらりと目をやった。
「蜀軍が、動くからですか」
「左様。涼州で羌族の叛乱を鎮めたばかりの長安軍は蜀にまで手が回せん。この自由に動ける漢中軍が呉軍に加えて荊州に出現すれば魏の守りは非常に危うくなる。蜀が動く前に呉軍を潰しておかなければならんのだ」
 漢中五万が荊州に移ると考えると、陳泰の全身が粟立った。
「今すぐにでも出撃できます」
「行くのはいいが、どうやる」
「間道を通って急行し、敵の斥候より早く駆け通し、敵の虚を突いて敵将の首を狙います。もしできなければ、敵の後方に回って兵站を乱します」
「軍学通りだな」
 褒められたのか皮肉られたのかわからず陳泰は戸惑った。
「儂は速やかに呉軍を打ち払えと言ったのだ」
 司馬懿の鋭い目に気圧され、陳泰は尻を叩かれた馬のように頭を巡らせた。兵糧攻めだとどうしても時がかかってしまう。
「攻めるのが難しければ、知恵を絞って攻めるよう努めます」
「それでいい。後詰は司馬師に歩兵を連れていかせるが、これに頼ろうとするな。お前が一人でやるのだ」
「御意」
「よろしい。焦って馬を潰すなよ」
 司馬懿は最後にそう言い、老人らしいゆっくりとした挙措で奥に消えていった。陳泰は軍営に急ごうと踵を返した。
「待て。せめて具足くらいは替えていけ」
 司馬師の自室に連れて行かれ、全身の毛を逆立たせた狼の装飾がされた具足と黄色の軍袍を渡された。あまり趣味ではなかったが、断る理由もなく陳泰はそれを身に着けた。
「似合っているではないか。強そうだ」
「ありがとうございます。では、私は行きます」
 まだ何か言いたそうな司馬師を無視して陳泰は軍営に走った。早く行かねば戦の功が逃げてしまう気がした。軍営では、調練再開の号令を待って二千の騎兵が整列している。
「今日は遠出をする。帰ってこれんかもしれんが、しっかりついてこい」
 兵たちが顔を見合わせていた。陳泰が馬を走らせると、百人で一つの隊が順番に後から続いてくる。いつもの調練通りだが、これは実戦だ。必ず大きな功を立て、洛陽の俗物に自分の力を認めさせてやる。
 唐突な命令に兵馬が臆した様子なく、馬蹄の力強い轟が陳泰の行く道に尾を引いていった。


8-6
 窮屈なものから解放され、翼を得たとばかりに陳泰は馬上で逸っていた。
 洛陽から南へ伸びる街道は避けて間道を選び、二千騎を三つに分けて荊州へと南進させ、出発から二日後に樊城から東北二十里の地点に全軍が到達した。初の実戦であるにも関わらず定刻通り予定地に集まれたことで兵の士気は高まっていた。
 斥候を放ったところ、呉軍は二万を小さくまとめて城の周りを堅く囲んでいて、勢いだけの奇襲では敵将の首は奪れそうにない。せめて城内の者と連絡を取りたかった。過少な騎馬隊だけでは攻めきれそうになく、ならば敵の虚を突き城の内外から敵陣の一部を挟撃できれば勝ちの芽はある。
 陳泰は木立の中に馬を隠し、斥候の持ち帰る情報を分析して策を練った。多くの時はない。ぐずぐずして敵に発見されてしまえば洛陽から急行した意味がなくなってしまう。それで帰れば、また鄧颺たちに馬鹿にされてしまう。
 湯が沸かされている。済が薪の火をいじり、枝を組んだものに吊り下げられた鉄の小鍋がこぽこぽと音を立て始めていた。
 策はあるのだ。しかしその策では部下を死に追いやる可能性が大いにあった。今までの調練で死んで来いと命令したことはない。頭ではわかっていたが、大事な部下を死なせるのが実戦なのだと、今更ながら実感していた。
 済が湯を渡してきた。陳泰は戸惑いを悟られないようそれに口をつけた。
 洛陽出立の前日、調練中に部下が殺されたと鄧颺が怒っていた。愚かなことだと思った。彼が愚かなら、今の自分はどうなのか。戦場で部下の死を恐れるあまりに勝ちを逃すことがあれば、それは鄧颺以上に愚かなことではないか。
 陳泰は熱い湯を飲み下して済の顔を見た。鄧颺や李勝からどれだけいびられても、この部下たちは自分の味方でいてくれた。これを、殺す。それは戦に向かう心の猛りとは違うところで決めなければならないことだった。
「なあ、済」
「はい」
 戦いを前にした男の顔をしている。今の自分は、どんな顔をしているのだろうか。
「あの敵陣に夜襲をかける。それを樊城まで伝えてこい」
 一息で言っていた。戦を前にした不安は読み取られていないはずだ。しかし気付くと具足の結びを指でしきりにいじっていて、それを誤魔化すために用意していた呉軍の具足を自ら持ち出し、済に渡した。済は黙ってそれに着替え始めた。
「呉軍の斥候に紛れて敵陣に入り、何食わぬ顔で向こう側まで抜けろ。今晩、東門を城外から攻める。それに呼応しろと伝えてこい」
「御意」
 陳泰は腰を屈めて鉄鍋を傾け、済のために湯を注いでやった。済に怯えた様子なく、一礼してそれを受け取った。鄧颺のような愚かな高官と比べ、この一兵卒のなんと勇敢なことか。
 二人で湯を飲みほして馬に乗り、数人の護衛と共に敵陣を目指した。あるところにまで行くと済は一人で呉軍の陣へと向かい、陳泰らは樊城の東側が見渡せる丘に登って身を潜ませた。
 眼下に行く済は怪しまれることなく敵陣に潜入していった。多数の兵のため済を見失いそうになりながらも、陳泰は目を凝らして懸命にその後ろ姿を追った。斥候の役目を終えたと見なされた済は馬から下ろされ徒歩になり、見咎められることなく敵陣深く入って行った。
 やがて敵陣の向こうに抜けた。そのあまりの堂々っぷりに周囲の兵は済の歩く姿を不思議そうに見ているだけで、しばらく進んだところでようやく隊長格の兵に大声で呼び止められて済は走り出した。
 済に向かって矢が射られ始めた。済は左右に走って矢を避け、樊城の門まで辿り着いて門を叩いた。しかし城門の兵は警戒しているのか、なかなか門は開けられない。
「何をしている」
 陳泰は握った拳で地を打った。矢は門を叩く済の背中に射られ続けている。その内の二本が済の背中を貫いた。聞こえぬはずの済の呻きが耳に響いた気がした。そこでようやく門が開き、矢を突き立てた済の体が門の中に吸い込まれていった。
 しばらくして城内から鏑矢が上がった。陳泰の意志が城内に伝わったのだ。それを確認すると陳泰は丘を駆け下って木立に戻り、全軍に夜襲の準備を命じた。さっきまで済がいじっていた火は熾火になって、仄かに赤く燃えている。
 二度目はない。呉軍はこれからで警戒を強めて斥候の数を増やすだろう。失敗すれば、樊城から数里四方に身を隠せるところはもうない。
何か見落としたことはないかと、陳泰は一人で熾火を見つめながら何度も考えた。敵にも伏せ勢がいるのではないか。司馬師からもらった黄色の軍袍は敵からの良い的になりはしまいか。気付くと膝が揺れていて、膝頭を強く掴むことでそれを止めた。時が過ぎるのが遅かった。それでも日は傾き、夜がやってきた。
 兵が騎乗し縦列を作って木立を抜けていく。先頭で馬を進ませながら、陳泰は自分の騎馬隊をどこか客観視していた。この隊を指揮している実感がどうも薄く、馬上に揺れる体が宙に浮いているようだった。
 敵陣の篝が見えてきて陳泰は右手を上げた。十名の兵が列を離れて闇夜に紛れ、手にした銅鑼をうるさく鳴らして四方に散った。その轟音を背に陳泰は先頭で敵陣に突っ込んだ。馬止めの柵や並べられた戟はない。
「お前ら、俺の黄色い軍袍についてこい。いつもの調練通りだ」
 叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。前を見ると、驚愕する呉兵の顔が篝に照らされよく見えた。
