白い世界

白にこだわる青年と、その世界に惹かれて人生を決めてしまった少女


 高校時代、将来これをやりたいと思うことが特になかった。だから卒業したら、就職するんだとずっと思っていた。でも私はその道を選ばなかった。どうしても大学に行ってやりたいことが見つかったから。買ったばかりの服を着た私は、ある決心とともに家を出た。

 電車とバスに揺られること約二時間、鴻口大学と書かれた場所で足を止めた。入学してまだそんなに経っていないけど、友達はできた。……でも私のやりたいことは友達を作ることなんかじゃない。ある人を捜しているのだ。
 “白い炎”
 適当に大学を検索したら、この大学を見つけた。ホームページにあるニュース欄に、コンクール受賞と書かれていた。なんとなく気になってクリックしたら、私の世界が変わった。文芸学部の芸術学科にいる柿澤瑛翔という人が描いた絵だった。それを見たとき絵よりも先に、まず白い炎って言葉に惹かれた。一目惚れに近いというか、前を歩いていたら新たな道が突然現れた……そんな感じ。その絵は題名通り銀色の器の上に真っ白な炎、背景はぼんやりとした水色で描かれていた。
「この人に会いたい!」
 パソコンに向かって私はつい叫んだ。自分でもよくわからないけど、なぜか笑ってしまった。バカにしているのではない。もしこの大学に行けたら、会えるんだって思うと嬉しくて頬があがってしまった。
 “この人に会って、同じ世界を見てみたい”
 その思いだけで進学を決めた。周囲から受験に失敗したときのことも考えて、他も受けてみないかと勧められたが断った。反対を押し切って一本で勝負した。さすがに芸術学科は無理だったので、同じ学部の国文学科にはしたけど……。だから合格したって分かったとき、自分よりも親や先生たちの方が喜んでいた。勿論、私も嬉しくて泣きながら笑った。
「七海おはよう」
 トントンと誰かに肩を叩かれた。
「あー、おはよう。今日早いね」
 そこには美貴がいた。私と同じ学科に通っていて、クラスの中で一番仲のいい子。
「柿澤瑛翔、捜しているんでしょ? 手伝うよ」
「本当? 助かるー」
 この大学、学部が他にもいくつかあって敷地が広いから……たまに、車で移動できたらなって思うくらい。でも免許持ってないし、自転車はパンクさせる名人だから親に禁止されているんだよね。まぁ他人の自転車を壊したくはないし。
「七海。ところで柿澤っていう人はどこにいるの?」
「同じ学部で芸術学科」
「何年生?」
 ……えっ。あの人って何年生なんだろう。ま、少なくとも一年ではないけど。
「身長は高い、低い」
「……」
「もしもし、七海さん」
 そういえば柿澤さんがどんな人か、知らないんだよね。名前と学科とあの絵を描いたっていうことだけ。あれ? こんな少ない情報なんかで見つかると思ったんだろう。
「美貴、何もわからない」
「は? じゃあ今までどうやって捜してたの」
 なんか言いづらくて、視線を外してぼそっと答えた。
「あの絵を描きそうな人物を捜してた」
「この大学に、男は何百人いると思ってるの。何千人かもしんないんだよ」
 そりゃなかなか見つからないわ。
「もう! とりあえず行くよ」
「どこに」
「授業。知り合いが芸術学科に通ってると思うし、後で連絡してみるから」
 返事も待たずに美貴は強引に腕を引っ張った。そのまま目の前にあった建物に連れてかれた。今日の授業は大学にある図書館でやるので、そんなに校内を歩かなくてすむ。いつもだったら、この建物から十分間くらい離れた場所までだし……。

「知り合いって誰?」
 授業中、少し気になって聞いてみた。
「友達のお兄さん。それにしても、何でその人に会いたいの」
「その人が描いた絵を見て、世界が変わったから」
「それだけ? まさか受験した理由も」
 私は笑って大きく首を縦にふった。すると美貴は呆れた顔して、本をパラパラめくりはじめた。
「なんで呆れるの」
「そんなんで人生決めた、あんたは凄いって思っただけ」
「そうかな。でも、うん。ありがとう」
 美貴はその後、何か言ったようだけど小さすぎて聞こえなかった。
 
