Not woman but female
ペットショップ
そのペットショップは、僕がいつも行くショッピングモールの一角にあった。毎日の買い物で、いつもその店のショウウィンドウの前を通るのだが、その中にちょっと気になっている可愛い子がいたのだ。
その店の前を通る度に『ああ、あの子可愛いなぁ、連れて帰って僕のペットにしたいなあ』とずっと思っていた。向こうの方でも僕がいつもウィンドウを覗き込んでいるせいか、僕の顔を覚えてくれている様で、手を振ったりすると喜んでいるのが分かる。でも、買う気も無い人に懐いてしまうとショップで売りにくくなって、外から見えないケージに入れられてしまうかもしれないので、僕は店員にはバレない程度にしていた。その子のケージには『ハナコ』と書いてあった。
その頃の僕は高校卒業前でまだ働いていなかった。父さんと兄さんと三人一緒に住んでいて、その上に父さんのペットもいたから、僕が自分のペットを飼いたいと言っても認めてもらえそうになかった。
僕が欲しかった子は明るい栗色をした子だった。今流行っているのは長くて真っ黒い毛の子で、顔の輪郭も少し細め子の方が人気がある。でも僕のお気に入りの子はどちらかと言うと丸っこくて、ちょっと前に流行った種類の売れ残りなんだろう。
ペットブリーダーも流行がコロコロ変わるから色々と大変で、インチキも多いらしい。買う時には黒い毛の子だと思ったら、実は黒く染めているだけだったり、オッドアイだと思ったら片方がカラーコンタクトだったりと言う事もあるらしくて、時々ニュースになっている。
それで、僕のお気に入りの子は流行遅れだった為だと思うけれど、ずっと買い手がつかなくて2年以上もずっと同じケージにいた。ケージに貼られていた値段も少しづつ下がっていって、社会人になった僕が思い切って買おうと思った時には、ちょっぴりだった僕の貯金でも楽に買えるくらいになっていた。
★★★★★★★★★★
「お客様、お見積りはこんな感じですが、わからない所はありますか?」
「ペット登録料とかは全部入ってるんですよね?」
「ええ、もちろんです。役所へのペット登録はオンラインですぐに出来ますから、カードのお支払を確認次第お家に連れて帰れますよ。もちろん今晩から可愛がってあげて結構です」
べったりと整髪料のついた髪の毛に銀縁メガネのペットショップ店員は、言葉は丁寧だけど少し下卑た笑いを浮かべていた。僕は内心ちょっと嫌な気になったけど、どこの店員もこんなものだと聞いていたし、商売柄これも仕方がない事なのだろうと思い、気にしない様にした。
「このペットの血統書と健康証明書はどれですか?」
「あ、これです、契約書の下にあります。ブリーダーさんが大事に育ててますしウチの店でも健康診断を時々受けてますから、変な病気は持ってませんよ。予防注射もちゃんと受けてありますからご安心下さい。そうそう、トイレや身の回りのしつけもしっかりされてますから、お客様の手を煩わせる事は無いですよ。とても賢い子ですから一人で買い物も出来るんですよ」
血統書は正直言ってどうでも良かったけれど、健康証明書は結構重要なのでしっかり目を通しておいた。いい加減なブリーダーやショップではちゃんと予防接種を受けさせないから、感染症を持っている場合もあるからだけれど、どうやらこの子は大丈夫みたいだった。
「見積もりに入ってるペットドレスは何着分あるんですか?」
「えーと、下着が上下5セット、ワンピースの上着が2着分ですね」
「下着分の代金に靴下とかは入ってますか?」
「本来は入らないんですが、サービス期間中で3足分入ってます」
「ペット用GPSは入ってないんですか?」
「いや、さすがにそちらはオプションになりますね。でも、犬や猫みたいに迷子になること自体が少ないですから要らないと思いますよ」
「ニュースとかでペットの誘拐事件とか聞くので、ちょっと心配なんです」
「いや、その時にはGPSなんてすぐ外されちゃいますから意味無いですよ…… そうそう、ドレスは最初はそれだけで良いでしょうけど、いずれ色々と着せてあげたくなるでしょうから、その時にはまた当店をご利用下さい。うちは通好みの皮革製ドレスとかラバードレスなんかには力入れてますから」
「はい、いずれ……」
僕はこのショップにあるペットドレスにはあまり感心しなかったので買う気は全然無かったけれど、一応愛想だけは作っておいた。しかし買う気が無い事が見え見えだったのだろうか、少し気分を害したらしくて、向こうから逆に質問してきた。
「えーと、お客さんには失礼なんですけれど、御収入の方は大丈夫ですか? この子は正直に言えば売れ残りで、お買い上げの値段はとてもお安くなってます。でも食費に医療費、毎月の保険料と、飼っていれば何かとお金がかかりますし、いったん飼い始めたペットには飼い主が全責任を負う事になります。途中でお金が無くなって飼えなくなったりすると、特殊ペット愛護法違反で罰せられます。それは御存じですよね?」
昔はコンパニオンアニマルの犬や猫が飼えなくなると、捨ててしまったり役所の施設で死なせたりしていたらしい。今では厳しい動物愛護法と特殊ペット愛護法があって、そんな飼い主は罰金では済まずに刑務所行きになってしまう。
だから僕が自分のペットを飼おうと思って父さんに相談した時に、お金の事は一番心配だったから散々話し合ったり計算したりしたのだ。
「ええ大丈夫です。父にも相談してその上で購入を決定しましたから」
「ああ、お父様が保証人になってらしたんでしたね。失礼しました」
確かに僕は勤め始めて間もない新人会社員だったし、安月給だったからショップの店員に経済力を疑われても仕方なかったけど、やっぱり面と向かってはっきり質問されると面白くなかった。そんな表情が顔に出たのかも知れない、僕の隣に座っていたペットの子が不安そうに僕の顔を見上げてた。
慌てて僕は笑いかけてあげて頭も少し撫でてやると、首輪につけた鈴がチリンと鳴った。
★★★★★★★★★★
「その他に何かご質問はありませんか?」
「えぇと、見積書のここに書いてある『キシロカインゼリー』というのは何ですか?」
そう聞いた僕に、店員はにやりと笑った。僕にはひどく下卑て見えたのだけど、当人にはわかっていないのだろう。
「お客様は学校の保健の授業をちゃんと聞いてませんでしたね。性教育の時間で習う筈なんですが」