 拍子抜けするくらい呉軍に奇襲の備えなく、陳泰の騎馬隊が駆け抜けたところから波が伝わるように混乱が広がっていった。こんなものかと思い、陳泰は喚声の中で顔を引きつらせながら笑っていた。
 やがて別方向から大きな力が現れた。樊城から味方の兵が飛び出して呉軍に襲いかかったのだ。城の内外から挟撃した所が乱戦になりかけたが呉軍はすぐに潰走を始め、逃げ惑う兵は混乱の及んでいない陣に殺到し、さらなる混乱を引き起こした。陳泰は逃げる兵の波に乗って呉軍の背を追い立てるだけでよかった。
「敵将はどこだ。首だ。首を探せ」
 勝てると分かると欲が出てきた。敵将の首を手に、堂々と凱旋して鄧颺たちの鼻を明かしてやりたい。しかし闇夜の中で敵将を見つけ出すことは容易なことではなかった。
 呉軍が篝と幕舎を残して逃げていく。陳泰はそれを数里追撃し、闇夜で道を見失う前に兵をまとめて引き返した。時が十分になかったとはいえ、事前に敵の陣構えをよく調査しておかなかったことが悔やまれた。敵将の近くには豪奢な幕舎と旗があるのだろうと漠然と思っていたが、篝の薄明かりの中でそれを探している内に敵将は雑兵に紛れて逃げ去ってしまった。
 それでも樊城の囲いを解くという目的は達成され、陳泰は後方からやって来る司馬師に伝令を出し、部下に周囲を警戒するよう命じて急いで樊城に入った。
 背中に矢を受けた済のことが気になっていた。樊城の兵に聞いて軍営に行くと、背から矢を生やしたままの済が筵の上に座らされていた。抜いてやろうと陳泰は矢に手をかけたが、近くにいた兵に止められた。
「矢は深く刺さっていて、抜けば血が噴き出してしまいます」
 さっさと門を開けてやればよかったのだ。そう言いたいのを堪え、陳泰は済の前に座ってその手を取った。
「隊長」
 額に脂汗を浮かべた済がしわがれた声で言い、一つ咳をして喀血した。
「喋るな。外の呉軍は追い払ってきた。この戦の戦功第一は、間違いなくお前だ」
 口の端から血を垂らした青白い済の顔が笑った。その目からは生の色が消えようとしている。陳泰は苦しそうに息をする済の肩を抱いた。短い呼吸の連続が短くなり、さらに短くなり、静かに絶えていった。死んですぐの体はまだ温かく、陳泰は失われていく温かみを惜しむように済の顔を寄せ、もう動かぬ肩の上で少しだけ泣いた。

 旅商人の風体で漢水を下り荊州に入った時には、既に呉軍は樊城から撤退していた。何が起こったのか手の者を使って調べたところ、数万の魏軍が突如現れ夜襲をかけたのだという。
 句扶は数万という明らかな不自然な数字を報告されたことが不満で、王平の前で手の者をきつく叱咤し、もう一度調べてくるよう命じた。
「そう怒るな、句扶。大事なところは兵力でなく、呉軍が撤退したということだ」
「少し考えれば誇大であるとわかるのに、臆面もなく報告してきました。蚩尤軍にはあってはならないことです」
 北伐の頃は、こんな間抜けな報告をしてくる者は一人としていなかった。どんな組織もいつしか腐る。蚩尤軍にもその兆候が出てきたのかもしれない。
「少数精鋭の騎馬隊による奇襲というところだろう。残念ながら、これで蔣琬の企図は立ち消えたことになるな」
「残念と言いながらほっとしているようにも見えますが」
「お前もここまで来る道の険しさを見たろう。早まって呉軍に援軍を出していれば、今頃漢中軍は退路を失った孤軍となって厳しい追撃戦を受けていたところだ。戦は他国を頼ってやるものではない」
「全く、援軍を要請しておきながらあっさりと撤退するとは不甲斐ない。これからどうしますか、兄者。ここから先は危険が増しますが」
「もう少し東へ進みたい。戦の詳細と、将が誰であったかを知っておきたい」
「樊城周辺には魏の騎馬隊が厳戒態勢を布いています。この辺にしておいた方がいいかと」
「どうしますかと聞いてきたのはお前ではないか。魏の歩哨に見咎められたら商人だと言えばいい。仮にばれたとしたら、戦勝祝いに来てやったと言ってやればいいのだ」
 そう言って進もうとする王平の手を取って止めた。王平は不満そうな顔を見せながらも素直に踵を返した。
「齢を取ってなかなか分別が良くなったではないか、句扶」
「ここで止めなければ私が付いてきた意味がなくなってしまいます」
 句扶は自分の正確な年齢を知らないが、もうすぐ四十になるはずだ。王平は既に四十を幾つか越えている。王平が言うように、長者の持つ分別が身についてきたかもしれない。だがそれは昔あった苛烈さが失われつつあるということでもあり、句扶はそれを老いだと感じていた。蚩尤軍が劣化しつつある原因は自分にあるのではないのか。
息子である句安を魏延の下に送ってから、自分の中で何かが変わっていた。不本意ながらもその変化に抗うことができず、まるで自分は漢水に押し流され角を削られていく石のようだと思えた。抗えないその変化に漠然とした不安と危機感が募り、もどかしかった。
 来た道を戻ろうとしていると、街道の向こうから五騎がこちらに駆けてきた。どうやら自分たちに用があるみたいだ。
「おっ、魏軍が来たようだな。呉軍を打ち払った将は誰であったかあいつらに聞いてみようではないか」
「おかしなことは言わないで下さいよ」
 言って句扶は懐に忍ばせた短剣に手をやった。心に変化の兆しがあっても、人を殺すための肉体はまだ老いていない。
 魏兵の五騎が、二人の前で馬を止めた。
「おい、商人。これからどこに向かう」
 黄色い軍袍を着た隊長らしい男が声をかけてきた。敵意はさほどなさそうだった。
「荊州を目指しておりましたが、戦が始まったと聞きましたので漢中に行こうとしていたところです」
「そうか。名は何と言う」
「何平です」
 王平が商人らしい笑みを作って拱手すると、黄色い軍袍の男は下馬して王平の手首を掴んだ。
「この手、商人らしくないな」
 その瞬間、句扶は短剣を持つ手に力を籠めて強い殺気を放った。男は飛びのき、他の四騎が勇み立った。
「よせ、俺は無事だ」
 王平に言われて句扶は殺気を収め、剣を抜きかけた魏兵を黄色の軍袍が止めた。兵を乗せた軍馬たちが不快そうに嘶いている。
「旅の途中で賊に襲われることがあります。だから体は日頃から幾らか鍛えております」
「そういうものか。洛陽の商人は腕が細く腹が出た者ばかりだが、行商人はそのまま軍人が務まりそうだな」
「同じ商人でもあんな奴らと一緒にされては困ります」
「それに良い従者を持っている。軍人である私が商人の従者に気圧されてしまった。全く恥ずかしいことだ」
 洛陽の世間知らずか。句扶は黙って王平の後ろに控え、じっと魏兵に目をやっていた。
「荊州での商いはいつ頃からできそうでしょうか」
「一月は待て。それで何も無ければ厳戒態勢は解かれる」
「そうですか。では一月後にまた漢中から荊州に向かいます。その時は、呉軍をいとも簡単にやっつけた魏の将軍殿と懇意になりたいものです」
 何がおかしかったのか、それを聞いた黄色の軍袍が弾けるように笑い出した。
「陳泰将軍に何平が会いたがっていたと伝えておいてやろう」
「陳泰というお名前ですか」
「そうだ。洛陽から二千の騎馬でやってきて敵陣に夜襲をかけ、城内の味方と呼応して二万の呉軍を潰走させたのだ。漢中に行ったら魏軍に陳泰ありと吹聴しておけ」
「わかりました。これは良い話の種ができました」
 黄色の軍袍は満足気な顔をして、供を従えて街道を駆け戻って行った。
「どうだ、句扶。俺自身で諜報してやったぞ」
