穴に住むもの

夢を見た。
あれは、七匹の子ヤギ。いや、違うな。でも、七という数字は合っている。
ハイホー、ハイホー、だったかしら。かけ声をあげて行進する七人の。
思い出した。白雪姫のお話だ。
でも、変だ。仮に白雪姫のお話だとしたら、白雪姫や王子や魔女が出てくるはず。
何かおかしい。
七人の小人は出てきた。出てきたけど、何かが少し違うかも。
そう、何だかちょっと、小人たちの人相が違うような。確か、あの小人たちは白雪姫を助けるいい小人たちではなかっただろうか。

大塚真由美は、夫浩介の腕枕の位置を調節するために、もぞもぞと体を動かした。それを感じたのか、浩介は腕枕をしていない反対側の手でゆっくり真由美の頭を撫でたかと思うと、次の瞬間、くうくうと寝息を立て始めた。
なんて寝付くのが早いのだろう。
真由美は、浩介の規則正しい寝息を聞きながら、改めて浩介の寝つきの良さに感心してしまった。結婚してから約一年。浩介は今まで一度も不眠を訴えたことはない。それどころか、あっという間に寝てしまう。それでも、ベッドに入ってから電気を消すまでのわずかな時間を真由美との話に付き合ってくれたり、くだらない冗談を言って笑わせたりもしてくれる。そろそろ寝なきゃねと、真由美が切り出すまでは、浩介は必ず起きている。でも、真由美が部屋の電気を消して、いつものように浩介の腕枕の位置を確かめる頃には、浩介は気持ちよさそうに寝息を立てているのだ。
こんなに寝つきがよければ、ストレスもたまらないから安心だわ。
そう思う反面、この人には悩みなんて無いのかしら、と不安になる時もある。
そんな真由美も寝つきが良いほうで、浩介の寝息が聞こえてきてから、暫くその規則正しい音を聞いているうちに、いつの間にか寝てしまうのだった。
でも、今夜は違った。目が冴えてしまって、なかなか寝付けないのだった。
真由美は、昼間の行動を振り返った。専業主婦の真由美は、今日一日、買い物にも出かけず、家の中でごろごろと過ごしたのだ。おまけに、家事の合間に、ちょっと休憩のつもりで読み始めた推理小説が、導入部分の解説が多すぎて、気がつくといつの間にか本を手にしたまま寝むってしまっていた。そう、二時間ぐらい、たっぷりと昼寝をしてしまったのだ。
昼間の惰眠を後悔しながらも、こうやって浩介に腕枕されているのを寝ないで味わうのもたまにはいいものだわと、幸せをかみしめていた。
腕枕から大きく外れないように、少しだけ体を浩介から離すと、浩介の寝顔をじっと観察した。
綺麗な寝顔。
天井に向かって上がっている鼻は、真っすぐ筋も通っているし、しっかりと閉じられた唇は薄くもなく厚ぼったくもなくて、ちょうどいい。
本当にいい男。
真由美は改めて、結婚した自分の夫をうっとりと眺めた。
寝室に使っているこの部屋は、夜中でも真っ暗にならず、街頭の明かりがぼんやりと差し込んでいて、少し明るい。それもそのはず、頭側にある大きな窓には遮光カーテンを使っていない。朝に弱い二人は、遮光カーテンを使ってしまうと、どんなに目覚ましをかけても起きられないからだ。だから敢えて光を通すカーテンをつけ、朝陽が徐々に入るようにしてあるのだ。

一通り夫の顔を眺めつくし、夫の顔の評価をし、自分の結婚生活の評価をしたところで、満足した真由美だったが、それでもまだ寝ることが出来なかった。
やっぱりあの昼寝のせいだわ。
このままだといつまでも眠れず、明日の朝も、起きられないに違いない。
一向に眠気の来ない自分に、真由美は少し焦りを感じた。
今、何時くらいかしら。
余程のことがないと起きない浩介だが、それでも起こしては悪いと思い、時計を見たい衝動に駆られながらも布団の中でじっとしていた。
仕方なく、もう一度、浩介の顔を観察し始めた。
最近ちょっと太ってきたかしら。
毎日見ているので、大きな変化は分からないが、出会った頃よりは確実に太った気がする。顎のラインが丸みを帯びた気もするし、腹回りも以前は無駄な肉が全く無かったのに、いつの間にか全体を覆うように肉がついた気もする。
幸せ太りって言うしね。私の作るご飯が美味しいからかも。
でも、夫がぶくぶくと太るのはちょっと嫌だった。やはり浩介は出会った頃のシャープな浩介でいて欲しいのだ。

