Mad Justice
この作品は好き嫌いがハッキリ出たかも知れませんが「私が需要で私が供給」と言うレベルの稚拙な作品ですが、もしも面白いと思って頂けたら幸いです。
狂った正義
―――ごくごく一般的で何処にでもある様なワンルームアパートの一室で、男は手にした得物の確認を行っていた。―――
そこにあるのは9mmパラベラム弾に対応するように改造したリボルバー拳銃のコンバットマグナム、同弾薬を用いるオートマチック拳銃にサプレッサーと33発入りマガジン、フルオート射撃機能を追加したマシンピストル、ナックルブレードの様な見た目の改造日本刀から、多機能型銃剣まで様々で、その場所とはかなり不釣り合いである。
鼻歌まじりに作業をしている様子からして、どうやら彼の元にそれなりの仕事が入り気分が高揚しているようにも見える。
彼の名は【森江(もりえ) 利三(としみつ)】。
表向きは無職で、ぱっと見は何処にでもいるような平凡な青年である。
だが、彼にはもう一つの顔があった。
ロシア語でイヌワシを意味する“ベルクト”をコールサインに用い、世間一般で言うところの〈殺し屋〉とか〈便利屋〉と呼ばれる類の仕事を生業としていた。
―――〈殺し屋〉とか〈便利屋〉と呼ばれる裏稼業を生業にしている。―――
その情報だけ聞くと裏社会と深く関わる危険人物の様だが、彼の場合はそれが全く当てはまらない。
何故なら、『どれだけの札束を積まれようが悪党に対する依頼しか受け付けない』というものが彼なりのルールであり、彼にとっては『悪党に裁きの鉄槌を下すのは自身の存在を肯定する』という手段が他に無かった事に他ならないからだ。
そして、彼の能力の高さとその信念から裏社会の人間達は彼に対する皮肉も込めて〈殺戮の聖者〉とか〈殺し屋殺し〉などと呼んでいる他、表沙汰に出来ない人物の警護や人質事件等の際には警察や司法当局といった場所からの非公式の依頼も請けており、それも含めて彼に対する依頼の全ては、彼の師であり、現在は“ガンスミス”と一般的に呼ばれる銃の整備士として名を馳せて活躍する傍ら利三のパトロン兼マネージャーをしている【石塚(いしづか)秀人(ひでと)】という人物を通じてのみ行われている。
表向きは世界屈指のガンスミスとして銃器メーカーや各国の軍、はてまたインターポール(ICPO)=国際刑事警察機構からも仕事を請けているのだが、過去には某国の陸軍の外人部隊に在籍しており、そこでは特殊部隊の指揮官や教官を歴任し、最終的に准将の階級まで昇進し、様々な功績から複数の勲章を授与されていた。
某国の陸軍の外人部隊を退役した後は退役軍人やならず者を集めて傭兵部隊を組織し、様々な戦場に赴き、依頼主と敵対する勢力に大打撃を与える程の活躍を見せていた。
その中で特に彼自身がゲリラ戦を得意としていた事から『死の急襲者(デスレイダー)』と呼ばれて恐れられていた経歴を持っている。
そう言った経歴の持ち主だからなのかは不明だが、情報管理はかなり徹底している他、依頼主から下手な詮索をされない為に利三の素性を完全に秘匿している。
それ故に、裏社会はもとより、公安関係者でも利三の顔は知らず、表も裏も彼の素性を知る者は現在のところ石塚秀人ただ一人だけである。
そういった事情からコールサインである“ベルクト”という存在自体が半ば都市伝説の様なものと化しているし、様々な方面からコールサイン以外に幾多の異名が付けられているのだが、その能力は裏社会の情報筋や様々な国の諜報機関でさえ把握できず『一匹狼』とするものから『生まれる時代が異なれば歴史は変わっていた』とするものまで様々である。
しかし、唯一つ『引き受けた仕事は何があっても完遂する』事と『契約違反をすれば、たとえ一国のお偉方だったとしてもタダでは済まない』という事だけは認知されている様である為に裏社会の組織の幹部クラスや大国の諜報員達からもその存在は非常に恐れられている様ではあった。
ただし、その存在が半ば都市伝説と化している事で、本当に存在しているかどうか解らないという部分がある為に、下っ端の使い走りレベルの者たちからは『あくまで噂話』という事でしか認知されていない為、あまり気にされていない様であるのだが…。
今回の仕事も《立て篭もり犯の確保と人質の救出》という明らかに警察組織の特殊部隊が行うような内容なのだが、犯行グループは何処で手に入れたか分からない最新型の軍用火器で武装しており、人質を盾にして突破口になりうる場所にも対策が周到になされていた。
さらに、犯行声明はあっても、要求は一切無い“異様な事件”で警察当局では手も足も出ない程の状況となっていた為、世界中のテロリストの情報を公安調査庁が収集していく過程でインターポールを介して緊急で依頼が舞い込んだらしい。
これから緊急性のある仕事に行くのであるにも関わらず鼻歌まじりで準備を続けている彼に対し初老の男性が急かす様に
「最低限のチェックを終えたら早く車に乗れ」
となげかけた。
この初老の男性こそが石塚秀人である。
確かに屈強な面影は残されているが、ぱっと見では過去にかなり物騒な通り名で呼ばれていた男だとは到底わからないだろう。
「そんな事を言われても手作業じゃあ時間が掛かりますよ。それより、そろそろ頼んでおいたスピードローダー用意して下さいよ」
急かされていようと利三は相変わらずの調子である。
「とりあえず使えそうなデカブツの類は私の責任の下でぬかりなく整備して車に乗せてきたから終わったらすぐ出発だ」
「わかりましたよ、死神先生」
―――死神先生―――
石塚秀人という人物のかつての通り名の『死の急襲者(デスレイダー)』と利三の師匠である事から石塚の事を死神先生または先生と呼んでいる。
利三が鼻歌交じりに準備を始めた頃、事件現場では特殊作戦班の指揮官たちがその威信にかけて膠着状態の現状を何とか状況を好転させようと躍起になっていた。
しかし、どの策も失敗に終わり、文字通り八方塞がりとなっていた。
―――事件の発端は今から遡ること数時間―――
都心の一角にあるごく一般的なオフィスビルの四方をこの街には不釣り合いな大型の貨物トレーラーが囲い込んだ事から始まった。
トレーラーが建物を囲い込むこと自体は事務所移転作業などで、あり得なくはない話ではあるのだが、囲い込んだと同時にコンテナが開いて中から大勢の武装集団が降りてきたかと思えば、屋上からも輸送用の垂直離着陸機から降下してきて瞬くもの間に建物を占拠してしまった。
その手際の良さから通行人や近隣のビルからその様子を見ていた者たちは警察組織の訓練か、はてまた映画の撮影でもしている様に見えたかもしれない。
だが、建物が完全に占拠されたとき、そのオフィスビルから報道各社と警察組織に【ネフィリム】と名乗るグループの犯行声明のFAXと電子メールが一斉送信された。
そこに書かれていたのは
・我々は“ネフィリム”天より下りし巨人なり。
・本日、この時を以て聖戦の第一歩を踏み出す為にここを占拠する。
・我々は腐った文明社会を浄化するための聖戦を行う者である。
箇条書きのたった三行の犯行声明文。
“聖戦”という言葉や、組織名に旧約聖書における墜天使と人の間に生まれたとされる巨人【ネフィリム】の名を冠すなど所々に宗教関係の影が見受けられる為、国際テロ組織の一部の様にも思えるのだが、大規模な組織の一部であれば、そちらの名を出す方が事を進めるには理にかなっているし、人質を取る以上は何らかの要求があって当然なのだがそういった“要求”ととれる文言は全くない。
―――そう、大規模な犯行声明はあっても要求が一切無いのだ―――
これが如何に異常な事かは素人目に見てもわかる事であるのだが、人質を含めた事件関係者の目にはより一層異常に映っていた。
人質の中には何とかして犯行グループの目的を聞き出そうとする者もいたのだが、得られた回答は、どのメンバーからも一貫して
「教える必要も無いし、知る必要もない」
その一言だけだった。
宗教系過激派テロ組織は歴史的にも様々な場所でいくらでもあるのだが、こういった人質事件を起こす場合はテロ組織に限らず、まず何かしらの要求が存在し、要求に応じない場合は人質の殺害を仄めかす事は共通しているのが一般的だ。
―――要求が無い事で建物を占拠した目的もわからない。―――
それ以外の事は犯行グループ以外の人間には何もわからなかったのだ。
