愛すべき病棟の人々 ~吾輩は鬱で入院した~
まえがき
私と同じ年に生まれて、私と同じ年に同じ大学に入り、教養部文科系で同じ語学クラスになった文学部英文科の物静かだったT君。卒論でフォークナーを取り上げてなかなか書けずに、私より一年遅れて大学を卒業した君は、山並県で英語の教員になり、いわゆる教育困難校に赴任してから体調を崩し、養護学校に転勤した後、四十六歳で自らの人生を自らの手で終わらせてしまった。
私と同じ年に生まれて、海山県北部有名高校の、圧倒的に理系男子が多い生徒の中で、女生徒会長をやっていたS子さん。文化祭の準備が間に合わずに遅くなり、先生に「もう遅いから帰れ。」と言われて、「じゃあ、朝早いのはいいんですね。」と言い返し、午前零時に生徒会役員に集合をかけたほどのあなたは、大学卒業後もエネルギッシュに仕事をこなしていたが、五十四歳の時に脳腫瘍がみつかって外科手術を受け、一旦職場復帰したものの、以前のようには仕事ができずに、翌年自らの人生を自ら終わらせてしまった。
私と同じ年に生まれて、私と同じ中学を卒業し、数年後に就職した後、山坂道をタイヤを軋ませながらドライブするのが大好きだったH君。製造職から営業職に移った君は全国を駆けまわり、悪腫が体を蝕んでいるのを知ってか知らずか、入退院を繰り返しながら仕事を続け、四十三キロになった体で、「ズボンを直して明日からまた出勤だ。」とブログに書き残し、ウエストを縮めたズボンを履いて搬送先の病院で五十六歳で急逝してしまった。
人生は儚く、色は即ち是れ空であり、受想行識も亦復如是であるという。しかし、「色即是空」は「空即是色」でもあるそうだ。「コギトー(我思う)、エルゴ(ゆえに)スム(我あり)」などど、我を肯定することができるのは、その人が色の部分しか見てないからだよ、と虚無的なことをいう人もいるだろうが、空も即ち是れ色であるならば、虚無を踏まえた上での、実存する「我」は、虚無感とは別の次元であることはもちろん、現世での「世間の評価」ともまた別の次元で皆が肯定されるべきではないだろうか。
もし彼等が自らの人生が終わりになる前に、ベルトも髭そりもボールペンも携帯電話も取り上げられて、世間と隔絶した長い入院生活を送っていたら、彼等はひょっとしてまだ生きていたかもしれないな、などと思うと、自らの人生の終わりを急がせてしまった彼等の「一途な魂」が、地上を彷徨うことなく天上に穏やかに昇華されることを願わずにはいられない。
妻の決断は固かった
桜月下旬の午後六時前はもう暗くなりはじめていた。アパートの下に呼んだタクシーはほぼ時間通りにやってきた。無言の私は妻に連れられて、急いで詰めた自分の着替えの入ったバッグを持って座席に乗せられた。
「平野市の平野一文字病院までお願いしたいんんですが、場所わかりますか?」と妻は運転手に聞いた。
「あ、大体わかりますよ。平野電機の近くですね。」
「山崎町三の三十二です。」
「山崎町…山崎町ちょっと広いですから…まあ、わかると思いますわ。」
夕方の国道は通勤の車で思いのほか混んでいた。
「どれくらいかかりそうですか?」
「混んでなかったら一時間くらいですけどなあ。」
一時間では着きそうにないほどのノロノロ渋滞である。私は眠るともなくぼんやり目を閉じていた。いつの間にか辺りは暗くなり、対向車線の車の列のヘッドライトが目に眩しい。
「いやあ、私はいつも駅の東に居るのに、何で西側に呼ばれるんやろと思たんですが、平野まで行くんで呼ばれたっちゅうことですんやな。」
渋滞の重苦しい雰囲気を少しでも和まそうとしてか、それともこんな夕方からわざわざ遠くの病院までタクシーを呼ぶ事情を察してか、初老の運転手は聞きもしないのに喋り始め、妻は運転手に愛想よくしようと、時々意味もなく相槌を打つ。
「駅西の者は大方市内ばかり走りますんでな。平野はあんまり知らんと思いますわ。私は県内はもう大体半分くらいはあちこち行って知ってますで…。」
「私もこの仕事かれこれ二十年なりますけど、その前にしとった仕事で…、倒産した会社の整理ですけでどな…、何人も債権者の住所調べて、一軒一軒、家回って全部の人の承諾書を取るのに、だいぶんあちこち行ったことありまして。そのときにだいぶん道を覚えましたわ。」
後ろ姿では六十代半ばに見えるから団塊の世代初期の生まれか、それとも戦中派だろうか。いずれにしても四十代半ばで転職か。自分はもう五十七だしな…
「そのあとちょっと体壊しましてな。ああ、この辺は昔の道とすっかり変わってしまいましたなぁ。」
そのうちに渋滞はなくなり、平野市の近くからタクシーはスピードを上げ始めた。
「山崎町やと確かこのあたりで左に入るはずですけどな。」
運転手も妻も私も、看板がないかと道路脇を探すが、看板は見当たらない。後でわかったが、実は大きな看板があったところを、すでに見落として通り過ぎていたのである。暗くてわからなかったのであろう。夜、暗くなってから初めての病院へ行くことなどそうあることではない。看板に照明などなかったので見落としてしまっていたようだ。
結局周辺をあちこちし、開いている商店を見つけて、運転手は道を聞きに入った。妻と私は店の中の灯りに様子を窺いながら、運転手を待った。
「いやすみませんな。わかりましたで。ちょっと行きすぎてましたわ。」
国道には出ずに何回か右左折を繰り返し、薬局を見つけた。すると、すぐその隣に大きな建物の病院が現れた。タクシーは正面の屋根のついた入口に止まったが、自動ドアは開かない。妻はインターホンを探し、押してしばらくしたら返事があった。運転手は遅れたことを幾分申し訳なさそうに言った。時計は午後八時を少し過ぎていた。
妻はタクシー代をクレジットで払い、夜間受け付けの担当が中から入口を開けてくれるのを待って、病院の中に入った。
「こちらでちょっと書類を書いてお待ちください。」
住所や氏名を書いてしばらく待つと、「こちらへどうぞ」と診察室へ案内された。
医師の診断
診察室の中にはちょっと見まだ若そうな、華奢な感じの白衣の医師がいた。妻が事情を説明する。
「どうもすみません。近くの病院にも二か所電話したんですが、受け入れてもらえなくて。この人が自殺しようとしまして、もう家に置いておくことはできないと思いまして…。」
「どういう事情かご本人から伺えたらお話しいただいていいですか。」
この時の私には自分のその時の状況を適切に話すことは困難だった。それでも、できる範囲で説明しようと試みるがなかなかうまく話せない。
「桜月中旬に、父親がなくなりまして、それで、葬式やらで一週間ほとごたごたした後で職場に戻ったら、年度初めの業務が滞っていまして、どこから手を付けていいか、わからなくなりました。自分の能力が急に低下した気がして、市内の澤山メンタルクリニックを受診したら、鬱だと言われて薬をもらったんですが、薬を飲んだらぼうっとするようになって、しばらく仕事を休むように診断書を書いてもらって、家で数日寝ていました。ぼうっとはするんですが、横になっても眠れずに、テレビを見るのも新聞を読むのも苦痛になって、車にガソリンを入れに行くのも運転するのが怖くなって、食欲もなくなって、もう何もできないと思うようになってきました。」
頭が回らないのでうまく状況が説明できない。妻が補足するが、それもぼうっと聞いている。医師はある程度話を聞くと、
「それで、今でも死にたいと思いますか」と聞いた。ここで「はい」と答えると入院できないだろう。タクシーを呼ぶ前に電話していたのを聞いていると、病院で自殺されると困るので、その点本人の意思をしっかりと確認した上で来てくださいということだった。
「妻に見つかった時点で反省して、もう二度とこんなことはしませんと約束しました。」
「わかりました。では、そのことを私とも約束して約束してもらえますか。鬱は時間をかけて薬を飲み続ければ必ず治りますから、病気を治すんだという気持ちを持って、死のうという行動を起こさないと私とも約束して下さい。」
そう言われて、何で妻と約束したことを、わざわざ初対面の医者とまた約束しなくてはいけないんだという思いが湧いてきた。
「それは、もう妻と約束しましたから、そういうことは、ない…です。」
「それでは私とも約束できますね。」
そんなことは答えたくもないし、自分でもわからないが、はいと答えるしかないだろう。
「…はい。」
ではここに署名をお願いします」。と言って出された「同意書」にはこう書かれていた。
「私は『入院に際してのお知らせ(入院時告知事項)』を了承のうえ、自分の意志で閉鎖病棟である(南一)病棟に入院することにも同意いたします。」
それと共に渡された「入院(医療保護入院)に際してのお知らせ」という、目立つ色の黄色い紙には黒い字で次のように書かれていた。
1 あなたは、精神保健指定医の診察の結果、入院が必要であると認められ、入院されました。
2 あなたの入院は、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第三十三条①第1項の規定による医療保護入院です。
3 …手紙やはがきなど…は制限されません。ただし…異物が同封されている…場合…病院にあずかることがあります。
4 …電話・面会…は制限されませんが、病状に応じて…制限することがあります。
5 …必要な場合には、あなたの行動を制限することがあります。
6 …納得のいかない場合には…下記にお問い合わせください。
海山県健康福祉部 障害福祉室 …
7 病院の治療方針に従って療養に専念して下さい。
閉鎖病棟に入院することになるのかと思ったが、妻のことを考えると、自分が家にいてこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないとも感じた。自分のストレスが妻のストレスにもなり、妻が仕事に行くこともできなくなる。「私が参っちゃうわ!入院してもらいますからね。」と断言した決意は変えられそうにない。
澤山クリニックで処方された薬を確認し、抗鬱剤の量を増やし、精神安定剤や眠剤はそのまま流用することにして、「じゃあ病棟へ案内しましょう。」と言われる頃には午後九時近くになっていた。
「施錠確認!」の病棟へ
結構長い廊下を通って、左に折れると、「南一病棟」と書かれた病棟への入口があった。ドアの外側には番号のついた靴箱があり、後日自分の靴もそこに入れられてしまうことになるのだが、今は他に履物がないので、靴のまま入って行った。病棟に入るとさらに左に折れた所に閉鎖病棟へのドアがあり、ドアノブの横に「施錠確認!」と書かれた目立つ張り紙がある。
そのドアの横に看護師詰所への入口があり、まずそこへ通された。バッグを開けられ、「持ち物に全部名前書いてありますか?」と聞かれた。妻が「一応全部書いてきたと思います。」と答えると、「書いてなかったらこれで書いておいてくださいね。」と妻に名前ペンが渡された。私は「当面必要な着替えを出して下さい。」と言われ、二、三組の下着類を手に持つと、「奥さんにはちょっと説明することがありますので。」と、妻は奥の部屋に連れられて行った。
「じゃあポケットの中身を全部出して下さい。」
財布、家の鍵などを出すと、「じゃあこれは奥さんに預けますから。ベルトも取って下さい。」と言われた。数週間前から食欲もなく、痩せた体はベルトを取るとズボンが緩い。
着替えを持ったまま病室へ案内され、妻とはその日はそれきりになってしまった。詰所の別の出入口、そこにも内側に「施錠確認!」と書かれていたが、そこらから南側に出ると食堂ホールがあり、脇の廊下を突き当たったT字型の廊下の両側に病室があった。右に折れて幾部屋か過ぎた左側の四人部屋に私は案内された。
もう九時を過ぎていたので、廊下の電気は点いていたが部屋の中は薄暗い。左手前のベッドはカーテンが閉ざされていて、誰か寝ているようである。右手前のベッドは脇の棚に服や置時計が置いてあるがカーテンは開いていて誰もいない。
「奥二つ空いてますのでどちらでもいいですよ。」と言われて私は右奥のベッドの棚に着替えを置いた。隣のベッドとの間には間仕切りのように腰くらいまでの棚があり、その上はカーテンが閉められるようになっているが、カーテンが棚に掛からないようになっているので、閉めても顔を近づけると隙間から覗けそうだ。
「もう九時を過んでるんで、寝てください。眠剤は飲みましたか?」
「いえ、今日はまだ飲んでいません。」眠剤どころか、夕食も食べていない。もっとも、食欲もないが…。
「え、じゃあ渡しますのでホールまで来て飲んでください。コップありますか?」
「いえ、バッグの中に入っているんじゃないかと思いますが…」
ホールに戻って看護師は詰所に「鍵を開けて」入っていった。しばらく待っていたが、バッグの中にコップが入っていなかったようで、「ここで飲んでください」と、眠剤と紙コップを渡された。飲むのを確認しないといけないようだ。
私はホールの給茶器横の水道で水を入れ、眠剤を飲んだことを看護師に確認させ、病室に戻り、ジャージに着替えて眠ることにした。
自宅では数日間、昼も夜も床についてはいたが、眠れなかった。唯一眠剤を飲んでしばらくすると数時間は眠ることができたが、それが一日の内での唯一の睡眠であった。
仕事をしていたころの紅梅月までの数ヶ月間は、休日になると午前中に一度昼寝、午後も数時間昼寝というくらいよく寝ていた。平日の帰宅時には車の中で睡魔に襲われて、怖い思いをしたことも何度かあった。
しばらくすると眠剤が効いて数時間眠ったが、ふと目が覚めて、時計を見ると二時である。廊下から「ペタッ・ペタ、ペタッ・ペタ、ペタッ・ペタ……」と歩く足音が聞こえる。廊下の端まで行くと足音は止まり、また引き返す。それが何度も繰り返される。眠れない患者の誰かが歩いているのだろう。多少耳障りだが、わざわざ起きて見に行く気力はない。しばらくすると意識が虚ろになってきた。ここは外界とは隔絶されている。看護師が鍵を開けないと外界からのストレスも入ってこないということだ。そう思うともう一度眠れそうな気がした。そして眠ってしまった。
早朝、「ウエッ・ウエッ、ウエェエ…」という音で目が覚めた。部屋の中の入口左のカーテンの中からである。昨夜は何も気にならなかったが、今はかなりひどそうである。看護師を呼びに行く気力もないのでどうしようと思っていたら、
「金場さぁん、血圧測りましょか、あれ、ちょっと大変そうですね。病院に行って診てもらいましょか?」と、看護師が朝の血圧を計りにきた。金場さんの返事は私には聞こえなかったが、断ったようだ。嗚咽はそのうちおさまっていったが、今度は咳が止まらないようだ。そういえば昨晩は私が来た時には金場さんはもう寝てしまっていたので挨拶もしていない、が、そういう状況ではなさそうだ。しかし、ろくに入院案内も聞いていない私は金場さんの行動を窺いながら一日の日課を確認していこうと思った。
十中八九暗黙のルール
六時五十分ごろ放送が入った。
「朝食が来ましたのホールまで来てください。朝食です。」
金場さんがコップを持って部屋を出ていく。コップがいるのか。私も紙コップを持ってゆっくりと後をついていく。
ホールにはテーブルが六つ置かれている。各テーブルには椅子が六つ置かれているが、左手前のテーブルには二脚分椅子がない。すぐあとでわかったが、そこは車椅子の患者用に椅子が退けられている席であった。他の席は誰がどこに座るか全く決められていない。金場さんは右奥のテーブルの窓に向く側に座った。私は多少でも挨拶めいたことを言っておいたほうがいいいだろうと思って、金場さんと向き合う席に、会釈をしながら座ろうとすると、金場さんは、私にそこに座るなというふうに手で払いのける仕草をする。私はその意味がわからずに驚いたが、金場さんは右手を口の横で「パッ・パッ」と二回広げた。咳が飛ぶから正面に座るのはよせという意味だ。
私は一つ横の席に座り、紙コップをテーブルに置いて食事を待った。患者の多くが集まって空席を埋めていく。二十四席中二十人くらいだろうか。間もなく開放病棟との境のドアの鍵が開けられ、食事の乗ったトレイが四・五段にセットされた、大きなワゴンが入ってきた。患者たちの半数ほどは一斉にワゴンに群がる。私は食欲もあまりないのでしばらく席に座って待っていた。すると看護師が大きな声で名前を呼ぶ。「猫目さあん。」早く取りに来いということだ。名前を呼んでも取りに来ない患者の分はホールの隅の給湯・給茶機横のカウンターのようなところに置かれ、その患者の部屋に看護師が様子を見に行った。
空になったワゴンは素早く開放へのドアの向こうに運ばれ、代わりに食事後のトレイを収納するワゴンがドアの向こうから入れられ、ドアに鍵が掛けられる。
患者は各自でトレイを席まで運び、給茶機で各自のコップにお茶を入れるのだが、なぜかトレイの上にも、ご飯茶碗、おかずの皿二品くらいの他に、お茶を入れるための小さな湯呑みが載っている。食器は全てプラスチックだ。そうして看護師が「お茶入れましょか、お茶入れましょか」とテーブルをまわってアルミ製の大きなヤカンでお茶をつぎにくる。ただしこのお茶は冷めた薄い麦茶だ。給茶機からは一応熱い緑茶が出てくるが、機械の調子によって濃かったり薄かったりする。
そうだ。後で開放病棟に移ってから気付いたことだが、開放病棟にはこの小さな湯呑みがトレイに載っていることはなかった。各自でちゃんと食事前に自分のコップにお茶を入れておけば、こんなものは不要だ。私は自分のコップにお茶が入っているにもかかわらず、この小さな湯呑みに、看護師から機械的にお茶を注がれることが何度もあった。考えてみると、これは食後の薬を飲ませるためのものにもなるから、自分のコップを持ってこない患者がいてもいいように、あえて用意されているのだろう。
食事のおかずは煮物が多かった。私は副食もあまり食べられないが、ご飯が茶碗半分も食べられない。金場さんは時々咳をしながらも食べているようだ。五分もしないうちに完食する患者もいるが、私は十分くらいすると食べるのがいやになってしまう。数日後にはご飯の量を半分にしてもらったり、朝食をパンにしてもらったりするのだが、それでも茶碗を空にすることは退院間際までなかった。
食事が終ると自分でトレイをワゴンに返し、看護師から薬をもらってその場で飲む。「ちゃんと飲みましたよ」というところを見せないといけない。それが終わると波が引くようにほとんどの患者たちは次々と姿を消して病室に戻る。ただ、中にはそうでない人もいる。
「見・学です・か?入・院です・か?」三十前後の髪の長い女性が声を掛けてきた。ちょっと発音が不自由そうだ。歩き方も、股関節が良くないのだろうか、左右の足のバランスがとれていなくて歩きにくそうだ。しかし、その長い髪はきれいに手入れされていて、暖かそうなジャージの上に、ちょっと「可愛らしい」フードのついた長めのガウンを羽織っている。もうそろそろ昼間は暑くなりはじめる季節であるから、フード付きのガウンのこの恰好は、寒い時期からこの病棟に入っている様子を窺わせる。
「昨日、入院しました。」
「挨・拶が遅れ・ました。昨日・挨拶でき・なくて・すみません。よろしく・お願い・します。名前は、何と・いうんですか。」
「猫目です。」
「ねこべ・さん?」
「ね・こ・め、猫の目、キャットのアイです。」
「何・号室です・か?」
「一番奥の、突き当たりの、左の部屋です。」
昨日とはいえ、消灯後なんだから挨拶できるはずはない、とは思いながら、その視線に、普通以上の好意的な感情が私に向けられていると直感してしまった。「見学ですか?」と聞いたのも、他の患者にはみられない「一般人的な」気配を私から察知したからかもしれない。そりゃ一応ごく最近まで「普通」の暮らしをしていた訳だから「普通」の人間の感じがするのだろう。それに、こちらが若干奇異な好奇心を持ってちょっと見つめてしまったのを、向こうが曲解したような気もする。
「これはちょっとまずいことになるかも…。」私がこう思ったのは、『病室での会話は他の患者さんの迷惑になりますので、自分の病室以外の病室には入らないようにしてください。お話はホールでしてください。』と、壁に掲示してあるからである。ひょっとすると部屋までやってくるかもしれないと思うほど彼女は私に身を近づけて話を続けようとする。
会釈で挨拶を切り上げて、部屋に戻って寝ていると、しばらくして、彼女はやっぱり部屋にやってきた。
「猫目・さん、いま・すか?」眠ったふりをしていると、カーテンの隙間からちょっと覗いて帰っていった。
「これはまずい…」別に彼女が嫌いではないが、何度も部屋に来て話し込んだり、もし「親密な関係」にでもなったと看護師に思われてしまっては、自分の治療どころではない。それ以来、廊下で逢っても彼女からの視線はなるべく逸らすように、食事のテーブルもなるべく彼女の視線に入らない場所に座るようにした。
視線をなるべく合わさないようにするべきであるというのは、他の患者に対しても当てはまることがわかった。限られたL字型の廊下の範囲を動物園の檻の中の熊のように行ったり来たりしている人が何人もいるが、進行方向が重なりそうになると、相手と目をあわさずに避けるというのが暗黙のルールになっているようだ。相手と目を合わせてしまうと、会釈やら、会話やらの人間関係が発生してしまう。それがもし悪い方向に進むと、どちらかがあるいは両方ともが、「保護室」に何日か入れられてしまうことにもなりかねない。実際そういう場面を見た事のある患者は少なくないので、無言と視線そらしがおおよその暗黙のルールになっているのだろう。
鬱は一日にして成らず
食欲もないが、食べること以外にも一切何もしたくない。テレビを見るのも新聞を読むのも苦痛だ。ベッドの上でゴロゴロしているだけだ。家にいる時は横になっていることすら苦痛だった。何をするのも苦痛、何もしなくても苦痛、つまり生きていることが苦痛だから生きていることを終わらせようとしたのだった。ただ、こうして外界とは完全に隔離された病室で寝ていると、ベルトも紐も尖ったものもないから、死ぬことすらできない。もっとも、「もう絶対しません」と妻に宣言して許しを乞おうとしたわけだから、もう二度度そんなまねをするわけにはいかない。今後何があろうと起ころうと、例え死んでも、死ぬわけにはいかない…。あれ?俺何考えているんだろう。なんでこんなになってしまったんだろう…。
桜月の配置転換で、それまでの渉外部から業務部に部署が変わった。渉外部にいた時は製品の出荷先の開拓、受注、納品予定のとりつけ等、来客もあり、名刺を年間二百枚ほど使う。一日のうち数時間は現場にも出向く。昼休みに来客や電話があることもあるので、誰かが対応しなくてはならない。時間的なゆとりは少なく、帰宅時車を運転中に睡魔に襲われることもあったが、それなりにそこそこ仕事はこなしているつもりだった。
ところが、変わった業務部で、いきなり難題に突き当たった。業務部で製品の評価票作成係になり、退職した前任者がパールというプログラム言語で作ったPCのプログラムを引き継ぐことになったのだが、これが難解すぎた。もともと自分は三十年前から、ベーシック、アセンブラ、パスカル、C等の言語ででいろいろとプログラムを作ったことがあって、ウェブページを動かす仕組みであるCGIというプログラムもパールで作ったことがあるので、年度のデータぐらいを書き変えたら動くだろうと思っていたのが甘かった。
どのデータをどう変えればよいかという詳細なマニュアルもなければ、どのフォルダにどういうプログラムがあるという簡素な説明も、あるにはあったが、それは数年前に書かれたもので、現状のものとは仕組みが違っている。さらに、昨年度他の部署の従業員が変更した仕様に対応した部分については、口頭でその部分を変更した旨伝えられたが、今年度はその変更部分にどう対処したらよいかは全くやり方がわからない。一から自分でやるのは富士山の麓から歩いて頂上まで登るようなものだ。
困った。桜月二日から連日一日中PCと対峙して、なんとか読解・変更・適応させようとしていたが、数日後、ふとトイレに行くために廊下から窓の外の空を見ると、青い空が一部分白く見える。左目の視野の一部が欠けていたのである。「疲労か。」しかしここで放り出すわけにはいかない。自分にも三十年PCを使ってきたプライドがある。しかし、なんとか早く仕上げようとあせればあせるほど、逆に効率は落ちてしまう。
そんな時、父親が死んだ。土曜日の午前中、熱があるようだから様子を見に来てくれと、数日前から雇った家政婦から電話をもらって行ってみると、いつものように寝たきりで、話しかけても返事もない。土曜日で病院も午前中で終わるので、少し様子を見ようかといったん帰ると、午後また電話があった。熱も高いし意識も薄いので、緊急だが病院に電話してほしいという。病院と介護タクシーに電話し、病院に着いたのは結局午後三時過ぎであったが、その時の父親の顔にはもう生気はほとんどなかった。
かかりつけの医師が来て、「まあ、いずれはこうなるのは仕方なかったですな。」と告げた。動脈瘤が破裂したのである。動脈瘤があるのはもう何年も前からわかっていたが、高齢のため手術をするのがためらわれた。何より本人が以前から拒否していた。死の確認までの時間は長く感じる。その間に姉や弟夫妻がやってきた。
それから後ははっきりと思い出せないほど目まぐるしく、疲れた。葬儀社、市役所、火葬場…事故も起こさず、車に傷もつけずに過ごせたのが不思議なくらいである。血圧を測ったら百八十を超えていた。
父親が寝たきりになったのはもう何年も前である。突然ではなく、「寝とるほうが楽やぁ。」と言いながら、起きている時間がだんだん短くなっていった。朝寝して、起きて、朝食を食べて、煙草を吸って、寝て、起きて、トイレ、寝る、煙草、寝る、昼食、煙草、寝る、コーヒー、煙草、寝る、酒・夕食、煙草、風呂、煙草、寝る、という、飲食と煙草とトイレ以外は寝るという生活になっていった。世話をするのはこれも年老いた母親である。寝てばかりいると筋肉が弱る。風呂に介助が必要になり、要介護の認定を受け、風呂は数日に一度昼間に入るようになった。トイレまで行くのも不自由になり、部屋にポータブルトイレを置くようにもなった。さすがにこのころには煙草を吸いに起きるのもおっくうになっていたようだが、酒は飲んでいた。母親も、晩酌がないと本人が怒るものだと思って毎晩酒を用意していた。
死の三週間ほど前、真夜中に電話が鳴った。搬送中の救急車からであった。父親が夜、ポータブルトイレからベッドに移る際転倒し、出血が止まらないので、母親が救急車を呼んだそうだ。運ばれたのはかかりつけではない病院だった。処置室に呼ばれると、左腕に止血のためのギプスのような包帯が巻かれていた。「ワルファリン(血栓防止のための抗凝固剤、出血すると血が止まりにくくなる)飲んでますか?」と、処置医に聞かれ、飲んでますと答えると、「数日後にまた様子を見ますので来てください。」と言われた。
通院指定日に午後職場を早退して病院に連れて行こうと思っていたら、その日の早朝、母親から電話があった。「夕べ包帯を換えたら血が止まらんでいっぺん見に来て。」母親は、数日経ったら包帯は換えるものだと思い込んでいて、ギプスのような包帯を剥がしてしまっていた。ベッドの周囲には血が散らばり、父親の左手はぱんぱんに脹れている。ぞっとした。
急遽職場を休んで病院に運んだら、案の定、入院を勧められた。母親が自力で病院まで行って世話をするのは困難なので、家政婦を雇って付き添いをしてもらう。一週間ほどで退院できるそうだが、その後が問題だ。母親が自宅で面倒をみるのはもう限界だ。老人保健施設にでも入所できないかと病院の担当者に相談し、申込準備を始めるとともに、すぐには入所できないので、それまでの「つなぎ」にショートステイ先を紹介してもらう。
退院日は介護タクシーを使って、病院から直接ショートステイ先まで車椅子で搬送してもらった。しかし、ショートステイに置いてもらえるのもせいぜい一週間が限度である。それまでになんとか入所先を探さないと、また自宅に戻ることになってしまう。
ショートステイに入って二日目の深夜、電話が鳴った。排便ができず苦しいというので、今から病院に搬送するが、かかりつけの病院でいいですかということであった。了解してすぐに病院に向かう。処置室で処置してもらうと、便が出た。担当者にお礼を言って、またショートステイ先に連れて行ってもらった。しかし、ショートステイ先ではどうも馴染めずに、いろいろと手を焼かせていたようだ。ショートステイ四日目に電話がかかり、ここでは対処しきれないので、明日退去してもらうことにしたので自宅まで送ってくるという。しかたがないが受け入れざるを得ないので、また家政婦を雇うことにする。老保はすぐには空きがないし、空きがあったとしても、審査や手続きの時間が必要だ。
このころ、自分の体調もおかしくなっていた。階段を降りる時、ふらついてこけそうになる。右足先がしびれ、椅子から立ち上がる時によろける。ズボンを履く時に片足を挙げるとバランスがとれない。これらの症状は八ヶ月前に脳腫瘍の手術を受ける前には感じたことはあったが、手術後はよくなっていたはずの症状である。脳腫瘍が再発したのだろうか。いや、再発防止のために、一ケ月前にガンマナイフ治療をしたのだから、再発するのはおかしい。
八ヶ月前の開頭手術は、そのまえのシャント(水頭症治療のため、頭から腹部まで皮膚の下にパイプを通す)手術も含めて、一ケ月以上入院したが、ガンマナイフは三日間の入院で済んだ。実質の手術(放射治療)は一時間もないくらいである。開頭手術をした時は十二時間くらいかかったそうだ。その頭開手術で取りきれなかった部分(神経と接している部分)に放射線をピンポイントで当てて腫瘍が大きくなるのを防ぐのがガンマナイフ手術である。
開頭手術の後は数ケ月で職場復帰し、順調に回復していったと思っていただけに、この時の症状には不安を覚えた。そんな状況の中で父親が死に、仕事で息詰まり、自分の能力の低下を強く感じるようになっていった。開頭手術をした脳外科を受診して病状を訴えたが、「それは心の病気だから心療内科やメンタルクリニックで診てもらったほうがいいですね。」と言われ、澤山メンタルクリニックを受診したのである。
抗鬱剤や精神安定剤、眠剤は飲むと眠くなる。薬が切れると不安が蘇る。いずれにしても車を運転するのも怖くなり、薬に慣れると飲んでも効き目がだんだん弱くなっていき、起きていることも眠ることもできず、何もできずに存在している自分に耐えられなくなってしまったのである。
プライドと自尊心
渉外部から業務部に変わったのは、実は自分でそのような希望を所長に伝えたからでもあった。渉外部での仕事は時間に追われるものではあったが、耐えられないほどでもなかったので、自分としては現状の部署でもよかったのだが、業務部で製品の評価票作成係が定年を迎えることで、誰かが後を引き継がねばららないということが前からわかっていた。
わかってはいたが、その後を継ぐ希望者が誰もいないということもわかっていた。紅梅月に入って、他の所からこの所に有能な人材が転入してくることもないということも明確になった。そうなると誰かに白羽の矢が当てられる。矢が当たってから準備を始めるのでは遅すぎるので、当てられる前に、前任者がいるうちに、何とか引き継いで対処しておこうと思って希望したのである。
