エリンギ

エリンギ

エリンギ


「お母さん、そろそろ正平を起こしたらどうだね?学校に遅刻するぞ」
「そうですね、正平!起きなさい!学校に遅刻するわよ」
ボクは部屋の隅にある最近買ったベッドの上で湿気た天井を見ながら、一階の居間から聴こえてくる父と母の声にうるさく感じた。だいたい一時間前から目が覚めているが、身体をベッドの上から起こさせる気にはどうしてもなれなかった。ボクはそのまま天井を見続けた。けれどもそれを打ち破る様に二度目の母の声が聴こえてくる。
「正平!いい加減にしなさいよ!」
母の大きくなる声に、ボクはため息を吐いてベッドから飛び降りた。思い足取りで居間へと歩き階段を降りていった。
居間をへと通す木材で出来た扉を開ける。そうすると父の新聞を広げる音と同時にボクに話しかけてきた。
「正平、もう少し早く起きたらどうかね?はぁ…困ったものだ」
ボクは父の言葉に、はい、とだけ答えた。しかし父は何かまだ不満そうだ。
それに加えて母もボクに喋りかけてくる。
「さっさと、朝食食べて、私も今日は早いのよ」母の話す声にも、ボクは頷き、ご飯と味噌汁が準備されている席に座る。でもボクはその時にも母の顔は見ないで味噌汁の汁をすすった。
どうやら父は堪忍袋が切れたらしい、新聞を机に荒々しく置き、ボクに向かって怒鳴った。「おい!私とお母さんが喋っている時になぜ、目を合わせないのだ!そんなふうに育てた覚えはないぞ!」
居間の部屋の空気はピリピリと響く。ボクはごめんないさいとだけ言う。どうやら彼ら二人の事を見ないといけないらしい…ボクは泣きそうな気持ちになりながらも、父と母の方をゆっくりと頭を上げて、縮ませているまぶたの筋肉を開き、徐々に顔を見るようにした。
新聞を机の上に置いて、そのそばに湯気をたたせるコーヒを飲んで、いたらしい父、エプロンを身に付けて食器を洗い、怒る父を眺める母、その二人の顔からボクは一ミリたりとも表情を読み取れなかった。なぜなら二人の顔は首から上がスベスベとして白く、白菜が生えた様だ。
エリンギだ。スーパーで売ってあるキノコの類が二人の首の根っこからそのエリンギが生えていた。目も鼻も口もない、ただ何処から喋っているのか分からないが、はっきりと声だけは聞こえた。ボクはこの光景を見ると物凄く気分が悪くなった、吐き気がする。ボクはたちまち胃袋から塩かかった水が喉を逆流する感覚を感じてすぐさま、洗面所に向かった。そして、その場所に着いた瞬間に水分が口から飛び出て排水口に流れていく、ボクはぜぇぜぇと酸素を吸う。そしてゆっくりと顔を上げる、洗面所のカガミにボクの目と鼻と口のある顔が映る。その時、肩から力がドッと抜ける、毎回自分の顔をカガミで確認するとき心臓が止まりそうになる。もしかしたらボクも父と母の様に顔がエリンギになっているんじゃないのか?と、不安になる。
でも今日も自分の顔は、何時もの自分の顔であった、ボクは安心したので、ついつい鼻息を吹いてしまう、そして居間に戻った。
ボクは母らしき者にご飯は食べないと告げて、逃げるようにして自分の部屋に戻り、ブレザーの制服に着替えた。そして、急いで玄関に向けて歩き、アルミで作られた扉を開けた。
