自分と向き合ってみた

人間以外のある者達と会話のできる男の短編SF小説です。

渡辺健太郎には人間以外のある者達と話すことができる。健太郎は彼等と協力しあって生活していた。

「自分と向き合ってみた」


 朝日が入り込む寝室で、愛用のベッドを軋ませながら健太郎は「もう限界だ。早く起きろ」との複数人からの怒鳴り声に起こされ、トイレへと向かった。
昨晩の飲み会の疲れなど微塵も感じさせない身の軽さは若さならでは。
用を足し、小さい水槽に入っている三匹の金魚には目もくれず、冷蔵庫へとまっすぐに向かう。中を開けると野菜から肉、乳製品、調味料が几帳面に並べられていた。
「どれを食べようかな」指をさしながらつぶやく健太郎の背後で三匹の金魚が跳ねた。
「ちょっと待ってよ。朝ごはんより先にすることがあるだろう」再び、複数人に怒鳴られて健太郎は思い出した。
「そうだった。お腹が空いたから忘れてた」健太郎は洗面所へ向かい、はみがきを口の中に入れ、洗濯機の棚に置いてある金魚の餌袋を開けてリビングに戻った。片手で歯を磨きながらお腹を空かせた三匹に餌を与える。細切れの小さな餌を食べ回る様子を横目に念入りに歯磨きを行う。三分ほど経過し口の中は泡だらけ。再び洗面所に向かおうとするが、またしても複数人に止められた。
「まだだよ。上の奥から五番目と六番目の歯の間に溜り物があるよ」健太郎は「まだかよ」とイラつきながらも指示に従った。
「よし、もういいですよ」の合図を聞き、急いで口をゆすいで、口の中の粘り気をとって、台所へと戻る。
「どれを食べたらいいんだ」健太郎は冷蔵庫の中身を見ながら誰かに問いかける。
「そうだな。さすがに昨日の飲み会で若干、荒れたからな、消化し易い物にしてくれ。パン二枚と豆腐、バナナもいいな。それと最後にヨーグルトで完璧だ」
「わかった」健太郎は誰かに従いテーブルに朝食を用意して、泳ぎ回る金魚を見ながら食べ始める。
「昨日は忙しくてごめんね」
「気にしないでいいよ。たまには、ゆっくりお酒も飲みたいでしょ」先ほどの怒鳴り声とは違い、低くゆっくり話す声の主に健太郎は申し訳なさそうにしながら、サプリメントを飲んだ。
その後、再び小言を言われつつ、食後の歯磨きを行って背広に身を任せ家を出た。
 さくら駅はいつも通りの大混雑。同じような背広に身を包んでいる大人達や学生で溢れている。そして、人間の事など恐れていない鳩の大群。健太郎の周囲にも数羽の鳩が地面を突きながら歩いている。そんな鳩など無視して、改札口に向かおうと階段に足をかけると静止の声が聞こえてきた。
「ちょっと待って、朝ごはん食べたばかりだから、運動せずにエスカレーターで行くんだ」混雑するエスカレーターを見てため息をついたが、指示に従う他ない。
ゆっくりと動くエスカレーターに乗り込んで数羽の鳩が飛んでいくのを見送る。
駅に入って二十分以上かけて、ようやく電車に乗り込んだ。電車の中はいつも通りの満員だった。その中で健太郎に声を掛けてくる者がいた。
「朝食を食べたのが、朝の七時だから十時には仕上がるよ」
「今から仕事だから出来れば、昼休みに調整してくれないか」
「では、またその時に声掛けするね」
「ありがとう」と言った瞬間、健太郎は焦った。思わず、口に出して言っていたからだ。
目の前に立っている女子高生の冷めた視線が余計に悔やませた。女子高生から見ると健太郎は一人で突然、「ありがとう」と言ったように見えたからだ。
それもその筈だ。なぜなら、健太郎は心の声を使って人以外のある者達と会話が出来るのだ。今も心の声でその者達と話をしていたのだ。周囲の人間に彼らとの会話は聞こえない。話せるのは健太郎だけ。彼らは、常に健太郎の事を考えて行動している。彼らは健太郎の幸せを常に祈っている。特に健康面に対しての配慮はただならなかった。