午前の授業が終わり、多くの生徒が食堂や大学の近くにあるコンビニへ向かっている。そんな中、私と美貴は逆走するように歩いた。今日は月曜日で午後の授業がないし、美術学科は奥にある建物で作業をしているらしい。その中には柿澤さんの姿もあって、新しい作品を創作しているらしい。
「美貴の知り合いと柿澤さんって、どんな関係なんだろう?」
「柿澤っていう人は、いつも何かを探しているけど孤独なんだって」
彼は何を探しているんだろう……。それに孤独ってことは、人と関わりたくないってことなのかな。だんだん不安になってくる。
「ところで会ってどうするの?」
「さぁ、わかんない」
「……えっ」
だって突然、現れた道なんだよ。その先に何があるかなんて、行く前から考えても無駄だから。恐れずに勇気をださなきゃ何も変わらない。間違っていても、この勇気だけは後悔しないと思うし…。
「会わなきゃ、ここにきた意味ないし」
「傷ついても慰めたりしないからね」
急にスピードをあげて彼女は建物に入った。まだ移動教室の場所さえ覚えてないのに、こんなところで一人になったら迷子になるよ。確実に……だから私も急いで彼女の背中を追いかけた。
見失いそうになりながら階段を上り、長い廊下の一番奥にある部屋の前で足をとめた。
「ここ?」
何も書かれてない静かな部屋。確かに明かりはついているけど……。廊下の電球がきれているせいか、中に幽霊がいそうでゾクッとした。
「入るよ」
美貴はノックもせずにそのドアを開けた。私はとっさに、彼女の後ろに隠れながら中を見た。そこにいる人達は何種類もの鉛筆を使って、大きな画用紙に絵を描いていた。集中しているのか、誰もこっちを見ようとしない。
「お久しぶりです」
近くにいた男性に美貴は声をかけた。おそらく、さっき話していた友達のお兄さんなのだろう。その人は私を見ると軽く会釈をして、奥で作業をしている男性を指差した。
「あの人が柿澤さんですか?」
私が小声で確認すると、その人はゆっくり頷いた。柿澤さんは他の人よりもずっと大きい紙を机に広げて、絵を描いている。
「話しかけるなら、終わるまで待ったほうがいいよ」
そう言うと、彼もまた絵を描きはじめた。
「廊下で待ってよ」
って美貴に言われたけど、もっと近くで見たかった。だから首をふって奥へと進んだ。

柿澤さんの絵はまだ描きはじめたばかりなようで、ほとんど白紙だった。どんなに集中して見ても、何の絵なのかさっぱりわからない。
「それは何の絵ですか?」
つい、聞いてしまった。慌てて口を押さえで下をむいた。でも、かなり集中しているようで私の声なんか聞こえていなかった。だから安心して邪魔しないように、こっそり出ようとした。すると、
「待って」
その声に反応して、歩きだそうとした足はとまった。
「君は何の絵に見える?」
彼は私にそう聞いた。振り返りもせず、鉛筆を動かしながら。
「わかりません。でも……」
「でも」
「一生懸命、黒板に落書きをしている風には見えます」
その瞬間、彼は手を止めて振り返った。とても驚いた表情で、私を見た。
「あっ、あの……失礼なこと言ってすいません」
とっさに頭を下げた。自分でもなんであんなことを言ったのか、わからない。でも、彼を見た瞬間からそう思ったのだ。
「君、名前は」
「朝長七海です」
何も言わずにじっと見るので、自分の気持ちを正直に伝えた。
「か、柿澤さんの描いた白い炎って絵を見たんです。そ、それで……あ、あなたに会いたいと思ったんです」
「どうして?」
「柿澤さんと同じ世界を、見てみたいと思って」
別に睨まれているわけではない。無表情でじっとこっちを見ている。彼の言葉も淡々としている。なのに、震えが止まらない。でも多分、これは恐怖じゃなくて緊張だ。深呼吸すれば落ち着くはず……。
「朝長さん」
「は、はい」
「僕の彼女になってくれない?」
 “……えっ”
あまりにも意外すぎる言葉で、何も言えなかった。震えは止まったけど、破裂しそうなくらい心臓が痛い。……確かに、恋人という形なら同じ世界を見れるかしれない。
あー、ダメだ。動揺しすぎて状況が飲み込めない。
「返事は?」
柿澤さんは私の手を包むと、おでこをくっつけた。
「は、はい」
「一週間後、また来て」
ゆっくり頷いた。そして逃げるように部屋を出た。

