夜に舞う
彼女は何をしても怒らなかった。
スカートをめくっても、弁当をくすねても、ボールをぶつけても。
ただ恥ずかしそうな顔をするのだ。
そして、ごめんと言うと、にこにこと笑った。
それからもたくさん悪戯らを仕掛けたが、彼女は怒らせられなかった。
いつも通り恥ずかしそうにして、それから笑った。
いつしか僕は悪戯をすることをやめていた。
それだから、次にその顔を見たのは思いを告げた時だった。
悪戯された時と同じ顔をすることはないじゃないか、と思ったけれど同時にやっぱり好きだなと思った。
それから彼女はドアを開けて僕を受け入れてくれた。
楽しい日々。一緒にご飯を食べ、一緒に風呂に入り、一緒に寝た。家で彼女を待っている時でさえ楽しかった。
しかしその幸せは束の間だった。
その日も玄関で待っていた。でも彼女の帰りは遅くて、いつの間にかうとうとしてしまっていた。
まどろみの中で玄関が開く音を聞いた。おもむろに目を開くと、見知らぬ男が目に入った。そしてその横には肩に手を回されている彼女が立っていた。
次の瞬間の事は遠い夢の様に思い出される。僕は男に飛びかかり、そして彼女は初めて僕に怒った顔を見せたのだ。僕は動揺したと思う。彼女が初めて怒った事実よりも、彼女が男のために怒った事に。
その日から、男はたびたび顔を出すようになった。そして日に日に僕の居場所は無くなっていった。僕がどんなに喚こうと彼女はただ苦笑いをしてご飯を持ってくるだけ。
彼女には僕の声が届かなくなった。そして決心したのだ。彼女の前から姿を消そうと。もちろん、ただ今を儚んでやるわけではない。もし何も言わずに姿を消せば彼女が怒るかもしれない。という一縷の望みに賭けているのだ。僕は、二階の彼女の部屋をそっと抜け出した。顔を上げて窓の外を見ると、空は暗く月の独り舞台である。美しさに惹かれて、窓の桟に登り、月に顔を近付ける。あのとがった月をあの男に突き刺せば、彼女は怒るだろうか。そう思ったと同時に月に向かって跳びだした。伸ばした丸っこい手は月にかすった様に思えた。けれどもそれだけだった。空中で姿勢を整え、家の脇の原っぱに着地すると、そのまま全力で駆け抜けた。何もかもが妙に鮮明に見える夜だった。
夜に舞う