その為、特殊作戦班は様々な策を講じて人質の解放作戦に乗り出したのだが、犯行グループの装備は一端のテロリストが持つ様な、紛争地帯で容易に入手できる様なコピー版の銃などではなく、大国の精鋭部隊が使う様な最新鋭の物だった為に警察では全く歯が立たず、まるで手の内を読まれているかの様に尽く失敗に終わっていた。
例えるならそれこそ、警官隊と正規軍での戦闘と言っていいくらいに差が存在していた。
ただ、不幸中の幸いか、それとも意図的なのかは不明だが、実弾を使用しているにも関わらず、警察側に軽傷の負傷者はいても重傷者と死者は0だった。
こういった状況から何とか情報を収集しようと試みていた最中、インターポールを通じて石塚に白羽の矢が立ったのだ。
―――ところ変わって、現場に向かう大型トラックの車内では石塚が用意した大型の銃火器を利三がいじくり回していた。―――
それらの得物はどれも個人が持てるような代物ではなく、それこそまさしく“兵器”と呼ばれた方が相応しいものばかりで、短機関銃や自動小銃等の個人携行火器に止まらず、分隊支援火器と呼ばれる類の物から分類上は対物ライフルとされるが、いわゆる“大砲”と呼んだ方がしっくりくる様な20mm口径の超大型火器まで様々である。
「ところで、先生。今回の仕事だけど突入に使う想定で、個人携行型の四連装ロケットランチャーに対戦車無反動砲を用意した事はまだ理解できるとして、この数の携行型地対空ミサイルとか20mm対物ライフルなんか持ち出して使うとこある?長距離狙撃なら12.7mm対物ライフルで充分だろうし、地対空戦仕様の物もあるけど?むしろ、ベトナムやフォークランドでの前例見れば12.7mm重機関銃にスコープ付ければ連射効くからどっちもいけるでしょう? 」
「あぁ、そいつか。今回はアシストで何名か呼んでいる。デカブツはいくらかそちらの連中に途中で渡す事になっているから、お前さんは気にしなくていい」
「先生が呼んだ人間なら能力は大丈夫でしょうけど、こっちと連携取れる連中ですか?あと、いつもの薬とお守りの葉巻は何処に? 」
「安心しろ。傭兵部隊“マールス”の連中だ。お前さんも名前くらいは聞いた事あるだろう?幹部連中は私が傭兵をしていた頃の仲間だし、構成員は全員幹部の直弟子しかいない完璧主義の連中だからな。葉巻と薬はお前さんが座ってる椅子の中だ」
「なら安心です」
一度立ち上がり椅子の座面を上げると中には金属製の筒に入った葉巻と何種類かの錠剤をまとめたビニールの小袋、水の入ったペットボトルが入っていた。
薬を飲み、内ポケットのファスナーを開けて葉巻の入った金属製の筒をしまうと再び座り運転席の石塚に話し掛けた。
「この“身体強化薬”って一体何ですか?効果は抜群ですし、禁止薬物反応とかは出ていませんけど? 」
「なぁに。お前さんは気にしなくて大丈夫だ。大事な弟子を廃人にする事はしないからな」
そう、薬の成分は気にする必要が一切ない。
名目上は“身体強化薬”とは言いつつも“プラシーボ効果”という、ただの水でも薬と言われて飲んだ時に効果が表れる心理効果を狙ったもので、中身はビタミンやミネラルの錠剤、いわゆるサプリメントに過ぎないのだから。
そんな話をしているうちに合流ポイントに到着する。
しばらくすると彼らのそれと同じようなトラックが集まり、中からはいかにも傭兵といった風貌の男たちが降りてきた。
運転席の石塚がリーダー格と思しき男と合言葉を交わし、ドアを開けるよう利三に促した。
仕事用のフルフェイスマスクで顔を隠し安全を確認しながら後方のドアを開け、男たちを招き入れた。
―――傭兵部隊【マールス】―――
オリュンポス十二神の一柱で戦神【マールス】の名を冠したその組織は、大国の一個師団に匹敵する戦力を有しているとも評され、世界中の軍隊から依頼が殺到している他、傭兵というその性質から各国の要人の警護なども行っている腕利き集団である。
構成員の全てが元軍人や特殊部隊のエリート出身という肩書を持っており、典型的なピラミッド型の指揮系統の中でも各個人の裁量における行動が大きく認められているという、少し風変わりな集団でもある。
それ故に、構成員の装備は最低限の物だけが統一された支給品であり、それ以外は各々が使いやすい物を選択している。
その様相はさしずめ多国籍軍であると言うか、ドイツ製の自動小銃を持ち、ベルギー製の自動拳銃とアメリカ製の手榴弾を懐に入れている者さえいる。
そういう“一人多国籍軍”の様な構成員さえいても作戦に支障が無いのは各国家間で弾薬の共通化が行われている現代だからこそだとも言える。
そんな彼らが今回、アシストにあたるとの事から彼は余程の大仕事であることを覚悟した。
石塚からの指示で重火器を彼らのトラックにいくらか積み替え、マールスのリーダーが助手席に乗り込むと残りのメンバーは再び別行動に移った。
それからしばらくすると規制線が張られ、通行止めとなった場所にさしかかり、案の定、警官から制止要請を受けたが、インターポールより渡されていた許可証を渡すと恐ろしくすんなり通過する事が出来た。
警察関係の仕事であれ、いつもは大体こういった規制線の通行時に一悶着あるのが常であったと言うか、規制線で誘導をしている警官は管轄が異なるため、無線による確認作業等を経なければ通行できない、いわゆる“縦割りの弊害”に邪魔されていた。
だが、今回はそういう事が全くない。
つまりはこちらが来るのを待っていたということになる。
いくらインターポールから派遣されたとはいっても、本来、利三達は警察からすれば、法律上は犯罪者の類に分類されかねない者であると同時に、得体の知れない存在であるため、歓迎されないことは当然であるが、かなりの厄介者で国際機関を通していても協力関係にある事は一部の人間以外は知ってはならないことである。
仮に、仕事が今まで書類上“超法規的措置”として処理されていたとしても、表沙汰になった時に様々な場所からの反発は間違いなく起こるであろう。
捉え方次第では、警察組織や政府が犯罪に屈したとも言われかねないし、下手をしたら警察が白旗を挙げた事に等しいとされ、犯罪を増長させるだけでなく、一般市民に不必要な不安を与えかねない事になってしまうからだ。
規制線からしばらく行くと対策本部の野営に到着し、トラックを止めた。
そして、トラックから降りると、いかにも司令と思しき風格の男がわざわざ出迎えに来ており、野営本部まで案内される。
そこは、テントが並べられ、折り畳み式の机をいくつか繋げた上には占拠された建物の見取り図や、指揮系統が書かれた図面が並べられ、電源車や移動指揮車が横付けされ、交渉班や特殊部隊の面々が先の作戦失敗にも屈せず、士気高く臨戦態勢を取っていた。
特殊部隊の面々もその仕事柄、フルフェイスのマスクで顔を隠しているため、石塚やマールスのリーダーと共に、司令官から説明を受けていた利三もこの場においては同じ様にフルフェイスのマスクで顔を隠していても、その存在の違和感がいくらか緩和されている。
一通り説明を受けるとマールスのリーダーは別行動しているメンバーに無線で指示を出した。
彼らの中での公用語なのか、傍受されたときの対策なのかは不明であるのだが、英語や日本語ではない、あまり聞きなれない言語を用いていたため、警察関係者の多くが一瞬耳を疑ったのだが、無線を切るとすぐに
「人質解放作戦のために、狙撃手と対航空機要員、突入時の支援要員の配置指示を出しました。配置完了次第、ベルクトと警察は“仕事”にあったてください。我々が全面的に支援します」
と日本語で報告してきたため、表情の曇りはなくなった。
配置完了の知らせが来るまでの間、石塚と警察関係者で突入の算段を協議しており、万が一の時にも万全とするために様々な策を用意していた。
警察隊が出来ない単独突入は利三が行う一方で、警察隊は組織的な突入作戦を並行して行う事で合意した。
その頃、建物内では、ネフィリムのメンバーが社内のコンピューターをクラッキングし、社員の勤務実態や給与の支払い履歴に始まり、帳簿のチェック等、税務署や労基署がやる様な事から、この建物の使用電力の推移データ、防犯カメラ映像の解析等のデータ収集を始めていた。
そして、得られた客観的な証拠を元に従業員一人一人に対する未払いの時間外手当とその類計額、所得隠しによる脱税額を計算していた他、この会社が行っていた様々な違法行為をまとあげていた。
そう、この会社は俗に言う“ブラック企業”だったらしい。
しかし、なぜそのような情報を武装集団がリストアップしているのか?
