けがれた父親
「山の端逃げて入れずもあらなむ」
まるで天の中心にでもあるような夜更けの澄んだ満月が、時折遠くの山に隠されてしまうのを見て、僕はよくそう翁に頼んだものだった。
決まって翁は困った顔をして、そして結局
「幼き人は寝入り給ひにけり」
と僕を諫めるのだった。
当然翁は山をどかすのは無理だとはわかっていたハズだが、そうとは言わないのは、きっと彼なりの純粋無垢な子供心に対する尊重であったに違いない。
僕がそんな風に月に執心していたのは、もちろん両親がそこで働いていたというのもあったけれど、しかしそれ以上に、言葉では表現のしようがないその美しさに惹かれたからだった。
僕の初恋は月だったのだ。
それはまだ暑さの残る秋のことだった。彼女が町にやって来たのは。
僕はよく家を抜け出して、街から離れた川べりに行った。そこでは山に月を隠されることは無かったからだ。
あの時も、僕は川べりで、生ぬるい秋風に揺れている月明りで白く輝いた土手のススキの上に座りながら、一人で洗ったような十五夜の月を見ていた。
するといつからか、川を隔てた対岸に、白いワンピースを着た女の子が座っていた。街から離れたこんな所に、僕と同じくらいの歳に見える女の子がいるのは、ありえないことだった。
けれどもその姿はまるで月のようにこの上なく美しく、その時僕は月を見ることも、何故彼女がここに居るのか考えることも忘れて、しばし彼女を見続けた。
すると突然、彼女が十五夜の月に照らされた空に舞い上がり、月虹のように輝くと、僕の目の前に着地した。
僕は月明りを浴びて朧げに光る彼女を見た。その美しい肌の色は衣を通して透けて輝いていた。
その姿は、まるで月のように、いや月そのものであるかのように、美しかった。
「うるはしきひと」
僕は無意識に、しかし心の底から、そう呟いていた。僕が我に返って顔を赤くすると、彼女はそっと微笑みを浮かべたように見えた。
その微笑みは、まるで花が咲いたみたいだった。
「われは月の人にて、月の都に父母あり」
彼女は微笑みながら僕に語り掛けるように言った。僕は笑った。バカにしたというより、ただ単に彼女があまりに奇妙なことを言うからだった。
「いときいなる態かな」と僕は笑いながら言った。
すると彼女は神妙な面持ちになった。
「おのが身は、この国の人にあらず」
あまりにも真摯に発せられたその言葉に、僕は笑うのを止めざるを得なかった。すると彼女は再び撫でるように好意の微笑みを見せた。僕はそれを見て、また顔を赤くした。
そこで僕は本能的に悟った。僕は彼女に恋をしたのだと。もちろん、僕はその時恋が何たるかを知らなかったが、男が生まれながらに持つ、女性への焦がれ、そしてそれを欲する本能というものを、そこで覚醒したのに違いなかった。
僕はおもむろに立ち上がって
「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」
と歌った。それはいつか翁が僕に教えてくれた、彼の恋の話で、その時彼が愛を表すために用いたソングだった。
出会って間もないのに、こんなことを言うのが不自然なのは僕もわかっていたが。しかし、彼女に自分の恋心を伝えて、そしてそれを受け入れてもらいたい、という抑えられない衝動が僕の中に渦巻いていたのだった。
彼女の顔色を窺うと、突然の愛の告白に不審がるとかいう様子は一切なくて
「あな、うれし」と言うと、いっそう優しい微笑みを浮かべるのだった。
僕は、その信じられないくらいかわいらしい笑みを見て、まるで天にも昇るような気分だったが、はしゃいで子供みたいに思われるのが嫌だったので、控えめに微笑みを返した。
