ラッキー通帳

何をやってもツイてない和義は「ハピネス下田」と名乗る謎の男から「ラッキー通帳」を手渡される。
「ラッキー通帳」を手に入れた和義に訪れる人生とは。

何をやってもツイてない和義は「ハピネス下田」と名乗る謎の男から「ラッキー通帳」を手渡される。


世の中には懸賞を当てる人、お金を拾う人、有名芸能人に偶然出会える人、宝くじで1億円当てる人、様々な幸運を持った人がいる。
そして、俺はそんな人達とは程遠い場所にいる。
和義は地面に何かを擦り付けるように歩いき、その手には食べかけのアイスが握られていた。
アイスについている木の棒の姿もほとんど露になり、棒には1つの文字が書かれている。
「よし、今度こそ」和義の目に映る文字とは「あ」である。アイスの棒に「あ」と書かれていればもう答えは1つしかない。
このアイスには二十年以上の歴史があるベストセラーアイスだ。発売当初、1本五十円の破格の値段に全国の小学生が夢中になった。小遣いをもらえば、こぞって駄菓子屋に行って買った。
しかし、皆の目的は、値段の割の美味しさではない。アイスの味なんかよりも棒に書かれている言葉に興味を惹かれていたのだ。
このアイスの売り文句は一本五十円でなく、十本に一本は「あたり」があると言う事だった。十本に一本という高確率の中、ほとんどの子供達が必ず一度は当てた事がある。
唯一「あたり」を手にしたことが無いのは恐らく俺だけだ。「あたり」獲得を目指して約二十年間、ようやくそれが報われようとしていた。いつもの「は」ではなく、「あ」が見えたからだ。
「あと少しだな」と笑みをこぼし、これまでの戦いを思い返してた。残り二口、一口とアイスを食べ終わり、目を瞑って念を込めた。
この棒に書かれている言葉でこれまでの運が無かった人生が報われる気がする。俺の人生は変わるんだ。
ここまで、アイスの「あたり」に対して熱を入れるのは世界中の中でも和義だけだろう。
そして、「あたり」が出れば人生が変わると本気で思っているのも恐らく一人だけ。 
なぜ、ここまで本気になるのかと言うと彼はアイスの「あたり」を手にしたこと無いだけでなく、本当にツイてない人生を送っていたからだ。
外に出れば犬の糞を踏み、鳥が飛べば糞をかけられ、雨が降れば車から泥水を掛けられる。子供が野球をしていれば、頭にボールがぶつけられる人生をずっと送ってきたのだ。 
これからもこの運に見放された人生を歩むのだろうと思っていたが、今日は違う。このアイスが当たれば何かが変わる気がする。
和義には確信があった。なぜなら、すでに「あ」の字が見えていたからだ。
和義は完全に露になった棒を前にゆっくりと目を開けた。棒に書かれていたのはやはり…。
「あた…ありがとう」笑顔で目を開けた和義の頭の中は真っ白になった。棒に書かれていたのは「あたり」でも「はずれ」でもなく「ありがとう」と書かれていたからだ。
「なんだよ。これ」和義は意味が分からずにアイス袋の裏面を隅々まで読むが何も書かれていない。
「ありがとうってなんだよ」全身の緊張が抜け、重力に身体を預けるようにその場にしゃがみ込んだ。しかし、勢いもあってかズボンから鈍い音がした。
和義は音の出所を確かめるかのように、お尻に手を当てた。ズボンには予想通り、縦ラインの大きな切れ目が入っていた。
和義はため息をつきながら、壁に寄りかかり地面に腰をつけた。ついでに左靴についた犬の糞が取れたか確認したが、糞は靴の細かい溝の中に入り込んだままである。
「本当に何しても駄目だな」と呟きながら星が点々と輝く空を見上げる。
すると、すぐさま一つの星が大きく落ちるのが見えた。
「流れ星か」和義は滅多に見られない流れ星を目を凝らしながら、よく見てみた。
流れ星は通常、一瞬で姿を消す。だが、その流れ星は違っていた。
一向に消える様子も無く、むしろ輝きは更に大きくなっている。
「あれ、こっちに来てないか」和義は大きく近づいてくる光の玉に身の危険を感じたが、恐怖のあまりか身体が動かなくなっていた。
「大変だ。隕石がぶつかる」和義は両手で頭を覆った。腕の隙間から見える光は輝きを増し、ついに自分の目の前まで迫って来た。
もう、終わったと和義は思ったと次の瞬間、隙間から見える光は徐々に消えていった。  
和義は怖い物見たさでゆっくりと腕を下して顔を上げた。目の前には隕石でも、光の玉でもなく黒いスーツに身を包んだ細くて長身の男が立っていた。男は和義の顔を見るなり、深々と頭を下げた。
「高橋和義様、今回は誠に申し訳ございませんでした」
「俺に言ってるんですか。て、言うかあんた誰ですか」
「はい。私は、ラッキー銀行、ラッキー消化調査委員会、ハピネス下田と申します」
「え、何ですか。ふざけているんですか。ていうか、どこから来たんですか」
「とんでもございません。私は和義様のラッキー消化を手助けする為に神から使わされて天から来たのです」ハピネス下田と名乗る男が次から次に言葉を発するので和義の思考は完全に置いてきぼりになっている。
「全然、意味がわかりませんし、ラッキー消化って何ですか」和義の止まらない質問にハピネスは笑顔で説明を続ける。
「普段、人間は何か不都合な事や不運な事が起こる前に自分の運を使って回避したりしています。中には回避出来ないこともありますが、皆様それぞれ運を持っています」
「それで、ラッキー消化の手助けって」
「普段、人間は無意識の内に運を使って危険回避や幸運を掴んでいるのですが、和義様は産まれてから一回も運を利用されていません。こちらの通帳をお受け取り下さい」ハピネスはポケットから一冊の通帳を取り出した。
「俺は産まれて一度も運を使ってこなかった。だから、こんなにも不運な事だらけって事なのか。それで、この通帳は何ですか」手渡された通帳は、どこにでもある様な長方形の薄い形で、表紙にはラッキー通帳、ラッキー銀行と書かれている。
「この通帳に記載されているのは、和義様がこの二七年間の人生の中でずっと貯め続けた運の量を示しております」和義は通帳を開いて中を確認した。中身は普段使っている通帳と本当に何ら変わりない物だ。
「最後に記載されているページに、15000ラッキーって書いてあるけど、普通の人ってどのくらい持っているんですか」
「皆さま、運を使用したり、貯めたりして個人差はありますが、平均で約300ラッキーです。つまり、通常の方よりも五倍近くのラッキーを保有している事になります」
「でも、急にそんな事を言われても信用できないな」和義は得体の知れないハピネスに対して不信感以外、何も感じていなかった。
「かしこまりました。それでは小手調べにまずは5ラッキーを使用してみましょう」ハピネス下田が指をパチンと鳴らすと通帳の数字が14995ラッキーに変わった。
和義は自分の身体のあちらこちらを見るも特に変化は見られない。
「何もないじゃないか」和義がハピネスにそう言うと暗闇から一台のタクシーが現れ目の前で止まった。
「大丈夫か」後部座席の窓が開くと、中からどこか見覚えのある顔が出てきた。和義はよくその顔を見て名前を呼んだ。
「小山田部長。なぜこんな所にいるんですか」
「帰る途中で自転車が故障して、たまたま、通りかかったんだ。お前こそ一人で何してるんだ」
和義は部長の「一人で」の言葉に違和感を感じハピネスの方を見た。
「私は和義様にしか見えておりません」和義は小さく頷き部長の方に視線を戻す。
「それがちょっとですね。僕のズボンがその…破れて、どうにも動けなくなってですね」
「それで、地面に座ってたのか。てっきり、ケガでもしたのかと思ったぞ」部長は和義の状況に思わず笑い始める。その笑い声を恥ずかしそうに聞く和義に小山田は話を続けた。
「まぁ、でも、お前からしたら、一大事だよな。よし、家まで送るから乗りなさい」小山田部長はドアを開けて手招きした。
「ご一緒してもよろしいのですか」
「いつまでもそこには居られないだろ。いいから早く乗りなさい」
「ありがとうございます」和義はタクシーに乗り込みながらハピネスの方をチラリと見た。
「それでは、またあとでお会いしましょう」


