Requiem
Ingemisco,tamquam reus:
罪を恥じて、私は顔をあからめ
Culpa rubet vultus meus:
犯せし過ちを私は嘆く
Supplicanti parce,Deus.
主よ、ひれ伏して願う私をゆるしたまえ
1
あの人のことを話せとおっしゃられても、私は、困ってしまうのでございます。いえ、いえ、覚えていないわけではございません。あの人のことは、良く覚えております。あの人のお顔、言葉、仕草、それら全てのものを、私は宝石の一つ一つのように、大切に胸の奥に仕舞ってあるのでございます。
こうして目を閉じると、今でも、昨日のことのように、あの人と過ごしたキラキラと輝く日々を、思い出すことができるのです。ええ、私は、あの人に関わることを、一つも、忘れてはおりません。忘れるものですか。あんなにお美しい人のことを、忘れるものですか。
私が返答に困っているのは、私ごときのつたない言葉では、天使のようなあの人の美しさを伝えきれず、逆におとしめてしまうのではないか、と、恐れているからでございます。
しかしながら、せっかく訪ねてきていただいて何も話さぬのでは貴方にわるうございますし、私自身、あの人の美しさを誰かに話しておきたい気分でございますので、私のできうる限り、できるだけ正確に、あの人のことを語っておきたいと思います。
私とあの人が初めて出会ったのは、お互いに少年であった時分、私が齢十三、あの人が十六の頃でございました。
私は早くに母を病気で亡くしており、次いで、父も事故で逝ってしまい、十三の頃に、孤児となってしまったのでございます。
身寄りを無くしてしまった私でありましたが、父の葬儀の場で親戚一同が額を寄せて、私の引き取り先について話し合った結果、幸いなことに、あの人の家に引き取られることになったのでございました。
こう言ってしまえば不謹慎ではありますが、今思えば、父が亡くならなければ、私はあの人に出会うことはなかったのですから、その意味で、私は父の死に、感謝さえしているのでございます。
私が引き取られることとなったあの人の家庭は、お父上が貿易会社を経営し、契約のため外国をあちこち忙しく飛び回っており、お父上が日本にいることは少ないようでありましたが、その飛び回った分だけお金に恵まれる、いわゆる、お金持ちの家庭でありました。
私が引き取られたのも、そういった裕福さゆえだったのだと思います。
初めて見たあの人の住まいは、それはそれは、大きなものでございました。二階建てのお屋敷は大きく、部屋の数が二十ほどもあり、空気の澄んだ、山に近い場所に建つその白い壁のお屋敷は、まるで、外国の風景を切り取って、そのままはめ込んだような、優美なたたずまいに見えたのを覚えております。
私は、あの人のお母上に連れられて、あの人の家庭の、一番幼い家族となりました。いえ、家族、というものとは少し、違うのかもしれません。私は、あの人に会ったその瞬間から、あの人を慕う、幼い従者になったのですから。
あの人の母上が、私を部屋に案内した時、あの人は薄い瑠璃色のパジャマのまま、穏やかな日差しの差し込むベッドの上で、開けた窓の外を物憂げに眺めておいででした。
それは、その刹那、その一瞬の出来事でありました。
私は、あの人の背中に、透明な翼を見たのでございます。
透き通った二枚の大きな翼を、あの人の背中に見たのでございます。
あの人の横顔を日差しが白く透かす中に、あの人の前髪を、窓から優しく吹き込む風が空に誘うように揺らす中に、私は、白い壁のお部屋に閉じ込められた、天使の姿を見たのでございます。
美しいと、そう、感じました。
ベッドの上に、日の光に透けるような白く華奢な手足を置いて座り、まるで帰る故郷を想うように、青い空を眺めるあの人の姿を、美しいと感じました。十三歳の、美のなんたるかも分からない子供の心に、あの人は『美しいもの』として、焼き付きました。
私は、ひと目で、あの人に心を奪われてしまったのでございます。
すい、と、静かに視線を私に合わせたあの人は、私の顔を見るとしばし不思議そうな表情をお浮かべになり、それから、小さく微笑まれました。
あの人の微笑む顔に、私の胸は、どきり、といたしました。
その心臓の鼓動で我に返った私は、あの人を見た瞬間から自分の頬に血の気が上るのを感じておりましたので、きっと、今、熱っぽい表情であの人を見ているに違いないことが自分でも知れて、私は、あの人の微笑みに恥ずかしさを感じ、もじもじとうつむいてしまったのを覚えております。
その次の日から、私は、あの人の身の回りのお世話をさせていただくこととなりました。
私がそう望んだのでございます。私は、自ら望んで、寝台の上の天使様の、従者となったのでございます。
いいえ、あの人にとって私は、従者ではなくペットのようなものであったのかもしれません。これは何も、自分を卑下して言っているわけではございません。あの人は、幼い頃よりお身体が弱く、ご病気もあり、学校などにも行かれず、よほど体調のよい時以外は、ベッドから離れられない生活を送っておりました。床に伏すことの多いあの人の身体は年齢に比べて幼く、日に焼けない細い手足は、まるで白磁器で造ったように白く、繊細でありました。動くことを考えられず造られた、お人形のような身体であったのでございます。そういった、病気に伏すことの長いお人は、室内に、小さなペットを飼うのだと聞いたことがあります。ご自分が自由に動けない分、ぱたぱたとよく動くペットの姿を見て、心をお休めになられるのだと聞いたことがございます。
あの人にとって私は、そういったものであったのかもしれません。しかし、私はそれでも、しあわせでございました。私が、あの人のお部屋を掃除するため、ぱたぱたとはたきを振るっている際、ふと背中に視線を感じ、振り向いてみると、あの人はベッドの上で、読んでいた本から視線を外し、私を見つめているのでありました。私は何か不手際をしたのだろうかと思い、あの人のお顔を窺うと、あの人は、「有希はよく動く。見てて飽きないな」と、涼しげにお笑いになるのでございます。