色々と考えているうちに眠るどころか、頭はどんどん冴えていくようだった。
そろそろ真由美も同じ姿勢で寝たふりをしているのが辛くなってきた頃、突然、真由美の耳元で人のささやくような小さな声が聞こえた気がした。
真由美は不思議に思い、その音をもっとよく聞くために、音のする方へと耳を寄せた。すると、ちょうど浩介の脇の下に耳を添えるような形となった。
その声は、浩介の脇のもっと奥から聞こえた。そこで、真由美は浩介の着ているTシャツの袖を伸ばすようにして、その脇の下に耳をぴったりとくっつけた。
すると、その脇の中から、今度は、はっきりと話し声が聞こえてきたのだ。
「よし、そろそろ時間かな」
「ああ、時間だ」
「みんな用意は出来たか」
「おう」
「はい」
「イエス」
「オーケー」
真由美はぎょっとした。
ぎょっとはしたが、飛び起きることはせずに硬直していた。
なぜ、浩介の脇の中から声が聞こえたのか。真由美は頭の中でぐるぐると考え始めた。頭の上からは相変わらず浩介の規則正しい寝息が聞こえてくる。
自分は夢でも見ているのだろうか。そうだ、多分これは夢だ。
よく夢を見る真由美は、朝起きるとその日に見た夢を鮮明に覚えていて、あまりに面白いと浩介に話して聞かせることもある。だから今も本当は寝ていて、これは夢に違いないと真由美は自分に言い聞かせた。
ところが、さらに不思議なことが起こった。
九月のまだ残暑の厳しい夜、浩介も真由美も暑がりなので、布団はかけていない。いつもはタオルケット一枚を二人のお腹の辺りにかけているのだが、そのタオルケットはいつの間にか足元に捩れてしまっている。だから体には何もかかっていなかった。
その浩介の腹の辺りで、突然、何かがもぞもぞと動く気配がした。真由美は慌てて、浩介を起こさないように、脇腹につけていた頭を静かに動かすと、肘の辺りまで移動した。そして浩介の腹の部分がよく見える位置まで頭を持っていった。
薄明かりの中でもはっきりと、浩介の腹の辺りで、何かが動いているのが分かった。真由美は息を殺して、その動くものをじっと見つめていた。すると、浩介の着ているTシャツがそろりそろりと上に持ち上がったのだ。
Tシャツが捲れると、浩介の臍が丸見えになった。
浩介の臍など、普段あまり観察したことがなかったが、あんなに穴が大きかっただろうか。
次の瞬間に、その臍の穴がさらに広がり始めた。再びぎょっとして、でも身動きせずに、真由美はその穴を見つめた。
すると臍の中から、小人がのっそりと這い出てきたのだ。一人が現れると、それに続いてまた一人現れた。先に臍から這い出てきた者は、後から続く者に手を貸している。
いつの間にか臍の周りには六人の小人が立っていた。そして最後には、捲れあがったTシャツの下から、六人よりもさらに小さい小人が姿を現したのだ。全部で七人の小人が浩介の腹の上に輪になって立ち、何やらごちゃごちゃと話をしている。そして、七人が同時にうなずくと、一番小さい小人を先頭に歩き始めたのだ。
一列になって歩いていく小人たちは、浩介の腹から足の方へ向かい、そのまま足首へと行くと、次々にベッドへと降り立った。そして、あっという間に部屋のどこかへと消えていった。
真由美はもはや寝るどころではなくなってしまった。心臓はバクバクと音を立てて鳴っている。その心臓の音で、真由美はパニックを起こしそうになってしまった。でもやはりじっとしていたのは、これは夢ではないかと頭の片隅で思っていたからだろう。混乱する頭の中で、真由美は今見たものが何を意味するのかと必死で考えた。考えたが、どうしようもなかった。
浩介を起こすべきだろうか、そして浩介の臍の穴をちゃんと調べるべきだろうか。
真由美は悩んだ。しかし、どうすることも出来ずに考え続けた。

どのくらい時間が経っただろう。
真由美が考え疲れた頃、また部屋の隅から何かの気配が近づいてくるのに気がついた。
さっきの小人だろうか。
真由美はその気配を探るように耳を澄ませた。
するとまたベッドの上をサワサワと歩く音がしたかと思うと、浩介の足首あたりに小人の頭がひょっこりと現れた。そして一人、また一人と、浩介の足に小人が現れたのだ。七人の小人が揃うと、また一番小さな小人を先頭に一列になって浩介の臍へ向かって歩いてくる。その姿を見た真由美は、先ほど小人たちが出て行った時との変化に気がついた。
小人それぞれが、大きな荷物を背負っているのだ。風呂敷包みのような物に包まれたそれは、大きく、かなり重たいのか、小人たちは背中を丸めて重そうに運んでいる。
出て行く時は手ぶらだったのに。
そして、さらに観察すると、小人たちは満面の笑みを浮かべて嬉しそうにしている。視力の良い真由美は、その表情まではっきりと見て取れた。
そうこうしているうちに小人たちはまた浩介の臍の周りにたどり着いた。そして、一人が浩介の臍の皮を広げるようにして、臍の中へ姿を消すと、一人、そして一人と消えていった。最後に一番小さな小人が、最初とは逆に浩介の捲れ上がったTシャツを下から持ち上げて元に戻し始めた。その後、Tシャツの中で、もぞもぞと動く気配がしたかと思うと、その小人も浩介の臍の中に入っていったのか、何事もなかったかのように、元通りになった。

その後は何も起きなかった。ただ、浩介が大きく寝返りを打って、真由美に背中を向けてしまったので、真由美は臍を確認することが難しくなっただけだった。がっしりとした浩介の背中が規則正しく波打っている。それを見ていると、やはりさっき見たものが、幻覚か夢かしか思えなくなってきた。
きっと明日この話をしたら、浩介は呆れて鼻で笑うに違いない。
真由美は浩介の背中を見つめながら確信した。

朝になった。いつの間にか、真由美も寝てしまったのだろう。
目覚まし時計を止めたのは、浩介ではなく、真由美であったが、確実に寝足り無かった。真由美はしびれたような頭を枕にうずめて唸った。隣では、浩介も起きられないのか同じようにもぞもぞとしている。
朝の七時半に家を出る浩介は、六時半に目覚ましをかけるのに、いつも起きられずに七時近くまでベッドでぐずぐずしている。そういう真由美も究極的に朝に弱いため、浩介が起きるのを待ってもまだ起きられずにベッドの中にいることが多い。
今朝も浩介は、大急ぎで着替え終えると家を飛び出していった。真由美は、浩介が着替え終わった頃、やっと起き出し、出かける浩介に家のごみをかき集めて手渡すのが精一杯だ。飲まず食わずに出かけて行く浩介がちょっとかわいそうでもあるが、朝早く起きられないので仕方が無い。朝食抜きの生活がずっと続いている。
真由美は、大きく欠伸をすると、吸い寄せられるようにベッドへと逆戻りして、また続きを寝るのだった。
気がつくと昼前になっていた。真由美はむくりとベッドから起き上がると、伸びをしながらリビングへと行った。
あー、また寝ちゃった。
反省しながらキッチンへ行き、コーヒーを淹れる準備をする。
浩介を送り出す時に一度は起きたとはいえ、あれからたっぷり二度寝してしまった。しかし、昨夜なかなか寝付けなかったことを考えれば、睡眠時間は特に多すぎることも無い気がする。自分に言い訳をしながら、真由美は淹れたてのコーヒーを大きめのマグカップにトロトロと注ぐと、ゆっくり啜った。
それにしてもあの夢は妙にリアルだったな。
ほろ苦い味と香りを堪能しながら、真由美は昨夜見た夢を思い出していた。
浩介の臍の穴から小人が七人も這い出てきて、それがまた大きな荷物を抱えて臍の中に潜り込むという夢。特に荷物を抱えて帰ってきた小人たちの表情、ずる賢そうに口を歪めた顔といったら、憎たらしいなんてもんじゃなかった。
真由美は思い出す度にむかむかと腹が立ってきた。
いったいあの小人は何を運んでいたのだろう。
色々と考え巡らせてはみたが、たかが夢に振り回されている自分がそのうち馬鹿らしくなり、真由美は考えるのをやめることにした。
どうせこんな馬鹿げた話、浩介が信じてくれるわけもないし。
気分を変える為に、今日の夕飯のメニュー考えることにして、真由美はパソコンを立ち上げると、レシピを検索し始めた。
真由美は料理を作るのが好きだ。毎日、浩介の為に手の込んだ料理を作るのが楽しくてたまらない。昨夜はビーフストロガノフを作った。浩介も美味しいと喜んで二回もお代わりをしてくれた。
今日は久々に浩介の好きなカニクリームコロッケでも作ろうかしら。
そう決めると、真由美は買出しのためのメモを取り始めた。