自分にはキャリアも能力もあるからなんとかできるだろうという自負心もあった。少なくとも他の所員よりは自分の方が適役だ。所長もそう思って業務部への転属を決めたようだ。
しかし、紅梅月半ばからの父親のごたごたもあり、前任者とのコミュニケーションを含めた引き継ぎがうまくいかなかったこともあって、不安なまま桜月になったら案の定、先が見えない状態に陥ってしまった。
何年も前、以前いた所で「業務改善のプログラムを作るから処理能力の高いPCを買ってくれ。」と所長に申し出たことがあった。その時のそこの所長の返事はこうだった。
「百%できるんだったら購入してもいいが、できるかどうかわからないんだったら、そんなもの買う訳にはいかない。」
プログラムは作ってみて実際動かしてみないと、うまく動くかどうかわからない。あるプログラムを作って、数回実験して動いたので実際に稼働させたら、月末でアクセスが集中した時にフリーズして動かなくなってしまった、ということもそれ以前にあったことがそのとき頭に浮かんだ。
百%できますと言うことは不可能だ。しかしそう言わないと現状は変わらない。「百%絶対やりますから、買ってください。」と言ったその時の自分の後味の悪さとストレスの重圧感は、例えようがない。
失敗したら自己責任である。これまではななんとかうまくやってきたが、今回はどうしようもない。お手上げだ。
しかし自分には能力がないと認めたくはない。昔の高校の教科書だっただろうか、中国の昔話で虎になった男の小説。当時は何の事だか内容などよく聞いていなかったが、犬になった「おとーさん」で、その小説を思いだした。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のために発狂した男の話である。
プライドや自尊心を持つのなら、それに見合った完璧な実力がないと人間失格だ。しゃべるだけの犬で暮らしていけるのなら、「私は犬になりたい」と思った。
ああ、もう、どうしたらいいんだという呻き
四人部屋の入口右側の、荷物はあるが人がいなかったベッドに患者が戻ってきた。スポーツ刈りの、見たところ高校生くらいの若者である。私を見ると丁寧に挨拶しにきた。
「僕、草野といいます。よろしくおねがいします。頭が悪いので時々おかしなことを言いますが、すみません。お名前はなんとおっしゃるんですか?」
「猫目と言います。草野さんがいないときに入院しましたが、外泊か何かしてらしたんですか?」
草野君はそれには答えなかった。目が少し虚ろになった。
「ちょっと疲れたので失礼します。」と言って、間仕切りのカーテンを閉めた。
きちんと挨拶のできる、礼儀をわきまえた若者であると思ったが、しばらくすると、唸りとも、叫びともとれないような、誰かに怒りをぶつけるような、意味不明の言葉が聞こえてきた。
「あー!もおお!何で??が??なんだ!??は、??じゃないかあ!」
何だ、これは。先程の礼儀正しい若者と同一人物とは思えない。しかし声が聞こえるのは明らかに隣のベッドからだ。枕をたたく音もする。カーテンの隙間からそっと様子を覗くと、彼はうつ伏せになって、意識が虚ろな状態のようである。自分で自分を肯定できない悲惨な状態が病院でも続いているのか。そういう自分も自宅では似たような状況だった。何もかも放り出して入院して、かろうじて自分を保つことが今できていると言っていいかもしれない。
そういえば、咳がひどい金場さんも、髪がかなり伸びてはいるが、もとは身だしなみの良い初老の紳士だったという雰囲気である。咳がひどいのは、喉に何かが巻きついていたことがあったからではないかと想像したりもする。金場さんが看護師以外の他の患者と会話しているのは一度も見たことがなかったが、いずれにしても金場さんも、これまでの人生を全て放り出して、世間と隔絶することで、ここで今生きていられるのではないだろうか。
そう思うと草野君は気の毒である。ここから出たい、こんなところには居たくない、しかし出してくれない。ストレスは一層たまる。私が入院した日にベッドにいなかったのも、「保護室」(廊下の反対側の突き当たりのもう一つ奥の部屋、大声を出しても外に聞こえないようになっている)に行っていたのだったようだ。何日か後で、「あんまりいうこと聞かへんと、また保護室行かないかんよ。」と看護師が話しかけているのを聞いたからである。「独房」のようなものだ。廊下を歩くことすらできない。
金網の中の日光浴
「天気がいいので中庭を開放します。コーヒーと紅茶も出しますので、コップを持って中庭に出てください。」
躑躅月初旬、屋内ではまだ長袖の季節だが、鍵が開けられた中庭へのドアから外へ出ると、陽の光が眩しい。中庭は三方が金網に囲まれて、一辺が歩いて二十歩ほどの広さの芝生であるが、手入れされずに所々禿げている。金網の傍に並べられたプランターには数種類の花が咲いているが、これもあまり手入れされている様子はなく、雑草が混じっている。
「テーブルをここへ並べてその周りに椅子を置いて下さい。」
雨が降った時に軒下に移動させたのであろう、テーブルを日陰から数人の患者と看護師が一緒になって運び、その周りに椅子を並べた。元気な患者もいれば、足の悪い患者もいる。足の悪い患者は椅子をずりずりと引っ張って移動させようとしていた。彼女だ。恩着せがましくならないように、好意的と思われないように、目を合わせずに手伝って椅子を並べた。何もせずに立っている患者もいる。
男女合わせて十人ほどがテーブルの周りの椅子に座った。金場さんや草野君は来ていない。看護師がやかんを二つ持ってきたが、食事の時にお茶を注ぐやかんだ。
「こっちがコーヒーで、こっちが紅茶ね。どっちがええ。自分で注げる人は自分で注いでね。」
やかんが空くのを待ってコーヒーをコップに注いだ。薄い・ぬるい・まずい。香りも何もない。数日後に「おやつ買い」で買った院内の売店の缶コーヒーを飲んだ時になんと美味しく感じたことか。コップに入れた分をなんとか飲んでいると、患者たち男女数人づつと看護師二人は親しげに話をしている。
「こんなええ天気やとどっか旅行でも行きたいわ。」
「どっかええとこある?」
「わたしなぁ、ハワイ行ったことあるんやで。」
「ハワイ、ええなぁ。私なんか外国も、飛行機も一遍も乗ったことあらへんで。」
「ハワイはええけど飛行機はあかん。背中は痛なるし、落ちたらどうしょうと思うと恐いし、もう途中で降ろしてもろて休みたかったわ。」
「寅えもんの『どこでもトランク』でもあったらええのになぁ。」
「退院したら温泉でも行きたいなぁ。看護婦さん、どっかええ温泉に連れてって…」
「ええっ…、ここにおる間は私らも世話するけど、退院したら自分で行ってもらわんとなぁ……。私らも交替やで、なかなかまとまった休みて、とれへんのやで…。」
看護師を交えてこんな風に会話ができる患者もいるのか。しかし、
それを持てばいつでもどこにでも、好きなところにすぐにふらっと行けるという『どこでもトランク』がもしあったなら、私はすぐにこの金網の外に出たい。左目で青空を見ると相変わらず一部分が白く見える。最近は新聞や掲示物も見づらくなってきた。血行不良だろうか。日光浴もしたほうがいいのだろうが、十分もいると陽射しで暑くなってくる。半袖は下着くらいしかないので病室に戻ることにした。
肩がガッチガチやで
病室に戻るとベッドで横になるほかない。かといって眠れるわけでもない。金場さんは咳をし、草野君は時々意味のわからない言葉を発する。食欲はなく、食べる量は少ないが、寝てばかりだと筋肉が弱るので、L字型の廊下を行ったり来たり歩くことにした。数人患者が言葉も交わさずに、黙々と、お互いに接触しないように行ったり来たりしている。時折看護師や医師、作業療法士、看護助手がそれぞれ担当の患者の様子を見に廊下を通る。一人の作業療法士が私に声をかけてきた。
「運動ですか?」
「血行不良にならんように歩いてます。」
「どっか具合が悪いとことか、あるんですか。」
「左目が見にくいし、左の首から肩にかけて何か動かしにくいっちゅうか、凝ってますわ。」
「どれ、ちょっとみてみましょか。」作業療法士は私の首・肩を触って揉んでくれた。
「わっ、ガッチガチやで、右は?あっ右もガッチガチや。腕全体を大きくこうやって動かしてみて。そう、それ毎日やったらようなるわ。開放の病棟OTやったら週一回リラックス体操もやっとるで、開放に行ったらそれやってもらうとええんやけどな。」
「病棟OTて何ですか?」
「病棟ごとの作業療法ていうて、ここでも塗り絵とかクロスワードパズルとか、間違い探しとかやるでしょう。病棟ごとにいろいろあるんですよ。」
塗り絵とかクロスワードパズルとかは今は全くやる気がない。しかし言われたように歩きながら肩を大きく回してみる。数回では効果など全く分からないが、やらないよりましだろう。そういえば、PCでマウスやキーボードを操作する時は、両手を前に出したままで、肩はできるだけ動かさずに腕先だけ動かして操作していた。肩を動かすと、手先がぶれるからである。そいういうこともあって肩が固まってしまう姿勢が身についてしまったのだろうか。
他の患者たちの歩き方はどうなんだろうと観察してみると、大きく手を振って歩く人もいるが、概ね上半身の動きが少ない。草野君が歩いているのを見ると、首と腕を前に少し突き出して、肩や手を全く動かさずに、下半身だけで歩いている。どっかでみたような歩き方…、そう、映画で見た「ゾンビ歩き」に似ている。自分も他人から見るとこんな歩き方をしていたのだろうか。
意識的に腕・肩を大きく振りながら何回もL字廊下を往復していると、草野君も上半身を動かして運動らしいことをしながら歩き始めた。それとなく観察しながらこちらも歩いていると、草野君は二・三分で廊下の端にへたり込んでしまい、しばらく動かなかったが、やがて病室のベッドへ戻って行った。
医師の診察
週一度程担当医師の診察がある。最初は何も言う気もせずに、ただ、「はい。」「はい。」と言うだけであった。答えたくない、答えられないと「はい」とすらも言えない。
しかし、医師だけが唯一話を聞いてもらえる相手である。看護師も対応はしてくれるが、毎日交替で何人もの患者に応対しなくてはならないので、一人の患者だけにかかわることはできない。そういう状況は医師でも同じだが、患者に何かあった時に責任を取らなくてはいけないのはまず医師であるから、そのために患者の状態を把握しておこうと、毎回のように同じような質問をする。
毎回おなじような「答えにくい」ことを聞かれると、だんだんといやになってくる。
「気分はどうですか。」「やる気は出てきましたか。」「不安はどれくらいですか。」「夜は眠れますか。」
どれくらいですかと聞かれても、自分でもわからないから、返答もだんだんぞんざいになって、つい反抗的な言葉を発してしまうこともある。
しかし、考えようにもよるが、「怒り」は「エネルギー」を必要とする。エネルギーがないと怒れない。怒る必要があるとエネルギーがどこからか生み出され、それがまた精神を高揚させるのかもしれない。しかし、その「怒り」のエネルギーを自分でうまくコントロールすることは難しい。
「その質問は前にもしたでしょう。答えも前と同じですよ。何回同じこと聞くんですか!」と思わず怒鳴りそうになって、まずいと思い、視線をそらしてうつむいた。
「おやつ買い」の日
火曜と金曜は「おやつ買い」の日である。
「九時半からおやつ買いに行きます。行く人はホールに来てください。」
食欲がないので食べるものを買う気はないが、病棟の外に出られる唯一の機会である。行くことにした。ホールには十人以上が集まっている。
「はい、名前言うた人はこっち側に来て。はい、誰々さん、誰々さん……」
名前を確認して伝票を書いていく。患者は現金を持っていないので、買ったものは「預り金」から払うという仕組みだ。後で知ったがこの「預り金」の管理料は一日百二十円だった。週のうち二日しか使う機会はないが、管理料は毎日取られるのである。
全員分の伝票を書き終えると、病棟出口のドアの前で人数を確認し、先頭・中程・後尾、三名の看護師の誘導で病棟の外に出る。病棟に入った時は夜だったので辺りの様子はあまり覚えていない。途中に院内の案内図があったので立ち止まって見ていたら、歩行を促された。看護師に不審な行動と思われてはいけないので慌てて歩く。
売店は病棟出入口からたかだか二百歩くらいのところであるが、普段はL字型の廊下しか歩いていないので、今窓から見える光景や行き交う他病棟や外来の患者すら物珍しく見える。人間というものはこんなに情報を得たがるものだったんだろうか。テレビや新聞は見たくもないんだが…。
「ぱんてす(全ての)あんとろーぽい(人間どもは)とぅ・えいでない(見る=知る・ことを)おれごんたい(欲する)ぴゅせい(本性的に)」と言った人は「アリスとテレース」という。一人だか二人だかよくわからないような名前の人だ。一人だとしても、背後にソークラテースとかプラトーンという人が隠れているような気もする。そういえば「プフィのアミ・ユミ」だって、二人だと思っていたら、実はアミの妹のマミがいたことを十五年も隠していたそうだ。だからハモらないでユニゾンでしか歌わないのか。
しかし、大昔の「見る・知る」の意味する所には、現代のマスメディアやICTからの情報などは全く含まれていなかったんだろうし、そういう手段で情報を手にすることなど考えもしなかっただろうな、などと、自分でも訳のわからないことを考えているうちに売店に着いた。
何も買う気はなかったのだが、皆何かを買っているので、たまたま手に取った缶コーヒーでも買おう。ネジのキャップがついているのなら飲み残してもまた後で飲める。「メリーズ・アイス・ブランド」と書かれた缶コーヒーを持ってレジに向かう。看護師が私の伝票を店員に渡す。店員は品名と値段を書いて看護師に伝票を戻す。
「それじゃ戻りますよ。」
看護師の声で皆またぞろぞろと病棟に戻る。と、その時売店の廊下の向こう側の自販機の横に、「誰か」というより「何か」が足を投げ出して壁を背に座っているのが目に入った。「何か」というのは失礼な話であるが、それくらい異様に太っている。自然な太りかたではなく、マディ・エィフィーが演じた映画の教授のように、あたかも特殊メイクで太っているように見せている、そんな太りかたである。頭を刈り上げているので男かと思ったが、胸をよく見ると女のようだ。まだ若そうで二十代に見えるが、大きく見開いたどんぐり眼に妙な目ヂカラがある。
後で開放に移ってから、売店の前を通るたびに姿を見かけたが、退院するまで名前を聞くことはなかったので、仮に「おゴッテ姉ちゃん」とでもしておこう。後でわかったが、おごって姉ちゃんは売店の前で、金を持っていそうな患者を見つけると「何かおごって、百円でええわ、百円。おごって。」と、迫ってくるのである。現金を持っていない閉鎖の患者には何も言わない。もっとも、閉鎖の患者は集団で看護師が付き添ってやってくるので、何も言わずに床に座り込んでいる。
帰りも前後に看護師が付いて、病棟に戻る。ホールには大きなポリバケツが用意されていて、それぞれ「燃えるもの」「ペットボトル」「ビン・カン」と書かれている。
「買ってきたものはここで食べてくださいね。部屋には持ち込まないように。ごみは分別して入れてください。」
饅頭、パン、ジュース…、銘々黙々と食べている。カップラーメンを食べている患者もいる。皆食べるのが早い。私はコーヒーをゆっくり飲もうとしたが、たちまち皆に取り残されてしまった。しかし、このコーヒーは美味しい。くどくなく、少しだけ甘く、コクが深い。中庭でのやかんのコーヒーとは比べようもない。これ以来、私は「おやつ買い」に行く時は「アイス・ブランド」を買うようになった。
沢北さんとタバコ
この病棟は結構出入りや移動が激しい。一人部屋が二部屋、二人部屋が二部屋、男性用四人部屋が三部屋、女性用四人部屋が二部屋あるのだが、二人部屋に男女を混ぜる訳には行かないので、それまで女性二人だった部屋が一人になった場合、その一人を空きのある女性の四人部屋に移し、そこに男性を入れる場合もある。私が入院した翌朝に挨拶してきた髪の長い女性は二人部屋にいて、一週間ほどで突然退院していった。同室の老婆は女性四人部屋に移され、男性一人がその二人部屋に入った。
どんな患者だろうと部屋の様子を覗くと、少なくない荷物がすでに部屋に置かれている。私のように突然入院してきた患者は最初は荷物が少ないのだが、この患者はそうではないようだ。どこか他の病棟から移されてきたのだろうか。しかも、もともといた患者を他へ移してまで個室待遇にしているのはどういう訳があるのだろうと思っていると、本人が看護師と一緒に廊下を歩いてくるのが見えた。
「沢北さん、ここ、一二四号室ですからね。一二四。」
看護師が念を入れるところをみると、ちょっと手強い患者なのだろう。野球帽を被り、短髪で、目つきが鋭い。年は四十代半ばくらいだろうか。沢北さんは部屋に入ると帽子を置いてベッドに横になった。私が二・三分廊下を往復していると、沢北さんは突然部屋から出て、隣の男子四人部屋につかつかっと入って辺りを物色するように見回す。そうしてその部屋を出て、今度は廊下の反対側の男子四人部屋(私の部屋だ)に入ってつかつかと窓際まで行く。何か取られてはまずい。廊下から様子を見る。辺りを見回して廊下に出てきた。私に目もくれず看護師詰所に向かい、窓をコンコンたたき、
「タバコくれタバコ」と窓越しに看護師に言った。
なんだ煙草が欲しかったのか。しかし他の患者が部屋で煙草を吸っている訳がないだろう。開放なら自分で持つことは可能だが、部屋で吸うことは厳禁だ。灰皿もないし、匂いでばれてしまう。
沢北さんは煙草を一本もらって喫煙室に入った。ここの患者の喫煙率は非常に高い。喫煙室には既に女性が二人入っていた。浜北さんはさっそくそのうちの四十代の女性と会話を始めた。以前から顔見知りのようだ。
浜北さんは大声なので廊下まで漏れ聞こえてくる。内容はあまりよくわかないが、病院に対する不満のようだ。そこへ看護師が入って行った。どうなるのかと思ったが、今度は看護師と談笑している。通り過ぎるふりをしてちらと窓から喫煙室の中を覗いてみると、看護師も煙草を吸っている。病棟の壁に貼ってある健康増進法のポスター『病院内は全面禁煙になりました。喫煙は屋外に設けられた喫煙所でお願いします』は、一体何なんだ!
私の職場も数年前から全面禁煙になり、それまであった喫煙所はタバコの匂いが染みついた物置部屋に変わってしまった。勤務時間中は煙草が吸えなくなったのである。やむを得ず通勤途中のコンビニで立ったまま吸っていたが、煙草は急いで吸うものではない。椅子があって、灰皿があって、時々灰皿に煙草を乗せて、ゆっくりと吸うべきものである。煙草を持ったまま吸っていると指に煙草の匂いがついて、気持ちのいいものではない。
勤務時間中に煙草が吸えるなんて、なんという職場なんだろう、しかも病院、しかも看護師。しかも、一ケ月閉鎖にいたが、吸っていた職員は少なくとも二人や三人じゃなかった。
四人部屋満室になる
浜北さんの部屋は二人部屋で、もう一人分は空いているのだが、同室に他の患者を入れるとよくないという配慮なのだろう、数日後、自分のいる部屋に新しい患者が入って、四つともベッドが埋まってしまった。三十代で体格のよさそうな園丸さんは、荷物なしで、数枚の書類を手に持ってやってきた。黄色い紙である。私と同じ「医療保護入院」だ。青い紙だと「任意入院」なのだが…。
礼儀正しい草野君が早速挨拶に行く。
「草野といいます。宜しくお願いします。お名前何というんですか。」
「本名は園丸ですが、ちふると呼ばれてます。名前は覚えられやんのでここへ書いてください。」と、草野君に紙の裏に「草野」と書いてもらっている。あ、鉛筆を持っている。ボールペンは取り上げられたが、鉛筆はいいんだろうか。自分も「猫目です。ね・こ・め」と言いながら紙の裏に名前を書きながら鉛筆を見ると、根元に「南第一」と書かれている。この鉛筆、詰所からどうやって持ちだしたんだ。
「友達が三人おったけど、俺だけ離されてしもたわ。」
詳しくはわからないが、資材倉庫に共謀して忍び込み、拘置所に入れられた時に、足の爪を自分で剥ぐなどの自傷行為があったようだ。足の指先が包帯でぐるぐる巻きになっていて、使い古しのような大きな室内履きを履いている。
詳しいことは聞かないほうが気が楽だ。草野君もそんな話に興味はないらしく、それぞれベッドに戻って横になった。金場さんは相変わらずカーテンを閉めたまま、時々咳をしている。もともと他人と話したくないし、咳をしている自分を見られるのも嫌なんだろう。いや、咳をしている自分を見られるのが嫌だから他人と話をしようとしないのかもしれない…。
しばらくすると園丸さんがいびきをかきかじめた。「グウォヲヲヲォヲォヲォ………」、「グウォヲヲヲォヲォヲォ………」これはたまらん。もし夜中にこんないびきをかかれたら、たまったものではない。
悪い予想は見事に的中し、その夜も私が眠剤を飲んで眠気が来る前にいびきが始まってしまった。眠剤を飲んでも眠れないなんて…
看護師に相談しようかと思ったが、二部屋しかない個室は既に入っている人がいる。二人部屋で空いているのは浜北さんの部屋だけだ。下手なことを言って浜北さんと同じ部屋になるよりは、まだ園丸さんのいびきを我慢するほうがよさそうだ。園丸さんは昼間調子がいいと、楽しそうに歌詞不明の歌を歌ったりもする。草野君にはその歌も苦痛のようだが…。
風呂は月木
風呂には週二回しか入れない。月曜と木曜の午後一時からである。男女交替で、どちらが先かは週変わりだ。洗い場が六つしかないので先着順六人ごとに入れ替わりで、遅れると次の六人まで待たなければならない。風呂場は一階の開放側にあるので、看護師はその都度鍵を開け閉めして患者を誘導する。複数の看護師が付くのだが、患者の誘導に手一杯で、患者の入浴指導までは手が回らない。いつも体を洗っていない人は、服を脱ぐと体臭とも加齢臭ともつかないような匂いが辺りに漂う。脱いだ服を着替えずにまたそのままま着てしまう人もいる。病院洗濯の契約をしている人は、脱いだものを大きなポリバケツに入れておくと、洗濯したものを看護助手がベッドまで届けてくれる。自分で着替えが計画できない人は名前のついたゴムひもで止めた着替えのセットを用意してくれるが、洗濯代は月六千円程である。
看護師は時々風呂場の戸を開けて洗い場をみるのだが、事故がないかどうかに気をつけいるようで、患者の洗い方や風呂の使い方までは関知しない。園丸さんは体を洗わずにいきなり浴槽に入って頭まで浸かる。そのせいか、金場さんは私が来た頃は体を洗ってから浴槽に浸かっていたが、最近は体を洗っても浴槽に浸からずに、風呂から出てしまう。人との接触を避けたがる金場さんだから全く何も言わないが、内心快く思ってないのだろう。私はというと、もともと動作が遅いので、体や頭を洗っているうちに取り残されてしまい、せかされるようにシャワーして出ることが多かった。
しかし、昼間に風呂に入るというのは、最初は違和感があったが、数日に一度しか入れないこともあってか、風呂から出た後は実に体がさっぱりした感じがして、横になるとつい寝てしまう。眠剤がなくても眠れる。起きると「もう夕食か」ということもあった。その分、夜中に起きてしまうこともあったが…。
東屋での「おやつ」
ある「おやつ買い」の日、「今日は気候もいいし、いい天気だから買ったおやつを外で食べましょう。」と看護師が言い出した。
数日前に隣の四人部屋に青い紙を持って任意入院してきた南村さんは、三十代で丸い眼鏡をかけて積極的に看護師によくしゃべりかける人だが、「まだ預り金の口座を作っていないので、おやつは買えないが、外には出たい。」というと、看護師は「ほんならこれあげるわ。」
と言って牛乳パックを持ってきた。
「あげるわ」って、その牛乳は朝食に付いていた牛乳じゃないか。食事が済んだあとのトレイが載ったワゴンはそのまま厨房に引き上げられると思っていたが、牛乳に手をつけずにそのまま残す人もいる。それを看護師が自分のものにしていたとは…。
もったいないからと言えばその通りだが、残した患者に了解もなしに貰っておいても構わないという考えに、ちょっとムカッときた。
しかしことを荒立ててはいけない。看護師に悪印象を与えてはいけない。自重して、ぞろぞろと歩く集団について売店でいつもの缶コーヒーを買い、ぞろぞろとついていくと、看護師は途中のドアの鍵を開け(ということは鍵の種類は一種類でその鍵でどこでも開くんだな…)、北病棟の東側の広い中庭に患者たちを連れだした。
中庭の中央には東屋があり、中央にテーブル、周囲に長椅子が備え付けられている。患者たちはテーブルに菓子やジュースを置いて食べたり飲んだりしはじめる。椅子に座れない患者は地面に腰を下ろして陽を浴びながら食べ始める。私は陽が眩しくて建物の陰で立ったまま「アイス・ブランド」を飲み始めた。
浜北さんは相変わらず食べるのが早い。食べ終わると顔見知りの四十代の女性に「タバコ持ってへんか、タバコ。」と煙草をせびった。女性は手提げから赤い箱の「パーク」を取りだして一本渡した。この患者は自分で煙草を持っていてもいいのか。そういう患者が閉鎖にいるのも意外だったが、こんなところで煙草を吸う浜北さんにはうんざりだ。「火貸して、火。」女性は浜北さんにライターを貸すと、自分でも一本吸い始めた。
その後、私は怒りで看護師にコーヒー缶を投げつけそうになった。看護師が自分のポケットから煙草を出して吸い始めたのである。一人だけじゃない、二人目も吸い始めた。一本吸い終わっても、まだゆっくり食べたり飲んだりしている患者もいる。看護師は二本目に火をつけた。もう我慢できない。ここにいると爆発しそうだ。爆発すると閉鎖から出るのが遅くなる。私は煙草を吸わない看護師に近づいて、
「す、すいません。陽に当たって、気分がちょっと悪くなったんで、部屋に戻らせて下さい。」と、頼み込んだ。
その看護師の誘導で、鍵の掛かったドアを数か所通過して、閉鎖病棟に戻る。誰もいなかったら途中で何か器物破壊していたかも知れないが、もうすぐアラカンのいい年の男がそんな高校生のようなことをしてはいけない。我慢をしたが、看護師への不満メーターのレベルは一気に上昇した。
ひげそりは二・三日に一度
不満はあるものの、看護師も忙しいのは確かだ。気も使うしストレスも溜まるだろうから、こっちも気兼ねすることがある。もともと自分は遠慮深い方だし…。
毎朝金場さんのベッドからはカーテン越しに電気髭剃りの音が聞こえる。金場さんは任意入院だからコード付きの髭剃りを持ち込んでいるんだろうか。いや、もしそうなら強制入院の患者が、本人のいない隙にそれを盗むということだってあり得る。乾電池式の髭剃りなら持ち込んでいいんだろうか。それともコードがなく、直接コンセントで充電する髭剃りだろうか。とにかく金場さんは毎朝髭を剃っている。草野君は髭が薄いようで、伸びてはいるがよく見ないと目立たない。園丸さんは濃い方で、風呂の日に風呂場でT字型の髭剃りを渡してもらって剃っている。もちろんその髭剃りは風呂を出るときに返すはずだ。
私はというと、入院する時に、持ってきたコード付きの充電式髭剃りを預られてしまったので、髭を剃りたい時には、その都度詰所の窓をたたいて看護師を呼び、髭剃り本体だけ渡してもらって、使った後は返却するという面倒くさいことをしなければいけない。看護師が忙しい時にはノックをしてもなかなか来てくれないので、何度も様子を覗って、来てくれそうな時にようやくノックをすることも少なくなかった。
別に仕事に行くわけでもないから一日くらい剃らなくてもいいか。以前は顔に手を当てて伸びた髭が当たると嫌だったが、そんなことも気にならなくなった。ただ、あまり伸びすぎると電気髭剃りではうまく剃れなくなってしまう。三日目が限界だ。今日剃ったなら明日はパス。明後日は看護師が暇そうだったら剃る。その次の日は応対してくれるまでノックをすると決めたが、何でこんなことにまで気を使って苦労せにゃいかんのだろう。コード、ベルト、紐類一切持ち込み禁止の病棟に来なくてはいけない原因を作ったのは自分か……。
そこ俺が座る
食事の際のホールのテーブルの席は決められていないが、三食そこで食べるわけだから、周囲に誰が座るかということを含めて、自分が座る場所はなんとなく定まってくるものだ。もちろん全く気にしない人もいるので、「この席はいつもあの人が座るので空けておこう」などという配慮はしない。席は早いもの勝ちが原則である。
夕食前に南村さんがホールでテレビを見ていた。テレビが一番見やすい席で、南村さんはコップにお茶を入れて、夕食を待っていた。
すると沢北さんが夕食の放送直前にやってきて、南村さんに言った。
「そこ俺が座る。」
南村さんはきょとんとして無言である。
「そこ俺が座る!」
事態を理解した南村さんは席を譲ったが、先に座っていたのがもし園丸さんだったらどうなっただろう。ホールには、表面にひびが入って凹んだテーブルがひとつある…。
沢北さんは野球が見たかったようだ。新聞のテレビ欄を見ながらリモコンの番号を押す。しかし野球の画面にはならない。
「看護婦さん、看護婦さあん!」
看護師に新聞を見せて、番号を押したのに野球番組にならないと文句を言っている。
「ああ、これBSやなあ。」と看護師。
「BS?あ、これか、BS。」沢北さんはリモコンのBSボタンを押すが、映らない。
三十二型の液晶テレビのリモコンにはBSやCSのボタンはあるが、BSのパラボラアンテナには繋がっていない。BSが見られる病院なんて、よほどの「セレブ病棟」でもなければ考えられないだろう。MHKの「ご契約ください」の表示を消そうと思えば、台数分だけの契約が必要だ。
そこまでテレビに金をかける余裕も必要もない。大体この病院には普通のトイレはおろか、障害者用のトイレにも、お尻洗いがついていないので苦労する。
結局沢北さんは野球がみられないまま食事が来た。テレビはそのチャンネルになったまま誰も変えようとはしなかった。
落とした薬は拾って飲ます
毎食後、薬を飲まなくてはならない患者もいたが、私の薬の処方は朝・夕食後で、昼食後の薬はなかった。しかし、夕食後はまずほとんどの患者が薬を飲む。患者たちは、詰所の前に出された、各患者の名前のついた仕切り板で仕切られた薬入れの前にコップを持って並んで薬をもらい、その場で飲まなくてはならない。
私は食べるのが遅いのであまり並んだことはなかったが、左手にコップを持っているので、右手を差し出して片手の上に錠剤を二種類もらう。看護師は薬の入った小袋を破って薬を掌に乗せるのだが、ある時錠剤が一錠、小袋を破った瞬間に飛び出して床に転がっていった。
看護師は「あっ」と言って、まず袋に残った錠剤を私の掌に乗せ、落とした錠剤を探しに行った。小さいからすぐには見つからない。しばらく探して「あー、あったあった」と言って、つまみあげてそれを私の掌にそのまま乗せた。
これをそのまま飲めと言うのか?