こういう事は本来、監督官庁が行う事であって機能しているのが当たり前でなければならない事だ。
誰がどう考えても立て篭もり犯が行う事としては甚だ疑問が残ってしまう。
ネフィリムによってそのような事が行われている事など、人質ですら知る由もなく、その間も着々と突入準備が行われていた。
マールスの配置が完了したことから突入の合図が出され、四方から警察隊の突入が開始された。
しかし、いくら傭兵部隊からの支援があるとはいえ、人質を抱えた相手には無理が効かず“一進一退の攻防”といった具合である。
さらに間の悪い事にネフィリムがまとめあげた『“ブラック企業”たる客観的な証拠』が様々な場所へ流されたことでネフィリムを擁護する声がそこかしこに上がり、いくら相手がテロリストであるとは言え、強硬手段による制圧作戦がおおっぴらにはとれない、言ってしまえばネフィリムの策略にはまってしまっているのである。
その一方で、利三は電話線や電気ケーブルの敷設された設備坑を通り、マンホールから地下の駐車場に上がって単独での侵入に成功していた。
背中に四連装ロケットランチャーと日本刀を背負い、銃剣とレーザーサイトを付け、通常の30発用から分隊支援火器用の100発用マガジンに換装したアサルトライフルを抱え、腰のホルスターにはフルオート機能を追加した2丁の改造自動拳銃と各銃火器の予備マガジンに各種手榴弾、そして、切りつめてナックルブレードの様に改造した短刀が二振、懐のホルスターには9mmパラベラム弾に対応させたリボルバー拳銃を装備している重装備だが、かなり身軽に振る舞っているあたりは超人的と言えようか。
警察隊に目が向けられているため、恐ろしいほど簡単に侵入できたのだが、やはりそこは考えていたのか、防弾盾を装備したメンバー達にすぐに発見され、銃撃戦となった。
だが、そこで違和感があった。
―殺気が無い―
そう、銃撃してきても威嚇射撃の様に全く殺気が無い、いや、むしろ殺す気どころか当てる気が無いとすら感じるのだ。
いくらこちらが壁を盾に隠れたとはいえ、その瞬間に銃撃が止み、手榴弾の一つも投げてこないというのは初めての事である。
こういった裏の仕事は常に死と隣り合わせであるから、嫌が応にも殺気に敏感になってしまう。
だからこそ尚更、殺気が無い事に“違和感”があるのだ。
今まで何度となく銃撃戦の経験はしてきたが、殺さなければ殺されるもので、それこそ一瞬のミスで命を落とす。
だが、ネフィリムのメンバーからはそれが感じられない。
まるで
「殺したくない」
とでも言いたげな具合だ。
だとしたら、それこそまさに
「当たらなければどうという事はない」
と言う事になる。
だが、実弾が飛び交っている以上は当然、被弾する確率が0ではない。
ネフィリムのメンバーが防弾盾を装備しているにしても、こちらは最低限のボディーアーマーのみであるから尚更被弾するわけにはいかないのだ。
仮に、もし、威嚇射撃だったとしても、流れ弾や跳弾に被弾する確率はかなり高いのだから。
(…殺しに来てない?それともド素人なのか? )
壁を盾に隠れ、短刀の刀身を鏡の代わりにして様子をうかがいながらそんな事を考えていた。
「だったら試してみるか…」
そう呟くと彼は短刀を鞘に収め、背負っていた四連装ロケットランチャーを床に置き日本刀を腰のベルトに差す。
そして、次の瞬間、勢いよく飛び出すや否や抜刀した。
利三が飛び出した瞬間、再び銃撃が起きるが案の定当たらない。
それどころか、弾丸を日本刀で斬り落とす“弾斬り”をする必要もなかった。
勿論、“弾斬り”は彼の超人的な身体能力を持ってこそ可能である事なのだが、被弾する確率が低い為に使う必用が無かった。
「…やっぱり…」
そう呟くと、彼は不敵な笑みを浮かべて突進していく。
距離が縮む事で集弾性が増し、一歩、また一歩と進んでいくうちに“弾斬り”の必要性や回数は増えていったのだが、彼の“弾斬り”は最大で一秒間に100発の発射速度を誇るガトリングガンですらものともしない。
そう、彼にとっては当てに来ない集中砲火などは何ともない事なのだ。
勢いよく防弾盾に斬り込むや否や、間髪入れずに次々に峰打ちで次々と気絶させていった。
そして、最後に残った一人に刃先を突き付けて、こう言い放った。
「お前達の目的は何だ?殺す気がない奴は殺すに値しないから生かしておいてやるが、目的は話してもらうぞ。」
だが、その人物も彼が言い終わる前に気絶してしまった。
「仕方ないか…」
そう呟くと、日本刀を鞘に収め、ポケットから結束バンドを取り出して気絶している人間を拘束していく。
一通り拘束し終えると、装備品を剥ぎ取り離れた場所に山積みにしていく。
その中には4連ランチャーの様な形のペッパーボックスピストルと呼ばれる物や2丁の自動拳銃を水平に繋げた様な形の水平二連自動拳銃等の珍品が多い事に気づき、ついつい溜息が漏れた。
「ハァ…。見た目重視のド素人か? 」
とりあえず先を急ぐ為、装備品の山の中からトランシーバーや自身の得物に対応している弾薬、その他の使えそうな物を選別して持ち去り、日本刀と四連装ロケットランチャーを再び背負い先を目指した。
歩きながら無線を開き対策本部に現状を伝える。
「こちらベルクト、本部応答願います。繰り返す。こちらベルクト本部応答願います。」
「こちら対策本部、ベルクトどうぞ」
「現状報告、只今第一関門突破。遭遇した犯行グループのメンバー10人全員の武装解除と拘束に成功。尚、犯行グループからこちらに対して明確な殺意は見られない模様。繰り返す。遭遇した犯行グループのメンバー10人の武装解除と拘束に成功。尚、犯行グループからこちらに対して明確な殺意は見られない模様。」
「対策本部了解。引き続き救出作戦に着手願います」
「ベルクト了解。拘束メンバーの回収作業願います」
「対策本部了解。タイミングを見て作業開始します」
「ベルクト了解。通信を終了します」
無線を切った直後、奪い取ったトランシーバーに通信が入る。
「第3ゲート、第3ゲート、銃撃が止んだ様だが国家権力の犬共は下がったのか?正面ゲートは未だ戦闘継続中だ」
「“国家権力の犬”ってのは、警察隊の事か? 」
「誰だ!?貴様は!!」
「なぁに。名乗る様なものじゃないさ。間抜けの大足さんよぉ」
「貴様!まさかっ…!」
「珍品好きのお仲間10人は仲良く並んでおやすみ中だ。早く親玉の顔が拝んでみたいところだなぁ」
「何だと!?まあいい、貴様が大口叩いていられるのも今のうちだけだ。すぐに我らの正義の鉄槌を下してやる」
そう告げると通信の相手は乱暴に無線を切った。
そして、それから犯行グループが人質を集めているとされる6階まで階段で上がった。
ドアを開け、廊下をしばらく進みエレベーターホールを過ぎると再び犯行グループと遭遇したのだが、場所が非常に悪かった。
殺気が無い事から不覚をとり、かなり近づいてしまっていたのだ。
(この距離じゃランチャーは使えない…)
あまりにも“近すぎる”事でランチャーを使えば、その爆炎が自身にも襲いかかってしまう。
更に間の悪い事にエレベーターホールを中心にH型にはられた通路は幅が狭く、先ほどの様に日本刀を振り回す事も不可能だった他、背後の階段からも降りてきていた。
アサルトライフルのセレクターをフルオートに切り替えて弾幕を張り、何とか牽制し、エレベーターホールまで戻るとボタンを押した。
「一か八か…」
そう呟くとアサルトライフルを左手に持ち替え、背負ったままの日本刀を無理やり抜き、ドアに斬りかかった。
そして、勢いよくドアを蹴破るとそのままエレベーターシャフトに飛び込んだ。
「うわぁぁぁぁぁぁあ!」
いくら超人的な肉体を持っているとはいえ、さすがの彼も雄叫びを上げた。
少なく見積もって5メートル以上は落ちた様だが、ドスンという鈍い音と共に上昇してきたエレベーターの天板に難なく着地した。
そしてすぐ、緊急用の上部扉を開けると、今度は中から銃撃された。
被弾こそしなかった為、すぐにスタングレネードを数発投げ込み、エレベーター内を無力化すると同時に、上からの攻撃に対抗して足元を狙った弾幕を張り牽制する。
いくら利三が超人的な身体能力を持っており、殺害する気が無いとはいえ、相手を全員負傷させずに倒せるほど器用な真似は不可能であり、何名かは脚に被弾し倒れていった。
エレベーターの上昇に伴い、距離は縮んでいったが、タイミングを見計らい、スタングレネードを投げ込めた為、何とか難を逃れた。
エレベーターが6階で停止すると、ワイヤー伝いにエレベーターシャフトをそのまま上がり7階でドアを蹴り開けた。
先ほどの戦闘でネフィリムの警戒態勢が更に強化されたのは言うまでもない為、こちらも必要以上に警戒心を強めなくてはならなくなってしまったが、ロッカールームの様な場所を見つけた為、そこに潜んで一時、様子を見る事にした。
中に入ると万が一にも見つかるわけにはいかない為、火災報知機やら何やらのセンサーの類を銃床で叩き壊すように次から次に潰していき、一通り終えると無線で対策本部と交信する。
「こちらベルクト、本部応答願います。繰り返す。こちらベルクト、本部応答願います」
「こちら対策本部、ベルクトどうぞ」
「こちらベルクト、現在7階に潜伏中、先ほど6階にて交戦。多数の相手を一時的に撃退したものの、無力化並びに拘束はできず。尚、内部にもかなりの人数が確認できる模様。繰り返す。先ほど6階にて交戦。多数の相手を一時的に撃退したものの、無力化並びに拘束はできず。尚、内部にもかなりの人数が確認できる模様。」