その日、浩介から帰るコールがあったのは、既に夜の九時を回ってからだった。これから会社を出たとしても、家に着くのは十時半を過ぎるだろう。
キッチンの上には、既にカニクリームコロッケの準備が整ってある。付け合せのサラダとスープの出来栄えも完璧だ。後は、コロッケを揚げるだけなのだが。
真由美はすっかり待ちくたびれてしまったが、遅くまで頑張って働いている浩介が健気でもあり、愛おしくもある。お腹を空かせて帰ってきた浩介に、早く大好物のコロッケを食べさせてあげたいと思うのだった。
十時半になり、やっと浩介が帰ってきた。ぐったりと疲れた顔をしているが、真由美の顔を見たら嬉しそうににっこりと微笑んでくれる。
真由美は急いで油に火を入れると、料理の準備に取り掛かった。
浩介はドサリとソファーに座り込むと、
「腹減った」と既に食卓テーブルに出してあるサラダをうっとりと見つめたが、
「やっぱり先に風呂」と言って浴室へと向かった。
浴室から聞こえる水音をBGMにコロッケを揚げながら、タイミングを見計らってスープとご飯をよそってあげた。
風呂を終えた浩介がテーブルにつくと同時に、揚げたてのコロッケを白い皿に盛り、特製ソースを添えて浩介の目の前に持っていくと、浩介は目をキラキラさせて食べ始めた。
真由美も自分用にご飯を少しだけよそうと、味見程度にコロッケをつまんだ。
料理を作るだけで胸がいっぱいであまり食欲がない。隣ではものすごい勢いで浩介がコロッケを頬張っている。
真由美は、次々とコロッケが減っていくのを見ながら、嬉しさ反面、夜遅くにこんなに食べて大丈夫なのかしらと不安にもなるのだった。
しばらくして、空腹が満たされたのか、浩介の箸の勢いは落ち着いたが、それでも残ったコロッケを見つめながら、なにやら考えているようだ。
どうしたのと聞くと、浩介は真剣な顔をしながら、「これを食べたら食べすぎかなあと思って」とつぶやいた。
「でも、明日になると美味しくなくなるよ」とさりげなく言うと、
「じゃあ美味しいうちに食べちゃおう」と言って、浩介は嬉しそうに残ったコロッケに手をつけ始めた。結局、作ったコロッケは全部、浩介の胃の中に納まってしまった。
食べ終わった食器をキッチンに運ぶと、浩介はいつものようにリビングのソファーに座って深夜のニュースを見始めた。真由美は洗い物にとりかかった。ソファーに寝そべる浩介は今食べたばかりのコロッケがお腹の中で膨れているのか、遠くから見ても分かるくらいぽっこり膨らんでいる。
さっと洗い物を片付けて浩介の傍にいくと、浩介の目は、ほとんど塞がりかかっていた。
「やばい、眠たい」
昨日も寝るのが遅かったし、仕事の疲れもあるのか、最近、ご飯を食べ終わるとすぐに眠気が襲ってくるようだ。
最低でも食後は二時間くらい起きていないと胃に負担がかかるとは思うが、眠そうな浩介を見ていると、一刻も早くベッドで寝かせてあげたい気もする。
真由美はここで寝ちゃったらだめだよと何度も言うと、今にも眠りに落ちそうな浩介を引っ張り起こした。そして、ほとんど寝ぼけ眼で歯を磨きに行った浩介の後ろ姿を見ながら、やっぱり少し太ったかもと思うのだった。