 ラッキー通帳をもらって和義の人生は一転した。今までの不幸を取り返すかのように和義は運を使いバラ色の人生を歩み始めていた。
日曜休日の人ごみの中、和義は背後にハピネスを付かせ堂々と歩道の真ん中を歩く。
「和義様、前方から三人の男組が来ます。このままでは衝突しますが、どうしますか」
「運を使って、ぶつからないようにしてくれ」ハピネスは「かしこまりました」と言い指を鳴らすと、三人の男達は突然、お腹を押さえ出して我先にとコンビニに走って行った。
「和義様、目の前に犬の糞がございますが、どう致しますか」
「運を使ってくれ。糞だけに」ハピネスは再び指を鳴らす。和義は地面を見ることなく糞すれすれで避けた。
「うわ。犬のうんこ踏んだ」和義は背後を歩いていた学生達の声を聞き、ほくそ笑む。
「和義様、三秒後に上空からカラスの糞が落ちてきます」
「もちろん、運を使ってくれ」和義の心の中は幸福で満ちていた。自分に降りかかる全ての不運を跳ねのけれるからだ。しかも、小さな不運に対していくら運を使っても尽きる事は無かった。
「ハピネス、運の残高はいくらぐらい」
「現在の運の残高は14950ラッキーです」
「それじゃ、ハピネス。目的地に到着するまで、このまま歩道の真ん中を歩くから、みんなが避けてくれるように運を使用してくれ」
「かしこまりました」ハピネスが指を鳴らすとモーゼの如く和義は人ごみを両断し、誰からも邪魔される事なく目的地へ進んだ。
「なんて、気持ちいんだ。みんなが俺を避けてくれる。今までの辛い思いがドンドン晴れていくよ。最高だよ。ハピネス」
「喜んで頂けて幸いです」
和義は運を活用する事により、予定時間の二十分以上速く、目的地へと到着することが出来た。
「本日は、ここで運をご利用になるおつもりですか」
「そうだよ。ハピネスの話を聞いて正直、最初に思いついたのは、これだよ。これ、宝くじだよ」と言いながら、背中を丸めた老婆が一人で経営している小さな宝くじ屋を指さした。
「ここで一発大逆転するんだ。俺には大量の運がある。大金を手に入れて更に幸せになるんだ」
「かしこまりました。それでは、どれほどの運を使用致しますか」
「ちなみに、一等の一億円ってどのくらいの運がいるんだい」ハピネスはスーツから電卓を出して計算した。
「宝くじの一等は約十万ラッキー以上は必要となります」
「え、そんなにするの。じゃあ、二等はどのくらい」
「二等は八万ラッキー以上です」
「結構するんだな。一応、今日は百ラッキーくらいは使おうと思ったんだけど、それでいくら位は当たりそうかな」ハピネスは再び電卓を取り出して算出した。
「百ラッキーでは約二万円くらいの金額なら当たることが出来ます」
「え。そんなもんなの」和義は予想外の金額に少し悩んだが、そのまま売り場に行って宝くじを一枚購入した。
「それでは、運を使用致しますか」
「あぁ、思い切って五千ラッキー使ってくれ」これまでの運を使用してきた中で一番のラッキー奮発である。
「かしこまりました」ハピネスの指の音と共に手元の宝くじが輝き始めた。
和義はポケットから十円玉を取り出して九つの内三つの白い円を擦る。三か所から出てきたのは、金色に輝くサクランボの絵だった。
「すごいね。兄ちゃん。四等だよ。百万円だよ。大当たりだ」和義は自分の事のように喜んでくれる目の前で見ていた老婆に握手を交わして小切手を受け取った。
「百万円でも、やっぱり嬉しいよ。思い切って五千ラッキー使って良かったよ。これで、新しい服と靴を買おう。あと、新しい腕時計も買おうかな」和義の頭の中は既に何を買うかでいっぱいになっていた。
これで、和義は産まれて初めて何かが当たるという感覚を味わえたのだ。しかも、初めてがいきなりの百万円なんて世界中の誰よりもこの当たりを喜んでいるであろう。和義が幸せに浸りながら細い道に入ると突如、身体が動かなくなった。
「どうなっているんだ」よく見ると身体だけでなく周囲も止まり始めていた。戸惑う和義にハピネスが話かける。
「突然の事で驚かれていると思いますが、和義様。緊急事態です。今から十秒後に背後からトラックが突っ込んできます。どう致しますか」
「え、トラックが突っ込んでくるの。もちろん、運を使って回避してよ」
「かしこまりました」そう言いハピネスは、指を鳴らそうとしたが、何かを考え始めて再度、和義に確認を取った。
「和義様、今回は二択ございます」
「え、二択あるの」
「はい。まずは、無傷で助かるのに三百ラッキー消費します」
「『無傷で助かる』が三百ラッキーね。まぁそんなに高くないか。それともう一つは」
「もう一つは『軽傷で助かる」が千ラッキーです」ハピネスの言葉にすぐさま、ひっかかりを感じた。
「なんで、『軽傷で助かる』の方が高いんだよ」ハピネスに質問するが答えは得られなかった。
「その質問は、お答えできません」
普通なら、三百ラッキーの『無傷で助かる』を選択するが、ラッキーは消費すれば、それだけの見返りが在るはず。
待てよ。軽傷で千ラッキーと言う事は、軽傷による慰謝料とかで、金儲け出来る可能性があるかもしれない。なんだ、そう言う事か。それなら、少しのケガぐらい我慢しよう。
「よし、決めたぞ。軽傷の千ラッキーでお願いします」
「かしこまりました」ハピネスの指の音と共に止まっていた景色が動き始める。
和義は心の中で十秒をカウントし始めた。十秒前、五秒前、三秒前と差し掛かりようやくトラックのクラクション音が聞こえた。しかし、和義は振り向かない。自分は軽傷で助かると分かっているからだ。クラクション音を背中で聞きながら、前を見て歩いていると突然、女性の声が聞こえた。
「危ないー」声のする方を振り向くや否や左側の駐車場に突き飛ばされ、その背後をトラックが走り抜けて行った。
なんで運転手が降りて来ないんだと考えたが、そんな事より目の前で倒れている女性の方が今は重要だった。
「大丈夫ですか」和義は声を掛けながら、女性の両肩を叩いた。
「私は…大丈夫です」声掛けに対して謎の女性はゆっくりと身体を起こした。
「あなたこそ大丈夫でしたか」女性は和義を心配そうに見つめた。
「はい。なんとか」
「クラクションの音が聞こえなかったんですか」女性の目中は和義への不信感で満ちていた。
「いえ、聞こえてたんですが。まさか、接触しかけてたなんて」和義が困ったように頭を掻いていると女性は和義の腕を掴んだ。
「腕、ケガしてるじゃないですか。私の家、すぐそこなんで、手当てしますよ」
「いえ。そんな。命まで助けてもらって、図々しいですよ」和義は手を振って全力で断った。しかし、
「いいから。あなた、悪い人じゃなさそうだし。手当てするだけですよ」和義は言われるがままに手を引かれ、彼女の家へと足を進めた。