私はよく動くと言っても、あの人のように優雅な仕草などできず、それで自然に、はたき一つとっても、どた、どた、といった感じで動くのでありましたから、あの人からそのようなお言葉をいただきますと、嬉しいやら恥ずかしいやら、意識せずにはにかんでしまって、私は、両手で口元を隠して、うつむいてしまうばかりなのでございました。
しかし、そういったやりとりだけで、私は満足なのでございました。あの人からいただけるものは、それだけで充分なのでございました。あの人にとって、私はペットのようなものだったとしても、あの人が微笑んでくださるだけで、私はこれ以上ないぐらい、しあわせな心持ちになれたのですから。
愛、という実感を、当時十三歳だった私が知るはずもなかったのでございますが、あの当時、私は確かに、あの人を愛しておりました。私の内にある愛という感情に初めて気づかせてくれたのは、あの人が最初で、最後なのでございます。私は、あの人よりも美しい人を、他に、知りません。
私は健康でありましたし、年齢が年齢でありましたから、もちろん地元の学校に通っておりましたが、やはり、あの人よりも、いえ、あの人と同じ程度にも、美しい人はいなかったのでございます。匂い、とでも申しましょうか。みな、あの人とは香りが違うのでございます。空気が違うのでございます。
学校から帰ってあの人のそばに行き、鼻腔で、肌で、あの人の匂いを感じると、やはり、みなと違う香りがするのでございます。あの人の周囲を漂う空気は、透明で、少しだけ、甘い香りがいたします。
私がその匂いの正体に気がついたのは、鴉が一羽、開けた窓から飛び込んできた時でございました。なんの前触れもなく飛び込んできたこの失礼な珍客は、静かな部屋の中をばさばさとうるさく飛び回り、黒く汚らしい羽を振るわせて、我がもの顔で天井に近い所を旋回しはじめましたので、私は恐かったのでありますが、それでも、私があの人を、この無頼漢から守らねばならぬのだと決意して、はたきを手に取り、飛んだり跳ねたり、なんとか鴉を追い出そうとやっきになったのでありました。
あの人は、そんな私の様子を面白げに眺めやってから、私の名を呼んで手招きし、私をご自分のベッドに座らせ、
「いいんだ。好きにさせたら良い。この鳥篭の中に飽いたら、あちらの方から帰ってゆくさ」
少しも慌てずにそうおっしゃって、小さく、お笑いになりました。
私はその時、やはりあの甘い匂いをあの人から感じて、そしてようやく、あの人の周囲を漂うその匂いが、あの人の気品の香る匂いであると、分かったのでございます。鴉の前でどたどたと醜態を演じていた私にも、学校のみなにも、到底、持ちえない香りなのでございます。
鴉は、それからほどなくして、一度あの人の膝に降り立って翼を休め、あの人のお顔を見上げて、カァ、とひと声鳴いてから、帰って行きました。あの人は鴉の飛び去って行く姿を見送ったあと、視線を戻すと、膝の上に残った鴉の黒い羽をつまみ、日の光に透かすように持ち上げ、「お礼のつもりかな」と、子供のように微笑まれました。
私は、あの人のその仕草を、とても愛しいもののように思いました。あの人は特別なのです。私は、初めて会った時にそう思ったように、天使様を見ているに違いないのです。きっと、あの人より美しい人は、世界中のどこにもいないのです。その時に、私は強く、そう感じたのでございます。
もう一つ、あの人が他の人と違う処がございました。あの人は、女性の着るお召し物しか、持っていなかったのでございます。あの人がいつもお召しになっている瑠璃色のパジャマにしてもそうですし、クローゼットを開けても、タンスを引いても、少女の着るようなお洋服しか入っておりませんでした。不思議に思う私に、お母上がそれを望んでいるのだと、あの人は説明したのでした。
この地方には、女の子の格好をしていると悪いものが憑かず病気が治る、という古くからの風習があって──もともと農村だったこの辺りでは、男の働き手が病気にかかるのは一大事だったのでございましょう。悪いものは男性に憑くのですが、女性の格好をすると、その悪いものが取り憑く先を間違えたと思い、出ていくそうでございます──あの人のお母上は信心深い様子で、早く病臥から、悪いものから解き放たれるようにと、あの人に少女のするような格好をさせているそうなのでございます。
私はその話を聞いた時、怖く、思いました。
私は、『もしかしたら、あの人に憑いている悪いものが自分に取り憑き、次いで、その悪いものは、私がいつもおそばにあるあの人を、私の視線から客観的に観察して男だと見破り、今までは半信半疑であの人に憑き、永らえさせていていたものの、ついに、本気であの人を取り殺そうとするのではないか』と、そう思ったのでございます。
私は真剣でございました。
こうなっては、取り憑かれないように私も女装するしか無いと思い詰め、かと言って女性の服など持っていない私は、お屋敷に住み込みで働いているメイドから、エプロンドレスを一着、貰ったのでございます。
私がこのお屋敷に来る何年も前からあの人のお母上にお仕えしている美津里という名のメイドは、私が訳を話すと、快く、小さくなりもう着られなくなった仕事着を私にくださったのでした。
その時の美津里は好奇心を隠そうとせず、猫を思わせる笑みを浮かべており、どこか、面白がっている風でございました。
美津里に手伝って貰い、黒のドレスと白のエプロンを身に着けると、美津里は、私を姿見の所へ引いて行きました。そうして鏡で自分の姿を見、そこで初めて、私は、思い出したかのように、羞恥にとらわれたのでございます。
あの人のために女性の格好を決意したとは言え、やはり、スカートで膝を隠している自分というのは落ち着かなく、恥ずかしいものでございます。
