Lily.

“you are stronger than you think.”

 校内に人の影もまばらな黄昏時。晩春の暮れる太陽の光が、窓辺で寄り添う二人の少女の頬の産毛を赤く染めていた。緋与子(ひよこ)は太陽が沈みきる瞬間を待ち、窓の外から目を離さなかった。沈みながら、ゆっくりと輪郭を変えてゆく太陽の姿を、緋与子は瞳に焼き付ける。そうして瞳に赤い光を映す緋与子の横顔から、小波(さなみ)もまた視線を離すことが出来なかった。二人きりで肌が触れるほど近くにいられることなんて初めてで、あんまりにも緋与子がきれいで、小波は重なった手のひらから、全身が心臓になったかのような鼓動の高まりが、緋与子に伝わってしまうのではないかと思えた。心のふるえが緋与子に伝わってしまったら、静かに自分の身体に映る太陽が消えていくのを眺める緋与子の邪魔になってしまう。小波は息をのんで、そのまま呼吸を止めた。緋与子の額にかかった柔らかい猫っ毛を、くるんと上を向いたまつげを、いつもは眠たげに見える二重の幅の広い瞳を、くちびるを、肌を、今この瞬間、小波は手に入れたくてたまらなかった。緋与子を見ているだけで、小波の心は底がつきるまで溶けてしまいそうだった。けれど、緋与子の邪魔をしたくないから、触れることがこわいから、見つめるだけでもう、今は精一杯だった。柔らかくも熱い夕焼けの輝きが、紺青の星空のヴェールに追われるようにして地平線へと逃げてゆく。そうして地平線に太陽が赤く沈むと、辺りの空気がにわかに涼み始めた。湿気を含んだ冷たい清涼感のある風が小波の首筋をなでた。

「太陽、沈んじゃったね」

 緋与子の瞳にもう赤い光はなく、かわりに小波のぼーっとした顔が映る。緋与子が口を開くのに一瞬遅れて、小波も呼吸を再開させた。一言目に出た言葉はやけに声量が小さかった。

「あっ、うん」

「夕焼けきれいだったねぇ。付き合わせてごめんね」

 二人で学校から帰ろうという話になった後に、教室から夕暮れを見ていきたいと言い出したのは緋与子だった。日が傾く時から沈むまでゆっくりと夕暮れ見学に勤しんで、緋与子は満足そうだった。

「全然いいよ、気にしないで」

 夕暮れもきれいだったけど、隣に一緒にいられることが嬉しいから、緋与子が小波に申し訳なさそうな顔をする必要なんて少しもなかった。ドキドキしすぎて息を止めていたことが緋与子にあんまり勘付かれていないことを祈りつつ、小波はいつも通りの返事をした。

「ありがとう。じゃあ、帰ろう。空気が気持ちいいから、歩いていこうよ」

「そうだね、そうしよっか。あ、まって、ごめん美術室寄っていい?筆箱忘れてきちゃった」

「いいよいいよ。一緒に行こ」

 それぞれ荷物をまとめていた手が鞄のファスナーを閉めきると、二人の手はまた繋がった。

 思春期の同性同士が手を繋いだり腕を組んだりする光景は、異常なものだろうか。小波の認識からすると、それは意味なくただ「当たり前」のものとして行う限りでは許されたものだったが、「特別」なものだと感じた瞬間から、”それ”は小波には許されざる行為となった。緋与子と二人きりでいる時間に、小波は名前をつけたかった。けれど、名前をつけることに、今の小波は躊躇していた。踏み越えてもよいし、踏み越えなくてもよい。踏み越えても何も変わらない気もするし、踏み越えたら戻れないほどの変化に飲み込まれる気もする。閉じた自分の内面の問題だ。自己満足の問題だ。緋与子に話す必要は、ない。小波の肌と体温とが緋与子と交わる瞬間は、ペットの動物と戯れるような喜びとは全く違う。それは強く自覚された、揺るぎようのない事実だった。