そう、彼らとは健太郎がこの世に産まれた時からずっとそばにいる健太郎の臓器の事である。  
健太郎は自分の臓器と会話が出来るのだ。
彼がこの力に気付いたのは小学生の時に高熱で苦しんでいた時だった。初めは、ペットのハムスターが声をかけてきたのかと可愛らしくも空想したが、実際は小腸と大腸が風邪で弱った身体を整えるためにスポーツドリンクを飲めと言ってきたのだ。
健太郎の風邪はすぐに治り、改めて臓器達と会話を始めた。臓器はそれぞれに性格があった。すぐに怒る胃や寡黙でのんびり屋の肝臓、職人気質の小腸・大腸兄弟などだ。全ての人間がこうなのかと思って親にも聞いたが、結果は内科から精神科に連れて行かれただけだった。
それから健太郎は臓器達と生活を共に送っていた。彼らの言う通りに食事をするので体調管理はばっちり。風邪を始めとする病気には小学生の高熱以来、かかった事が無かった。勉強や運動にも身が入り、「無遅刻無欠席」は健太郎の代名詞となっていた。

電車に揺られること三十分、ようやく朝日駅に到着し会社に向かった。
会社に入ると、二人の受付嬢に軽く会釈をし、エレベータに乗る。三階で降りて右に曲がると所属している第三部署に着くのだ。
「おはようございます」
健太郎の挨拶を掻き消すかのようにオフィス内には電話の音が嵐の様に鳴っていた。大量の電話処理をたった二人のパート職員の中年女性が対応しており、健太郎は何も聞かずに受話器を手に取り協力に入った。
「おはようございます。竹内会社、第三部署の渡辺です」
「あぁ、渡辺くんか。俺だ。陣内だ」声の主は先輩の陣内さんだった。
「どうしたんですか。陣内さん」
「いや、昨日の飲み会で出た刺身が当たったみたいで、今日は休ませてもらうよ。部長いるか」
「まだ、来てませんが、来たら伝えておきます」
「ありがとう。他のみんなは来てるか」
「それが、飲み会に来なかったパートのおばちゃんと自分しかいなくて」健太郎は受話器を一旦、口元から離して二人のおばちゃんに確認をとった。
「もしかして、全部、休みの電話ですか」
「そうですよ」二人の困ったような返事を聞いて電話に戻る。
「やっぱり、みんな休みみたいです」
「まずいな。せめて部長だけでも」陣内の弱った声を聞いていると、口に大きなマスクをつけた青白い顔の男が入って来た。
「おはよう」、
「陣内さん、部長が来たみたいです。とりあえず、休むことは伝えておくので、また体調が良くなったら連絡ください」
「部長、来たなら一安心だ。そしたら、また連絡するな」健太郎は受話器を置いて駆け足で部長へと向かった。
「部長、大変です。昨日の飲み会の料理でほとんどの人達がお腹を壊したみたいで、今日の出勤は恐らくこれだけです」
部長は頭を抱え、弱々しい声で答え始めた。
「俺も腹壊したよ。でも、今日は大事な取引があるんだ。これだけは、出ないと行けないんだ。陣内から電話はあったか」
「ありました。先輩も腹壊したみたいで休ませてくれと」
「そうか。あいつに任せようと思っていたが、無理そうだな」しばらく、両手で頭を押さえて、うな垂れる。
「お前は体調、悪くないのか」
「自分は特に問題ないです」
「相変わらず、体は丈夫だな」部長は悩んだ末にある決断にたどり着いた。
「よし。今日の取引はお前と行く事にする。先方は大手会社の太陽会社だ。くれぐれも阻喪のないようにしろよ」
「わかりました」
「言っておくが、今回のプロジェクトは確実に成功させないといけないから。集中していけよ。それと夜七時から宮古亭で接待するから、今日はそれまでに自分の業務を終わらせておくように」
「はい。ありがとうございます」席につくなり健太郎は臓器達から声を掛けられた。
「やったね。健太郎君」爽やかな声の小腸がいち早く、反応してきた。
「それもみんなのおかげだよ。昨日の刺身を食べて、腐ってるからこれ以上、食べないようにて言ってくれたからね」
