なんやねん

 チャイムが鳴った。

 玄関を開けると一週間振りの彼が立っていた。


 私達は一週間前に別れた。今日、彼は自分の荷物を取りに来た。
 同棲していたわけではないので、荷物は紙袋二つに収まった。この部屋に泊まるときの寝間着、翌日に着る服、下着、靴下、彼が購入したDVD、本、などだ。

「はい」と言って渡すと、彼は無言で受け取った。


 彼に他に好きな人が出来た。だから別れる。

 六年も一緒にいたのに、私達の思い出は紙袋二つ分しかないのかと錯覚し、まとめながら私は泣いた。


 錯覚ではないのかもしれない。

 まとめているときのことを思い出しながら彼の顔を見たが、目は合わない。彼は自分の手にある紙袋を見ていた。

「じゃあ」と彼が言った。
「うん」と私は言った。


 その時、外から中にゴキブリ(以下Gと略す)が入ってきた。
「うわあ!」
 まただ!実家もマンションの三階でGなんていなかったから何も考えずにここを借りた。一階が飲食店の場合はGが出てしまうかもしれないということを引っ越した後しばらくしてGと対面したときに知った。

 Gは影を好む。外廊下の白い蛍光灯より、私の家の玄関の靴箱の影を選び動きを止めた。

「ごめん取って!」
 もう恋人ではない彼に、去り際にG退治なんて申し訳ないなとは思いつつ、恋人同士であったころのように頼んだ。
 が、彼は今まで使っているのを見たことがない表情筋を動かした引きつった顔で、
「ごめん! 本当は虫駄目やねん!」
 と言って急いでドアを閉めばたばたと去っていった。



 取り残された私とGは、お互い時が止まったかのように動かなかった。
 GはGで、人間の存在に気付き、他の場所へ隠れるタイミングでも見計らっているのだろうか。
 私は私で、彼との別れでのどうしようもない寂しい悲しいやるせない感情と、え、虫駄目だったんだ、といまさらながらの発見と、これからは独りでG退治をしなければならないことへの、二つの絶望感と一つのもうどうでもいい発見と感謝の気持ちでごちゃごちゃになり、身も心も動けなくなっていた。


 先制したのはGだった。より暗いほうへと、玄関と廊下の段差の影へ攻めてくる。いや守っているのか。いやいやこの際そんなんどうでもいい。
 飛びませんように!飛びませんように!と願いながら私はそれを目で追いつつ、身を守る。いや守るっていうか動けないだけだけどね。

 目で追った先、G位置とは違う方向に、彼用であったスリッパが目についた。それを見た瞬間私は表情筋へ使う運動量を左手に全力で注ぐかのように無表情になってスリッパを取り、片足先に片足先を入れひとつにまとめ強度を増し、そのまま勢いよく左手で一撃で終えられるよう渾身の力でGの命を討ち取った。

 ちなみにどうでもいいが私は右利きだ。


 玄関とGとスリッパの間はきっと一ミリも残されていないだろう。
 と物理的なことはさておき、いろいろな思いをそれに乗せ、動かさないよう手を離した。



 彼と別れる前に「このお店に行きたいね」なんて話しながら折り目をつけていた情報誌のページをごっそりと破き、その紙とゴミ袋を用意して私は、

「あんた関西人やないやん」とつぶやき残骸を片付けた。

なんやねん

なんやねん

別れた私と彼の間にGがやってきた。 ※「G」で、もしやとぞわぞわされるかたはお逃げください…!虫!

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-21

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