 いや、思春期なんていう言葉で小波と緋与子を表すのには、私たちは少し大人に近すぎるのではないか。そんなことを小波は思った。小波は今月十七歳になり、緋与子はそれより少し先に、誕生日を迎えていた。十七歳の自分は少し大人に成っている、と思ったのではなかった。ただ、子供として、小波たちの少女としての容貌は失われつつあると思っていた。緋与子はきれいだと小波が思い始めたのは、緋与子が十四歳を過ぎてからのことだった。同じ中学に入学して出会った当時は、小波にとっては緋与子もただの仲の良い同級生の一人であったから。十四の緋与子も、十七の緋与子も、劇的に見た目が変わったわけではないのだけど、だけれど、だからこそ、小波は緋与子のかわいさに魅せられている。それに少しずつ、緋与子は眩しくなっている。きらきらしている。手脚が伸びて、髪も長くなって、メイクも上手くなった。ファッション誌の中で見る女の子の姿に、緋与子は段々似ていっている最中だ。緋与子は彼女なりの努力で、自分自身の美しさに磨きをかけていた。放課後一緒に買い物をしたり、遊びで緋与子のコテで緋与子に髪を巻いてもらったりすると、緋与子のエッセンスが自分に降りかかったような感じがした。柔軟剤の効いた、物干しから下ろしたばかりの柔らかいタオルが素肌を包んでいるような心地がした。緋与子の選ぶシャンプーやボディクリームの匂いはいつも彼女に似合っていた。緋与子の選ぶ香水の匂いが好きだった。緋与子とおそろいの化粧品やハンドクリームを使っていると、友達からは仲がいいねとも、緋与子の真似をしているのかとも言われた。たしかに、小波の手持ちの化粧品は緋与子の持っているものと被っている物が多かった。一緒に買い物に行って揃って同じ物を買った時もあれば、緋与子が使っているのを見て勧められて買ったものもあった。自分だけで選んで買った物と、緋与子が関係して買った物とは五分五分程度だろうか。緋与子の方が買い物は好きだったから、友人たちからすると、緋与子と比べて持ち物の少ない小波は緋与子の真似をして買った物ばかりに見えることもあるようだった。実際は緋与子が小波の選んだ化粧品や雑貨を一緒に買ったり後追いで手に入れることもあったので、段々と周囲も二人はそういうおそろいにするのが趣味なのだと理解したのだったが。

 小波は女子生徒たちのことは毎日観察していた。クラスで一番髪の毛がきれいな子は控えめだけどいつも周囲を少し馬鹿にしているのが透けて見える女子だったけれど、クラスで一番髪の毛に手をかけていたのは緋与子だった。グラビア雑誌の表紙を飾れるようなスタイルのよさがあったのは、明るいけれど真面目すぎてたまに周囲と会話のノリの合わない運動部の子だった。緋与子は肉感的な肉体ではないけれど、コンパクトな体躯のわりに手脚が長くて、服に着られることのあまりないうらやましい骨組みをしていた。緋与子はストレスを感じる場所からはすぐ離脱するためその理由の分からない人間からは変人扱いも受けていたが、容姿のことはよく褒められていたし、話し方が素直だったので周囲からは可愛がられていたように思う。周囲の女子生徒も身だしなみを小綺麗に整えた子が多かったし、小波は毎日女性の身体はなんてきれいで、彼女たちの努力や習慣はこんなにも美しいものを結実させるのかとこっそりと小さくため息を吐いた。

 自分も女性の身体を持っているが、なんだか自分自身の身体に対しては変わった肉を着ているようなそんな気持ちで、確かに自分なのだが、ほかの女の子と自分が同じ生き物だとは思えなかった。男ではないのだけど、肉の付き方も声も体毛も確かに女なのだけど、小波にとっては「女の子」はもっと綺麗で特別なものだった。と、ふと思う。自分の所有する身体に対してうっとりしている自分を想像するのは難しかったが、緋与子はもしかして自分の身体を自分で抱きしめられることに歓びを感じたりしているのだろうか。

 美術室に寄って、校舎を後にしてから十分ほど経っていた。手こそ繋いでいるものの、それなりに長い学校から駅までの道のりを、小波と緋与子はおのおのぼんやりとして歩いていた。小波は緋与子の顔は見ず、前を向いたまま口を開いた。

「ひーちゃんさあ、自分の身体って好き?」

 コンクリートと雑草の境界を踏みならしながら歩いていた緋与子は、そんな藪から棒になんだ、と思ったが、しばし逡巡してから答えた。

「えー?好き・・・好き?うーん自分のことは大好きだね。」

「自己肯定力高くてうらやましいっす。いや、精神の問題じゃなくてこうさあ、女体を動かしてわたしたち生きるじゃん、でひーちゃんすごくお手入れがんばってるじゃん、今の自分の身体の状態、好き?」