私は、自分の姿を直視しきれず、顔を真っ赤にして、すぐに、姿見の前から身をどけてしまいました。
そんな私の様子を見て、美津里は、「大丈夫、ちゃんと可愛いよゥ? なンなら、お化粧もしてあげようか?」とからかいます。やはり、美津里はどこか、面白がっている風でございました。
私があの人の前に立った時、あの人は最初、私の姿を見て、ぽかんとしたお顔をなさいました。小首を傾げて不思議そうな顔をいたしますので、私が女装している経緯を説明しますと、あの人はいよいよ、大きな声でお笑いになったのでございます。
私は真剣でございましたから、あの人にお笑いになられると酷く悲しい思いをして、いけないとは思いながらも、ぐすぐすと、泣いてしまいました。
あの人はすぐに慈愛の混じった微笑みでもって、こらえきれずに涙をこぼしてしまった私を見やり、ご自分のベッドに座らせ、私のカチューシャの位置を直しながら、「これだから有希は可愛い。笑ったりして悪かったね。ありがとう。そうまでしてくれる有希のために、早く元気にならないとね」と、おっしゃいました。その言葉は、随分と優しい響きでもって私の胸に染みいり、なんだか救われたような心地がして、私はもう少し、泣いてしまったのでございます。抱き寄せてくださったあの人の胸に甘えて泣きながら、私は、嬉しい時にも涙が出るのだと、知ったのでございました。
それからの私は、あの人のお母上にも容認していただき、お屋敷にいる時はいつでもメイド服でございましたので、お屋敷のみなから『小さなメイドさん』と呼ばれるようになったのでございました。
お屋敷で働く美津里の他のメイドも、小作人も、最初、私の姿を見た時には笑みを浮かべましたが、あの人のお母上だけは、私の真剣な奇行を、お笑いになりませんでした。あの人から私のことを事前に聞いていたのかもしれませんが、「あら、幼いメイドさんだこと」と、微笑み混じりにそれだけ言って、私を止めるようなことは無かったのでございます。あの人のお母上も、それはそれは、お優しいかたなのでございました。
2
私がメイドの格好をするようになってから、二ヶ月が過ぎました。
桜が散り、五月が過ぎ、訪れた梅雨の時期は、空気が陰気で、じめじめしていて、生き物には意地悪なようでございます。お体の弱いあの人は何度かお熱を出され、六月に入ってからは、床に伏すことが多くございました。
私はメイドの格好でございますが、見かけばかりで、ただの子供でございます。あの人が熱にうなされて苦しそうなご様子でも、私にできることと言えば、あの人の額で熱を吸ったタオルを交換することと、心配そうな顔をして、あの人の血の気のひいた白い手を、そっと握ることぐらいだったのでございます。私は、病気の前ではおろおろとするばかりで、まるで無力でありました。
そんな私を、あの人は可愛そうに思ったのでしょうか。ご自分がお熱を出されて苦しいはずなのに、私を慰めてくれたこともあったのでございます。
あれは、あの人のお熱が四十度から一度、ひいた時でございました。
あの人は私に、汗で湿った肌を拭いて欲しいとおっしゃいました。私はもちろん、あの人のためにできることならなんでもするつもりでありましたから、替えのパジャマと下着を箪笥から出し、お湯を汲み、タオルをしぼったのでございます。
ベッドにのぼると、あの人が身体を起こすのを手伝い、丁寧に上着のボタンを外して脱がせ、私は、あの人の裸の背中にタオルを押しあてました。間近で見るあの人の素肌は、それは綺麗なのでございます。きめの細かい滑らかな皮膚の色は、まだ誰の手もついていない処女雪の白さを思わせましたし、あの人のなだらかな背中に小さく盛り上がった二つのかいがら骨は、そこから純白の翼が生えてくるのじゃないかしら、と、私に思わせるに充分なほど、お美しい形をしておいででした。あの人はやはり、皮膚も、身体も、お心も、全て、お美しいのでございます。
私はふと、あの人がこんなにも美しいからこそ、悪いものが、いやらしく離れようとしないのだと思いました。あの人はそのお綺麗さのあまり、童話に出てくるお姫様のように、悪いものに気に入られてしまったに違いないのです。そう思ったら、あの人の華奢な手足も、白雪のような肌も、とても儚いもののように感じられて、私は、あの人がお可愛そうでじっとしていられなくなり、身体を拭く手を休めて、ぎゅうと、あの人の背中を抱き締めたのでございます。
連れていかせない、という言葉が、私の口を継いでおりました。悪いものなんかに、このかたを連れてはいかせない、私はそう言って、何度も、あの人の白い背中に、柔らかな肩に、細い首筋に、強く、口付けをいたしました。
そうしなければ、なんだか、悪いものにあの人を取られてしまうような気がしたのでございます。
あの人は私を自由にさせながら、有希、と私の名を呼んで、「心配ないよ。有希がいるおかげで、悪いものは手を出せないんだから。そのために、有希はメイドの格好をしてくれているのだろう?」と、優しくおっしゃいました。なにもできない私でも、こうしているだけで、あの人のお役に立てているようでございます。そう言ってくださるあの人の心遣いに、胸が熱く、じん、といたしました。思わず、涙が一つ、こぼれました。
あの人のおそばにあるようになってから、私は少し、涙もろくなったようでございます。
それから五日もすると、あの人から悪いものが離れ、お熱は平熱とそう変わらない温度にまで、お下がりになりました。
昔から、風邪は他人にうつせば治る、と申しますが、まさにその通りでございます。あの人の悪いものは、次に、私に憑いたのでございます。あの人と入れ違いに、私が床に就いたのでございました。