それから真由美も歯磨きを済ませ寝室に行くと、かろうじて熟睡していなかった浩介がベッドに横たわっていた。こんな生活では、週末くらいしかゆっくり話も出来ない。仕方が無いと思いつつも、一日帰りを待っている身としてはつまらないというのが正直なところではあった。
しかし、寝つきのいい浩介は、今夜も真由美がベッドに横たわったと確認したとたん、まるで電気のスイッチを消したかのような勢いで、コトリと眠りに落ちてしまった。すぐに規則正しい寝息が浩介から聞こえ始めた。
真由美はといえば、今朝の二度寝がやはり響いているのか、今夜もなかなか寝付けそうに無かった。起きて本でも読もうかと一瞬考えたが、特に読みたい本もない。では、撮り貯めしてあるビデオを見ようかとも思ったが、明日の為にはやはり寝てしまったほうがいいような気がして、無理にでも寝ようと努力した。
努力はしたもののやはり眠れない。努力すればするほど昨夜と同じく目が冴えるばかりだった。
次第にまた眠れないことへの焦りを感じてきた。このままではまた明け方くらいまで眠れず、二度寝もしくは昼寝をしてしまい、そして夜眠れなくなるという悪循環を起こしてしまう。
悶々としていたら、また浩介の脇の部分から昨夜と同じように声が聞こえてきた。
「よし、そろそろ出かけるか」
「はい」
「うん」
「了解」
「ほいさ」
「イエース」
「オッケー」
真由美はまたしても自分の耳を疑った。しかし昨夜と全く同じ夢を見るとは考えられない。咄嗟に真由美は、浩介の腹の部分に目をやった。
すると、昨夜同様、浩介のTシャツがするすると捲れ上がり、七人の小人が臍の中から現れた。そして、また円陣を組んで何やら話し合った後、一列になってどこかへと出かけていったのだ。
真由美の頭は完全に目覚めていた。その頭の中で、昨夜の夢は決して夢ではなく、本当の出来事だったということを確信し始めていた。
どうしよう。今夜こそ浩介を起こすべきだろうか。
真由美は考えた。隣では何も知らない浩介が気持ちよさそうに寝息を立てている。浩介を起こして、今みた出来事を正直に話して、浩介がはたして信じてくれるだろうか。
はやりだめだ。
熟睡中に突然起こされて、非現実的な話をされても、真由美がおかしな夢を見たと思うに違いなかった。
真由美は悩んだ。捲れ上がったTシャツからは浩介の臍がよく見えるが、今はこれといった変化はない。小人が出てきた時のように広がったままならば、信じてくれるかもしれないが、何も変化のない臍を指して、ここから小人が出てきたと言っても自分だって信じることが出来ないだろう。真由美はまたしても悩み続けた。
どうしよう・・・
結局何も出来ずに、じっとしていると、またベッドの先から気配を感じた。小人が戻ってきたのだった。小人たちは真っすぐ浩介の臍へと向かって歩いてくる。そして昨夜と同じく背中には沢山の荷物を背負っている。
真由美は目を凝らして小人を眺めた。見ているだけで本当に腹が立ってくるような、ずる賢そうな笑みを浮かべている。口元を見ると、心なしか昨夜よりもその口角は上がり、それとは逆に目じりがだらしなく下がっているような気がする。おまけに背中の荷物は、昨夜よりも膨れ上がり、かなり重そうだ。
真由美が見ていることも知らずに、小人たちは臍の周りに戻ってくると、またするすると浩介の臍の中へと潜り込んでいった。
そして何事もなかったように、再び静けさが戻った。
小人が姿を消した臍の辺りをじっと見ているうちに、真由美は無償に腹が立ってきた。あんな憎たらしい顔をした小人が、大好きな浩介の臍の中に住み着いているなんて、許せないと思ったのだ。
でもだからといって、どうすることも出来ず、真由美は暗闇でただじっと腹を立てているしかなかった。

また朝になった。起きた時には、浩介はもう家にいなかった。
目覚まし時計の音も、浩介の起きた音にも気づかないなんて。
一瞬にして、真由美は暗い気持ちになってしまった。どうして私は朝にこんなに弱いのだろう。昨夜寝られなかったせいではない。自分自身の怠け癖がそうさせているのだ。不甲斐なさと浩介への罪悪感で押し潰されそうになった。
キッチンに行くと、浩介は今朝も慌てて家を出たのだろう。野菜ジュースを飲んだらしいコップが無造作に置かれていた。
ごめんね、浩介。
真由美はさらに申し訳なくなってしまった。
これもあの小人たちが悪いのだ。
ついさっきまでの反省をすっかり忘れ、いつの間にか、起きられなかった原因を小人たちのせいにしていた。そしてまた、あの小人たちの顔を思い出しては、腹を立てるのだった。

その日は一日雨だった。寝過ぎたせいか身体はだるく、ぼんやりしながらまた一日を過ごしてしまった。夕食の買い物に行くのも億劫で、冷蔵庫にあるもので何か作ることにした。
冷凍庫を探ると、鶏肉があった。昨夜はコロッケだったので、揚げ油がそのままになっている。だったら、鳥を素揚げして中華風に甘酢餡でも上からかけてしまおうと真由美は決めた。
揚げ物が続くけど、浩介は何も言わないだろう。

浩介はその夜も十時を過ぎて帰ってきた。
そしてまたたんまりと夕飯を食べ、眠くなってソファーで転がっている。
無意識に真由美は浩介の腹の部分ばかりに目をやるようになっていた。
「明日、俺、スーツだから」
ほとんど眠りながら浩介がつぶやいた。浩介は内勤の為、年に数える程度しかスーツを着ることがない。真由美は寝室に行くと、浩介のスーツをクローゼットの奥から引っ張り出して、吊るした。
最近太ってきたから、着られるかしら。
不安になりながら、真由美はスーツの皺をチェックした。
新しいスーツを買ったほうがいいのかしら。それとも、体系を戻したほうがいいのかしら。
リビングに戻ると、浩介の尻を叩いて起こし、歯を磨かせると、ベッドへ直行する浩介の背中をまたじっと見つめるのだった。
今日も小人は現れるのかしら。
やはり小人は現れた。そしてまた沢山の荷物を浩介の臍の中へと運び入れるのだった。
真由美は小人への不満を募らせるばかりだった。

翌朝、スーツに着替えた浩介が、困った顔をしているので、どうしたのかと尋ねると、浩介は、
「やべー、このスーツ、かなりきつくなってる」と言った。よく見るとウエスト部分からお腹の肉が盛り上がっている。出会った頃のスリムな浩介はどこにいったのだろう。
「今度スーツ買わなくちゃな」
浩介は躊躇わずに言ったが、真由美は賛成しかねた。やはり体系を戻すべきではないだろうか。体系にスーツを合わせていたら、いつまでも浩介は太り続けてしまう。

それからも毎夜、小人は現れた。真由美は真夜中に小人が現れるのを確認してから眠り、そして朝起きられず、昼近くまで寝ては、夜遅くに帰ってくる浩介を迎えるという悪循環の生活が続いた。浩介は徐々に太っていくようだった。そして帰ってくるたびに「会社の人に最近太ったと言われる」とか、「久しぶりに同級生に会ったら、太ったと言って笑われちゃったよ」というようなことを口にするようになった。
ウエストだけでなく、顔もふっくらとして、首の辺りも肉がたるんできたようにも思う。
真由美は浩介が出かけた後、昔の写真を引っ張り出しては、今とは別人の浩介を愛おしく撫でるのだった。

