さえずりの歌

 桜の花も散って久しく、辺りには夏の匂いが満ち始めた頃、駅舎の軒下に一個のツバメの巣ができた。
 その家主は、生後一年足らずの若い雄だった。体躯は他のツバメに比べて一回り小さい。この春にこれまた若い妻を持ち、六個の卵が産まれた。無論それは夫妻にとっては初めての子で、期待に胸を踊らせながらかわるがわるに卵を温め、来るべき孵化の時を心待ちにしていた。
 やがて駅舎には一つの産声がこだました。とても暖かな朝だった。しばらく経つと、声の数は一つ、また一つと増えていった。夫は高揚を抑えきれずに、慌てた様子で餌となる小虫を捕まえに行った。妻は彼よりまだ冷静で、幼子の身体が冷えぬようじっとその身を擦り寄せていた。巣に戻る夫の姿が見えると、彼女は大きな声でチィと鳴いた。彼もその声が聞こえると、彼女らに向かって速度を上げてみせた。
 夫妻の子育ては順調だった。ほとんどいつも妻が巣を守り、夫が餌を探しに出ていた。そんな生活が数日経つと、子どもたちは自力で餌をねだり始めた。夫妻にとってこれは嬉しい瞬間だった。彼らの鳴き声は妻にとてもよく似ている、と若い雄ツバメは思った。

 その朝も、いつもと変わらぬ暖かな朝だった。雛たちが孵化してから十日を数えた。その日、父親が五匹目のハエを捕まえたとき、帰りがけに大きな黒い鳥の影を見た。それは電線に並ぶ雀を追い出し、そこから静かに冷たい眼差しをこちらに向けていた。
 その時の巣は日頃に比べて幾分静かであった。いつもなら父親が帰ってくれば幾つもの鳴き声が上がるのだが、今日に限ってはそこには異質な沈黙が横たわっていた。彼女らの眼には明らかに緊張が走っており、電線の上の黒い鳥を絶えず警戒していた。父親が小さくチィと鳴くと、母親はピィ、ピィピィと三度返した。それは彼女なりの心細さの表現であったように、彼には思われた。
 彼らは腰を落ち着かせることができなくなった。 黒い鳥は、微動だにせずにじっとこちらを見つめている。それだけで彼らは背筋が凍る思いをし、身震いせずにはいられなくなった。
 ところが、その膠着は長くは続かなかった。とうとう空腹に耐えきれなくなった雛たちは、小さくも確かな声で次々に鳴き始めた。いつしかその声は、いつもと変わらぬまでになっていた。黒い鳥にも当然それは聞こえただろうが、ただその様子を、さっきと変わらぬ姿勢でじっと見ているだけだった。
 そうして若い母親は、とうとう夫にチィと鳴いた。声は誰が聞いても分かるほどに震えていた。それは彼女の覚悟の合図だった。厳しい視線は黒い鳥から一瞬たりとも外されなかった。父親は彼女の表情に、巣を守る母の強さと己の果たすべき使命とを見出だした。そうして何を言うこともなく、また振り返ることもせずに、巣から飛び立っていった。
 父親は緊張の糸を緩めることなく、何度も雛に小虫を運んだ。その小さな身体は強靭に風を切り、彼の姿はいつになく逞しく見えた。母親と黒い鳥とのにらみ合いは、まるで不吉を象った置物のようにその間もずっと続いていた。
 どれくらいの時間が経ったか、父親は十三回目の往復を迎えた。経験したことのない状況に身体は強ばり、挙動には徐々に疲労の色が見えてきていた。小さなハエを追う勘も先程までより鈍っていた。帰巣するまでの時間が、少しずつ、しかし確実に伸びてきていた。彼の脳裏に、黒い鳥の影が現れてはまた消えた。その小さな胸がざわざわと騒ぐのを、彼は止められなかった。
 帰り道の電線の上、黒い鳥の姿はそこにはなかった。辺りに潜んでいるような気配も感じられなかった。存在自体がまったく嘘であったかのように、鳥は忽然と消えていた。それに続いて、彼は姿を消したのが黒い鳥だけではないことに気づいてしまった。彼の帰るべき巣のかたちも、あるべき場所から失われていた。
 彼は黙ってその場を三度、ゆっくりと旋回した。まるで巣などもともとなかったのだとでも言うかのように、そこにはただ虚無が広がっていた。彼は羽ばたく力を失い、近くの電線にとまった。世界が陽炎のようにぐらぐらと揺らいで見えた。頭の中では子どもたちの声、妻の声が止めどなく反響していた。虚無は、彼の心の中までも侵入していった。
 不意に頭上からカアという声が聞こえて、彼ははたと我に返った。駅舎の上にとまっていたのは、紛れもなくあの黒い鳥であった。その艶やかな身体には、ところどころに色の薄い羽毛がはりついていた。それが自分の子どもたちのものであるという事実を理解するのに、ほとんど時間は必要なかった。
 黒い鳥はもう一度カアと鳴いた。勝ち誇るような、嘲るような、漆黒の響きを伴って彼には聞こえた。その瞬間に、彼の中にある何かが弾け飛ぶ音がした。刹那のうちに若いツバメは鋼鉄の弾丸となって、躊躇いもなく邪悪な塊に飛びかかっていった。