寝台に伏せる私の面倒をみてくれたのは、もっぱら美津里でございました。あの人も私を心配してくれているようなのですが、美津里が言うには、あの人は、お母上から私の部屋に行くのを禁じられているそうでした。私と風邪のひき合いをしては困る、という配慮のようでございます。私も、確かにあの人のお顔を見られないのは寂しゅうございましたが、その方がいいように思いました。あの人が健康でいてくれるのなら、寂しいぐらい、我慢いたします。
熱を出した初日、私の部屋に氷枕と体温計を持って美津里がやってきた時、美津里は、メイド服のまま布団に横になっている私を見て、呆れた顔をいたしました。しかし、すぐに私が女装している意味に気がついたのでしょう、「まったく、仕方のない子だねェ…」と苦笑して、枕を交換し、私のドレスの胸元を緩めて腋の下に体温計を差し入れると、部屋を出て行きました。五分ほどして戻ってきた美津里の手には、丁寧に折り畳んだ白い襦袢が握られておりました。
美津里は私から体温計を抜くと、ちらと目をやり、「三十八度さね。まぁ、そんな窮屈な服を脱いでおとなしく寝てりゃあ、すぐに治るよ」と言って、私に襦袢を差し出しました。そんな、悪いです、と私が逡巡しますと、美津里は笑って、「病人が遠慮するもんじゃァないよ。そりゃあ可愛いパジャマじゃないからご不満かもしれないがね、あたしの寝間の衣装さ、充分にオンナの匂いが染みついてるだろうし、悪いものもとっとと出ていくだろうサ」と、屈託のない顔で私の服を脱がせ始めましたので、私は、美津里に礼を言って、素直に甘えることといたしました。
美津里は話好きなようでございまして、私を着替えさせる最中も、美津里の声は続いておりました。「ふむ、有希の体は健康そうで何よりだよ。あのかたの体は細っこく痩せてしまって、見てて気の毒だからねぇ。子供の体は、これぐらいふくふくしてたほうが可愛いもんさね」と笑って、指先で私の裸の脇腹をつつきますので、私の顔に思わず笑みが浮かんで、身をよじってしまいました。「それにしても、あんたがあのかたを慕っているのは知ってるがね、あんまり、ご病気の時のあのかたに近づくンじゃないよ? 有希ったら病人の部屋に入り浸りなんだもんねぇ。そりゃあ風邪だってうつるってもんサ」
美津里は私に襦袢を羽織らせると、前を合わせ、白い帯でゆるく止め、「それとも」と、猫を思わせる表情でにんまりと笑います。
「──それとも、風邪のうつるようなことでもしたのかい? たとえば、そう、キスとか」
その言葉に、私はびくりといたしました。確かに、私はあの人のお体に、何度も口付けをいたしました。思えば、あれは、キスでございました。あの人はごく自然に私の行為を受け止めておいででしたし、私はあの時べつのことを考えておりましたから、その行為がキスであることにも、いくらお美しいとはいえ、男性の体に口付けるという背徳さにも、気がついていなかったのです。それを今ありありと思い出して、私は思わず、赤面してしまいました。
美津里は、私の表情を見て、笑みを消しました。私をベッドに横たえ、肩まで布団をかけると、「有希」と私の名を呼んで、ベッドの縁、私の胸のそばに腰をおろしました。思い詰めたような顔を、しておりました。
「有希、いいかい、あのかたは確かにお綺麗さ。硝子細工みたいに繊細で、透明で、儚い。あのかたにまとわりつく空気だって、あたしらとは違う」
私は小さくうなずくと、甘い匂いがするの、と言いました。美津里は、私の言葉に目を細めました。「いけないよ、有希。あのかたの匂いに誘われちゃいけない。あのかたの匂い、あれは、死の匂いだよ。あのかたが十六年、つねに囚われ続けた死の香りサ。あのかたは、あたしらよりもずっと、あっち側に近いンだ」
少し厳しい口調でそう言ってから、美津里は私の頬に手をのばして、そっと撫でました。「あんたからは日なたの匂いがするよ、有希。生命の匂いさ。だからかね、あんたがあのかたに魅かれるのは」そう言って、小さく、微笑みました。
「あんたは、あのかたのことが好きなのかい?」
──好きです。
私の口から、言葉が継いでおりました。あの人が好きです。愛しいのです。
「それは、恋かね? 恋人として、あのかたを愛しているのかい?」
私は、何も答えられませんでした。わからなかったのです。今まで、呼吸をするように、ごく自然にあの人のおそばにおりましたので、そういうことを、考えたこともなかったのでございます。私は小さく首を振ると、わからない、とだけ、答えました。その答えは、美津里を、優しく微笑ませました。
「あんたは純粋だね、有希。でも、これだけは言っておくよ。あんたは男で、あのかたも男だ。それが悪いなんて言うつもりはないサ。だけどね、男ってヤツは昔から、不器用なんだね、人の愛しかたを知らないンだよ。だから愛しかたを間違う。愛情のかたちが一つっきゃ無いと思ってるンだからね。あんたも男だからね、あのかたの何が好きなのか、どう愛しているのか、ゆっくり考えな。間違えないように。あんたはまだ子供なんだから、そんなに人を愛し急ぐこともないサ」
微笑んだ美津里は私の髪を一つ、指ですくと、脱がせたエプロンドレスを持って立ち上がり、「これは洗濯しとくよ。ゆっくりおやすみ、有希」と言い残して、部屋を出て行きました。
部屋に独りとなった私は、それから、美津里の言葉の意味を考え始めたのでございます。しかし、考えても、考えても、私には何も、わかりませんでした。私はあの人が好きです。あの人を愛しております。ですが、それが恋なのかと言われたら、私には、わからないのでございます。友愛とか、兄弟愛とか、そういったものに近くて、恋ではないような気がいたします。しかし、どこか、恋のような気もいたします。わからないのでございます。
私はただ、あの人が好きです。
ただ、あの人を愛しております。
それだけではいけないのでしょうか。好きで、愛しくて、それだけではだめでしょうか。美津里が言うように、いつか、愛しかたを間違えてしまうのでしょうか。
私にはやはり、何もわからなかったのでございます。