ボクは学校に向かって歩き始める、途中いくらかの人とすれ違ったが、そのスーツを着けたサラリーマンやワンピースを着けている女の顔を見るとやはり、ボクの父と母と似た様でエリンギの頭だ、ボクは目をそらして進む。前から小学生の声が聞こえてくる。登校中なのであろうボクはこの小学生の顔を見ると、何ら変わらない目と鼻がついてる林檎の様にスベスベとした頬を上下に動かして笑っている。なぜか子供の顔はエリンギではないのだ、ボクはほっとして子供たちの横を通りすぎて行った。
学校に到着したボクは教室の中に入る。最初の授業までにはまだ時間がある。ボクより先に教室に着いていた奴等がゲームの話や昨日やっていた番組について討議していた。みんな実に楽しそうだ、登校してきた生徒が引違いのドアを開けて「おはよー」とぞろぞろ入ってくる。その数が増えるほどボクは冷たい汗をポタポタと落とし、席に座っている机の表面を濡らした。ボクの近くの席は少しずつ埋まっていく、あぁ、こんなに嫌になる事があるであろうか。ボクは首を上げて周囲を見渡した。ブレザーの服の男子、セーラー服の女子談笑する彼らの首から先はエリンギであった。教室の至るところで白いスベスベした生き物がぺちゃくちゃおしゃべりをしているのだ、ボクはその光景を目をそらして、教室の入り口である。ドアの方向を見た。あと三分後程であの子がやってくるボクはドキドキしながらその空間を見つめて待っていた。するとセーラー服で髪の毛をはらりと揺らしながら身長の高い女の子がニッコリ微笑みながら、開いているドアから顔を出した。ボクはその女の子を見ると身体が熱くなった、その子だけはクラスメイトとは違うエリンギの頭ではないのだ。普通の人間で女の子なのだ。ボクは嬉しさの余り席を立ち、その子に近づいた。
「おはよう、池井さん!」ボクは席にスクールバックを置いた女の子に声をかけた。バニラのシャンプーの香りがふわりとする。そのボクの声に女の子も嬉しそうに笑い、返事を返す。
「正平くん、おはよー!どうかしたの?」
ボクはエリンギの顔ではない、目と鼻と口のある池井さんとは会話が出来た。なぜ池井さんだけがエリンギの頭じゃないかはボクもよく分からない。でも池井さんはエリンギではないから安心してボクはよく池井さんに話かけている。
「池井さん、今度のバレーの大会に出る事になったんでしょ!スゴいや!」
ボクの言葉に彼女は少し顔を赤く染め、照れて言った。
「そうだよ、でもね正平くんが応援してくれたからレギュラーのメンバーに選ばれたんだと思う」
「何言ってるんだよ、毎日遅くまで練習してたからだよ!池井さんの実力さ」
ボクがそう言うと、彼女は「そうかな?」と小さい声で言って微笑んだ後に首を下に向けてちょっぴりモジモジしながら声を出した。
「実はね正平くんにお願いがあるんだけど」
ボクは「何?」と軽く返事をした。彼女はゆっくりと深呼吸して「正平くんに大会に来て欲しいの、その…始めての試合だから、見て欲しいの」
彼女の仕草と恥ずかしながら喋る姿にボクも何だか照れしまい、頬をポリポリと指で掻きながら「池井さん、絶体に応援に行くからね」と彼女の瞳を見て言う。
そう言うと彼女は「うん、ありがと待ってるね!」と笑って言った。
その時、ジャージを着けた頭がエリンギの男が教室に入って来て「おーい、さっさと席に座れ!出席をとるぞー」と白い顔でぶっきらぼうに言った。

土の湿気た香りがする、梅雨でもないのに最近はよく雨が降る。ボクは透明のビニール傘を広げて池井さんの大会先である、郊外の体育館へと向かっていた。試合は10時半からだまだ余裕がある。ボクは大会場所の近くにあるコンビニへと歩いていた、少しだけ立ち読みでもして漫画のページを開こうと考えていたのだ。
反対側の道路先にあるコンビニが視界に入って来る、コンビニの自動ドアが横に開いた、若い母親であろうか?顔はエリンギの母親が幼い男の子の手を繋いで出てきた。子供はキャッキャッと笑い、片手にはおもちゃの人形を持っていた。
すぐ横には横断歩道はあるのだが、信号は赤で天気が悪いせいか、ぼんやりと光って見えている、ボクはちょっと歩いた場所にある歩道橋を渡って行くことにした。
歩道橋の階段に足をかけると雨の影響か靴の底がぬるぬると滑る。ボクは慎重に踏んで進む。目の前にさっきコンビニから出てきた親子が近づいてきた、どうやら歩道橋を歩く事を撰んだらしい、子供は相変わらず手に持っているおもちゃに、夢中になっている。ボクとその親子はすれ違った。と、子供は濡れている階段に足元をすくわれたのであろう、バランスを崩して身体が浮いて転げ落ちそうになった。エリンギの頭をした母親も気をとられていたのだろうか?一瞬の出来事に繋いでいた手を離してしまった。母親の叫び声が聞こえそうになる。
ボクはとっさに子供に手を伸ばしていた。
運が良かったのかその子の手にわずかに届いた、ボクは思いっきり引き寄せて抱きしめる。しかし体重は何もない空中へと動いている、ボクは階段を鈍い音をならして転がり落ちていた。

バレーボールの跳ねる音が体育館の中で響き残響してボクの鼓膜に跳ね返って来る。急いで来たが残念な事に彼女の試合は終わってしまったらしく、すでに何処かの学校がエリンギの顔で真剣にボールを叩いている。そんなことはどうでも良かった、ボクは彼女の姿を探して歩いて体育館をまわる、しかしどこにもいない。する後ろから声が聞こえた。
「あー、今来ちゃったんだ、池井ちゃんの彼氏、彼女ずっとそわそわしてたよー」
なるほど顔がエリンギで良くわからないが池井さんのチームメイトらしい、ボクは池井さんの居場所を尋ねる。
「池井ちゃんなら、外にいるけど、今は行かないほーが…」
ボクはお礼を言って痛む左足を押さえながら外に出た。体育館から出て水の場の裏に彼女はいた。薄暗くて表情が見えないがボクは声をかける。
「池井さん、遅れてごめん」
ボクに気づいていないのか、彼女は返事を返さない。ボクはもう一度言った。
「池井さん、遅れてごめんね」
彼女はゆっくりとボクのところを振り向いた、しかし怒った顔で少しまぶたが腫れている、そしてトーンの低い口調でこう言った「約束したのに!応援してくれるって!正平くんの嘘つき!大嫌い!」
大声で発した後、雨が降り続けるこの場からボクだけを置いていく。彼女は走ってどこかに去って行った。その彼女の言葉にボクは死んだような気持ちになっていた。
そんな事があった翌日、ボクは本当に学校に行きたくなかった。胃がキリキリと痛む、朝に三回もトイレの便器に座った。ボクは彼女にまた謝ろうと考えていた。
教室に着いて彼女が登校してくるのを待つ、しかしいつになっても彼女は登校して来ない。休みだろうか?
こうしてボクはエリンギの生徒に囲われて授業を受け始めた。一時間目が終わる。ボクは眠たい顔でアクビをした。と、その時ボクに声がかかった「あの、正平くん…昨日の事で謝りたくて…」聞き覚えのある声とバニラのシャンプーの匂い、彼女だ。そう思ってボクは嬉しくなり振り返った。しかしボクの顔から血の気がなくなり、体温が低くなっていくのを感じる。
目の前には、白いスベスベした顔のエリンギが立っていた。
ボクは息が止まる。それに気づかない様子でそのエリンギは話続ける。
「昨日は本当にごめんなさい!友達から聞いたの、正平くん、歩道橋から落ちそうになった子供を助けて階段から落ちたんだって、それで大会に遅れたって…」
ボクは身体が震え始める。
「私自分の事しか考えてなかった、正平くんが左足を引きずって歩いてたのも、気づかなかった」
耳に何も入ってこない、誰だこいつは?もしかして池井さんなのか?声も…バニラのシャンプーの匂いも、池井さん?嘘だ、嘘だ、嘘だ!こんな無表情のエリンギ何か!池井さんなんかじゃない!
ボクは教室を飛び出していた。
トイレの洗面所で口に溜まった汚水をぶちまけて汚す。ボクは息を整えながらゆっくりと顔を上げた。鏡にはボクがいなかった。
そこには、白いスベスベした生き物、エリンギが映っていた。鼻も目も口も何もない、のっぺりとした消ゴムの様な奴が立っている。ボクは恐怖で蛇口を開けたままトイレから出た。
ついにボクまでエリンギの化け物になってしまったのか…そう思って、重い足取りで理由もなく廊下を歩いた。
窓ガラスを時々見て確認してもやはりボクは化け物だ。くそ!ボクはボクの顔を憎み、その映ったガラスをにらみかえした。けれども、のっぺりとした表情のない顔が映るだけである。
ボクは視線を変えて、窓ガラスの向こうを見ると昨日の雨で溜まった水が目に入る。昨日のバレーの試合はどうなったんだ?
ボクはふと池井さんの事を思い出した。彼女の声と彼女の匂い、彼女の笑っている顔と彼女の怒っている顔、そして彼女の照れている顔。ボクは気づいた。
ボクは池井さんの事が好きだったんだ、クラスメイトや親に心をずっと開かなかったボク。でも池井さんだけには心をボクは開いた、初めて出会ったのは彼女が体育館からバレーボールを転がして追いかけて来たのだ。その時、たまたまボクはそのバレーボールを拾い上げて彼女に渡した。きっとボクの顔はエリンギ見たいに無表情だったんだと思う、そんなボクに彼女は言ったんだ「あ!ありがとうございます!そう言えば同じクラスでしたよね?それじゃ、また明日ね!」
そうさ、彼女の輝く汗とはらりと揺らしながら落ちる前髪そして笑顔にボクは一目惚れしたんだ。でも自分に嘘をついていたんだ。ボクはいろんな人に対して自分の気持ちを偽ったんだ。
でもせめて、彼女、池井さんだけには嘘はつきたくない!
ボクは猛烈な勢いで走って教室へと向かった。そして、木製の建具の扉を力の限り開いた、大きな音と衝撃が教室中に伝わる、授業を始めていたらしく、席に座ったエリンギ達がいっせいにボクの所を見たがそんなの関係ない!
ボクはスタスタと歩いて彼女よ席の場所に立って「池井さん!ボクと来て!」と叫んで彼女の白く細い手を掴んだ。彼女は「え?何?」と聞き返すが彼女の手を引いて走り教室から飛び出す。
思いっきり走っている途中「正平くん、痛いよ!いきなりどうしたの?」と質問するがボクは無言で体育館の中に土足で連れ込んだ。
ボクは彼女の狭い肩を掴み、鼻も目も口も何もない無表情の顔のエリンギに向かって言った。
「池井さん!君をこの場所で見た瞬間からずっと、ずっと好きだったんだ!ボクはもう君の全てを知りたいんだ!」
そう言って、エリンギの顔にキスをした。ボクは目をつむった。バニラの匂いと蒸せた汗の匂いが絡んでボクの目にしみたからだと思う。
「正平くん、遅いよ、私は同じクラスになった時から正平くんの事が好きだったんだよ?」彼女の方から口をボクから離した。そして、ボクはゆっくりと目を開いた。そこには顔が真っ赤に蒸発しそうになった見慣れた顔があった。ボクは肩から力が抜けてへなへなと座り込んでしまう。
彼女は笑って言う。
「正平くんの顔がエリンギじゃなくて良かった」

エリンギ

エリンギ

ボクのお母さん、お父さん、クラスメイト、先生の顔はみんなエリンギです。ただ池井さんだけが顔があります。

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更新日
登録日
2016-05-20

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