ホールや廊下は毎日のように看護補助員が掃除機をかけ、モップで拭いている。病室も同じように掃除機をかけ、モップで拭いてくれる。モップで拭いた後はいつも「滑るで気いつけてね。」と決まったように言う。実際滑りやすい。ホールには食べこぼしが毎日落ちるし、トイレにもそのままの履物で入るので、洗剤や消毒液をたっぷりつけてモップ掛けしているのだろう、モップ掛けした病室は必ず窓を開けていく。消毒液の匂いがしているからである。
右手に乗せられた錠剤を見て、これを水で洗おうかと思ったが、左手にはコップを持っている。片手では洗えない。看護師を睨みつけたくなったが、我慢した。印象を悪くしてはいけない。この閉鎖病棟から出たい一心で、薬を飲んだ。不満はその分、また高まった。
トイレットペーパーは万能
草野君のベッドの横には箱ティッシュが置いてがある。金場さんはベッドのカーテンを開けたままにすることがないので見たことがないが、箱ティッシュくらいあるだろう。園丸さんは着替えもあまり持っておらず、ジャージでそのまま寝ているくらいで、ベッド横の棚にはトイレットペーパーが置いてある。箱ティッシュは売店で売られてはいるが、「おやつ買い」の時に箱ティッシュを買う人はあまりいない。トイレの壁際に積まれているトイレットペーパーを持ってくればタダで済む。
そういう人が多いせいか、トイレの予備ペーパーはいつも十巻ほど山のような形に積まれている。毎日十巻もなくなることはないはずだが、例えば夜中に大量に使わなくてはならない事態を想定してのことだろうか。減った分、掃除の際にきちんと補充されている。
ホールの脇にもトイレットペーパーはいつも置かれている。車椅子の老人が食べこぼした時なども、それを見た看護師が、
「ちょっとティシュ取って!」
と言うと、他の看護師が左手にトイレットペーパーを取り、右手でその端を持ってグルグルグルっと右手に巻き付け、患者の口を拭き、服を拭き、テーブルを拭き、床を拭き、手から抜き取ってごみ箱に捨てる。慣れたものとはいえ、見事な早業であった。「ティッシュ」とはいうものの、ティッシュ兼テーブル拭き兼床拭きである。雑巾のように洗う手間もいらない。トイレットペーパーで口を拭かれるのがいやでなければ問題はない。
公園まで「散歩」
二週間に一度程「散歩の日」がある。入院したばかりの時は行かずにベッドで寝ていたが、運動不足になってはいけない。行ってみることにした。「おやつ買い」と同じように、前後に看護師が付いて行列で歩いて行く。靴を履いて外を歩くのは久しぶりだ。何だか歩道の縁石にぶつかりそうになる。廊下は全く平坦だが、道路や歩道は廊下のように平坦ではない。廊下に比べると凸凹だ。だからバランスを崩して真っすぐ歩けないのだろうか。相変わらず青い空を見ると左目に白い欠損部分があるが、視神経だけでなく、運動神経までおかしくなってきたのか。それとも慣れたらちゃんと歩けるだろうか。
そんなことを考えながら、十分くらいで公園に到着した。公園には芝生やグラウンドやテニスコートがあり、テニスコートには、近所の老人会だろうか、年の割には元気そうな老人たちが、元気ではあるがもたもたと動きなら、テニスをしていた。
「バレーボールする人、この辺に集まって下さい。」
柔らかいボールを持って、看護師が患者を誘う。やる気はないが、看護師の印象を良くしておこう。円形の輪の一角に入る。男女、年齢、様々な運動不足の患者達のバレーボールであるから、まともには続かない。転がっていったボールを取りに行っている時間のほうが長い。ボールを取りに行く運動のようである。それでも運動には違いがない。何回かボールを取りに行っていると息もあがり、暑くなってきた。
「はい、それじゃぁちょっと休憩しましょか。」
四十代の女性は煙草を吸いたがるが、公園内禁煙である。灰皿も置かれていない。
「ここタバコ吸うたらあかんの?」
「灰皿ないし、公園内禁煙て書いてあるでね。病院帰ってから吸うて。」
なるほど、禁煙の公園内で患者が喫煙しているところを、一般市民に見られてはいけない。病院内だったら灰皿のない中庭で吸ってもいいのかね、看護師も含めて……。
運動したせいか、帰りも足がふらつく。数センチの道路の凹凸につまづきそうだ。病棟に帰ったら寝よう、と思って帰ったら、昼食の放送であわてて起きるまでぐっすりと寝てしまった。
クロスワードをやってみる
病棟OT(作業療法)の予定表というのが、閉鎖病棟にも一応ある。一応というのは、参加者がとても少ないからだ。二十四人が定員の病棟だが、五・六人も参加すればいいほうだ。これにも最初は全く参加する気がしなかったが、開放への足掛かりになればと「卓上活動」に参加してみた。患者は四人。今日はクロスワード・間違い探し・塗り絵のどれかを選ぶ。二人は塗り絵、一人は間違い探しでクロスワードパズルの用紙が余っている。じゃあクロスワードでもやってみようかと思って二種類のクロスワードを物色していたら、看護師が一枚取ってやり始めた。
OTを仕切っているのは作業療法士だから、看護師は関係ないと言えば関係ない。患者の様子を見るのが業務だとすると、クロスワードパズルを自分で解くというのは、作業療法を「受ける」ことになるはずだ。「看護師が暇つぶしに『患者の作業療法を受ける』のはおかしい!」と思いながら、彼より早く解いてやろうと精神を集中させた。できた、彼より早く。
「できました。」と言って、作業療法士に用紙を渡す。
「あ、名前書いといて下さいね。」
「え、どこに書くんですか。」
「その紙の下の空いとる所にでも書いといて下さい。」
氏名を書く欄はない。何かの雑誌からコピーを取ったのであろう、紙の下にはページ数が書かれている。よく見ると用紙の左下に商品と応募締切日が書かれている。「これって著作者の権利を不当に侵害しているよな。」と思ったが何も言わないことにする。
後で月ごとの入院費を払う時に解ったのだが、一回OTに参加すると、二千二百円かかる。三割負担だからその三割が入院費に加算される。後期高齢者や生活保護者はもっと自己負担は少ないだろうが、とにかく病院には一人二千二百円入る。だから名前が必要な訳だ。いつ誰が参加したか確認しておかなくてはならない。
ところで「今日のは難しかったわ…」などど言っている看護師は、医療費を払っているか?そんなわけないわな。
開放病棟へ!
週に一度くらい担当医師の診察がある。最初のころは何を聞かれてもぼおっとした返事しかできずに、「よくわからない人ですね」とまで言われたことがあったが、数回の診断と経過観察で、概ね自他への危険性はなさそうだということになったようで、「開放病棟に空きができたらそちらに移りますか?」と聞かれるようになった。急性患者の一応の入院日数は三ヶ月までで、そろそろ一ケ月が経過するからでもある。
毎朝・夕の抗鬱剤、精神安定剤、毎朝の血圧降下剤、毎夕の軟便剤、寝る前の眠剤の効果も出てきたのだろう。そういえばこのころから左目の様子もちょっとは良くなったようなような気もする。左目については、「私は眼科ではないので、眼科で一度見てもらったらどうですか。」と担当医に言われたのだが、「いや、もうちょっと様子を見ます。」と答えてきたのが担当医には納得がいかなかったようだった。
しかし、何十年も前から悩まされてきた、耳鳴り・難聴で、耳鼻科の専門の大学病院まで行って、結局は原因不明で「感音性難聴」という診断だけもらった経験があるだけに、眼科に行っても治してもらえないという直感は強く持っていた。
難聴の原因も、結局は聴神経腫瘍であったので、目の原因も神経絡みであると自分なりに「診断」していたのである。
いずれにしても、ここから出られるということで、気分的に楽になった。これも私の独断だが、閉鎖病棟に必要以上に長く入っているとかえってよくならないような気がする。
草野君出られるんだろうか
草野君は私より前から閉鎖に入っているが、ここから出たいという気持ちが強く、依然として枕を叩いたり、壁を叩いたりしているが、「そんなことしてたら、ますますここから出す訳にはいかんよ。」という看護師の言葉が、逆に彼をいっそう追い込んでいるような気がする。
閉鎖病棟には、入院したばかりの「攻撃的な」患者も、入れ替わりのように入ってくるので、長い間入院している患者も、新しい人間を見るごとに、この「閉鎖された生活空間」で、対人関係に神経を使うことになる。特に、彼のように若く、礼儀正しい人間は、来る人来る人皆自分より年上であるだけに、なおさら気を使うのだろう。
看護師や看護補助員、作業療法士、薬剤師たちの職員も、長くいればいるほどその患者をどこか「異質な人間」を見るような態度で接するように感じられる。食後の薬もちゃんと飲み込むまで観察されているが、長期患者ほどいろんな「チェック」が厳しくなるように思う。職員の立場からすると、「何かあってはいけない」からそうならざるを得ないのかもしれないが、そのように「監視」されている環境に長期間いると、自分が普通の人間から見て異質であると思われていることから抜け出せず、良くなる可能性もだんだんと阻害されていくような気さえする。
草野君が私に言った最初の言葉、「自分は頭が悪いので…」というのを、彼はどんな気持ちで私に言ったたのだろう。本心からそう思っていたのだろうか。それとも「自分は頭が『悪い』ことになっているので、異様な振る舞いを見せるかもしれないが、それは自分の本性の姿ではなくて病気のせいだから、許容してくれ。」という意味だったのだろうか。
私が開放病棟に移る時は、彼が部屋にいないときに、何も言わずにこっそりと出て行きたいものだと思った。彼がその様子を見て、自分は未だにここから出られないと落ち込む姿を見るのは見るに忍びない。
外出できる!
数日後、紫陽花月の初旬、廊下で看護師から「開放病棟に空きができたので、午後移れるように荷物をまとめておいてください。」と言われた。その日は風呂の日だったので、「何時ごろですか。風呂の時間くらいですか。」と聞くと、「そうですね、じゃあその時間くらいにしましょう。向こうは風呂の日がこちらと違いますから、風呂は明日にでも入れますよ。」と言われた。
こっそりと荷物をまとめ、昼食後風呂に行かずに病室で待っていると、看護師が台車を持って迎えに来た。同室の患者は風呂に行って誰もいない。よかった。荷物と布団を台車に載せて、開放病棟の四人部屋に案内される。自分のベッドは部屋を入って左手前だ。部屋の入口の左右に二人分ずつの縦長のクローゼットがある。閉鎖にはこんなものはなかったが、荷物が入れられるのでありがたい。
鍵の付いた引き出しもある。財布も返してもらった。ベルトも電気髭剃りも返してもらった。今までは洗濯は病院洗濯だったが、これからは自分で洗濯カードを買って洗濯機でしよう。洗濯機も廊下に三台あった。
看護師から一応の風呂の曜日や外出についての説明を受け終わると、それまでちらちらとこちらを見ていた左奥のベッドの、小柄で禿げた小太りの男性に挨拶した。
「あのう、閉鎖から移ってきました、猫目と言います。宜しくお願いします。」
「あ、私筒井と言います。こちらこそね、宜しくお願いしますよ。あんまり話し相手がいなかったもんでね。ま、宜しくお願いします。猫目さんね、なんか変わった名字だね。また一緒に散歩でも行きましょうよ。」
今まで接してきた患者に比べて饒舌である。
「外出は九時から昼までと、三時から夕食までが門限ですか?」
「いや、入口は朝六時から夕方の七時まで開いてるよ。七時になると閉まっちゃうけどね。その間だったら勝手に出でっても何も言われないから、もう俺なんか朝六時から二周くらい散歩することもあったりなんかするよ。じゃ、ちょっと疲れたから横んなりますよ。また食事ね、一緒に行きましょうよ、じゃあ。」と言って筒井さんはベッドに横になってしまった。
入口右手前のベッドは横の棚にいろいろと物が置かれているが、今は人がいない。よく見るとベッドの横に上履きがある。靴を履いて出かけているということだ。外泊でもしているのだろうか。
右手奥の患者はジャージのフードを頭にかけてベッドに座って雑誌を読んでいる。年は三十代だろうか。ちょっと近づいて挨拶する。
「私、閉鎖から移ってきました、猫目と言います。宜しくお願いします。」
彼はちょっとこちらを見て会釈をし、すぐにまた雑誌に目を落とした。会話をするのは好きではないようだ。
三時にはまだなっていないが、病棟から出てみよう。廊下に出て詰所の横を通って、病棟のドアを開ける。出られる。看護師の付き添いなしに病棟の外を一人で歩くことができる!
病院内散歩
売店までは慣れた通路だ。早速「アイス・ブランド」を買おうと、財布をポケットに入れて売店の前まで来ると、「おごって姉ちゃん」がすっと現れ、宇宙Warsのジャワ・ザ・ハットの着ぐるみのような、迫力ある体型で体を揺らしながら寄ってきた。
「何かおごって、百円でええわ、百円。おごって。」
大きな目でぐっと迫ってくる。この人はこのためにここで待ち構えているのかと、この時わかった。財布は持っていたのだが、とっさに
「現金、持ってない。伝票やで。伝票…。」と、ちょっとびびりながら、とぼける。
「伝票?」
「伝票書いて、後で、看護師に渡して、サインで、預り金で精算…。」
おごって姉ちゃんは閉鎖に入ったことがないようだ。開放の患者でも自分で金が管理できない患者は伝票制になっているようだが、いずれにしてもコイツはダメだと思ったらしい。
「わかった、もうええわ。」と行ってしまった。その隙にコーヒーを買い、急いでその場を離れる。
売店の廊下の反対側のドアから建物の外に出られるので、出てみた。病棟と診察棟の間は「コ」の字型の駐車場になっていて、「外来患者様駐車場」と書かれてはいるが、高級外車が数台止まっている。こんな高級車で来る患者がいるのかと思ったが、後で何度も同じ車を見たことがあり、院長や他の医師の車だということが後でわかった。凹みがあったり、古そうな車は外来者の車だろう。
職員の駐車場は病棟から離れたところに作られているのだが、院長が率先して近くに止めるくらいだから、職員の手本にならない。閉鎖病棟の中庭のフェンスの外側も患者用駐車場なのだが、よく、同じ車が一日中とか翌朝まで止まっていることがあった。「エクサス」とか「シーム」とか「MUZEN」と書かれた三ナンバーの車だ。これは看護師の車なんだろう、中を覗きこむと車内に白衣が置かれていたりする。
これでわかった。雨の日に閉鎖病棟の廊下の中央に、少し泥砂のついた濡れた上履きの跡が続いていたことがあったが、看護師が車から近道をして、非常口の鍵を開けて出勤してきたので、その跡がついたのだ。それを看護助手の秋田さんは一所懸命掃除機をかけて、モップ掛けしていたことになるのか。
無口な秋田さんだったが、一度だけ園丸さんが何か文句を言った時に言い返したことを思い出した。
「私ら正規職員と違うで来年になっても給料あがらへんのやで。この病棟のもう一人の補助員の人は正規やけど…、」
小学生の子供がいて…と続きを話しかけだが、
「こんなこと言うてもしょうがないわな。」と掃除を早々に切り上げて行ったことがあった。
病棟の向こうの棟はリバビリ棟だ。リハビリと言っても理学療法ではなく作業療法である。脳外科の手術をしたのは昨年の紫陽花月下旬だったから、もう一年近くなるのか。手術後は歩くこともままならず、数週間後からやっと歩行器をつけて、一日一時間、手足を動かすリハビリや、物をつかんだり投げたりするリハビリ、バランスをとって立ったり歩いたりするリハビリを数週間続けたことがあった。階段を降りようとした時の恐怖心はいまでもはっきり残っている。そのせいか、今でも階段を下るのは苦手である。
ここはそういう「理学療法」をする棟ではなく、手芸・料理・陶芸・皮細工・伊勢型紙等々「作業療法」をするところであるそうだが、何だか実業高校の実習室のようである。一番大きな部屋を窓の外から覗いてみると、工場の作業場のようだ。
そういえば、大きなトラックが朝九時前にリハビリ棟のほうに向かい、十一時過ぎに帰って行くのを、食堂ホールの窓から中庭の金網越しに数回見たことがある。平野市には自動車メーカー「TONTA」の工場があるので、その下請けの下請けの下請けくらいの作業だろうか。
リハビリ棟の裏に回ると、家庭菜園くらいの規模の畑もある。その向こう側にはグラウンドもある。晴れた日には院内運動会でもできそうだが、毎日使っている訳ではない。なんだかもったいない。
リハビリ棟を回って別の病棟との通路の反対側に職員駐車場がある。なるほど、ここから正面の入り口までは遠い。鍵を持っていればリハビリ棟を開けてそこから入っていきたいだろう。実際そうしている職員もいるようだが、外来者用の駐車場に停めるよりはまだましだ。そういうわけで職員駐車場の奥の方はガラガラに空いている。そのガラガラの駐車場の向こう側に、アパートのような、グループホームのような建物が見える。
病院の敷地の外にあるのだが、その向こうに小川があり、小川の向こうは一般の住宅地なので、この病院と同じ時期に建てられた建物のようだ。近づいてみると「関係者以外の無断立ち入りを禁じます 援護寮らんらん」とある。援護寮って何だ…?その疑問は三階に移ってから解けることになるのだが、男物の洗濯物ばかり干してあるのが見えるので、何かの独身男性の寮であるようだ。
別病棟の横を通ると、訪問看護ステーションや、デイケアセンターと書かれている建物の横を抜けて、売店の横の通路に出る。これで病院の病棟側をぐるっと一周したことになるのだが、デイケアセンターの横には体育館のような大きな建物もあった。
歩きながら飲んだ、ねじキャップ式の缶コーヒーをポケットに入れて、「おごって姉ちゃん」が売店の前にいるかどうか様子をうかがうと、いた!廊下に寅えもん座りしている。こちらに気がついていないようなので、そっと近付き、
「こんにち、わ!」と、わざと「わ」だけ大きく言って、反応を見た。
「あ、こんにちは…」何だかさっきより迫力を感じない。先手必勝だ。見た目の違和感でビビって尻込みしていてはいけない。この経験は、これから出会って行く患者達とコミュニケーションをとるうえで大事なことだと、私に気づかせてくれた。
不安症の筒井さん
部屋に戻ると筒井さんが話しかけてきた。
「いや、猫目さんどこいってたのかと思ってね。まだ食事の時間じゃないね。食事ね。また一緒に行きましょうね。まだ時間あるか。
まだあるね。テレビでも見ますか。その廊下の突き当たりにもテレビあるんだよね。テレビでも見にいきます?」
「あのう、閉鎖では食事の席って決まってなかったんですけど、こちらはどうです?決まってます?」
「うーん、そうだね。大体決まってるね。ちょうどあれだよ、俺の隣の席が空いてるから、猫目さんそこに座るといいよ、まだかな。もういい?もう行っとこうか。」
ちょっと早いが食堂ホールに行くことにした。六人がけのテーブルが五つある。定員は二十四人だからゆったり座れるだろう。壁際にはカラーボックスが二つ、本棚と新聞置きとして置かれている。本棚には以前の入院患者が置いていったのだろう、様々な種類の書籍・雑誌が二十冊ほど並べられている。漫画も数種類ある。「こちら鶴橋商店街派出所」が第一巻からきちんと順番に並べられている。商店街のまんなかにある派出所に勤務する、はちゃめちゃな警官が、自分で事件を巻き起こして商店街の人達に迷惑をかけるが、なぜか愛されているという、ドタバタ漫画だ。暇なときに第一巻から読んでみよう。
「ところで、同室の右側手前のベッドの人は外出中か何かですか。」
「ああ、あの人ね。あの人は何だかしょっちゅう外泊してるんだけどね。いてもあんまり喋んないから、俺と合わねえのかもしんねえな。」
「どんな人ですか?」
「三十代くらいのおとなしい無口な人だね。あの、窓際の奥の人、俺の向かい側の人、あの人も三十代だと思うけどね、あの人変ってんだよ。何か誰もいないのに喋ってんの。誰と喋ってんだろうと思ったけど、誰もいねえんだよ。俺とも話合わねえしね。年が違うから話合わねえのかも知んないけどね。俺こんな頭禿げってけど、まだ六十二なんだよ。猫目さん五十位かね?」
「五十七です。」
「えっ、若く見えるねぇ。そいじゃ俺と五つしか違わねぇの?宜しくお願いしますよ。何か俺一人でいると不安でしょうがねぇんだよな…。」
筒井さんは四十代まで会社勤めをしていたそうだが、仕事の失敗で職を辞め、その後転職を数回した後、タクシーの運転手もしたそうだが、タクシー会社に二種免許を取得させてもらう際、二年間は勤務することが条件だったがそれが続かず、その費用をあとで払わなくてはならなくなったそうである。それで奥さんにも愛想をつかされ、離婚はしていないが、奥さんが病院に来ることは少なく、来ても本人と会うことはまずないそうだ。悪い人ではないが、落ちつきがなく、奥さんも一緒にいるとイライラが募ってしまうのだろう。
二人で並んでテーブルに座っていると、筒井さんの向かいに五十くらいの男性が座った。眼鏡の奥の目は、神経質で気の弱そうな印象を私に与えた。
「あ森本さん、いつもの席で、そうそうそこでいいよ。この人ね、今日俺の部屋の空きんとこに入った、猫目さん。」
「宜しくお願いします。猫目です。いままで閉鎖に一ケ月くらいおったんですが、こっちに移ってきました。」
「森本です。隣の部屋です。宜しくお願いします。」
「森本さんもうそろそろ退院するんだよなぁ、俺寂しくなっちゃうよ、ま、猫目さん来たからまだいいんだけどさ。森本さんいなくなっちゃったら、俺どうしようかと思ってたんだよな…。」
やがて食事の時間になった。筒井さんは喋るのも早いが、食べるのも早い。私よりずっと先に食べ終わってしまった。
「じゃ、先部屋に帰ってますから、食べたら部屋に来てくださいね。」と筒井さんは先に席を立って行った。
部屋に来てくださいねって、他に行くところなんかないじゃないか。「俺を一人にしないでくれ。」ということなんだろうが、私はまだ今日あんたと初めて会ったばかりだよ…。
閉鎖と開放、大違い
開放病棟の食堂ホールの横には、閉鎖病棟への「閉じられた」ドアがあるのだが、向こうで大声を出すとこちらに聞こえることもある。しかし、ドア一枚隔てた入院生活は大きな違いだ。
入浴は閉鎖が月木の午後、開放が火金の午後で同じ風呂場を使うのだが、こちらにはかけ湯もせずにいきなり浴槽に浸かる人は見当たらない。みんなまず体を洗ってから浴槽につかる。
食事の席も概ね誰がどこに座るか決まっている。新しく病棟に入って、どこに座ったらよいかわからない人の席を「仕切る」人もいる。私が開放に来た翌日、森本さんは退院し、南村さんが閉鎖からやってきた。南村さんはこれまでの閉鎖と同じように、早いもの勝ちで席に座るものだと思って座ろうとしたが、向かいの席の人に、そこは空いてないと言われて困りかけていたところ、二乃輪さんが空いている席のうち、適当なところを指示してくれていた。
「そこは誰々さんがおるやろ、そこも今日は外泊中やけど、そのうち戻ってくるで。ほんなら、ここかここやな。」
二乃輪さんは快活な三十代の女性だ。病名は一応総合失調症だが、本人も自分の病状がよく分からないという。しかし、家にいると「家事が手につかず、夫や子供に迷惑をかける」ので入院しているのだという。短大を卒業後保育士をしていたそうだが、園児の親とのいろいろなトラブルで仕事をやめた後、運送会社の事務員をしていたそうだ。大声でよく笑い、傍から見ているととても患者には見えないが、毎日十種類以上の薬を飲んでいるそうだ。
そんな感じで、閉鎖と開放とではホールの「空気」が違う。閉鎖ではまわりの「空気」を読めば読むほど、緊張とストレスが増す。だから空気は読まずに、他人との関係は遮断して、自分の療養に専念することが大切だが、それを長い間続けると、そのことがまた苦痛にもなってくる。
「量より質」とはことわざもあるが、量(重い患者のいる割合)が質(病棟の雰囲気や、患者とか看護師の態度・行動・姿勢など)を変える場合もある。「長者の万燈より貧者の一燈」というのも真理だと思うが、「朱に交われば」、自分もおのずと「赤くなる」。閉鎖にいれば自分も閉鎖の患者らしくなってしまうし、開放にいれば開放の患者らしくなってくるなってくるような気がする、不思議なことだが…
コンビニへ
ボールペンが欲しくなった。園丸さんから「その鉛筆、もしいらなかったらもらえませんか?」と聞いて、気前よくもらった鉛筆はもう芯が太くなってしまって書きにくい。書きつける紙は読み終えた新聞ストッカーの中から裏の白いチラシを勝手に持ってきて確保しているが、「南第一」と書かれた鉛筆を、詰所で削らせてもらいに持って行くのはちょっとまずい。
朝六時には鍵が開くので、七時の朝食までには戻れるだろう。朝の院内散歩のふりをして、あらかじめ見ておいた「病院周辺地図」で道筋を頭に入れて、病院の外のコンビニヘ行った。
朝五時にはもう明るい季節なので、ちょっと早足で歩くと暑いくらいだ。おまけにちょっとふらつく。それでも十分ほどでコンビニに着いた。
「いらっしゃいませ、こんにちは。」まだ朝なのにこんにちはか?と思う前に少しびくっとした。私はここでは患者ではなく客なのだが、店員は私のことをどう見ているだろう。田舎のコンビニなので客は少ないが、出勤途中で飲み物、食べ物を買う客はいる。しかしその人たちは皆車で立ち寄っている。朝から汗かきながら歩いてくる自分はどう見られているだろう。
まあいい。不審に思われたら「私はあの病院に入院中の患者だ」と開き直ろう。ボールペンを探して一ミリのものを買う。普通は0・七ミリのものが多いが、太いほうが手が楽で書きやすい。一ミリがあってよかった。レジの前まで来ると特設台に煙草が置いてある。 [一箱に一個、今ならロゴ入りライターがついています。]