「すいません、僕はあまり保健の授業の成績は良くなかったので、覚えてません」
「保健の実習時間は楽しいと思うんですけどねぇ。まぁ、その話はさておき説明しましょう。まずキシロカインって言うのは局所麻酔薬の名前です」
「麻酔薬ですか?」
「えぇ、そうです。お客様にお買い上げ頂いた子は今年十五歳なんですが、まだ未経験なんですよ。だから処女膜があるんです」
「あ…… そうなんですか。そうすると最初は…… 痛がりそうですね」
「えぇ、とても痛がります。お客さんが学校で性教育実習をした時には、面倒が無い様にあそこがガバガバのペットが使われたでしょうから、気持ちよがりはしても痛がる事は無かったでしょう? でもこの娘はとてもそうは行きません」
「はぁ……」
「それでですね、痛がるペットに無理やりお客さんの『暴れん坊』を突っ込んでしまうと、ペット虐待って事になっちゃう訳なんですよ」
「なるほど……」
「ですから、突っ込む前に穴の中にゼリーを塗りこんでやって、軽く麻酔しておくんですよ。処女膜が破れる時の痛みさえ感じなければ、ペットってのは所詮ケダモノですからね。自分から喜んで腰を使いますよ。そもそもこの血統の娘はすごく淫乱な系統なんですよね。特にお客さんが教えなくても、抱いて欲しくなるとお客さんの股間に頬ずりしてくれますよ。跪いて自分からマラを咥えに来るんです。とっても可愛いですよ。そのまま口の中に出しても『飲みなさい!』って言えばちゃんと……」
放っておくといつまでも説明が続きそうなので、さっさと支払いを済ませて帰りたかった僕はそっけなく質問した。
「ゼリーの使い方に注意は? 保健の教科書に書いてありますか?」
「あ、使い方ですか? ゼリーの箱に図解で書いてありますから誰でもわかりますよ。でも使い過ぎると自分のペニスまで痺れてちっとも気持ち良くないです。だから量には気を付けて。それからペットのクリトリスにも塗らない方が良いですよ。ペットだって気持ち良くさせてあげないとかわいそうですからね」
「わかりました。では契約とお支払いをしたいのですが、良いですか?」
「お買い上げ有難うございます。お手続しますのでしばらくお待ちを」
そして契約と支払、役所へのオンライン登録を済ませてから最後に店員に質問した。
「この娘の名前は『ハナコ』になってたけど、変更はできますか?」
「登録名はいくらでも変えられます。ペット登録番号の方は生まれた時に決まるので固定ですけどね」
「あ、そうじゃなくて、この娘に呼びかける時の名前なんだけど」
「そうですねぇ、この娘はブリーダーさんの所でもウチの店でもずっとハナコって呼ばれてました。ですからその名前の方が慣れてますけど、お客さんが新しい名前にしたいのであれば、別に変えても大丈夫ですよ。すぐに新しい呼び名を覚えます」
皮肉な笑いを浮かべて店員が続けた。
「『呪い』のおかげで言葉こそ喋れませんが、この娘達『ペット』だって元々はホモ・サピエンスの雌ですからね。犬猫はおろか、チンパンジーに比べてもずっと賢いんですよ。もっとも100年ほど前、こいつらが『雌』じゃなくて『女』だった時代は、そこらの男より賢い女がゴロゴロしてたって言いますけどね。でも私にゃ、セックスして子供を産むしか能が無いこいつらが、昔はそんなに賢かったなんてとても信じられませんがね。まぁ記録が残ってますから信じない訳にも行かないんですが……」
男より賢いのがゴロゴロどころか、全体的に『女』の方が男より賢かったのではないか? と言う話も歴史の授業では聞かされていたけど、そんな話をあまり教養の無さそうなこの店員としてみても仕方が無かったし、僕は何より自分の物になったペットを早く家に連れて帰りたかった。
「そうですか、この娘が『ハナコ』で慣れてるのなら名前は変えない事にしますよ。じゃ、これで全部手続きは終わりですね。おいで、ハナコ……」
僕の買ったペット『ハナコ』はにっこり笑うと、かけていた椅子から立ち上がり、差し伸べた手を握った。
「お買い上げ有難うございます。ペットに変わった事があったらすぐにご連絡下さい。必要な場合は返品・交換に応じますから」
店員には言葉をかけずに会釈だけして店を出た。ハナコはペットショップお仕着せのワンピースを着ていたのだけれど、悪趣味な色柄で見るからに安っぽい代物だったので、さっそく服は新調する事にした。それで帰り道でペット用の小さなブティックに寄り、数着の普段着を買って帰った。
それが、僕とハナコの出会いだった。
母では無くペットとして
今日の食事当番が僕だったので、コンビニで買物をしてから僕はハナコと共に家に戻った。家には既に兄さんが仕事から戻ってきていて、食堂に座ってスマートフォンを片手に何やら見ていた。
「おう、遅かったな。飯は買ってきたか?」
兄さんは電話を切り、僕を見て笑う。待ち受けの画面に父のペットの写真が見える。
「うん、ご飯はこれ。今日はご飯食べる人が一人増えたから、その分大目に買ってきた」
「ああ、そっちのペットの分か。何て名前にしたんだ?」
「店ではハナコって呼ばれてたから、そのまんまにしたんだけど」
「安直な奴だな。せっかく買ったペットなんだから、なんかもっと気の利いた名前にしてやれよ」
「別にいいじゃん、ハナコだって」
「まぁ、お前がそれで良いって言うならそれで構わねぇと思うけどさ……」
兄さんは僕がテーブルの上に置いたコンビニ弁当の袋をごそごそ漁り、自分の分を取り出して食べ始めると、ハナコをちらりと見てから質問した。
「ハナコはどれくらい芸ができるんだろうな? キャンディと同じくらい出来ると良いんだけどな」
「いや、店の話だと自分の身の回りの事は出来るらしいけど、家事の手伝いみたいな高度な芸は教えてないだろうから多分無理だよ。キャンディは父さんや兄さんがずっと色々教えてたんだしさ」
キャンディは父さんのペットだった娘だ。もう死んで一年になる。
「まぁそりゃそうだけどさ。お茶くらい入れられるんじゃね?」
「どうだろ?」
もしかしたら、店で教わってるかもしれないと思って、僕はハナコに聞いてみた。
「ハナコ、お茶を入れて!」
そう言ってみたが、やはりわからないらしく、ハナコはきょとんとした顔をしている。
「ハナコ! お茶! わかる? お茶!」