考え過ぎたせいでしょうか、熱で浮かされた頭は余計にぼんやりしてきたように思われ、私はもう何も考えず、ベッドの中に丸くなりました。身を包む白い襦袢からは美津里の匂いがして、なぜだか、その匂いが私を安心させました。ふと、早くに死んだ母と同じ匂いのように思いました。私は安堵の気持ちを抱いたまま、その夜は、ゆっくりと眠りに落ちていったのでございます。
3
一夜、二夜、三夜も明けると、私の体からだるさも消え、熱も下がりました。
床に伏している間も、私は、あの人への気持ちの正体を思案しておりましたが、やはり、最初と同じく、わからなかったのでございます。
私は、あの人に、男の人に、恋愛感情を抱いているのでしょうか。それとも、この気持ち、あの人が好きで、愛しくて、おそばにあって尽くしたいという気持ちは、もっと別の、主従関係とでも言うような、もっと清廉な感情なのでしょうか。
それがわからないままに熱は下がり、熱が下がりきった頃には、それはわからないこととして、私の胸の底に沈んだのでございます。
しかしながら、私は、わからなくても良いのだとも思いました。四日目の朝にあの人の部屋を訪ね、初めて見た時と同じように、物憂げに空を見上げるあの人のお顔を見た瞬間に、わからなくてもいいのだと思いました。あの人はお美しくて、私はあの人が愛しくて、それだけで良いのだと思いました。
この気持ちが恋でも、恋でなくとも、あの人のおそばにいられるだけで、私には充分なのでございます。ずっとあの人のおそばにいられるなら、それだけで、しあわせなのでございます。他には何も、私の望みの中にはないのでございます。
厚い雨雲が北へ去って、夏が訪れますと、悪いものもどこかへ去ったのか、あの人が体調を崩されるようなこともなくなりました。あの人のお身体の弱さは変わらないのですが、それでも、梅雨の時期に比べると、ずっと健康そうでありましたし、私の学校も夏休みに入り、日がな一日あの人のおそばで戯れていられますので、私は上機嫌でございました。
もう一つ、あの人にはアリスという名前の、二十六歳になるお兄様があって、そのかたはお父様について外国を回っているそうなのでございますが、そのかたからお手紙が届き、近日、休暇を取ってお屋敷の方へしばらく帰ってくるそうなのでございます。あの人のお兄様に会うのは初めてでございますから、どのようなお人なのか、会うのが愉しみでございました。それもあって、私は機嫌を良くしていたのでございます。
しかし、そのお手紙を受け取った時、あの人は少し、浮かぬ顔をなさいましたので、あの人とお兄様の関係は、あまり良くはないように思いました。
それはさておいて、その頃、何よりも私を喜ばせたのは、あの人と、外で遊べるようになったことでございます。私が夏休みに入ってからは、ずっとお部屋の中で過ごしていたあの人も、お屋敷の外を散策することが多くなり、私たちの遊び場というのは、もっぱら、お屋敷の裏手の林を抜けた先にある、綺麗な湖へと移ったのでございます。
外に出る時のあの人は、藍白の、涼しげな色の振袖を着ておいででした。夏の日差しを和らげるようなその着物には、女郎花(おみなえし)の模様があしらわれており、あの人のお顔立ちに、それはよく似合っておいででした。あの人は女性のなりを自然に着こなし、ちっとも下品には見せないのですから、やはり、お綺麗な人なのでございます。あの人が着ると、女性の衣装も男性の衣装もその別をなくして、あの人の衣装、としか言いようのないものになるのでございます。
しかしながら、傍から見た私たちというのは、少し奇矯であったかもしれません。私はエプロンドレスでございましたし、あの人は振袖姿でございました。そして、そのどちらも少年なのでございます。ごく普通の日常を過ごしているお人には、奇妙に見えたことと思うのです。
今考えると、私たち二人がそうして戯れていられたのは、あの人の周囲を包む世界が、いわゆる、俗っぽい世界と隔絶していたからに他なりません。ここでは、あの人の仕草だけがごく自然にあって、他の俗っぽいものも、人も、寄せつけなかったのでございます。楽園というものがあるとするなら、ここが、そうでございます。
私たちは、楽園にある湖に二人きり、ボートを漕ぎだし、澄んだ水の上を漂っておりました。湖はあの人の家の私有地らしく、小さなボートが一つ、岸に繋いであり、私たちはいつでも、好きなように、ボートを使えるのでございます。
その日もいつものように、私がボートをこぎ、湖の中ほどまで滑らせるとそこで手を止め、二人並んで、ボートの上に寝そべっておりました。
お身体の弱いあの人が外へ出るのは、日差しのそう強くない日中でありましたから、降り注ぐ太陽の光は優しく、ぽかぽかと気持ちが良いのでございます。揺りかごのようにボートを揺らす風も、ゆるやかに私たちの身体を撫でて、過ぎ去って行きます。青い空と、小鳥のさえずる声だけが、静寂に満ちた湖畔を流れております。私のすぐ隣にはあの人がいて、横たえた身体で、着物の袖口から覗く白い皮膚で、太陽の光を吸っております。それだけなのでございます。今ここにあるのは、あの人と私と、二人を包む優しい自然と、それだけなのでございます。私は、それだけのことが、かけがえのない、しあわせなことなのだと感じました。邪魔をする何者もなく、こうして静かにあの人のおそばにいられるだけで、私には充分しあわせなのです。これ以上のしあわせを望むのは、欲張りというものでございます。
あの人はいつも、空を見ておいででした。白い雲の浮かぶ青い空を、ぼんやりと見つめるのがお好きなようでございました。空を見つめるあの人の口から、小さく、歌声がこぼれます。あの人のお声は澄んだソプラノで、それは鈴の鳴るように、綺麗に響くのでございます。
Ingemisco.tamquam reus:
Culpa rubet vultus meus:
Supplicanti parce Deus.