そんなある日、夕飯の買出しに出かけたついでに、真由美は近くの喫茶店に立ち寄った。
コーヒーを啜りながら雑誌を読んでいると、隣に座っていた主婦らしき二人組の会話が聞こえてきた。
「絶対に朝食抜きは体に良くないわよ」
「そうよ、どんなに昼と夜の食事を注意していても、朝食べないというだけで太るのよ」
「それだけじゃないわよ。夜十時過ぎての食事は、もっと良くないわよ」
「食べたものが全部脂肪になるって聞いたことがあるわ」
真由美はいつの間にか主婦達の会話にくいついていた。
二人が話している健康によくない食生活の全てに真由美夫婦の生活が当てはまるようだった。
分かってはいるのだ。朝食抜きが良くないことも、夜遅くの食事が良くないことも。分かってはいたけれど、嬉しそうな浩介の笑顔が見たくて、ついつい、浩介の体調管理のことを考えないようにしていたのだ。
それから真由美は、スーパーへ行ったが、先ほどの会話が耳から離れなかった。
買い物メモを手に、浩介の好きな肉を買うつもりで肉売り場へ近づくと、ふとステーキ肉の脇に置いてある牛脂が目にとまった。
浩介のお腹にもあのような脂肪がたまっているのだろうか。
浩介の太くなったウエスト、次にあの小人たちの姿が思い出された。
もしや、あの小人たちが運んでいたのは・・・
真由美は、買い物かごを慌てて元に戻すと、急いで本屋へと向かった。そして、あらゆる健康雑誌や、ダイエット料理本などをむさぼり読んだ。
あの小人たちをなんとかしなくては。

一通りの知識をつけるとまた真由美はスーパーへと戻った。そして、肉売り場を素通りし、野菜売り場、乾物類、豆腐や納豆の売り場などを歩き回った。
真由美はレジに向かう前に買い物かごを再度点検した。籠の中には色とりどりの野菜や果物、豆腐に納豆、海藻類が入っている。かごの中身に満足した真由美だったが、ふとまたある考えが頭に浮かんだ。
くるりと踵を返すと、再び、肉売り場と魚売り場へと引き返した。
食料品売り場で清算を済ませると、今度は生活雑貨が売っている二階へ上がった。
重い食料品を肩にぶら下げて、息を切らしながら向かったのはお弁当箱が並んでいる売り場だった。そこで、男物の弁当箱で手ごろな値段のものをひとつ選ぶと、レジへ急いだ。
朝と夜の食事だけじゃダメなのよ。やるからには、とことんやらなくては。
朝はバランスのよい食事。昼は比較的しっかりと栄養を取ってもってもらう為、後から買い足した肉や魚をお弁当のおかずに。夜はサラダ中心のヘルシーメニューにと、真由美の頭の中では、目まぐるしく数多くの献立が浮かんでいた。

家に着くと、さっそく買ってきた食材をパソコンに打ち込み、平日五日間の献立表を作った。もともと几帳面な性格で、やると決めたからにはとことんやらなくては気が済まない。真由美のエンジンは全開になってしまった。

それからというものの真由美の浩介改造計画は、着々と進んでいった。初めは会社の同僚達からの突っ込みを嫌がり、弁当を持っていくことに難色を示した浩介だったが、休憩時間を有効に使えると気づいた途端、あっさりと承諾した。
夜はさすがにサラダだけではもたないらしく、野菜たっぷりのスープなどを作って食べさせると、これもまた文句を言われないようになった。浩介自身も自分の腹周りに不安を感じていたのだろう。真由美の意図を知ると、早起きをして朝食を取るようになるなど、浩介にも気持ちの変化がみられるようになった。それは、真由美にも嬉しい変化でもあった。
しかし、小人たちは相変わらずせっせと浩介の臍の中へ何かを運び込み続けた。
すぐに小人がいなくなると思っていた真由美にとっては、気持ちをそがれる思いだったが、急激なダイエットは却ってリバウンドを招く恐れもあるし、長期的な無理のないダイエットを心がけるつもりでもいたので、めげずにやり続けた。

ちょうど一カ月が経った頃だろうか。その夜もやはり小人たちは現れたのだが、その表情はいつもと違っていた。あれほど喜び勇んで、とういうより、憎たらしい顔をしていた小人たちが、妙に疲れたような、しょぼくれたような顔をしている。声にも張りがない。
まんじりともせず、小人たちを観察していた真由美だったが、ひそかに胸が高鳴っていた。ついに、浩介改造計画が功を奏してきたのかもしれない。
真由美には確信があった。なぜなら、実際、浩介が痩せ始めていたのだ。ぽっちゃりとしていた身体が少しずつ元の体形に戻りつつあった。
真由美の予想は的中した。
浩介の臍から出てきた小人たちは、いつものように円陣を組んで話し込んでいるかと思いきや、リーダーらしき一番小さな小人が、大きく首を横に振った。そして、残りの全員も同じように大きく首を振った。
そして、全員ががっくりと項垂れたかと思うと、出かけることなく、浩介の臍の中へ再び戻っていったのだ。
とうとう真由美は小人に勝ったのだ。
本当は大声をあげて笑いたいのをぐっとこらえて、布団の中へ潜り込んだ。

小人はいなくはなったが、真由美はその後も浩介のために朝食、弁当、そして夕食を作り続けた。浩介もその食生活が既に当たり前となっている。
真由美は嬉しかった。が、しかし、自分の心の変化にも気がついていた。
ぽっかり穴があいたような寂しさというかむなしさというか。小人がいなくなった今、何も恐れることなどないはずなのに、心が晴れないのだ。毎日が同じ繰り返しのようで、料理をしていても楽しくない。そもそも小人と戦っていた時が、楽しかったかというのも疑問なのだが、何かに追われるような焦りが真由美の闘争心を掻き立てていたのは事実だった。そして、改めて目標があることへの遣り甲斐というものを感じてしまうのだった。だからといって、再びあの小人たちが現れることを考えただけでも恐ろしくなる。太った浩介も嫌だ。今のままがいい。でもなんだかちっとも楽しくないのだ。真由美は自分自身のそんな気持ちを、味付けの足りないパスタが喉に詰まったみたいに、心の中でもそもそと咀嚼出来ないでした。

そんな時、大学時代の友人から一本の誘いの電話があった友人が誘ってくれたのは、新しくできたホテルのランチバイキングだった。ぐずぐずと煮詰まっていた真由美はすぐに飛びついた。
当日、真由美は足取り軽く出かけた。久しぶりの遠出とおしゃれなホテルでのランチバイキング。ちょっと金額は張るのだが、小人を追い出した自分へのご褒美にしようと、心の中で考えていた。