重ねてそう聞いてみたがやはり教わっていない様で、首をかしげて困った顔をした。僕は兄を振り返る。
「やっぱり教わってないみたい。まぁ、それが普通じゃないの?」
「そらそうだな。じゃ、食事当番が茶坊主と言う訳で…… 頼むわ」
「はいはい……」
弁当を食べている兄さんをじーっと物欲しそうに見ているハナコの手を引いて、サイドテーブルに置いてある電気ポットの使い方を見せながら教える。数回教えてやれば覚える筈だ。もっとも『女』だったら、こんな事は小学生でもできる事だったと歴史の授業で聞いたことがある。
『呪い』のために『女』から『雌』になり、知性が失われてしまったペット。この娘達は言葉が一切喋れない。聞く方なら三文節くらいまでの分かりやすい命令なら理解する事は出来る。けれども長い複雑な命令や文章を理解する事、抽象的な命令を理解する事は全く出来ない。
例えば、ポットでお湯を沸かしたり、冷蔵庫からビールを持って来させたりは出来るけれど、『目玉焼きを作れ』と言っても、それは出来ない。指示が抽象的過ぎるからだ。
だから、お湯を沸かしてからそのお湯でお茶を入れると言うのは、教えるのにかなり根気が必要だし、教える方に技術がいる。犬よりは遥かに賢いから芸を仕込むのはずっと易しいけれども、犬には到底教えられないレベルの『芸』を仕込むのは、やはり大変なのだ。
僕が入れたお茶に手を伸ばしながら、兄さんは思い出した様に話し出す。
「あぁ、さっき連絡があったんだけど、親父は今日帰らないって」
「何だ、僕にも電話してくれれば良かったのにな。父さんの分まで弁当買ったのに」
「そうだな。まぁ、冷蔵庫に入れとけよ。親父は弁当の事は伝えとくから」
「うん、ありがと…… それで父さんが帰らないって言うのは? また徹夜仕事?」
『女』がいなくなってペットの雌しかいなくなってから、世の中は酷い人手不足になっている。僕も大抵の日は残業する事が多い。そのくせ景気は良く無くて給料は安いから、ちっとも良い事が無い。父さんは医者だから特に忙しい人種に入るので、病院に泊まることがしょっちゅうだ。
しかし、兄は苦笑して言った。
「いや、恋人の所に行っちゃった。俺達かわいい息子たちより、愛人の方が良いらしい」
「あぁ、そう言えば最近お互い忙しくて会えないって言ってたもんね。良いじゃない、たまには羽伸ばしたって」
「いや、別に悪いなんて言ってないじゃん、俺」
僕らの父さんは同性愛者だ。父さんの恋人は昔からの幼馴染で小学生の時から一緒だったそうだ。向こうにも僕らと同年代の息子が二人いる。ずっと昔、僕がまだ小学生の頃に向こうの親子をたまたま見た事があるのだが、太った熊みたいな父さんの恋人と、一緒に歩いてる親にそっくり生き写しの息子二人を見て、思わず笑いそうになってしまったことを覚えている。
女から知性が失われて雌になり、男ばかりの世の中になってしまったので、恋愛は男同士でなければできなくなってしまった。だから父さんの様な同性愛者は今はとても多い。でも、一方でホモセクシュアルは酷く憎まれてて、ヘテロセクシュアル、つまりペットとのセックスを愛好し、それこそが真理と思っている一部の狂信的な人達に執拗で陰険な抗議を受けたり、極端な場合には殺されたりする事もある。
それと、どんどん人口が減って行った時代にホモセクシュアルに対する風当りが強まったせいで、ホモセクシュアルは黙認されると同時にある義務が課されるようになった。
それは子作りの義務だった。たとえ男同士で愛し合っていても、その愛情とは別にペットを飼って、そのペットに自分の子供を二人以上産ませて育てるという義務だ。
父さんもその義務に従ってキャンディーを飼っていた。そしてキャンディは兄さんと僕を産み、父さんが僕らを育ててくれた。僕らの他にも雌が一匹生まれたけれど、それは乳離れした時にブリーダーに引き取られて行ったそうだ。『呪いの時代』以前なら、女がいた時代なら僕の姉さんだったはずの雌も、今生きているかどうかさえ確かめ様がない。ペットに戸籍は無いからだ。
でも僕の兄さんは暇さえあれば消息の分からない雌、生物学的には兄さんの『妹』になる雌を熱心に探している。理由は簡単だ。探し出して自分のペットにしたいからだ。キャンディが寿命を迎えて死んでからはますます熱心になった。
キャンディは生物学的には僕らの『母』と言う事になるんだろう-- いや、そうなんだ。でも、『女』の消滅と共に『母』も消滅した。人間の雌であるペットには人権が無い。知性が無いからだ。そして知性が無いから子供を人間に育て上げる事がもはや出来ない。それは男の仕事になった。
でも不思議な事に(呪いの時代以降は不思議な事だらけなんだけれど)ペットには知性が無くなってしまったにもかかわらず、赤ん坊や小さな子供の世話はちゃんと出来る。教わらなくてもおっぱいもあげられるし、おむつも替えられる。添い寝をして寝かしつけたりあやしたりすることも出来るし、子供の具合が悪い時でもすぐにそれを感じ取って飼い主、子供の父親に知らせに来る。本能と言うにはいささか複雑な事なのに、どんなペットでも間違い無く出来るのだ。
でも、ペットには知性が無いから言葉が喋れない。だから言葉は父親や教師が教えてやらなければいけない事になった。昔は学校にあがるのは六歳からだったけど、今は三歳からだ。昔は母親が子供の面倒を見ながら自然に行っていた言葉の教育やしつけなどを、今は乳幼児教育として男がしなければならなくなった。
実は僕の仕事も学校で小さな子にしつけをしたり言葉を教えたりする仕事だ。昔は保母さん、保父さんと呼ばれていた仕事だけれど、今は単に保育士と呼ばれている。保母が絶滅したからだ。
もちろん保育士だけでは子供の教育はとても行き届かないので、父親がしなければならない部分も大きい。だから子供が中学校にあがるまでの期間、父親には育児シフト勤務が認められてる。でも、これは半面で社会の生産性を損なってて、ただでさえ不足している労働力をさらに削り取っていくので、政府の頭痛の種になってるのも間違いない。
父さんは息子の僕が言うのも何だけど結構子煩悩で、僕らと一緒の時間は極力多くとってくれた方だと思う。でも、いつも忙しい病院では育児シフトを最大限使って休み、僕らと一緒の時間を作ってくれる父さんを悪く言う人が大勢いて、僕も嫌な思いをした事がある。