外国のお歌のようでございます。私にはその歌詞の意味がわかりませんでしたが、それでも、あの人のお口からこぼれるその歌声は、胸の奥にすぅと入り込んで、私の心の中でとても美しく響きました。私には、何か、素敵な魔法の歌のように感じられました。
ですから、その後にあの人が、「…ずっと、死にたいと思っているんだ」とおっしゃった時、私は、あの人が何をおっしゃったのか、瞬時に理解することができなかったのです。いいえ、違います。私は嘘を申しました。本当は、心のどこかでわかっていたのでございます。あの人が死に焦がれていたことを、私は知っていたのでございます。初めてあの人を見たその時から、私は知っていたのでございます。物憂げに空を見つめるその横顔に、死への渇望を、見ていたのでございます。それを漠然と知っていたからこそ、私はその時、何も言えなかったのでございます。
「僕が死なないと、自由になれない人がいる」
あの人は寝そべったまま私の顔を見て、弱く、微笑みました。次いで、着物のふところから封筒を一つ、取り出しました。手紙でございます。あの人のお兄様から届いた、外国の切手の貼られた手紙でございます。
あの人は手紙をちらと見やって、「この人もそう」と呟き、空へ放りました。風が手紙を乗せて、湖へ沈めました。
「兄様も子供の頃、身体が弱くてね。でも、兄様が十歳の時に僕が生まれてから、不思議と、良くなったそうだよ。母様が僕にこんな格好をさせるようになったのも、それがあったからさ。兄様には悪いものが憑いてた、悪いものが兄様から離れて僕に憑いたから、兄様が良くなった、そう思えたんだろうね。僕は生まれてすぐの時から何度も死にかけて、母様の腕の中よりも保育器に入っていた時の方が長かったし。兄様の病気も、身体の弱さも、まるで僕に押し付けたようにぴたりと治るし」
あの人は上半身を起こすと、膝を胸に寄せて、抱き抱えました。「そういうことがあって負い目を感じたのか、昔の自分を見ているようで可愛そうに思ったのか、兄様は僕を、とてもよく愛してくれた。この身体のせいで満足に学校にも行けない僕には、兄様が僕の手の届く全てと言って良かった。優しい兄様が大好きだった。けれど、兄様は僕を愛しすぎた。愛情の量に比べて、それを満足に表現するものが足りなかった。だからきっと──」
そうおっしゃって、あの人は抱いた膝に顔を埋めました。
「──だからきっと、間違えたんだ。兄様は、愛しかたを知らなかった。男が女にするような愛しかたしか、知らなかった。兄様の僕に対する愛情は、恋とか、そんなものとは別だったはずなのに。兄様は、僕を女性のように愛していたわけではなかったのに。それは最初、なんでもないキスから始まって──僕も悪かったんだ。こんなのは間違っていると漠然と感じていたのに、拒むことをしなかった。それに、僕も他の愛情の表現を知らなかった。だから、間違えた。愛しかたも、愛されかたも、間違えた」
ああ、このことだったのでございます。美津里が私に話して聞かせたことは、このことだったのでございます。恋か、恋ではないか、どう愛しているのか、私が考えなければならなかったのは、このことだったのでございます。
「それは、今も続いてる。兄様だって間違えたことに気がついているのに。それでも、始めてしまったことをやめることができない。やめてしまっても、それが無かったことになるわけじゃないから。間違えた罪は、消えないから。責任を感じているのだと思うよ。兄様は社長令息として縁談の話もいくつかあるのに、全部断ってる。僕のために。犯したあやまちのために」
あの人は一つ、息を飲みました。「だから、兄様を自由にしてあげる。僕は、この弱い身体を抱えて、病魔に脅えて、ブランケットに抱かれて暮らすのはもう、たくさん。だから、最後に、兄様を僕から自由にしてあげる。僕の命と引き替えに。今、ここで」
毅然とした声でそう言うと、あの人は、私の顔を見て、にこりと微笑みました。「有希もだよ。有希の願いは僕がかなえてあげる。代わりに死んであげる。もう、僕から自由になりなさい」
その言葉に、私は、いやです、と叫んでおりました。
私は身を起こし、あの人の身体にしがみついて、私も一緒に連れていってください、と哀願しておりました。貴方が愛しいのです、いつまでも、貴方のおそばにいさせてください、そう懇願しておりました。
そうしてようやく、私は、自分の気持ちの正体に気がついたのでございます。いいえ、最初から気がついてはいたのです。ただ、その答えは、私にとって出してはならない答えだったのでございます。可能ならば、ずっと胸の底に沈めて、気がつかないようにしていたかったのでございます。
答えは、単純なものでございました。
私は、死にたかったのです。
母を亡くし、父を亡くし、愛してくれる者を失い、独りとなって、私は、死にたかったのです。この世界に、自分が生きていく価値を、失ってしまっていたのです。
しかし、私は幼く、自殺ということを思いもしませんでした。それどころか、死への渇望を意識さえもしていませんでした。そういうことを言葉として、感情として意識するには、私はやはり、幼かったのでございます。死の匂いは、子供の身体が持つ日なたの匂いに、掻き消されていたのでございます。その渇望はただ、意識の上澄みの底に、泥のように沈んでいただけだったのでございます。
そんな時、あの人と出会いました。あの人の空を見上げるお顔に、その背中に、私は、敏感に死の匂いを嗅ぎ分けました。私は、あの人のそばに、死のそばにありたかったのです。そこが一番、無意識に死を望んでいた私にとって、心地の良い場所だったのでございます。あの人が、私の身代わりに死を引き受けてくださるような、そんな代償行為のような錯覚を、得ていたのかもしれません。
憧れ、でございました。私があの人を愛しいと思うこの気持ちは、死への、死に近いあの人への、憧れでありました。ですから、あの人を、誰にも渡したくなかったのです。あの人は誰のものでもない、私のものです。私だけの、私だけが触れることのできる、死、です。渡すものですか。悪いものにも、あの人のお兄様にも、誰にも、渡すものですか。あの人は、私だけのものです。私だけが、ずっと、あの人のおそばにあるのです。
あの人は、私の気持ちに、私の心の底が死を望む気持ちに、気がついていたようです。「代わりに死んであげる。もう、僕から自由になりなさい」その言葉は、私の気持ちを察していたからこそ、言えたことに他なりません。しかし、あの人は一つ、勘違いしておりました。私は、自由になどなりたくないのです。あの人のおそばにありたいのです。私に死を感じさせてくれる愛しいあの人が本当に死ぬと言うのなら、私も、一緒に参ります。もっと深くあの人のおそばにあって、もっと強く、あの人を感じたいのです。