それから一週間後、美貴と一緒にまたあの建物へと入った。
「ったく、なんで私まで……」
「ごめん」
「ま、いいけど。ドアの前までだよ」
本当は一人でも大丈夫なはずなのに、いざってなると急に怖くなって……。せめて廊下の電球、新しいのに取り換えてあるといいな。
「ほら七海、前むいて背筋伸ばす! なんのために、ここを受験したの」
「柿澤さんに会いたくて」
「そしたら恋人になったんでしょ。今日だって、無理してきたわけじゃないでしょ?」
うんって大きく頷いた。確かに来てとは言われたけど、私自身がまた会いたいと思った。……そうだ。彼氏に会うのに、周囲の目なんか関係ない。どんなに静かなあの場所も、奥に行けば二人だけの空間になる。アウェー過ぎて怯えていたけど、これは受験と同じだ。これと決めた道に向かって、走り続ければいい。
「美貴!」
「何」
「ここで大丈夫。なんか私、弱気になっていた」
彼女は深いため息をつくと、思いっきり強く私の背中を叩いて戻っていった。
“ありがとう”
彼女の背中を見つめながら、心の中で呟いた。そして私も歩きだした。
「失礼します」
音をたてないようにドアを開けながら、小声で言った。先週と同様、静かな部屋で誰もが鉛筆を動かしている。シャッシャッと小さな音だけが響きわたって、皆が合唱しているように聞こえる。その邪魔をしないように奥へと進んだ。美貴の知り合いと目があったので、軽く会釈をしたけどそれ以外は存在をなるべく消した。
「こんにちは」
「……」
聞こえているのか、そうじゃないのか私にはわからない。前回は聞こえていたみたいだけど……。集中しているのに邪魔をしてはいけない。でも廊下で待つのも違うような気がして、近くの椅子に座った。
”題名がわかったら、どんな絵かも想像つくかな”
何を聞かれても答えられるように、頭の中でいろいろ考えた。わからないって言葉を使ったら、同じ世界を見ようとしていない。この間、部屋を出てからそう思ったのだ。
「朝長さん」
「は、はい」
急いで立ち上がり、彼の隣に立った。
「……」
だけど彼は何も話そうとしない。もしかして呼んだ、だけなのだろうか?
「この絵って、何ていう題名ですか」
「……」
「すいません。まだ決まっていませんよね」
まだ四分の一くらいしか終わってない絵。描き直しとか修正があるのなら、始まったばかりなのかもしれない。バカだ私は。失礼な質問ばかりしかできない。
「白い海」
「そ、そうなんですか」
「鉛筆のみで、どうやったらそれを表現できると思う?」
どうしよう。頑張って考えてはいるけど、全く思いつかない。白い炎は色があったからわかったけど、今回はない。だけど、それを表現しないといけない。
「題名だけでも、表現できていると思います」
「どういう意味」
「だから、いつも見ている青い海とは違うんだって思うんじゃないかって……」
また何も言ってくれない。もしかしたら、違う答えを求めていたのかな。やっぱり、素人の私には無理なのかな?
「白い炎はどっちを先に見た」
 ようやく柿澤さんが口を開いたので、私も答えた。
「文字です。あれは確かに色がついていたけど、私はなくても想像できました」
「じゃあ白い海はどんな絵だと思う?」
白い海ってことは、普通とは違うから。そうだ!
「そこは天国へと進む道です。遠くに薄い門があって、人はいません」
「それだけ?」
「その海は入ると温かいんです。お風呂よりはぬるいけど」
あとは何だろう。うまく説明ができない。しばらくの間、言葉に詰まっていると、
「二週間後にまた来て」
と言われた。だから返事をして、絵を頭に焼きつけてから部屋を出た。