「対策本部了解。そちらで開いてもらった突入口より突入に成功し、現在、地下並びに3階まで制圧せり。しかし人質の安全確保の都合上、4階から先には進めず。繰り返す。現在、地下並びに3階まで制圧せり。しかし人質の安全確保の都合上、4階から先には進めず」
「ベルクト了解。こちらはこちらで作戦を継続する」
「対策本部了解。健闘を祈る―」
通信を終えると、普段から愛飲しているリトルシガーを取り出し、愛用のオイルライターで火を点けた。
交戦したネフィリムのメンバーを“珍品好き”と評していたが、彼もまたコンビニやスーパーなどでは殆ど取り扱いが無く、専門店などでしか入手できないリトルシガーの中でもマイナーな銘柄を好んでいる“珍品好き”である。
背中に担いでいた得物を置き床に座ると、部屋の隅に缶コーヒーの入った未開封の段ボールが積まれていた事に気付く。
恐らくは従業員用に用意されていたものであろう、
状況が状況であるし、喉も渇いていたので開封し、中身を失敬することにした。
(このメーカーは広告塔にアイドルを起用して広告費を掛けている割に味はたいしたことないから嫌いなんだが、この際贅沢は言えないか…。)
一息ついていると奪い取ったトランシーバーに通信が入る。
「よう。Bastard(バスタード)。また派手にやってくれたじゃないか。スタングレネードで気絶していた奴らも回復して、お前を倒そうと息巻いているぞ」
“Bastard(バスタード)”それは侮蔑的な意味で“できそこない”を意味している。
先ほどの戦闘で殆どの相手を再起可能な状態で撃退した事から彼を“出来そこない”と認識したのだろう。
「“出来そこない”とはなかなか言ってくれるじゃないか。巨人さんよ。おたくらからして俺は“阪神”じゃないってか? 」
「日本のプロ野球に例えるとはなかなか面白い事を言ったつもりの様だが、そういう事だ。ここまで邪魔をされた以上、貴様には人柱になってもらう事にしよう」
「ほう。本気で俺を殺しに来るならいつでも来な。そんときは遠慮なく始末させてもらうがな」
「まぁいい。本当の意味で我々の力を目の当たりにすればそんな口は二度と叩けなくなるだろう」
そう言い残すと通信が切れた。
「…まったく、本気で殺りにきてくれねぇと困るぜ…」
トランシーバーの向こう側にいるネフィリムから殺害宣言をされたにもかかわらず、かえって溜息交じりに漏らすあたり肝が据わっているというか、どこか頭のネジが抜けているというか…。
それは利三が今まで潜り抜けてきた修羅場が相当のものだったからであるからなのか、本当に余裕がある。
「仕事終えたら先生に飯でもねだるか。最近は節約で曜日感覚を維持するための、金曜日のカレー以外は毎日ちゃんこ鍋だったからな。やっぱ腹に溜まるものがいいから“すたみな丼”のドカ盛りサラダセットか?それともラーメン、炒飯、餃子の3点セットにしようか? 」
と、独り言を言っている具合に…。
もっとも、この余裕の裏には武器、弾薬にまだまだ余裕があった事もある様だ。
「ランチャーを持ってきたのは間違いだったか?数的不利を考慮して持ってきたはいいが、文字通り“無用の長物”になってるな。まぁ“無用の用”って言葉もあるからいいか…」
缶コーヒーとリトルシガーで一息つくと、再び得物を背負って警戒しながら部屋を出で上層階を目指した。
「ったく。先生も人が悪いぜ。毎回毎回こんな仕事ばっかで、報酬もかなりピンはねしてんだから、装備の代金とか色々差し引いても、そろそろ新型戦闘機1機分くらいの貯金はあるんじゃないか? 」
彼は殆ど知らないが、彼が言う通りで彼の仕事に対する報酬は同業者の中でもかなり高額な部類に石塚が設定している。
彼の超人的な身体能力や彼の得物にかかる高いコストを考慮しても、その金額はそう断言できるレベルである。
ただ、そのような高額な報酬を打ち出しているのにはいくつか理由があり、その中には暴力団やマフィアの類が抗争で安易に依頼してくる事を防ぐ他、内部での粛清に利用されない様にする目的がある。
独り言で愚痴を漏らしている割に彼の表情は相変わらず陽気だ。
こういう状況に慣れてしまったのか、それとも生死を掛ける事で気が狂ったのか、単純に状況を楽しんでいるだけなのか?
それは、彼自身ですら理解していないし、傍から見ればやはり異常としか言いようがない。
警戒しながら再び階段をしばらく進んでいるが、彼に対する先ほどの殺害宣言とは裏腹に全く人の気配が無い。
屋上にはネフィリムの垂直離着陸機が泊まっている為、常識的に上層階にもそれなりの数はいるはずである。
ともかく屋上に一度、意識を向けさせる事を考え、無線でマールスのメンバーからの情報を貰う事にした。
「こちらベルクト、マールス応答願います。繰り返す。こちらベルクト、マールス応答願います」
「こちらマールス本部、ベルクトどうぞ」
「こちらベルクト、現在、屋上に向け進行中。屋上の状況の解説求む。繰り返す。現在、屋上に向け進行中。屋上の状況の解説求む」
「こちらマールス本部、配置した20mm対物ライフルとそのスポットマンからの報告では屋上に人影は見受けられないものの、垂直離着陸機はすぐに稼働できる状況にある模様。繰り返す。配置した20mm対物ライフルとそのスポットマンからの報告では屋上に人影は見受けられないものの、垂直離着陸機はすぐに稼働できる状況にある模様」
「ベルクト了解。垂直離着陸機に対して対物ライフルでの一斉射撃を要請します」
「マールス本部了解。これより一斉射撃の指示に移る。各自、通常マガジン装弾数の3+1発のみで大丈夫か?」
「こちらベルクト、問題ない。射撃終了を確認次第屋上に突入する」
「マールス本部了解。射撃終了時に連絡する」
無線が切れてから数秒後、轟音と共に20mm口径の弾丸が屋上の垂直離着陸機に向けて合計64発撃ち込まれた。
この対物ライフルは全長が1795mmに及び、もともとは航空機関砲の弾薬として作られた弾薬を使用し、秒速720mの銃口初速と1500mの有効射程を誇る怪物である。
その威力は凄まじく、数発で自動車を鉄くずに変えてしまう。
一応の分類上は“個人武装用対物ライフル”とはなっているが、その威力や見た目は明らかに“大砲”と呼ぶに相応しい。
そんな“大砲”の一斉射撃を浴びたとしたらそれが分厚い装甲を施した戦車であったとしてもひとたまりがない。
まして、兵員輸送用の垂直離着陸機であるなら当然、被弾直後に大爆発を起こし、一瞬でスクラップと化した。
着弾による轟音とそれに伴う爆発音や振動は、屋上から2階下で利三がいる9階の階段の踊り場でもこれでもかと言うほどはっきり聞こえた。
その直後、マールスから通信が入り一斉射撃の終了が伝えられた。
そして、一気に階段を上がって屋上に向かうと、そこには文字通りに“鉄屑”と化した機体の残骸が散乱していた。
いくら一斉射撃が加えられた直後とはいえ、コンクリート壁の影など、どこかに潜んでいる可能性は捨てきれない為、慎重に進んでいく。
ある程度見回すが、何処を見ても人影が無いどころか、死体すら見当たらない。
とにかく彼は、制圧したか否か確認する為にアサルトライフルを乱射した。
そして制圧出来た事を確認すると、制圧完了を示す緑の発煙筒を点けて合図を出した。
屋上の制圧が完了した合図に発煙筒を足元に置くと、階段を引き返し再び人質の救出に向かった。
救出に際しても何も、先ずは犯行グループの無力化が必要であるため先ほど飛ばした10階から9階へと捜索していく。
しかしそこは、静まり返りサーモセンサーを使っても空調などの設備機器類を除く熱源は確認できなかった。
利三が捜索をしている頃、ネフィリムが占拠している6階の金庫室では幹部と思しき面々がロックを解除するために暗号解析等を行っていた。
いかにもクラッカーといった風貌の人物達が忙しなく移動端末を操作し、コンピューター内に仕掛けられた障壁を次々に突破していた。
しかし、そこはやはり金庫室である故に、幾重にも積み重なる厳重なロックと障壁で守られており、相当優秀な技術を持っていると思われる彼らでも一筋縄に突破できるような代物ではなかった為、なかなか扉が開かなかった。
そうしている間にも屋上での爆発音や利三が放った銃声が聞こえてきていたため、リーダーと思しき男が苛立ちを見せ始めていた。
「お前ら一体いつまで時間掛けてるつもりだ!上から爆発音や銃声が聞こえたって事はあの出来そこないが上を押さえたって事だぞ!!」
苛立ちを見せて怒鳴り散らしているあたりは、やはり森江 利三という存在に対して危機感を覚えていることは否めない様子であるのだが、危機感を覚えてなお、この金庫室に執心しているのは一体、何故なのだろうか。
―――金庫室に執心している―――
そこだけ見ると、目的や要求を明らかにせず“聖戦”などという言い回しでの声明文しか出さなかった一方で、やっている事はどう見ても“強盗”でしかない。
だが、ここは銀行の金庫ではなく、一企業の金庫室だ。
その様な場所に保管されているものなど、世間一般的に考えて有価証券の類や重要書類といった物が大半であるはずで、ここまでして手に入れる様な物ではない。
むしろ有価証券の中で自社の株式などはこういう形で奪った場合は間違いなく価値が暴落し、記載された額面に関わらず紙屑同然になってしまうだろう。
仮にたとえ、現金があったとしてもそれこそいわゆる“見せ金”程度である。
金銭目的の犯行ならばこれだけの事をやってのけるだけの装備があるなら常識的に考えて銀行を襲った方が手っ取り早いし、銀行の金庫破りを行った方がリスクも少ない。
それでいてなお、この金庫室に執心するのは何故なのか、これほどまでに厳重なロックを掛けている中に入っているものが一体何なのか、そしてそれがネフィリムに何をもたらすのか?