「相手が勝手に喋っただけじゃないですか」
「そう言うな。陳泰という男、二千で二万を破るとはなかなかやるではないか。俺もそんな戦をしてみたいものだ」
 騎馬隊は突破力に優れていても防御は薄弱で、その扱いは歩兵と比べて難しい。呉軍を破った陳泰とやらは騎馬隊のことを熟知しているのだろう。
「陳泰の騎馬隊は洛陽から来たと言っていたな。とすると、陳泰を選んだのは司馬懿かもしれん。司馬懿が魏で人を選ぶようになれば厄介な将が続々と出てくるぞ」
「陳泰のことと、その背後関係を蚩尤軍で調べておきます。可能であれば消しておきますが」
「馬鹿を言え。そいつを倒すのは俺の仕事だ。それに陳泰一人を消したところで、その後ろにいる者をやらねば第二第三の陳泰が出るだけだ」
 消すなら司馬懿を消せと言われているのだろうか。
 人の上に立つ者の才は、軍事や民政にではなく、人を選ぶことに力を発揮させなければならない。かつての劉備や曹操がそうで、彼らは人を選び使うことで大きな国を建てた。
 王平や費禕や姜維を選び、楊儀や呉懿や李福を排した蔣琬は人の上に立つ者としての才はある。そして魏の司馬懿は、郭淮と鄧艾を長安に置くことで涼州を回復した。魏を潰すには、司馬懿を排除し才に乏しい者をその後釜に据えれば良い。しかし司馬懿の周囲は常に黒蜘蛛の手練れが警護していて、迂闊に手を出せば蚩尤軍といえど大損害を被りかねない。
 一方で、鼻からできないと決めつけてしまう自分に苛ついた。昔、長安に単独で潜入して夏侯楙に近付き、司馬懿を失脚させたことがある。あれをもう一度やればいいだけではないか。それができなくなったのは、子を生し蜀に居所を得たことで、ある程度の満足感を得てしまったからではないのか。齢を取って分別が良くなったという王平の言葉の意味は句扶自身が一番理解している。
 自分は一介の農夫ではなく、蚩尤軍の棟梁だ。つまらない安穏さは心の中から叩き出してやる。それができなければ、もう死ねばいい。
「兄者、ここからは私の代わりに部下がつきます。私は魏領に残ります」
「おい、俺には漢中に帰れと言って、お前は東に行くというのか」
「行き先は樊城ではありません。洛陽です」
 王平が、ほう、という顔を見せた。
「死ぬ覚悟をしたということか」
「死ぬつもりはありません。死ぬ気で働きはしますが」
 漢中がそうであるように、洛陽も黒蜘蛛の諜報網が張り巡らされていて、この蜘蛛の網にかかれば生きて帰れる保証はない。しかし危険が大きいだけに、得られる情報と奪える命の価値は高い。
「句安に何かあれば俺が面倒を見よう。後を憂うことなく行ってこい」
「あれの父親は魏延殿でいいのです。私は父になれるような男ではありませんでした」
 そう言いながらも、王平の言葉は有り難かった。自分が父である必要がないと思えるのも、王平や魏延がいてくれるからだ。
「生きて戻れ、句扶。蜀と魏はまたいずれ大きな戦をすることになるだろう。その時にお前がいてくれれば心強い」
 句扶はそれに何も言わず、口元に少し笑みを作って見せた。
 漢水沿いで王平と別れ、洛陽を目指して北へ向かった。一度決めると迷いは晴れ、体に力が漲ってきた。些細な情報はいい。狙うは、司馬懿の首一つ。蚩尤軍の全力をもってこれを果たしてみせる。


8-7
 街中の一角だけが、強烈に危険な臭いを発していた。見た目は何ら変哲がなく、住民の往来も他所と同じく普通にあるが、その一帯には常に複数の出所不明な視線が注がれていた。そしてその視線の壁の内側に、司馬懿の屋敷はあった。
 句扶は、洛陽の宿の一室で沈思していた。正面突破はとてもできそうにない。ならばどんな搦め手で攻めるべきか。じっくりと時をかけ、外堀を埋めるようにやるべきで、焦って一気呵成にやることはない。敵の懐中で時をかければ危険は増すが、危険は承知の上で来ているのだ。
 幸いにも洛陽では商いがとても盛んで、商人の姿であれば城郭内に入り込むことは難しくなく、旅をしていれば体の一部を失うことはさほど珍しくないため、眼帯をしていても特に注目されることはない。洛陽に住まう人々は銭を追うことに熱心で、句扶の潰れた左目などは興味の外にあった。
 句扶は銭を使い、危険な臭いのする一角から離れた所に小さな雑貨店を構えることにした。店番を手の者に任せて蚩尤軍の拠点とし、自身はそこに籠って手の者たちが持ち帰って来る商人たちから聞いた情報を分析した。
「南の国境で司馬懿様が呉軍を撃退したそうですよ」
「司馬懿様は蜀軍をやっつけたこともあるし、あの方がいれば洛陽での商売は安泰ですな」
「この国の東北で蜂起した賊徒も司馬懿様が討伐されたんですよ」
 洛陽の商人は司馬懿のことをとても好意的に語っていた。戦に勝ち敵の侵入を防ぐということは安全な商いを保証することに繋がり、商人の中には司馬懿を崇拝している者すらいる。商人たちがそう言うので、そこから商品を購う住民たちも何となく司馬懿は偉い人だと思っているようだ。
 この司馬懿の声望に、句扶は漠然とした違和感を覚えた。商人たちの言っていることに偽りはないが、恐らく司馬懿は意図的に自分の功績を喧伝している。黒蜘蛛の組織力を使えばそれは決して難しいことではない。洛陽の住民からの人気は、政治の場に立つ司馬懿にとっての大きな追い風となるはずだ。蔣琬はこれができなかったため、成都での人気は低く、帝に侍る宦官にいいようにやられていた。
 声望が高くなれば、それを妬む者は必ず出てくる。句扶は手の者に命じて司馬懿の活躍を苦々しく思っている者を探し出すことにした。
 司馬懿派と対立する曹爽派の臣の中でも鄧颺という者が腹を立てていると、手の者が掴んできた。この間の対呉戦で、本来なら洛陽の武官筆頭である鄧颺が派遣されるはずだったが、派閥の違いを理由に陳泰が選ばれ、戦功を横取りされたと喚いているのだという。句扶はその男に馬謖や楊儀と同じ臭いを感じた。国や組織を滅ぼす者は、皆等しく同じ臭いを発している。
「銀と象牙と南方の麻を煎じた酒を持て。その男との接触を試みる」
 句扶の呟きのような一言に手の者は反応し、必要なものが速やかに用意されていった。
 商人は洛陽でより良い条件の商いをするため、役人や文官への賂を欠かさない。その額の大きな者が、人の通りが多い場所に店を構えることができるのだ。公然とした賄賂。忍びとして、ここを突かない理由はない。
 鄧颺に面会を求めると一月待てと言われ、賂の量をさりげなく提示すると、二日後に来いという話になった。
 鄧颺の屋敷は司馬懿の屋敷から離れていて、向こうにあったような禍々しい雰囲気はなく、衛兵の顔は緩みきり、庭では呑気に女子供が壺に矢を投げて遊んでいる。それでも屋敷内の装飾品は豪壮なもので、田舎の商人がこれを見ればそれだけで胆を潰すのだろう。
 客間に通され、少し待っていると、鄧颺が音を立てて入ってきた。格好こそは立派であるが、こちらに向ける目に覇気はなく、初めて見る者を警戒する野犬そのものだと思った。
こいつは使えそうだ。
「お目通りが叶いましたことを誠に嬉しく思います、鄧颺様」
「南方からの商人だそうだな。洛陽は初めてか」
「来たことならありますが、店を構えるのはこれが初めてでございます」
 鄧颺が胡乱な目を向けてきた。商人としての懐具合と、どれだけ自分に尽くしてくれるかを測る目だ。
「今の洛陽では司馬懿殿の声望が第一のはずだ。それでも何故、私のところを選んだのか言ってみろ」
「恐れながら、司馬懿様に仕えておられる方にも使いは出しております。鄧颺様を選んだのは、曹爽様に大変近しい方だと伺ったからです」