言われたとおり二週間後、今度は一人で建物へと入った。先週、美貴に
「行ってみれば。ダメとは言われてないんでしょ」
 って勧められたけど、迷惑かもしれないし……部屋の前までは行ったけどね。
「失礼します」
 聞こえないくらい小さな声で、また静かにドアを開けた。
 “あれ?”
 誰もいない……。正確には柿澤さん以外って意味だけど。
「いつも来てもらってごめんね」
「いえ、大丈夫です」 
 今日は作業をしていないで、椅子に座っている。何から聞けばいいのか考えていると、
「とりあえず座って」
「はい」
 彼の隣にある椅子に座った。
「あの、今日は何があったんですか?」
「普段がこうなんだよ」
 柿澤さんの話によると、他の生徒と同じでいつもはこの時間は昼休憩らしい。でも卒業制作がいくつもあるらしく、その中の一つが今日までの締め切りらしい。
「それが鉛筆デッサン」
「な、なるほど」
「ここが一番集中できるからね。だから皆、残っていたんだ」
 そう言うと一枚の写真を見せてくれた。本物は授業で提出したらしく、携帯で撮って残してくれたらしい。
「朝長さんに見せたかったから」
「……これ、私が想像していたのと同じ」
 全体的に霧で包まれていて、はっきりとは見えない。でも確かに海と奥のほうに小さな門がある。
「海にもお風呂にも見えます。ところで、何で他の人より大きい紙だったんですか?」
 彼は窓のほうに視線をそらすと、悲しそうな表情で言った。
「期待に応えようと必死だった」
 何も言えなかった。同じ立場の人間にしか理解できないと思った。どんなに努力しても分かろうとしてはいけない。なんとなく、そんな感じがした。
「卒業制作は、他に何がありますか?」
「毎回テーマがあるのと、最後に自由課題があるのは分かっているけど……」
 ってことは、今回もテーマがあったんだ。
「じゃあ白ですか? 今回のテーマは」
 でも彼は目をつぶって首をふった。
「想像の世界」
「そう、なんですか」
「でも思いつかなかったんだ。その時に君と出会って……ごめん。恋人は自分でもわからないけど口実だったんだと思う」
 なんか安心した。悲しい気持ちもあったけど、恋人になろうとは思ってなかったから。柿澤さんは私のことを全然知らないわけだし、私もあんまりだったし。
「だから改めて告白していい?」
 “改めて?”
「付き合うというか、もっと知りたいんだ。朝長さんのこと」
「私も知りたいです」
 月曜日の午後、廊下の電球はまだきれているけど、それは二人だけの空間になる目印となった。柿澤さんは携帯電話を持たない人だから、余計に大切な時間だった。