「接待って事は、また飲み事ってことだろ」すでに怒り気味なのは、やはり胃だ。
「そうなるね。ごめん。出世の為なんだ。しばらく接待で飲み事が多くなるかもしれないけど手伝ってくれないか」
「しょうがねえな。俺たちも頑張るから、お前もしっかり仕事して出世しろよ」
「胃くん、今日は優しいんだね」
「うるせよ。小腸。そんなんじゃねーよ」
「胃も小腸もありがとう。他のみんなもよろしくお願いします」健太郎は臓器達と話し終え、業務に取り掛かった。

健太郎は接待のために四時に仕事を終わらせ、今後の仕事の資料に目を通していた。
部長は薬を飲んで体調を整えていたが、顔の青白さは変わりなかった。
六時になると、先方にあいさつの電話を入れてタクシーで宮古亭へと向かった。
高級感溢れる和室に用意された席に案内され相手の到着を待った。
「今日は太陽会社のトップクラスの方が来る。その方は気難しい方で有名だ。言葉一つ一つ慎重に話すようにな」部長から伝わる緊張感に健太郎は身構えた。
腕時計に目をやると七時十五分を指していた。それから数分程遅れて、太陽会社の社員が和室に入って来た。
「遅れて申し訳ない。渋滞していたもので」
「いえいえ。とんでもございません。無事にご到着になられて良かったです」部長は体調不良を悟られまいと満面の笑みで対応したが、よく見ると大量の冷汗で額は光っていた。
「大丈夫かね。なんだか顔色が悪いが」
「少し緊張しているだけですよ。大手の太陽会社様とこうやってお食事が出来る等、滅多にございませんから」そう言いながらハンカチで汗を拭う。
「お前の上司も、よく言葉が次々に出せるな」健太郎は胃の言葉を聞き流し、続けて挨拶をした。
「はじめまして。渡辺健太郎と申します。本日はこのような席に招待して頂き誠にありがとうございます」
「私が伊藤清十郎だ。よろしく頼むよ。ほれ、名刺だ」伊藤は名刺を手渡してきた。健太郎も急いで名刺を取り出したが、伊藤は見向きもせずに席についた。
伊藤に合わせて二人も席に着き、最初の乾杯を交わした。
「この日本酒は名産品でね。私のお気に入りなんだよ」日本酒を片手に伊藤は顔を赤くして上機嫌となっていた。気難しいと思っていたが、気の良い中年男性のようだと健太郎は思った。
「この日本酒おいしいですね。流石、伊藤さんの選んだものだ」一口飲むなり、部長は伊藤を褒めちぎる。伊藤はほめ言葉に心よくしている。と思われたが、違っていた。
「本当にそう思っているのか。美味しいなら、どう美味しいか言ってみなさい」部長の顔色の悪さに拍車がかかる。
「えーと、そうですね。まずは、飲みやすさでね。他の日本酒とは違ってその、飲みやすいと言うか」部長の緊張感を高めるかのように伊藤の眉間に皺が寄ってくる。
「もう、君はいい。それじゃあ、そこの君はどうなんだ」伊藤の視線は健太郎に向けられた。健太郎も何も考えずに飲んでいた為、何も言葉が出てこない。
「君も何もないのか」伊藤はため息をついた。
「すみません。もう一度、飲ませて頂けないでしょうか」伊藤はあきれ顔でどうぞと手で示し、健太郎はコップに口をつけた。部長の腹は食あたりとストレスですでに限界を向えようとしていた。頼みの綱は健太郎のみ。
二人に注目されている健太郎は数秒、酒を口の中で転がし、口を開いた。
「なるほどですね」そう言い、コップを置いた。コップを置いた時に一瞬だけ笑みを浮かべた健太郎を伊藤は見逃さなかった。
「どうだったのかね」伊藤の問いに部長が出来るのは、神頼みだけ。心配する部長を横に健太郎は感想を述べ始める。
「まずは香が抑えられており、爽酒かなとも思いましたが、口の中に広がる重みのある深い味わいは熟酒の物ですね。コクも旨味も強い割には、口通りもよく、上品な味わいでとても飲みやすかったです」部長は伊藤の方をゆっくりと見た。