「ふん、如才ないことだな」
 欲深い目の色をしていて且つ用心深い。保身のための用心深さを持つこの種の男は、心の底にある臆病さを焚きつけて不安を煽ってやればいい。
「御二方に物品を献上させて頂いても、この人の多い洛陽ではさらなる儲けができそうですから、惜しいことはありません」
「洛陽の商人は毎年増え続けている。商人が増えれば、客の取り合いになる。思っているほど上手くいくものではないぞ」
「その時は、また手土産を持ってここに相談に来させて頂きます。鄧颺様にとって決して悪くないものをお持ちしますよ」
 鄧颺の口元が卑しく上がった。欲深い者と親しくなるには、欲に忠実になればいい。奴らに理解できるものは、人の欲だけしかないのだ。
「何が望みか言ってみろ。生憎だが、中央通りの商店は既に埋まっているぞ」
「店の場所は求めません。鄧颺様には是非買って頂きたい品がありまして」
「買ってもらいたい品だと」
「献上させてもらった品からもおわかり頂けるように、私は南方に活動の拠点を持っておりまして、漢中にも、成都にも、小さいながら店を持っております。そこから得られる情報を、鄧颺様には買って頂きたいのです」
 蜀の情報は、蚩尤軍の防諜によりほとんど魏には入ってこないはずだ。仮に入ってきたとしても、それは黒蜘蛛によって得られたもので、司馬懿の手柄となってしまう。曹爽派の者は、蜀の情報を得る手段を欲していると句扶は読んでいた。
「情報といっても、商人ではできることに限りがあるだろう」
「情報の値は、全て鄧颺様に決めて頂きます。つまらないものしか持ってこないと思えば、銭を払わなければいいだけのことです」
 一人の商人が諜報に失敗しても、鄧颺に痛痒があるはずもない。運が良ければ司馬懿の黒蜘蛛を出しぬけるかもしれない。悪い話ではないはずだ。
「蜀の忍びを知っているか。ばれて捕まれば怖いぞ」
 句扶は内心ほくそ笑んだ。
「私は商人です。価値があり売れるものであれば、命を懸けてでも取りにいきます」
「銭のために命を懸けるか。それはいい。商人はそうでなければな」
 そう言いつつも、鄧颺は用心深げに腕を組んでいる。この商人から得られる情報が魏にとってどうかではなく、この商人と関わることで自分に不利益が被らないかを気にしている。鄧颺の声なき表情が、句扶にそう言っていた。
「司馬懿殿に近しい者にも会うと言っていたな。それは誰だ」
「陳泰という方です。屋敷に申し入れましたが、今は洛陽におらず、もうしばらくしてから帰還されると言われました」
 鄧颺の顔は動かないが、心は大きく揺れている。陳泰が手にするくらいなら自分が。この男ならそう思う。
「お前は、洛陽に来る前はどこにいた」
「漢中です」
「ならば何か情報を持っているだろう。言ってみろ」
「すぐに確証を得られるものではありませんが」
「構わん。何でも言ってみろ」
 句扶は迷う顔をして見せた。本当に迷っているわけではない。大事な銭の種である情報を出し惜しんでいる。そう思わせるための演技だ。
 句扶はゆっくり息を吸い、口を開いた。
「漢中の蔣琬は大きな病を得ていて、血を吐くことすらあるそうです。養生のため、漢中から成都へ戻るのではないかとも言われています」
「ほう」
 鄧颺の疑い深い目が初めて光った。やはり曹爽派の者たちは情報に飢えているのだ。
「先ほど申した通り、すぐに確証が得られる情報ではありません。しかしいずれわかることです」
「本当なら、それは我らにとって貴重な情報だな。少し待っておれ」
 言って鄧颺は手を叩き、家人に袋を取ってこさせた。
「今の情報への対価だ」
「銭のために申しあげたのではありません。私は、鄧颺様の信が欲しかっただけなのです」
「いいから取っておけ。お前もこれで飯を食っているのだろう」
 句扶は恭しく頭を下げ、手を捧げて袋を受け取った。
 また情報を持って来ると言い残し、句扶は屋敷を後にした。袋の中を見ると銀の粒が入っていて、それは句扶が献上した銀よりよほど少ないものだった。つまり陳泰のところに行かないよう唾をつけておくということなのだろう。司馬懿には近付けそうにないが、ここでのやりようは見えてきた。事は良い方に進んでいる。

 氐と羌の異民族を漢中に入れて三年が経った。彼らに与えた田畑から上がる収穫量は年々増加していき、北伐の時と比べて漢中は見違えて豊かになってきている。この国は、平和さえ続けば十分に豊かになれる素地を持っているのだ。
 しかし異民族の村々に問題がないわけではなく、羌族の管理を任せている王訓からはしばしば厄介な報告が上がってきていた。氐族や漢族の他種族との軋轢がそのほとんどで、慣習や価値観の違いが見えない線を引いて彼らを分け隔て、どちらか一方がその線を越えると何かしらの問題が起こるのだった。
 これでは国の中に小さな国があるようなものだ。それでも羌族と氐族の労働力は漢中の貴重な収入源となっているため、彼らを無下に扱うことはできない。羌族もそれはよくわかっていて、蔣琬との交渉役となっている伐同は、税の減免や道の舗装など、様々なことを要求してくるのだった。
「成都でいじめられて漢中に来たというのに、どこにでも面倒な者はいるものだな」
 王訓からの定期報告を受け、蔣琬はうんざりした顔で愚痴った。王訓は、蔣琬が気軽に愚痴を言える数少ない一人だ。
「餓何殿が警邏をやってくれるようになってから、羌族のいる地域はかなり安定してきました。餓何殿自身はあそこに住む羌族から嫌われているようですが」
 漢族が見廻りをしていた時はもっと反感を持たれていた。それも表立った嫌い方でなく、潜在的な嫌悪になりかけていて、蔣琬は羌族と魏の間者が結託することを恐れていた。王平が餓何に警邏を命じてくれたのは、蔣琬にとって有り難いことだった。
「伐同殿が、羌族のための城郭建設を要求しておりますが、いかがいたしましょう」
「そんなもの受けられるわけないだろう。体よく断っておけ」
「伐同殿の言い分なのですが、城郭建設となれば労働者が集まり、労働者に銭を払うことで漢中はさらに発展するだろうとのことです」
「そんなことは言われなくてもわかっている。わかった上で駄目だと言っているのだ。それに漢中の政に関しては、伐同殿からどうこう言われることではない」
 蔣琬は王訓を睨みつけて言った。羌族に肩入れし過ぎている。漢中はあくまで蜀の領土であり、羌族に利を与えるための地ではない。王訓は蔣琬の視線の意図を読み取り、俯いて聞いていた。
「羌族はまだ蜀の臣民になったとは言い難い。あの羌族たちが我らの一員になるには、少なくとも百年は要る。政とは、そこまで考えてやらねばならんのだ」
「羌族は田畑でよく働き、蜀の力となってくれています」
「富を生めば良いというものではない。そんな考えをしていると、お前もいずれ宦官のようになってしまうぞ」
 王訓が、また俯いた。
「お前は、俺の病のことを知っているな」
「はい」
「百年どころか、俺の体はあと十年も保たん。それでも十年でも百年でも先のことを考えるのが為政者だ。属す所が違う人間を一つにまとめるには、長い年月をかけ、血と価値観をゆっくりと混ぜ合わせなければならん。古い者が死に、新しい者が生まれることでそれは成されていくのだ。政を為す者が目先の富ばかりを見ていれば、何百年経とうと国と国の争いが終わることはない。お前はそのようになってはいかん」
「私は、羌族と上手くやっております」