買おう。脳外科の手術以来、一本も吸ったことはなかったし、煙草カードも持っていないのだが、二乃輪さんも守屋さんも喫煙者である。喫煙室で話でもしてみよう。それに、筒井さんは煙草を吸わないから、「猫目さん、一緒にタバコでもいきましょうよ」とは言わないだろう。その時間だけでも筒井さんから離れられる。
一番軽そうな、「煙の少ないチャールズ・アリス、0・1ミリグラム」を買う。「ありがとうございました。またお越しください。」の声に送り出されて店の外に出る。ポケットに入れるにはライター付きのパッケージが邪魔だ。パッケージを取ってごみ箱に捨てる。ついでに煙草の封を切ってセロハンと口紙を捨てる。ついでに一本吸ってみる。
吸える。一年ぶりくらいだろうか。軽い煙草だから頭がくらくらすることもない。「いつも笑顔で、笑みりぃマート」の旗を見ながら一本吸って朝食までに病院に戻った。
入院しながら守衛する
朝食後しばらくしてから、喫煙室に人気のない時に、トイレにでも行くふりをして、筒井さんから逃れて一人で煙草を吸っていたら、向こうからパタパタパタっと早足で二乃輪さんがやってきた。喫煙室のドアを開けて、
「あれえ、猫目さん、タバコ吸われるんですかぁ!」と大きな声でびっくりしている。
「頭の手術してからずっと吸ってなかったんやけど、ここには筒さん来うへんから、ちょっと休憩してます。」
「あ、そう。筒井さんなぁ。悪い人やないんやけど、ずっとおるとうっとうしいやろう。わたしもなぁ、筒井さんとはちょっとあったことがあるんやわ。」
何かトラブルがあったんだろうが、二人の性格を考えれば大体想像がつくから敢えて聞くまい。そこへ守屋さんが入ってきた。すると二乃輪さんが、
「お勤めご苦労さんです。」と言った。
「え、仕事しておられるんですか?」と、私。
「守衛の仕事してるんやん、な。お父さんのとこにも寄ってきたんやろ?」と二乃輪さん。
「そう、仕事明けに親父の世話すんのもえらいわ。ところで猫目さんてタバコ吸うん?!」
「頭の手術以来禁煙してましたんやけど…」
「え、頭手術したんですか。」
「脳腫瘍で脳味噌7センチ切り取ってますんやわ。シャントていうてパイプも通ってますわ。ほれここからトンネル見たいに耳の後ろ通って道通ってますやろ。」
「あ、本当や、何か通っとるわ。脳腫瘍ですか、そら大変でしたなあ。」
「去年MRI撮ったらもう即入院ですわ。開頭手術で十二時間かかったそうで、全身麻酔やで本人は何も覚えてませんけどな。」
「ええっ、頭切ったんて?頭蓋骨外して?脳味噌出して?あ、あかん、考えただけで気持ち悪なってきた。ちょっと悪いけど行くわ、ごめん。」と言って二乃輪さんは来た時と同じようにパタパタと出て行った。
「豪快に見えるけど、案外気小さいんやわ、あの人も。落ち込む時はものすごう落ち込むしな。」と守屋さん。
その後いろいろ話を聞くと、守屋さんは会社の人間関係でストレスが溜まって入院し、その後は「人と接しなくてもよい」夜間の守衛の仕事をやっと見つけたそうだ。毎日ではないが、病院の了解をもらって夕方出勤し、翌朝は一人暮らしの父親の様子をみてから病院に戻ってくる。守屋さんも調子がいい時は笑いながら二乃輪さんと談笑している姿をよく見るが、調子が悪いとぼおっとして何も考えられないそうだ。何か調子の波があるのだろう。
それにしても入院しながらも働いているというのは敬服する。しかも父親の面倒まで見て。守屋さんにそう言うと、
「ほんでも、俺も入院して親父に迷惑かけとんでなぁ。まあ、お互いさまですわ。」と返ってきた。
お互いさまか。私は筒尾さんから逃れるために喫煙室に来ているが、病棟生活をいろいろと教えてくれる筒尾さんにもっと真摯に接しなくてはいけないかとも思い、病室に戻ることにした。
筒井さんと散歩
「いやあ、猫目さんどこ行ってたかと思ったら、タバコ吸うんだねぇ。ちょっとびっくりしちゃったよ。吸うようには見えねえもんなあ。」
ばれたか。「えぇ、閉鎖にいるときは吸ってなかったんですけど、ここは窓に換気扇もあるし、あの部屋日当たりもええもんで、コンビニに行った時に買うてしまいましたわ。」
「あ、コンビニ行ったの。どうです、午後その辺散歩してみませんか、よかったら。いや無理にとは勧めないけど。その辺は田んぼばっかりだからね。ちょっと向こうまで行くとね、大っきな大学もあるんだよ。若い子いっぱい歩いてるよ。俺はあんまりそういうの興味ないけどね。」
前に集団散歩に行った公園とは反対方向に、コンビニ、その向こうに大学がある。一度行ってみるか。図書館が一般開放されていたら一度入ってもみたい。
「じゃあ午後行ってみましょうか。外出許可用紙か何か書くんですか?」
「いや、俺はそんなもん一遍も書いたことないよ。その辺の散歩だったらいいんじゃないの。」
昼食後しばらくして二人で出掛けた。病棟から売店の前を通って、外来の横の通路を抜け、病院の外に出る。午後の青空は眩しい。帽子が欲しい。
コンビニの近くまで来ると、川に流れ込む用水路がある。
「俺ここで前に溝に落っこっちゃてさあ。この細い道に車が来たんだよ。避けるつもりでちょっと寄ったら足滑っちゃった。そいでさ、その車の人に病院まで送ってもらって。それからね、一人じゃ病院の外へは行かねぇようにしてんの。」
なんだ、案内してもらうつもりが、こっちが付き添いか。だがこっちも患者だぞ。自分もいつ転ぶか解ったもんじゃない。守屋さんの言葉を思い出す。「まあ、お互いさまですわ。」
この時間、コンビニ近くを駅方面に歩いて行く若い学生がぱらぱらといる。自転車に乗って行く者、コンビニに立ち寄る者もいる。結構女子学生もいる。「平野医療大学」という大学名だから医学部かと思っていたが、理学療法とか作業療法とかの学科もあるのだろうか。半数近くが女子学生だ。質素な服装の娘もいれば、なんだかケバい娘もいる。
「コンビニで何か買って飲みますか?」と一応聞いてみたが、一般人がいるコンビニに二人で入って、もし奇異な目で見られると何だかいやだ。
「いや、俺金何も持ってないし、そろそろ戻りましょうよ。」
よかった。「飲み物くらい奢りますよ。」というべきかもしれなかったが、癖になるといけない。まさか「おごって爺さん」にはならないかと思うが、筒井さんは全く現金なしで入院生活を送っているんだろうか。聞けたらそれとなく後で聞いてみよう。
大学図書館へ
翌日、筒井さんには何も言わずに大学図書館に行ってみる。朝九時過ぎなら授業も始まっていてひっそり入れるかと思ったら、通学生が結構いる。大学入口には職員や学生自治会のような人達が数人、「挨拶運動」の幟を立てて、学生たちに挨拶を呼び掛けている。
「おはようございます」「おはようございます」…
「おはようございます、御苦労様です。」と言って、その場を通過した。先手必勝。あとで「今の人誰や?」と思われたかもしれないが。
図書館の入口まで来て案内を読むと、開館は平日朝九時から午後七時で、一般開放している。ありがたい。入ってみると学生はぱらぱらといるが、そう多くはない。入って左手にカウンターがあって司書がいる。
「おはようございます。近くにいるものですが、ガンマナイフについて調べたいんで、利用させてもらってよろしいでしょうか?」と、もっともらしいことを言う。実は本当にガンマナイフについて調べたいことがあったのだ。
「ここにお名前と、今日の日付と入館時刻、いま九時十分ですね。書いてください。」と言われ、「一般利用者3」という胸に着けるカードを渡された。
カードをつけて書架を探す。さすがに医療関係の書籍がずらっと何列も並んでいる。CT、MRI、放射線治療…。しかし出版年を見てみると、最新の書籍はさすがに少ない。比較的新しくできた大学だが、医療技術は日々刻々と新しいものが開発されている。それを毎年購入していくのは予算も司書の手間もかかるのだろう。放射線治療の本を一冊持って、カウンターまで行き、横に二台置いてあるPCを指さしてこう言った。
「すいません。関連することをパソコンで調べたいんですが、インターネットって使ってもいいででしょうか?」
「え、ああ、使えますよ。まだ立ち上げてませんので、ちょっと離れた所で待ってもらえます?」
ちょっと離れた新聞コーナーまで行き、様子を覗いながら待っていると、キーボードに何か打ち込んでいる。IDとパスワードか。ちょうどその時チャイムが鳴って、図書館のL字型になった建物の、入って右側奥の方から学生が数人やって来て、カウンターの横を通って図書館を出て行った。奥には学生用のPCコーナーがあるのかもしれない。今のチャイムは一限目の余鈴なんだな。
「どうぞ、お使いください。終わったらそのままでいいですから、おっしゃってください。」
ヤプーの検索画面になっている。ヤプーよりゴーグルの方が好みなんだけど。まあいいか。どうせ自分は家畜人、いや患者人だから…。OSはマイケルソフトのドアーズ二千一か。設置した年代が覗える。ドメイン組んであるんだろうな。ドアーズだけに、思わずPC歴三十年の自分のハッカー魂の「ハートに火がついて」しまって、「コントロール」と「シフト」と「BS」を同時に押す。すると、モニターマネージャーが起動する。モニターマネージャーが起動すると、ユーザーネームが表示される。「二見 唯」。そうか、あの司書は二見さんというのか。ログインIDも表示される。「hutami-yui」がログイン名だ。あかん、できるからといって、やってしまうような行為はハッカー行為はもうやめておこう。
ヤプーでガンマナイフの副作用が視力やふらつきに現れるかどうか調べてみようと検索するが、思ったようなサイトは出てこない。
数分で、「どうもありがとうございました。」と言って、本を持ったまま、学生が出てきた奥のほうへ行ってみると、そこには二十台以上の学生用PCが置かれている。一限目の授業をとっていない学生が二人くらいいるだけで、がらんとしている。
いかん。またやってしまいそうだ。しかし、IDとパスワードが一緒なんて、そんな甘いはずないよな、と思いつつ、手は電源ボタンを押していた。
ログイン名「hutami-yui」、パスワード「hutami-yui」、エンター。しばし待つ。わっ、わっ、画面が出た。「注意:終了時にはデスクトップ上のファイル、インターネットの閲覧履歴などのデータは全て消去されます。必要なデータはUSB等の外部媒体に保存してから終了してください。」…ログインできたのだ。
あまーーい!甘すぎるよ二見さん!ダメだよ、パスワードをIDと同じ設定にしたまま使っちゃあ…。国会議員のセキュリティ意識くらい危機感がないよ。もっとも二見さんだけの責任じゃなく、ドメイン組んだシステム管理者の責任でもあるけれど。
「パスワードは初期値のまま使わずに、必ず文字・数字を混ぜて六文字以上で設定してください。」っていう常識が徹底されてないよ。パスワードがもし初期値から変えてあったのなら、仮にアドミニで侵入されたとしても、暗号化された個人のパスワードは、アドミニ権限でも解読できないはずだから、平文もでない限りパスワードは盗めないだろう。それをユーザーに理解させて、きちんと使わせるところまで徹底させないと、「俺のパスワード忘れたで教えてくれ。」ってことになって、アドミニが個人のパスワードを教えられるようなシステムなんかにしちゃうと、もし外部からアドミニで侵入された時には、皆のパスワードが丸わかりという、エライことになってしまう訳だ。
しかし、こういう甘い意識のおかげで、私はまんまと二見唯になりすまして、歳をとったニセ学生のように、学生用PCを勝手に使えるようになってしまった。
ガンマナイフの副作用
こうなったら、まさに腰を落ち着けて、ガンマナイフの副作用を調べてみよう。どうしてかというと、開頭手術の後よくなっていったはずの体調が、ちょうどガンマナイフを受けた二週間後くらいからまた悪くなっていったからである。下りの階段やエスカレーターが恐くなったり、右足先のしびれや椅子から立ち上がるときの体のふらつきは解頭手術前に感じていたが、手術後はよくなっていったと思っていた。それが再発したのである。さらに、左目の視野の一部が欠けることは開頭手術前にもなかったことであるが、ガンマナイフ一ヶ月後から悪化し、閉鎖病棟入院中には新聞もなんとなく見づらいほどであった。ただ、最近少し回復傾向気味である。
いろいろ検索してみると、次のようなことが書いてあるサイトに行き当たった。
ガンマナイフの副作用
病巣の形状、大きさ、形、箇所によって違いはありますが、病巣周辺の脳の腫れや、脳神経症状の増悪が数か月後に現れることがあり、注意を要します。まれに数年後、周囲脳組織に放射線壊死の状態が起こり、入院や手術が必要になることもあります。また、頭髪の脱毛が部分的に起こったり、頭皮のしびれ、違和感等の症状が現れることもあります。その他、全く予期しない合併症が起こることもごくまれにあります。
うーん、数ヶ月後ではないが、なんだか「我が意を得た」満足感があったが、あまり長くPCを使っていると、あいつは何者だろうかかと怪しまれるかもしれない。そろそろ帰ろう。USBなど持っていないので、調べたサイトや文面はコピペして自分宛のフリーメールに送った。履歴は自分で消さなくても勝手に消してくれるというありがたいシステムだ。しかしサーバーにログは残るだろうな。フリーメールだから、ネットのアクセスログを見たら、アドレスの引数でメアドがわかるので、プロキシ設定してあれば、プロバイダに聞かなくても、誰の仕業かこの大学のシステム管理者の段階でわかるだろう。バレたら「ごめんなさい」というしかない。
しかし、病室から歩いて十五分でネットが自由に使える環境があるというのはありがたい。内心「唯ちゃんまた来るからね。」と思いながら、「どうもありがとうございました。」とカードを返して退館時刻を書いた。
現金を持たない筒井さん
昼食時、「猫目さんどこ行ったのかと思ったよ。喫煙室にもいねえしさあ。病棟の周りも俺回ってたんだよ。」と言われてしまった。
「筒井さんは買い物とかしないんですか?」
「しねぇよ、金持ってねぇんだもん。」
タバコは吸わないからいらないだろうが、間食も全くしないのだろうか。
「洗濯とかは病院洗濯なんですか?」
「いや、女房が持ってきて病院に預けてあんだよ。それを風呂の時に着替えて女房がまた取りに来んの。だから、そうだねぇ、女房は三日置きぐらいに来てるんじゃねぇの。会わねぇけどさ。」
病院に来ても顔を合わせないほど夫婦関係は冷え切っているのだろうか。どれくらい前から顔を合わせていないのだろう。いや、そんなことは聞くまい。
私の妻は洗濯物は持ってこないが、週一度くらい面会に来る。必要なものを伝えておくと、次に来るときに持ってきてくれる。先日は散歩用の野球帽を頼んでおいた。会話は少ないが、顔を見て差し入れをして帰って行く。時々担当医にも会っているようだ。
それにしても、金を持っていないから、筒井さんは手首に鍵のついたゴムひもをする必要がないのだということがわかった。
病棟内でも、院内でも、貴重品を入れた引き出しの鍵のついたゴムひもを手首にかけている患者はよく目にする。ポケットに入れたりなどすると落としたり、置き忘れたりするからだ。私も手首にかけている。
デイケアに来る患者も、同じように手首に鍵のついたゴムひもをつけている。ロッカーに入れた貴重品の鍵だ。手首のゴム鍵は患者の印。ゴムひものない人は、面会者か、そうでなければ自分で貴重品が管理できない患者だ。その区別はだいたいつけられる。面会者は荷物を持って歩いていることが多いし、靴を履いている。患者は院内はサンダルのような上履きだ。
たまに、デイケアの補助員が、ラフなジャージ姿で上履きを履いて院内を歩いていると、一見患者か職員かわからないことがあるが、すたすたと歩いている人は職員だろう。患者の歩みは速度が遅い。
閉鎖病棟になる?
病棟に戻ると廊下で看護師に声をかけられた。
「あ、猫目さん、診察です、今から。」
「え、今から?」
診察はだいたい週一回で、今日はその曜日ではない。何だろうと思って面談室に入る。
「どうですか、調子は。何か気になることはありますか?」と、いつものような面談である。
「最近割と積極的な行動があると看護師から聞いてます。一面いいことかもしれませんが、抗鬱剤が効いて、躁転傾向にあるのかもしれません。」
「ソーテン?ですか。」
「鬱状態から通常の状態を飛び越して、躁状態になってしまうことです。下手をすると躁と鬱を繰り返すことになるかもしれない恐れがあるので、回復はちょっと遅くなるかも知れませんが、抗鬱剤を少し減らしてみましょう、その方が安全な方法だと思いますが、それでいいですか。」
「はい。」
「ところで、」と担当医は今日の診察の本当の要件を切り出した。
「急な話ですが、今度病院の都合で、この一階開放病棟が閉鎖病棟に変わることになりました。猫目さんは今は任意入院患者ですので、閉鎖病棟に入ることの同意書、これは前に一度書いてもらったものと同じ用紙ですが、これにもう一度今の日付で署名してもらえませんか。」
突然の急な話で、よく理解できない。
「いや、話がよく分からないんですが、今私は一階の開放にいるんですよね。また閉鎖に戻るということですか?」
「いえ、そうではなくて、一階の開放が閉鎖病棟になる。つまり一階南は全部閉鎖病棟になるということです。」
「え、ということは、開放病棟がなくなってしまうということですか?」
「そうなりますが、移行は段階的に行われると思いますので、現在開放処遇の人に対しては、改変後も現在と同じ処遇で過ごせるようになると思います。」
「ちょ、ちょっと待って下さい。そうすると、同じ病棟に開放処遇の人と閉鎖処遇の人が混じって入っているということになるんですね。」
「移行の段階ではそういう時期も出てきますが、私も急に聞いたことで、よくわからない所があるんです。詳しくは看護師から説明があると思いますので、それを聞いてから書いてもらってもいいですよ。」
「あ、はい。急なことなんで、ちょっと考えさせてもらってから署名します…。用紙は今いただいておいて、あとで書かせてもらいますので、宜しくお願いします。」
できるだけ逆らわないようにしようと思ったが、即断して書く気にはなれない。確かに入院時には同じ用紙に署名したが、その時は「医療保護入院」であったので、署名は形式的なものだった。今は任意入院なので、本人の意思確認が必要なのだろうが、病院の方針で変更するのなら、「いやだ」と言えば、「では退院してください」ということになるんだろうか。うーん、どうしたらいいんだろう。
患者様へのおしらせ
翌日も考えあぐねていたら、担当看護師から各患者にこんな「おしらせ」が配られた。
南一階病棟・開放病棟に入院中の患者様へのおしらせ
この開放病棟は紫陽花月十三日(月曜日)から
閉鎖病棟に変わることになりました。
平野一文字病院は、より質の高い精神科医療を提供するため、様々な取り組みを行っています。その一環として、紫陽花月十三日から南一階病棟・開放病棟を閉鎖病棟に変更し、部屋番号を変更することになりました。
この病棟に継続して入院される場合は、閉鎖病棟に入っていただくことになりますが、開放病棟と同じ入院生活をすごすことができる開放処遇で対応します。病棟の出入りは病棟スタッフに声をかけていただくことになります。
ご不明な点は、主治医、病棟師長にご相談ください。
ご不便をおかけしますが、ご理解ご協力くださいますようお願いいたします。
平野一文字病院 病院長
筒井さんはどうするんだろう。
「筒井さん、こんな『おしらせ』ってもらいました?」
「あ、もらったけど、もう署名して出しちゃったよ。どうせ俺他に行くとこねぇんだから。手続きとか、めんどくさいことも嫌いでねぇ。守屋さんは三階の開放へ戻ろうかって言ってたんだけど、三階は体操とか活動とか何か厳しいらしいんだよな。俺そういうの合わねえし。」
「え、やっぱり同意書いるんですか。」この文面を読むと「同意書が必要」とは明記されていないが、「この病棟に継続して入院される場合は」というのが、閉鎖に変更されるこの病棟に引き続いて入院することに同意する場合は、という意味なるのだろうか。しかし同意しない場合はどうなるということは書かれてはいない。「開放処遇で対応」とあるが、閉鎖患者と開放患者を混在させても、看護師は対応できるのだろうか。
守屋さんに三階の開放病棟について聞いてみようと思ったが、会う機会がないまま翌日になった。すると、担当医から、「同意書を早く出してほしい」と言われた。医師も誰かに急かされているようで、ちょっとイラついているような感じがする。しかたがないので、「書いて詰所に持って行きます。」と答えてしまった。
悩んだ末、文面を考えて、同意書の下の空白に、「ただし」以下の部分を手書きで書き加えた。
私は「入院に際してのお知らせ(入院時告知事項)」を了承のうえ、自分の意志で閉鎖病棟である(南一)病棟に入院することにも同意いたします。 ただし、今回の場合、南一病棟が閉鎖病棟に変更されることにより、この病棟に継続して入院する場合は、閉鎖病棟に入ることにならざるをえないため、不本意ながら同意するものであることを申し添えます。
師長からの「説明」
十三日当日朝食後、「大事な話がありますから九時にホールに集まって下さい」と伝えられた。皆が集まると、師長が早口で読み上げるように今回の病棟変更について説明を始めた。
「皆さんもうすでに同意書を出していただいた方も多いですが、再来週から病棟の工事を行います。端から二部屋づつ改装していきまして、完了した時点でこの病棟は閉鎖病棟になります。それまではご迷惑をおかけしますが、段階的に部屋を一時移動してもらいまして、順次改装後の部屋に入ってもらうことになりますので、宜しくお願いします。なお、外出等については当面看護師に言っていただければその都度鍵を開けますが、工事完了後は完全に閉鎖病棟になりますので、ご了解ください。持ち物についても、携帯電話等は預らせていただくことになります。病院の方針で急に変わることになりましたが、ご理解お願いします。質問がありましたら答えますが、すぐに答えられない場合は、後日お伝えします。何か質問はありますか?」
は、話が違うじゃないか!これでは「開放処遇で対応」にならないじゃないか!患者を馬鹿にするのもいいかげんにしろ。一気に憤りがピークに達する。周囲の患者たちの顔を見回すと、皆話を聞いているのか聞いていないのか、顔つきにあまり変化がない。
私が手を挙げる前に、吉又さんが手を挙げた。
「病棟から出られる時間は何時から何時になるんですか?」
吉又さんはアラフォーくらいの痩せた女性である。二乃輪さんによると、昔はとても太っていたらしい。それが激痩せしてスリムな服が着られるようになったので、一日に三・回着替えをする。着替えをする度に病棟を出て、院内の廊下を端から端まで行って戻ってくる。スタイルはいいのだが、歩く姿勢が前かがみで髪が長いので、暗くなった場所でその姿を見るとちょっと不気味である。
「できれば九時から昼までと、三時から夕食までという規定通りとさせていただきたいと思います。もちろん何か特別な場合は対応しますので、申し出て下さい。」
その言葉は私の逆鱗を刺激するのに充分だった。
普段温厚な猫目さんが
その時の私の様子は、その場にいなかった守屋さんにも後で誰かから伝わっていたようだ。一週間ほど後、売店の前で偶然守屋さんに会った時に、
「挨拶もせんと、突然病棟を変わってしまってすみません。」と言ったら、
「いやあ、普段温厚な猫目さんが、えらい剣幕で、師長もたじたじやったそうやないですか。まあ皆も何かおかしいと思とったけど、よう言わんだだけやで。実は俺も携帯がないと仕事ができんで、三階へ行くんですわ。また会うことになると思うで宜しくお願いします。ただ、あそこは『ひと癖ある』人が多いでなあ…。」
守屋さんは以前に南三階(慢性患者開放病棟)にいたことがあるので、急に移った私よりも病棟の様子には詳しいかもしれない。
私が急に移った経緯については、自分も興奮していてあまりはっきり覚えていないくらいだが、大体次のようなことを言ったと思う。
「ちょっとすいません。この『患者様へのおしらせ』には、『開放病棟と同じ入院生活をすごすことができる開放処遇で対応します』とありますね。今聞いたら話が違うじゃないですか。売店は八時から四時まで開いとるから、いままでやったら八時半とか、一時とか、行きたい時に売店にも行けたわねぇ。それが、今度から売店行こと思たらいちいち看護師さんに言うて、帰ってきたらまたインターホンで呼んで開けてもらわなあかんようになんの?看護師さんも忙しいで、ちょっとまってっていうこともあるわなぁ。
携帯電話が持てんようになるって、今聞いたけど『お知らせ』には何にも書いてないわねぇ。何にも知らんと署名した人もおるけど、今聞いたのと、紙に書いてあることでは、内容が違うで、もう一遍今日の話の内容で文書を作ってもうて、それ読んだ上で、署名取ってもらわんとおかしいんと違いますか?
病院も組織やから、上が決めたことに従わんといかんとか、そのしわ寄せは下へ下へ寄ってくるちゅうのもわかるけど、おかしいことは上向いて『おかしい』と、師長みたいな段階で言うてもらわんと、今日みたいに一番しわ寄って来るのは患者やで。
『おしらせ』どおりにするんやったら、一番きつなるのは看護師やと思うけど、そのきつなるしわ寄せを、さらに患者に寄せといて、表向きは『お知らせ』のように、患者には配慮してやってますていうんやったら、そら絶対おかしいやろ!