それから、恋心を受け取って貰えたという幸せが、永遠に時間に引き延ばした。僕と彼女は、十五夜の月光のもと、照らされ続けた。
しばらくして、彼女は何か思い出したように、月を振り返り見ると、悲しそうな顔をした。
僕は最初うち、何故彼女が悲しい顔をするのかわからなかったが、その融けてしまいそうな瞳を見ているうちに、別れの時であるということを、終に察した。
彼女は隠しきれていない悲しみの表情で、
「このこと、あなかしこ、人に披露すな。夜ふけぬ、帰りたまひね」とかすれた声で言った。
そして彼女はまた舞い上がると、また月に照らされ輝いて、その冷たい輝きの中に消えていった。
彼女が消えてしまった後も、僕は呆然と川べりに立ち尽くしたままだった。孤独に冷たい光を発している月が、その時僕は初めて恨めしかった。
それからどのくらいそうしていたのかわからないが、何も考えられなかった頭が次第に冴えた。そして僕は、そういえば彼女がさよならを言わなかったことを思い出して、それはおそらくきっとまた明日もここで会えるからだと考えた。そうして虚無感を期待に変え、やっとのこと帰路に着いたのだった。
家に帰った後のことだった。滅多に家に帰ってこない父と母が、何故かたくさんの部下を引き連れて帰ってきたのは。
その次の日の朝から、父と母は僕との久しぶりの再会を喜ぶでもなく、部下を引き連れて、町に繰り出していった。
翁にその理由を尋ねても、彼は黙るばかりだった。でもそれはいつものように知っているのに知っていないふりをしているのではなくて、ただ単に知らないようであった。
僕はその歳の頃は、朝起きては絵を描いて一日を過ごしていた。よくも飽きなかったと思うが、それが子供というものなのだ。
だがその日はそうはいかなかった。夜が待ち遠しかった。また夜になって川べりに行って、彼女に会いたかった。絵を描いて時間を潰そうとしても、彼女が思い出されて、胸が苦しくなった。そしてまた、早く彼女に会いたいと思うのであった。
そしてそんな彼女に会いたいとはやる気持ちを抑えるために、僕は翁の部屋で、寝ている翁の横に寝転がりながら、そこに置いてあった『ソング・ストーリーズ』なる本をずっと読むことにしたのだった。
その時の僕に最も興味を引いたのは、『リーヴス』の章であった。そこには、僕が彼女に伝えたかった気持ちに似た数々のソングが載っていた。しかし、まるっきり合致しているものはなかなか見つからなかった。
「いかなる人なりけむ、尋ね聞かまほし」
いつのまにか起きていた翁が、僕の見ていた『ソング・ストーリーズ』を覗きながらそう言った。僕は翁が自分が恋をしているということを見透かしたということを悟った。
もちろん、その質問には答えられなかった。僕は彼女が人に言ってはいけないと別れ際に言っていたことをきちんと思い出していた。
翁は口を横一文字にした僕を見ると暖かく笑うと
「かかることのいつぞやありしかと覚えて」
と言って、『ソング・ストーリーズ』をのページをめくり、一つのソングを指さした。僕が翁の顔を見ると、かれはそっと頷いた。
窓の外を見ると、すでに夜のとばりが降り始めていた。僕はそのソングをきちんと心に留めてから、抑えきれなくなった彼女に会いたい気持ちのまま立ち上がって
「やがて帰らうずるぞ」と翁に言って、家を飛び出た。もちろん行く先は、あの川べりだった。
道中、数人の父と母の部下と思わしき人物が何かを探すようにしているのを気づかれないように通り過ぎ、川べりに着くころには、十六夜の月が昨日より躊躇いがちな光でもって僕を照らしていた。
しかし、そこにはまだ彼女はいなかった。もしかしたら彼女にはもう会えないという考えが僕の頭をよぎったが、少し早すぎたのかな、と僕は自分を納得させ、僕はいつもと同じように土手に座った。