 次の週、部屋に入ると彼は考え事をしていた。ノートに何かを書いては消して、頭を抱えこむ。さっきからその繰り返しばかりしている。私は隣に座ってノートを覗き込んだ。はっきりとは見えないけど、何か書かれてあった跡がいくつもある。
「あー、ごめん。気づかなかった」
 私の存在にようやく気づいたらしく、ため息をついて机にうつぶせた。
「どうしたんですか?」
「次の卒業制作。夏をテーマに描けってさ」
「それなら山とかはどうですか? 近くにありますし」
 すると彼は首を振って、こう言った。
「近くの山は授業で描いたし、風景画はダメって言われた」
「なんでダメなんですか?」
「描きすぎたからじゃない。それに俺も飽きた」
 どのくらい描いたのか想像してみた。絵は好きなはずだから、そんな人が飽きたってことは合計で百枚近くぐらいなのかな。さすがに多いかな。
「連続で五枚も描けば、飽きてくるよ」
「そうなんですか」
 思っていたより、少なくて安心した。あっ……でも、二十数年の中だったら合計でいっているかもしれない。もしかしたら四桁、はないか。
「あの、花火はどうですか?」
「……」
「テーマです。やっぱ、普通すぎますか」
 夏と言われて思いつくのは花火。他にも祭りとか海にセミの鳴き声、アイスに向日葵とか……あっ。
「じゃあ向日葵とかは、どうですか」
 それでも柿澤さんは無言のまま、じっと一点を見つめている。何かをきっと考えているのなら、私はもう喋らないほうがいいかな。
「花火って言葉で、次に思いつくのは?」
「えっと、夜に浴衣、線香花火と打ち上げ花火に屋上や河川敷? とか」
 とにかく頭に浮かんだ絵を言葉にした。これであっているのか自分でもわからないけど、おそらく大丈夫なはず。
「あぁ、これだ。空が見える」
 独り言のように呟くと、ノートに何かを描きはじめた。それにしても、
 “空が見えるって何だろう”
 今は曇り空だけど、夕方から雨が降る予報だし。表情的に笑っていたから、その空は晴れているんだと思うけど……蛍光灯がそういう風に見えたのかな。
「朝長さん、悪いけど空を見て」
「そ、空? はい」
 とりあえず蛍光灯を見ていればいいのかな。わからないけど、柿澤さんと花火を見ているのを想像しながら見上げた。場所はどこか静かな所。周りに人はいなくて……本当はいるんだけどいないの。私が綺麗って言うと彼は頷いて、また卒業制作の話をするんじゃないかな。でも全然飽きないんだ。だって柿澤さんの世界を知りたいから。
「あのさ、モデルになってくれない? この絵の」
「私でいいんですか」
「君じゃなきゃ困るよ」
 その時、初めて見たんだ。柿澤さんの笑顔を。口角を少しだけあげて、私の目を見て笑ってくれた。外は曇っていたけど彼とは違う空、夕日が見えたんだ。幻覚かもしれないけど、この笑顔をずっと見ていたい。夕日のように沈まないでほしい、って私は神様にお祈りした。

 それから数週間後の月曜日、私は美貴と一緒に駅の近くにある喫茶店にいた。
「今日は行かなくていいの?」
「うん。他の課題が終わらないんだって」
 ここ数週間は絵のモデルとしてずっと上を見ていたから、寂しいけどちょっぴり嬉しい。絵を描いているときの柿澤さんは、どんな表情をしているのか。気になるけど動けないから……。でも一つだけわかったことがある。彼は何も喋らないのだ。モデルって言われて、細かい指示を少しだけ覚悟していたのになかったのだ。無言のまま数時間、静止しているのもあれだけど……。そして必ずある一定の時間になったら、無理に終わらせようとする。私に気を遣っている、わけではない。集中力が続かないから長くやり過ぎると、いい絵にならないらしい。それでも少しは気を遣っていると、信じている。
「喧嘩でもしたの?」
「えっ、いや。ただ柿澤さんに、無理させてないかなって」
「そればっかりは、私もわからない」
 美貴はそう言って、紅茶を一口飲んだ。もう夏にもなるのに、なんで彼女はホットを選んだのだろう。猫舌の私は迷わずアイスにしたけど……。
「二人きりで、どこかに行かないの?」
 “うーん。今は無理かな”
 いつ誘えばいいのかタイミングがわからないし、連絡先を知らないんだよね。どこに住んでいるのとか、聞いてないし。
「じゃあ、七海がモデルをしている作品? それが終わったら誘えば」
「うん」
「ちょうど夏休みにもなるんだし」
 どこに誘えばいいんだろう。せっかくなら、卒業制作に役立ちそうなのがいいよな。
次のテーマは何だろう……。今回が夏で前回が想像の世界、自由課題はさすがに早いよね。来週、柿澤さんに聞いてみよ。ついでに連絡先とかも……。
「ねぇ七海」
「ん? どうしたの」
「幸せ、今」
 その時、美貴はとても真剣な表情をしていた。だから私も彼女の目をしっかり見て頷いた。恋人らしいことはしてないけど、彼と一緒にいるだけで十分幸せだから。あの笑顔をもう一度見たいけど、今はいい。同じ世界を見られるまで、私は走り続けられるから……。
「大丈夫だよ。私って走るの得意分野だし!」
「たまには休憩しなよ。倒れる前に」
「忠告ありがとう」
 “そういえば、柿澤さんは何を飲むんだろう”
 ふと、気になった。もしかしてミルクなのかな? だって、白い飲み物はそれしかないから。それも聞いてみようかな。