もう一遍今日言うた内容で文書作り直して、それ配ってから、同意書取りなおしてもらわんと納得できんわ!」
それに対して師長は、「急に決まってきたことなので、私も当惑しているところがあるので、猫目さんの疑問については、後で先生と、私も入って話をさせてもらいましょう。」と答えた。
「他に質問のある人はいませんか?」
皆無言であった。
その日のうちに三階へ
師長からの説明が終わって間もなく担当医に呼ばれた。面談室に入ると「私も入って…」と言っていたはずの師長はいない。担当医は先程私の提出した「同意書」を読んだのだろうか、手書きの部分に目を落としながら、「これでは同意したことになりませんね。」と、話し始めた。
「不本意ながら同意というのは矛盾しませんかね。同意するなら了解した上で自分の意思を表明する訳ですから、不本意という言葉が入ると意味が繋がらなくなってしまいませんか。」
なるほど、それはそうだ。
「おっしゃるとおりですが、自分としては、まだ病気が治っていないと思うので、引き続き入院したいです。しかしせっかく良くなりかけて、積極的に行動できるようになって、散歩とか、コンビニに買い物とか自分でできるようになって、リハビリ棟の活動とか、自分で気が向いた時に行こうと思っても、閉鎖ではすっと行くことができません。」
「なるほど入院時に比べると、大分良くなったというか、積極性が出てきましたね。これだけの文章が書けるようになったのなら、もう退院してもいいんじゃないですか?通院して治療を続けることもできますよ。」
これは「診察」か?ディベートしてるんじゃないよ、と思ったが、なるだけ穏やかに話すことにしよう。
「自宅は病院から遠いですし、車の運転もまだ不安ですから、入院を続けたいです。」
医師は少しいらだった様子を見せたが、
「わかりました。では三階の開放病棟に移ってもらいましょう。ただし、あそこは慢性患者用の病棟で、一階とは規則や方針が若干違いますから、了解しておいてください。」
「どこがどのように違うんですか?」
「それは私も詳しくは知りません。」
また引っかかることを言う。違うところがあるのなら、どこがどう違うのか説明しないと、了解するも何もないじゃないか。ずばり「後で文句言っても知りませんよ。」と言ってくれた方がまだ理解しやすい。しかし、ゴネてはいけない。退院させられるよりはずっといい。
「はい、宜しくお願いします。」
「じゃ、荷物をまとめてください。今からでもいいですよ。」
今からでは昼食の手配が間に合わないだろう。昼食トレイを持ってでも行けとでもいうのか。
「荷物まとめるのにちょっと時間が要りますので、昼食後にお願いします。」
そんな経緯で急遽南第三病棟に移ることになった。
急なお別れ
「えらい急ですけど、今主治医と話して、三階に移ることになりました。」筒井さんにそう告げると、
「なんだ、まだ二週間くらいしか経ってないんじゃねえの、ここにきて。またさびしくなっちゃうねぇ。話し相手がなくなるとどうしようもねぇよ、俺も三階へ行こうかな。三階の様子また教えて下さいよ。あそうだ、毎日俺一時ころ、そこの廊下の窓んとこにいますから、来て下さいよ。来て教えてくださいよ、どんな様子か。お願いしますよ。待ってますからね。」ということで、三階の様子を窓の外から報告しに来ることになってしまった。丸一日では詳しいことはわからないかもしれないが、一応顔を見がてら報告しにくることにしよう。
昼食後、看護師が台車を持ってやってきた。荷物を載せて廊下に出ると、吉又さんが驚いたようにこちらを見ている。何も言わずにこちらにやってきた。何か言いたそうだが、看護師がいるので何も言えないようだ。看護師と私の後を何も言わずについてくる。今までは施錠されていなかった病棟からのドアの鍵を看護師は開け、私が台車を押して出ると、吉又さんも続いて出ようとして、看護師に止められた。やっぱり何か言いたかったんだ。振り返ってみるがドアは閉じられ、看護師は廊下の先のエレベーターに乗るように私を促した。「こちら鶴橋商店街派出所」の漫画もまだ数巻しか読んでいないのに…。
三階開放慢性患者病棟
エレベーターは中央の廊下を挟んで南と北に一基ずつある。今までは一階にいたのでエレベーターにはほとんど乗ったことがなかった。三階に上がると病棟の入口までは一階と似たような作りだが、病棟の中に入るとイメージが全く違う。
まず、ホールが広い。一階の閉鎖と開放それぞれのホールの広さを会わせた分だけのスペースで一つのホールになっている。その分患者の定員も多いので、六十席くらいある。ただし、その人数分の席を確保するために、窓際にぐるっと外向きのカウンター式の席が十五席くらい作られている。
一階は閉鎖と開放合わせた定員が五十人足らずだったから、ほぼ同じスペースに、十人以上定員が多くなっている。その分、四人部屋が多いのだろう。
一階の看護師が三階の看護師と交替して病室に案内する。看護師は廊下の途中で、
「お風呂はここです。水・金の一時からですが、月曜日はその時間シャワーだけなら使えます。そこの掲示板に一週間のOTの予定とか書いてありますからまた見といてください。食事の時間は一階と同じですが、ここは体操をやりますからね。」と説明しながら廊下の突き当たりを右へ曲がった。
一階の閉鎖はL字型だったが、ここはT字型である。そうだ、一階の保護室の部分が三階にはないのか。その分だけ廊下が長く、病室が多いのだろう。一階は詰所を挟んで閉鎖と開放に分かれていたが、三階は男性病棟と女性病棟に分かれている。別にドアで仕切られている訳ではないが、男性患者が女性病棟へ行ったりすることはないようだ。たまに車椅子のおばあさんが男性病棟の障害者用トイレに来ているのを後日見たことがあるが、女性病棟の障害者用トイレに誰かが入っていたから、わざわざ遠いところまで来たのだろう。
看護師は、廊下の一番端の病室の右奥のベッドに私を案内した。三階の窓からは景色がよく見える。田畑の向こうに見える小山の緑が鮮やかだ。
「引き出しの鍵はこれです。ゴムの長さこれくらいでいいですかね。あ、それから体温計ありますか?なかったら売店で買っておいて下さい。朝自分で計って、脈拍と前の日のトイレの回数を書き入れてもらいますから。」
なるほど、自分のことは自分でする自立性がある程度要求されるわけか。その辺が一階との違いだな。しかし体温計は売店でいくらするのかな…。
看護師が出て行くと、まず同室の患者に挨拶しておいたほうがいい。向かい側、左奥の患者は寝ているようだ。入口右手前の患者は白髪が短髪で床屋に行きたてといった感じの、小柄な七十代に見える老人である。
「一階から来ました。猫目と言います。宜しくお願いします。」
包丁爺さん
「一階か、わしも雪月まで一階に居ったんやが、そんときはあんた見てないな。あんた一階に居ったんはいつからや?」
「桜月の月末からです。最初閉鎖にひと月くらい居りまして、それから開放に移りました。」
「わしはもう三階に来て、四・五ヶ月になるんやなあ。もうこんなとこ早よ退院したいわ。」
「体温計がいるんですよね。売店で買われたんならいくらしたか覚えてみえます?」
「そんなもん買うとらん、金もったいないし。毎朝書かなあかんけど、適当や。何か書いときゃええんや。」
いきなり適当に対応する方法を教えてもらったが、後で売店が閉まるまでに買ってこよう。
「あんた猫目さん言うんか、変わった名字やな。わし星野徹夫や。ここは話す相手がおらんでつまらんわ。まだ一階の方がよかったな。向かい側の石田さんは昼間はおらへんし、おっても何しゃべっとるかわからへん。話合わんわ。ほんでそこの若い人は、今も寝とるけど、よう寝とる。ちっともしゃべらんしな。あんたもまだそんに年いってないな。五十前かな。」
「今五十七です。」
「あ、そうかな。若う見えるな。わしはもう七十五やでな。もう年や。弱ってきとるで、はよ家帰りたいわ。しょうもないかかぁが入院させやがったもんで、なかなか帰れやん…。あんた普通に見えるけど何で入院したんやな。」
「ノイローゼみたいなもんですけど、どうも去年頭の手術する前から調子おかしかったみたいです。頭のここから腹まで管が通ってますんやわ。」
そう言って近づいて頭を触らせてみた。
「ああ、本当や。えらいもんやな。わしも胃ぃ切って半分取ってある。」
そう言うと星野さんは服をめくって腹の手術後を見せてくれた。
「昔はな、わし六十五キロくらいあったんや。もういま五十キロもないやろ。腕もこんに細うなってしもたし…。」
そこから星野さんは入院前の経緯を話し始めた。前後する話を時代順に整理すると、中卒で工場に就職した星野さんは、工場の規模が大きくなっていった時点で、会社から金を出してもらってフォークリフトの免許を取り、以来定年までフォークを運転してきた。結婚は遅かったそうで、奥さんは十歳くらい若い。子供は皆独立して奥さんと二人暮らしだが、奥さんの年金のほうが自分より多いらしい。しかし、数年前家をリフォームするのに自分が借金をし、その時奥さんは自分の金を出さなかったそうだ。その頃から仲が悪くなり、いわば「家庭内別居」で居室も別、食事も別、星野さん曰く「自分だけうまいもん買うてきて、俺には何にもくれやんと食っとる」そうだ。
そんな日頃の不満が爆発し、奥さんに包丁を突き付けて入院させられたという。それでも時々病院を外泊して、数日間家に帰ることが一ヶ月のうちに数日あるそうで、受け入れる奥さんも大変だろうが、筒井さんの所ほど旦那に愛想を尽かしていないということだろうか、それとも旦那の言うことを聞いてやらないと、何をするかわからないから仕方なく受け入れているんだろうか。
「そんなん、本気でやったんとちゃうでさ、ちょっと腹立っただけやのにさ、家に帰ってたら包丁とかハサミとか全部隠してあんのさ。料理も何にもできせんわなぁ。」
ひとしきり話すと星野さんは、「ちょっと散歩にでも行ってくるわ、中庭の池に亀がおんのや。あんたも行くか?」と誘ってくれたが、やはり売店が開いているうちに体温計を買いに行っておこう。「荷物片付けるので、また明日にでも見せてください。」と言っておいた。
投石爺さん
売店で高い値段の体温計を買って病棟に戻ると、左手前のベッドに石田さんがいた。仰向けになって休んでいる。
「あ、今日の午後ここに入りました、猫目と言います。今まで一階の閉鎖と開放にいましたが、今度一階の開放が閉鎖に改装されるので、こっちに移ってきました。脳腫瘍で脳味噌七センチ切りとってますので、何かご迷惑かけるかもわかりませんが、宜しくお願いします。」
「は、あ、こっちらこそ、よっろしくお願いします。石田です。僕も糖尿病で導尿しってますので、器具がその辺に置いてあるし、昼間は『平和の家』ていう、さっぎょうしょで作業して、掃除の日とか何にもようせんし、しゃっべるのが苦手やもんで、迷惑かっけますけど、よっろしくおっねがいします。」
喋るのが苦手という割にはよくしゃべる。喋るのは不自由でも嫌いじゃないんだ。その後も石田さんは星野さんがいないときによくしゃべりかけてきて、その経歴をまとめるとこんなふうに理解できる。
石田さんの実家は裕福で、次兄は会社社長をしているが、長兄は別の病院に腎臓病で入院している。若い頃は父や兄のつてで会社勤めをしていたが、二十八歳の時、ある人と結婚しようとして、自分の家族からも相手の家族からも反対され、自暴自棄になって自分の家に投石し、窓ガラスを半分以上割って入院させられた。
その時はまだこの病院はできていなかったので、別の精神科の病院に入っていたが、入退院を繰り返すうちに、兄の家にも居づらくなり、この病院に転院したり、この病院併設の援護寮に入ったり、また入院したりして、現在六十四歳である。
ここの援護寮にいた時は、食費の支給が一日八百円で、それでおかずやおやつを買わなくてはいけなかったので、ろくなものしか食べられなかった。だから食べるものに関してはこの病院にいたほうがまだいい。しかし、援護寮にいた時は貯金が十五万ほどできたが、今は昼間「平和の家」という精神障害者共同作業所に通って作業をしているのだがが、昼食代の二百円を引かれると、一日の「作業代」は数百円にもならない。いずれにしても自分の金を自分で使うことができないので、兄さんに二週間に一度ほど来てもらって、小遣いを現金で貰っている。それで缶コーヒーを買って、ホールに自分用の貸し冷蔵庫を借りて、そこから出して飲んでいる。貸し冷蔵庫は病院洗濯と同じように、病院への預り金から引かれるので、現金を使わなくてもすむのである。
石田さんも星野さん同様、病院から出たがっているが、出ても住む家がない。十五万円で冷蔵庫と洗濯機と炊飯器を買ってアパートで一人で暮らすというのが石田さんの目下の夢である。何度も繰り返すように石田さんはそのことを語るが、実現しそうにないのは本人もわかっているようだ。どうせ「棺桶退院」するしかないと、半ばあきらめて言うことも少なくないからである。土・日は「平和」が休みなので、石田さんのベッドの枕元では一日中ラジカセから鳥倉智恵子の「カセットテープ」が繰り返し小さな音で流れている。
「久しぶりに手を取って、母子で歩ける喜びに……」それを聞きながらベッドでゴロゴロしている石田さんは、妻も子もない孤独な人である
。
コロバン体操
初日に石田さんから聞いた部分はこれらのうち、ごく一部だけで、午後四時には放送が入ったのでホールに行った。
「いまからコロバン体操をしますのでホールに集まって下さい。」
ホールには男女合わせて二十人くらいだろうか、患者が集まっている。看護師や補助員も数人いる。CDラジカセから音楽が流れ、皆と向き合って前に一人、指導者(?)が太極拳のようなゆっくりした動きでバランスをとりながらゆっくり体を動かしている。指導者は患者の一人と思われる六十歳前後の女性である。皆の手本をするだけあって慣れたもので、体のふらつきはない。患者たちはというと、様々だ。上手な人もいれば、片足を挙げるとふらつく人もいる。老人が転ばないように体を動かしましょうという趣旨だが、星野さんも石田さんも来ていない。よく見ると女性患者の方が断然多い。白髪の小柄な七十代に見えるおばあさんが一番上手だ。バランスもいいし姿勢もいい。指導者の女性より上手なくらいだ。思わず近くにいた看護助手の、上沼と名札に書かれた女性に、
「あの白髪のおばあさん、姿勢もバランスもいいし、前にいる人よりも上手ですね。」というと、
「ようみてますねぇ、堀さんやね。あの人畑仕事やらせると一番手際がええわ。体は小さいけど、よう動くし、働きもんやわ。ほんでも前へ出るの本当にいやがって、前ではせえへんのやわ。」ということだった。
「若い頃体操の選手やったんですかねえ?」
「さあ、それは知りませんけど…。」
別にどうでもいいことを聞いてしまったが、上沼さんと言葉を交わすことができた。部屋に戻って星野さんに「体操してきました。」と言うと、「体操みたいなもん、俺ぁしたないなぁ、それよりまだ散歩のほうがええわ。猫目さん、晩飯まで散歩いかへんかな、散歩。」という返事が返ってきた。
「中庭に小さな池があってな、亀が五匹くらいおるんやわ。見に行かへんか。」と散歩に誘わた。
筒居さんと散歩した時には全く気付かなかったが、一緒についていくと、確かに中庭の小さな池に、星野さんが石をぽちょんと投げ込むと、もぞもぞと亀が二・三匹現れた。
「な、居るやろう。」と、星野さんは得意げに言った。なぜこんなところにいるのかわからないが、星野さんはよく見つけたものだ。
「他に面白いものは何にもないわ。」と、しばらく池にぽちょんぽちょんと石を投げ込んだ後はゆっくりしたペースで病棟の外周を一回りして帰ってきた。
「猫目さん足早いなあ、こんどはもうちょっとゆっくり行こに。」
星野さんは筒井さんよりも歩くペースが遅かった。やはり六十代と七十代の体力の差だろうか。こんどからもっとゆっくり付き合ってあげよう。
食事も隣で
一階閉鎖はほとんど「自由席」、一階開放は多くが「指定席」であったが、ここ三階開放はほとんど「指定席」のようだ。慢性患者で入れ替わりが少ないだけに、自然とそうなっていったんだろう。
「ちょうどわしの隣空いとるで、そこにするとええわ。」ということで、食事の席も星野さんの隣ということになった。
しかし、なぜそこが空いていたかというと、そこはちょうど食事のワゴンを置く場所の一番近くであり、配膳の時に患者がそこに集まってくるので、椅子の後ろ側が窮屈になるからであることがわかった。
まあいい。ワゴンが来る前に席を離れ、皆がトレイを持って席に着いた最後くらいに自分のトレイを取って席に着けばいい。そのほうがトレイに乗っている自分の名札を探す手間も省ける。残っているトレイの中から見つければいいからである。
四人掛けテーブルで私が席に着くころには他の三人はもう食べている途中である。隣の星野さんは食べるのが遅い。しかも時々ご飯やおかずを箸からこぼす。私の正面に座っている患者は流動食をスプーンで食べているので、食べ終わるのは早い。斜め向かいの患者も普通食だが食べ終わるのは早い。結局向かい側の席はこちらより早く空席になり、私と星野さんは食後の薬とお茶を飲みながら会話を交わす。
「今日のこの煮物なあ、これ味薄いわ。」
星野さんは結構食べ物にこだわる。好き嫌いもあって嫌いなものは食べない。自宅では自分で一体何を作って食べていたんだろう。外泊して自宅にいる時も自分で何か作ったり買ったりしているんだろうか。それとも「自分だけうまいもん食って、わしには何もくれへん。」というのは誇張表現なんだろうか。そのあたりを詳しく聞こうとしても明確には答えてくれない。答えたくないことは聞かない方がいい。
そんな訳で私と星野さんの食事が終わるころには辺りには人が少なくなっていることが多い。星野さんがトレイを返しに行った後のテーブルと椅子と床には食べこぼしが落ちていることがよくあるので、そんな時は、私はホール横に置いてあるトイレットペーパーを右手に二・三回くるくるっと巻き付け、水で少し濡らしてテーブルを拭いて椅子を拭いて床を拭いて、それをごみ箱に捨てる。別に恩着せがましくやっているわけではない。自分もその席を使って新聞を広げたり、テレビを見たりすることがあるからやっているだけだ。他の席でも新聞を広げようとする時には、テーブルに何か食べこぼし、飲みこぼしがついていないか確認するようになってしまった。
医師の診察
午後、妻が来て森医師と三人で面談する。入院時に比べて最近積極的な行動や会話が目立つようになってきた。これを回復期の状態と見るか、それとも「躁転」(躁-鬱の一時の状態)と見るか、判断に迷うところである。回復期の状態であるならば薬を減らす必要はないが、躁転であるならば、①抗鬱剤を減らす。②抗鬱剤を止める。③気分安定薬に変える。④抗鬱剤と気分安定薬を併用する、という方法が考えられる。
①抗鬱剤減らしてどうなるかを見てみた方が良いと思われるが、その結果が現れるのに数週間程度かかる。②抗鬱剤を止めると、もとの鬱状態に戻るかもしれない。③④気分安定薬を使用すると、躁転でないならば、どう変わるかわからない。
結局夕食後の抗鬱剤(サインバルタ)を減らして、どう変わるか様子を見るのに二週間くらいはかかるが、その間通院よりは入院の方が無難であるので、二週間後くらいに判断し、その時調子が良ければ退院する方向でどうかと提案される。現在は任意入院であるので、医師の判断による例外を除いて自分で退院を決定することができるが、とりあえずその頃まで入院することにする。
行動は入院時より良くなったものの、物忘れは相変わらず激しい。人の名前など聞いたことをすぐ忘れたり、検温・点呼・体操など何かするべき時間を忘れたりする状態は、改善されていないように思う。
電話をかけるために、電話番号を書いた紙を持って、受付付近の電話に行く途中に、十円玉を用意しようと、売店で缶コーヒーを買ってお釣りを十円玉でもらい、電話機まで行ったら、電話番号を書いた紙をなくして電話がかけられないとか、雨が降りそうなので傘を持ってコンビニに行き、傘立てに入れて出る時に忘れて、途中で雨に降られたりとか、紙とボールペンは必需品で、そこにいちいち書いておかないと、行動がおぼつかない。それも事細かに書いておかないと、例えば「十円玉」と書いただけでは、それを見て、「この十円玉ってどういう意味だったっけ?」と思うありさまである。
森医師より、その記憶力の低下については、発病前からそういう傾向があったかどうか聞かれたが、自分としては以前はこのように物忘れが激しかったとは思っていないと答える。
早朝から「えらいこっちゃ」
眠剤を飲んで眠ると早朝に目が覚める。明るくなる前からベッドでゴロゴロしていると、廊下からちょっと大きな声が聞こえてきた。
「えらいこっちゃ、うんこが落っとる!うんこが落っとる!」
声の主は御手洗さんのようだ。御手洗さんは四十前後の腹の出た男性で、よく食事を残して看護師に叱られている。石田さんと一緒に「平和」に、なぜか毎日ではなく週二回行っているが、石田さんに言わせると「あいつはちょっともしっごとせん」そうである。仕事せずにお菓子ばかり食べ、病院でも間食にカップうどんを食べて食事を残すらしい。
しかし、性格は社交的で、最初に挨拶した時に「猫目です」と言ったら、「何?猫て、犬・猫の猫か?ほんならあんたは『猫ちゃん』やな。」とちゃんづけされてしまった。
その御手洗さんが「うんこが落っとる!」を繰り返しながら、看護師を呼びに行っている。廊下に出て見に行くと、確かにトイレ近くの廊下に点々とうんこが落ちている。
実は自分も軟便剤を飲んでいて、最近は場合によっては急に便意がきてから一分ももちそうにないことがある。閉鎖にいた頃は便が出ずに苦しんでいたことがあったが、最近はその逆だ。おそらく「犯人」も夜中に急に便意が来て、トイレまで持たなかったのだろう。しかし、それをそのままにしておくとは…。
部屋に帰ると、星野さんや石田さんはまだ眠ったままだ。だが、左奥の寺元さんは体を起こしていた。寺元さんは痩せて髪も髭も伸ばし放題だが、よく見るとまだ若そうな人だ。普段は食事以外は寝てばかりいるが、この騒ぎで起きたのだろうか。一度も喋ったことはなかったが、話しかけてみた。
「こんなことはよくあるんですか?」
「ここはいろんなことが起きますよ。あまり興味ないですが。」
「寺元さんはどんなことに興味があるんですか?」と聞くと、読みかけの分厚い本を渡してくれた。
『キリストの悟り』と書かれている。
寺元さんの悟り
「キリスト教にも『悟り』があるんですか。」と聞くと、
「キリストの悟りも、仏教の悟りも根本では同じだと思いますよ。」という答えであった。
「あ、そうですか。詳しいんですね。」
寺元さんは結構大きなお寺の次男で、インドに旅行してガンジス河で沐浴したこともあるそうだ。しかし、キリスト教に興味を示し、というか、キリスト教に傾倒してしまい、実家の父や兄と論争の果てに、何もかも投げ出して、今はこの病院で毎日寝るだけの生活をしているようだ。
本をぱらぱらとめくって、「キリスト教の『悟り』ってどういうもんなですかねぇ。」というと、
「『わたしについて来なさい。あなた方を、人間をとる漁師にしてあげよう』というのがマタイ伝にあります。漁師になるというのが真宗で言うところの『南無阿弥陀仏』、つまり阿弥陀仏にすがるということになると思いませんか?」と聞き返された。
いきなりそんなこと聞かれても答えられるもんかと内心では思いながら、
「はあ、よくはわかりませんが、近くに図書館があるで、いっぺん行ってみたらどうです。こないだいっぺん行ってきたんですわ。医療大学の図書館やで医学書が多いけど、一般図書もあるようやから…。行ったことあります?」
図書館と聞いて、ちょっと興味を持ったようだったが、「大学」という言葉に、彼は静かな、しかし堅い拒否反応を示したようで、
「いや、いいです。」と、即答されてしまった。
自分の素人考えでは、「キリスト教に悟りなんかあるのかね」と思ってしまうが、「悟り」というのを、「父と子と聖霊」への信仰心の確立と捉えれば、「南無・阿弥陀仏」という念仏を唱える行為もそれと同等だということが言えるのかもしれない。だが、少なくとも、いわゆる上座部仏教のいう、輪廻転生を断ち切るために自ら切り開いていく「悟り」とは意味が違うんじゃないの、とも思ったが、とにかく、早朝のうんこのおかげで、寺元さんと話ができたのは何だか収穫であった。しかし、星野・石田・寺元という三人では、これは話をする接点は今までほんとに何もなかっただろうなあ…。
病棟一週間の日課
筒井さんに三階の様子を伝えるために、掲示板に貼ってある一週間の日課を書き写してみた。紙は朝一番で手に入れた、新聞のパチンコ屋の折り込み広告の裏である。裏白チラシを欲しがる人は何人かいるので、新聞ストッカーから昨日までの分を探しても、裏白チラシはまず残っていない。B四のチラシをを半分に折り、折り目で破って、一週間分を書き写した。
六時、起床。七時、朝食。八時二十分、検温・点呼。八時三十分、(月)朝の会、(火)ラジオ体操、(水)環境整備(掃除)、(木)ラジオ体操、(金)朝の会。九時、作業グループは職業前訓練。九時三十分、病棟OT(月)リラックス体操、(火)カラオケ、(水)ゲーム、(木)園芸グループ(男)、(金)書道。十時三十分、園芸グループ(女)。十一時三十分、昼食。十三時、ペットボトル体操。その後(月)(水)(金)風呂(男→女)、(火)スポーツグループ
(木)卓上活動。十六時、コロバン体操。十七時三十分、夕食。十九時、点呼。二十一時、眠剤、消灯。二十三時~五時、禁煙(喫煙室施錠)
ざっとこんな感じである。火曜と木曜は体操が一日三回もある。閉鎖病棟もOTはあったが、参加者は少なかった。一階開放は閉鎖よりも参加者は多かったが、ここは一階よりも患者の人数も多いだけあって、OTの回数も内容も多いようである。禁煙タイムも閉鎖や開放より長い。総じて一階よりも規則が厳しい感じである。それだけ患者の自立性が求められているのが三階病棟の特徴だろう。
午後の「ペットボトル体操」が終ってから筒井さんに報告しに行ってみよう。「ペットボトル体操」とは何かというと、両手に水の入った五百ミリリットルのペットボトルを持って、それを振りながら踊るという、「コケヤン体操」よりは難易度が高い体操であった。
慣れないと動きについていけない。前で踊る「指導者」は四十代半ばの男性患者だ。後日その人と話をしたことがあってその時わかったが、名前は松山さんといい、この病棟のリーダーというか、学級委員長的存在であり、こまごまと患者や病棟の「世話焼き」をしてくれているが、障害者手帳を持っているらしい。そのせいか、体操の「お手本」の動きをしてくれるのだが、時として自分がこけそうになってしまう時がある。
はっきり言うと、松山さんよりは堀さんのほうがよっぽど上手だ。前を見ずに横を向いて、堀さんの動きを手本にしてやってみるが、私は慣れないこともあって上手には踊れない。周りの患者たちもあまり上手じゃないし、やる気なさそうな患者も少なくない。これも概して女性患者の方が出席者も多いし、真面目に取り組んでいる多いが、患者達よりも看護師や補助員達の方がよっぽど慣れていて上手である。
おーい、筒井さぁん
三階の方が制約が多そうだが、そのことを筒居さんに知らせに行こう。一階まで降りて、病棟の入口ではなく、外に回って病棟の突き当たりの廊下の窓の外から筒井さんがいるかどうか覗いてみる。窓を叩いて、十センチほど開けてもらう。開けてくれたのは吉又さんだった。
「あ、こんにちは。突然三階に移ってしまいましたが、お元気ですか?筒井さん見えましたら、ちょっと呼んでいただきたいんですが…。」
窓の縁にペットボトルに水を一杯に入れて、何かの儀式をしていた吉又さんはちょっと不機嫌そうだったが、何も言わずに筒居さんを呼びにいってくれた。しばらくして筒居さんがやってきた。
筒居さんは今までいままで寝ていたようで、ちょっと眠そうだった。
「筒井さぁん、元気ですか?三階は体操が一日三回もある日がありますけど、風呂も週三日入れますよ。物干し場からの見晴らしもいいですよ。一週間の日課を書いてきたんで見てください。」
「ああ、ありがと。なんだか、端の部屋から順に工事するらしくってさぁ、部屋変わんなくちゃいけねぇらしいんだよ。俺、どこに変わるんだろうと思うと不安だねぇ。猫目さんの三階の部屋って空いてねえの?空いてねぇ。そうか…。」
不安症の筒居さん、ちょっと元気がなさそうだ。もし三階に変わったらやっていけるだろうか、このまま一階にいたほうがいいんだろうか?他人事とは言え、いや、他人だから判断できない。難しい問題だ。
星野さんと大学へ
翌日朝食後、また星野さんに散歩に誘われた。大学の図書館の話をすると興味を示し、一緒に行くことにした。大学までは私の足で十分くらいだが、星野さんと一緒だと二十分くらいである。途中の日陰で休み休みしながら大学に着いた。時刻は九時二十分、ちょうど一限目が始まったころであった。
「ほおう、大学て、大きいもんやなあ!」というのが星野さんの第一印象である。
「大きいから大学言うんや。」とでも言おうかと思ったが、花井頑骨でもないからやめておいた。しかし、言われてみれば確かにその通り、これくらい広い空間を敷地内に取る施設というのは、他にはテーマパークくらいなものか…。一限目が始まって、人が歩いていないだけに、よけいに広々感じられる。
キャンパス内のベンチで途中また休憩し、図書館に入って受付で名前を書き、名札を付けて館内を見て回る。たまたま星野さんが手に取った医学書にはMRI画像がたくさん載っていた。
「ほう、こんなもん(人体の中身)が見えるて、えらいもんやなあ。」と、感心することしきり。階段を上がって一般図書も見て回り、一冊持って、「ちょっと疲れたで座るわ。」と、長椅子に座りながらパラパラと見ていた。老眼鏡なしでも読めるようだ。そういえば病院でも新聞を裸眼で読んでいた。七十五歳にしてはある意味すごいもんだ。
館内を一周して図書館を出た後、大学内の売店に寄り、星野さんは缶紅茶を選び、「あんたも何か取りな。」と言って、私に缶コーヒーをおごってくれた。売店の横がレストランで、営業時間外のため電気も点いていなかったが、椅子とテーブルを使わせてもらった。星野さんは缶紅茶をちびちび飲みながら、
「りっぱなもんやなあ。病院に長いことおったけど、こんなもんが近くにあるとは知らなんだわ。連れてきてもろてよかったわ。」と感謝されたのであった。私が連れてこなければ星野さんは大学なんて一度も行くこともなく生涯を過ごすことだったろう。
須賀ちゃんと同い年!