「ほう。その若さでこの酒の味がそこまでわかるのかね」
「いえ。まだまだ、未熟者です」健太郎の返答にしかめ面する者がいた。
「何が未熟者ですがだよ。私がそう言うから間違いないのですよ」
「わかってる。本当に助かったよ。舌」
健太郎に味など理解できない。
だからこそ、自分の舌に頼んで日本酒の味を分析してもらい教えてもらっていたのだ。
「今度は一本数万円する赤ワインを買って飲んで下さいよ」
「わかってる。約束だ」健太郎は自分の舌と交渉し、それからも出されるお酒、料理の感想を正確に言い続けた。
「女将さん、この鯛の煮つけの隠し味に少しだけリンゴを入れてませんか」
「はい。こちらの煮つけには摩り下ろしたリンゴを使用させて頂いております」健太郎の味覚に部長をはじめ伊藤も驚かされていた。
「凄いな。料理の勉強でもしていたのかい」
「とんでもないです。料理なんて全く出来ません」ほろ酔いの伊藤は健太郎の料理に対する博学さや謙虚な姿勢に心打たれていた。
「部長さん。あなたも良い部下を持ちましたね。こんなに若いのに物の良さを理解している。私は彼が気に入りましたよ」
「ありがとうございます。ほら、渡辺くんも頭を下げて」上機嫌な伊藤に部長の腹痛も完全に消え失せていた。
「契約の話だが私は君達と是非、仕事をやっていきたいと考えている。特に渡辺くんの物を見る目には期待しているよ」
「はい。ありがとうございます」伊藤は契約書を取り出して双方の会社の判が押され、無事に契約成立が取れた。詳しい話は後日にと伊藤はタクシーで先に帰った。タクシーを見届けると部長は改めて感謝した。
「渡辺くん。君は凄いよ。本当に助かった。本当にありがとう。これから、忙しくなるが頑張ってくれよ」
「はい。がんばります」臓器達も健太郎同様に喜びを噛みしめていた。

今日で雨が降り続いて四日目の朝となる。洗濯物も部屋干しし、室内は湿気で溢れている。健太郎は重い腰を持ち上げ、台所へと足を運ぶ。冷蔵庫を開けると腐った野菜や賞味期限切れの肉や乳製品で溢れていた。
仕方なく、栄養ドリンク二本を取り出し、棚からカップ麺を取り出してお湯を入れる。ごみ箱の状況からカップ麺での生活は約二週間以上は経過していた。
「いつまで、こんな生活続ける気だよ」胃はすでに堪忍袋の緒が切れていた。他の臓器達もそうであった。
プロジェクトを開始して健太郎の生活スケジュールは一気に忙しくなった。朝早くに出勤し、プロジェクトの調査及び書類作成に取り掛かる。それとは別に以前からの仕事も行わなければならなかったからだ。
仕事量が爆発的に増加したからと言って、遅く帰る訳でも無かった。最初の接待後、伊藤に気に入られた健太郎は仕事終わりに、ほぼ毎晩のように飲みに誘われた。部長に相談したが、
「絶対に行け。伊藤さんのご機嫌を損ねるような事はするなよ」と言われる始末。当の本人は飲みには誘われず、プロジェクトも健太郎に任せっきりだった。
毎晩、遅くまでお酒を飲み、朝食と昼食は時間節約のためカップ麺と栄養ドリンクで簡単に済ませていた。 
 臓器達も奮闘した。「出世の為に協力するんだ」と意気込んで、身体が弱らないようにと少ない栄養を必死にかき集めた。皆それぞれ、健太郎のバックアップの為、苦汁を舐めていた。
「みんな、本当に済まない。だけど、もう少しだ。プロジェクトの資料もあと三日後には終わる。完成すれば、発表までの四日間はゆっくり過ごそう。ここまで二週間近く、本当に頑張ってくれたな」
「そんな気にしないでよ。でも、終わったらしっかり休ませてくださいね」爽やかな小腸の声はいつもより掠れている様な気がした。
「大丈夫かい小腸」
「大丈夫だよ。気にしないでくれ。そうだよね。大腸兄さん」
「そうだよ。気にするなよ。それよりも、最近は良作が作れなくて申し訳ないな」
「大腸、悪いのは俺だ。仕事が落ち着いたらキャベツやゴボウをたくさん食べるからね」
