逃避

新大学生になる若すぎる少年の青い苦しみ

 幼少期、母に抱っこされると、決まって母の腕が疲れないであろうかと心配した。気苦労の果てに、疲れないかと、尋ねると、母は、疲れないよ、と仰る。私にはそれが気を遣わせない為の嘘だと、何となしに分かっていたものだから、母の為に、そこは騙されたふりをして、長く抱っこされてやろうと思うのだが、抱かれていると私の心は恐縮していくばかり。そうなってくると、申し訳ない気持ちでいっぱいで、下ろしてと、堪らず母に言うのだ。こういったとき、私には黙って抱かれているのが良心的なのか、下ろしてと言うことが良心的なのかが分からなくなってしまう。そんなことを毎日のように考えていた。正解が分からなかった。可愛げのない子供。本当に甘えるのが下手であった。親不孝。
馬鹿馬鹿しい、情けない気苦労。本当に今考えればどうでも良いことばかり。
焦っていた。漠然とした不安。今年は大学の受験が控えている、将来を探していた、一つの事を極めようと、好きになろうと必死だった。その年の桜が散った春のある日、フト自分には怒りが足りないと感じた。言いたいことが言えない人間になってしまったと思った。心が空っぽで、何もかもがどうでも良かった。自分の中にある感情に気付いてあげれなくなっていた。心の底にある、いらいらした、漠然とした怒り、屈辱を吐き出したい。それは全くやり場のない、誰が悪いとも思えない、苦しい、実に苦しい感覚。敵が欲しい、もっと明瞭な怒りが欲しい、私を馬鹿にしたり、褒めたり、仕合せにしたり、私に嘘をついたり、嘲笑を浴びせたり、八重歯を見せて可愛く笑ってくれた人間、いや全てへの怒りが。苦しい、本当に苦しい。この苦しみが苦しみとされないことが苦しい。悩んでいた、高三であった、どうでも良いことを考えていた、目に映るのは不安ばかり、目を背けて季節を歩んだ。将来の目標も、自分の感情も、何も見つからなかった。いつも学校では只笑っていた、大笑いしていようと思っていた。卒業式に涙は流れなかった。不安、心細さ、誰も信用できない、信じることが出来ない。そんなことが胸にあって、なるほど、歳ばかりは十八年も取ってしまったが、何も根本の部分では解決していない、幼少の頃から進歩と言うものが何もできていない気がして、あの日私は『卒業』と言うものに、素直に喜ぶことが出来なかった。自分を卒業の資格がある人間とは思えなかった。私は学校の優しい先生に嘘を吐き、欺いてしまった様な気がして。先生や学校を騙して、本当は卒業に値する人格など形成されていないのに、上手く誤魔化し、先生に心配されるのが嫌で、他生徒と談笑しているフリをして、悪ぶり、少し悪戯好きな人を装って。ああ、汚らわしい、あさましい、気持ち悪い、むしろ私を無様に卒業させた学校に怒りすら覚える。あの時、先生は何故気付いてくれなかったのか、それとも、とっくに気付いておいでで、その上で無視されたのか。どうして騙されたフリ何てしてくれたのでしょう、もう分からない。
 時は流れて、明日は大学の入学式前のオリエンテーションがある、卒業したあの日、家族にはおめでとうと言われた。褒められた、晩ごはんは外食であった。私は人に優しくされると胸が痛む、褒められれば人を疑う。私にそんな言葉を言わないで下さい、私に優しい言葉を吐く価値はありません、それも皆、私があなたを騙しているだけで、私に良い所なんてものは無いのだ。
自分をどう見せるか、そんなことばかり考えて、嘘を見破られるのを極端に嫌い、毎日毎日びくびくと、怯えながら暮らしています。目の前の困難から、逃げて逃げて、逃げまくり、今までやってきたような気がします。何かに追われている様な、見られている様な、自分に責められている様な、心が休まらない、不安で不安でしょうがない。
大学生活がこれから始まります。いったいこの先どうなることやら。死にたくはない、死にたくはないが、生きるのも嫌になってきた。これから先、馬鹿みたいな演技を続けると思うと吐き気がする。あまりネガティブでは駄目ですね、大学に行けば変われる、今そう決めました、私は大学では変われる、絶対にだ。もはや自分でも何を言っているのか分かりません、只思うのは、逃げてはいけないと言うことです。私はもう一生分逃げましたから、もう逃げることはよしたい、本当に嫌だ、もし私がまた逃げることがあれば、一生を逃げることになりそうで恐ろしいのです。
いっそ家が、ウント貧乏であれば良かった、そしたら生きる為に一生懸命働き、毎日の食事に心から感謝することが出来、お金の大切さみたいなものが、一層理解できたであろう。それって素晴らしいじゃないですか、これこそ仕合せと言うものです。清貧の方は根拠のない自信に溢れていそうで、輝いて見えます。
ああ、何の覚悟も無いまま、のらりくらりと逃げ続け、騙し騙しで、とうとう大学まで来てしまった。恐ろしい、本当に恐ろしい、いったい何時からこんな調子であろうか。こんなにも、ひねくれた人間が、誰に何も注意されず、ここまで来てしまったことが恐ろしい。私は今日も生きている、ここに居る、本当の私は確かに、ここに居る。明日も逃げるか逃げまいか、悩みながら、何とか生にしがみ付いていることでしょう。

逃避

逃避

幼少期から気を遣い、悩みに悩む学校生活を送った主人公。彼は大学に希望と言うより絶望しながら前に進みます。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-24

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