渡らね橋
男は、ぶるぶると震えていた。次々と腹の底から湧きあがってくる震えに抗おうと二つのこぶしにぐいっと力を込めてはみたが、そうすればするほど、二つのこぶしもぶるぶると震えるのだった。瞼は痙攣を起こしたかのようにひくひくと小刻みに引きつり、目の玉は忙しく左右を行ったり来たりしている。肺は空気を吸うのを忘れたのか、代わりに腹がひくひくと膨れたり萎んだりを繰り返している。まるで、身体のそれぞれが別の生き物となってしまったようだ。胸の辺りでは、何故か大太鼓がどんどんと打ち鳴らされている。不思議に思って耳をすますと、それは大太鼓の音などではなく、自分の心臓の音なのだ。男は、そのまま心臓が破裂をしてしまうのではないかと思い、心底怯えるのだった。
いったい何時からこの場所にいるのか、何故この場所にいるのか。
男は必死で考えようした。ところが、すっぽりと頭の中が入れ替わってしまったみたいに、何もかもが思い出せない。それどころか、自分が何者かも思い出せないのだった。
震えることにすっかり疲れ切った男は、まるで操り人形のようなぎこちない動きで、その場を一回りした。回り終えると、今度は吊り糸が切れてしまったかのように、ふらんとその場に手足を投げ出して座り込んでしまった。
ああ、恐ろしい。恐ろしい。
再び握りしめたこぶしを自分の膝小僧に、ごつんとぶつけた。そこには、間違いなく痛みがあった。そして、そのことでさらに大きく絶望するのだった。
地獄だ、ここはきっと地獄にちがいない。
地獄などという場所は、見た事などない。実際あるかどうかも分からない。しかし、そこは男が頭の中で想像する地獄そのものだった。
男がへたり込んで座っている地面は、ごつごつとした手の平ぐらいの大きさの石塊で埋め尽くされ、痩せた男の体に、固く、冷たく、刺さり込んでくる。
背後をぐるりと取り囲んでいるのは、大きく切り立った岩の壁だった。一つ一つの岩が長い柱のような形をして、それが、幾重にも折り重なっている。その壁は天高くまで続いており、さらに上空は、もやもやとした灰色の雲のようなものが全体に蓋をしたように覆っている。いったいどこまで岩壁が続いていて、そして、どこが空と壁の境目なのかも分からない。
そして、目の前には、不気味に淀んだ沼があった。沼には、濃い霧が立ち込めており、沼の先も空と同じくその境目は霞んで見えなかった。
しかし、何よりも恐ろしいのは・・・。
男はその恐ろしいものをじっと見つめながら、ほとんど乾いて唾液すら出なくなった喉を上下させた。
背後を囲む切り立った絶壁よりも不気味な沼よりも、何よりも恐ろしいものが、男ちょうど左前方にあった。それは、朱色で塗られた大きな太鼓橋だった。橋台も橋脚も持たず、地面から沼へ向かってぬっと突き出している。全てが墨で塗り潰したような景色の中で、そこだけがまるで別の世界のように、鮮やかな色を持っていた。綺麗というのではない。美しいというのではない。薄暗く灯りもないこの場所で、ぬらぬらと妖しい光を自ら放つ橋は、まるで皮膚を剥がされ、生血を剥き出しにした恐ろしい生き物のように見えた。色だけではない、その形も異様であった。太鼓橋のちょうど真ん中、橋板が一番に盛り上がった所を、まるで巨大な鉈で上から真っ二つに切られたように、橋の半分がないのだ。そして、その切られた先には、小さな竜巻のような雲が、宙に浮かんでぐるぐると円を描くように、渦を巻いている。
なんだ、一体あれは。
酸っぱい胃液が口の中にじわりと上がってきた。男は気分の悪さにひたすら堪えながら、その半分しかない朱塗りの太鼓橋とその先にある渦をじっと見つめていた。