病院に戻って、しばらく後、たまたま一階から三階に行くエレベーターに乗り合わせた「老人」に「俺いくつに見える?」と声をかけられた。目元にはシワが目立ち、後頭部は禿げ、残りの髪も結構白い。腕は細く、入れ歯をはずしているので、口元もシワっぽい。
素直に「七十くらいですか?」と答えると、
「ううん、七十とか八十とか時々言われるけど、今五十六、今年五十七や。」
な、何!五十七と言えば自分と同じ年ではないか!思わず今度はこちらが聞き返す。
「俺時々若く見られますけど、いくつに見えます?」
「ううーん、わからん。」
「俺も今年五十七やで!悟自羅年生まれやろ?」
「うん、悟自羅年の菊月生まれ。」
なんと、自分の方が何ヶ月か先に生まれているではないか。それにしても何という老け方!今まで完全に「老人」だと思っていた人が同い年とは…、何だか急にこの「老人」だと思っていた人に、強い親近感を抱いてしまった。
須賀ちゃんと煙草その一
翌日朝、私と水谷さんが喫煙室にいると、須賀ちゃんがすっと入ってきて「タバコ一本ちょうだい。」と私に言う。他の患者にものをあげるのはちょっとよくないという躊躇はあったが、同い年の「トモダチ」の証しを求められているような気もして、一本あげて火をつけてやったら、ほんの一・二口吸っただけで、灰皿の縁で火の着いた部分を取り払うように消すと、それを持って出て行った。
すると水谷さんが「あいつタバコあかんのや。」と、両手で×印を作った。肺が悪くて吸ってはいけないらしい。まずいことをした、と思ったが、「わかっちゃいるけど、やめられない」ことを許容してあげるのが「トモダチ」ではないのか、という、非論理的な感情が、二十世紀半端少年だった自分に湧いてきた。
「俺はタバコは吸うてもええで、まだええわ。酒はほんとはあかんのやけどな。」という水谷さんは、六十代半ばで小柄な男性だ、レンズの上半分がサングラスのようになった洒落た眼鏡をかけているが、老眼鏡でもあるとともに、極度の内斜視を隠すためのものでもあるようだ。
「俺も隠れて酒飲んどるけど、見つかったらえらいこっちゃ。ほんでも酒でも飲まんとやっとれんでなあ。」という水谷さんが小柄に見えるのは、胴が短いからでもある。
「俺はなあ、現場で指示しとった時に、三階から転落や。脊椎損傷で背骨四本取られてしもて、こんなん着けたままや。」というと、やわら服のボタンを外して腹を出して見せた。腹部にはギプスを止めるための、マジックテープのついた「腹巻き」が見えている。
「それまではなあ、鉄工所やっとって、よう儲かっとったなあ。現場を三か所も四か所も見て飛び歩いとった。景気もよかったしなあ。何か所も指示すんのえらいこっちゃったけど、俺はなあ、中学校の先生に『お前は頭がええで、将来は何かの社長か会長になるやろ』て言われたことあるんや。鉄工所の社長はよかったけど、転落したら、断酒会や患者会の会長や。」
「ほう。」「そうですか。」「そらえらいことでしたなあ。」時々相槌を打つと、水谷さんはタバコをチェインスモークしながら、時代的に行ったり来たりする話が止まらない。
「断酒会の研修で旅行行く時もやなあ、行く先とかバス会社とか全部俺が段取りしてさぁ。市役所に補助金貰うために書類書いて、申請も行ってさ。ほんで旅館ついて、ゆっくりしたら、酒も飲むわなあ。」
えっ、断酒会の研修旅行の旅館で酒宴?本当なのか、記憶が間違っているのかわからないが、この人ならやりかねない感じもする。
「昼間鉄工所で丁稚やっとった時は、夜は喫茶店でサンドイッチ作っとった。サンドイッチの味はなあ、キュウリやで。キュウリの切り方で味変わるんや。」
話はまだ続きそうだが、「また教えてください。」と切り上げて図書館に行くことにした。
須賀ちゃんと煙草その二
その日の十一時頃、図書館からの帰りにコンビニで煙草を一箱買ったらまたライターが付いてきた。中庭の喫煙所に入ったら、偶然?須賀ちゃんが入ってきて、「火貸して。」と言う。見れば今朝自分がやったであろう、先の焦げた煙草を持っている。よせばよかったかもしれないが、ライターを二個見せて、「これさっき煙草買うたらまたライターが一個付いてきたんやで。」と、得意げに見せてライターを渡したが、彼の力では圧電素子を押して点火することができない。「堅いわ。」と言って返してきたので、着火して、手を差し出して火をつけてやった。彼は真剣にタバコを吸った。
その日の夜、消灯前に須賀ちゃんが私の部屋に来て、廊下に手招きする。ちょっと恐れていたことになりそうだ。廊下に出ると、
「タバコ一本ちょうだい。」という。
「きたか。」と思ったが、「今日はもう一本やったでまた今度な。」と言うと、不服そうである。
「ほんならライターちょうだい。」と言ってきた。
うーん、昼間ライターが二つあるところを見せてしまった。一つあげてもこちらが困るということはない。同い年の「トモダチ」ならあげてもいいではないかと思い、
「これ、点けられたらやるわ。」と、言って渡してみた。すると何と、力強く圧電素子を押して着火させたではないか、執念に感心してライターをあげてしまった。
その翌早朝、また来た。「タバコ一本ちょうだい。」いかん、困った。困ったあげく、その場逃れで、「今日はあかん。明日やるわ、明日。」と言って追い返した。明日なら「二日に一本」というペースになる。これくらいならいいんじゃないか、あるいは、好きな煙草吸って死んでいくのならそれもそれでいいんじゃないか、という考えも浮かぶ。大体喫煙者は「体に悪い」ことを承知の上で煙草を吸っているんだから、喫煙者が喫煙者に対して、「体に悪いから吸っちゃダメ」なんて言える訳がないと思う。
しかし、このままではせびられることがエスカレートするかもしれないし、もし看護師に自分があげていることがばれたら、こっちも叱られるだろう。何とかしなくてはいけない…。
須賀ちゃんと煙草その三
そうだ、先手必勝。看護師に見つかる前に師長に相談しよう。朝八時二十分の夜勤からの看護師の引き継ぎの後、師長はなにやら日誌のようなものを書いている。それが終るのを見計らって、師長を面会室に呼びだした。
「すいません、お忙しいところ。実は須賀健二さんのことでちょっと相談があるんですが…。」これこれこういういきさつで明日煙草を一本あげる約束をしましたが、どうしたらいいでしょう、と切り出した。
師長はもうすぐ定年という感じの、眼鏡をかけた、ちょっと足の不自由そうなおばさんである。患者に対して、幼稚園児か小学一年生に対して話すような喋り方をする。
師長曰く、「一番最初に煙草をあげたのは知らなかったのだからしょうがありません。でもライターをあげたのはいけないことです。明日一本あげると言ったのもいけないことだから、今日のうちに本人に言って取り消しなさい。本人のことを思うならそれが一番いいことです。そのようにしても本人との人間関係が壊れることはありません。ライターは『返してくれ』と言っても返してくれない場合はこちらで取り上げます。」という返答であった。
そこでその後、須賀さんを「ちょっと相談」と、物干し場に誘い出し、
「明日タバコやるて言うたけど、やったらあかんて言われた。ライターも返せって…。」と話しだした。
「そんなこと、誰が言うとんのや。」と、須賀ちゃんは聞き返す。
「師長。」
「師長?」
「ごめん。師長に言うたんは俺や。裏切ったと思われてもしゃあないな…。」
「もうええわ。」須賀ちゃんは、怒ったような、困惑したような顔をしてその後しばらく無言だった。須賀健二に私の「誠意」は伝わっただろうか。しばらくして部屋に帰るそぶりをみせたので、私も自分の部屋に戻った。
昼食後、師長に「明日煙草をあげるといったけど、あげないことにしたと伝えました。ライターはまだ須賀ちゃんが持ってます。」と告げた。
「ライターを返してと言いましたか?」と師長が聞いたので、
「うーん、そう言ったと思います。」と、曖昧に返答する。
その後、やはり須賀ちゃんと顔を合わすと、どうも気まずい。どこかやりきれない怒りを感じているように見えてしまう。特に、その夜、須賀ちゃんと須賀ちゃんの担当看護師が、ホールのテーブルで話をしているのを見てからは、なおさらである。これから彼とはちょっと疎遠な関係にならざるを得ないかと思うと、なんだか後味が悪い。
悪い奴ほどよく汚す
夕食時、野菜の煮物はよく出るので気をつけてはいたのだが、ある時、煮汁をうっかり数滴ズボンに落としてしまった。前から見てちょうど真ん中くらいの場所である。たまたま白っぽいズボンだったので、煮汁の濃い色はよく目立つ。「しまった」と思い、食事後洗面所でトイレットペーパーを濡らしながら何回も拭き取っていた。煮汁色はなんとか目立たないようになりそうだが、ズボンは水に濡れた跡がだんだんと広がっていく。ズボンを別のものに履き替えて物干し場にでも干そうかと考えながら、まだしばらく拭き取っていると、後ろを誰かが通りながら、洗面所の出口あたりで私に聞こえるくらいの声の大きさでこう言った。
「悪い奴ほどよく汚す…。」
何?…!そうか、「病状が悪い患者ほど衣服や周囲を汚してしまう」ということか。なるほど、うまいこというねぇ!!と一瞬思ったが、ふと我に返ると何という失礼な奴だ、「誰だ!」と思って振り返って見たが、すでに洗面所を出て行ってしまった後で、誰が言ったのかわからない。
しかし、そんな気のきいた言葉を、自分で考えたのか?それとも自分が言われたことがあるのか?それとも、もっと「悪い奴」が同室にいて、医師や看護師が言っているのを聞いて、そのことばを覚えたのか?言った本人は松木清聴を知ってるのか?
いずれにしても、言った本人も入院しているんだから、自分も「悪い奴」の一人じゃないか。「五十歩百歩」だ。自分もそう言われたことがあるから、人にも言ってみたかったのかもしれないと考えると、なんだかさっきの腹立ちもだんだん収まっていった。
でも誤解すんなよ、小便もらしたんじゃねぇぞ!
医師の診察
先週木曜日より抗鬱剤を減らしたが、様子はどうかと聞かれる。入院時よりは活動的になったことは確かだが、発病前の「普通」の状態と比べて「躁」になりすぎていないかが懸念される。
しかし、減らしてまだ数日であるので、判断するにはまだ早いということで、もう少しこのまま続けることにし、妻と相談して次の日曜から翌日月曜まで自宅外泊をして、退院の練習をしたい旨を伝える。床屋の予約が月曜日の午後三時十五分になったので、それまでには戻ってくることにした。
ここの床屋は、市内の理髪店が週一日だけ出張して患者のために店を開いてくれる。調髪は七百五十円という破格の安さだ。ただし、顔そり・洗髪はそれぞれ別料金である。しかしそれにしても安い。 ただし安いだけあって、こちらの要望・注文は聞かれることはない。する方がやりやすいように調髪するのである。安い・早い・注文は聞かない。男性は誰しも概ねスポーツ刈りがちょっと長くなった感じになる。
実際、後日やってもらった時には、髪がかなり短くなって、夏向きで極めてさっぱりした頭になった。よく見ると、シャント手術のパイプの突起もわかるくらい短いが、病院内の患者や看護師たちは奇異な目で見ることもないから、別に気にする必要もない。その時分は、もう外の花壇にはハゼランの咲くような、暑い季節になっていた。
「藪の中」
おてがみ 星野さんと石田さんの担当の看護師さんへ
昨夜はいつものように夜九時前に眠剤をもらって床に入りました。眠れないときは十一時や十二時の時間も覚えていますが、この日は昼間図書館でインターネットを使って調べ物をしていて(転職するには何か資格をとったほうがいいと思い、この年でどんな資格が取れそうか調べていました。パソコンを一時間も使っていると、目がぼやっとしてきます。)、頭も疲れたせいか、寝つきが良かったようです。
しかし、その分、夜中二時頃に目が開いて、トイレに行って帰ってくると、行く時は気づきませんでしたが、部屋の左手前の石田さんのベッドから、石田さんと石田さんの掛け布団が消えていました。
そこでその時詰所に行って、「石田さんがふとんごと消えました。」と言うと、当直の看護師さんは事情を知っていたようでした。何があったんだろうかと思いながらも、部屋に帰って寝ました。
また四時頃目が覚めて、明るくなるまでゴロゴロし、その後洗面所に行って、喫煙室が開くまでホールをウロウロすると、ホールの向こう側の畳のコーナーで、石田さんが布団を掛けて寝ていました。
「石田さん!どうしたんですか?」と聞くと、星野さんに足で蹴られたということでした。
「おっれがイビキかくもんで、うるさいっちちゅうて足で蹴ってきたんで、コワイわ。もうコワておっれやんで、こっちぃ来たんや。」と、石田さんはそう言いました。
六時を過ぎて新聞を見た後、今度は星野さんにこう言われました。
「さっき看護師に呼ばれて、俺があいつ蹴ったやろとか言われたけど、俺蹴ってへんでなぁ。あんまりイビキがうるさいもんで、『イビキうるさいわ。寝られへんなやいか。』言うて、新聞でベッドの縁のとこ、こう叩いただけや。」と、星野さんは、数日前御手洗さんにもらったスポーツ新聞を丸く巻いて、ハエを叩くようにベッドの端をパーンと叩いて見せました。時間は十二時か一時だったそうです。
確かに石田さんはこれまでも、夜時々イビキをかいていました。月~金は「平和」に行って仕事(作業)をして疲れているのでしょう。私は幸い(?)にも聴神経腫瘍で前から左耳が聞こえにくかったのですが、ガンマナイフを受けてからは完全に左耳が聞こえませんので、イビキをかいていることはわかりますが、うるさくて寝られないほどではありませんので、寝てしまいます。
閉鎖にいたときの園丸さんのほうが、もっとすごいイビキをかいていました。昨夜もそんなことがあったなんて全く知りませんでした。ひょっとしたら起きていたのかもしれませんが、起きていた記憶は全くありません。
朝食が終ってから、寺元さんと部屋に二人だけになった時に、寺元さんに聞いてみたところ、寺元さんは夜中の音を知っていましたが、部屋が暗かったのではっきりとは見えなかったそうです。しかし、音の感じから、体を足で蹴ったのではなく、何かでベッドを蹴ったか叩いたかのような感じの音だったということでした。そのとき私が寝ていたか起きていたかはわからないそうです。
ということで、実際のことはよくわかりませんが、星野さんもご存知のように、もう七十五歳で、そんなに脚力もありません。その辺の事情も理解していただいて対応いただきますようお願いいたします。 猫目より
その日は土曜日で、石田さんは畳の隅に布団を畳んで、食事以外はずーっと畳コーナーから離れずに、その夜も畳で寝て、日曜日になっても部屋には戻ってこなかった。
一応の仲直り
「石田さん、星野さんも気ぃ短いで、あんなことしたんやろけど、いつまでもこんなとこに居る訳にもいかんやろ。導尿の道具も持ってきとるけど、こんな畳の上に置いとくのあかんで。なんとか仲直りして部屋に戻った方がええで。」
「そっやけど、あの人こわいでぇ。内緒の話やけど、あの人うちで包丁振り回して、そっれで病院入れられたんや。看護婦が言うとんの聞っいたことあるんや。何すっるかわからんで、恐て近寄れへんで。」
「それは知っとる。本人から聞いたことあるけど、奥さんとうまいこといかんと、ちょっと脅しただけやて。どこまで本当かわからんけど、もう年やで力もあらへんやん。石田さんの方が、まだだいぶ若いんやで。」
「ほっんでも、俺ももう体力あらへん。昨日と今日で思たけど、明っ日から、水曜日は『平和』休むことにしょうと思とんのや。最近あっにきも来てくれへんし、なっんかい電話しても『ふぁっくすの方は送信しってください』言うて切れて、誰も出えへんのや。こっこからふぁっくすて送れへんやろか。」
「コンビニからやったら遅れるで。水曜日休むんやったら、一緒に行ったるわ。五十円かかるけどな。石田さん金持っとる?」
「そっれくらいなら、まだあるけど、もう少ないで、あっにきが来ってくれて小遣い貰わんと困るんや。」
なんだか話が逸れて、石田さんとFAXを送りにコンビニに行くことになってしまった。こんどは星野さんと話をする。
「星野さん、あれから看護婦さん何か言うとる?」
「いっぺん四人で話しょうかて。いつまでもあんなとこに居らすのも良うないでなぁ。ほんでもあいつがいびきかくであかんのやで。いびきかかん奴と部屋代わって欲しいわ。別に俺が部屋代わってもええんやけど、俺はあんたと一緒の部屋のがええしなぁ。大学も連れててってもうたしさあ。あの売店の横のレストランなあ、ええとこやったやん。いっぺんあそこで何かうまいもん食いたいなぁ。病院の飯はもう飽きたわ。いっぺんあそこに連れてってくれさ。」
「うーん、あそこは昼と夕方しかやってないと思うけど、明日また図書館行って時間見てくるわ。ほんで行けたら火曜日の昼か晩に病院食キャンセルして、外食してきます言うて、いっぺんいってみよか。」
こっちはこっちでまた違う方向に話が逸れていってしまった。しかし不思議なことに、何で自分が爺さん二人の世話せにゃいかんのだ、という気にはならない。なぜだろう。自分の父親は、この爺さんたちのように、こっちの話を聞く姿勢というのが全くなかったからかもしれない。星野さんのように頑固で、石田さんのように臆病で、しかし私に対しては高圧的で、私の意見には耳を貸さない。父親というものはそんなものだろうか。
その後、星野さんと石田さんはそれぞれの看護師さん同席のもと、いろいろと説得された後、一応の「仲直り」をして、石田さんは部屋に戻ってきた。
カラオケは作業療法
閉鎖にいた時はカラオケは見に行っただけで、歌うことはなかった。歌う気もしなかった。しかしカラオケも「作業療法」だ。名前を書くと参加したことになる。七百円請求される。三割負担だから病院には二千円以上の収入だ。
月曜日に大学に行った時にレストランの営業時間を見てきたので、火曜日の夕方星野さんとレストランで外食する約束をした。昼は十一時三十分から十四時。夕方は五時三十分から七時とあったので夕方五時ころ出れば星野さんの足でも充分だろう。星野さんに
「夕方は五時半からで、夕定食は六百五十円やったけど、行く?」と聞くと、
「六百五十円?安いやないか。何食えるんやろな。楽しみやなぁ。」と行く気満々。食事のキャンセルは当日の朝でいいだろう。
夕食後、テレビを見ていたら、歌番組で「ガーデンホール目黒くん」が「あの大きなタアマネギイホオルでっ、もうじき、君に、逢あえるう…」と歌っていた。ある意味なつかしい。自分も歌ってみようかしら。明日は火曜日で午前中カラオケの日だし…。
翌朝、外食の旨をメモに書いて看護師に申し出ると、一旦は了解したものの、八時二十分頃別の看護師が病室に来て、
「夕方はスタッフが手薄になるで、行くんやったら昼食でもええやろ?昼食なら何かあってもスタッフも行けるでさあ。」と昼食に変更するように言われてしまった。患者の立場でいやとは言えない。
急遽星野さんを説得して昼食に変更することにした。
「カラオケは九時半からやけど、十一時には部屋にもどるでさあ。それから行こうに。看護師が夕方は人少ないで何かあると心配なんやて。」
星野さんは不服そうだったが、担当の看護師の名前も出して、なんとか説得したらもう九時を過ぎていた。気の早い人はもうカラオケ会場に行っている時間だ。
拍手の量は皆同じ。
リハビリ棟の作業所と反対側の端に、カラオケやゲームをするためのホールがある。カラオケセットや、ゲーム用の大きなボールや、電子オルガンが置いてあり、観客用の椅子が扇形に何列も並べられている。
早い人はもうすでに名前と曲名と曲番号を用紙に書き込んである。一応二曲目まで書けるが、一人五分とすると、だいたい延べ三十人くらいが時間の限界だから、二曲目を歌う人は、一曲目が皆終ってから時間があれば、というのがルールだ。
司会も患者がする。男女一人ずつ、計二名で、
「次は誰々さんの何々です。それでは誰々さんどうぞ。」と、棒読み台詞を交互に言う。今日の男性の司会者は、喫煙室でよく顔を合わせる梅村さんだ。梅ちゃんはよく自分では、
「俺昔は賢かったんやで。」と言うが、口の悪い若い者から、
「ボーちゃん。」「ボーちゃん。」と、からかわれている。
自分も曲を一応二曲書き入れて、順番を待つ。観客はざっと三十人くらいだから、病棟の患者の約半数が来ていることになる。しかし歌わない人もいるし、たいていが一曲だけなので、二曲目も歌えるだろう。
最初は須賀ちゃんだ。須賀ちゃんは自分の得意曲のリストを紙に書いて持っていて、局番号もそれを見てすぐ書ける。歌を聞いてみると、正直上手くない。マイクが近すぎて声がマイクに乗っていない。
二人目の女性はもっと下手だ。緊張して手を震わせながら音程やリズムを外して、声も出ていない。まあ中には、「長年カラオケ教室に通ってました」とでもいわんばかりの患者が、
「親あのお、血を引くう、きょうだあいい、ぶうねぇわああぁ」とか得意げに熱唱するが、それはそれで、他の人よりは慣れているというだけのことだ。だから皆、上手でも、下手でも、歌えなくても、終わってからの拍手の量は皆同じである。これはカラオケ大会ではなく、リハビリなのだから、上手下手は関係ない。自分の番だ。口を大きく開けてリハビリをしよう。
「…道玄坂の、急な道を、駆けぇ下りぃてぇ、ぼくはずっとぉ涙をこらぁえてぇ…」
拍手は一緒だ。後で夜に七十代の眼鏡をかけた、一見矍鑠としたように見えるが、洗濯機に靴を入れて洗おうとしたりする小野さんに、喫煙室で「猫さん、歌うまいなぁ。」と言われたが…。
しかし、十一時の十分前になってもまだ二曲目が回ってこない。やきもきしていると、五分前になって回ってきた。
「WarkAwaeey、(ウォーカウェイ)ゆっくり行ぃこかぁ。(ウォーカウェエッイ)連うれてええ、(ウォーカウェイ)行ってあげるよおおっ。(ウォウウォウウォー)…」
歌い終わって急いで部屋に戻ると、星野さんは連れて行ってもらうのを待ちわびていた。
レストランで介助(?)