食事は素晴らしかった。和洋中、そして普段目にすることのないような料理が煌びやかに盛りつけられていた。見ているだけで、唾液が溢れてしまいそうだった。
ここずっと小人と浩介の体形ばかりを気にして、自分が食事を楽しんでいなかったことに思い至った。
思う存分自分の食事を楽しんでやれ。
真由美に負けず劣らず食いしん坊の友人は大皿に料理をこんもりと盛りつけては、せっせと口に運んでいる。そんな彼女に負けまいと、真由美も料理を口に運んだ。二人はよくしゃべり、よく食べ、よく飲んだ。もちろんデザートも忘れずに食べた。そして、制限時間の三時間を食べ続けた。
友人とは帰る方向が逆だったため、駅で別れた。真由美は帰りの電車にひとり揺られていると、突然むかむかと胃のあたりから酸っぱいものが込み上げてくるのを感じた。それと同時に、身体中がドクドクと脈打ち始めた。脂汗をかきながら、真由美は必死でこらえた。さっきまでの幸せ気分が、一瞬にして地獄の苦しみへと変わってしまった。なるべく意識を別の方向へ向けさせるように、車窓から過ぎゆく街並みを眺めてはみたが、見ているだけで目には何も写っていなかった。不快感を耐えるのが精いっぱいだった。
やっとの思いで最寄り駅にたどり着き、家に着くや否や、トイレに駆け込み、さっき食べたあらゆるものを次から次へと吐き出した。まだ消化されていないものがトイレへと流れていく。不快なにおいと苦しさでめまいがしそうだった。小人たちを追いやった自分へのご褒美だったのに、これでは、何かの罰でも受けているみたいに思えた。でも一体何の罰だろうか。
お金を払って、いっぱい食べて飲んで、こんなに辛い気分で全部吐き出すなら、食べなかった方がどんなにましだろうか。
情けないやら苦しいやらで、心身ともにぐったりとしてトイレから出ると、真っ青な顔をした自分が鏡に写った。涙が出そうになった。ふらつく足取りで、居間へ行くと、這うようにして救急箱から薬を取り出し、飲んだ。
薬を飲んだことで安心したものの気分はちっとも良くならなかった。胃は石になったかのように、重く、時々ひきつるような痛みを伴っている。
眠ることもできず、ベッドでのたうち回っていると、浩介が会社から帰ってきた。
今日は友達とランチバイキングに行くと伝えてあったので、さぞかしご機嫌で待っているかと思いきや、蓑虫のようにベッドで布団に包まれている真由美を見て、驚いた顔をした。
事情を話すと今度は、ニタリと笑って、
「ひとりでいい思いするから、こんなことになるんだよ」とからかった。
そんな浩介の憎まれ口にも反論できず、蚊の鳴くような声で、夕飯を作れなかったので、非常食用に買い置きしてあるカップ麺でも食べてと言うと、さらに目じりをたらした浩介が、
「おお、久しぶりにカップ麺のお許しがでた」と言って、いそいそとリビングへと消えて行った。
せっかく小人を追いやったのに、これでは、何にもならないと、不甲斐なさも重なって、真由美はさらに落ち込むのだった。

次の日、少し気分が良くなったものの、胃の不快感と痛みはまだ残っていた。
食欲もほとんどなく、夕方になってから、残っていたご飯をおかゆにして、梅干しと一緒にすすって食べた。
その後も食欲はあまり回復せず、身体の倦怠感がずっと取れずにいた。それでも浩介の弁当を作り、ダイエット食を作ってはいたが、体調不良のせいか、やる気も一向にわかず、ただ、なんとなく癖のような感じでやり続けているだけだった。
真由美はすっかり健康を崩してしまっていた。楽天家の浩介もそんな真由美を心配して、病院へ行くことを勧めたが、病院に行くこと自体が億劫で、毎日をだらだらと過ごしていた。

ある日、真由美がやはりソファーで横になっていると、玄関でチャイムが鳴らされた。
化粧もせず、着替えもしないままの姿で玄関へ向かうと、両手に紙袋を下げた真由美の母がひょっこりと現れた。
「まったく、連絡ぐらいよこしなさい」
呆れた声を出しながらも、顔色の悪い娘を見て少し心配になったのか、それ以上はあまり小言が続かなかった。
母によると、浩介から電話があり、真由美の事が心配なので、様子を見てほしいと頼まれたというのだ。そんな事を何も言わず、出かけて行った浩介を少し憎たらしいと思いながらも、母の顔を見て安心したのも事実だった。
真由美が朝から何も食べていないと聞いた母は、実家から持ってきた真由美の大好物の干物を広げると、早速台所で焼き始めた。
懐かしい実家の匂いがリビングに漂ってきた。
真由美は母の顔と懐かしい魚の匂いに包まれて、自分が心底寂しくなっていたことに改めて気付かされた。
母はふんわりと焼いた干物、手作りの煮物とほうじ茶を持って戻ってきた。
久しぶりに口にする実家の味に涙が出そうになった。
食べながら、ここ最近の身体の不調を正直に母に聞いてもらった。母はふんふんとお茶をすすりながら聞いていたが、最後まで聞き終わると、意外な、一言を言った。
「おめでたじゃないの」
ぽかんと口を開けていると、母は思わず噴き出した。
「昔は、女を見れば妊娠を疑えって言ったじゃない」
「知らないわよ、そんなこと」
そう言いながらも、真由美にもふと思い当ることがあることに気がついた。
真由美は、急に恥ずかしくなってしまった。
あのバイキングの暴飲暴食は体調不良の一端だったかもしれない。でもここ最近の不調の様子を思うと、もしかしたら、もしかしてということも。
返事をしない娘を前に、勝手に話を進めている母が、
「そろそろね、お父さんとも孫の顔が見たいわね、なんて話していたのよね」などと一人で楽しそうに話している。
もし、妊娠であるなら、この得体のしれない不快感、不調の原因はすべて納得のいくものとなる。
「明日、病院に行ってみる」
真由美が言うと、母はまたウキウキした顔で、父の様子や世間話など、しばらくぶりの母子の会話を楽しんで、帰って行った。

母の予想はズバリだった。
次の日、病院に行くと、妊娠三週間目だとあっさり言われた。これで、自分が悪い病気かもしれないという不安感と闘うことがなくなったのだ。
妊娠が嬉しいのか、病気じゃないと分かったことが嬉しいのか、複雑な気分で家に帰った。