男は四つ足の動物のように、沼の縁へ向かって這って行った。もしかしたらこの沼の中に何か出口を見つける糸口が無いかと考えたからだ。男はごつごつとした石塊に手足をとられながら、恐る恐る近づいて行った。
沼はどこまでも灰色なのに、なぜか沼の縁だけが、帯状に白っぽくなっている。汚れや濁りが打ち寄せられそこに集まっているのかと思った。しかし、覗き込んで見ると、そこには、死んだ魚が、池の底の縁に沈んでいた。それも群れといえるくらいの夥しい程の数がびっしりと帯状に連なって。不思議なことに、それらは浮かび上がりもせず、じっと沼の底に白濁とした腹を見せてその身体を横たえていた。その腹の色よりも、もっと白い眼をぽっかりと開けたまま。
男は悲鳴にならない声を上げると、四つ足のまま、自分がいた場所まで戻り、身体を小さく丸めて蹲った。目を固く瞑っても、大量の魚の死体が、頭の中に移動したかのように、ありありと見えるようだった。そして、それと重なるように朱色の橋がざわざわと蠢いている。男は助けてくれと祈った。次に目を開ければ、この世界から出られるのではないかと心に思いながら。
突然、静寂を斬り裂く鋭い叫び声が聞こえて、男はその場で飛び上がった。そして、慌てて声の方を追った。そこには、転げるように走ってくる太った男の姿があった。目を大きく見開き、狂ったように叫び続けている。出口も入口もない場所に突如姿を現した男は、真っすぐ橋を駆け上がると、そのまま橋の先端にある小さな渦の中に顔を突っ込んだ。
男は腰を抜かしたままその姿を見つめた。太った男の首から先が、すっぽりと渦の中に入りこんでいる。両腕をたらし、首から下だけの、頭のない人間の姿がそこにはあった。
太った男はぬっと渦から頭を出した。その顔は魂が抜けてしまったかのように蒼白だった。そして、ふらふらと一、二歩後ずさりすると、今度はくるりと向きを変え、橋を引き返してきた。
太った男が橋を下りてこちらへ走ってくる。「おい」と男は声をかけた。しかし、太った男は、男の存在などにも気付きもせず、すぐ目の前を横切ったかと思うと、沼の中へ水しぶきを上げながらざぶざぶと入って行った。
沼の半分ほど進んだところで、太った男は歩くのをやめた。腰まで沼の水に浸かり、完全に背を向けているため、その表情は分からない。そのまま太った男は沼にばったりと倒れ込んだ。
「おいっ」
再び声を上げて太った男を呼んだ。しかし、男は沼の表面に顔を沈めたまま背中側だけを浮かび上がらせて、ぴくりともしなくなった。
再び辺りはしんと静まりかえった。沼には太った男が浮かんでいる。男は怖くなって、また自分の膝を抱えて震えだした。目だけは太った男の死体からはなすことも出来ずに、瞬きすることも忘れ、食い入るように見つめていた。すると、浮かんでいた男の身体が、白くなり始めた。だんだんとその身体が小さくなっていくようにも見えた。
男は驚いて目を擦り、慌てて何度も瞬きを繰り返す間も、やはりそれは、どんどんと形を変えていった。そして、あっという間に、太った男は小さくなり、白い魚へと形を変えてしまった。
すっかり魚になってしまうと、つと手前の方へと流れてきた。流れのない水面で、まるで何かに引き寄せられるかのように、進んでくる。とうとう沼の縁まで流れ着くと、少しその場所でゆらゆらと漂っていたが、次にはゆっくりと沼底へと沈んで行った。
男は驚きの余り、息をするのも忘れていた。さっきまで動いていた男が死に、それが魚となって沼底へ沈んで行った。いったい何が起きたのか。驚きとよりも、橋のことが気になりだした。あの死んだ男は、あの橋の渦の中に何を見たのだろう。あの渦の中には何があるのか。もし、自分もあの橋を渡り、渦の中に頭を入れたら、さっきの男のように、気が狂い、沼の中で魚になるのかもしれない。