『昔の男はもっと真剣に必死で働いたもんだ。でもお前の父親はな……』とか、子供の僕に言ったってしょうがないじゃないか。もう女がいない時代なのにこの人は何を言ってるんだろうと、僕はまだ中学に上がったばかりだったけど本気でそう思ったものだ。後になってその人が自分のペットを殴って大怪我をさせ、刑務所行きになって病院をクビになった時には本当にせいせいしたんだ。
でも、父さんにその話をしたら叱られた。その時の父さんの目がとても悲しそうだったのを覚えてる。
兄さんも僕も、見た目は父さんよりも生物学的な母であるキャンディに似ている。東洋系の血が濃い父さんとは違い、キャンディは明るい巻き毛のブロンドヘアに碧眼の西欧人だ。実際的にはキャンディーはペットであって人間では無いけれど、コーカソイドの遺伝子を持っているのも間違いない。そして僕も兄さんも髪の色はブロンド、肌の色は白い方だ。兄さんは暗いグレイの目で、僕は父さんと同じような鳶色の目だ。少しそばかすのあったキャンディに似て、兄さんにもそばかすがある。僕は兄さんよりはちょっと色黒だからそばかすとかはない。
父さんはホモだから、義務としての子作りはしたけれどキャンディに特別の感情とかは無かった様だった。もちろんそれなりに可愛がってはいたけれど、どちらかと言うと『怪我をしたかわいそうな動物に対する憐み』みたいな感じだった。少なくとも、父さんが自分の恋人に見せる様なリラックスした笑顔をキャンディに見せる事は無かったと思う。
子作り自体も人工授精だったと兄さんが言っていた。父さんがキャンディを抱いた事は一回も無かったのだ。その代りと言っては変だけど、兄さんがいつもキャンディとセックスしていた。僕がそれに気付いたのは僕が五年生の頃で、兄さんが中学一年の時だった。
父さんはさすがにもっと早く気づいていて、兄さんを呼んでちゃんと避妊する事を厳しく言いつけたんだと後から兄さんに聞いた。最初に兄さんがキャンディを抱いたのは六年生の時だと言っていた。
それで兄さんはいつも自分のお小遣いでコンドームを買ってたので、僕より多くもらってたくせにいつも金欠だった。殆ど毎日と言って良いくらいセックスしてたから無理もないけど。
僕らにとってはキャンディは生物学的には母親だ。キャンディのお腹から僕らが生まれて、キャンディのおっぱいで僕らは育ったんだから。だから兄さんのやってた事は近親相姦だったんだけど、今時では別に珍しい事ではなかった。でも血の繋がったペットがを妊娠させてしまうと遺伝的には問題なので、一応は禁止されてる。
でも、自分の父親のペットとセックスした事がある友達は多かった、と言うより最初にセックスする相手としては一番身近にいる父親のペットが一番多くて、そうでない子は僕みたいに学校の性教育用のペットが最初の相手と言う子が殆どだ。さもなければ、学校の友達、つまり男同士でのアナルセックスになる。
僕の学校にもホモの子は結構多かったので、告白されたり誘われたりした事が何度もある。父さんと違って、僕はホモではないのでいつもあっさり断ってたけれど、一回すごく泣かれちゃったことがあって、その時にはすごく悪い事をした気になった。
僕はホモの子は嫌いじゃない。そもそも父さんがホモだから親近感もあるし、ホモの子の方が繊細で愛情が細やかな子が多い様な気がする。でも僕はセックスはペットとする方が安心だし気持ちが良いんじゃないかと思う。もっとも、僕は男の子とセックスした事が一度もないから、本当はホモセックスの方が気持ちが良いのかもしれないけど。
ホモの子は、今の時代では愛情のあるセックスは男同士じゃなきゃできない、ペットとのセックスなんか本当のセックスじゃなくてオナニーとか排泄と一緒だ、なんて極端な事を言う子もいる。
でも、僕はうんちの出るお尻の穴にペニスを入れたり入れられたりすることにはすごく抵抗がある。多分、一生男とはセックスはしないだろうなっていう気がする。
なんだか話がずれてしまったな。兄さんの話に戻ると、兄さんがキャンディとセックスしているのを知って、実は僕もキャンディとセックスしたくなった。でも、父さんがキャンディにまるで執着しないのとは逆に、兄さんはものすごくキャンディに執着があって、僕もキャンディとセックスしたいと言うと、ものすごく嫌な顔をした。
別に兄さんには僕がキャンディとセックスするのを止める権利なんてないんだけど、兄さんが嫌がる事をわざわざしたいと思うほど僕ら兄弟は仲が悪くなかったし、僕の方でもどうしてもキャンディじゃなきゃと思う訳でもなかった。それで兄さんの乏しい小遣いを巻き上げて、それに自分の小遣いも合わせてブリーダーの店に行ってお金を払い、そこの種付け用のペットとセックスしてた。僕が中学に上がった頃だ。
僕は自分で言うのも何だけど品行方正な方だと思ってる。でも、中学生の身分でブリーダーにお金を払ってペットとセックスしてるのは不良と呼ばれても仕方なかったかも知れない。幸い父さんにはバレなかったけど、バレたらすごく叱られたと思う。
最初のうちはブリーダーにお金を払ってさせてもらってたんだけど、僕の精液の質が良いからと言う事でタダでセックスさせてもらえるようになった。多分、その頃に金髪の子の需要が多かったからだと思う。僕とセックスして妊娠したペットの娘は産休になって別の娘と入れ替えになる。僕があの店に通ってる間に十人以上はは入れ替わったし、同じ娘を二回三回と妊娠させてるから、多分、僕と血の繋がってる子は二十人くらいいると思う。もちろん僕に扶養義務とかはないし、誰が僕の血を分けた子なのかも確かめようがないのだけれども。
セックスするんじゃなくて僕の精液を取るだけの時にはお金さえもらえた。そういう時はペットの子が僕の精液を採取容器に取り、急いでブリーダーの所に持って行ってた。
僕はベッドに横たわってペニスを優しくしごかれ、最後に噴き出す様に精液を迸らせるのをペットに見られるのは嫌でも恥ずかしくもなかったけど、自分の出したドロドロした精液をブリーダーに見られたり、あの独特の異臭を嗅がれたりするのは嫌だったので、どうしてもお小遣いが欲しい時以外には精液を売らなかった。あの店のブリーダーは細かい事に頓着しないフランクな人だったし、僕は決してあの人を嫌ってる訳じゃ無かったんだけれども。
