そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(12)

十二 ゴール後

 今まで一緒になって走ってきたランナーたちが、走るのをやめ、足を引きずりながら歩いたり、芝生に寝転がって脚をさすっている。もう、マラソンは終わったのか。そうか。ここがゴールなのか。観覧席にはたくさんの人がいる。着替えをしている人、その側で付き添っている人。椅子の上で寝転がっている人。様々だ。子どもたちが走り回っている。そうか。すると、ここが新しい陸上競技場なんだ。でも、古いと言うか、以前の競技場がどうだったのか覚えていない。若いころ、地元のランニングチームに加入していて、仲間たちと一緒にスピード練習をしていたように思う。そのことさえ、あまり思い出せない。それは古い時の競技場だったのか。場所さえも、はっきりと頭から出てこない。
 まあ、いい。「はい、どうぞ」スポーツドリンクが目の前に差しだされた。そうだ。喉が渇いた。喉が渇いていることは覚えている。いや、覚えていると言うよりも、今、喉が渇いているのだ。キャップを開け、喉を潤す。美味しい。今の瞬間だけど、水の美味しさははっきりとわかる。足が疲れた。なんで、足が疲れているんだ。そうか。俺は走ったんだ。フルマラソンを走ったんだ。でも、この姿でか。背広姿じゃないか。俺は背広でマラソンを走ったのか。なんて、馬鹿なことを。まあ、いい。もう走ってしまったのだ。
 それにしても帰りたい。家に帰りたい。家はどっちだ。覚えていない。人の流れに乗って、ここまで来たんだ。また、人の流れに乗ろう。スタートした以上いつかはゴールに着くだろう。そこが俺の家だ。
 俺の家?父さん、母さん。ふと、両親のことを思い出した。どこにいるのだろう?いや、両親ともだいぶ前に亡くなったはずだ。いや、そんなことはない。俺は何をボケているんだ。俺は家に帰るんだ。両親に、フルマラソンを走ったことを報告するんだ。父さんや母さんは喜んでくれるかな。そんなことよりも、父さんと母さんを探さないと。一体、どこへ行ったんだ。こんなに多くの人の中から探すのは大変だ。でも、こんなにたくさんの人がいるなんて、今日はお祭りなのか。
 これがお祭りなら、俺がはぐれたんだ。父さん、母さん、どこにいるの?とにかく、二人に会わないと。父さんと母さんは、俺を残したまま帰ったのかもしれない。いや、そんなはずはない。でも、このままでは俺はひとりぼっちだ。いや、迷っているのは父さん、母さんじゃないのか。二人ともボケて徘徊しているのかもしれない。二人を探さないと。早く見つけないと、交通事故に遭ったら大変だ。俺は両親を探すという目的を持った。両親がいる場所へ帰るという行先を見つけた。さあ、行くぞ。今から、スタートだ。さて、どこへ?

 父さんはどこだ。どこかで見つかると思っていたけど、見つからない。もう、一時間以上もゴールを待っているのに、競技場には来ない。ジャージに着替えたものの、体が冷えてきた。やっぱり、走ってなんかいなかったんだ。そりゃそうだろ。いくら、昔取った杵づかでも、今は、ほとんど走っていないはずだ。フルマラソンを走る体力や筋力はもう残っていないはずだ。もし、走ったとしても、どこかで棄権したに違いない。いや、それよりも、もともと走ってなんかいないだろう。これからどうしよう。
 あっ、電話だ。母親だ。もしもし。父さんは見つからないよ。マラソンは走っていないんじゃないか。警察に届けよう。今、どこ?競技場のメインスタンド?家にいるんじゃなかったの。じっとしていらないって。わかったよ。今から、そっちへ迎えに行くよ。
 近藤はスタンドを見上げた。母親の姿を見つけた。手を振っている。それにしても、父さんは本当にどこに行ったんだろう。とにかく、家に帰ろう。家にいればいつかは帰ってくるだろう。近藤は母親の待つスタンドに向かった。