「女体力の話ですか?まあまあのコンディションだと思ってる。健康には気をつけたいから課題はいろいろあるけど・・・」

 緋与子がしゃべり終えないうちに小波が口を開く。

「まあまあかぁ・・・。」

「え、何、私の身体って何かひどいの・・・?」

「あ・・・ごめんそういうことが言いたかったわけではないよ!なんていうか自分のことで考え事しててひーちゃんはどう考えてるのか知りたかっただけだから」

「ほう。あらやだ。さっちゃん悩めるお年頃ね」

「いやべつにそんなに深刻じゃないとは思うけど・・・」

「相談じゃないのー?自分の身体好きじゃないの?」

 質問された小波の眉が八の字に下がった。口でこそ深刻ではないと言ったが、表情に心中複雑です、と書いているようなものだった。街灯と街灯の間で、星の登る夜空が綺麗だった。中学以来の付き合いの緋与子と小波だったが、小波はあまり悩みを人に話すタイプではなくて、たまに悩んでいるそぶりを見せても、しばらくすると自己解決したのか復活していた。暗がりの中の小波の横顔は、緋与子の見たことのある自己解決以前の顔をしていた。悩み出すと長いようで、深刻そうな顔をする。なのにいつの間にか憑きものが落ちたかのようにさらっといつも通りに戻っている。

「んんん、いや、なんかね、好きかどうか聞いといて違うのかよって感じなんだけど、好きとかそういう次元とはまた別っていうか、自分の身体がどこから自分のものなのかっていうか・・・」

「難しいかんじ?」

「うん。なんかちょっと自分でも頭の中複雑だから、もう少しまとまったら話す・・・かも」

 歯切れの悪い小波の返事に、理解ある顔で緋与子が答えた。

「はいはい。別に答えとかなくても聞くけど」

「ありがとう。ひーちゃんやさしい」

「でしょ」

 ひひ、と悪戯な顔で緋与子が笑った。

 悩みを共有したり同じ相手を憎んで繋がった仲ではなかった。だからこそ、別にいつだって何の話だってお互い聞く準備は出来ている。緋与子はそう思っていた。小波は中学の頃一度親が離縁して父親に引き取られ、結果継母を迎えて今の家族生活を営み、緋与子は年の離れた兄が高校を中退して以来引きこもりをしていた。そういう家だった。だがしかし、それくらいのことが起きた、起きている・・・それだけであった。お互い家での生活がどのようなものかは知っていたが、二人とも特別今不幸だとかそういうことはない。色々ある、と言えばあるが、心持ち次第というか、まあ極端な話自分や家族が死ななければいいというやつで、二人とも問題は問題として、家族のことは好きだし明るくやっていこうと思っていたので、なんとなく二人でいる時は余計に面倒な話は続かなかった。今解決出来ない話は、ほどほどに付き合って、吐き出したいときだけ吐く。そんな姿勢でいた。小波はこの話の続きを自分に話すかもしれないし、話さないかもしれない。自分は小波に悩みはどうしたかと聞いてもいいが、でもたぶん、しばらくしたら小波はまた悩みを内部消化していつも通りになっているかもしれない。もし消化出来なくて、小波が自分に悩みの続きを明かしてもいいと思っていたとしても、その時に小波の望むタイミングで話を聞き出せるかはわからないので、とりあえず今は保留。小波は自分で話をまとめる。だから私は待たずに待つ。いつのまにか、待っていたことがなくなっていることにも気づかないような、そんな待ち方で。けど、そんなに深刻に悩むほどの身体の問題があるだなんて、一緒にいても全然気づかなかったな、私って人の心の機微に鈍い人間なのかなあ、と緋与子は思った。

 緋与子と繋いだ手のひらが温かかった。意味の分からない質問をしてしまった。緋与子に聞く必要のないことだったかなと、小波は少しだけ反省した。

 その後、小波が再び緋与子に自分の身体についての話をすることはなかった。小波は考えているうちに段々と考え続けることに疲れたので、この問題とは解決を急がずだましだまし付き合っていた。緋与子は緋与子でこんなやりとりもあるよね、くらいの気持ちで、再び小波が同じ事を口にしなかったためにそのうちに忘れてしまった。小波が自分の身体について何か考えている様子などは、見かけることはなかったのだ。

 社会人になってから思い出すと、やはり年をとった証拠か、はたまた自分の嗜好故か、学生時代の思い出が妙に眩しい。時間のレールの上に立つ未来の自分は皆ずっとこうした感慨を持っているのか?今の自分も懐かしむに値する日常を過ごしているだろうか。



(2015/03/28)

Lily.

続き書きたいような書くのめんどくさいような。

Lily.

百合女子高生の放課後。逡巡の先に消えてしまった大事な女の子について。

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更新日
登録日
2016-05-20

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