逆に兄さんは僕の行っているブリーダーでしょっちゅう精液を売ってたんだけど、これは僕が教えたからだ。兄さんは僕がキャンディとのセックスを我慢する代わりに自分のお小遣いを僕に分けてたので、避妊用のコンドームを買うお金が足り無くなってしまったのだ。それで、キャンディの基礎体温を測って安全日を調べたりしてたんだけど、先に言った通り、当時の兄さんは毎日キャンディとセックスしてたから、危険日には膣外射精してた。
そういう日にはお尻ですれば良かったんだろうけど、当時は兄さんも僕もヴァギナ以外でセックスするという感覚がまるで無くて、アナルセックスと言うのはホモの子が仕方なくやるものなんだと思ってたんだ。それで、当然だけど膣外射精なんていつもいつも上手く行くはずも無くて、結局兄さんはキャンディを妊娠させてしまった。穏和な父さんがその時だけは本当に怒って、兄さんはしょげかえってしばらく元気が無かった。
キャンディはすぐに堕胎の処置を受けたのだけれど、ペットは堕胎すると寿命が短くなるというのが定説で、去年キャンディが死んだ時には、兄さんはずっとその事を悔やんでいた。
兄さんがコンドームを買えなくなってしまったのは僕がお金をせびったせいだから、僕はすごく気が咎めた。それで、ブリーダーに精液を売ればお小遣いになると言う事を兄さんに教えたんだ。僕の精液が上質だと言うなら、兄さんのだって上質だろうと思ったし、実際に兄さんの精液は僕のより少し高く売れたみたいだった。
僕とは逆に、兄さんはブリーダーの所ではセックスをしないで、いつも精液を売っていた。僕は色んな娘とセックスした方が目先が変わって面白いと思ってただけれど、兄さんはキャンディ以外の娘にはあまり興味を示さなかったんだ。でもまぁ、僕もハナコを見かけてからはずっと執着してたんだから、結局似た者兄弟なのかもしれない。
呪い
「おい、あんまりおあずけが長いとかわいそうだろ。メシ食わせてやれよ」
ハナコがじーっと見つめているので食べ難くなったのだろう、兄さんが苦笑いしてそう言った。それでハナコを見たら、今度は僕とテーブルの上の袋を潤んだ目で交互に見ている。本当にお腹が空いている様だ。これは確かに兄さんの言う通りかわいそうだったので、慌てて袋を開ける。
「ハナコ、そこに座って」
テーブルの端の椅子を指さすとハナコは大人しく座ったが、今度はじーっと袋を見ている。と、その時「ぐーっ」と腹の虫が鳴く音がした。兄さんが我慢できなくなって笑い出す。
「あはは、駄目だって、早く食べさせてやれよ、ハナコはお腹ペコペコじゃないか」
ハナコがまた僕を見る。なんだかもう泣き出しそうな顔だ。僕は慌てて袋から自分の分の弁当とハナコの食事を出して、ハナコの前に並べてやる。ハナコの表情がパッと明るくなるのが分かる。やっぱりこの娘はとっても可愛い。
「はい! 食べて良いよ」
僕がそう言うか早いか、ハナコは自分の分を食べ始めた。本当にお腹が空いていた様ですごいスピードだ。ハナコが犬だったら、ここまでの我慢をさせるのは絶対無理だったろう。あのペットショップはちゃんとご飯食べさせてなかったのか? と思うくらいの勢いで食べている。
「この娘はスプーンとか箸は使えるのか?」
「うーん、ショップで聞いてこなかったからわからない。だから食器無しで食べられるハンバーガーとかにしたんだ。多分教えないとだめだと思うな」
「キャンディはテーブルマナーはちゃんと覚えてたけど、この娘はどうだろうな?」
「大丈夫だと思うよ。ペットの教育は飼い主次第なんだからさ」
「随分自信があるんだな、初めてのペットなのに」
「何言ってるのさ、僕らは父さんがキャンディやよそのペットにマナーを仕込むのを、ずっと見て知ってるじゃない」
父さんは職場でも同僚に頼まれる事があるくらい、ペットの仕込み方は上手だ。大抵の人はペットを怒鳴ったり、酷い人は叩いたりして(勿論法律違反だ!)仕込もうとするけど、父さんがペットを仕込む時には怒鳴るどころか声を荒げる事だって全然無い。それでいて、二三日預かるだけで『こいつは本当に馬鹿で何も覚えないんだよ』って飼い主に言われてて、実際にも手づかみでしか食事が出来なかったペットが、ちゃんとナイフとフォークで食事が出来る様になるのだ。
「まぁ、親父のペット教育は上手だとは思うけどさ、もうちょっと愛情もかけてやれば良かったんじゃねぇかな?」
「父さん、キャンディのこと可愛がってたじゃない」
「昼間はな」
確かに父さんは夜、食事が終わった後にはキャンディにかまう事は一切なかった。大抵のペットは飼い主のベッドで一緒か、あるいは布団を並べて寝るのが普通なんだけど、ペットとしては珍しく個室を与えられていたキャンディは、食事が終わってゴミの片づけが終わったら自室に引っ込んだ。まぁ、その後で兄さんが行くのですぐに休める訳じゃ無かったんだけれども。
父さんは余所のペットにも夜はノータッチだった。そして僕がよそのペットをかまいたくて仕方ないのは父さんもわかってるので、避妊具を渡されて『間違ってもタネはつけてくれるなよ』と念押しされたうえで、夜は僕の好きな様にさせてくれた。まぁ、妊娠にさえ気を付けていれば、僕がペットに乱暴な事はしない事を信じてくれてたんだろう。僕も父さんの信頼を裏切る様な事は一度だってしなかった。
「でもさ、夜は兄さんがたっぷり可愛がってたんだから問題無いでしょ」
「そりゃちげぇねぇ…… ってさ、お前もさっさと食った方が良いぞ。ハナコ見て見ろよ、とっくに食べ終わってるじゃんか」
ハナコを見ると、二つあったハンバーガーと少し冷めてしまったコーヒーは綺麗に無くなっていて、当人はハンバーガーに付いてきてた紙ナプキンで口の周りをぶきっちょに拭いていた。拭き残しがあったので濡れナプキンできれいに拭いてあげると、ハナコは大人しく目を閉じてじっとしていた。拭き終わってからおでこに軽くキスしてやると、にこっと笑った。
「ハナコをかまってないでさっさと食べちゃえよ」
「いいじゃん! もともと僕、食べるの遅いんだし」
「だから急いで食えって言ってんの!」
せっかちで何でもテキパキ物事を片付ける性質の兄さんとは違って、僕は何でもやることが遅い。僕は父さんに似たんだと思う。ならば兄さんがせっかちなのは誰に似たんだろう? 僕らのお爺さんもどちらかと言えば父さんと同じ様なのんびりしたタイプだし…… やはりキャンディの遺伝子なのだろうか?