本当に謎である。
「持ってきたC4爆薬のセットはとっくに終わってんだ!目的の物を中から出したらすぐに次のフェイズに移行しないと間に合わないぞ!!」
いくら当たり散らしていても状況が進展することはないことくらい怒鳴った当人も頭の中では理解できている。
だが、そうせずにはいられない。
森江 利三という不測の存在が現れてしまった今、完璧と思えていた、途中までは間違いなく成功していた計画が頓挫しかかっているのだから…。
そうこうしているうちに最終ロックのパスコードの解析が終わり眼鏡姿の男が叫んだ。
「パスコード解析成功!パスコードは〈DESTROYER(デストロイヤー) HIBIKI(ヒビキ)〉です!!」
―――“DESTROYER(デストロイヤー) HIBIKI(ヒビキ)”―――
英語で“駆逐艦 響”を示すそのパスコードは旧大日本帝国海軍の“駆逐艦 響”が、戦火により3度の甚大な被害を受けてもなお沈む事は無く、賠償艦として旧ソ連に引き渡された後、老朽化から標的艦として沈められるまでの40年以上稼働し“不死鳥”と呼ばれた事にあやかって使われたのだろう。
だが、金庫室のロック解除キーのボタンにアルファベットは無い。
そこにあるのは0から9までの数字に0を挟んで“・”と“-”の記号を合わせた12個のボタンだけであり、入力も2桁毎となっている。
これではいくらパスコードが判明しても入力できなくなっている。
「一体、どういうことだ!」
リーダーと思しき男が再び怒号をあげた。
「恐らく、数字とアルファベットが対応しているものかと…」
恐縮しながら先ほどの眼鏡の男がそれに答える。
「なるほどな…。最後の最後にアナログで対抗しているわけか…」
そう漏らすなり手帳とペンを取り出し、“00=空白、01=A、02=B…26=Z”と書き込んでいった。
そして、メモを見ながら
“04(D)05(E)19(S)20(T)18(R)15(O)25(Y)05(E)18(R)00(空)08(H)09(I)02(B)09(I)11(K)09(I)”
と打ちこんだ。
だが、扉は開かず、ボタンの上部に備え付けられたモニターに“ERROR”と表示された。
「馬鹿な…」
落胆しながらボタンを見つめていると、ある事に気付く。
そう、一般的にこういった3列×4段でのボタンの配列では電話機のボタン配置と同じく“・”と“-”の位置に“#”と“*”が入っている
「いや、まさかな…」
そう呟くと男は指先でコツコツと扉を叩き始め、再びメモを取った。
“文字間/=3・、語間7・、-・・/・/・・・/-/・-・/---/-・--/・/・-・/ /・・・・/・・/-・・・/・・/-・-/・・”
そして、男はとぱっと見は何の事かわからないメモを見ながら再び入力を始めた。
“-1、・2、3・、・1、3・、・3、3・、-1、3・、・1-1、・1、3・、-3、3・、-1、・1、-2、3・、・1、3・、・1、-1、・1、7・、・4、3・、・2、3、・-1、・3、3・、・2、3・、-1、・1、-1、3・、・2”
その様に入力するとモニター上に“CLEAR”と表示されて扉が開いた。
「やはりな…」
先ほどとは打って変わって男は不敵な笑みを浮かべている。
「どういう事です? 」
恐縮していた男を含め、その場にいた一同が不思議そうな顔をしていた。
「欧文モールス符号だ。言うならば、どうやら裏の裏をかいていたといったところだ」
そう。
この金庫室のロックは解除コードが流出した際に備えて、欧文モールス符号で最終的な対策を施していたのだ。
そうすれば万が一にも解除コードが漏れて何者かがロックを解除しようとしても、キーボタンは数字と記号の16個のみであるため“DESTROYER(デストロイヤー) HIBIKI(ヒビキ)”がパスコードだという事に疑念が出るし、眼鏡の男が言った様に数字とアルファベットが対応しているという事まで気付いたとしても解除は出来ない。
リーダーと思しき男が“-”と“・”のボタンの存在から解読したようにモールス符号であると知らなければ解読できないし、モールス符号だと気付いても対応しているそれぞれの符号を知らなければ“開かずの扉”なのだ。
ここまで厳重にロックされている事に甚だ疑問が出るのは当然の事ながら【ネフィリム】のメンバー達は何故、爆薬や特殊工具を使わずに開けた事にも疑問が残る。
最新の武装を装備し、移動端末だけで幾重にも重ねられたパスコードの防壁を突破するだけの能力があるなら特殊合金にも対抗できる爆薬や特殊工具の類くらいは用意できそうな気がするが、それらを使わなかった事に金庫室の中身が関係しているのであろう…。
金庫室に入ると様々な書類を綴じたファイルや有価証券の類が入っているであろう手提げ金庫などが所狭しと棚に置かれており、一番奥には旧式ではあるが大型の据え置き金庫が鎮座していた。
「例の物はあの中か? 」
リーダーと思しき男がそういうと他の物には目もくれずに工具箱を持った男に開けるよう促した。
いくら金庫といえどもそこは旧式、力技で無理やりこじ開けたとしても中身に傷を付けずに扉を開けることは専用工具さえあればド素人でも可能だ。
高速カッターを使い金庫のデッドボルトを切断すると、いとも簡単に扉が開いた。
「さて、中身とご対面といこうか…」
リーダーと思しき男がそう言いながら扉を開くと、その中には粉飾する前の様々な書類と共に隠し口座の通帳や金塊と共に広域指定暴力団や海外マフィア、更には国際テロ組織との繋がりや数多くの企業犯罪を示す客観的な証拠書類がぎっしりと詰め込まれていた。
「写真撮ったら証拠品を全部持ち出せ。あとは手筈通りにこの証拠品をリークしたら人質開放後の爆発に紛れて高跳びだ!」
金庫室を出て人質を集めた部屋に向かうとネフィリムの残りのメンバーが姿勢を正して男達を出迎える。
「みんなご苦労だった。途中不測の事態はあったが予定通りに事は運んだ。人質の皆さん、ご協力に感謝します!」
リーダー格の男がそう言うと、ネフィリムのメンバー達は一斉に人質の解放作業に移った。
人質の解放が始まった事で対策本部から利三に待機する様に通信が入った。
その為、7階まで下りて、とにかく様子を見る事にした。
人質の解放が完了すると再び通信が入った。
「こちら対策本部。こちら対策本部。ベルクト応答願います」
「こちらベルクト。対策本部どうぞ」
「こちら対策本部。犯行グループが人質を全員解放し、ビル内に残るのは犯行グループだけの模様。繰り返す犯行グループが人質を全員解放し、ビル内に残るのは犯行グループだけの模様」
「ベルクト了解。後は好き放題やらせてもらって構わないな? 」
「対策本部了解。出来るだけ犯人は確保してもらいたい」
「ベルクト了解。努力はしてみる」
通信を終えるや否や彼は階段を上がり、最上階のエレベーターホールに向かうと、背負っていた四連ランチャーの撃発準備に取り掛かった。
「ようやくコイツの出番と来たか」
そう言うと再び無線で対策本部に呼びかけた。
「こちらベルクト。こちらベルクト。対策本部応答願います」
「こちら対策本部。ベルクトどうぞ」
「これより犯行グループの退路を断つため、エレベーターの破壊を行う。4階までを制圧している部隊に、エレベーターには近づかない様に通達求む。」
「対策本部了解」
―――犯行グループの退路を断つ。―――
そのために4基あるエレベーターの扉を先ほどと同じく日本刀で切断して蹴破ると各エレベーターシャフトに一発撃ち込むと同時に身を避ける。
エレベーターシャフトというのは言ってしまえば煙突の様なものであり爆発物を投げ込めば規模に応じた爆炎が上に上がってくるために、特に強力なサーモバリック爆薬を使用しているこの兵器の威力を考えると、尚更そうしなければ自分自身が火だるまになってしまうからだ。
最後の一発を撃ち込むと、弾切れのランチャーはそれこそデッドウエイトでしかないためエレベーターシャフトに投棄した。
そして、再び階段を下りて行くのだが全く人の気配が無い。
念入りに各階を見て行くが、それこそゴキブリ一匹見かけないのだ。
そのまま、例の6階に到達するがそこにも誰もいなかった。
―――“誰もいない”―――
念のためスタングレネードを投げ込んだ事で、その理由に気付くのに時間は要らなかった。
そう、ネフィリムが占拠していた金庫室や周辺には武器類が放棄され、C4爆薬、すなわちプラスチック爆弾が仕掛けられていたのだ。
それも、制圧の為に警察隊が大勢で突入してきた際にセンサーが反応して爆発する様にして。
ここまでの仕掛けがあるならば他にも仕掛けているに違いない。
もしも、スタングレネードを投げ込んで煙が出ていなければセンサーに気付かなかっただろう。
逃走を許してしまったが、人質に死傷者はいなかった様だし、依頼にあった人質の解放は一応成功した以上、逃走犯の確保は警察が行えばいい話だ。
しかし、これではわざわざエレベーターを破壊した意味がないだけでなく下手をしたら突入した警察隊が全滅しかねない。
さらに言えば、人質に紛れて逃走に成功しているという事は利三と対策本部の無線を盗聴して、リモートコントロールで爆破する事も考えるに容易かったので、とにかく階段を駆け下りて突入していた警察隊と合流を計った。
一度は銃を向けられるものの両手を上げ
「こちらコールサイン“ベルクト”!要請に応じて参上せり!」
そう叫ぶと同時に、野営本部で渡されていたバッジを見せると一斉に銃を下した。
そして、間髪入れずに
「犯行グループはすでに逃走した模様!なお、上階には大量の爆薬が仕掛けられており、直ちに撤収しなければ危険である!」
そう言い終わるか否かのところで突入隊の指揮官が割って入る。
「聞いた通りであるなら即、撤収だ!なお、撤収を悟られぬように無線は封鎖!対策本部への通達は撤収後に伝令にて行う!」
「「了解!」」
指揮官の男の命令を聞くや否や返答するあたりはさすがである。
「ちょいといいか? 」
利三が割って入る。
「なんだ? 」
いくら上が呼んだといえ部外者が口を挟むのはあまり気分がいいものではないからか、少々怪訝そうな顔をしている。