「よろしくです」
「あと、肝臓は大丈夫か」肝臓からの返事を待つも一向に帰ってこない。普段から寡黙でおとなしいが、無視することは無かった。
「おい。肝臓大丈夫か。返事してくれ」
「うるせえな。寝かしてやれよ」肝臓の身を案じる健太郎に胃が答えてきた。
「胃、肝臓は大丈夫なの」
「こいつ、一晩中働き続けているから、今は少し休んでるんだよ。静かにしてやれよ。お前は早く仕事が終わるように頑張れよ」
「わかったよ。俺、頑張るから」
臓器達に励まされながら、健太郎は激務に向かった。食後だろうが、重たくなった身体に鞭を打ち階段を駆け上がり、道路を走り回り、仕事に追われた。たまの立眩みにも動じることもなかった。
そして、遂に念願のプロジェクト資料が完成したのだ。数字ミスや誤字脱字は一切みられない。ここまでの約二週間の激務はようやく終わりを迎えようとしていた。
健太郎をはじめとする臓器達も安堵ついた。ようやく激務が終わるのだから。二週間と長い期間であった。何度も諦めようと思ったが、互いに励ましあえたからこそ、ここまで出来たのだ。
健太郎は最終チェックを終え、部長の下に提出した。
「部長、プロジェクトの資料完成したので確認をお願いします」
「やっと出来たか、間に合わないかと思ったぞ」健太郎は資料に目を通す部長を待った。大量に作られた資料を一気に確認などは難しいだろうなと思い、健太郎は会釈をして自分の席に戻ろうとしたが、部長の言葉で止められた。
「駄目だな」思いもしなかった結果に啓太郎は思わず言葉を零した。
「どうしてですか」
「全体的に何を書いてあるかわからないな」
「この資料を元に説明を行えば、大丈夫な筈です。どこが駄目なんですか」
「だから、全体的に駄目なの」
「全体的にじゃ、わかりません。具体的にどこが駄目か教えてください」
「そこは自分で気づかなきゃ。教えてもらったら意味ないでしょ」
「そんな、もう時間ないんですよ」
「だって、君さ。残業もせず毎晩お酒飲みに行ってたんでしょ。だから、これは自己責任でしょ」
「そんな…」部長の言葉に胃が反応した。
「何言ってんだこの馬鹿は。俺達がどんな気持ちでここまでやって来たと思ってんだよ。ふざけるな」
「落ち着け、胃。お前が興奮すると身体が火照るんだよ」健太郎は怒る胃を宥めた。
「顔が赤くなってるが、言いたい事があるのか」部長は胃の怒りによって身体が震えだした健太郎を睨んだ。
「いえ、何もありません。会議までには作成し直します」健太郎は自分の席に戻り、机に俯せた。今は何も考えられない。頭の中が真っ白になっている。
こんな時は不思議と自然に周囲の声が耳に入ってくるものだ。
「やっぱり陣内さんに任せるべきだったんじゃないの」
「渡辺じゃ、荷が重たかったんだろ」
「やっぱり、あの噂は本当だったのかな」健太郎は耳に周囲の声を全て拾うようにお願いをして更に集中した。
「あぁ、あれね。プロジェクトの前日の飲み会で渡辺さんが料理に細工して自分がプロジェクトを持てるようにしたってやつね」何を言っているんだこいつ等は。俺が料理に細工をしただと。
「じゃないとあれだけ、大勢がお腹を壊したのに一人だけ、平気でいるなんておかしいわよね」健太郎の中で先ほど感じた胃の怒り以上の物が溢れ出てきて爆発した。
「ふざけるな。俺はそんな事やってない」約百m先で小さな声で噂話をしている二人の女子に対して健太郎はオフィス中に響き渡る大きな声で反論した。そんな健太郎の姿を皆は黙って注目した。
立ち上がって数秒経過し、ようやく自分の感情的な行動に気付いた。
健太郎は周囲の視線に気づき、黙って屋上へと走って行った。

屋上に着くと雨は止んでいた。相変わらず湿気が高く、肌寒いが今の気持ちを落ち着かせるには丁度良い。濡れることなど気にせずに安全柵に寄りかかり地面に座る。