彼女の住んでいるアパートは駐車場から歩いて三分程度の近所だった。
「そこのテーブルに座ってて、救急箱持ってくるから」玄関に入るとすぐに台所と食事用のテーブルが1つと四脚の椅子が並んでいた。  
言われた通りに和義は椅子に座り、奥の部屋で救急箱を探す女性の音を聞いていた。台所は普通の家庭と変わらない作りだった。キッチンがあって、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジがある程度。あまり、女の子らしい様子は見られない。強いて言うなら、テーブルに敷かれたピンクのテーブルクロスくらいだ。
台所を見渡していると、女性が戻って来た。
「お待たせ。救急箱持ってきたよ」小走りで戻って来た女性は台所に入ってくるなり、ドアの段差に躓き、勢いよくこけた。落ちた救急箱の中身は台所にばら撒かれ、整理整頓された部屋は一気に散らかってしまった。
「大丈夫ですか」和義は急いで彼女に駆け寄り身体を起こした。
「ありがとうございます。あ、中身がバラバラに」女性はすぐさま、床に散乱した風邪薬や包帯を拾った。
「僕が拾います」二人で拾えばすぐに終わるものだ。大量に落ちていた道具は、ほんの数分で片付け終わり、ケガの治療が始まった。
「すみません。本当にこんな事まで」
「気にしないで下さい。それよりも、片付けありがとうございました」
「それこそ、気にしないで下さい。当然のことです」初対面の二人に弾む会話などある筈もなく、刻々と時間は過ぎていく。彼女は傷薬を塗って、その上から絆創膏を張り、最後に包帯を巻いてくれた。
「ありがとうございます」彼女の手際の良さに和義は素直に感心していた。
「どういたしまして」彼女は救急箱に道具を仕舞い、奥の部屋へと戻しに行った。
「それじゃあ、用事も終わったので」と、和義は席を立つと彼女も「気を付けてくださいね」と言い、玄関まで見送ってくれた。和義が靴を履いてドアを開けようとすると、インターホンが鳴った。
「誰だろう」と和義越しに彼女がドアを開けると立っていたのはピザの配達委員だった。
「こんにちは。ピザのお届けに来ました」彼女は身に覚えが無いのか不思議そうに配達員を見る。
「私、頼んでないですけど」
「え、でもここの住所で間違い無いはずですけど」配達員は注文用紙を見せた。
「住所はあってますけど、電話番号が違いますよ」配達員は少し離れて電話を掛けた。数分後、申し訳なさそうに戻って来た。
「すみません。住所を聞き間違ったみたいです。申し訳ございません」そう言いって、その場を後にしようとした配達員に和義がすかさず、声を掛けた。
「そのピザって処分するんですか」
「そうですね」
「それじゃあ」和義は財布から二千円出して手渡した。
「どうせ、捨てるなら、俺がもらうよ」
「え、そんな悪いですよ」
「いいよ。気にしないで。それじゃあ、次は気をつけて」和義は配達員の肩を軽く叩いて元気づけた。
「ありがとうございます」配達員は一礼しサービス券を更に手渡してバイクに戻った。
「さてと、これ今日のお礼にどうぞ」和義は買い取ったピザを彼女に渡した。
「え、これを私にですか」
「ほんのお礼です。どうぞ、受け取って下さい」
「ちょっと待ってくださいよ。こんな大きなピザ、1人で食べれないですよ」彼女はそう言い笑い始めた。
「そうですよね。すみません」彼女の笑い声に和義もつられて笑い始めた。そして、彼女から一つの提案が出た。
「晩御飯には早いですけど、一緒に食べて行きますか」
「え、それは流石にマズいんじゃ…」
「別にいいですよ。どうせ1人ですし」彼女はそう言って台所に戻った。
「それじゃあ、改めておじゃまします」
「いらっしゃいませ。あ、大事な事を思い出した」彼女は両手で大きな音を出した。
「何ですか大事なことって」彼女はクルっと振り向き和義を見た。
「あなたの名前ってなんですか」よくここまでお互いに名前の知らない者同士で一緒にいれたもんだ。二人は改めて自己紹介を始めた。
「そう言えば、言って無かったですよね。俺は高橋和義です。あなたの名前は」
「阿部薫です。薫って呼んで下さい」
「薫さんですか。良い名前ですね」
「ありがとう」薫はそう言ってテーブルにつくように促した。
ピザの他にと、準備をする薫の背中を見ている和義にハピネスが微笑みながら声を掛けてきた。
「うまくいきましたね。和義様」
「そうだな。これも運のおかげだ」間違ってピザが配達されたのは偶然ではなかった。和義のラッキーがあってこそのことだった。
先ほどの帰り際に和義はハピネスに頼んでラッキーを使い、どうにか留まれないかを頼んでいたのだ。そして、ピザが間違って配達されたのだ。
「ハピネス、ようやく事故のラッキー消費量の違いの訳が分かったよ。あの時、無傷を選択していたら、俺は彼女に会う事は無かった。あの700ラッキーの差は彼女と出会えるきっかけを手に入れる物だったんだね」
「それも、和義様の運命でございます」
和義がハピネスとの会話していると薫は台所から何品かの小鉢を出してきた。
「これ、簡単なサラダと肉のつまみだけどどうぞ」女性の手料理なんて食べた事のない和義は感激のあまり泣きそうになっていた。
「ありがとうございます」
「そんなに喜んでくれるなんて」薫は和義の反応に照れながら、正面の席についた。
「それじゃ、いただきます」薫が手を合わせるのを見て和義も慌てて手を合わせる。
「いただきます」
「じゃあ、まずは小鉢の方から戴きますね」
二人は同時に小鉢の豚肉ともやしの炒めを口
に入れたが、その瞬間感じた事のない味が口
の中に広がった。
「ごめんなさい」すかさず、薫が謝ってきた。
「どうしたんですか」
「あの…、塩と砂糖を間違って入れちゃったみたいなの」
和義の予想は当たっていた。こんなに甘い野菜炒めを食べたのは初めての体験だったからだ。
「ごめんね。これ下げるから」
「待って」顔を赤くして涙目で小鉢を下げようとする薫に和義は手を出して止めた。
「これはこれで美味しいよ」和義はそのまま、箸を止めずに食べ続け、ついに完食した。
薫も和義のその姿を見てもう一度、食べてみた。和義のおかげか薫も完食出来た。
その後は、ピザを食べながらテレビを見て時間は過ぎていった。二人の趣味は意外にも合っており、好きなお笑い芸人や好きな歌手の話で盛り上がった。お互いの生い立ちや好きな食べ物、嫌いな食べ物の話。学生時代のプチ不幸話で笑いながら。
そうこう、話に花を咲かせていると時計は二十二時を指していた。
「それじゃ、薫さん。今日はありがとうございました。もう遅いので帰ります」
「こちらこそ。楽しかったです」
「それで…良ければ今度の日曜日にでも」笑顔の薫の顔が曇り始めた。
「今度の日曜日は確か…」すると、薫のケータイに着信が入った。
「ちょっと、ごめんね」と言いケータイを摂り出して誰かと会話を始めた。たった一分程度、話したかと思うと笑顔で戻ってきて、日にちの確認を再度行った。
「今度の日曜日、大丈夫になったよ」
「本当に。そしたら、今度の日曜に一緒にランチでもどうですか」和義にとってこれは初めてのデートの誘いである。当然、両手には汗の海が出来ている。
そんな和義とは裏腹に薫は涼しい顔でいた。
「いいよ。また、詳しい待ち合わせ場所と時間が決まったらここにメールして、あと電話番号ね」と薫は小さなメモ用紙を渡した。
「ありがとう。また、連絡するね」
「待ってる」そう言って薫は小さく手を振った。
和義はハピネスと共に薫の家を後にした。
「さすがです。和義様」とハピネスが呟いた。