もっとも、同じくマスクを被っているため表情はわからないのだが、声色に出てしまっているといった方が相応しい表現なのだが。
「そっちが撤退するにしても陽動が必要だろう?上の階で銃を乱射する一方で、また“大砲”を撃ち込ませるから一番先頭の隊員は銃声聞いたら出て行ってくれ。それから、しんがりが出てったら“こいつ”を打ち上げて合図してくれ。骨董品だが、基本的な使い方はシングルアクション拳銃と同じでハンマーを指で起こして引き金を引けば発射出来る。ただし、ちゃんと真上に向けて撃ってくれよ?でないと気付かないからな。使い終えたら俺から渡されたって事で対策本部の指揮官にでも渡しといてくれ」
そう言いながら利三は旧式の信号拳銃を差し出した。
「よかろう。私が責任を持ってしんがりを務めるからそっちは任せた。副長!先頭での指揮は任せた!他は撤収準備に入れ!」
「「了解!!」」
突入隊が撤収準備に入るや否や利三は再び階段で上層階を目指し、無線でマールスの狙撃隊に合図と同時に8階に対して一斉射撃を加えるよう指示を出した。
そして、7階に着くと合図として3連射を3回、一呼吸置いてから3連射、単発、3連射の射撃を2回繰り返し行った。
この撃ち方は単発射撃を“・”3連射を“-”とモールス符号に置き換えると“OK”となる。
“合図”である事を知らなければ、ただ乱射している様にしか見えない為にこういうときの“合図”として使用するには打ってつけなのだ。
この、合図を確認するや否や“大砲”こと対物ライフルによる一斉射撃が敢行された。
そして、その轟音を合図に警察の突入隊がビルからの撤収に取り掛かり、撤退完了と同時に信号弾が打ち上げられた。
信号弾を確認すると利三も脱出準備に取り掛かった。
適当な場所にロープを縛ると、窓を壊してロープを投げ、降下する。
―――ここまでは順調だった。―――
だがネフィリムのメンバーがどこかで気付いたのか利三が降下を始めるや否やビルが段階的に大爆発を起こした。
2度目の爆発で彼は吹き飛ばされ、近くに植えられていた樹木に向かって落下し、枝を折って地面に叩き付けられ、一度気を失ってしまった。
何度目の爆発だろうか、爆発の轟音で意識が戻る。
「ベルクト!応答求む!繰り返す!ベルクト!応答求む!」
無線通信の声色から安否確認をしばらくしていた様だ。
とにかく全身の痛みを堪えながら声を振り絞り無線に応える。
「…こ…こちら…こちらベルクト…なんとか…生還…生還出来たようだ…」
「了解した。所在は確認しているからすぐに回収に向かう」
その直後、再び意識が遠のき気を失った。
しばらくすると石塚が回収要員を連れて訪れ、気絶している彼を担架に乗せて運び去った。
そして、的確な応急手当を施し、そのまま病院に搬送していった。
いくら彼の肉体が超人的であり、樹木がクッションの役割を果たしたといえ、爆風に飛ばされて地面に叩きつけられたとなれば、命に別条は無くともただでは済まない。
もっとも、それだけの状況で死なない利三の方が異常であるのは言うまでもないのだが。
搬送先の病院では石塚が呼び出した腕利きの医者が待ち構えており、すぐに治療に取り掛かかった…。
気を失ってからどのくらい時間が経っただろう…。
麻酔が切れたためか利三は痛みで目を覚ました。
その目の前には病院らしい純白色の見知らぬ天井が広がっているものの、気を失う直前の記憶との差が酷く、状況が呑み込めなかった。
痛みを堪えて身を起こすと見舞客用であろうソファーに座ってテレビを見ていた【死神先生】が振り返った。
「ようやくお目覚めか? 」
「…? 」
「見ての通り病院だ。気絶して目覚めたら先ずはその場で置かれている状況を眼だけで確認しろって教えた事を忘れたか?」
先ほどまで意識を失っていた怪我人に対してもこのスパルタぶりはやはり元軍人といったところか。
「いや、ここはどう見ても病院じゃ? 」
「正解だ。まぁ不正解はあり得ないがな」
石塚は半笑いでそう言うとテーブルの上のファイルに手を伸ばした。
「…にしてもだ。お前さんの骨は鉄筋か何かで出来てるのか?いくら樹木がクッションになったとは言え、あれだけの高さから吹き飛ばされて脱臼はあっても骨折箇所がゼロとは驚いた。回収時に見たときは色々刺さってギリ―スーツでも着てるかの様相だったが、傷はたいしたことはなかったらしい」
「で?全治どのくらいです? 」
「医者の見立てじゃ大体6週間ってところらしいが、麻酔のせいかお前さんは5日起きなかったからな、医者に言って起きるようにわざと切ってもらった。さすがにもうそのくらいならまだ、耐えられるだろ? 」
ここまで来るとスパルタというよりサディストである。
「そりゃあ、まぁ何とか…。せめて鎮痛剤の錠剤くらい無いのですか?あと、腹減ったんで何か食わせてください」
「とりあえず飯はもうしばらく待て。先ずは一度医者に見せてからでないとな」
そう言うなり、医者から渡されていたのであろう院内用携帯電話を手にしながら鎮痛剤の錠剤と水の入ったペットボトルを渡してくる。
とにかく痛みから解放されたかったので石塚が通話をしている横で点滴のチューブが邪魔をする中、痛みに耐えてペットボトルの蓋と錠剤を開封し、一気に飲み干した。
それを確認してか石塚はまた唐突に話し出す。
「この間の仕事だが、まぁギリギリ及第点だな。人質は全員無事に解放されたし、お前さんも生還したからな」
「殆どに逃げられましたが、一部のひっ捕らえた連中は何か吐きましたか? 」
「問題はそこなんだ。依頼内容は人質の解放のみで、犯人の確保及び殺害はこちらの裁量で、捕り逃がしても警察組織で対応できるから構わないということだったから依頼自体は遂行した事になるが、お前さんが確保に成功した10人全員が留置所内で自殺した上、身元を示す様な所持品は一切無かっただけでなく、採取した指紋やDNAも前歴者リストやら失踪者リストに加えて、その他のデータベースの全てと照合したが、どのデータにも一致、若しくは近親者となる者が存在しなかった。それどころか保護した人質全員に捜査協力依頼と称して硝煙反応検査や指紋と口腔細胞の採集をして、同じようにデータとの照合や様々な質問を行ったが、一部に前歴者やその近親者はいたものの、今回の件に関しては全員シロだった上に犯行に使われたトラックも全て同じ車種の盗難車を分解して組み直したもので、盗難場所も全国にまたがっていてそこからの犯人の特定は困難だし、犯行グループのメンバーとあの状況からどうやって逃げたのかという謎だけが残る結果になった」
「地下から4階までは制圧済みで、連中の乗ってきた垂直離着陸機は鉄くずにしましたからいくら人質解放の混乱に乗じて逃げたとしても難しい話ですね」
「お前さんが潜入したのと逆で設備坑から脱出するのを考慮してそこも押さえてはいた様だが、そこも全くだったらしい。とにかくまぁ、あれを見ろ」
そう言うと、石塚はテレビ画面を顎で指した。
テレビ画面に目を向けると事件についての報道が流れていた。
事件から5日経つものの現場となったビルには未だに規制線が張られており、現場検証が続いている様だ。
現場の中継映像が流されるその一方でコメンテーターの男性が犯行グループを捕り逃がした警察に加え、事件現場となったビルの企業が行っていた様々な企業犯罪を糾弾する持論を展開していた。
そして、次に映された映像を見て驚愕した。
“反ブラック企業”を掲げる市民団体が行っているのであろうデモ行進が各地で行われた模様を映したのだろうがネフィリムを擁護しているとさえとれる横断幕を掲げ、監督省庁である厚生労働省や管轄の労働基準監督署は当然槍玉に挙げられているのだが、人質だった者達さえも非難の対象としていた。
―――ネフィリムが公開した企業犯罪の数々を社員の誰かが労働基準監督署に内部告発し、適切な行政指導が行われていたのならばこの様な事件は起こらなかった、知っていて告発しなかった、あるいはおかしい事に気付かなかった、気付いていても告発しなかったのなら同罪である―――
各地のデモ隊が声高に叫んでいるシュプレヒコールも理屈ではその通りかも知れないが所詮は“たられば論”でしかない。
企業犯罪を暴く事で世論を味方につけるのがネフィリムの策略通りであったとしたなら目的が不明であった事にも合点がいくのだが、これは忌々しき事態である。
さらに言えば、世論が味方している上、犯人は捕まっていない事から第2の犯行や模倣犯の登場、類似の犯罪がいつ起きてもおかしくないと言える状況だ。
「一体どういう事ですか!“見ての通り”とかじゃなく、ちゃんと説明して下さっ…っうぅぅ…」
自分が怪我人である事を忘れてつい、怒りを露わにしてしまった。
いくら頓服薬の鎮痛剤を飲んだといえど、それほど即効性が高く無い為、傷に障り蹲ってしまった。
「お前さんが怒るのも無理は無いし、気持は解るが今は少し落ち着け」
そう言っているうちに部屋に医者が入って来た。
「さすがは“死の急襲者(デスレイダー)”の弟子だな。目覚めたと思えば騒ぐだけの元気があるとはね」
「自分でも見る目の無さを恨むよ…。」
蹲っている横でそんな会話が交わされていたので痛みを堪えて見上げると石塚と瓜二つの白衣姿の男が立っていた。
「はじめましてだね。ベルクト君。私は【石塚秀人】の双子の弟の【石塚佳樹】という者だ。軍医上がりで普段はフリーランスの医者だけど“こっちの世界”じゃ【Dr.アスクレピオス】とも呼ばれている。まぁ面倒だから君の事は“ベル君”と呼ばせてもらうし、私の事は【佳樹先生】と呼んでくれ。それにしても、今回は兄貴がまた無茶をさせた様だね」
―――“アスクレピオス”―――
ギリシャ神話に登場し、優れた医術で死者すら蘇らせたとされる医神である。
その名を通り名に持つという事は余程優れた医者なのだろう。
かなりフランクな接し方であるこの佳樹先生は、兄とは見た目以外の全てが正反対だ。
「早速だけどベル君。色々とやることあるからまた仰向けに寝てくれ」
言われるがままベッドに仰向けになると空になった点滴や包帯、ガーゼの類を外された。
そして、傷の経過観察をすると佳樹先生は消毒や包帯の巻きなおしを手際よく行った。
その間、ものの10分程度だろうか?