「もう、どうでもいいや」健太郎はそうつぶやき、目の前の夕日を何も考えずに見つめた。
「ここまで来て、それはないだろ」健太郎はまた、臓器の誰かが話かけてきたのかと思ったが、声は自分の中じゃなく背後から聞こえた。
「陣内先輩」陣内は振り向いた健太郎に缶コーヒーを投げ渡す。
「それ飲んでもう少し頑張れよ」
「どうせ先輩も俺が飲み会の時、料理に細工してプロジェクトの仕事を取ったって思ってるんでしょ」
「そんなこと思った事ねーよ。そんな卑怯な手を使う奴が、誰よりも早く出社して、仕事して、毎晩行きたくもない接待に行って、ご機嫌とりなんかしないだろ」
健太郎は黙ったまま陣内の声に耳を傾けた。
「それに、このままで良いのかよ。みんなに誤解を抱かれて悔しくないのかよ」
「そりゃあ、悔しいですよ」
「なら、頑張れよ。俺はお前の努力を知っている。このプロジェクトを受け持ったお前をずっと見てきたからわかる。みんなにお前の実力をみせてやれ。お前は何かを持っている筈だ」そう言いながら涙目の健太郎の肩に優しく手を添える。
「ありがとうございます」
陣内は言いたい事はそれだけだと手を振って屋上を後にした。
「それで、どうするんだよ」
「決まってるだろ」健太郎は胃にそう伝えトイレに籠った。
「みんな聞いてくれ」健太郎は目を瞑って自分の臓器全てに声が届くように神経を集中させた。
「みんなが限界間近なのはわかっている。予定では、今日から休息が取れるはずだったが、仕事の都合上、それが出来なくなった」健太郎は深呼吸をして続けた。
「今日から残り四日間、伊藤さんは出張でいないから飲み事はない。だから今日から朝昼晩全ての時間を使って仕事をしたい。それにはみんなの力が必要なんだ。力を貸してくれないか」無言の臓器達に健太郎は更に声をかける。
「思い返せば、君達に心の底からお願いなどしたことが無かった。自分の臓器だから、俺の言う事を聞くのは当たり前とどこかで思っていたんだと思う。だけど、ようやく気付いたんだ。君達と俺は一つなんだ。俺一人はみんなで、みんなが俺一人なんだと。だからこそ、お願いをするんだ。俺一人の我が儘を聞いてもらうから。みんなの負担はわかってるけど、それでも突き通したい事なんだ」
健太郎は伝えたい事を言い臓器達の返事を待った。誰からの返答もなく時は刻々と過ぎていき、ようやく一人の声がした。
「僕は協力するよ」最初に名乗り上げてくれたのは肝臓だった。ここ最近で一番、忙しい思いをさせてしまった肝臓からの返答に心から感謝した。
「ありがとう。肝臓」
「あと少し頑張ってみんなを見返しましょうよ」
「報酬はキャベツ一玉分だな」
肝臓に続いて小腸と大腸兄弟の返答がきた。
「ありがとう。小腸、大腸」それからもあらゆる臓器達から賛同が得られた。そして、アイツからの言葉。
「俺も手伝うぜ。一緒にあの部長をぶっとばしてやろうぜ」
「胃もありがとう。一緒に頑張ろう」健太郎はすぐにオフィスに戻って一から資料を作り直し始めた。やはり周囲からは何かを言われたが耳に頼み、関係ない話は聞こえないようにした。一気に仕事に集中し、気づけば4時間が経過し、夜十時を回っていた。こんな時間までオフィス内に残業しているのは健太郎のみ。
「流石にご飯を食べないとな」と胃に言われ、コンビニでカップ麺と大量の栄養ドリンクを買った。更に下着、シャンプーを買って会社に戻る。健太郎は臓器達と相談して仕事が終わるまで会社で寝泊まりする事に決めたのだ。
健太郎は食事を簡単に済ませて仕事に集中した。眠気が来ても臓器達がカフェイン入りのドリンクを飲ませ、いつも以上に覚醒状態を持続させてくれた。朝を迎えてから、シャンプーで体と頭を洗って身を整え、仕事に没頭した。仮眠は三時間のみ。服は着替えてないので少し臭いがし始めたが、気になどしていられない。