男は死にたくも魚にもなりたくはなかった。しかし、あの橋がまるで自分を誘惑するかのように、「わたれ、わたれ」と誘っている。いつしか、男はあの橋に心を奪われていた。どうせこの地獄のような場所からずっと出られずにいるのなら、あの橋を渡ってしまってもいいのではないかと思い始めたのだ。でも次の瞬間、沼に沈む大量の魚の姿を思い出し、男は迷うのだった。
辺りは相変わらず、不気味な霧が立ち込め、切り立った岩壁は天を突き抜けるほど高い。生き物のような橋が、「わたれ、わたれ」と男を追い詰める。
ついに、男は立ちあがった。ただ、何もせず、怯えているだけなのなら、あの橋を渡ってしまおうと心に決めたのだ。その足はやはり震えていたが、今までとは別の震えであった。しかし、と男は思った。あの橋を渡り切ることはできない。橋の向こう側はないのだ。断ち切られた橋の先にはぐるぐると渦を巻いた雲が待ち構えているのだ。
男は橋のたもとへやってくると目を細めて見上げた。欄干も橋板も、橋はその全てを鮮やかな朱色を纏って妖しく光っている。男はゆっくりと橋を上った。橋を渡り始めると、今度は橋が「のぞけ、のぞけ」と言っているように思えた。
男は橋の切れ目にやってくると、太った男がやっていたように、首を伸ばして、渦巻く雲の中に頭をつっこんだ。
渦の中は真っ暗闇だった。しかし、目が慣れてくると、ぼんやりと何かが見えてくるようだった。目を凝らすと、そこは、家の中だった。真下には畳が見え、壁側には箪笥がいくつか並んでいる。男はどこかの家の天井の角から、その中を見下ろしているようだった。
目が完全に慣れ、家の中がはっきりと分かると、部屋の隅の方で動く黒い影があるのに気が付いた。黒い影は、こそこそとした動きで、箪笥の引き出しを開けて何かを探している。何もないと分かると、次の引き出しを上げて、その中を掻きまわしている。
泥棒だ。
男が、その影がどこかの家に忍び込んだ泥棒だと気付くと同時に、部屋の扉が開いて、誰かが入ってきた。銀色の髪の毛をした小柄な老婆だった。家主に違いなかった。老婆は泥棒に気がつくと声にならない叫びを上げた。すると、泥棒は老婆目掛けて突進したかと思うと、懐に隠し持っていた包丁を取り出して振りかざした。
その瞬間、男は全てを思い出した。
あれは、俺だ。俺は泥棒だったのだ。泥棒に入った家で家主に見つかり、慌てた俺は、その家主に手をかけたのだ。
男が全てを悟ったと同時に、渦から覗いていた世界がぐにゃりと歪んだ。そして、天も地も一つにして、ぐるぐると弧を描きながら回り出したかと思うと、次第に大きな渦と化し、男の身体をもぐるぐると巻きこみながら、渦の中心へと吸い込まれていった。
再び意識を取り戻した男は、ゴフリと大きく息を吐いた。息はいくつかの粒となり、ゆらゆらと上へ昇って行った。男は身体を左右に揺らしながら、自分の吐いた息を追いかけた。手も足もない身体は、水の中では面白いほど自由だった。
不思議なことに、男は全てを忘れていた。自分が何者であったかも、どうしてここにいるのかも。しかし、男はどうでもよかった。ここはどこでもないし、自分は何者でもない。何も感じないし、過去も未来もない。
男は水面から顔を出した。そこには朱塗りの橋が、神々しいほど光り輝いていた。もう、橋は「わたれ、わたれ」と、男に誘いかける事はなかった。しばらくの間、男は橋を眺めていた。
魚となった男は、やがて水の中に潜ると、深く、深く沼の底へと沈んだまま、二度と上がってくることはなかった。
渡らね橋