それこそ、短時間での適切な治療が求められる軍医上がりとはいえ手際が良すぎるくらいであった。
「これでよしっと。に、しても君は本当に超人的な肉体をしてるね。普通ならまだ動くのもキツイ筈だし。もしかして脳筋兄貴の無茶苦茶な訓練で根性の塊にされちゃった? 」
そんな調子でいると石塚秀人の拳骨が佳樹先生の頭を捉え鈍い音がした。
「いって―な!いきなり何すんだよ!脳筋馬鹿兄貴!」
「誰が脳筋だ。このド変態外科医!」
「事実を言っただけだろ?この脳筋!」
とまあ、怪我人の横で兄弟喧嘩を始めるあたりこの双子は仲が良いのか悪いのか…。
「兄弟喧嘩するのは構いませんが、他でやってくれます?それと、もう起き上がっていいですか? 」
いくらなんでも横で兄弟喧嘩されていたら休まるものも休まらないので、首だけ動かして割って入る。
「あぁ。馬鹿兄貴のせいで煩くしちゃってゴメンネ。身体を起こせるなら起こして大丈夫だよ」
弟の発言のせいかどうかは不明だが兄の方は珍しくふくれっ面である。
「ところで、何か口にしても大丈夫ですか?さすがに点滴だけじゃ腹減りました」
「そうだね。胴体はボディーアーマーで保護されてたお陰で無傷だったし、内臓にダメージは無かったからね。医者としては胃に負担の少ない物からと考えていたけど、それだけ元気がある様だし、とりあえず食事の時間まではこれで我慢してね」
そう言いながら包帯やら消毒薬を乗せたワゴンの引き出しを開け、中からレジ袋を取り出して渡してきた。
渡された袋を開けてみると、中には様々なゼリー飲料のパックが入っていた。
「これって…」
「見ての通りゼリー飲料だよ。兄貴から電話で君が空腹な事は聞いていたけど、売店も閉まってたし、看護師に頼んでも他にすぐ用意出来なかったからね」
「そうですか…」
確かに、無いよりマシではあるが、少し期待したため尚更がっかりしてしまい言葉が出なかった。
「まぁ。そんなもんだな。なぁに、退院したら食いたいもん食わせてやるから早く回復する様に大人しくしとけ」
間髪入れずに弟のフォローをしっかりするあたりこの双子の兄弟関係は何だかんだで良好であるのだろう。
「なら、退院までに食いたいものを考えときますよ」
そんな会話をしている横で片づけを終えた佳樹先生が思い出したかのように割って入ってきた。
「そうそう。鎮痛剤が効いて動けるようなら動いていいよ。そこに車椅子と松葉杖があるから好きな方を使ってね。あと、君の私物は全部そこの棚に入ってるから。それと、煙草吸うなら屋上に喫煙所があるからそこで吸ってね。まぁ医者としては、まだそこまで動けるとは思わないけど。あと、病院内での君はそこのネームプレートに書いてある偽名で登録されてるから私以外の病院関係者からはそう呼ばれるし、他の患者にも名前を聞かれたらその偽名を使うようにね」
そう言い残すと佳樹先生はすぐに部屋を出て行った。
振り返ってネームプレートを確認する。
そこには“九十九 一(つくも はじめ)”という偽名にしては少々目立ちすぎる様な名前が記されていた。
全て漢数字で記される偽名である事は何かしらの書類にサインを求められた時には都合がいいのだが“九十九”という姓はそこまで多い姓ではないので印象に残ってしまう。
そのため、偽名にはあまり向いているとは思えない。
「この名前、誰が考えたんですか? 」
「それか?私が昔使っていた偽名だ。かえって目立つ事で印象について撹乱に向いていたからな。特にこういう場所は記録が残されてしまうから尚更だ。漢数字だけの名前なら間違いようもないしな」
「そうですか」
逆転の発想というやつか、ちゃんと理由があって、以前に石塚が使っていた偽名であるならば安心だ。
とりあえず今は余計な事を考えても無駄である様だし、佳樹先生から渡されたゼリー飲料を大人しく口にすることにした。
双子の兄弟喧嘩やら何やらあった事で気にしていなかったのだが、ふと、目を向けるとテレビでは相変わらずネフィリム関連のニュースが流れていた。
繰り返されるデモの映像に始まり、被害企業の重役達による会見、地検特捜部等による関連先の捜索といったものまで放送され、天気予報以外に他のニュースは無いと言わんばかりだ。
実際に現場にいた側の人間としては早く忘れたい事であるし、報道機関が遠まわしにネフィリムを擁護して、世論を煽ってしまっているように感じるくらいだ。
「自分が気絶してた5日間もこんなでしたか? 」
「あぁ。これでもまだ落ち着いてきた方だがな。何にしろお前さんはもう気にしなくていい。捜査関係者の話じゃ全国規模で相当な数の人間が投入されてる様だから次に仕事が入る頃には解決してるだろうしな」
「次はもう少し安全な仕事を引き受けてくださいよ」
そう言いながら半分ふて腐って仰向けになった。
「安全な仕事など回ってこないと思うが、考慮しておこう」
そう言い残すと石塚はテレビを消して部屋を出て行った。
それからしばらくして、いかにも病院食という見た目の食事が運ばれてきた。
見た目はもとより当然ながら味も病院食のそれといった具合にかなりの薄味で、お世辞にも美味いとは言えないものだったが、それでも無いよりマシだった。
ちょうど食事を終えた頃、タイミングを見計らったかの様に石塚が部屋に戻ってきた。
「飯は食えた様だな。動けそうか? 」
「無理やりならなんとか」
「なら、とりあえず車椅子に乗れ」
「はい? 」
「とりあえずついてくれば解る」
何が何だか理解できないが、車椅子に乗り石塚の後に付いていく。
院内を進んでいくとその規模に驚いた。
どうやらかなりの大病院に入院させられていた様だ。
「こんな大病院で費用の方は大丈夫なんですか? 」
「ちゃんと報酬は貰っているからその辺は心配するな。むしろ医療費は追加料金請求しなくとも今回の依頼主が負担してくれるそうだからな」
依頼元が公安関係というのはこういうときだけはありがたい。
利三達が関わったという事が明るみに出ると色々と問題となる事はもとより、報酬支払を下手に拒否して揉め事を増やしたくないというのが本音だろうが。
しばらくすると会議室の様な所につれていかれる。
それこそ怪我人には場違いで、本来は病院関係者以外立入禁止だと思われる場所だ。
中に入ると、待っていましたと言わんばかりに佳樹先生がプロジェクターを動かしてスクリーンに投影した。
そこに映し出されたのは報道機関に公開されていない事件現場の当時の状況や爆発で廃墟と化したビルの内部などだった。
「いまさらこんなもん見せてどうしたんですか? 」
「うーん。そうだね。私の個人的な意見で言えば、君が今生きている事が本当に不思議だって事かな?歴史上の人物だったら“ハンス・ウルデリッヒ・ルーデル”やら“船坂弘”に“シモ・ヘイへ”といったバケモノ扱いで語り草になってる様な人間達は瀕死の重傷から生還したなんて話も聞くけど、私が実際に診た限りで言えば、ここまで頑丈な肉体を持っていたのは、そこにいる馬鹿兄貴以外では君だけだからね。それこそ、なぜこの程度で済んだのかという医者としての興味だね」
そう言いながら佳樹先生は機械を操作し利三の怪我の状況が書き込まれた図面やMRIなどの画像に変えた。
そして、スクリーンをレーザーポインターで指しながらこう続けた。
「まず、十数メートル飛ばされて骨折箇所がゼロ。飛行機事故で森に落下して密集した樹木がクッションになった事で大怪我を免れたという事例は稀に聞くが、君の場合は一般的な街路樹だったから逆にダメージになる可能性もあった。それから、内臓も全て無傷。腕や脚の所々で枝や飛散物が貫通していたけど、それこそ軽く縫合する程度で済んでいるし、いくらボディーアーマーを着ていても内臓へのダメージまでは完全に防げないからね」
「そうは言われても、こっちが聞きたいくらいですよ」
「うーん。じゃあ質問を変えよう。覚えている範囲でいいから吹き飛ばされたときの状況を教えてくれるかな? 」
「そうですね。陽動を終えて降下用ロープを使って7階から脱出を試みていたところでした。たぶん、5階辺りまで降下したところで爆風にのまれて飛ばされ、気付いたら地面に倒れてました。」