私はあの人にすがりついたまま、ボートの上に立ち上がるあの人に合わせて立ち上がり、離れたくないのです、連れていってくださいと、泣きました。
あの人は困った子供を見るような目で私を見て、それから、私をぎゅうと抱き締めて、小さく、頷きました。「いいよ、一緒にいこう」そう優しくおっしゃって、涙で濡れる私の頬を、指先で拭いてくださいました。
「ねぇ、有希。僕と有希が初めて会ったあの日、初めて視線を合わせたあの瞬間に、有希は何か、僕を通して別のものを見てた。僕はその時、有希が、僕の周囲をただよう死の匂いのするものを見ているのだとわかったのだけれど、有希には、それはどういう風に見えていたの?」
私は、あの人の胸に頬をよせて、
「貴方の背中に、二枚の透明な翼を──」
と、ささやきました。
その言葉に、あの人は優雅に、微笑んだのでございます。
「翼、ね…。いいよ、おいで有希。飛ぼう、空へ」
ボートが揺れました。あの人は私を抱いたまま、後ろへ倒れました。キラキラと光を反射する湖面には、青い空が浮かんでおりました。私たちは、青い空へ、飛び込みました。ざぶんと音をたてて、空を割り、落ちていきました。
私は目を閉じて、ただ、あの人を離さぬように強く抱いておりました。身体を撫でる水のてのひらは、ゆっくりと私たち二人を、水の底の、光の届かぬ場所へと連れて行きます。私は、呼吸のできない苦しさの分だけ、強く、あの人を抱いておりました。あの人を抱いていれば、苦しさには耐えられるような気がしました。
そうして、どれぐらい経ったでしょうか。
いよいよ、私の意識が薄れてまいりました。身体の中に残っていた酸素も使い果たされ、肺が閉じていくのを、逆に、少しでも身体を永らえさせようと、酸素の薄い血液が血管をどくどくと流れていくのを、ぼんやりと感じたのでございます。
私は、最後に、あの人のお顔を見ようと思いました。
美しいあの人のお顔を目に焼き付けて、死んでいこうと思いました。私が閉じた瞳を開くと、あの人は、私の顔を見ておりました。微笑んでおられました。私と視線が絡むと、あの人はすぅっとお顔を近づけて、私の唇を塞ぎました。口づけて、あの人のお身体の中に残った最後の生命の息吹を、私にくださいました。あの人の唇がゆっくりと動いて、口移しに、言葉を伝えました。あの人は私に、「有希は、生きなさい」と、そう言いました。
いやです、一緒にゆきます、と首を振る私にあの人は微笑んで、私の頭を優しく、撫でました。それから、あの人は、もう力の入らぬ私から身体を離したのです。
水中で藍白の振袖に包まれた身体を丸めると、くるりと回転するようにして私の胸を蹴りました。白いイルカのように美しく伸びたあの人のお身体は、その勢いで下へと沈んでいきます。あの人の御身足で押された私の身体は、上へのぼっていきます。私は必死に、あの人へ向かって腕を伸ばしましたが、もう届かないことを知るばかりでした。
あの人が水底の闇の中へ白く遠ざかっていく姿を、成すすべもなく眺めながら、私の霞み始めた意識は、そこで、途切れました。
私が腰の冷たさに目を覚ました時、辺りは、もう夜の色に染まっておりました。
どうして助かったのでしょうか。私は、腰から下を湖に浸しながらも、上半身を岸にうつぶせていたのでございます。倒れていた私は、黒いドレスに染みた水と疲労によって、酷く重い身体を起こすと、緩慢に振り返って、湖に視線をやりました。
途端、ぞっと、いたしました。
満月から差す一条の月明かりが、暗い湖の中央にゆらゆらと浮かぶ無人のボートを、青白く、照らしていたのでございます。
私は、震えました。震えて、泣きました。ここにはもう、私以外、誰もいないのです。あの人はもう、いないのです。無人のボートが、あるばかりなのです。
私は、反狂乱になりました。泣いて、喚いて、泥で濡れた足で、水をでたらめに蹴りつけました。信じたくなかったのです。あの人が、もう二度と、私のおそばで微笑むことはないのだと、信じたくなかったのです。私を置いてあの人が行ってしまうなど、信じたくなかったのです。
探しに行こうと思いました。あの人は、きっと、水の底におります。水の底で眠っております。夜だから、眠っているだけに違いないのです。ええ、きっとそうです。どうしてあの人が、私を置いて死んでしまうものですか。眠っているだけです。水の底に行って私が起こせば、いつも朝にはそうであるように、「おはよう、有希」と、涼しげな笑顔で起きてくださるに違いないのです。私を置き去りにして、あの人が、死ぬものですか。探しに行こうと思いました。
そうして、私が立ち上がった時。
月明かりの差すボートの上に、透明な大きな翼が二枚、広がるのが見えました。広がったその透明な翼は大きくはばたいて、硝子のように透き通った鳥が、夜の空へ飛び立ちました。月光をその身に映して鳴く鳥の声は綺麗なボーイソプラノで、歌を、歌っておりました。あの人が口ずさんだ、あの外国の歌を。
私は、もう、あの人が帰ってこないことを知りました。そして、鳥の歌声を耳にしながら、もう一度、気を失いました。
4
これで、あの人が出てくる話はおしまいでございます。
今日はもう喋り疲れましたし、あの人がいなくなってからの話は、貴方様の聞きたかった心中の話とはあまり関係もございませんので、ここで一つ区切りをつけて、また明日にしていただけますでしょうか。
ええ、当時十六歳と一三歳だった少年二人が、それも、実子と養子が手を取り合って心中したのですから、それはもう、穏やかには済みませんでした。しかし、あの人のお兄様の尽力もあって──私は、あの人を亡くしてから失語症のようになってしまって、口がきけずにいたのでございますが、それでも、お兄様は原因が自分にあるのだと察したようでございます。あの人と関係した全てのことをお父様とお母様に説明し、私にはなんの罪もないと、巻き込まれただけであると、言ってくださったのでございます。そのおかげで私は、また養子に出されることもなく、このお屋敷に置いていただくことを許されたのですが、はい、そのお話も明日にいたしましょう。私はいつでもここにおりますから、また訪ねてきていただければ、私も、つたない言葉ながら、お話しさせていただきたいと思います。