 そこから先のことを、彼はほとんど思い出すことができない。気がついたときには彼の姿は地上に横たわっていた。自分の下にはばらばらになった巣の欠片と、雛たちの柔らかな羽毛が積み重なっているのが分かった。黒い鳥の姿はもうそこにはなかった。全身の強い痛みだけが、いつまでも消えずに残っていた。
 彼はその夏、新たに家族を持とうとは思わなかった。当然巣も作ることもしなかった。瞼の裏には黒い影を残したまま、木々が赤く染まり、葉を落としてゆく様を独り見ていた。寒さが身体に沁み始めると、駅舎の上をゆっくりと三度旋回した後、南方へと旅立っていった。

 ***

 それからまた新しい春が来た。
 若い小さな雄ツバメは南方から戻ってきた。瞼の裏の黒い影は、薄れはしたものの依然消えてはいなかった。快晴が続く陽気の下で、今年も新たに妻を持ち、河原の上を通る近くに電線のない橋の裏に、去年よりも頑丈な巣を作った。
 今度は七個の卵が産まれた。彼は必要以上に丁寧に卵を温めてやった。そのことも手伝ってか、今年も孵化は順調であった。巣のまわりは風が強いために、生まれたての雛たちは気を抜けば大層冷えることになったが、両親はしっかりと付きっきりで彼らを温めていたから不幸が起こる心配はなかった。夫妻は現状に大きな充実と満足とを感じていた。
 そうして雛たちはすくすくと育っていき、いつしか鳴き声を上げるようになった。巣が賑やかになると、父親は小虫をくわえて帰っていくのが楽しみになった。母親はいつでもチィと鳴いて彼を迎えた。夫妻は互いを上手に受け容れあっていた。それでも秘かに、彼は彼女らの鳴き声に去年の記憶を蘇らせずにはいられなかった。そして小さく、誰にも気づかれないように身震いをすることがあった。
 そうして子育てはつつがなく進み、孵化から早十五日が経過した。その日は珍しく、朝から雨風が強かった。季節外れの台風が上陸したのだ。真上の橋に守られて豪雨による危険は避けられたものの、やはり子どもたちは空腹に耐えきれずチィ、チィと鳴き始めることとなった。幸い下方の河原には草むらが多かった。餌を求めて小さな身体は悪天候の下を何度も往き来した。
 ある時、豪雨の騒音の中で突然頭上からカアというけたたましい鳴き声が降ってきた。彼の心臓がどくんと跳ねた。脳裏に家族の姿が浮かんだ。全身の血が逆流するような感覚があった。間を置かず速度を上げて巣に戻ろうとしたその瞬間、かつて経験したことのない烈風が彼を襲った。両翼の制御は効かなくなり、小さな身体は丸くなって風の為すがままとなった。
 強風は十数秒も続いた。彼は機を捉えて身体を翻し、風に向かって翼を広げた。立ち向かえぬほどの風ではなくなっていた。それよりも、彼の耳の中では黒い鳥の声がずっと響き続けていた。悪い予感がぼうっと浮かんだ。しかしいくら目を凝らしても、辺りにその漆黒の姿を認めることはできなかった。あれは幻聴だったのだろうか。それでも、その声は彼の中に焦燥感を呼び起こすには十分だった。
 吹き荒ぶ風に抗いながら、彼は橋に向かって少しずつ前進していった。徐々に彼は考える余裕を失った。浸水した部屋に閉じ込められたかのように、身体中を不安と恐怖が駆け巡った。不意に正面の河原の上に、巣の欠片が落ちているのを発見した。彼は叫び出したい衝動に駆られた。既に呼吸をすることも忘れていた。雨でずぶ濡れになっていることにも気がつかなかった。ただ、かつて見た悪夢の再来を恐れて本能に衝き動かされるだけであった。

 橋の裏には何もなかった。
 彼はこれ以上飛行することをやめ、ただ河原に下り立った。身動ぎ一つせず、巣のあった場所を見つめ続けていた。頭の中は、心の中は悲しい怒りでいっぱいだった。それは自分の弱さへの怒りであり、抗いようもない巨大な何かに対する行き場のない怒りでもあった。雨に打たれても風に吹かれても、そのどす黒い感情は消えることはなかった。
 不意に彼は上空に顔を向けた。カア、カアという鳴き声が聞こえた気がしたのだ。頭上に広がっていたのは、薄暗く分厚い雲の壁だけであった。それを見ていると唐突に雲の漆黒が、どうしようもなく憎らしく思われてきた。
 やがて、若いツバメは翼を再び羽ばたかせ始めた。その眼はただひたすらに高くを見据え、小さな身体はまっすぐに曇天に向かって昇っていった。どこまでいっても、彼は羽ばたきを止めることはしなかった。
 そうして、さらに雨足は強くなっていった。

さえずりの歌

さえずりの歌

巣から顔を出すツバメの雛たちの声を聞いて思いつきました。3788字。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-26

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