 翌週、また彼は写真を見せてくれた。
「この浴衣を着ている女性って、私ですか?」
「違ったら、モデルの意味ないでしょ」
 “私、こんなに綺麗じゃないのにな”
 白がベースで赤い模様が入った浴衣を着ている私は、大きな白い花火を見ている。そんな絵だった。おそらく屋上から見ているのだろう。でも、どうせなら隣に柿澤さんもいてほしかったな。
「……朝長さん」
「は、はい」
 彼はじっと私を見た。そのまま、一歩ずつ距離は縮まっていく。
「あの、どうしたんですか」
「……」
“柿澤さん?”
「目、つぶって」
 “まさか、これって”
 二文字の言葉が頭に浮かんだ。私達は付き合っているんだし、問題はないけど……。なんの前ぶれもなく、いきなりくるとは思わなかった。いつもと違う目に、初めて恐怖を感じた。
「さっきから君は何を想像しているの?」
「いや、別に……」
「もしかして、初めて」
 そんなわけないじゃん、多少の経験はあるよ。目で訴えたけど彼は微笑んで対抗してくる。あの時とは違う。これが大人の余裕なのだろうか? そしたら私がまるで子供みたいじゃん。
「どうぞ、早くしてください!」
 だんだん彼に怒りの感情がわいてきた。確かに年下だけど、私だって来年になれば二十歳になる。まだ十代だからって、子供扱いしないでほしいんだけど。
「朝長さん」
「何ですか」
 目を開けようとした瞬間、彼の唇は私の肌に触れた。唇やほっぺではなく、おでこに。
「……」
「あれ? もしかして期待してた」
私はすぐに目を逸らした。別に頷くこともなく、照れている表情を彼に隠して。
「ごめんね。じゃあ、もう一回する」
「いいです!」
そう言ってつい、部屋を飛び出してしまった。柿澤さんのことを嫌いになったのではない。ただ二人だけの、この空間に耐えられなくなっただけ。そりゃ、あの状況になったら期待するでしょ。誰だって……。心を見透かされて恥ずかしかったけど、同時に腹がたった。
 “やっぱり、子供扱いする人なんて嫌だ”
 そう思いながら帰った。

「七海、今日は花火大会があるらしいね。誘ってみれば……って、あれ?」
「何」
「珍しく不機嫌だね」
 あれから一週間後、授業が終わっても私には動く気力がなかった。暑さのせいか、それとも違う何かなのか、わからない。気がつけば季節は夏へと変わり、セミの鳴き声がしつこいぐらいに聞こえる。
「喧嘩でもしたの?」
 二週間前と全く同じ質問。今は答える気にもならない。
「そこに柿澤さんいるけど……」
「えっ!」
 とっさに立ちあがって振り返ったけど、そこには微動だにしないドアだけ。
「ごめん、冗談」
「もー」
 全身から一気に力がぬけて、その場にしゃがみこんだ。別に会いたくないわけじゃない。まぁ……会いたいとも思わないけど。
「もしかしてキスでもされた」
「なんでわかるの?」
「お兄さんが、現場にいたから」
“嘘、でしょ”
 お兄さんって確か、美貴が挨拶していた人だよね。それより現場ってどこ? 部屋にいたわけじゃないよね。ドアの隙間から、たまたま見えちゃったんだよね。
「部屋に入ろうとしたら現場を見ちゃって、動揺してたら七海が飛び出してきたんだと」
「う、うん」
「その展開になった経緯を話してごらん」
 私は彼女に抱きつき、全て話した。だんだん涙声になりながら、頑張って伝えた。
「つまり、いきなり急ブレーキをかけられて動揺していると」
「そうなの?」
 美貴は大きなため息をついて、頷いた。だから忠告したのに……そう、言われているような気がした。
「前から思っていたけど、話さないよね。二人とも」
“そうかな。でも、言われてみれば少ないほうかな”
「作品、以外で」
「あっ……」
 “話した記憶、あんまないかも”
「やっぱり」
 彼女はもう一度ため息をついた。
「どうすればよかったの?」
「さぁね。でも」
「このまま逃げるのはよくない、よね」
 美貴は少しだけ微笑んで、頷いた。そして、こう言ってから部屋を出た。
「行くのが怖いんなら、来るまで待ってみれば」