和義は家に帰るとすぐに薫にメールを送った。内容は今日一日のお礼と共に、一週間後に約束したデートの待ち合わせ場所と時間についてだ。
何度も文章を読み直して字の誤りや文法がおかしくないか、相手が嫌な気持ちにならないかを念入りに考え込んだ。メールの文章自体はすぐに完成したが送信するかを二十分以上悩んでいた。彼女の家を出てからすでに一時間以上は経っている。
「薫さんを待たせすぎるのも良くないよな。よし送信だ。行け」和義はようやく決心がつき、天井にケータイを向けて送信ボタンを押した。
和義は送信完了の画面を見て一息ついた。とりあえず、たくさんの内容を送ったからな薫さんも色々と考えるだろうから、風呂に入って待つか。和義は服を脱ぎ、シャワーを浴びて身体を洗うもメールが戻ってないか不安になり、すぐに上がって確認する。
「まだか」きっと、向こうも風呂に入ってるのだろう。和義はそう思い、ニュースを見ながら返信を待った。時刻は既に十二時を指している。一時、二時と時間は刻々と過ぎていくが、返信は来ない。和義はアドレスを打ち間違ったかと一つの不安が浮かんだが気付くと朝を迎えていた。
最後の記憶は朝二時を確認したことだ。和義は念を込めながらケータイ画面をつけた。  
画面にはメール受信の履歴があり、開いてみると受信時刻は朝二時十分だった。
「あと少し、起きとけば良かった」和義は自分の頭を小突いて本文を読んだ。
『返事が遅れてごめんなさい。色々と片付けとかしてたら、疲れて寝てました。日曜日の事は大丈夫です。私も楽しみにしています』和義は、逸る気持ちを抑えつつ本文を入力して返信した。
それから、和義と薫は毎日メールでやり取りを行い当日を迎えた。
和義は予定よりも三十分早く、待ち合わせの公園で待機していた。今日は五万円で新しく購入した店員コーディネートの服に身を包み、万全の状態で構えていた。時計も一本五万円のニューモデルの腕時計だ。
時間を気にする訳でもないのに腕時計に頻繁に目をやる。自分の腕に高い物がついている事が未だに信じられないのだ。
そして、時間は予定時間の十二時半となったが、薫はまだ姿を現さない。
「なかなか、来ませんね」
「ハピネスは何もわかってないな。女子は準備に時間がかかるんだよ。男はそれを黙って待っていればいいのさ」
和義はハピネスの言葉に動じる事無く「男の教科書 デート編」を思い出していた。
そして、待つこと十分。ようやく、薫の声が聞こえてきた。
「ごめんね。遅れて、待ったでしょ」和義はとにかく冷静で男らしくと構えたが、薫の姿に一気に緊張してしまった。
先日のラフな格好とは違い、白のワンピースに茶色のハイヒール、化粧もばっちりしていて、薫の可愛さがさらに引き立っているように感じた。
「どうしたの。やっぱり怒ってるの」心配そうに見つめてくる薫に和義は男の教科書123ページを頭の中で開いた。
「俺も丁度、今来た所だから」
「良かった」薫は笑顔を取り戻し和義がリサーチしていたカフェでランチをした。街中のど真ん中にあるそのカフェのおすすめはホワイトソースの掛かった海鮮パスタだ。この一週間、毎日欠かさずにしたメールの中で彼女の好みも完全に把握していた。
「このパスタ、すごく美味しいね」
「そうなんだよ。一番人気のパスタなんだ」デートが始まって和義は緊張して話が出来ないんじゃないかと不安もあったが、なぜ
か薫と話をすると心が自然と和らいで本来の
自分でいられる気がした。
二人には新しい話題もあればメールで一度話した事を振り返ったりとランチ中は会話が途切れる事なく、楽しい時間を過ごした。
「じゃあ、次は話題の映画でも観に行こうか」
「それって、私が観たいって言ってたやつ」
「もちろん、そうだよ」と言い和義はポケットから前売り券を二枚取り出して見せた。
「凄い。なんで券持ってるの」
「前もって準備してたんだ」和義は男の教科書115ページを思い出していた。
「はい。映画券ね」
「ありがとう。凄く楽しみだな」そして二人は映画に出てくる俳優の話やお互いの好きな映画について語りながら劇場へと足を進めた。
「和義君、ポップコーンとドリンクいるよね」
「そうだね。俺はコーラとポップコーンにしようかな。薫さんは何が良いの」
「いいよ。ここは私が出すから」薫には和義が断る事をわかっていたので、有無を言わさずに和義をその場に残らせた。
数分後、二つの大きなポップコーンとドリンクを運ぶ薫が戻って来た。
「お待たせしまし…きゃっ」美味しそうなバターの匂いをさせながら、戻ってきたが…。
「薫さん」薫はあと数歩と言う所でこけてしまったのだ。和義は急いで近づき手を差し伸べた。薫の表情はさっきとは違い暗く、沈んでいた。当然だろう。