外出ノートに二人分名前を書いて出かけようとすると、何だか天気が悪くなりそうだ。
「星野さん傘ある?」
「かさかぁ。」と言うと、星野さんはエレベーター横の傘立てから透明のビニール傘を一本無造作に取った。
「それ、星野さんの?」
星野さんはそうだとも違うとも言わない。こんなところで時間を取ると着くのが遅れる。追及しないでおこう。
私は自分の黒い傘を傘立てから取ると、二人でぼちぼちと大学に向かって歩き始めた。
星野さんは歩くのが私より遅いので、時々立ち止まって空を気にしながら星野さんが来るのを待つ。曇り空はいつ降りだしてもおかしくないような天気だが、日射しがないのはその分ありがたい。何度も星野さんを待ちながら、大学のレストランに到着した。
傘をロックキー付きの傘立てに入れて、自分のは鍵をかけたが、星野さんのはかけないでおこう。なくすといけない。時間は開店の五分ほど前だ。入口は開いている。
レストランに入ると、「まだですからもう少しお待ちください。」と言われるにもかかわらず、星野さんは「ちょっと休もに。」と、ずかずか入って行って席に座ってしまって、結局そこで開店まで待たせてもらうことになった。
「お待たせしました。どうぞ、食券買って下さい。」と言われて、星野さんを食券販売機まで連れて行く。なんだかこのあたりから、自分が「ヘルパーさん」になっていくような状況である。
昼食時間なので、残念ながら当初の目的の「夕定食六百五十円」の食券は無い。
「昼間やで夕定食ないんやわ。星野さん何にする?」
「チキンライスがええな。」
あいにくチキンライスはメニューに無い。
「チキンライスはないなあ。ハヤシならあるわ。俺カレーにしょう。星野さんどうする?」
「俺もカレーにするわ。」
それじゃあと、まず自分の食券を買う。カレーもハヤシも四百円だ。安いので五百円のカツカレーにした。千円札を入れて食券を取り、お釣りの五百円を財布に入れている間、星野さんから少し目を離していた。
「出てこうへんで。」と星野さんが言うので、
「出てこうへんって、カレーのボタンを押さなあかんやん。」と、カレーのボタンを押してあげて、食券を星野さんに「はい。」と渡そうとしたら、ありゃ!星野さんは既に食券を手に持っている。
「しまった、星野さんは『おつりが出てこうへん』という意味で言ったのであった。」
お釣りボタンを押すと二百円出てきた。店員に事情を話してチケット一枚を返品し、四百円返金してもらって星野さんに渡した。
チケットを店員に渡すと、「サラダバーがありますのでどうぞ。」と言われた。そういえば入口に「ランチタイム・サラダバー」と書いてあったようだ。
レストランとは言え、学食なのでセルフービスである。トレイに箸とスプーンとサラダ用の皿を載せて星野さんに渡し、自分は自分の分を持って、星野さんをサラダバーコーナーに誘導する。開店早々で他に客がいないのは幸いだ。しかしそのうち混んでくるだろうと思いながら自分の分を取って星野さんを見ると、皿からこぼれるくらいあれもこれも載せようとしている。
「あんまり取るとあかんで。食べられるだけにするんやで!」
と思わず語気を強めてしまった。それは自分でも不思議だった。もしも病院の食事にサラダバーがあって、星野さんが取りすぎたとしても、自分は何も言わないだろう。病院では、例え仲が良くても、自分も星野さんも同じ患者同士だから、指示したりされたりする関係ではない。しかし、ここでは自分が星野さんの行動の責任を負う立場にいると感じてしまったのである。
もうすぐ混んで来るだろうから、席を奥の方に取ろう。トレイを二つともそこに置いたまま、星野さんを奥の席に誘導して座らせ、
「ここで待っとって。」と言って、カレーとサラダと箸とスプーンの載ったトレイを一つずつ運ぶ。一度に二つ運ぶと自分がこけそうなので無理はやめよう。
「水持ってくるで、食べとってもええで。」と言って水を二人分持ってくる。星野さんはカレーをスプーンで食べるが、ちょっと食べこぼす。
「水おかわりする?」と聞いて、水を持ってくるついでに、紙ナプキンを取ってきて、テーブルと床の食べこぼしを拭く。なんだか完全に星野さんの「ヘルパー」になってしまっている。全くそんなつもりで来たのではないのだが…。
「あれ?あんたの、カレーに何かのっとるなぁ。わしのあらへんで。」私のカツカレーのカツに気がつかれてしまった。
「あ、一個食べるかね?」と言って、カツを二切れ星野さんの皿に乗せる。話をそらそう。
「どう?ここのカレー。旨い?」
「ああ、うまいうまい。病院のは味が薄いし、しゃびしゃびの煮物みたいや。ここのはええわ。安いしなあ。」
私は食後のコーヒーが飲みたくなった。カレーの後のコーヒーは、ブラック・ジョックでなくてもうまいと思うのだ。
「星野さん、コーヒー飲む?」
返事も聞かずに食券機で百円のコーヒーを二枚買って注文した。トレイに乗せてテーブルに運ぶ。このころには案の定、学生が次々と入ってきて、食券機には列ができていた。
私と星野さんは各々スティックシュガーとフレッシュを入れたが、星野さんは砂糖が足らないらしく、
「全然甘ないわ。」と言って自分でスティックシュガーを貰いにいった。二本貰ってきて私にも一本勧めたが、結局二本とも自分のカップに入れて、
「甘なったわ。」と言って飲んだ。ちゃんと混ぜたかどうか疑わしい。
「あんたぁ、几帳面やなあ。」
何のことかと思ったら、テーブルや床の食べこぼしを拭いていたことのようだ。病院でも星野さんが席を立った後にやっているのだが、今日はちょっとこれ見よがしだったかもしれない。
「うーん、まあ性格やで。別に嫌味でやっとんのと違うで、気にせんといて。気にする人は『何ちゅう嫌味な奴や』と思うかもしれんけど。」
「いや、あんたはよう気ぃつく人や。かかぁとはえらい違いや。」と言っている間にも、学生達はどんどん増えて席も混雑し始めたので、レストランを出ることにした。
寿命年齢
「腹膨れたで、ちょっとどっかで休もうに。」
星野さんはレストランの出口でそう言うと、ちょっと歩きだして、辺りを見回した。傘のことはすっかり忘れている。私は自分の傘と星野さんの傘を持って後を追う。
「それにしても大学は広いなあ。どこに何があるかわからんわ。」と、休もうと言いながらも歩きだしている。図書館方面に行く途中に、一見入口がホテルのような、会館のような「記念ホール」があり、星野さんは自動ドアから中に入って行った。
中に入ると、右手に誰もいないフロント、左手に誰かの胸像、正面に二十席くらいのソファとテーブルのあるロビーがある。
「ちょうどええわ。」ちょっと座ろ。
星野さんはソファにどっかと腰を下ろし、二・三分動かない。放っておくと寝てしまいそうだ。何か話しかけよう。
「星野さん、退院の見通しはどうやね?」
「退院、したいわ。院長は家族がええ言うたら退院できるて言うとうるけど、かかぁがあかんのや。退院してもええとは言わん。」
「奥さんとうまくいってないみたいやけど、時々家に帰っとんのやろ?」
「帰っとる。三日ぐらい泊ってくる。」
「奥さん料理とか洗濯とかしてくれへんの?」
「洗濯はするけど、料理は自分のしかせん。俺は自分で適当に何か食うとる。あんた、かかぁになんかうまいこと言うて、うちに帰れるようにしてくれんかなぁ。」
そこまで頼られても困ってしまうが、星野さんは気が短くて口下手で、奥さんに感謝の言葉など、おそらく一度も言ったことはないのだろう。
「そう言われてもなあ。俺は星野さんの奥さん知らんし、星野さん自分でなんか、うまいこと言えへんのかな。奥さん金持っとるんやったら、奥さんから金巻きあげるつもりで、心にもないお世辞でも言うたら、うまいこといくかも知れんで。」
「そんな、お世辞みたいなもん、俺よう言わんわ。あいつ金持っとるのに、家直した金自分は出さんと、俺が借金して返したんやで。」
「まあ、そういう気持ちもあるやろけど、星野さんも言うたらもうええ年やで、もう大体平均寿命ぐらい行っとんのやで、残りの人生おまけみたいなもんやん。奥さんに嘘ついて騙して金取れるだけせびり取ったるくらいのことしてもええんとちゃうか。」
とは言ったものの、星野さんが奥さんに嘘でもお世辞が言えるとは思えない。困ったもんだ。
衰退の兆候
ソファーで休憩後、「図書館行こまいか。」と、星野さんが行く気になっているので図書館に向かう。館内はそこそこ混んでいる。星野さんは「新聞読むわ。」と言って新聞に目を通し、新聞を棚に戻す時に、もとの場所に戻すことができない。棚にはそれぞれ「○○新聞」と書いてあるのだが、違うところに入れてしまうので、私が正しいところに入れ直さなければならなかった。
病院に戻った時も、持って行った傘を一階入り口の傘立てに入れようとする。
「星野さん、その傘三階から持ってきたんやろ。」と、言ったが反応はいま一つである。傘を持たせて三階に戻る。部屋に着くと、
「カレー旨かったな、安いしな。」と言って、昼寝をし始めた。
無事に帰ってよかったのだが、カレーの刺激が強すぎたのだろうか、それともコーヒーがよくなかったのだろうか。星野さんはその夜、二時頃ベッドで大便を漏らして看護師を呼び、シーツを替えてもらった。さらに明け方近くにまた漏らし、もう一度シーツを替えてもらった。
何だか責任の一端は自分にもあるような気がして、売店が開くのを待って消臭スプレーを買い、星野さんがいない時に、星野さんのベッドと周辺にスプレーを吹きかけまくった。
その三日後、早朝また部屋で便の臭いがする。また星野さんがいない時にスプレーを吹きかけた。寺元さんに、「まだ臭いしますか?」と聞くと、「いや、もう消えました。」ということであったが、星野さんは散歩に行かずにテレビを見ていることが多くなった。
石田さんと兄さん
日曜日に石田さんに渡しておいたレポート用紙には、「兄さんえ」という見出しで石田さんが金に困っている現状、電話をしても誰も出ずに切れてしまうこと、最近兄さんが来ずに、不安に思っている本人の窮状が十数行に渡って書かれていた。朝食後、二人でコンビニに行った。最近のコンビニは全く便利である。ATMもあれば、チケットも買える。通販の支払いもできれば、昔なら書店でしかできなかった検定の申し込みもできる。コピー、FAX、SDはやUSBはもちろん、ネット上に置いたファイルの写真のプリントや書類の印刷もできる。
石田さんにやり方を教えながらFAXを一枚送った。石田さんは電話番号を暗記していたが、うまく送れない。よくみてみると番号は市内であっても市外局番から入れないとだめなようだ。
「石田さん、市外局番から入れて。」と言うと、覚えているはずの番号が押せない。そこで私がまず市外局番を押して、その後石田さんに、覚えている番号を押してもらって送信した。
「これで今度FAXを送る時は自分でできますよね。」とはいったものの、電話が通じるようになったらFAXを送る必要もない。はたして、連絡は来るのだろうかと思いながら病院に戻ったが、その日も、その翌日も兄さんからの連絡はなかった。
その次の日の夕食時、石田さんが呼ばれた。兄さんが面会に来たのだ。ちらっとその姿を見ると石田さんに面立ちは似ているが、石田さんよりもずっと若く見える。面会室に二人で入っていって、しばらく話をしていた。
あとで石田さんに聞いてみると、自治会長の仕事が忙しくてしばらく来れなかったらしい。小遣いも五千円貰ったようだ。しかし、送ったはずのFAXは本人は見ていないという。誤送信してしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。送信確認票を見てみると、石田さんは確かにその番号だという。
どうも兄さんの奥さんが、兄さんにFAXを見せなかったらしい。
「あっにきの嫁さんは『ええとこの出』やもんで、おっれがこんな病院に入っとんのいやなんさ。かっかわりたぁないで、でっんわも切ってあるし、FAXもあっにきに見せへんのさ…。」
とりあえず五千円貰って、本人はほっとしたようだったが。兄さんは、奥さんがFAXを捨ててしまったことをどう思うのだろう。
ない煙草は吸えない
カラオケで司会をしていた梅村さん、通称梅ちゃん、五十歳。煙草の吸い方が変わっている。背中を丸めて急いで吸う。
「フッパ、フッパ、フッパ、ポンポン、と灰を落とす。フッパ、フッパ、フッパ、ポンポン。フッパ、フッパ、フッパ、ポンポン……」
「うめちゃあん、もうちょっとゆっくり吸えやぁ。」
「もう、まるで汽車みたいに煙吐いとるやないかな。」いくら他人から言われても吸い方は変わらない。
梅ちゃんの煙草『マコー』は「配給制」である。朝六時の起床時間に詰所まで一箱貰いに行く。それが一日分である。喫煙室は朝五時に開くが、その時間に梅ちゃんが外で待ち構えていることもある。
閉鎖病棟では部屋の扉も、中のカーテンも閉まっている部屋が多かったが、ここ南三階男子病棟は皆結構開けっぱなしであるので、他の部屋も廊下から中の様子がよく見える。それはそれだけ周囲の患者への信頼感の表れであるような気もする。夜中にトイレに行った時に、ふと梅ちゃんのいる部屋の中を見たら、梅ちゃんが眠れずにベッドの横の床にあぐらをかいて座っていた。夜中は煙草が吸えないから、ああやって座って過ごすんしかないんだろうか。
そんなヘビースモーカーの梅ちゃんが、あろうことか午後三時頃、手持ちの煙草が残り一本になってしまった。なぜそうなったかはわからないが、たまたま何もすることがなく、昼間ぼおっとしていることもできずに煙草を吸いまくったのだろう。少なくともカラオケの司会をしている時は、一時間半以上、一本も吸わずにいれるのだ。とにかく梅ちゃんは大慌てになって、周りの喫煙者に次々声をかけて回る。
「タバコ持ってない?持っとったら一本ちょうだい、いや明日返してもええわ。タバコ一本ない?」と頼み回るが、みんな結構冷たい。というか、梅ちゃんがどうするか冷やかに見ている。私にもくれと言ってきたが、たまたま私も残り少なかったので、「これは自分が吸う。」と冷たく拒否。
あたふたしながらも、ないタバコは吸えないので、イライラしながら翌朝六時まで我慢したそうだ。なーんだ、がまんすれば禁煙できるんじゃないの?梅ちゃん。
女同士のいがみ合い
結構太った中年女性の佐藤さんが、ホールの椅子に座って大声をあげながら、地団太踏んでいる。
「またや、あれでも前よりは良うなったんやけどな…。」と、水谷さん。いつものようなことらしい。
今日の原因は佐藤さんの風呂の入り方らしい。女風呂(といっても男風呂が終ってから同じ風呂が女用に変わるのだが)を待つ間、多くの女の患者がホールの風呂場に近いテーブルで、各自のシャンプーやらトリートメントやら着替えやら風呂桶やらの「風呂セット」を用意して待機しているのだが、佐藤さんだけずっと離れた場所に座っている。今日は何かのきっかけで、
「お前は風呂入るな!」と誰かから言われたようである。で、地団太踏んで、「何で私が風呂入ったらあかんのや。○△□▽?!!」ということになったらしい。
佐藤さんの地団太に対して、他の女性患者集団は無言で距離を置いて対峙している。看護師は、なだめ、すかし、諭し、押さえ…いろいろ大変だ。女性集団の中でおとなしそうな人も、佐藤さんの味方につく人は誰もいない。仮に佐藤さんの気持ちが多少でも理解できる人がいたとしても、ここで佐藤さんの味方に付くと、他の女性たちを敵に回すことになってしまうからだろう。
一体佐藤さんがどんな風呂の入り方をしていたのか知らないが、よほど回りに迷惑をかけるような入り方をしていたのだろうか。
しかし、これがもし男同士のトラブルなら、おそらくこういう構図にはならないだろう。誰かがシャワーを周りに飛ばして、横に座った患者が頭に来たら、文句を言ったりケンカになったりすることもあるだろうが、そういうケンカは大抵一対一だ。
本質的に男は皆一匹狼のようなものだから、個対個の関係で敵になったり仲良くなったりする。しかし女は「群れ」になることが多いから、仲良しも敵対関係もグループになることが多い。「女子会」という言葉は聞くことがあるが、「男子会」っていうのはあまり聞かない。
どこの「群れ」にも一人だけ入れてもらえない佐藤さん。原因はいろいろとあるんだろうが、なんだか気の毒のような気もするが、というほかないが、その一言で片付けてしまうには、佐藤さん個人の状況はもっと複雑なようである。
女集団対須賀ちゃん
以前煙草の件で私とぎくしゃくした関係になったと思っていた須賀ちゃん。そう思ったのは煙草の件の翌朝六時頃にホールで須賀ちゃんが自分の席に座って、
「あーー、もう、頭来る!□△※◇▽?!」と、何か言っていたからである。その後私は須賀ちゃんの機嫌をとろうと、新聞の裏白広告を朝一番で探して、何回か須賀ちゃんにプレゼントしてきたので、須賀ちゃんとの関係もよくなりつつあると思っていた。
その須賀ちゃんがまたある日、朝六時ころ、七時の朝食までまだかなり時間があるのにぐちゃぐちゃと文句を言っている。
よーく聞いてみると、何でホールの「自分の席」に、女どもが座りに来るんだというぼやきである。
「自分の席」は風呂場に近く、男の入浴が終るまで、女どもが自分の席を占拠しているのをぼやいているのである。入浴は午後一時からが原則だが、昼間「平和」に行って作業する人もいるので、そういう人は午後六時から入浴する。結局風呂の日は一日二回、須賀ちゃんの席が女性たちに占拠されるのである。その間須賀ちゃんは、「自分の席」で新聞を読みながら、それを裏白広告に書き写すという「勉強」をすることができないのをぼやいていたのである。
鬱病患者の朝は調子が悪い。自分もそうである。須賀ちゃんの病名が何であるかは知らないが、須賀ちゃんも、もともと朝は調子が悪いのかもしれない。そう考えると煙草事件の翌朝のぼやきも、そんなに気にすることはないのかなと思ったりもした。
須賀ちゃんも機嫌がいいと、トイレに行く時に、「うん(左)、こっ(右)。うん(左)、こっ(右)。うん(左)、こっ(右)。うん(左)、こっ(右)。……」と足でリズムを取りながら廊下を歩いて行く。これは最近一階から三階に「戻って」きた守屋さんの許容範囲を超えそうだ。見た目は老人、頭脳は子供か…。
梅ちゃん洗面所を汚す。
午後九時前、眠剤を飲んで歯磨きしようと洗面所へ行ったところ、いくつか並んでいる一番手前のシンクが嘔吐物で汚れている。夕食で食べたものをそのままもどしたようだ。意外と臭いゲロの臭いがしていないのは不思議だが、すぐに詰所に行って看護師に言うと、看護師はビニール手袋をして手際よくざざざっと片付ける。
「ごめんなさいね、不快な思いさせて。」と看護師は言う。
「いや、いいんですよ。」別に看護師が謝ることはない。自分で吐いたゲロを始末しない奴が悪いのだ。
翌日朝食後、歯磨きをしに洗面所に行ったら、今度は手前から二番目のシンクが汚れている。ほとんどご飯粒である。また看護師に言って始末してもらうが、犯人は朝食がご飯の患者である。私も星野さんも、寺元さんも朝食はパンだから、少なくとも星野さんや寺元さんは犯人ではない。
看護師がビニール手袋で取りきれなかった隅の部分をコップの水で流していると、守屋さんが通りかかって、
「きたないなあ。」と言いながら、洗面所の隣の部屋の一角を指さす。指の先の部屋の一角を確認すると、そこは梅ちゃんのベッドではないか。さっそく詰所に『ちくり』に行く。
「洗面所を汚した犯人は、梅ちゃんだという情報が寄せられました。」というと、看護師は「そうですか。」とだけ答えた。
なんだ、知ってたの?という感じの返答であったが、そういえば梅ちゃん、煙草を切らして大慌てした日以来、煙草の量が減ったような気がする。煙草の吸いすぎで調子が悪くなったのかね、梅ちゃん。でも後始末はちゃんとしろよな。
医師の診察
妻も来て三者で面談するが、減らしたはずの抗鬱剤が、手違いで五日前からまた増えていた。最初の処方と同じ量だ。自宅外泊の時にもらった朝・夕の薬を見比べて妻が気付いたのであるが、森医師も「申し訳ない」ということであった。もう一度本日夕から減らして様子をみることにし、その後判断して退院を決めようということで、約二週間後に退院日を設定する。その後は二週間程度に一回通院する予定にした。診断書については現時点から一応再来月の月末まで書いてもらって、その後のことはその時点で判断ということになった。
最初の二週間は全く退院のめどなど立たなかったが、それからいろんなことがあった。いや、現在も毎日が小さなできごとの連続だ。この病院の小さなできごとの連続に、自分はもうしばらく付き合ってみたい思いに駆られた。
かかぁといっぺん話したってくれ
星野さんが数日間自宅に外泊することになった。相変わらず奥さんとはうまくいっていないようだ。
「ウチに帰ったら電話するで、かかぁといっぺん話したってくれ。」と頼まれて奥さんと話をすることになった。ちょっとでしゃばり過ぎたことになってしまうのではないかとも思うが、担当医に何度話をしても埒が明かないということもあり、藁にでもすがりたい思いなのだろう。
午前中はいつものように図書館に行って、「ニセ学生」として勝手にネットした後帰ってくると、看護師に「外出中に星野さんから電話がありました。」と言われた。外出ノートに「としょかん」と書いておいたので、その旨伝えてもらったようだが、「午前中は図書館に行く。」とちゃんと言っておいたのに…、短気なのか、忘れたのか、電話をしたようだ。昼食後、またかかってきた。
「昼前電話したんやけど、おらへんだなぁ。」
ちゃんと言っておいたでしょうが…、と言いたかったが、とりあえず、奥さんと代わってもらった。奥さんは、
「…いろいろとお世話になってようで、ありがとうございます。」と、大学のレストランに行ったことも知っていた。
「なぁんだ、少しは話をしているんじゃないの…。」と少し意外だった。夫婦関係というのは他人からはよく解らない部分があるものだ。
「いえいえ、こちらこそ、散歩の時に缶コーヒーを何度かおごってもらったりしてお世話になってます。」と、社交辞令。その後、本題を切り出す。
「私、半月ちょっと星野さんと同室なんですけど、私が来たすぐの頃は散歩に誘ってくれたりして、割と元気だったんですけど、ここ四・五日くらい前から何か急に元気がなくなってきたようなんです。歩くのも前に比べると遅くなったし、気力も何だかなくなってきたみたいで…。
もうちょっと別の内容の話もあるんですけど、この電話は、ご存じやと思いますけどホールの電話で、周りの人にに丸聞こえですので、一度こちらに来られることがあったら詳しい様子をお話しといたほうがいいと思うんです。
実は私はもう数週間で退院する予定ですので、退院してしまうとそんな話もできなくなってしまうと、思うんで、もし都合のいい日があれば、一度お話させてもらうことできませんかね。」と言うと、
「いつですか?」と聞かれた。
「今度の日・月と私一度家に帰りますので、急ですけど、明日の土曜日だと都合がいいんですが、どうでしょう。病院まで来るのが大変でしたら、私が星野さんの家の近くの駅くらいまで行ってもいいですが。」
「明日はまだ主人が家におるので、一人で残しておくわけには…」とのこと。以前ガスが点けっぱなしになっていたことがあるそうだ。それは一人で置いておくのは心配だろう。
「それでは私が病院に戻るのが月曜日ですから、その翌日の火曜日はどうでしょう。」ということで、火曜日の午後一時に私が星野さんの奥さんと面会することにした。奥さんの喋り方は、良く言うと物腰の柔らかそうな、悪く言うと優柔不断そうな感じの人で、「自分だけうまいもん買うてきて、一人で食うとる」ような、我の強いわがままそうな人には全く思われなかった。
俺そんなん聞いとらんで
火曜日の朝食後、星野さん本人に「今日奥さんといっぺん話させてもらうんやわ。」と言うと、星野さんはいきなり怒りだした。
「え?何でかかぁが俺にそんなこと隠しとんのや。」
実は昨日からいろいろな状況の変化があった。まず、星野さんが自宅から帰ってくる前に、師長や看護師が相談して、星野さんの部屋をトイレに一番近い部屋に変えようということになった。その部屋に入っている富田さんという、六十歳の温厚で耳の悪い患者とトレードしようというのである。これは石田さんのイビキのことも考慮してのことらしい。病院に帰ってきたらいきなり部屋の移動を告げられた星野さんは、
「なんや、猫目さんと違う部屋行けってか。」と、まず不機嫌になった。
さらに夕食時、星野さんの席はそのままだったが、その横の、いつも私が座っていた席に、私とは違う患者が座っている。それは一階閉鎖で私と同室だった金場さんだった。
金場さんは私も星野さんも二人とも自宅外泊していた日に、三階に変ってきたようだ。そうして、たまたま二席空いていたテーブルの一つに座り、そこを丸一日三食とも、誰とも競合せずに使うことができたので、その席を自分の席にしてもいいと思ったらしい。それが今まで私の座っていた席だった。
星野さんは金場さんを知らないが、私は金場さんを知っているだけに「どいてくれ」とは言えない。たまたま窓に面したカウンターの松山さんの隣の席が空き席だったので、そこを自分の席にすることにした。
部屋も食事の席も離れてしまった星野さんに、朝食後、さっきまで金場さんが座っていた席に座って、今日の午後の私の予定を伝えたら、星野さんは怒りだしたのである。
「うーん、てっきり奥さんが星野さんに伝えたと思っとったんやけどなあ。」とは言ったものの、自宅の電話口で奥さんと私とのやりとりを聞いていればわかることだ。星野さんは自宅から電話をかけた時に奥さんと代わると、すぐにその場を離れたんだろう。
星野さんの怒りは治まらずに、担当の看護師に、それまで聞こうともしなかった奥さんの携帯の番号を聞き、奥さんの携帯に始めて電話をかけて文句を言い、看護師も間に入って、私と奥さんが、本人抜きで面談するのは今回はやめておきましょう、ということになった。
そりゃあこういうふうに患者が他の患者に関わるのは普通に考えると不自然なことですから、こちらも「わかりました。」と答えるしかない。しかし「犬も食わない」夫婦喧嘩に、こっちもわざわざ好き好んで首を突っ込んでいるのではないのですが…。
優子さんへの手紙
優子さんと話をするために用意しておいた広告の裏紙のメモをもとに、リハビリ棟の、クロスワード雑誌をコピーして「卓上活動」で使うために使用されているコピー機のカセットから、コピー用紙を数枚失敬してきて、手紙を書いた。手紙が広告の裏紙というのはちょっと失礼だから…。
星野優子様へ 星野徹夫様のご様子について
わたくし、猫目銀之助と申します。縁あって半月ほど前から星野徹夫様と同室になっておりました。徹夫様は最初は割と元気なご様子で、わたくしをよく散歩に誘ってくださいまして、わたくしが全く気付かなかった池の亀を見せてくださったり、病院外への散歩では缶コーヒーを二回ほどおごってくれたりしてくださいました(ご自分は缶紅茶を飲まれておりました)。
わたくしに話をする内容は、「退院したい」「家帰りたい」ということが多ございましたが、その中に、失礼ではございますが、「かかぁがあかんのや」みたいな発言も多くございまして、「あんた、なんとかしてくれんかな」みたいなことも言われたのでございます。
ところが十日ほど経ったころから、なんだか急に元気がなくなってきたようで、「散歩行くのえらいわ」と言ったり、同室の人のイビキが苦痛で眠れなかったり、(イビキをかく人はわたくしよりずっと前から同室でしたから、その人のイビキが急にひどくなったのか、徹夫様が、イビキが苦痛になるようになったのか、詳しくはわかりませんが、)ちょっとイラついておられるようなところも見受けられました。
気分転換に大学のレストランに行く話をしたら、乗り気になられまして、(大学の図書館には一度散歩でお連れしたことがありました。意外
と病院から近いのです。)数日後、昼食を食べに行きました。歩くスピートは前より落ちていましたので、二~三回休憩しながら行きました。
実はその日に、わたくしは、「このひとちょっとボケ出てきたんとちゃうか」と、思ってしまったのでございます。
・病院の三階の傘立てから取った傘を一階の傘立てに戻そうとした。
・レストランを出る時に傘を忘れた。
・わたくしの手違いもあったかもしれないが、一人分の食券を二枚買った(わたくしの手違いに気が付いていなかった)。
・図書館で読んだ新聞を、もと置いてあった場所に戻せなかった。
・その日の夜中、食べ慣れないカレーを食べたこともあったかもしれませんが、部屋で二回うんこを漏らしてシーツを二回替えてもらった。
・その三日後の朝、部屋でまたうんこを漏らした臭いがした。
わずか半月くらいしかみておりませんが、それだけに、一層最近の様子の悪さを感じてしまうのでございます。
自宅外泊から戻られた日に、トイレに近い部屋に移られたので、昨日今日の様子は詳しくは把握しておりませんが、本人の希望通り、もし退院して自宅に戻られることになると、優子様一人で面倒をみるのはたいへんなことであると思うのでございます。
介護疲れで「共倒れ」なってしまうと、いっそうたいへんなことになりましょう。他人のことに首突っ込んでしまって失礼ではございますが、実は私が入院させられた原因の一つに、両親の介護のストレスがあったこともあり、おせっかいな提案をさせていただきますと、
①徹夫様に「介護認定」を受けてもらって、要支援一~二、要介護一~五のどれにあたるか、認定してもらう。おおよその目安として「一人でトイレに行けなくなったら要介護」と聞いたことがありますので、今は要支援の認定しか受けられないかもしれません。
②認定を受けられたら、ケアマネージャーと相談してケアプランをたててもらう。
・昼間デイサービスに行って、その間そこで面倒を見てもらう。
・ショートステイ(何日か宿泊してまた自宅に戻る)する。
・時間を決めて自宅に介護ヘルパーを呼ぶ。
などのサービスがあり、介護度に応じて使える金額が変わってきますが、いずれにしても、その間奥さんは外出したり、休んだりすることができると思うのです。
介護認定の受け方については、できればお子さんたち(ご長女、ご長男、ご次女がいらっしゃるとのこと)に動いてもらって、書類とか段取りしていただいたらいかがでしょう。
申請窓口は
・平野地区広域連合会介護保険課(平野市役所西館三階)
・平野市南部地区地域包括支援センター(平野市南松町1)
です。
星野さんのご自宅からは南松町のほうが近いと思います。
ここの病院の「デイケア」でも、内容的には同じようなことをやっていますが、送迎バス等はありません。駅からですとご存知の通り、普通に歩いて十分はかかりますから、今の徹夫様にはしんどいと思います。
お金の問題もあると思います。徹夫様は後期高齢者ですから、病院に居れば、月四万いくらで打ち切りになり、あとは食事代などで、徹夫さまは「月七万も払わなあかんのや」と言っていましたが、それは閉鎖病棟の時の費用のようでした。閉鎖は開放よりいろんな経費がかかって高くつきます。今は開放ですからもう少し安いと思います。しかし、シーツを一回替えると五百円ですから、一晩に二回替えるとそれで千円かかってしまいます。
いずれにしても病院は医療保険ですみますが、介護サービスは介護保険ですから、要支援一とかで、たくさんサービスを受けると限度額を超えてしまって、お金がかかります。それもケアマネとかお子さんとかと相談されて、どうするとよいかお考えいただけたらと思います。
いろいろ書いてしまいましたが、こんなことについてもっと詳しくお話しできたらいいだろうなと思って、「一度お会いしたい」と申した訳です。残念ながら「家族以外の人との面談はやめてください」みたいなことを言われましたので今回はお会いすることはできませんが、言いたいことは以上のようなことですので、お読みいただいてお考えいただけたら幸いです。宜しくお願い申し上げます。
南三階三〇七号室 猫目銀之助
書いた手紙をリハビリ棟のコピー機でこっそりコピーを取って、オリジナルを星野さんにそのまま渡した。
「こんど家帰ったらこれ奥さんに見せて。ここに言いたいこと書いといたで。奥さんこれ読んで、家に帰ってもええでて言うてくれるとええんやけどな。」と言うと、
「何て書いてあるんや?」と、星野さん。
「そんだけようけ書いてあるんやで、一口では言えん。いっぺん読んでみて。あかんとこあったら書き直すわ。」と言って部屋を出ようとすると、須賀ちゃんが入ってきた。そうだ、須賀ちゃんと同じ部屋だったんだ。しかし、須賀ちゃんと星野さんでは話合わないだろうなと思いつつ、部屋に戻った。
調子の波
喫煙室でいつも野太い声で陽気に話す大口さん。老けて見えるが自分より若い。
「わしなあ、三日間一睡もせんと土方やっとって、ほんで親父に病院行け言われたんや。」という話は何回も聞いた。普段は話し出すと止まらないくらい、ここには書けないくらいの、公序良俗を乱すようないろんな話が次々に出てくるが、今日は様子が違う。全く疲れきったようなぼうっとした表情である。そういえば昨日の夜くらいからこんな感じが少しはしていたが、急速に顔つきが険しく変わってきている。周期的なものなんだろうか。
守屋さんは自分が周期的に躁鬱を繰り返すことを自分で自覚していて、鬱期は意識的に人との接触を避けているようだ。大口さんも何日かしたら、またもとの陽気な状態に戻るんだろうか。
火曜日でカラオケの日であるので、リハビリホールに行くと、須賀ちゃんは一番前の席で待ち構えている。須賀ちゃんの横の席は開いていないので、斜め後ろに座ると、須賀ちゃんは振り向いて、
「猫さん何歌うの?」と聞いてきた。
「内緒。」と答えたが、実は決まっていない。
今日は椅子が満席になるくらい人が来ている。後から来た若い北川君は残り少ない椅子席を遠慮して、部屋の端に置いてある電子オルガンの椅子に座っている。
若い北川君は赤茶髪に刺青という外見に似合わず、人に気を遣うことのできる青年だ。どういう事情か知らないが、中学もまともに行っておらず、少年院を出た後、その筋の道に入ってしまったらしいが、「目上」の人に対しては、今時の若者にしては珍しいほど、きちっとした敬語が使える。
ただし五十歳の梅ちゃんに対してだけは例外で、
「ボーちゃぁん、おまえもうタバコやめとけさぁ。」と、友達感覚である。
カラオケが始まった。トップは須賀ちゃんである。今日の須賀ちゃんの調子は、まあ普通だな、相変わらずリズム感はないが…。何人かの後、石田さんが登場した。今日は診察があると言っていたから「平和」は休んだんだな。鳥倉智恵子でも歌うかと思ったら、春波夫だ。
「つぅきがぁぁぁっ、寂しいぃぃぃぃ、路地ぃうぅらぁでぇぇぇぇぇぇ…」
普段しゃべる時は言葉がつっかえるのに、歌はつっかえない。画面も見ずに歌っているから、歌詞を覚えているんだ。石田さんがこれだけ歌えるとは意外だった。
一巡目の最後に、今ちょうど看護実習で来ている看護学校生女子三人が紹介されて、三人で歌い始めた。キーが合わずに声が出ない。どうしようかとお互い顔を見合せながらも歌っていると、このカラオケを仕切っている作業療法士が、急ぎ足で司会席に行き、リモコンを持ってキーを数度上げた。三人は声が出て歌い終わり、女子会のようにはしゃいで、安堵の表情を見せた。
今日は須賀ちゃんは二曲目は歌わないようで、いきなり自分に二回目が回ってきた。今日は二曲とも鈴木正行を歌う。
「行き交うっ、駅の前っのっ、人のなぁかでぇ…」
歌い始めると何だかおかしい。自分は原キーで歌っているのにカラオケが合っていない。高すぎる。さっきの三人組のキー設定がそのまま残っているのだ。とても合わせられない。
作業療法士のほうを向いて、会釈して右手人差し指を下に向け、数回腕を上下させる。わかってくれたようだ。キーが下げられた。ついでに原キーよりもうちょっと下げてもらう。歌いやすい。
「今日は、日比谷でっ、五っ時っ!…」
鈴木正行は原キーより三度程下げるととても歌いやすい。デュエットだとそういうわけにはいかないかもしれないが、ここには松田桃子もいないことだし。
いずれにしても、結果はちょっとしたことで大きく変わるもんだ。大口さんの落ち込みもちょっとしたことで起こったんだろうか。
深夜のデート?
いつものように午後九時に眠剤を飲んだが、午前三時に目が開いた。お茶でも飲もうとコップを持ってホールに行くと、薄暗いホールの外向きのカウンターに誰か並んで二人座っている。数日前から自分が座ってる席と、その隣の席だ。
隣の席は松山さんのいつもの席だから、そこにいるのは松山さんだろう。短髪の頭の恰好でそれがわかる。松山さんは夜中にそこでラジオを聞いていたことが以前にもあったのだが、その左側にいる人は一体誰だ?