「お前一人だけが仲良くなっても仕方がなかろう。万を越える人々がそうなろうとすれば、長い時が必要なのだ」
 今は亡き漢という国には四百年という長い時の積み重ねがあり、積み重ねられた時に触れることで人々は叡智を身に着けることができた。そんな長く続いた漢でも、一度崩れが始まると早かった。国が崩れても時は容赦なく流れ続け、それまで蓄えられてきた叡智の多くは、崩れたところから流れるままに流れ去ってしまった。
 ほとんどの人々がそれを指をくわえて見ているだけだった。劉備や諸葛亮は、その流れに抗おうとした数少ない人たちで、その意思は蔣琬に受け継がれた。本当は受け継ぎたくはなかったが、誰かがやらねばならないことだった。
「俺の言ったことは忘れるな」
「はい」
 蔣琬は咽の奥が乾くのを感じて咳をし、ほとんど反射的に口を手で覆った。鼻の奥に少しつんとしたものを感じたが、手に血はついていなかった。その手を見せると、王訓は顔をほっとさせていた。
 もう行け、と蔣琬は手を振り、王訓は一礼して出て行った。
 血が出ずとも体が蝕まれ続けているという自覚はある。もう短い命なら、蜀などどうにでもなってしまえと、時に心の片隅で思ってしまうのだ。そう思いきれないのは、権力にぶら下がるばかりで国を顧みない者たちをたくさん見てきたからだ。あちら側の人間には、死んでもなりたくはない。
 数日後、荊州から帰ってきた王平と会った。
 前から言われていた通り、漢中から荊州に行く道は兵を通すのに困難な山河が多く、この道を取って魏に攻め込むことが如何に難しいかを王平は具体的に語った。
「戦を想定するなら、やはり北か」
「東へ進めないということは、東からは攻められないということだ。我らはあくまで長安の軍を仮想敵として軍略を練るべきだ」
 諸葛亮の時からそうしてきた。その結果が、漢中から一歩も出られていないという現実だった。国力差がありながらも国を維持し続けているという見方もできるが、これがいつまでも続くとは誰も思っていない。蜀に住む人々からこの種の不安を取り除くことができなくて、何のための為政者か。
「帰路で別れた句扶が珍しく熱くなっていたぞ。洛陽で大きな戦果を出してくると言っていた」
「蚩尤軍からの報せは届いている。俺の病状すら調略の道具に使わせてくれと言ってきたよ。好きにしろと返事をしておいたが」
「北伐が終わってからのここ数年、あいつは退屈そうにしていた。久しぶりの大仕事で張り切っているんだろう」
 最近の蚩尤軍には細々とした防諜や暗殺を命じるだけで、魏軍に何か仕掛けるといった大きな仕事は与えてこなかった。飼い殺しにされていると感じていたのかもしれない。諸葛亮が生きていれば、蚩尤軍はもっと上手く使われていただろうという気がする。
「王平、お前は蜀が好きか」
「なんだ、急に」
 蔣琬の体は落ち着いている。今なら長話をしても耐えられそうだった。
「俺は蜀が好きだ。漢を亡ぼした魏に、唯一鉄槌を下してやれるのが、この蜀という国なのだと思っている」
 呉軍と組んででも魏と戦をしようとしたのは、蜀は魏を倒す国なのだと天下に示したかったからだ。
 王平は掌で口を抑えた立て肘の姿勢で蔣琬の言葉に耳を傾けている。
「蜀は政によって豊かになっても、この国に住む者の気概はだんだんと失われてきているという気がする。これでは俺が死んだ後に蜀は亡びてしまうのではないかと思うのだ。これでは死んでも死にきれん」
「国を亡ぼしたくなければどうするべきか、お前はよくわかっているはずだ」
「ああ、わかっているさ」
 それは戦いに勝つことだ。勝って生き延びれば、国が亡びることはない。言うだけなら単純なことだった。
「戦をやれ、蔣琬。呉なんぞに頼らずとも、俺が勝ってきてやる」
「百年とは言わん。向こう五十年、蜀に手を出せば痛い目を見るのだと魏に教えてやりたい」
「いいだろう。お前がその気なら血を流してやる。お前にも、文字通り血を吐いてもらう。もっとも俺は字を読めんがな」
「俺が読んでやるさ」
 王平がそれに笑った。句扶が洛陽に潜入し、王平がやる気を見せている。あとは自分が決断すればいいだけだ。
 蔣琬は椅子に背を預けて天井を仰ぎ見た。
「策を聞かせてくれ」
「今まで通りのやり方では跳ね返されてしまうだけだ。魏に深手を負わせるには、蜀にも血を流してもらわねばならん。魏を誘い、この漢中を攻めさせるのだ」
 その考えは蔣琬の中にもあった。諸葛亮の時から、何度も魏領に攻め込み、その度に跳ね返され続けてきた。同じやり方を繰り返していれば、いずれ蜀は国力の差で負けてしまう。
「国土が荒れるな」
「漢中の田畑は踏み荒らされ、民は逃げる。それが嫌だと言うのなら止めておけ」
「意地の悪い言い方をするな」
「俺たちが血を流すのだ。それで将来の禍根を断つ。国はこの連続で生き永らえ、この連続が失われれば亡びるのだ」
 漢はそのようにして亡びた。当時の宦官や外戚は、我欲を満たせる者を賢い者とし、己の血を流す者を馬鹿にしていた。蜀をそのような国にはしたくない。
「しかし、勝てるか」
「十年前の戦で、蜀軍は多方面から攻めてくる魏軍を防いだ。あれをもう一度やればいい。あれから比べれば、漢中の備えはさらに厚いものになっている。問題はどうやって魏軍を誘い込むかだ」
「それは俺に任せておけ。蚩尤軍を使う。どこにでも馬謖のような者はいるものだろう。当然、魏軍の中にもそれはいる」
 王平は苦笑した。第一次北伐で、馬謖は諸葛亮の命令を破り魏軍に大敗した。あれが馬謖でなく他の優秀な者であればという思いは、誰の胸にもあることだった。
「また司馬懿が出て来なければいいが」
「出て来ないさ。優れた武将であれば、守りを万全にした今の漢中を攻めようとは思わん。もし魏軍がここに攻めてきたとしたら、その軍は阿呆によって率いられているということだ。そんな奴に俺は負けん」
「羌族がまた城郭を造れと言ってくるな」
「それはお前の戦いではないか」
「そうだな」
 文官の戦いは王平にはできそうにない。それを思うことで蔣琬は自分を慰めた。戦に勝つには、戦の邪魔をしてくる者を排除せねばならず、それは蔣琬がやるべきことだった。王平が戦をやり易くするためにも、厄介なものはできるだけ取り除いておきたい。
「今日は咳が少ないな。体の調子は良いのか」
「今は悪くないが、直にまた血を吐く。良い時と悪い時が繰り返して来るのだ」
「この前、いきなり血を吐かれた時はさすがに驚いたぞ」
「驚くことはない。体の中のものが、少し外に出たというだけのことだ」
「それにしては弱気になっているように見えるが」
 気強く振る舞っても、もう長くなったこの友はどこまでも見透かしてくる。
「俺は焦っているのかもしれん。いや、焦っているな。王訓の前では百年後まで考えて政はすべきなどと言っているが、それは自分に対して言っていただけなのかもしれん」
 いかに心を強く保とうとしても、血を吐いただけ心が弱くなった。この弱った心が、いつか大きな誤った判断をしてしまうのではないか。
「今は悪くないのだな」
「まあな」
「じゃあ、山に行ってみないか。俺がつれていってやろう」
「山だと」
「蔣斌たちのところだ。体が悪くなってしまう前に、息子の顔を見ておけ」
 その言葉に蔣琬は揺らいだ。行ってみたいという気持ちは今までにもあった。しかし行けるはずもなく、その希望を誰かに言うことすら許されない。息子の蔣斌は、大きな軍規違反を犯し、罪人として蜀を追放されたのだ。追放したのは、父である自分だった。