それからは、平和な日々が続いた。平和といっても、つわりはひどく、食べても吐いてばかりいるので、妊娠前よりも体重が減ってしまったくらいなのだが、お腹の赤ちゃんは順調に育っていた。お腹の中に小さな生き物がいると思っただけで、真由美は毎日が幸せだった。
つわりが落ち着いたころは胎教に良いからと、今まで聴いたことのないクラシック音楽をかけ、母親学級にも通い始めた。
真由美にとっては、至福の時間なはずであった。
すっかりお腹の中のベビーに夢中になっていたある日の夜、あの、恐怖ともいってよい声が再び真由美の耳に届いたのだ。しかも、それは夢だとはいえない状況で。
真由美は妊娠中につきもののこむらがえりを起こし、突然の痛みでベッドから飛び起きた。
あまりの痛みで唸ってしまったが、浩介は相変わらずピクリともせずに爆睡していた。
すっかり目が覚めてしまった真由美は仕方なくベッドルームから出ると、水を飲みにキッチンへと向かった。
コップ一杯の水を飲んで、トイレに行き、ベッドに戻ろうとしたその時、あの声が聞こえたのだ。
その声は、以前聞いた時よりも、より鮮明にそして大きな声で。
真由美はベッドルームの扉の前で呆然としていた。
薄暗い部屋の中で、あの七人がまた風呂敷を抱えて、浩介の臍へ向かって行進していくではないか。
真由美はただその様子をぽかんと口を開けて見ているだけだった。
あの小人たちを追放したはずではなかったのか。
次第に真由美は怒りの感情で、身体が震え始めた。自分でもどうしようもないくらい、あの小人たちが憎たらしかった。
その殺気に満ちた気配に気づいたのか、先頭の小人がくるりと真由美の方へと振り返った。
そして、真由美を見て、ニタリと笑ったのだ。
それも、おぞましいほど、憎たらしい顔で。
真由美が顔を引きつらせていると、小人は再び向きを変え、浩介の臍の中消えていったのだ。ひとり、またひとりと。
真由美は、しばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
が、突然、真由美は弾かれたようにキッチンへと向かうと、シンク脇にあるプラスチック用のごみ箱の蓋を足踏みペダルの踏むのももどかしく、手でむんずとつかむと思い切り中を覗き込んだ。
そして、思わず「あっ」と叫んでしまった。

そこには、浩介が食べたと思われるインスタント麺やコンビニ弁当の器が大量に捨てられていたのだ。
そして、真由美がつわりと戦っていたこの数ヶ月間のことを思い出していた。
ご飯の匂いを嗅ぐだけでも吐き気がした真由美は、浩介の朝食、夕食はもちろん、弁当作りまで、すっかりさぼってしまっていたのだ。小人の事を忘れてしまっていたわけではない。でも、もう彼らは来ないと勝手に鷹をくくっていたのだ。だから、自分と自分のお腹にいる子供のことばかりを考えて、浩介の健康管理を、二の次にしてしまっていたのだ。
小人は消えたのではなかったのだ。浩介がダイエットしていたから成りを潜めていただけだったのだ。だから浩介の栄養が偏ったとたん、こうして再び浩介の臍の中へ荷物を運びこんでいったに違いなかった。
その事実に気がつくと、真由美は、さっきの怒りがまるで嘘のように、放心したまま、ふらふらと自分のベッドへと戻っていった。

次の日、ぼんやりとした頭で起きると、浩介はもう会社へ出かけた後だった。
台所のシンクには、浩介が飲んだらしい野菜ジュースのグラスが使ったまま置かれていた。
真由美はそれをぼんやりと眺め、大きくなり始めたお腹を撫でながら、ソファーに横になると再びうとうとと眠り始めたのだった。
私は結局、小人に負けたのだろうか。
真由美は、敗北感でいっぱいだった。

週末、真由美は浩介と一緒に、浩介の実家へ遊び行った。つわりがひどかった時は、外出どころではなかったので、しばらくぶりの訪問でもあった。
浩介の母親は底抜けに明るい人で、とにかくひとりで喋っては、ひとりで笑っているような人なので、会話が続かなくなる心配もなく、彼女のペースに任せていれば、いつも賑やかな雰囲気に包まれる。
その日も、近所の噂話やテレビの話と、話題は途切れることなくいつまでも続きそうだったのだが、ふとその話を遮って、浩介は突然立ち上がると、隣の和室へと向かった。
真由美も浩介の母も不思議に思って浩介の後に付いていくと、浩介は仏壇の前にどしりと座り、
「俺も少しは御先祖様に手を合わせておかないとな。これから子どもが生まれてくるんだしな」と言って、手を合わせた。
真由美も慌てて浩介のすぐ横に座ると、同じように手を合わせた。そして、心の中で、赤ちゃんが無事に生まれますように見守っていてくださいと祈った。
立ちあがって、再び居間へ戻ろうとした瞬間、真由美の視界の片隅に何かが写った。
とても見覚えのある顔が。
真由美は立ち止まるとその顔を探した。
タンスの上には、浩介の小さい頃の写真や舅姑の旅行写真が無造作に飾られていた。そのいくつもの写真の中で、とびきり古ぼけた写真が真由美の視線を捉えた。大きな写真ではない。よくあるスナップ写真の大きさだった。
真由美は恐る恐るその写真に近寄るとその写真立てを手に取った。手はじっとりと汗ばんでいた。
仏間から出てこない真由美に気づいた浩介が戻ってきて、真由美の手にしている写真を覗き込んできた。
「あ、それね、その写真、すっげえ笑えるよな。それさ、俺のひいおじいちゃんよ」
「ひいおじいちゃん?」
「そう、これ。この中央に陣取って偉そうにしてる人。でも、結構早くに亡くなったらしいから、俺は全然知らないんだけど。死んだのは、お袋がここに嫁いでくるだいぶ前だって言ってたかな」
「で、この、写真に写っている他の人達は」
「あ、それね、全部、ひいおじいちゃんの兄弟よ」
「兄弟!」
「俺のひいおじいちゃんって、七人兄弟だったの。七人なんて今は珍しいけど、昔は当たり前だったみたいだよね。でもさ、男七人だからひいおばあちゃんはものすごく苦労したって言ってたわ」
真由美は息をするのも忘れていた。苦しくなって慌てて息を吸い込んだので、大きくむせ返ってしまい、浩介にしばらく背中をさすってもらわなくてはならなかった。
「それにしても、ずいぶん太ったひいおじいさんよね」
やっと息を整えると、真由美は言った。
「あ、そうそう、なんだかね、食べることにすごく執着があって、食べなきゃ弱るが口癖だったみたい。で、結局太り過ぎで、死んじゃったって聞いたけど」
真由美は喉元につかえていた大きなものが、すとんと落ちたような気分になった。
そうか、御先祖様だったのか。
だから、浩介を太らせるために、夜な夜な自分の兄弟を引き連れてやってきたのか。
いや、ちょっと待てよ。
確かに御先祖様には逆らってはいけない気がする。
でも、その浩介の御先祖様の、ひいおじい様は太り過ぎで死んだというではないか。
だめだ。
御先祖様だからって、間違ったことは、間違っている。
真由美は、メラメラと闘志をみなぎらせた。
浩介は真由美から立ち上るオーラーに圧倒されたように、真由美の手から写真立てを取り上げると、まだ眉間に皺を寄せたままの真由美を居間へと引っ張って行った。