「ごめんね。せっかくのポップコーンが」
「いいよ。それよりケガは無かった」
薫は首を横に振り落ちたポップコーンを拾い始めた
「とりあえず、片付けなくちゃ」その姿を見て和義は一言。
「ハピネス頼む」
「かしこまりました」ハピネスが指を鳴らすと劇場の奥から大量のスタッフが出てきた。
「大丈夫ですか。お客様」大勢のスタッフ達は薫に代わって散らばったポップコーンやドリンクを片付け始めた。
「あとは、私どもで行うので映画をお楽しみ下さい」スタッフにそう言われ、二人は券を係委員に渡した。一段落したと思ったが、薫の顔は暗いままだった。
「ごめんね。ドリンクもポップコーンも無しになって」
「大丈夫だよ。気にしないで」二人が券を係員に見せると突然、大きな音が館内に響き渡った。
「おめでとうございます。こちらの男性の方が本館が開いて一万人目のお客様となりました。プレゼントとして十回分のポップコーン、ドリンク無料券をお渡し致します」和義はすぐにサービス券を手に取って売店へと戻ってドリンクとポップコーンに引き換えた。
薫に笑顔が戻った所で映画はスタートした。
上映時間は120分。薫は集中して観ていたが、今の和義にとって映画よりも薫の事が気になってしょうがなかった。
鑑賞後、感動して出てくる薫と腰を叩く和義は、お互いに感想を言い合って出てきた。 
その後、二人はゲームセンターで時間をつぶして、予約していた洒落たダイニングバーに行き夕食にした。もちろん、これも男の教科書通りの行動だ。一つ違うのは運を使って、プロの音楽家が来るように仕向けた事だけ。
心地よいバイオリンとピアノの音色の中で見た事のないような食事が出てきて二人は更なる盛り上がりを見せ楽しんだ。食事は高級マンゴーのタルトを食べて終了した。
「夕食もご馳走になっちゃたね」
「だから、それは気にしないでいいよ」二人は食事が終わった後で近くの城島公園を散歩していた。
「ねえ、和義君から見て私ってどんな感じかな」薫の突然の質問に和義は今までの事を振り返って素直な気持ちを言った。
「ちょっと、天然で慌てん坊さんかな」
「ひどいな」と言い薫はそっぽを向く。
「ごめんって、怒った」和義はヤバいと思ったが、薫は変わらない様子で続けた。
「そう思われても仕方ないよね。でも、いつもはしっかり者って言われるんだよ。なのに、君といる時だけ何故か調子が狂うんだ」薫の思いも寄らぬ言葉に和義は返事に詰まってしまった。
それからも二人の間に会話はなく、静かな時間が流れた。
街中を走る車の音や雑音が二人を取り囲む。話題が無い訳ではない。話したい事はたくさんあるが、この時間を壊したくないという気持ちの方が強かった。男の教科書を思い出そうとも思ったが、今は必要ない。
二人が無言で歩き始めて五分が経過した。さすがに、間が空きすぎたかと考え、横の木に向かって誰にも気づかれずにウインクした。すると、上空に突如花火が打ちあがり始めた。
「あ、花火だ」ようやく薫は口を開いた。
「綺麗だね」和義の言葉に薫は小さく頷く。花火は二〇発上がった所ですぐに終わって
しまった。
確かに今日はお祭りなどない。どこかの小規模なイベント事の花火だったのだろう。
花火を見終わると二人の距離はいつの間にか近くなっていた。今しかない。和義は確信し
た。今だ。言うなら今しかない。言うんだ。
「あの、薫さん」真剣に語り掛ける和義の両目を見つめた。
「はい」
「実は、俺…」あと少し。頑張れ俺。言うんだ。男の教科書を思い出せ。「告白する時はビシッとシンプルに気持ちをぶつけろ」そして、和義の心はついに固まった。
「薫さん、俺と…」和義の一世一代の薫へ向けられた言葉は謎の大きな音で突如、掻き消された。
何の音だと思っていると発信源は薫のカバンからだった。薫は急いでケータイを取り出し電話に出た。
「ごめん、和義君。お父さんからだ」薫は父親と数分、話しこみケータイをカバンに戻した。
「ごめんね。和義君。お父さん、明日来る事になってたんだけど、間違って今日来たらしいの。それで、新町駅に一人で迷子になってて…」
「わかったよ。早く行ってあげなよ」和義は奥歯を噛みしめて薫を見送った。
「それじゃあね」薫は和義に手を振り、公園を出た。
「しまった。告白まで邪魔が入らないように運を使っておけば良かった」
「今から使ったらどうですか」
「いや、お父さん困ってるみたいだし。今日はいいよ」和義は落胆しながら、家を目指して帰った。するとケータイにメールの受信音が鳴った。
『今日は途中で抜け出してごめんなさい。お父さんとも無事に会えました。途中で帰ったお詫びとして今度の木曜日の夜に食事に行きませんか』和義は両指を素早く動かして返事を入力した。