「なに、心配するな。ほんの数日ここを空けるだけだ」
「成都の宦官に知られてしまえば、奴らは喜んで文句を言ってくるだろうな」
「そこは上手くやるさ。俺だって、昔は忍び働きをしていたのだぞ」
 以前なら絶対になかったことだが、行ってもいいかという気になってきた。思い返してみれば、自分の体が悪くなったのは、蔣斌に追放処分を下してからだ。山深く足を運び、蔣斌に頭を下げれば、案外この病は治ってしまうのではないか。
「王平、山奥の蔣斌の住み家までの護衛を命じる。誰にも悟られないよう隠密にやれ」
 王平が、満面の笑みで返事をした。


8-8
 罠の麻紐がぴんと張りつめていた。左後ろの足を絡み取られ自由を奪われた猪は怒りのままに辺りの土を激しく掘り返し、近くの木の根は剥きだしになって落葉や草は黒土に塗り潰されていた。かなり編み込んだ麻紐が頼りなさげに見えるくらいの大きな獲物だ。
 蔣斌は棒の先に小刀を括りつけた槍を構えて前に出て、怒りで木々をざわめかせる猪の正面に立った。猪は勢いをつけて突っ込もうとするも、麻紐のせいであと一歩のところで届かない。紐が切れれば殺される。それでも、足が震えることはなかった。
 牙を見せつけて咆哮する猪の額一点を、蔣斌は胸の鼓動を聞きながらじっと見つめた。
 一歩。猪の届くところに踏み込んだ。猪は警戒して後ずさった。もう一歩。
 猪が、泡を飛ばして突っ込んできた。胸の鼓動に乱れはない。一点、そこに小刀の切っ先を置けばいい。蔣斌は息を吐き、力を籠めて槍を前に出した。
 息を吸った時には、身を細かく震わせた猪が足下に転がっていた。それを見ていた句安が木から降りて来て、まだ動いている猪の胸に刃を刺して引き抜いた。
「さすが蔣斌兄、見てるこっちの胆が潰れそうだったぜ」
「ちゃんと血が流れているか確認しとけよ。これだけの肉が臭くなったら大変だぞ」
「わかってるって」
 蔣斌は額に浮かんだ汗の玉を拭い、猪の足にかかった麻紐を枝にかけて力一杯引いた。中空に持ち上げられた猪の胸から流れたものが、掘り返された地面に吸われていく。来年はここからまた草が生えてくるのだろう。句安は、流れるその血を小指につけて、舌でぺろりと舐めていた。
 全身の毛に泥を絡ませた猪の巨体を二人で担ぎ上げ、蔣斌と句安は一度も休まず住処の幕舎まで持ち帰った。休むより、早くこの猪を肉にして食べたかった。
「腹が減った。腹が減った」
「うるさいぞ、句安。早く薪を用意してこい」
「薪を割ろう。薪を割ろう」
 茶化すように言う句安に拳を振り上げると、句安は楽しげに駆けだして行き、すぐに薪を割る小気味の良い音が聞こえてきた。
 蔣斌は魏延がいる幕舎に入り、狩りから戻ったことを告げた。
「大きな猪が罠にかかっていました。かなりの肉が取れそうです」
「そうか、なら俺も手伝おう」
「あまり無理はなさらないで下さい。捌くのは私がやりますので」
「俺を年寄扱いするな、馬鹿者」
 鳥獣の血で切れ味が悪くなった山刀を手にして、壁にかかった幾つかの弓を揺らしながら魏延は外に出た。この二年で魏延の頭にはかなり白いものが増え、隆々としていた筋骨は痩せ細り、往年の軍団長だった面影はもう消えていた。病ではないかと言うと、これが普通だと魏延は言い張り、蔣斌はその頑固さに困りながらも魏延の体を気遣った。
「この猪、血抜きの傷は別として、頭以外に傷がないな。一撃で仕留めたのか」
 泥がたっぷりとついた皮を二人で剥ぎながら、魏延が聞いてきた。
「頭を深く突きました。それで、こいつは動かなくなりました」
「はずせば大変なことになっていたろう」
「当てればいいのです。猪と対峙した時は夢中で、自信があったかどうかは自分でもわかりませんが」
「それを自信が無いと言うのだ。全く、無茶をする」
 剥ぎ終わった毛皮を広げ、魏延はその大きさに改めて呆れていた。
 自信があるかわからないと言ったが、何となくできる気はしていた。狙った一点を正確に突く。それは木で作った的や、他の小動物にはできることだった。巨大な猪を前にしても同じことをすればいい。それができないのは、怖れに負けた時だ。
 様々な怖れを抱えたことで、蔣斌は過ちを犯した。それはここに来るずっと前の出来事で、琳の顔も自分を馬鹿にしてきた兵のことも、軍紀違反で父から追放されたことも、既に遠い記憶となっていた。父のことは恨んでいない。怖れにより過ちを犯す者は、それが例え自分であっても、苦しみや悲しみと共に淘汰されてしまえばいい。
 句安が薪を右腕で抱くようにして持ってきた。
「火を入れていいですか」
「いいぞ、張り切って火を大きくし過ぎるなよ」
 句安が逸って太い右腕で火を熾し始めた。
 ここでの薪割りは専ら句安の仕事で、手斧を振るう句安の右腕は左に比べて異様に盛り上がっていて、その太さは年齢が倍の蔣斌とほとんど変わらない。漢中にいた時から薪割りはよくやっていたらしく、上手くやるので蔣斌が褒めるとそれからずっとやりたがり、去年は三人では使いきれない程の薪が土で固めた屋根付き倉に積み上げられた。無駄に木を伐るなと魏延から怒られ、ようやく止めたのだった。
 小さく切り分けた猪肉を手頃な枝に刺し、息を吹きかけて大きくした炎に立てかけた。肉が焼けるまで、三人は他の肉に塩を擦り込み干し肉を作る準備をした。火がぱちぱちと、美味そうな音を立てている。
 森の向こうで何かが動き、蔣斌と句安は顔を上げた。群れからはぐれた鹿だろうか。しかしその気配はどんどんこちらに近付いてくる。
句安が毛を逆立たせた猫のように手斧を構えた。それに害意は感じられなかったため、蔣斌は句安を手で制した。魏延は向こうをちらりと見ただけで、いつもと同じ様子で肉を揉み続けている。
 気配が、姿を見せた。
「久しいな、蔣斌。元気にしていたか。隣にいるのは句安だな」
「お久しぶりです、王平殿。こいつが句安です」
 蔣斌の様子を見て句安が警戒の色を消した。なんで自分の名前を知っているのかという顔をしている。
その後ろに、もう一つ気配があった。
 蔣琬。平気な顔をしている王平とは対称的に息を切らし、もう歩けないとばかりに地に伏せた。
 蔣斌は何も言わずに器に水を取りに行き、息を乱している蔣琬に渡した。蔣琬も何も言わず、それを一息に飲み干した。
「お前の顔を見たら、何と言おうかと迷っていた。しかしここまで疲れると、そんなことはどうでもよくなってしまった」
 言葉が出てこない代わりに笑いが込み上げてきた。同時に、目が濡れてきた。蔣斌は涙を隠すため、腹を抱えて笑って見せた。
「何がそんなにおかしいんだい、蔣斌兄」
「なんでもない、なんでもないよ」
 蔣斌は句安に手を振りながら背を向けた。
「俺達の肉を喰らいに来たか、蔣琬。相変わらず良い身分ではないか」
「すまん、魏延殿。私はすっかり腹が減ってしまった」
「気にするな。俺も今やお前の息子に食わせてもらっている身だ」
 大人が二人、会話をしている。森にあった静かな世界が一気に破られた気がした。なんでこの人がここに来たのかは俄かにわからないし、敢えて聞こうとも思わない。ただ父がここまで来てくれたことは、単純に嬉しいことだと思えた。
「酷いではないか、蔣斌。俺には水を呉れんのか」
 気付くと近くに立っていた王平が言い、魏延と蔣琬が笑った。風でざわつく周りの木々も笑っているような気がした。