そのあと、僕は気を紛らせるために、ずっと川の水面を見ていた。
川はその水面がまるで誰かと遊んでいるかのように水しぶきをあげていた。僕はきっと子供心にもその哀愁を理解していたのだった。
一秒にも満たないような永遠を川の水面を見ることに費やし、ふと水面に時折反射する月の光にハッとして、月を仰ぎ見た。そこには、やはり清らかに美しい彼女が、 白いワンピースの裾をなびかせながらこちらを向いて宙に浮いていたのだった。
僕は彼女にまた会えたことをこの上なく嬉しがった。そして翁が僕にアドバイスしてくれたソングを思い出して歌った。
「恋ひ恋ひて 相へる時だに 愛はしき 言尽くしてよ 長くと思わば」
僕のソングを聞くと彼女はかわいらしく頬を赤らめた。しかし思い出したように首を小刻みに横に振ると
「かかる異様の者、人に見ゆべきにあらず」
と言って落ち込んだ様子を見せた。もちろん、それで僕の気持ちが収まるわけはなかった。
そもそも、僕が彼女に惹かれたのは、その異様さも要因の一つに違いなかった。
「もし、ひょっと死に病受けたりとも」と僕は彼女に詰め寄った。それは決して誇張などではなく、それほどまでに僕は彼女を欲していた。
それを聞くと、彼女は何か納得し、そして決意したように小さく頷くと
「げに契らまほしか」と僕に尋ねた。
「げに、げに」と僕は答えた。
すると彼女の体は光明に包まれた。地面がぐらぐらと揺れた。その様は、まるで七つの太陽がいっぺんに出たかのようだった。
彼女はその左手を僕に差し出した。僕はそっとその手に右手を重ねた。その手は冷たかった。女の子の手はこんなにも冷たいものかと僕は感心した。しかし刹那、彼女は「我が身、今は限りとぞ思ふに」と言うと、そしてその手は、その冷たさと共に消えていった。僕はびっくりしてすでに半透明になっている彼女の顔を覗くと、その頬には一筋の涙が光っていた。
「我が身消えんとも、君の心に居たり」
かすれた声でそう言った彼女は、悲しそうに引きつった微笑みを浮かべていた。僕は彼女を掴もうとしてその身を乗り出したが、しかし彼女は、まるで夢でも見ているかのように、大空の星のように光をまき散らしながら、消えてしまった。
僕は泣いた。その時、僕はいとしい人を失うということの悲しさを初めて知った。
目の前には、昨日よりその身を少し欠かした月があって、まるで僕の心みたいだった。そこで僕は思いだした。彼女が消え際に言ったコトバを。
僕は自分の胸に手を当てた。そこには、まるで自分の体とは思えない違和感があり、しかし不思議と気持ちが落ち着いた。それはまるで月を見ている時のようだった。
そう、彼女は、僕の中で月になった。そして、まるで月が雲で隠された時のような闇に閉じ込められたのだった。
彼女を失った悲しみはそこで消えた。そして彼女を失っていないということに、僕は気づいた。
僕らは、たとえ闇に閉じ込められたとしても、惹かれ合い続けた。
*
僕は濃い紺色をした湖面に写っていた月を見ていた。それはゆらゆらと揺れていた。頼りないという風でもなく、なんとなく踊っているみたいだった。
今夜は君と踊りたいな、と僕はつぶやいた。
僕のつぶやきに、横で夜空の月を見ている彼女は何も答えなかった。そんなことできないってわかってるでしょ、とでも言うように。
息子は月光が反射する鉄製の疑似餌を湖に投げ込んだ。それは流れに沿って沈んだり岸寄りに浮き上ったりした。釣り糸がゆらりゆらり揺れていた。
僕と息子は、『ソング・ストーリーズ』の話をしていた。誰に似たのか、息子はあの本がとてもお気に入りみたいだった。
「前にも言ったっけ?僕が四番目に好きなソングの話」と息子が尋ねた。