 だから私は待った。来てくれる保証なんてないけど、柿澤さんを信じてみたかった。子供扱いされるのは嫌だけど、自分と同じ気持ちじゃないのは……。なるべく時計ではなかドアを見た。震える手を抑えながら、日が沈むまで待った。
 “来ない”
 気づけば時計の針は六時を示していた。いつもだったら、もう帰っている時間。残って作業をする柿澤さんと別れて部屋を出る。暗い廊下や階段、バスまでの短い道のりを一人で。
 “もう帰ろう”
 これ以上、待っても無駄だ。部屋を出て、いつもより少しだけ暗い廊下を歩いた。階段も暗かったけど、これで良いのか不安だった。大学が閉まるまで時間はまだある。ここで希望を捨てるのか。止まったり進んだりの繰り返し、でも戻ることはしない。結局、階段を降りてしまった。
“後はバス停まで”
大学を出て、すぐ近くにバス停はある。歩いても五分はかからないだろう。だけど今日だけは十分……それよりもっと、かかるかもしれない。
「朝長さん?」
 聞き覚えのある声、幻聴かもしれない。いや、きっとそうだ。神様が私にイタズラをしているんだ。だから振り返らないで、そのまま歩いた。走るような気力はもう残ってない。
「待って!」
 その人は私の腕をつかんだ。
「そのまま答えて」
「はい……」
「嫌いになった? あんなことされて」
 私は小さく首をふった。
「また、してもいい?」
「いきなりは嫌です。それと子供扱いも」
 その瞬間、彼は私の腕を離した。と、同時に思いっきり抱きしめた。
「ごめん。無理」
「また逃げますよ?」
「いいよ。鬼ごっこは得意だから」
試しに隙をついて離れようとしたけど、その細長い腕は意外にも力強くて逃げられそうにもなかった。
「あの、逃げないんで離してもらえますか。一回」
「そう言って、逃げるんでしょ?」
「逃げません!」
 柿澤さんはようやく離してくれた。だから私は振り返って顔を見ようとした瞬間、
 ドン
 その音と共に、一発の花火が舞い上がった。
「あっ……」
 彼の顔や私の心を照らしてくれるように、次々と花火は舞い上がった。
「屋上に行こうか」
「行けるんですか?」
 彼は人差し指を口に当てて笑った。夕日は見えないけど、この間まで描いていた白い花火の世界に入ったような気がした。私は浴衣じゃないし、白い服もまだ持っていない。さっきから舞い上がっている花火だって、色とりどりで白はほとんどない。それでも私には、そう見えたんだ。隣じゃないけど、あの絵に柿澤さんはようやく入ったんだ。
「おいで」
「私、子供じゃないんですけど……」
「君はまだまだ子供だよ」
 彼の手をとり、私達は走り出した。建物の中は暗いけど、柿澤さんの手と花火が導いてくれる。さっきまでの苦しみはいつしか消えて、私も彼の手を強く握っていた。