確かにキャンディはペットで、人間らしい知性なんてまるで無かった。それでも僕らの遺伝子の半分はキャンディから引き継いでいるのだから。でも、キャンディだってそんなにせっかちって訳じゃ無かったんだけどなあ。
遺伝子と言えば、『女』が知性を失う前と失った後で遺伝子に変化があるはずだと、ずいぶん多くの学者が調査したそうだ。男の学者も、まだ滅んでしまう前の女の学者も。
でも、遺伝子には一切の差が見つからなかった --そんなはずは無いのにも関わらず-- それでも何度となくDNA配列が調べられた。染色体に存在するDNAの内、遺伝子として情報を持っているのはわずかに数%だが、遺伝情報を持っていないとされる部分 --イントロンと呼ばれる-- まで含めた調査が今なお続いている。染色体だけでなく、ミトコンドリアDNAなどもずいぶん調べられた。もちろんエピジェネティック情報も……
でも、未だにこれと言う違いは見つからなかった。遺伝情報の研究と並行して、これは一種の疾病ではないかと言う疑問から、脳科学的な研究も山ほど行われた。けれども器質的には『女と雌』の脳に、全く違いは見いだされなかった。遺伝情報が同じなんだから出生時にもこれと言う差は無いし、脳組織にも病変はまるで見いだせない。ただ、知性が失われている事だけがわかってた。
知性の失われ方も奇妙だった。単に『IQが低い』と片付けにくい物だった。
言葉はまるで喋れなかった。それは言語障害とは全く違う現象で程度の差が無い。例外は一切無くペットは言葉を喋れない。一フレーズの片言すら口にする事が出来ないんだ。
言葉を聞き取って理解する力はある程度の限界 --とても低い限界だけれど-- はあるものの、ちゃんと存在する。だからテーブルマナーや自分の身の回りの世話も仕込む事が出来る訳だ。入浴やトイレのしつけは六歳くらいまでに全部ブリーダーに仕込まれるのが普通だし、単純な質問にうなずいたり首を振ったりする事で、はい・いいえを示す事も教えられる。
喋る事と同じ様に字を読む事も全然出来ない。どんな文字でもペットにとっては模様に過ぎないので本はペットには無縁の存在だ。動画配信は画面が動いて音が出るので時々興味を示すけれど、興味は大体一点だけに絞られてる。それは歌や音楽だった。
全部ではないものの、多くのペットは歌と音楽に強く反応する。特に人間のうたう歌、それも『女』のうたう歌に。かつて存在した女性のうたう歌に。昔の歌に。
ペットは言葉を喋らない。だから歌詞をうたう事は出来ないけれど、その代りにペットはハミングで歌ったり、犬の遠吠えみたいにして歌う。それを滑稽に感じて笑う人も大勢いるけど、僕はペットのうたうのを聞くのが好きだ。上手に歌う娘もあまり上手じゃない娘もいるけれど、うたっている時のペット達はとても幸せそうで、それを聞いている僕の心を和ませてくれる。
どんな素晴らしい歌手の歌、それが朗々と響くバスだろうが高らかにうたうテナーの歌声であろうが、僕の心をより暖かく満たしてくれるのはペットのうたう素朴な声だった。それは鼻歌であったり、遠吠えだったりはするけれども。
キャンディは歌が好きで、かつ上手にうたった。いつも僕が音楽をヘッドホンでなく、昔ながらにスピーカーで聞く理由は、キャンディがそれを聞いて一緒にうたうのを聞きたかったからだった。あまり音楽を聞かない兄さんでさえ、キャンディの歌は気に入っていたんだ。
だからハナコが歌が好きなら良いなと、僕は心から思う。上手でなくても構わないから。
ペットの中には本当にIQが低いと思われる個体もまれにはいる。でもそれは男のそれと比べるとはるかに低い確率だった。かつて存在した『女』の精神薄弱の生じる率よりもずっと小さいんだけど、その理由も良く分かっていない。
そしてペット達は外見上は決して愚かには見えない。こう言ってしまうと差別的で嫌なんだけど、知恵遅れの子は言葉を交わさないまでも、表情から知的障害が伺われる事が多い。でも、ペットのどの子からも聡明で健康な知性がその眼差しからは感じられて、表情からはまず知的障害なんて伺えない。
でも結局それは見かけだけの事。実際には言葉も喋れず意思の疎通がほとんど出来ないんだ。
見かけが賢そうだと言うだけじゃなくて、知性を失った代償なのだろうか、ペットには不細工な個体がいなかった。昔の知性ある女達には美しい者もそうでない者もいたと言うし、映像記録を見てもその通りだと思う。口の悪い僕の兄さんなどは、結局昔は、美しい女ってのは一握りで大抵の女は太って不細工だったんだなぁ、などと言って笑ってる。でも、今の男だって美しい個体よりは特にパッとしなかったり明らかに醜かったりする者の方がずっと多いんだから、あまり昔の『女』の美醜を云々するのもどんなものかとは思う。
まぁ、キャンディに似た顔立ちで生まれた兄さん自身は明らかに美男の部類だ。僕は髪の色こそキャンディに似たけれど顔のつくりは父さんに似たので、まぁ特に美男でもなければ醜男でもないと…… 自分では思ってる。
ペットが知性と引き換えみたいに美しく生まれてくる事も全く理由がわかっていない。何から何までわからない事だらけなんだ。
もう一つわからない事はペットの寿命だった。昔は男よりも女の方が寿命が長かったけれど、今は逆で男の寿命の方がずっと長い。男が長生きする様になったからじゃない、『女』が『雌』になって知性と同時に寿命も奪われてしまったからだ。
今のペットはどれほど長生きしても40歳を超えて生きる者はいない。平均寿命は31歳、どうかすると25歳くらいで死んでしまう。だからペットには『お婆さん』というものが存在しない。美しさを十分保ったまま死んでいく。
ペットが早死にしてしまうと言っても、がんや心臓病などの普通の病気で死ぬ訳ではない。かといって寿命と言う訳でも無さそうだ。昨日まで元気で病気や老いなどまるで感じさせなかったのに、翌日ベッドの中で冷たくなっていると言うのが殆どのパターンだ。最初の頃にはずいぶん解剖も行われたが、これと言う死因が判明したのはごく一部で、疾病氏はごく例外的な出来事だった。どこも悪くないのに普通の眠りから覚める事のない眠りに落ち、そして心臓が止まって死んでいく。
どのペットも文字通り『眠る様な平和な死』を与えられる。キャンディもそうだった。キャンディは36歳で死んだ。長生きな方だったと思う。
年齢的にいつお別れが来てもおかしくなかったから、兄さんはいつも自分のベッドに一緒に寝かせていた。その日、いつもの時間をずいぶん過ぎても起きてこない日があって、その兄さんたちを寝室まで起こしに行った僕は、キャンディの胸に顔をうずめて泣いている兄さんと、兄さんの頭を抱く様にして死んでいるキャンディを見たんだった。
僕は『母』と言うものを知らない。昔の映像や絵画でしか触れた事が無い。それでもその時、キャンディのなきがらの向こう側に『母』の姿を見た様な気がした。
事故やごく稀な致命的な疾病に因らない限り、ペット達には平和な死があった。男たちは昔ながらに色々な病気で死んでいたけど、なぜペットが病気にかかりにくいのかもわからなかったし、それでいて早死にしてしまうのかもわからなかった。