そんな社内での生活を始めて三日目。遂にプロジェクトの資料が再完成した。
健太郎は最後の見直しを行い、すぐに部長へ提出した。
「部長、資料出来ました」
「出来ましたって、会議は明日だぞ。遅くないか」部長は相変わらず、適当に資料に目を通し結果を述べる。
「前のとどこがどう変わったの。ほとんど一緒じゃないか」健太郎には詳しく説明する気力など残って無かった。部長の話は続いたが、質問の意味が理解出来てなかった。うわの空で話を聞く部長がついに怒鳴った。
「渡辺、聞いているのか」はい。と反射的に答えるが、やはり気持ちなど入っていなかった。
「大丈夫ですか。部長」怒鳴り声に陣内が様子を見に来た。
「こいつの資料を注意しているんだが」
「あ、これですね。僕も見ましたがよく出来てましたよね」
「陣内もこれ見たのか」
「僕も確認させて頂きました」部長は陣内の言葉を聞くなり、資料を机の上に置いて笑顔になった。
「それなら、大丈夫だな。渡辺、お疲れ様。明日の発表も頑張ってくれよ」
「それと、部長。渡辺が少し疲れてるみたいで明日の発表に支障きたしてはいけないので早退させてあげてください」陣内の提案に健太郎は耳を疑った。そんな事が可能なのかと。
「わかった。資料もあるから、今日は帰って休んでいいぞ」健太郎は部長に一礼し陣内とその場を後にした。
「先輩、色々とありがとうございました。早退の許可まで提案してくれるなんて」
「お疲れ様。今日はゆっくり休んで、明日の発表がんばれよ」陣内は激励の言葉をかけて仕事に戻った。
自分の机に戻ると二人の女性が待っていた。
「渡辺さん、この前は変な噂をしてすみませんでした」どうやら、自分の噂をしていた二人のようだ。
「俺もあの時は、大きな声を出してすみませんでした」
「今日はゆっくり休んでください」二人はそう言うとケーキを手渡した。
「ありがとう」健太郎は受け取って会社を後にした。

健太郎は帰りの電車の中で何度も眠りかけた。駅から家までの道中も休憩を挟みながらやっとの思いで家に到着した。
部屋に入るなり、何日間も着続けた背広も脱がずにベッドに直行し、念願の休息を噛みしめた。
「みんな、今日こそゆっくりと休んでくれ」
「お疲れ様。俺達も今日はゆっくりと休ませてもらうよ。おやすみなさい」小腸、大腸兄弟は労いの言葉をかけて休憩に入った。
「お疲れ、腸兄弟」
「僕も休ませてもらうよ」肝臓は眠たそうな声で挨拶をしてきた。
「お疲れ様。肝臓」それからも続々と臓器達と挨拶をした。普段、あまり話さない腎臓の双子や膀胱、膵臓、上の歯、舌の歯達などともだ。
「お疲れ様。えっと…君は」
「僕は延髄だよ。体温調整を常に行っているから中々、話しが出来ないもんね」
「そうだね。いつもお仕事お疲れ様」
「今から休憩に入るから、身体が冷えないように布団の中に入ってね」
延髄の助言通りに徐々に身体が冷えてきたので指示に従って布団の中に潜り込んで暖をとった。
「そう言えば、彼とまだ話してなかったな」健太郎は臓器達の中でも一番、仲良しの胃に声をかけた。
「胃は、まだ起きているか」
「起きてるぞ」胃も他の臓器達同様に少し眠たそうにしている。
「君は、臓器達の中でも一番よく話をしたよね。仕事で辛い時も君が一番、話かけてくれた。感謝しているよ。今日はゆっくり休んでくれ。お疲れ様」
「何を今さら言ってるんだよ。お前もよく頑張ったよ。お疲れ様。脳みそ」健太郎を包み込む眠気は胃の思いもしない言葉に一蹴された。
「胃、今何て言ったんだ」
「何って、お疲れ様って言ったんだよ」
「違う。その後だよ。俺の事を何て呼んだんだよ」胃は健太郎の質問を不思議そうに聞いてもう一度、彼の名前を呼んだ。
「だから、お疲れ様。脳みそって言ったんだよ。お前の名前だろ」健太郎は自分の聞き間違えじゃない事をはっきりと確認した。