夕方五時半、和義は今日ほど仕事に集中した日は無いだろう。
今日は薫と約束した二回目のデートだ。あの後、すぐにメールで新町駅前の公園で夜六時半に待ち合わせをしたのだ。
新町駅までここからなら電車と歩きも含めて三十分。待ち合わせ時間までにはかなりの時間がある。
彼女が来る前までに駅のトイレで身だしなみを整える時間も十分にある。
今日用意したレストランは超一流のシェフが経営している都内でも有名なモダンなレストランだ。ムードも最高との高評価で、ここ以外にない。薫からの誘いだったが、和義はすかさず、予定を立てた。差し出がましいかなとも思ったが、あの時は指が自然と動いたのだ。
 和義が会社を出てから駅に向かうまでの人通りはかなりのものだった。さすが、帰宅ラッシュだ。腕時計に目をやると、すでに一五分以上歩いている。
「これじゃ、駄目だ。駅まで最短で行けるように運を使って、あれをしてくれないか」
「かしこまりました」ハピネスが指を鳴らすと人々は和義を自然と避けて行った。和義はそのおかげで、一度もぶつかる事無く、城ケ崎駅まで走って到着した。
駅に到着したは、良いものの、人ごみは変わらずにいた。
「いつもは気づかなかったけどこの時間ってこんなに人がいたんだな。ハピネス、どうにか電車乗り場まで運を使えないか」
「かしこまりました」再び、和義の行く手を皆が避け、ホームまでは数分で到着した。
「よし、待ち合わせ時間には間に合いそうだな」和義は腕時計と電車の時刻表を交互に見て確認をとる。
時刻表とおりでは、残り一分で電車は到着するハズ。だが、一分経とうが五分経とうが電車は一向に来ない。
「遅れているのかな。ハピネス、運を使って電車を動かしてくれ」
「申し訳ございません。それは不可能です」
「なんで無理なんだよ」
「電車の中には何百人の人間がいます。電車の到着時間を速めると言う事はそれだけの人間の運命を大きく変えることになります。その際の運の使用量は莫大な物となります」
「わかったよ」和義がハピネスの説明を遮るとホーム内にアナウンスが鳴った。
「皆さま、ただいま新町駅近くの踏切で大規模な事故がございました。そのため、電車の運転を見直しております。復旧には約三時間以上の時間を要す予定となっております。ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません」
「マジかよ。ハピネス、なんで運を使ったのにこんな事になってるんだよ」
「和義様は、『駅に向かうまで』と『ホームに行くまで』に運を使用されました。初めから『新町駅に行くまで』に運を使用されていれば、このような事態には…」
「もう、良いよ。そしたら、今度は待ち合わせ場所に時間通りに着くように運を使ってくれ」
「誠に申し訳ございませんが和義様。今からではどれだけ急いでも十五分、遅れで到着するまでしかご利用できません」和義は一瞬考えたがすぐに決断した。
「それしかないなら、仕方がない。わかったよ」和義は薫に少し遅れる事をメールして走って駅を出た。
「それでどうしたらいいんだ」
「すでに運は利用されているので、あとは流れるままです」そうハピネスが言うと和義は背後から肩を叩かれる。
「お、高橋君じゃないか。こんな所でどうしたんだい」振り向くと背後に立っていたのは小山田部長だった。
「部長、なんでこんな所にいるんですか。今日は飲み会って言ってませんでしたか」
「そうなんだよ。でも、修理に出してた自転車がさっき戻って来たんだよ。停める場所もないし、酒も飲めないなと思って困ってたんだよ」そう言いながら部長は綺麗になっているロードバイクを見せてきた。
「それでしたら、今日は僕が預かりましょうか」
「いいのかね。助かるよ。これでお酒飲んで帰れる。また明日、会社に持ってきてくれないか」
「かしこまりました」和義は意気揚々と飲み屋に行く部長を見届け、少し加齢臭のするヘルメットを装着し、新町駅を目指してペダルに足を掛けた。
電車も止まって道路には退社した時よりも多くのタクシーで渋滞している。
「なるほどな。電車も駄目。車も駄目なら自転車か」和義はとにかく漕いだ。少しでも速く到着するように。
『待ち合わせ場所に着くまで』に対して運を使っている為、信号機にも引っかからず、とにかく進んだ。一度も地に足をつけることもなく。
「和義様、ここで休憩を取られなければ、残り十分もちませんよ」
「いや。大丈夫だ。薫さんに会うためだ」和義はハピネスの忠告をも無視して漕ぎ続けた。身に着けているスーツもすでに皺だらけ。
そして、漕ぎ始めて四十分が経ち、ようやく待ち合わせ場所に到着した。
「和義様、凄いですね。予定よりも一分速く到着しましたよ」
「なんだよ。たった一分かよ」肩で息をしながら汗をハンカチで拭う和義にハピネスは労いの言葉を掛けた。待ち合わせの公園に到着するも薫の姿はまだ見えない。ケータイを開いても返信は来ていない。
「なんだ。薫さんも遅れているのか。やっぱり、休憩しとけば良かったよ」和義は薫が来るまでの間、公園のトイレで身だしなみを整えたり、ケータイニュースを見たりして過ごして時間を潰したが、薫は一向に姿を見せない。
「どうしたのかな。もう、三十分以上過ぎているのに」和義はある事を思い出していた。 
ここまでの道中で見かけた物。聞いた音。必死に自転車を漕ぐことで気にしてなかったが、今となって思い出される数多くの救急車。
気にしてなかった周囲の人間の声も自然と耳に入ってきた。
渇き始めた汗は、嫌な予感と共に再び溢れ出してきた。
「おい。踏切の所の事故凄いらしいぞ」
「行ってみようぜ」和義は近くで事故現場に向う二人の野次馬の後を追った。心の中でそれだけは無いようにと祈りながら。
現場に到着するとトラックや自家用車数台が遮断機に激突しており想像よりも大規模な状態となっていた。
数多くの救急車やパトカーが停車しており、警察官や救急隊員が担架で次々と人々を運んでいる。和義は野次馬を払いのけ、現場がよく見える所まで移動した。
目の前に広がる事故現場はまさに地獄絵図。負傷者やその周りの人間は泣き崩れ、悲鳴と嗚咽で満ち溢れていた。
和義はたまらず、薫のケータイに電話を入れた。数回の発信音の後に留守番電話サービスに必ずつながる。このやり取りを何回しただろうか。数十回、電話を掛けるも薫の声を聞く事は出来なかった。
「ハピネス頼む」和義に残された選択肢は一つしか無かった。
「かしこまりました」ハピネスが指を鳴らすと和義は立ち入り禁止のテープを潜り救助する救急隊員に声をかけた。
「すみません。阿部薫さんって二六歳の女性を探しているんですが、見かけましたか」
「その子は二十分前くらいに近所の新町中央病院に運ばれたよ」
「ありがとうございます」和義は再び小山田部長の自転車に跨り病院へと向かった。道はわからないが、ラッキーを消費している為か、闇雲に運転していたつもりが、三分程度で病院に到着した。
病院の中に入ると事故現場と変わらずに負傷者で溢れていた。和義は慌しく走る看護師の腕を掴み呼び止めた。
「すみません。阿部薫さんって人は来ていますか」
「その方は、ただ今、緊急手術をしています。手術室はここから奥に行って右手にありますので。それでは、失礼します」和義の勘は当たってしまった。