ベビーカーを押して店内へ入ると、すでに出版社の担当者が待っていた。
真由美は、軽やかな足取りで、その席へ向かって歩き出した。
すぐに気がついた担当者が、席を立って、真由美に笑顔を向けてきた。
真由美はうながされるまま、ベビーカーが隣り合うように席をずらし、座った。
最近出来たこのカフェは、子どもメニューが豊富で、席は子連れのママ達で埋まっていた。
真由美が落ち着くと、そのタイミングを見計らったように、担当者が話し始めた。
「『大塚さんのミラクルレシピ』ですが、今回増刷が決まりました。料理本も色々な種類が出ていて難しいのですが、大塚さんの料理本は主婦層の心をがっちりつかんだみたいです」
「いえいえ、これも金子さんのお陰ですよ。色々な雑誌に取り上げていただいて、宣伝効果があったからこそです」
「確かに我々の戦略も良かったかもしれませんが、一週間単位の買い出しで、朝食と夕食そして旦那様のお弁当までの献立を載せている料理本というのは、今まで無かったですからね。うちの社にも大塚さんの買い出しをそのまま真似て、献立もそのまま活用している社員がおりまして、実に好評です。料理本はどうしても料理がメインになりがちですが、実際は、食材の買い出しの方が重要だってことに改めて気付かされました。作りたい料理があっても、その日の安売り商品が違うので、断念するなんてことはざらで、そうなると料理本を全く活用出来ずにいるなんてこと、私を含め、ほとんどだと思いますよ」
「私の作る料理はシンプルで、食材もどこでも手にはいるものというのが良かったのかもしれませんね」
「その通りです。今、コンビニやスーパーで安い弁当が売ってますけど、やっぱり健康の為に、自分で手作りしたいって人は多いんです」

打倒小人を掲げて、浩介の再ダイエットから約二年。真由美が日記代わりにネットに掲載していたブログが出版社の目にとまり、「大塚さんのミラクルレシピ」という本となって、世の中へ飛び立っていった。
主婦目線の手軽な食材を使ったレシピが売りの真由美の料理本は、この出版社の宣伝が良かったのか、売上目標数をすんなりクリアし、今、二冊目の発売に向けて話が進んでいるところだった。
あの小人は今でも憎たらしいが、こうして、真由美がただの主婦におさまらず、新しい世界を広げる事になったことには、御先祖様に感謝しなくてはならないのかもしれない。

担当者と盛りあがって話し込んでいると、隣で、もくもくとキッズメニューのフライドポテトを食べていた息子のハルが、お腹が一杯になったのか、ベビーカーから出ようと暴れ始めた。
今日の打合せはほとんどなく、増刷の報告ということだったので、担当者はほどなくして帰って行った。
ハルが食い散らかしたポテトの皿には、数本のポテトが残っているだけで、ほとんどハルのお腹の中におさまってしまったようだ。
まだ二歳だというのに、ハルはものすごい食欲で、こちらが心配になるくらいだ。親が食に興味があると、子どもにもそれが受け継がれていくのかもしれない。
残ったアイスティーを呑み干し、ぐずり始めたハルをなんとかあやしながら、ハルを散歩させるためにいつもの公園へと向かった。

最近、ハルの公園遊びに付き合って何時間も外にいるせいか、添い寝しているうちに寝てしまう事が多い。その夜もまた、真由美は夜の八時くらいにハルと一緒に寝てしまった。
夜中に目を覚ました時は、浩介はいつの間に帰ってきたのか、隣のベッドでぐっすり眠っている。
ハルと浩介を起こさないようにベッドから抜け出ると、水を飲みにキッチンへと向かった。
シンクの中には、浩介が食べたと思われる夕食の皿が汚れたまま置いてあった。
今はもうどんなに忙しくても、手を抜かず、しっかり浩介の食事を用意する習慣ができてしまっていた。
仮にも今では料理本を出す、名の知れた料理人なのだ。

水を飲むと満足して、真由美は再び寝室へと戻って行った。
そして、信じられないものを目にしたのだった。
あの小人が、また、現れたのだ。
真由美の頭の中には、数々の疑問と困惑が渦巻いた。
なぜだ。なぜだ。浩介は太っていない。しっかり料理も作っている。手抜きなんかしていない。なのに、なぜ、小人が。

小人は、真由美を振り返ることなく真っすぐとその標的に向かって行進していた。その後姿は、表情を見なくても分かるくらい喜びに満ち溢れていた。
真由美は、叫び出しそうになるのをこらえて、口に手を当てると、わなわなと全身を震わせていた。
小人が向かった先には、ハルがいた。
昼間、ハルがフライドポテトを次々と口へ運んでいる姿を思い出していた。
そして、ハルが喜ぶままに、ハルの好きな食べ物を与え続けていた自分に初めて気がついたのだ。
灯台下暗し。

ハルも大塚家の血をひく男なのだ。
御先祖様はハルをも見逃すことはしないのだ。
この戦いは、決して終わらない。
真由美の中に、新たな、そして、今度こそゆらぎない闘志がメラメラと燃え始めていた。

穴に住むもの

穴に住むもの

穴から這い出てくる7人の小人。その正体とは。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-30

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