「なんで俺が脳みそになるんだ。俺は渡辺健太郎だ。そうだろ」胃は眠りを邪魔する脳みそにイラつき始めていた。
「なんで、お前だけが渡辺健太郎になるんだよ。俺だって渡辺健太郎だぞ。お前が前に言ってただろ。『俺はみんなで、みんなは俺だ』って。忘れたのか」
「ちょっと待てよ。今まで渡辺健太郎が仕事を頑張ったり、怒ったり、泣いたりしていいたのは俺が渡辺健太郎個人として感じた事ではなくて、俺が脳みそだったからってことか」
「それが、お前の仕事だろ。渡辺健太郎として物事を考えたり、感情を表に出したりすることが。もう、いいだろ。俺は寝るぜ。おやすみ」脳みそは混乱していた。俺が渡辺健太郎じゃなかったら、誰が渡辺健太郎なんだ。渡辺健太郎はどこにいるんだ。と言うよりも今、こうやって考えているのも渡辺健太郎としてではなく、脳みそとしてか。つまり、色々と感じたり行動したりする俺自身も所詮は渡辺健太郎の臓器の一つだったと言うことなのか。
食べ物を消化する仕事、栄養を吸収する仕事、排泄物を作る仕事、臓器には各々の役割があった。そして、疲れたと考えている俺自身の役割は『何かを考えること』だっただけのことなのか。
「なんだ。俺は人間じゃなくて臓器だったのか」止まる事無く、毎日、何かを考えて行動した為に自分が脳みそである事を忘れていたのであろう。
すぐには受け入れるのは難しい事だ。また、あとで起きて考えよう。考えるのは得意な筈だから。疲労の性で、身体はもう1mも動かせない。脳みそは、ショックもあったが、まずは眠ることにした。
「また明日、起きたらみんなに聞いてみよう」
意識は次第に薄れていく。まだまだ、挨拶仕切れてない目や耳、爪、髪の毛達は脳みそに気を使い小声で挨拶を済ませた。脳みそも半分寝ながら答えた。布団の中で身体を丸めて身体の熱を逃がさないように、万全の眠りの準備をした。あとは、何も考えないだけ。
しかし、あと一歩の所で息切れしながら挨拶する者が現れた。
「危ない、挨拶に遅れるかと思ったよ。おやすみなさい。これで僕もようやく休憩できるよ。お互いに仕事が忙しい者同士、ゆっくりしようね」その言葉を聞いて脳みそは「自分よりも忙しい者などいない。誰だこいつは」と思った。
常に何かを考え行動しなければならない役割の自分と同じくらいに忙しいと言う者がいるのか。この初めて声を聞く得体の知れない者が誰か気になって眠気がまたしても吹き飛んだ。
「君は誰だい」脳みその質問に相変わらず、息切れをしながら謎の男は答えた。
「僕かい。僕は心臓」だよ。脳みそくん」心臓がそう言った瞬間に脳みその中で一つのある疑問が産まれた。心臓にその疑問をぶつけようとしたが、その前に胸に強烈な痛み走った。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「まさか、ちょっと待ってくれ心臓。君が休むと言う事は、君が眠ると言うことは、止めてくれー」



気持ちの良い朝日の入り込むリビングでとある家族三人が朝の報道ニュースに目を向けて朝食を摂っていた。
「昨日未明に二十七歳会社員、渡辺健太郎さんの遺体が自宅マンションから発見されました。死因は過労死とされ、警察は勤務先の会社に事情を聴き、捜査している模様です」ニュースを見て学生服を着た長男がぼやく。
「マジか。死ぬまで働かされるなんて、勘弁して欲しいよ」
「本当だよな」父親は我が子の意見に賛同した。

自分と向き合ってみた

自分と向き合ってみた

人間以外のある者達と会話が出来る男をテーマに作った短編SF小説です。彼等との会話で男が行き着く先とは。是非、ご覧ください。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-25

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