 みんな、お疲れだなあ。バスに乗るのにステップを上がるのさえも辛そうだ。そりゃそうだ。みんな、フルマラソンを走ったんだもんな。でも、フルマラソンだなんて、よく走るよ。フルマラソンは四十キロだろ。四十キロと言えば、バスが時速四十キロで走っても一時間はかかるんだから。その距離を自分の足で走り通すだなんて、信じられない。その信じられないことを成し遂げたランナーがバスに次々と乗り込んでくる。本当に、お疲れさんだ。よくやったよ。感心するよ。まあ、俺から誉められても嬉しくないか。
 おや。この人もランナーか。背広姿じゃないか。背広に着替えたのかな。いや、背広はところどころ濡れているし、塩を吹いているみたいだ。背広を着て走ったのか。グレーの背広が汗で、ところどころ黒く斑点模様になっている。それでもだいぶ乾いたんだろう。でも、普通の人だったら着替えるはずだろう。この人は走ったまんまじゃないか。着替えを忘れたのか。それとも紛失したのか。元々持っていないのか。それはそうとして、この姿で家に帰るのか。風邪を引くぞ。まあ、いいか。俺もそこまでは心配できない。俺の仕事は、このバスの乗客を無事に駅まで送り届けるだけだ。
 でも、気になる。年は俺よりも少し上か。定年で退職したんだろう。そう言えば、俺だって、後二年で退職だ。退職したら、何をしようか。年金はすぐには出ない。引き続いて、再雇用で、会社に雇ってもらうしかない。それでも、五年間だけだ。それ以降はどうする?仕事があるから、朝早く起きて、夕方に帰り、缶ビール二本の晩酌が美味しいんだ。それが一日、家にいたらどうなるんだ。まずくて飲めやしない。
 そうだ。俺も走ろう。あの人のように。あの背広姿の男のように。これまでバスで運行してきた道を、自分の足で走るんだ。いや、走るのは無理かもしれない。それなら歩けばいい。ここは、お遍路文化がある。お寺を巡るんじゃなく、バス路線、バスの停留所を巡ってもいいんじゃないか。それを写真で撮ろう。インターネットだっけ。フェイス顔とか、ツイの住処だとか、子どもが言っていたな。それに写真を載せよう。そうすれば、みんなに知ってもらえるぞ。そう考えると、退職した後が楽しくなってきたぞ。さあ、バスは満員になった。駅まで出発だ。スタートだ。みんなを無事に送るぞ。それが俺の今の仕事だ。俺のゴールだ。

 大学を卒業し、会社に就職した。就職した当時は、地元のアマチュア劇団に参加して、舞台監督など、裏方の役割を担った。自分の居場所が欲しかったのだ。そのうちに、仕事が忙しくなり、劇団の練習にも参加できなくなり、劇団をやめた。劇団員と言っても、所詮、アマチュアだ。プロではない。自分の居場所に満足できなかった。何かをやっているという実感がなかった。未来が見えなかった。ただ、漫然と、仲間とバカ話をしていただけた。時間だけが、齢だけが通り過ぎた。おいてきぼりはもう嫌だ。
 ある日。テレビを点けた。マラソン大会を放映していた。目の前のテレビに釘付けになった。頭も顔も眼も耳を画面に集中している。二時間余り、ただひたすらランナーが走るのを見ていた。四十二.一九五キロ。数字ではその距離だが、自分の感覚として分からない。家から職場までが五キロ。往復で十キロ。それを四回繰り返せば、四十キロ。遠いのか、近いのか。頭でわかっていても、体はわからない。それじゃあ、走ってみたら。天使か、悪魔かが囁く。それは無理だろう。俺はすぐに返事をした。でも、半分くらいならやれるんじゃないだろうか。
 じゃあ、やってみたら。天使か、悪魔かが俺に微笑んだ。じゃあ、やってみるよ。俺は小豆島のハーフマラソン大会に申し込んだ。参加費は四千円。それに、島に渡るのにフェリー代がかかる。自分に目標と逃げ場のなさを作った。どうせ走るのならば、いいタイムで走りたい。俺はその日から走ることを始めた。最初は笑顔で、そして顔をゆがめて。

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(12)

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(12)

十二 ゴール後

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-22

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