 音を立てる赤い光が蔣琬の気を落ち着かせ、もう眠ってしまいたくなるのを、猪肉を焼く煙の匂いが妨げた。王平と魏延の三人で火を囲み、蔣琬は漢中の政庁内ではあり得ない行儀の悪さで地に腰を下ろしていた。乱れた衣服から陰部がはみ出てしまったようで、それを見た句安が爆笑して魏延にぶん殴られていた。蔣斌は視界の端で黙々と猪肉を処理している。
「ここはいい。宦官も魏も民衆も、煩わしいものは何もない」
「だから誘ったんだ。なのにお前ときたら、道中文句ばかり言いおって」
「俺は病人だぞ」
 漢中を出て半日も経たない内に、蔣琬は道の険しさに後悔した。一室に籠り碌に体を動かしてこなかったせいで、体中が軋んで足の裏では血豆が破れ、到着地点までの道のりが先の見えない洞窟のように永遠に続いていると感じられた。王平が言うにはいつもの半分以下の速さで、一日で来られるところを、三日かけてようやくここまで辿り着いた。
「病を得たのか、蔣琬」
 蔣琬は姿勢を少し正して魏延の方へ体を向けた。
「少しばかり血を吐きます。後十年は、厳しいかもしれません」
「そんなに悪いのか。よくここまで来られたものだ」
「魏延殿にはもう、青瓢箪とは呼ばれたくないですから」
「懐かしいことを言ってくれる」
 若い時、戦が下手な蔣琬は魏延に何度か助けられたことがある。まだ蜀を建国する前のことで、あの頃は一国の宰相になることに憧れていた。実際なってしまった名ばかりの大将軍は、想像していたものと全く違った面倒なもので、これなら農夫にでもなっておくのだったと蔣琬は本気で後悔するのだった。
「魏延殿も大分痩せられましたな」
「俺の体ももう古い。飯を食うと、食ったものが腹の中で何かに当たるのだ。これが破れれば俺は死ぬのだと思う」
「そうでしたか」
 死ぬ話をしているというのに、悲愴さは欠片もない。それが不自然なことだとも思わなかった。
「お互いに年を食ったということだ。王平だけ元気なのが羨ましい」
「俺も戦場でいつ死ぬかわかりませんよ」
 焼きあがった肉を、句安と蔣斌が持ってきた。句安は我慢できず先に食べたらしく口の周りを脂でべとべとにしていて、魏延にまた怒られていた。
「これは旨そうだ」
 蔣琬は、蔣斌から受け取った肉の串をまじまじと見た。
「おい、蔣斌。お前の親父はもうすぐ死ぬらしいぞ」
「えっ」
 何でもないように魏延が言い、蔣斌が驚いた顔をこちらに向けてきた。
「魏延殿」
「いいのだ、王平。ここは漢中や成都の政庁ではない。お前らは何でも政治で考えるからそうやって黙ろうとする。もうすぐくたばりそうだからここに来たのだろう。なら、それくらい教えておいてやれ」
 魏延が憤然と肉に齧りつきながら言った。魏延は、昔から文官のことが嫌いだった。
言い難かったことをあっさりと言われ、次の言葉を誤魔化すために蔣琬も肉を口に入れた。遠火でじっくり焼かれた猪肉は柔らかく、しっかりと肉汁を含んでいて、塩をしなくても十分に旨かった。
「ここではいつもこんなものを食っているのか、蔣斌」
 蔣斌が弾かれたように顔を上げた。
「こんな獲物は滅多に獲れません。いつもは兎や鹿を獲って食います。あとは、野草とか」
「良い暮らしじゃないか」
「そうですね。父上に追放されたことに感謝しているくらいです」
「言うわ」
 皮肉を言われたことより、父上と呼ばれたことが耳に残って何故か狼狽してしまい、蔣琬は顔を空に向けた。他に何か言おうとしたが何も思い浮かばず、もう一度肉に齧りついた。蔣斌も何も言ってこない。でも、それでよかった。
 今晩はここに一泊し、翌早朝に出立する。
 三人が住処にしている幕舎は魏延がここに来る時に持ってきたもので、既に色んなところが痛んでいて、苔や植物の蔦に浸食されるままになっている。ここで魏延はもう少し生きた後で死に、この幕舎の様に森の一部になっていくのだろう。そんな死に方ができる魏延が、羨ましく思えた。
 肉で腹を満たすと、体が疲労していたためすぐに眠りに落ち、目が覚めた時には深夜になっていた。魏延ら三人は幕舎内でぐっすりと眠っていて、王平の姿だけ見えなかった。眠りに消費した時は惜しくはない。起きていたとしても、どうせ大した会話はなかったろう。
 蔣琬は小便をしようと幕舎から出た。
 雲が無い。木々が開いたこの場所は月の光の受け皿となっていて、夜空を見上げると星が瞬き、その内の一個が流れていくのが見えた。
 月の光の中に、王平の姿があった。こちらに向けた背中が大きい。昔から、俺はこんな軍人になりたかったのだ。そう思っても、もう仕方がないことだ。
「お前は眠らんのか、王平」
「見張りだ。何せ蜀の要人がここに宿泊しているのだからな。ここまでつけられている可能性が無いとは言い切れん」
 振り向いた王平が肩越しに言った。
「こんな所にまで来て蜀の話は止そう。それに間者につけられていたとしても、ここで一緒に肉を食おうと誘えば許されるという気がする」
 蔣琬は木の影に行って小便をした。漢中の政庁では厠に行くのを面倒に感じることがあったが、ここの星空の下での放尿は十分に楽しみの一つに成り得る。
「帰ろう、漢中へ。ここでの俺の用は済んだ」
「今からか」
「そう、今からだ。食って寝たから体は動く」
 このまま月が隠れて朝が来て、蔣斌が起き出して来たら別れ際に何と言っていいかわからない。王平が、仕方がないと言うように笑った。
 幕舎を覗くと、寝相の悪い句安と折り重なるようにして、蔣斌は寝息を立てていた。
 ずっとここにいたいという気持ちに後ろ髪を引かれながら、蔣琬は王平の先導で月の光が溜まるその場所を後にした。光の少ない森の中を進むのは大変で、すぐに息が切れてきた。しかし不思議としばらく咳が出ていない。蔣斌に会ったことで、本当に治ってしまったのだろうか。
 心配そうに振り返る王平の後を追って手足を動かし前に進み、来た時より早い二日で漢中の街に着いた。別世界からの帰還だが、帰ってきたという気持ちは希薄だった。あそこに降り注いでいた月の光は、ここまで届いてきそうにない。
 この五日間で溜まった書類に目を通し、必要な決定事項に認可を出した。中には対魏戦に直接関係ある事案もある。
これまでにない量の血を吐いたのは、それから二日後のことだった。

 鄧颺の屋敷から呼び出しを受けた。前に商人として鄧颺の屋敷を訪ねてから一月が経とうとしていた時で、挨拶代わりに渡した蔣琬が病だという情報の信憑性がそろそろ明らかになる頃合いだった。
 句扶はこの一月、黒蜘蛛の目を避けるためできるだけ店から出ずに情報を集めていた。洛陽内はもっと厳戒で動き難いだろうと想像していたがそれ程でもなく、何故かと思って調べてみると、商人が不安がるからという理由で曹爽派の臣が警備を緩くすべきと主張し、それで黒蜘蛛は行動に制限を受けているようだった。名目は商人たちへの配慮となっているが、その実は司馬懿の力を弱めるための手段としか思えない。政敵を攻めることで外敵に利を与えていることに気付かず、或いは気付いていても素知らぬ顔をしている。愚かなことだがこれが世の常であり、だからこそ忍びの存在が成立する。司馬懿や司馬懿派の臣たちは、曹爽派の愚かさに歯噛みしていることだろう。
 洛陽の城郭内は司馬懿派と曹爽派の縄張りが明確に色分けされており、曹爽派の縄張りの中に黒蜘蛛はおらず、蚩尤軍は自由に動くことができた。司馬懿派の縄張りには踏み入らないよう、手の者には通達してある。
 漢中の蔣琬から、魏軍に漢中を攻めさせろという指令が届き、句扶は洛陽での活動方針を転換した。司馬懿を暗殺するつもりで洛陽に来たが、司馬懿周辺の警備は厳しくそれはどうも困難で、無理なら執拗に拘ることはない。句扶が気概を見せることで、蔣琬の背中を押した。それで十分だった。