手術室前にも多くの人間がいた。こちらの方は、負傷者よりも、その家族が待っているようだ。
今の和義に出来る事は周りにいる人々と同じで、ただ座って祈る事しかなかった。
いつ終わるかもわからない手術をただ待った。走り疲れていた事もすっかり忘れ、祈り続けた。和義が手術室前まで来て三時間以上が経ち手術は終わった。
手術室からは、担架に乗せられ運ばれる薫がいた。その姿はすっかり変わり果て、いつもの元気な笑顔など微塵も残っていなかった。
「薫さん、大丈夫か。俺の声聞こえる」和義は運ばれる薫に必死に声を掛けたが、反応は全く無かった。
和義は運ぶ看護師や医者を無視してずっと名前を呼び続けたが、目が開く事は無かった。そのまま薫は病室へ運ばれ、後に続こうと思ったが和義は医者に呼び止められた。
「君は彼女の恋人ですか」
「いえ。ただの友達です」友達と答える医者に少し躊躇したが、話を続けた。
「今から言う事を落ち着いて聞いてほしい。実は、彼女の容体は良くないんだ。お腹から反対の背中側にかけて鉄パイプが刺さってたんだ。応急処置は行ったが、出血がひどく、他にも事故の際に頭部を強打したみたいで意識が戻らないかもしれない」
淡々と進む医者の説明を和義は理解できないでいた。医学的用語がわからない訳でない。医者の発している言葉自体が全く理解できないでいたのだ。
「どうやら、君は親しい友人だったみたいだね。彼女のご家族さんが来るまで傍にいてあげなさい。あとは、奇跡を祈ってあげてください」和義は俯いたまま、医者の案内で薫の眠る病室に入った。
彼女の身体には多くの管が通っており、ベッドの周りには何を測定しているのか全く分からない医療器材が設置されていた。
手術室から出てきた時と同様に薫は酸素マスクを着けたまま、目を瞑っていた。
眠る薫を目の前に和義は膝から崩れ落ちた。
「俺のせいだ」
「俺がもっと早くついていれば、傍にいてあげれば、守れたかもしれない。俺が最初から君の下に行くように頼んでいれば…」後悔の念は止まる事無く背後から押し寄せてくる。
和義は泣きながら薫に謝った。
「本当にごめん…」返事が無い事などわかっているが、何かを言わなければ気が済まなかった。 
今、俺は何をしたらいいんだ。何て言えばいいんだ。何が出来るんだ。俺はなぜここにいるんだ。意味のない自問自答をしながら和義はただ、病室の床を見つめ続けている。
病室内にあるのは医療器材の電子音だけ。規則正しくなる電子音の中に時折、微かな雑音が聞こえる。最初はそんなハズは無いと気にしていなかったが、そのノイズは次第に大きく聞こえ出し、遂にはっきりとその音を聞き取った。
「和義君。こっちこそ、ごめんね」和義はすぐに立ち上がり、薫の顔を見る。
薫の顔を見ると目がうっすら開いていた。焦点こそ、和義には合ってないが、彼の存在を感じていた。
「俺の声が聞こえるの」和義は薫の手を握り声をかけた。
「聞こえてるよ」今にも消えそうな声と瞬きで薫は意思表示をした。
「良かった。目が覚めて」身動きの取れない薫は小さく頷いて答える。
「俺がもっと早く待ち合わせ場所についていれば、こんなことにならなかったのに、本当にごめん。守ってあげれなくて」和義にはもう、この言葉しか浮かばない。薫をこんな状態にしたのは俺のせいだ。俺が悪いんだ。
和義の想いが薫に通じたのかはわからないが、握っている和義の手に少し力が加わった。
「どうしたの」薫は再び口を小さく動かし始めた。
「そんな事ないよ。短い間だったけど私にとって君に出会えたことが一番の幸せだったよ」
和義はこれまでの薫との記憶を思い返した。まだ、知り合って一ヶ月も経ってない短い期間の思い出を遡った。
彼女といた間には楽しい時間しかなかった。こんなにも気が合う人と出会えたのは初めてだった。一緒に花火を見たこと、映画を観た事、美味しい食事をしたこと。毎日、メールをしたこと。テレビを見て笑いあったこと。そして、二人が出会ったこと…。和義はベッドの反対側で見守るハピネスに一つの疑問をぶつけた。
「まさか、ハピネス。彼女の…」
「そうです。彼女のラッキー残高はほぼ0に等しいです」和義は彼女の最後の言葉と二人の出会いを重ねた。
「俺と出会ったことが一番幸せだったって事は…」
「ようやくお気づきですか。本来、和義様はあの日、トラックにひかれて死ぬ予定でした。 
しかし、彼女は無意識に自分の運を全て使って和義様を救ったのです。だから、あなたの軽傷のラッキー消費はあの程度で済んだんです。人の命が回避できるラッキー量があの程度で済むわけがありません。彼女は無意識で自分の運を使ってあなたを助けたんです。彼女は全ての運を使ってあなたと出会ったのです」
和義は二人過ごした僅かな時間を遡って全てに納得がいった。
救急箱を持ってこけた事、映画館でこけたこと。本来は全て回避できる小さな事だったのだ。しかし、彼女にはそれを回避出来るだけの運は残って無かった。誰かも知らない和義を救う為に全て使ってしまっていたからだ。
「貴方の前だと緊張していつもの調子が出ない」と言っていた理由はここにあったのだ。 
「俺の目の前だからじゃなく、俺と出会ったせいで彼女はあらゆる不幸を回避出来なくなっていたんだ。じゃあ、彼女がこんな不運に見舞われたのも、やっぱり、俺のせいじゃないか」和義は両手で自分の頭を泣きながら掻きむしり出した。
「ハピネス。俺の持っているラッキー残高を全て使って彼女を救ってくれ」
「和義様、それは不可能です。和義様の残高は既に500ラッキーのみです」
「え、もうそれだけしかないのか」
「はい。ここに着くまでに使ったラッキー量は多大な物でしたから」
「俺はどこまで馬鹿なんだ。俺は彼女を救えないのか」頭を抱え小さく泣き叫ぶ和義にハピネスは声を掛ける。
「和義様、あなたは本当にラッキーですね」
和義はハピネスを見る事なく答える。
「どういうことだよ」
「今、本社に問い合わせをして審査してもらいました。結果、和義様は無事に審査を通過しました」
「何の審査だよ」
「ラッキーの前借です」
「え、ラッキーの前借だって」
「そうです。一生の内で返ラッキー出来る可能性があるかを審査してもらいました。幸運にも和義様は15000ラッキーを貯めた経歴があるので、無事に前借のラッキーが可能となりました。これで、彼女を救えますよ」
「本当にそんな事が可能なのか」
「はい。現在残っている500ラッキーを担保にして総合口座を開いたので大丈夫です。これにより実質、和義様のラッキーは0になります。そして、これだけの量の運を貸出すことになります」ハピネスは和義の耳元でラッキー量を小さな声で伝える。
「結構な額だな。だけど一生かけて返していくよ」
和義の通帳の残高記入表に500ラッキーが消え去って-の記号と共に多額のラッキー量が新たに記入された。
「ハピネス、俺に奇跡を…」
「かしこまりました」ハピネスは和義の両肩にそっと手を置いた。ハピネスから暖かい何かが伝わってきた。心の中にあった曇天な感情は全て払拭され、和義の心は晴々としていた。
「今なら、何でも出来そうな気がするよ」
「それでは和義様。薫様の手を握って下さい」
ハピネスの言う通りに痣だらけの薫の右手を優しく握る。すると、和義の体から青白い光があふれ出てきた。光は一旦、病室全体に広がり、二人を包み込み始めた。光が薫に触れると目も当てられなかった身体中の痣が次々と消えていった。次第に弱っていた薫の手に力が戻り、和義の手を力強く握り返してきた。
二人を取り囲む光は徐々に消えていき、薫は長い眠りから覚めたかの様に目を開けた。
そして、薫はゆっくりと身体を起こし、優しく手を握る和義に泣きながら抱きついた。