私の話は、貴方様のお役に立ちましたでしょうか。作家様の取材を受けるだなんて初めてのことでございますので、どうお話ししていいか、困っていたのでございます。え? 私の話をそのまま書いていただけますか? それは、ええ、嬉しゅうございます。嬉しゅうございますが、しかし、お話ししてなかったのですが、私は少し、狂うているのです。こんな狂人の話をそのまま書いて、よろしいのでしょうか。いえ、いえ、失語症のことを言っているのではございません。それはもう、ご覧のとおり、治りましたので。いえ、本当に、私は狂うているのです。誰にも見えないものが見えますし、誰にも聞こえない声が、私には聞こえるのでございます。
ええ、あの人です。
私には、死んだ筈のあの人が、見えるのでございます。私のそばにいて、動き、喋る姿が見えるのでございます。私は、普通ではございません。狂うているのです。
ふふ、こんな話にも興味がございますか。貴方様も変わったお人でございます。でも、そのお話も、また明日にいたしましょう。
あ、お帰りになられますか、はい、では、また明日に。お気をつけてお帰りくださいまし。
「……僕の話をしてたんだね」
ああ、清美様、いつからそこに? 貴方様は突然現れるのですから、お人が悪い。ええ、十年前の、貴方様のお話をしていたところでございます。貴方様は最後の一瞬までお美しかったと、そう申し上げていたのでございます。
ねえ、清美様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか。
どうしてあの時、私に、「生きなさい」と、そうおっしゃったのですか。どうしてあの時、私を連れていってくださらなかったのですか。そのことについて、私は、貴方様を恨んでおります。私は、貴方様と一緒に、死にたかったのです。なのに、私を置いて一人だけ行ってしまうだなんて、ひどい。
私が失語症から回復した日のことを覚えておりますか。私はその日、貴方様のあとを追おうと思っていたのでございます。貴方様の部屋の、貴方様がいつも休まれていたベッドに乗って、手首を切ろうと思っていたのでございます。私には、貴方様のいない世界など、本当に、生きる価値のない世界だったのです。貴方様が窓の外を見上げてそう思っていたように、私も貴方様と同じように青い空を見上げて、生き続けることの価値のなさを、思い知ったのでございます。私が生きる場所は貴方様のおそばだけで、他にはございません。貴方様がそちらへ行ってしまわれたなら、私も、そちらへ参ります。
しかし、貴方様は、ひどい。手首に刃物をあてた私の前に、不意に現れるなんて、ひどい。透明な翼をはばたかせて、窓から降り立つなんて、ひどい。そのせいで、私は死ぬこともできなくなってしまいました。そうまでして私を死なせたくありませんか。貴方様がおそばにあったんじゃ、私は、死ぬことなど、できないじゃありませんか。あのときは私を置いていったくせに、貴方様は、ひどい。お恨み申し上げます。あ、またそうやってお笑いになる。もぅ、そうやって微笑めば、私がなんでも許すと思ったら大間違いです。今では、私の方が年上なんですからね。ええ、恨んでおります。恨んでおりますとも。
でも、もし少しでも私に許して欲しいとお思いになるのなら、もう二度と、私を置いていかないと約束してください。それで、許して差し上げます。私を、これからもずっと、おそばに置いてくださると約束してください。それだけが私の望みなのです。貴方のそばに、ずっといさせてください。私は、貴方を、愛しております。今も、そしてこれからも、貴方だけを、ずっと…。
Requiem
『あとがき』
有希の語った話はほぼ事実で、当時の新聞にも、少年二人が心中したという記事が載っている。
当時の写真を見る限り、清美という少年は、それは美しい少年だった。美少年という陳腐な言葉しか、清美を修辞する言葉は見あたらない。有希も当時十三歳、可愛い少年だった。僕が二人の心中を書いておきたいと思ったのは、そういう俗っぽい理由にもよる。当時ほとんど語られることの無かった、美少年同士の心中の話を書き留めておきたい気分になったのだ。
有希の、清美の美しさを語る言葉は本当だったのだろう。だが、その他の事実については、本当かどうか分からない。なんだか、話が綺麗すぎるような気もする。本当なのかもしれないし、本当ではないのかもしれない。
だが、それはもう、有希にしか分からないことだ。
だから僕は、聞いたままをその通りに書くことにした。判断は読者に任せる。有希が最後に見たという、歌を歌う透明な鳥の存在も、実際にあったこととして書いておく。
歌といえば、有希の話に出てきた清美の歌は、モーツァルトのレクイエム『憶えたまえ』の一節であることが分かったので、その訳詞を冒頭に書いておくことにした。
清美がソプラノで歌っていたその歌は、今の有希にこそふさわしいのではないかと思う。どんな状況であったとしても、心中というものは、生き残ること自体が罪なのだ。
だからこそ、有希は清美を失った時に、その歌を聞いたのではないだろうか。いや、僕には分からない。軽々しくこういうことを言うのはよそう。
最後に、有希について、少し残酷な事実を書いておくことにする。
僕が有希から心中の一部始終を聞いた日、帰り際に、美津里というメイドに呼ばれてお茶をごちそうになった。お屋敷の主人から、有希と会見した後、僕にお茶を出すように言われていたらしかった。
有希の話に出てきた時の美津里は二十一歳だったのだが、十年後のその日に見た美津里も、二十一歳に見えた。黒く艶やかな髪を背中まで伸ばし、前髪を眉の辺りで切りそろえている美津里は、どこか年齢を感じさせなかった。
紅茶をごちそうになりながら、いくつかの社交辞令と、いくつかの世話話を交わした後、僕がおもむろに、
「有希さんには、死んだ清美くんが見えるのだと聞いたのですが」と言うと、美津里は「あぁ」と軽く頷いて、「有希が、誰もいない部屋で独り喋っている時は、あのかたがそばにいるらしいね」と答えた。
「それは、幽霊とか、そういう…?」
僕が尋ねると、美津里は「うーん」と小さく唸った。
「幽霊、うん、まぁ幽霊みたいなもんさ。有希が望んで取り憑かれた幽霊だよ。有希は純粋な子だからねぇ、あの時、置いていかれたのがよほどショックだったんだろうね。だから、あのかたを離さないようにしたんだ。ずっと、自分のそばにあるように」
「……どういうことです?」
美津里は、言葉の意味を汲みかねている僕の顔を見ると、寂しそうに小さく笑って、言った。
「有希は、自分の人格の中にあのかたを生んだのさ。愛しい人と、もう二度と、離れないように」