遊離
この体にもだいぶ慣れてきた。
いや、体というには語弊がある。今の俺には実の体がないからだ。
いつからこんなふうなのか、自分は何なのか、まったくわからない。かつて人間だったのはまちがいないと思うが、それだけだ。
ただこの世界を「見る」者として宙にぷくぷくふわふわ漂うばかりで、俺はあいつらに干渉できないし、あいつらにも俺は見えない。
ひろいひろい世界でただ一人、俯瞰するのみである。
はじめのうちはこの姿に困惑したような気もするが、長い時間のせいだろうか、もう覚えていない。いや、時間の概念さえひどくあいまいである。何年も漂っていた気がするし、つい昨日から漂っていたような気もする。
ついこの間まで、大海を果てなく漂っていた。物理的にどの程度の時間だったのかはよくわからない。とにかく長い旅だった。木々の生い茂る小さな島や広大なコバルトブルーのサンゴ礁が現れては、消えた。
おそらくこの姿になるまでの記憶やらなんやら余計なものはすべてあの翠色の大洋に置き去りにしたのだろう。今の俺は実に身軽で、自由だ。
やがて陸地が見えてきても、俺は漂い続けた。直角に整備された埋め立て地や、畑や、雑木林や、コンクリートの市街地の上を漂い続けた。内陸に行くにしたがって俺の俯瞰の高度はみるみる低くなった。はじめは大鷹の視座だったはずが、人の視座にまで繰り下がっていったのである。
そしてとある人家の、とある小部屋に入ったとたん、俺の漂流はぴたりと止まった。
そこで俺は、彼女に出会った。
はじめて彼女を見たときから彼女は、枕に顔をうずめていた。何日にもわたって部屋に閉じこもり、時に嗚咽を漏らし、時に虚ろな目で天井を眺めていた。
俺は悟った。俺の役割は、長い旅の目的は、ここにあると。
「どうしたんだ?」
俺は彼女に問いかけた。彼女の耳になら届く気がしたからだ。彼女はベッドから半身をおこして、あたりを見回した。
「すまん。おどかしたか?」
「どなたですか」
空耳でないことを確信した彼女は、てんで出鱈目な方向を凝視して問い返した。しわがれた、か細い声だった。
「俺は、俺だよ、そうとしか言えない」
「俺さん、ですか」
「いや、俺を俺というのは俺が俺だからで、俺は名前じゃない」
「…なんかめんどくさい俺さんですね」
彼女の頬が緩んだ。懐かしい感情が、じわじわと沸いてくる。
「俺さんはどこから来たんですか」
「海から」
「海から?」
「覚えているのが海からなんだ。ずっとずっと漂ってた」
それから俺は、ここまでの旅で見てきたことを彼女に話した。さほど面白くもない出来事に脚色を加え、ありもしない造形物をでっち上げ、一大スペクタクルを語り聞かせた。彼女はずっと笑っていた。話のおかしさで笑っているのではないのだろう。
「私には、恋人がいたんです」
俺の話が終わると、彼女は口を開いた。
「お互いに深く愛し合い、将来を誓いました。だけど、外からのしがらみがそれを許しませんでした」
数秒の沈黙が、数分にも、数時間にも思える。
「私は彼から引き離され、ここに連れてこられました。そして、先日知らされたんです。彼が飛行機の事故で死んだ、と」
間。
「そういう、ことなんですよね、俺さん」
彼女の声は震えていた。
「私、嬉しいんです。あなたが会いに来てくれたから。だけど、悲しいんです。あなたの声しか聞こえないから。もっと、あなたを感じたい」
「…なら、君が俺と、ひとつになればいい」
俺は言い放った。
「私が俺さんと?」
「そう。そして、家も、国も、名前も、体も全部わすれて一つになるんだ。何も誰も邪魔できない、俺達だけになるんだ」
「…でも、どうやって?」
不安げに聞く彼女に、俺は答えた。
「そんなの、簡単じゃないか」
* * *
「これが…ホトケさんの遺書なんか?」
古澤刑事は狐につつまれたような顔で遺留品の原稿用紙を写した現場写真から目を上げ、自分より早く現場に到着していた荒木刑事に問いかけた。