 どこから入手したのか鍵を使って、誰もいない屋上で舞い上がる花火を眺めた。
「あれ、全部白だったらな」
「そしたら、つまんないですよ」
「全部、白じゃないと嫌なんだよ」
 そう言えば、どうして白にこだわるのだろう。聞きたいけど、入ってはいけない世界って感じがする。ただ単に本人のこだわりか、それとも何か訳があるのか……。
「幼い頃に見た夢がどうしても忘れられなくて」
「どんな夢ですか?」
「うーん」 
 私は目を閉じて、彼の肩にもたれかかった。だって、ようやく同じ世界が見えそうな気がしたから。でも、柿澤さんはなかなか話してくれなかった。もしかしてパンドラの箱を開けてしまったのか。無理して聞きたいわけではないけど、また今度でいいですとも言えない。だってこの人と同じ世界を見たかったから、必死に勉強したんだもん。自分勝手かもしれないけど、あの画像を見た瞬間から運命の人だと直感したから。自分の人生を変えるくらい私は惹かれたんです。
「朝長さんは空みたいな人だね」
 涼しい顔してそう言うと、ハンカチを渡してくれた。
「その温かい雨を信じてもいい?」
「……はい」
 言っている意味がよく分からなかった。でもハンカチを渡した逆の手で、私の手を   優しく包んでくれた。だから安心して額に流れる涙をそっと拭った。
「白い虹が出てくる夢を見たんだ」
「虹って確か七色ですよね? 夢だからぼやけていたとか」
 彼は下を向いて横に首をふった。
「はっきりと覚えてる。広い草原の中に浮かんでいて、飛行機雲と同じ感じ。ずっとは見られない」
 なんとなくだけど、その光景が頭に浮かんだ。もしそれを見られたら、あの時と同じくらい感動して今度はなんて言うんだろう。でも私の世界は変わるんだろうな。
「あれ以来なんだ、何を見ても白だったら……って思うようになったの」
 だからあの絵も白だったんだ。
「白は何色にも変えられますからね」
「……」
 柿澤さんが驚いたような顔でこっちを見た。
「あっ、あの、間違ってますか? だって柿澤さんが描いた白い炎も最初は紙というか、画用紙じゃないんですか」
 彼は固まったまま私の顔を見ている。
「もしかして色つきの画用紙なんですか。私、そういうの詳しくなくて」
「いや、普通の画用紙だよ」
 ようやく我に返ってきたようで、打ちあがり続ける花火を見ながらこう言った。
「君は僕の空だよ」
 空……。さっきも言っていたけど、どういう意味なんだろう。
「私、身長低いですよ。心だって広くないし、綺麗でもないし」
 すると手を離して私を抱きしめ、耳元で言ってくれた。
「晴れたり雨が降ったり、雲で隠れたりするのと同じで色をつけてくれるんだ。白色に塗りかえようとする僕の心に」
 だから私も小声で聞いた。
「それって良いことなんですよね?」
「勿論。新しい世界を見せてくれるから、僕の世界も広がる」
 私はその時、初めて救われたような気がした。本当は心の中で間違っているんじゃないかって、就職や他の大学を受験するほうが正しいんじゃないか。自問自答したけど結局、引き返せないところまできていたから進むしかなかった。
「嬉しいです……そんなこと言ってもらえて」
「僕も同じだよ。あの時、嬉しかった。同時に責任も感じたけど」
「ご、ごめんなさい」
 知り合ってから数ヶ月。彼と同じ世界はまだ見えてないかもしれないけど、この出会いだけは永遠に忘れないだろう。そう思った私はゆっくり目を閉じて、彼を抱きしめた。

 それからしばらくして……
「柿澤さん、これ見てください」
 あれから白い虹について調べた。現実で見られるのならば、この夏を利用して一緒に生きたいと思ったからだ。そしたらネットでこんな記事を見つけた。
「白い虹……通称、霧虹。これって本当の話?」
「はい! 私も神話じゃないかって疑ったんですけど、事実です」
 そこにはこう書かれていた。尾瀬という福島と新潟、群馬の三県にまたがる盆地上の高原。霧に光が当たって乱反射し光の輪をつくるのが霧虹の正体で、夏の早朝に発生する。ただ、虹を見ている人の後ろ側に太陽があるときしか見れないので注意。
「これから行きましょう。尾瀬に」
「待って。お金持ってる?」
 バイト始めたばかりでそんなお金は……いや、親から少しだけ借りられるかもしれない。
「もうすこし調べて来年、行こう」
「だって柿澤さんは、もう卒業……」
「大人は約束を破ったりしないよ」
 それじゃあ私が子供みたい。確かにまだ成人していないけど、もう少しでお酒を飲めるようにはなるし。在学中に一人暮らしだって始める予定だから。
「ほら、すねない」
「だって子供扱いするから」
 柿澤さんは私の頭をなでると微笑んで、今度は目を見て言ってくれた。
「君は僕の空だよ」
 なんかむかつくけど、絶対に嫌いにはなれないだろうな。そう思いながら右手の小指を出して彼に反抗した。
「子供だって、約束は守りますよ」
 来年の夏も彼の隣で、同じ景色を見られるように願って指きりをかわした。
 

白い世界

白い世界

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-05-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted