みかんの木
高いヒールは履かないの
みよちゃんがこの教室に入るとき、私はいつも息を吸い込んで、できるだけおなかをへこませる。木曜日のこの時間は、みよちゃんにとって一週間で一番大切な時間だから、友達として、全力でサポートしたいの。
立て付けの悪いドアは、ゆっくりと開けていてもガタガタと大きな音を立てる。半分くらい開いたところで、みよちゃんの指に力が入った。社交的で明るいみよちゃんが、緊張している。心配する私の頭をドアのレールにかすめて、彼女は教室へ踏み込んだ。
みよちゃんの通うこの大学は、名門校として有名らしい。とりわけ彼女の所属する専攻は、勉強熱心でまじめな人が多く、ダンスサークルで華やいだ生活を送るみよちゃんは、そんなまわりから少し浮いていた。
この時間、二十人ほど収まる小さめの教室には、昼食を終えた生徒たちが既に数名座っていた。みよちゃんの視線は泳ぎ、ある場所で止まった。机と椅子を避けながら、視線の先へ向かう。ある窓際の席をとったみよちゃんは、一息ついた後、自分の前の席に声をかけた。
「おはよう」
少しうわずった声が飛ぶ。5月の窓から吹くそよ風にとても似合った、さわやかで女の子らしい声だった。
声に応じて振り返ったその人は、分厚くて難しそうな本を読んでいたけれど、みよちゃんを見るとすぐに目を細めてにこりと笑った。色のない地味な服装で、あまりカッコイイとは言えない人だけれど、この表情が、私は心底好きだった。
おはよう、と返事をした彼は、体を反転させて、みよちゃんのほうを向いてくれた。瞬間、みよちゃんの足が冷たくなる。気づいて確認しようとしたけれど、下からだと机が邪魔で、みよちゃんの赤くなった顔を見ることはできなかった。
みよちゃんはこの彼に、恋をしている。
でも、彼より少し背の高いみよちゃんは、自分の身長を気にして、自信を無くしている。お気に入りだった流行りのヒールたちは、すっかり履かなくなってしまった。
かわりに、棚の中でずっとウトウトしていた、ぺちゃんこな私を毎日連れ出してくれるようになった。
高さのない私は、それでもできる限り靴底が薄くなるように、木曜日のこの時間、おなかをへこませる。
本当は、とても奔放で、派手で、華やかなみよちゃん。
でも、控えめな彼に見合う女の子になりたいみよちゃん。
私はそんな彼女の、一番近くにいるともだち。
わたしはみよちゃんの、黒いパンプス。
みかんの木