平和な死と同様に、出産の苦痛や危険も取り除かれていた。人間は出生時の胎児サイズがほかの動物よりも大きい関係でお産の負担が大きいのだが、どのペットも犬のお産みたいに簡単だった。生みの苦しみはエデンを追われたエヴァに神が与えた罰であったそうだが、そもそもの失楽園の始まりだった知恵をうしなったからであろうか、生みの苦しみも免除となったかのようだった。
結局まるで原因の分からない災厄が『女』を襲ったとしか理解できなかった。
『女』が生まれなくなってから様々な原因解明の努力がされて、結局それが徒労とわかるまでには何十年かはあったんだけれど、最初から結論を出していた連中もいた。そいつらはこれを『天罰』とか『呪い』と呼んでいた。
人権喪失
食事が終わり、僕はハナコに家のあちこちを見せて回った。
「ここがトイレ。わかった?」
便座の蓋を上げ、水をフラッシュさせながらそう言うと、ハナコはにこにこしてうなづいた。あらかじめ場所を教えておかないと、トイレに行きたくなったり風呂を使いたくなった時に困る。一回教えておけば勝手に用を足したりシャワーを使うんだけど、知らないとずっと我慢してしまうからだ。粗相するまで我慢してしまう子さえいるし、そうなると後始末も大変なんだけど、ペット自身も恥ずかしいのかひどくしょげてしまう。知性が無いのに人間としての『恥』とか『悪い事をした』と言う感覚は持っている様なんだ。でも、何で知性が無いのに恥を知るのかの理由は、例によってまるでわからない。
ただ、知性が無くともなるべく人間らしく扱ってあげると、ペットは恥を知っている様な行動をとり、身だしなみなどにも気を遣う様になると言うのは、明らかな事実として確認されている。
女が生まれなくなった頃、ペットとして生まれた子は最初のうちこそ『知的障碍者』として保護を受けていたけれど、段々と人間扱いから外れて行って、最初は奴隷並に、そして奴隷以下に、最後には犬猫以下の扱いを受ける子が多くなって行ったんだ。
もちろん、多くのペットは虐待を受ける事は無かったけれど、ちょっと粗相をしただけで半殺しになるまで殴られたり、ひどい場合には殺されてしまったりしたペットも少なく無かった。特に元々女性の地位が低く抑えられていた特殊なイスラム諸国で酷かった様だ。
日本でさえペットへの差別が酷かった一時期は、ペットを殺しても一年以下で釈放されたり、罰金だけで済んでいた時代がある。もちろん、今の日本でハナコの様なペットやコンパニオンアニマルの犬猫を殺せば、確実に十年以上は刑務所暮らしになる。
ちなみに殺人の場合はほぼ全て収容所送りになって、死ぬまで強制労働になる。昔よりもずっと刑罰は重くなった。死刑は無くなったけれども。
そう言うペットが犬猫以下に扱われた時代には、ペット達にはそれほど『恥』の感覚が無くて、急に往来で座り込んで用を足してしまうような場合もあったそうだ。そうすると、大抵親や飼い主にひどく叱られる事になるし、親ならそうひどく殴ったりしないかと言えば、全然そんな事は無かったらしい。
世界的に見れば比較的ペットには生存条件の良かった日本でも、親に虐待されて殺されたペットは少なく無い。却って親で無かった場合の方が情が絡まないためだろうか、ネグレクトにあう事は良くあったが暴力的な虐待は少なかったらしい。
そして悪い事に、ペットはどんな酷い仕打ちを受けても決して実力で抵抗したりはしなかった。殴られても蹴られても、逃げ出しも出来ずに悲鳴を上げながらうずくまってしまう。よくもそんな状態の相手を、大怪我をしたり死んでしまうまで殴れるものだと思うが、どんどん『女』が滅んでいく世の中で、世相全体が荒んでいたのだと言う事だ。確かに今の日本ではペットを傷つけるのは大抵が精神異常者なので、当時は社会全体が半ば狂っていたと言う事なのかもしれない。
「これが冷蔵庫、こっちがレンジ、ここが明りのスイッチ……」
キッチンでも一通り教える。言葉は大して理解出来ていないが、単語と対象物の対応位は理解できるから、買ってきた食料品を冷蔵庫に入れたり、冷凍物をレンジで温める事くらいはすぐに覚えてくれる。普段の炊事洗濯などの家事は、一緒にやって見せながら教えれば良い…… はずだ。
実際の所、父さんがキャンディやよそのペットにに教えるのを見てただけで、自分であれもこれもと全部教えるのは初めてだから、上手く行かない事はあるかも知れないな。
そんな感じで家をぐるっと一回りしてから、首輪をつけっぱなしにしていた事に気づいた。電子鑑札(IDタグ)付の首輪をつける事はペット飼育の義務なんだけど、見咎める人も居ない家の中では鬱陶しいだけだから、大抵の人間は外出時にだけ首輪を付け、家では外してやるのが普通だ。
「ハナコ、首輪を外すよ。ちょっと大人しくしててね」
そう言いながら僕より頭一つ低いハナコの後ろに回り、色褪せた布製の首輪を外してやる。首輪に付いた鑑札と鈴が軽く音を立て、ハナコがくすぐったそうな顔をしてる。外して見ると少し汗染みのあるみすぼらしい首輪だから、明日にでも新しいのに替えてあげよう。今日寄ったブティックにあったカーフスキンの柔らかい物か、ちょっと高いけどシルクのカラーを奮発しよう。
そんなことを思いながら首輪を外している時、ハナコの髪の匂いがちょっと気になったので、指で少しかき上げて地肌を確認する。ペットショップではマメに洗髪はさせていたようだけど、輸入物の安物シャンプーはアレルギーのもとになったりするからだ。こんなきつい香料が入ってるシャンプーが高級品の訳が無いので気になったんだけど、特に皮膚炎などの問題は無い様だったのでほっとする。一応ペット保険にも入ったけど、ペットの治療費は結構高いのだ。地肌が赤くなってたりしたら兄さんに診てもらおうと思ってたけれど、その心配は無い様だった。
僕の兄さんはペット専門の獣医だ。昔ならば婦人科とか産科医と言う事になるのだろう。但し兄さんは獣医と言ってもハナコの様なペット専門で、一般のコンパニオンアニマルである犬猫などの診察は出来ない。
そういう関係で兄さんに家で診てもらう時にはタダなんだけど、兄さんの勤務先のペット病院で診察してもらう時にはそうは行かない。給料の良い兄さんと違って安月給の保育士である僕には、ペットの医療費や保険料はなるべく安く抑えておきたかった。
地肌のチェックをしていると、ハナコは気持ち良さそうに目を瞑っている。犬猫では貰ってきたその日から飼い主にべったり懐く事はそう無くて、段々と慣れて心を許してくるものだけれど、ペットはほとんど例外無く人懐こい。例外は一つだけ。「ペットが嫌いな人・害意がある人」には懐かずに怖がって近くに寄らない。
犬猫も動物好きな人とそうでない人は見分けると言うけれど、ペットのそれには全然敵わない。人の心を読んでいるのかと思う程に正確で、ちらりと視線を合わせただけで見抜いてしまう。本当に心を読んでいると考える人も少なく無い。
昔の『女』にもそう言う感じの能力(空気を読むとか言うらしい)があって、男よりもずっと敏感だったそうだけれど、今のペットの持っている力とは比較にならない様だ。
僕や兄さんは生きた「女」には会った事が無いが、父さんにはある。父さんの曾おばあさん、僕らの四代上のお婆さんは「雌」ではなくて「女」だった。父さんが子供の頃に亡くなっているので、僕らはビデオと写真でしか見た事が無い。こんな事を言ってはいけないけれど、写真で見ると皺くちゃで背中も少し曲がってひどく貧相な感じだった。若い頃のスチル画像でも、例えばハナコと比べると随分不細工な女性だと思う。でも、父さんはとても可愛がってもらったそうで、その時の話を聞くと少し羨ましい。