「確かに古澤さんのおっしゃりたいことは分かります。ですが使用人と家族の証言では、これは間違いなく彼女の筆跡なんですよ。一応鑑定もやってみるらしいですが」
古澤はうーんと唸り、また写真に目を落とす。
「ヘンな小説にしか見えないがなぁ…第一、一人称が俺だぞ」
都内某所。とある資産家の娘の自殺体が別荘の自室にて発見された。家の使用人から通報を受けた巡査が現場に駆けつけたとき、すでに彼女の息は無かったという。
「そして巡査は彼女の机に広げられたこの遺書を見つけたわけです」
「しっかしねぇ」
「ですがこの内容が、今までの彼女の状況と一致しているんです」
荒木は古澤の怪訝そうな顔を無視して続けた。
「この一家が30年前に一攫千金を目指してブラジルへ渡り、そこで巨額の財産を手に入れたことはご存知ですよね」
「ああ。どっかの成金特集で見たな」
「彼女はそのブラジルで生まれたんですが、親に黙って現地の日系ブラジル人と交際していたようなんです」
「それが親にバレた?」
「いえ、明かしたのは彼女の方で、両親に結婚の許しを請うたそうです。既に許嫁を決めていた両親、特に母親が反対したのですが、彼女には全く諦める気配が無く、頭を冷やさせる意味で無理やり日本に連れ帰ったそうです」
古澤の頭に、数週間前に起きたブラジル発成田行き旅客機の事故のニュースがよぎった。太平洋海上で機体が空中分解を起こし、乗客全員が太平洋に投げ出されるという稀に見る惨事である。
「まさかその男、例のブラジルの飛行機に乗ってたんか?」
荒木は苦虫を齧ったような顔になった。
「ご両親は、そう彼女に告げたそうです。彼は事故で死んだ、だからもう諦めなさい、と」
荒木の口ぶりの意図は容易に想像がついた。
「…嘘か」
「ええ、嘘です」
荒木の顔の陰が濃くなっていく。
「僕が聴取したとき、母親は何も話そうとしませんでした。ところがこの遺書を見せた途端に、何かがポキンとへし折れたように崩れまして、嗚咽交じりに事情を話して下さいました。ごめんなさい、ごめんなさい、って。もうあんな聴取こりごりですよ」
「この仕事じゃよくあることだ。はやく慣れろ」
「すみません」
荒木は感傷的な表情をすぐに潜め、またもとの刑事の顔に戻った。
「それで、その男とやらにも連絡はついたんか」
「いえ。母親の受けた電話の番号はすでに使われてませんでした」
「受けた電話?」
訝しむ古澤に、ああそうか、まだ言ってませんでしたね、と荒木が続けた。
「もともと自分が死んだよう彼女に伝えて欲しいと電話で言ってきたのは彼の方なんですよ。そしてその電話の中で、娘から手を引く条件として高額な金を要求したそうです。もともと奴は金目的で彼女に近づいたみたいですね」
古澤はまた遺書の写真に目を落とした。そこに写る整ったペン字の羅列は美しかった。あまりにも美しすぎた。
* * *
自殺騒ぎの数週間後、彼女の部屋から新しい原稿が見つかった。その内容は以下の通り。
ごめんなさい。
私、騙されていたみたいです。
あなたは死んだと信じ込み、偽りのあなたにそそのかされ、肉体を失ってしまいました。意識だけがぷかぷかとあたりを漂っています。
私は気付きました。この世は、虚偽でいっぱいです。
母はあなたを詐欺師と言いました。それも嘘です。あなたは私なしには生きていけません。絶対に私を見限りません。それが真実です。それだけが真実です。他は何も信じません。
お可哀想に、たった一人で取り残されて、さぞやお辛いことでしょう。さぞや淋しいことでしょう。すべて私のせいです。
だから、いま、迎えに行きます。名前も体もなくなったこの姿のまま、あなたのもとへ向かいます。そしてあなたをその肉体から引き剥がしてあげます。
これでもう、ずっと一緒。あなたと私の二人ぼっちでくるくるくるくる永遠に、誰にも見えない円舞を踊りましょう。そしていつしかあなたは私、私はあなたになるのです。二人は一つになるのです。
きっと、きっと待っていてくださいね?
男の安否は未だ不明である。
遊離