 富と権力を得ることに執心して、己の責務を蔑ろにしている者には目を付けている。他には鄧颺と親しい李勝という男が利用できそうだった。魏国を蜀征伐の方へ向かわせるためには、こういう者たちの欲望を煽り立てるのが手っ取り早い。
 司馬懿はその際の大きな障壁になるはずだ。曹爽派が蜀征伐の声を盛り立てそれに司馬懿が反対すれば、句扶が手を下さずとも曹爽派が司馬懿を攻撃してくれることになる。政争が大きくなれば、司馬懿が魏の人間によって殺されることもあり得る。漢中で血を吐く蔣琬も、そこまで考えているはずだ。
 見た目だけは立派な玄関をくぐって鄧颺に引見した。前回とは違い、気色ばんだ笑みを湛えて鄧颺が現れた。卑しい商人なら、この笑みを儲ける機会の到来と見て、内心喜ぶところなのだろう。
「漢中の蔣琬が血を吐いたのを多くの者が目撃したという報が入ってきた。お前の言っていたことに、間違いはなかった」
「私は、鄧颺様の信を得られましたでしょうか」
 鄧颺が鼻を鳴らして答えを濁した。そもそもこの種の男に信用という概念はない。信用という言葉は彼らにとって政治的な道具でしかなく、信頼することは屈服することだと思っている。
「陳泰とか、他の司馬懿の手下には会ったか」
「陳泰様は洛陽に戻られてすぐ北の方へ行かれたようで、会えませんでした。他の方と会うのは、鄧颺様の御眼鏡にかなわなければ、と思っております」
「そうか。結構なことだ」
 荊州で呉軍を打ち払った陳泰は騎馬隊を指揮する能力を認められ、賊徒を討伐するため幷州に配属されることになった。そう言えば聞こえはいいが、これは曹爽派の政略による体の良い左遷であることは蚩尤軍の調べでわかっている。洛陽から司馬懿派の有力な武将が一人いなくなれば、それだけ司馬懿の力は弱まるということだ。
 能力の高い者が欲深い者の集団に迫害されるのはよくあることだ。蜀にも、似たようなことはある。政敵を排除することで得られる喜悦は、戦で外敵を打ち払った時のそれと似ているのかもしれない。それが下劣かどうかなど、そもそも恥を感じない者にとってはどうでもいいことだ。
「お前の持っている商品を幾つか見てみたい。漢中から持ってきたものは、蔣琬の病のことだけではないのだろう」
「流石、鄧颺様はお聡い。御眼鏡にかなったようで恐悦至極に存じます」
 鄧颺はそんな言葉は金にならんと言いたげな顔をした。それでも構わず句扶は大袈裟に平伏して見せた。
「いいから早く言え」
「漢中に移り住んだ羌族のことです。彼らは漢中の生産向上のため奴隷として酷使されております」
「異邦人が奴隷として扱われることは珍しいことではないだろう」
「その中に、涼州で魏軍に反抗した首領の一人である、宕蕈が逃げ込んでおります」
「ふむ」
 戦で捕らえることができなかった宕蕈や餓何は、今や涼州ではお尋ね者になっている。これを捕殺できれば決して小さくない功となるが、この都会暮らしの貴族に宕蕈の名前はぴんとこなかったようで、句扶は鄧颺の面倒臭さに心の中で舌打ちした。
「涼州の名士であった宕蕈が中心となり、蜀の扱いに不満を持つ羌族を糾合する動きがあります」
 漢中に住む羌族の実態は、多少の不満はあるがそこまで大きなものではない。漢中に亡命してきた宕蕈は蔣琬から良い暮らしを与えられていて、叛意とは無縁の日々を送っている。
 この偽情報を、曹爽派を蜀征伐に向かわせる第一歩とする。
「宕蕈のことは、涼州の事情に精通した御方に聞いてもらえればすぐにわかると思います」
「そんなこと、お前から言われるまでもない」
 知らないことを嘲られたと感じた鄧颺は苛立ちを露わにした。自らの手で殺した楊儀の性向を思い出しながら、句扶は頭を下げて鄧颺に詫びた。鄧颺の足下に、小さな火が燻り始めている。
「羌族の民は、魏の施政下にある涼州で穏やかに暮らすべきです。漢中は涼州と違い雨が多く、そのため病を得ている羌族も多いと聞きます。羌族を漢中から解放するとなれば」
「漢中の羌族が魏の味方になると言いたいのだろう。皆まで言われないとわからん程、私は馬鹿ではない」
「その通りでございます」
 鄧颺に大きなものを見る目はなく、身近にある些細なことには反応する。人から少しでも馬鹿にされたと思えば不安になり、その不安を取り除こうとこうしてむきになる。ならば今この時に蜀を攻めないのは馬鹿なことだと思い込ませてやればいい。
「お前は少し喋り過ぎるようだな」
「申し訳ありません。情報を得ると、自分ならどうするかと考え、それがつい口に出てしまうのです」
「口は災いを産むものだ。よくよく気をつけるがいい」
「ありがたきお言葉で御座います」
 当たり前のことを言われている。それでも貴重な意見を賜ったと体で表現し、鄧颺の虚栄心を満たしてやった。
「それに関連してもう一つ、商談があるのですが」
 句扶が遠慮がちに言った。
「構わん。言ってみろ」
「漢中にいる宕蕈と、鄧颺様の間に伝手ができればいかがかと」
 鄧颺は少し鼻を掻いた。
「宕蕈は魏を嫌っているのではないのか」
「人の心は移ろいます。漢中で虐げられれば、そこから抜け出すために嫌いな国にすら近付こうとするものです。鄧颺様は、それを利用されればよろしいのです」
「嫌いな国などと、はっきり言ってくれる」
「申し訳ありません。私が嫌っているわけではないのですが」
「それはわかっておるわ」
 鄧颺が憮然とした顔で考え始めた。魏と宕蕈が内通すれば、漢中は獅子身中の虫を飼うことになる。お尋ね者の宕蕈には、協力するなら昔のことは許してやると言ってやればいい。
「お前自身が伝手になるのか」
「はじめの数回は、私が直接行きます。それ以降は信頼できる部下に」
「いいだろう。やってみろ。それ相応の銀は用意しておこう」
「失礼ですが、それはどれ程の量になりますか」
 銀の量などどうでもいいが、欲は見せておいた方がいい。この男にとっては、欲の繋がりこそが人の繋がりになる。
「心配はせずともお前が損をしないだけの銀はやる。俺も商人の間に悪評は立てたくないからな。それ以上に儲けられるかどうかは、お前の働き次第だ」
「ありがとうございます。洛陽での鄧颺様の御名声は、きっと上がることでしょう」
「これは俺とお前だけの約束だ。いいな、必ず守れ。口外すればどこでどう漏れるかわからん」
「心得ております」
 事を内密に進め、成果が出れば手柄を独り占めしようという算段なのだろう。鄧颺が口外しないのは、句扶にとっても都合が良い。
 話が終わると店に戻り、すぐに漢中へと走った。漢中で寛いでいる宕蕈には、内通者となる演技をしてもらうことになる。魏軍が漢中を攻めれば羌族は内から呼応するという密約を結ぶ。そこまで話を持っていければ、曹爽派が蜀征伐を敢行する大きな要因となるはずだ。
洛陽の城郭が馬上の句扶から遠ざかり、左右の景色が過ぎていく。蔣琬の命の灯はもうすぐ尽きてしまう。その前に、全てを終わらせてしまいたかった。

王平伝⑧

最終更新日 2016.10.13

王平伝⑧

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-01

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著作権法内での利用のみを許可します。

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