「いいや、お前が前に話したのは三番目のソングの話だったよ」と私は答えた。もちろん本当に覚えていた。確か笠女郎のソングだった。
「念ふにし 死にするものに 有らませば 千遍そ吾は 死に返らまし」と僕はそれを歌った。
「そう、それが三番目」と息子は言った。
「それで、四番目は?」僕は尋ねた。
「知ってるかなぁ…」と息子はため息交じりに言った。僕はすかさず「知ってるとも!」と声を張り上げていった。「じゃあ…」と息子は呟いて、
「前日も 昨日も今日も 見つれども 明日さへ見まく 欲しき君かも」と歌った。
もちろん僕はそのソングを知っていた。そして、息子がきっと勘違いをしているだろうことも知っていた。
「ちょっとわかり易過ぎるのが、逆にいいんだよね」と息子は自慢げに言った。
もちろん、そこでこのソングは主人讃めのソングだと正すこともできたが、それはやめて、「お前はラヴ・ソングが好きだなぁ」と僕は言うだけだった。彼の感じたものを突き崩すのが忍びなかったのだ。
息子は見透かされてきまり悪くなったのか、ブイの沈んでいない釣り竿をぐいと上げ、ちぇっ、と言うと、またそれを投げ込んだ。
息子はそれからめっきり喋らなくなった。
見透かされるとひどく嫌な気分になる、そういう年ごろが僕にもあったなと思って、僕はひとまず息子を放って、今度は空の月を見ていたのだった。
ずいぶんと、大きな月ね、と横で彼女が言った。
そうかな、いつもと変わらないように見えるけど、と僕は返した。ホントは少し大きく見えていた。すると彼女は、そうね、と少し笑いながら言った。僕は最初戸惑ったが、彼女が笑っている意味に気づいて、その皮肉さに僕もまた笑った。
これじゃ、息子と同じだな、と僕は言った。
彼女の顔を横目で覗くと、彼女は月を見ながら微笑んでいて、そして、
決まってるわ、だってあなたの息子だもの、と言った。
彼女の微笑むその姿は、いつかのあの時の彼女の微笑みそのものだった。僕はそれを見て、懐かしい日々やあの時のことを思い出して、感傷に浸った。
ふと気づくと、彼女は僕のほうを向いていて、目が合った。月ばかり見ていて、滅多に僕と目を合わせたりしない彼女と、いつかぶりに目があったのに僕は少年のようにどぎまぎした。
彼女の顔は、目は、あまりにも美しかった。あの時も、この美しさに僕は惚れたのだった。
月がきれいですね、と僕は言った。彼女はそれを聞くと顔を赤くした。
僕らは見つめ合ったまま、まるで愛の彫刻のように、じっとしていた。
突然、彼女はおもむろに口を開けると、詰まった何かを吐き出すように、
そろそろ、いいでしょ……、と上目遣いで僕に言った。
僕は思わず頬を赤くして、ぷいと顔を背けながら、ダ、ダメだよ!、と言った。
するとまた彼女は笑った。僕もまた、笑った。
いいよ、と僕は心の中で呟いた。
「かかった!」とさっきまでなりを潜めていた息子の声が突然に聞こえた。息子のほうを見ると、その釣り竿はありえないほどにしなっていた。
「何してるんだ、手伝ってよ!」と息子は堪えたようなかすれた声で叫んだ。僕はすかさず釣り竿を引くのを手伝おうとしたが、動いた瞬間に、腹に引っ張られるような痛みが走った。それはかつて一度だけ感じた覚えのある痛みで、そしてその意味も知っていた。僕はその場にうずくまって倒れた。
遠くで僕の名前を呼ぶ息子の声が聞こえたが、僕の意識は痛みで薄くなっていった。
苦悶の中で、僕は顔を上げた。
そこには、やけに大きな月の光を背に受けた彼女が、ひらひらとワンピースの裾を揺らしながら、僕のほうを向いて浮いていたのだった。
彼女の周りで滲んだ月の光が、ぼやけた視界と同化していった。
僕はまぶたを閉じた。
僕は閉じたまぶたに、彼女の温かいくちづけを感じた。
けがれた父親