お茶を入れて二・三歩近付くと、あら、誰か女の人だ。こりゃいかん、コップを持って部屋に帰って、部屋でお茶を飲む。さて、お茶を飲んだコップを洗いにもう一度ホールに戻ろうか?邪魔しちゃ悪いが興味津々である。あの優等生の学級委員みたいな松山さんがこんな深夜に女の人とデート?
やっぱりもう一度様子を身にホールに行くと、松山さんはそのままの席で、女の人はずっと離れたカウンターに座っている。外向きのカウンターなので、後ろ姿は薄暗く、エンジ色のパジャマ姿で、誰であるかはわからない。
コップを洗っていると松山さんに呼ばれた。片耳にはイヤホンをつけて、ラジオを聴いている。松山さんは遠くの灯りを指さして、
「ほら、きれいやろう。」と言う。
ここ三階から平野を超え、湾を超えて、遠くの海上空港のまばゆい灯りが見えるのである。周りが田畑だけにいっそう際立って近くにあるように感じる。
「ああ、きれいに見えますね。」
なるほど、二人で空港の夜景を見ていたという訳ね。で、この位置からが一番よく見えるということね。で、相手は誰や、と振り向くと、あっ、いない。女性は姿を消している。
「お邪魔しました。」と言って部屋に戻ったが、あの女性患者は誰だっただろうと考えると余計に眠れなくなってしまった。
矢田さんとタバコの交換
翌午前九時過ぎにはいつものように図書館に行ったが、しばらくすると眠気に襲われて、いつもより早目に帰ろう図書館を出ると、雨にも襲われた。病院までたどり着くと、正面玄関前の喫煙所に入った。病棟の喫煙室はOT中は閉められているからである。喫煙所の中には三十代に見える女性が一人いた。
病院内で何度か見たことのある人だが、今まで話をしたことはない。「こんにちは。」とむこうから言ってきたので、「こんにちは。」と返し、
「雨で靴から水が入って靴下濡れてしまいましたわ。」とボヤいて煙草に火を着けると、
「タバコ一本交換しませんか?」と言ってきた。
ふうん、こういうコミュニケーションのしかたもあるんだな。そういえば以前他の患者同士でそんなことをやっている光景を見たこともあるなあ、と思い、「いいですよ。」と、一本交換した。
自分のは「チャールズ・アリス」の一番軽いロングサイズ。女性のは「あおば」だった。「あおば」は「マコー」より十円高い。
「これ長いから箱に入らんかも。」と言いながら交換し、「あおば」を一本自分の箱に入れた。
女性は「あおば」を吸い終わって、「チャールズ・アリス」に火をつけた。チェインスモークである。患者には二・三本チェインスモークする人が少なからずいる。
「味はどうですか?」と聞くと、
「おいしいです。」と言う。
普段「あおば」を吸っている人が、こんな軽い煙草をおいしいと感じるんだろうか。どこの病棟かを聞くと、入院しているのではなく、デイケアに来ているのだという。デイケアの活動の途中で煙草を吸いにきているのかと思ったが、ついでにデイケアのことについていろいろ聞いてみる。
「俺今入院しとるんやけど、デイケアのほうがだいぶ安い?」
「うん、ほんでも今までの入院費が溜まっとるで、月五万ずつ返しとる。今まで七回入院しとるでな。あんたも救急車で運ばれたん?」
「いや、救急車やないけど…。五万返すのはたいへんやな。」
デイケアは病棟OTと同じようなことをするらしい。カラオケ、ゲーム、書道、塗り絵、体操、スポーツ…
「マージャンもあるで。」
「あ、ほんとぅ。病棟はマージャンはないなあ。俺も退院したらデイケアとか来たいけど、巡回バスとか無いで、自分で来なあかんのやろ?」
「うん、電車で来とる。」
「ほな、電車代いるなあ、駅まで時間もかかるし…。晩飯食べてからやと冬やと暗なるし…。何時に帰るの?」
「三時半の電車。」
「あっ、ほんなら昼だけ食べて帰るんや。晩は自分で作んの。えらいなあ。」
「ダンナの分、作らなあかんでな。」
三十七歳の矢田さんは、十歳ほど年上の旦那と結婚しているが、旦那は現在失業中で、昼は「自分でラーメン作って食べとる」そうである。生保(生活保護)を受けているが、月五万円の入院費を返済しながら、デイケアに通うのも金銭的に楽じゃないだろう。
初めて話した割にはいろいろなことを臆面もなく話してくれたが、どこか暗い感じのする女性である。暗くて寂しそうな感じ、それが見た目はとっつきにくくて何か恐そうなイメージを与えていたのかもしれない。
「いろいろありがとう。」と言って喫煙所を出ようとすると、矢田さんも、「ありがとう。」と言った。
あとで「あおば」を吸ってみたら、きつくて辛かった。
多々良さんの独り言を聞く
病棟の喫煙室には、二つの灰皿を囲むように椅子が六つ置いてある。多々良さんは必ず、正面の椅子には誰もいないような位置の椅子に座る。誰かが後で入ってきて多々良さんの正面に座ると、席を移動する。移動できないような時には、椅子に横向きに座りなおす。とにかく自分の正面に誰か人がいるといけないのだ。
一ケ月前、自分がここにきて多々良さんの正面に座り、「猫目と言います、よろしくお願いします…」と話をしだした時も、多々良さんは席を移動して、横向き座りをしてしまった。それ以来、多々良さんが誰かと話をしている場面を見たことはない。
しかし、午後八時頃、私が矢田さんから貰ったきつい「あおば」を吸っていると、多々良さんが誰もいない正面の席に向かって何か喋り始めた。
「…東京なら○○チャンネルは□□やけど、ここでは××。△△局はないの!☆☆局はここでは▽▽!※※チャンネルは映らんの!」
誰かに言い聞かせるように話している。誰と話しているつもりだろう。しかし、これでなぜ多々良さんが喫煙室で誰かと向い合せにならないようにしているのか、なんとなくわかったような気がする。一ヶ月近くたってようやく状況が理解できた。
私がいても一人で喋りだしたということは、ある意味私の存在が気にならなくなり、私がその場にいることが彼に許容されたのだと勝手に思った。
さらに数日後、たまたま空き席がなかったので、多々良さんと向い合わせに座ったが、多々良さんは横を向くこともなく、左手を何か意味ありげに上下に動かしながら、右手で煙草を吸っていた。私がそこにいるということが、彼にとってストレスでなくなったのではないかと勝手に解釈した。
やっと多々良さんに「許容される」存在になったと思ったら、あともう少しで自分は退院か…。
医師の診察?
手紙を星野さんに渡した二日後、朝の点呼の時間に看護師に呼ばれた。森医師が当直明けで帰るので、今から診察があるという。
行ってみると診察と言うよりも、あまり他の患者にかかわるなという警告であった。私が優子さん宛ての手紙を星野さんに託したことを知っていて、奥さんがどんな人かよく知らないのに、何らかのアクションを奥さんにするのはよくないことであるから、星野さんから相談を持ちかけられても断るように言われた。
奥さんがどんな人であるかによって、逆に私や病院に文句が来ると、病院の「管理体制」が問われることにもなるし、患者が他の患者に関わるとトラブルになることも多いからであるという。
星野さんが、私から渡された手紙を看護師に見せないというので、その内容を覚えている限り説明した。先日自宅外泊した時には、初日、二日目くらいは食事も作ってくれたが、三日目くらいからは口もきかなくなったそうであることも付け加えた。
「あなたのそういうアドバイスは、奥さんの、星野さんに対する『思い』があって成り立つことであって、奥さんがどういうタイプの人か、献身的な人か、その逆かわからないので、その手紙を見て、あなたの言うとおりだと思うかもしれないが、そうは思わないかもしれませんね、どうですか?」と医師は訪ねてきた。
私は「そのとおりです。」と答えた。
「そう思わない人であれば、『余計なこと言わんといて』と思うだけで、そのことからトラブルになって、職員から言われるならまだしも、他の患者からあれこれ言われるなんて、と矛先が病院に対して向くことにもなるので、星野さんに渡した手紙は、病院側で回収させて頂きたい。患者から別の患者にアドバイスをするのはよくないし、治療が損なわれるかもしれませんから。」と医師は言った。
私は「おっしゃるとおりです。わかりました。」と答え、星野さんに託した手紙を病院側が回収することに同意した。
「ディベイター」森
「○○か、××か、今はわかりませんが、もし××だったら困ったことになりますね。」
「はい、そのとおりです。もし××になったら困ったことになります。」
「では、××にならないように、△△することに異議はありませんね。」
「はい、わかりました。異議はありません。」
この論法は次の例えとどう違うだろう。
「晴れるか雨が降るか、今はわかりませんが、もし雨が降ったら服が濡れて困ったことになりますね。」
「はい、そのとおりです。もし雨が降って服が濡れたら困ったことになります。」
「では、服が濡れれないように、傘を持って行くことに異議はありませんね。」
「はい、わかりました。異議はありません。傘を持って行きます。」
そう言われて天気にかかわらず毎日傘を持って行く人がどこにいる?重要なことは雨が降りそうかどうかを判断することだ。優子さんがどんな人であるか判断することが必要だ。それを抜きにしては話にならない。
星野さんは今まで何度も自宅に数日外泊している。今回も二泊三日してきた。一階の筒井さんは、いつからかは知らないが、奥さんは病院に洗濯物を交換しに来ても、筒井さんと顔を合わすことがない。筒井さんは自宅外泊もしていない。石田さんのように、小遣いをもらって、現金を持っていることもない。
筒井さんには気の毒だが、優子さんは、筒井さんの奥さんよりは、まだ星野さんに対する『思い』があると私は判断した。
看護師が来るより先に星野さんの部屋に行き、星野さんに、
「星野さん、看護師が、俺が書いた手紙を渡せって言うとるやろう。俺もそう言われたで、看護師に手紙渡したって。そのかわりコピー取ってあるで、あとでそれ持ってくるで、今度家行く時にそれを奥さんに渡して。ほんで、コピーのあることは看護師に言うたらあかんで。そんでええ?」と了解を取った。
この時から私は森医師のことを、ドクター森ではなく、ディベイター森とココロの中で呼ぶことにした。星野さんは来週にもまた自宅外泊するそうだ。
梅ちゃんの貰い煙草発見
朝五時に喫煙室が開く時に、その日は梅ちゃんが廊下で待っていないと思ったら、六時になったら梅ちゃんは煙草を持ってきて喫煙室に入り、早速封を開けた。
「煙草いつ切れたん?」と聞くと、
「忘れた。夜寝られへんやろ。」という答え。
「そういやぁ、梅ちゃん夜中床であぐらかいとるんやろ。」
「夜寝られへんやろ、な。夜寝られへんやろ。」
「ほんでも昼間も起きとるやん。こないだもカラオケの司会しとったし。司会すると何かもらえる?」
「もらえへん。今日カラオケ?今日は違うやろ、な。今日は違うやろ。」
「何かくれてもええのになぁ。何かギャラもらいなよ、ギャラ。」
「ギャラもらう?ギャラ?何もらう?」
「うーん、梅ちゃんやったら煙草三本とか。」
「タバコ三本?タバコ三本!三・本!!」ガッハッハッハッと、梅ちゃんは今まで見たことがないくらい大笑いした。
翌日朝五時、今日は梅ちゃんが喫煙室が開くのを待ち構えている。開くと早速中に入って煙草を吸っているが、ちょっと見るといつもの「マコー」より長い。よく見るとフィルターの部分の銀色の線が太いので、一目で銘柄がわかる。
「あ、それ『スリー・プライメッツ』やな。」というと、梅ちゃんは左手を開いて前に出しだ。「ストップ……」と言わんばかりの仕草である。
「六時になったらタバコもらえる。」と、梅ちゃんは吸い終わってからこう言って出て行ったが、ちょっと表情が厳しかった。
看護師にチクろうかと思ったが、やめた。「ドクター」森から「他の患者にかかわるな」と言われたばかりである。余計なことをして自分の退院が遅れると妻に申し訳ない。自分自身はどうなんだと考えると、なんだかこの病棟の人々に慣れてきたので、もう少しここにいてもいいような気さえしつつある。
ところで『スリー・プライメッツ』は八十歳でよたよた歩く「しょーちゃん」の銘柄である。前に火を貸してあげた時に確かそうだったように思う。
梅ちゃんの煙草の件は私が言わなくても師長の耳にはいったらしく、その日の「朝の会」で師長はこう言った。
「伝票の使い方についてですが、誰かに現金や物を借りて、それをあとで伝票で払うことは認めません。わかりますか。おかねの貸し借りはしないでくださいということです。誰かにものをもらって、その代金をあとで伝票で払うということは認めませんからね。」
梅ちゃん今の話の意味わかっただろうか。
須賀ちゃん二階病棟へ
朝の会が終わった後、廊下で須賀ちゃんが吠えている。様子を見ようとすると、看護師に囲まれて連れ去られて行った。部屋に入って星野さんに様子を聞くと、
「なんやようわからんわ、何か言うとったけどな…。」と、要領を得ない。部屋に戻ろうとすると、廊下で守屋さんに会った。
「連れられてったなあ。いろいろあったでなあ。」と、事情を知っているらしい。
「煙草の件ですか?」と、自分も関わってしまったのかという思いで聞くと、
「それもあるかもしれん。前からあちこちで、貰いタバコしとったんや。他にも壁蹴ったりとかあれこれあったもんなぁ。病気は治っても習性は直らんで…。」
守屋さんが以前この三階にいた時に聞いた話によると、須賀ちゃんは四十歳代まで土木作業員で、砂利を運んだり、セメントをこねたりしていたそうだ。その頃は腕も太かったし、体力もあったらしいが、胃潰瘍になり、今は肺気腫もある。もともとあまり字が読めない・書けない・計算ができないので、一般病院を退院した後は仕事も行くところもなく、妹さんがあれこれ手を尽くして、この病院に入院させてもらったらしい。
「男子の二階は完全閉鎖・完全禁煙で、厳しいらしいで…。」と、守屋さんは少なくとも自分はそこには行きたくないという口ぶりだった。
なんの挨拶もできないまま、須賀ちゃんがこの病棟からいなくなってしまった。しかし守屋さんは今まで須賀ちゃんのいろんな場面を見てきているだけに、気の毒とは思いつつも、正直少し安堵しているような様子が覗えた。
石田さんの迷い
星野さんが富田さんと部屋をトレードされてから、石田さんが以前より一層自分に話しかけてくるようになった。富田さんも寺元さんもほとんど誰ともしゃべらずに、誰かが何かしゃべっていても何も反応しないので、遠慮なしに私に話しかけてくる。
以前、病院を出てアパートを借りたいと言っていた石田さんは、今になってそのことをどうしようかと迷っている、というかそういう望みは捨ててはいないが悩んでいる。看護師に、その計画の現実性のなさを指摘されたからである。アパートを借りるには家賃の他に敷金や共益費、光熱費等いろいろと金がかかる。保証人は兄さんになってもらったとしても、何かあったときに兄さんに電話しても、誰も出てくれない現状を考えると、入居できるアパートはありそうもない。
石田さんは誰にも遠慮なく導尿ができて、鳥倉智恵子のカセットを落ち着いて聞ける「自分の部屋」が欲しいのだが、アパートの一人暮らしはやはり金銭的にも困難だ。
「とうぉきょぉの空ぁ、排気色ぉの空ぁ、ほんとのぉ、そらぁを、見たいぃと言う…。」
病院の「部屋」ではなく、ほんとの自分の部屋、そこで落ち着いて過ごしたいという、六十五歳の石田さんの切なる願いだが…。
「兄さんの家にしばらく世話になるわけにはいかんのやろか?子供さんもうみんなおらへんのやろ?」と聞いてみると、
「こっどもは、もう皆出ってっとるで、部屋はあっる。」とのこと。
しかし、兄さんの奥さんが問題だ。石田さんからの電話も拒否して、FAXも捨ててしまうくらいだから、とても了解してもらえるとは思えない。石田さんはどうしたら兄さんの家に同居できるか私に聞いてくるものの、いやがっている義理の姉と同居するのは、石田さん自身もいやだという思いがあることも訴える。このままでは「棺桶退院」するまでここにいるしかないとグチグチ言いながら、石田さんは「平和」へと出かけて行った。
あちこちでの挨拶
平野市は田舎なんだろうか。あちこちで見ず知らずの人に挨拶されたり会釈されたりする。大学の門で「挨拶運動」をしているせいかもしれないが、図書館で女子大生に会釈された。野球帽にジャージのおっさんが、教授に見える訳はないから、挨拶されたのが不思議だった。コンビニに行く途中にジョギングしている女性から「おはようございます」と言われたり、コンビニの帰りには幼児連れの女性に「こんにちは」と言われたり、私の住んでいた町では道を歩いていて見ず知らずの人から挨拶されることは皆無であったから、会釈は返したものの、その都度不思議な違和感があった。
しかし、たまたま朝、小学生の通学時間帯に、コンビニに急な買い物にこっそり出かけた時、病院のすぐ近くの道で、小学生たちの登校に付き添っていた母親からは、挨拶もなく、逆に奇異な警戒心を持ってちらちら見られた。
見た目、通勤者の恰好ではない。朝の散歩にしては、この時間はもうすでに暑すぎる。さらに、病院方面から歩いてきたので、どうもこの人は入院患者だと見抜かれてしまったようだ。子供に近づかないかどうか気にしている様子がうかがえる。自分が当番の時にもし何かあったらいやだという内心まで表れていそうだ。
時間帯も場所もまずかった。もうこの時間に出るのはやめよう。といっても、もうじき退院なんだが…。
そんな「一般人」に比べると、見知った患者と挨拶を交わしているがまだずっと気が楽だ。矢田さんがデイケアを抜け出して煙草を吸いに来る時間を見計らって、喫煙所に行くと、矢田さんは煙草とアイスバーを持って、胸に汗染みを浮かべながら私を見て、この間と同じような低い声で、
「こんにちは。」と言った。
私も「こんにちは。」と返し、「煙草交換しょうか?」と聞くと、
「うん。」と矢田さんは答えたが、両手に煙草とアイスバーを持ちながらもう一本煙草を取り出そうとして、アイスバーをコンクリートの床に落としてしまった。
なんということだ。私が言ったタイミングが悪かった。アイスバーを食べ終わるまで待てばよかったと思いながら、どうするかと居ると、まさか、と思ったが、矢田さんはゆっくりとアイスバーを拾い上げ、食べはじめた。これまたなんということだ。
「砂、ついてない?」
「うん、ちょっとな。」
三つ子の魂百まで…。幼少期に「そんな地面に落としたもの食べちゃダメ。おなかこわしたらどうするの。」なんて言われたことなどないんだな。
「道で会った人にはちゃんと挨拶しましょう。」と昔言われてきた田舎の子供は、大人になってちゃんと挨拶をする。「知らない人には近付いたり話をしちゃだめよ。」と言われている今の子供は、大人になった時に挨拶をしない住人になるだろう。
そういえば、どっかの教育学者がこんなことを言っていたのを思い出した。
「だいたい教育の成果というものは、そんなすぐ出るものじゃないのね。だから在学中とか、単年度で成果を出してそれを評価しなさいなんていう教育制度は間違ってるのよ。セミなんか何年も土の中にいて、それでやっと出てくるわけでしょ。土の中でどういうふうに育ってきたかなんて、出てこないとわからないわけよ。それがすぐ評価されなきゃいけないとなると、何年も後のことは二の次って教育になっちゃうわけ。これがよくないのよ…。現在どんな幼虫であるかで評価されることだけ考えるようになると、将来どんなセミになるかまでは全く考える余地がなくなっちゃうのよね。」
なるほどね、何年か後にはこの平野市も、私の町のように、「挨拶運動」をする気運すらなくなってしまうかもしれないな。
大口さん復活、梅ちゃんも?
夕食後、数日間ぼうっとして無口だった大口さんに復活傾向が表れた。
「…わしが十五の時やで今から三十五年くらい前やけどなあ、俺のお袋なんか一日七千五百円とか八千円くらい稼いどったでなあ。そのかわり板長の機嫌取っとかなあかん。板長はもう社長クラスやで。板長変わると味変わったり、弟子連れて変わると客筋ころっと変わるんや。板長に気に入られとったらその店にずっと居れるしなぁ。客からチップ貰えるとこやったら、結構収入あるんや…。」
その後、どうしたら板長に気にいられるようになるかは、大口さん得意の、ここには書けないような話になっていく。
しかし、落ち込んでふさいでいる大口さんより、喋りすぎるくらいの大口さんの方がいい。疲れて負担にならなければね。
深夜、トイレに行って洗面所を見ると、一番手前のシンクにまた吐いたあとがあったが、一応片付けてある。看護師が片付けたのなら、もっときれいに片づけるくらいのゲロの残り方であるから、梅ちゃんが自分で片付けたのだろう。充分ではないが、片付けようという気になっただけよかった、と思ってごみ箱をみたら、ごみ箱の縁や周囲が汚くなっていた。
ここで、「片付けるのならもっときれいに片付けてほしいわ。」なんていうと、「じゃあ片付けないほうがいいのか。」と思ってしまうことになるんだよね。看護補助員の上沼さん、掃除でかえって御迷惑をおかけしますが、梅ちゃんになりかわりまして、お詫び申し上げます、と思うのであった。
優子さんからの手紙
退院二日前、星野さんから、優子さんの書いた手紙を受け取った。
前略
主人がいろいろお世話に成りました。
病院での生活を詳しく教えて頂いて有難う。
今回二泊三日何事も無く無事に過ぎました。
でも、毎日下着を汚し、自分で水洗いし、脱水機にかけず、水でべたべたのが干してある毎日でした。
本人にそのことを言おうとすると、大声でどなりつけ付けられますので、本人には何も言えません。
介護認定の受け方も詳しく書いて頂いて有難う。
息子、娘達に言いましたので、書類を頂きに行き手続きしたいと思います。
主人は今日病院に戻りますが、
どうか宜しくお願い致します。
もうすぐ退院されるそうですが、
猫目さんのお電話番号教えていただければと思います。
猫目様 星野
これでだいたい様子がわかった。星野さんの奥さんは包丁振り回し事件以来、たぶんまるで腫れものに触るような感覚で星野さんに接しているのだ。できることなら触りたくない。触ると痛いからということもあるだろうが、下手に触って腫れものを悪化させたくない、という気持ちもあるのだろう。
しかしなんとかしたい。だが自分では何ともできないから、奥さんの方も「誰かなんとかしてほしい。」という気持ちで私との面会を了承したのだろう。
面会は実現しなかったが、優子さんと手紙のやりとりはすることはできた。退院して落ち着いたら、優子さんの携帯に一度電話することにしよう。
医師の診察
退院の前日、診察があった。まず、明日の退院の予定を確認する。現在明らかに入院時より活動的だが、それがもともとの状態と違うのなら、何か病的なものがあるかもしれないが、少なくとも周囲に迷惑をかけるほどの「躁」状態ではないので、薬をしばらくそのままにして様子をみることにした。もし何らかの違和感が出てくれば、サインバルタをなくしたり、別の薬にすることも考えるが、マイスリーは強くない薬なので、そのままでいいだろう。酸化マグネシウムは、もし自宅で下痢気味になるのであれば、止めてもよい。
次回の診察は約二週間後に設定する。もしそれまでに何か変調があれば、その一週間前に診察に来るように連絡してくれということであった。
その後、自立支援医療費制度の説明をケースワーカーから受け、申し込むことにする。明日は保険証と印鑑が必要だとのこと。あとで妻に電話で連絡しよう。申請は市町村窓口に提出するのだが、パンフレットには、『医療機関で手続きを代行してくれる場合もありますが、手数料が必要な場合があります。』と書かれている。手数料についての話はなかった。
「『医療機関等を変更する場合は、申請書(変更)を提出してください。』とありますが、どこへ何を出せばいいんでしょうか?」と聞くと、
「また調べておきます。」というとケースワーカーは行ってしまった。翌日もその説明はなかったが、パンフレットには、『お問い合わせはお住まいの市町またはもよりの保健福祉事務所まで』とある。病院を変更する場合は自分で手続きしなさいということなのだろう。入院証明書は明日受付でくれるということであった。
星野さんの野球帽
退院当日、朝の会の連絡の後、師長がいきなり、
「最後に、本日猫目さんが退院されますので、ご挨拶をいただきます。猫目さん、前までどうぞ。」と言いだした。えっ、挨拶するなんて聞いてないよ。加賀さんが退院した時も朝の挨拶なんてなかったよ。知らない間にいなくなってたのに、なんで俺だけ指名されるのと思いつつ、前まで出て行った。
「あ、おはようございます。三ヶ月ほど前に入院しました。その時は夜暗くて寒かったんですが、もうこんな暑い季節になってしまいました。一階閉鎖に約一ヶ月、一階開放に数週間居たあと、ここに一ケ月ちょっとの間お世話になりました。
一階閉鎖と、ここ三階とでは、過ごした日数はあまり変わらないんですが、ここでは毎日いっぱいいろんなことがあって、思い出というのも変ですが、皆さんとの出来事は忘れられないことばかりです。
退院するんですから、普通は、建前は『皆さんお世話になりました。』と言いながら、本音では、『退院できてよかった。もうこんなとこには二度と来たぁない。』と思うのでしょうが、自分は『ここやったらまた来てもええな。』と、ほんとに思てます。何て言うんでしょうか、それだけこの病棟と、皆さんに対する「思い入れ」が強くなってしまいました。なんか変なこと言うてしもてすみません。皆さん本当にどうもありがとうございました。」
いきなり振られたので、変なこと言ってしまった。退院時に「また来たい」なんていう患者がどこにいる。ここにいる患者たちは退院したくてもできないというのに…。
朝の会が終わって星野さんに挨拶をしにいったら、星野さんは新しそうな野球帽をかぶって、散歩に出かけようとするところだった。
「あっ、散歩行くの?よかったねぇ、元気なって。」
「ほんな、元気やあらへんけど、歩かなあかんのやろ?」
「うん、歩かなあかん。ぼちぼち行ってきて。片付けしたら退院するけど、家帰って落ち着いたら、いっぺん奥さんに電話するわ。」
元気やあらへんとはいうものの、散歩に行こう思うこと自体が元気になった証拠ですよ。野球帽は奥さんに買ってきてもらったものだそうだから、ぼちぼち散歩するように、ぼちぼち奥さんともよりを戻していって欲しいものだ。あせらず、ゆっくりと。でもひょっとしたら、よりを戻す前に、急激に弱って死んでしまうとかもしれないけれど、そうなったらそうなった時のことで、そんなこと今から考えてもしょうがないよ。生きれるだけ毎日無理せずに生きればそれでいいじゃないか。
※ この小説はフィクションであり、実在の人物、病院等とは全く無関係です。
愛すべき病棟の人々 ~吾輩は鬱で入院した~
あとがき
秋桜月初旬に、住所をもとに、スマホのカーナビを頼りにT氏の実家を訪ね、墓に越乃春梅を手向けた。日差しは強く、墓地に撒いた酒の匂いは瞬時に辺りに立ち昇る。学生時代には高い酒は飲めなかった。安いウイスキーをコーラで割って、何度も夜中まで激論したことがある。四畳半の下宿で一体何を話したんだか、内容はすっかり忘れてしまったが、T氏が時折何かの拍子に笑ったその顔は、昼間は笑ったことがなかっただけに、今でも鮮明に記憶にある。
アポなしで突然訪れたにもかかわらず、アイスクリームやらプリンやらゼリーやらで、もてなしてくれたT氏の一人暮らしの老いた母親は、「よう来てくなはったわねぇ。あの子もおったら喜ぶやろに。」と言ってくれたが、今から十数年前の当時は、自分も何も知識が無かったし、周りの理解も得られずに、何もしようがなかったことをぽつりぽつりと話した。「いまならもうちょっと何かしてやれたかもしれんし、周りの理解も昔よりはあるやろけどねえ…」
そのころの生徒の年代は、日本はもう高度経済成長を過ぎ「右肩下がり」の時代に既に入っているのに、大人たち、特に若い頃にバブルを経験した世代の大人には、右肩下がりが実感できていない時代であったと思う。そんな、社会の実態と大人たちの意識のずれが、多感な生徒を悪化させ、それに対して狡猾には立ち回れないような「おとなしい教員」が、矛盾の吹きっさらしに立たされてしまったのかもしれない。
帰り際、ビニールハウスが立ち並ぶ畑地の道沿いに、薔薇の直販所があったので立ち寄ってみた。
「これでひと束いくらくらいですか?」
「あ、それは二等品だから一束八百五十円ですよ。」
安い。「いやあ、私ら見てもどこが二等なのか全然わかりませんよ。」
「今は景気が悪いから高いもの売れなくなってしまってねえ…。よかったら名刺持ってってくださいな、よろしくどうぞ。」
物が売れない、収入が少ない。それをみんながわかっている。皆が苦しいことを知っているから、今の生徒は昔のような無茶をしないのだろうか。
しかし生徒がどうであれ、あまりにまじめな人は教員に向いていないんじゃないか。教員に限らず、真面目なことは悪いことではないが、それがかえって災いをもたらすことが時折あるんだろう。
後日T氏の母親から突然のように薔薇が送られてきた。「先日は遠方よりおいで頂き、厚く御礼申し上げます。」と丁寧に添えられていた。
DNAだ……。