父さんの曾おばあさんは、死ぬ時までボケたりせずにしっかりしていたそうだ。とても感覚が鋭くて、ちょっとした他人の機嫌の違いなどもすぐにわかったそうで、父さん自身も良く言い当てられていたそうだ。父さん自身も人の気分を良く見抜く方なので、結構そういう所は受け継いでいるのかも知れない。その点、僕はそこそこ、兄さんは全く鈍い方だ。
曾おばあさんは三人の子供を産んだけれど、そのうち一人は「女の子」ではなくて「雌」だった。その頃は「雌」はペットとしてではなく知的障碍者として扱われた。だからそれほどひどい扱いを受けることも無く、曾おばあさんが大事に守った。そしてもちろん結婚も出来ず、子供も産まずに三十歳くらいで亡くなってる。
その頃に世界的に人口が激減した。「女」が生まれなくなって寿命の短い「雌」ばかりになったし、その「雌」がペットではなく障碍者として社会からほぼ隔離されてしまったのだから、男にとっては物凄い結婚難になった。そして、この人口減少の前半期が一番ペット達が虐待された時期だったんだ。
ペット達が生まれてくる前の時代から、独立した社会人としての女性を疎んじて「女」は子供を産むために存在すると公言して憚らない男たちは少なく無かった。実際には「女」抜きでは、実業の世界に限ったとしてもまともに社会が動かなかったのは歴史が証明したけれども。
「女」がいたペット以前の社会では「女」が男同様に働いたり、対等に議論をしたりする事自体が許せないと感じる男が大勢いて、そういう男たちは社会に問題が起こると、女が家庭を疎かにするせいだと言ったり、子供より仕事を選ぶ女のせいで悪い子供が増えて、社会が駄目になると主張したりしてた。
今ではそう言う男はいない。肝心の「女」が滅んでいなくなってしまったから、都合の悪い事を「もう存在しない」女のせいには出来ないものね。
最後の世代の「女」達がだんだん年老いて、もはや子供を望めない時代になった頃、つまり僕の父さんが生まれる少し前の時代までには年間2%位のスピードで人口が減った。10年足らずで人口が二割以上減った事になる。伝統的に女性の労働力の割合が高かった看護・医療の分野などは、若い看護師があっという間にいなくなったものだから目に見えて医療レベルが下がり、それで更に人口減少が進んだし、障碍者として扱われて労働力にならない「雌」の保護にも社会コストがかかっていた。当時は「穀潰しの女(雌)どもが社会を駄目にしている」とか叫ばれてたらしい。どう考えても一番の被害者がその「穀潰しの女達」なのに。
そして妊娠中絶が爆発的に増えた。エコー検査で性別判定の出来る医療レベルの国では例外無く起こっていた。もちろん違法行為、殺人行為だけれど、確実に知的障碍者として生まれてくる子供は出産前に淘汰するのが社会的正義であり、生まれてこない事が本人の為でもあると言う事が、至る所で金切声で主張され、政府も医療者も結局それに押し切られて黙認する事になった。当たり前の事だけど出生率もガタ落ちして人口減少に拍車がかかった。出生数の何割もが間引かれたんだから当たり前だよね。
もちろん人不足の今の世の中でそれをやったら、堕胎医は強制収容所で余生を過ごす事になる。キリスト教信仰とは無関係に、堕胎は重罪の地位を取り戻したんだ。
当時の政府、と言うより世界中のあらゆる国が必死で対策を打ったのだけれど、それはパニックの最中だからこそ出来た様な強引な政策だった。特殊ペット愛護法が制定されて知性を失った女達は人権を大きく制限され「ペット」として、男の慰み者になって子供を産む道具として生きて行く事になった。そうしないと、種としてのヒトが滅んでしまうのが見えていたからだ。
あくまでペット達を「知的障碍者」として扱うのであれば、本人の意思を確認しないで子供を作らせるのは強姦になる。実際に家庭内で保護されていた「雌」が出産する事はしばしばあって、それは強姦事件として取り扱われた。もっとも、貧しい家に生まれた「雌」が性産業で働き、妊娠してしまうのは普通だったそうなんだけど、そちらは強姦ではなくて不法な堕胎だけが問題になってたらしい。
それを知った時には変だなと思ったんだけど、昔は貧しい家庭に生まれた知的障碍がある女性に売春をさせる事なんてごく普通の事だったので問題にならなかったそうだ。
その結果として「雌」から生まれた子供には何の問題も無いことは、怪我の功名と言う感じでわかっていた。「女」が生まれる事が無いのは変わらなかったけれども、とにかく男はちゃんと産める事がわかった。
そしてそこから先はもう一本道だった。知性が無い「雌」には合意の上での性行為が出来ないので、人権を持たせたまま子供を作らせるわけにはいかないが、「もう人間じゃない」と宣言してしまえば法的な問題はとりあえず無くなる。
もちろん当時、それに反対した者は多かったそうだけど大勢には抗し様も無く、世の中からは制度的にも「女」は消滅し、世の中は人権を持つ「男」とそんなものは持たないペットの「雌」だけを認める世の中になった。人権は失ってしまったペットでも、せめて不当に苦しめられることが無い様にと努力した人も少なからずいたけれど、当時の社会の風潮はそれを許さなかった様だ。ペット達は苦しみ続けた。
それは確かにペットにとっては酷い話だったかもしれない。でもそのおかげで社会は崩壊せずに済んだ。進んだ社会無しでは真っ先に死んでしまうだろう知性の無いペットにとっても、そう不利な判断ではなかったと思う。
実際に崩壊してしまった途上国は少なく無いし、そこで生き永らえている「雌」は純然たる家畜として飼育されていて、ハナコ達の様なペットとは比較にならない悲惨な暮らしを今でも強いられてる。
どちらにせよ、ペット達にはそれを拒否する事は出来なかったし、文句を言う能力だって残されてなかった。
虐げられるペットはとても増えたし、社会もそれを咎めない風潮がずいぶん続いた。昔の犬や猫の扱いと大差無いくらいまでに扱いは酷かった。女がいた頃の日本は「もう飽きてしまったから」と言う理由にもならない様な言い分で、飼っていた犬や猫を殺処分施設に送って殺しても罪に問われなかったけれど、人権を失った頃のペットも同様だった。粗相があったからと言って死ぬまで殴ったのに罰金で済んでしまった判例が残ってる。当時は動物愛護法の方が厳しいくらいで、故意で犬猫を殺したりすればとても罰金刑では済まなかったから、ペットは犬猫以下だったことになる。
ペットの人権停止という強引な政策が成果を上げて人口が横ばいになり、少し上向きになってしばらくした頃、ようやくペットに対する気違いじみた対応が改めて考え直される様になってきた。ペット達の人権を奪った特殊ペット愛護法も改正を受けて運用や罰則が厳しくなり、少なくとも「犬猫以下」の扱いは許されない様になった。それでもペットの扱いが「犬猫以上人間以下」と言う法律の文面通りに保障されるようになったのは、ようやく僕らが生まれる頃だったけれども。
Not woman but female