それから十年の月日が流れた。
薫が奇跡の生還を果たして半年後、二人は結婚した。今では二人の男の子と共に四人で暮らしている。
 和義はハピネスの言う通りに毎月、運の返済に追われていた。返済方法は至ってシンプル。当たった宝くじなどを天に掲げるだけいいのだ。すると、当たった宝くじは価値を無くす。これを毎月、繰り返すのだ。
 運が一切、使えないと分かった和義は何事も一生懸命に取り組んだ。運が使えない分、全ては実力で行わないといけないからだ。
「運も実力のうち」と誰かが言うが、本当の実力とは自分自身が努力しなければ手に入れられない。和義はその事を十分に理解していた。
確かに派手な生活は出来なくなった。だけど、これで十分なんだ。心の底から大切にしたいと思える人が傍にいてくれるだけで俺は幸運なんだ。
この幸せを守るために俺は今日も頑張って生きていく。
和義は食べ終わったアイスの棒を天高く掲げ、「あたり」の文字は次第に姿を変えていった…。

ラッキー通帳

いつも、暗い内容ばかりだったので、たまにはと明るい内容にしてみました。

ラッキー通帳

生きているうちに何度かしか訪れない「幸運」についてを書いています。ぜひ、ご覧ください。

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更新日
登録日
2016-05-30

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