「そうか。だとしたら余計に不思議だね。君の怪我の具合にしても縫合箇所は見ての通りだし、普通の患者より回復もかなり早いかな?全治6週間と言っといてなんだが、普通はもう少しかかりそうなものなんだよね。いや、君の場合はもっと早く回復しても不思議じゃないとさえ思えているくらいさ」
「そうは言われても、昔から傷の治りが人より良かったってくらいしか思い当たりませんね」
利三の超人的な肉体は佳樹先生をしてみれば興味の対象であり、それこそ研究に値するものなのだろう。
好奇心から患者を研究対象の様に見てしまうこの無茶ぶりが双子の兄に“ド変態外科医”と呼ばれる由縁なのだろう。
だが、こちらとしては研究対象として扱われてはたまったものではない。
それこそ、研究対象としてモルモットの様に扱われて様々な実験に付き合わせられたり解剖などされたりした暁には目も当てられなくなってしまう。
とにかく、横で聞いていた石塚に目で合図し助けを求めた。
だが、何を勘違いしたのか、
「6週間より早く退院出来そうだという事か?なら回復次第即退院だ」
こちらの気持ちなど全く理解していない。
これでは、退院してすぐにまた別の仕事を持ってくるとでも言っているかのように感じてしまう。
実験台にされるよりは余程マシであるのだが、やはりあれだけの大仕事の後では退院後もしばらく休暇がほしいのが本音だ。
かといって他に選択肢も無さそうであるが。
会議室を出てから石塚は何やら用事が出来たとの事で帰って行ったので利三はそのまま病室に直行した。
会議室で色々聞かされている間も、頓服の痛み止めの効果が切れる頃合いを見て服薬していたため、とりあえずのところは痛みに悩まされるといった事は無かった。
病室に戻るなり棚を開けると、私物のオイルライターに普段愛飲している銘柄のリトルシガー、事件当日にお守りとして持っていた葉巻といった物に加え石塚が用意したのであろう替えの下着にタオルといった入院中に必要な物や漫画雑誌に紛れて、ティッシュ箱程度の大きさの何やら怪しい包みが入っていた。
中を開けて確認すると、銃身とグリップを外したリボルバー拳銃にナックルダスターを取り付けた様なものと世界中で広く流通している銘柄の煙草の箱が入っていた。
煙草の箱の中には十数発の9mmルガー弾と小さく折り畳まれた紙切れが入っていた。
紙切れには“9mmアパッチ・リボルバー説明書”というタイトルと共にイラストと使用方法が手書きで書かれていた。
弾が入っていない事を確認し、説明書を見ながら少し弄ってみた。
完全に展開するとその見た目は、ナックルダスターがグリップとなっている銃身を欠いたリボルバー拳銃に稚拙なナイフが取り付けられたもので、恐らくはペッパーボックスピストルの類になるのだろう。
使い方としては展開して拳銃として使うだけでなく、折り畳んだままナックルダスターとして、稚拙ではあるがナイフだけ展開して使用する事が出来る様だ。
説明書の文末には病院の警備は万全にしているが万が一襲われた際にはこの銃で乗り切る様に書かれていた。
「リボルバー拳銃で装弾数6発ってところだけは“デリンジャー”や連中が持ってた四連のペッパーボックスよりはいいが、銃身が全くないんじゃ精度に期待できないわな。まぁ無いよりマシな万が一の保険だな」
とにかくあってほしくはない“万が一の事態”に備えて、一応は弾丸を装填して隠し持っておく事にした。
「一応調べてみるか…」
彼は目線の先の起動したままの端末に向かった。
恐らく石塚がスイッチを入れていたのだろう。
その端末は患者の為にインターネット回線に繋がれた端末が備え付けのもので、入院中でも様々なインターネットサービスを使う事が出来るようになっている様だ。
とりあえず検索エンジンを開いて検索窓に“アパッチ・リボルバー”と入力してみた。
すると、フリー百科事典やミリタリーマニアの個人ブログなどの様々なページが表示された。
一番目に表示されたフリー百科事典を開くと、この“アパッチ・リボルバー”という銃は1900年代初期に主に犯罪組織などで使用され、第二次世界大戦中にはイギリス軍の特殊部隊“ブリティッシュ・コマンドス”で9mmルガー弾を使用するモデルが採用されていたらしい。
恐らく彼が持たされた物はこのモデルだろう。
「何でまたこんな骨董品を用意したんだか…」
そう、いくら新品の部品で新規に製作していたとしても、言ってしまえば“100年近く前に作られた骨董品”の“レプリカ”止まりなのである。
それどころか、他のページではいわゆる“コレクターズアイテム”という扱いさえ受けているくらいであった。
「これで何とかしろってかなり無理が無いか?ましてやこっちは怪我人だぞ…」
怪我人の護身用には本当に心もとない。
装弾数こそ劣るが、精度だけ考えたら“デリンジャー”の方が銃身を持つだけまだ良さそうな気さえする。
一通り調べ物をすると、端末の電源を落としてベッドに戻った。
「こんなもん持たされたらかえって安心して眠れないな…」
仰向けに寝そべって、そう呟きながら折り畳んだ状態で手に持った“アパッチ・リボルバー”を眺めていた。
「まぁ。警備は万全だって書いてあったし、割り切るか…」
そう、こうなった以上は割り切るしかないのだ。
とにかく考えても埒があかないので、弾丸の入った煙草の箱と銃をマットレスの下に隠して眠りに就く事にした。
どのくらい時間が経っただろうか、傷が疼いて目が覚めた。
ベッド脇のスイッチを押して灯りを点け、鎮痛剤を探した。
周囲を見渡すと寝ている間に佳樹先生が気を利かせて置いていてくれていたのか、すぐ手の届く所に数本のペットボトルと共に鎮痛剤の入った白い紙袋が置いてあった為に苦労せずに済んで助かった。
だが、あくまでも麻酔ではなく鎮痛剤に過ぎない為、結局のところは何度か痛みで目覚めた為にろくに眠れないまま、朝食の時間になり病院食が運ばれてきた。
運んできた病院関係者が部屋を出て行った事を確認してから箸をつけたのだが、やはりというか何というかという味である。
正直な話、いくら警備が万全で一流の医者が付いているとはいえど、病院食が口に合わないから退院したいとさえ思えているくらいである。
食事を終え、病院関係者が食器を下げに来るタイミングで佳樹先生が病室に現れた。
「やぁ。調子はどうだい?」
「調子も何も、薬が切れる度に傷が疼いて寝た気がしませんよ」
「なるほどね。まぁ、あと数日もすれば治まると思うけど。とりあえず消毒と傷の具合見るからまた仰向けになってね」
「はい。」
言われるままにまた仰向けになると相変わらずの早業で処置をしていく。
またさほど時間がかからないものだと考えていると、それまで手早く動いていた佳樹先生の手が突然止まった。
「どうかしましたか?」
「いや。やっぱり君は回復力がなかなかのものがあるね。何箇所かもう抜糸できそうな感じだね」
「まだ、6日でも抜糸できるもんですか? 」
「何か所かはたぶん抜糸しても問題は無さそうだけど、君の場合は馬鹿兄貴の手前、また動いて傷が開く事が他の患者よりも余計にあり得るから一般患者より慎重にさせてもらうよ。あと、この事は馬鹿兄貴には黙っててね」
「わかってます」
首だけ動かして佳樹先生とそんな会話をしているうちに処置が終わった。
処置を終えて、佳樹先生が部屋を出て行くと入れ違いに石塚が入ってきた。
それこそまさに“噂をすれば何とやら”といったタイミングである。
「で、傷の具合はどうだ?昨日は言わないでいたが、この間の一件絡みかどうかは不明ではあるものの、また色々と仕事が入ってきている。無論、今は断っているがな」
「そうですか。傷の具合の詳しい事は自分には何ともってところですが、どんな仕事が来てるんですか? 」
「元から受け付けない事になってる類の暗殺依頼もあれば、反社会勢力関係者の粛清、はてまた成金の護衛まで色々だ」
「反社会勢力関係者の粛清は未だしも、成金の護衛なんか警備会社のやることでしょう?むしろ警備会社の手に負えない様な話なんですか? 」
「そんな事ではなさそうだがな。この間の一件から警備を強化するとどうしても、色眼鏡で見られるらしい」
「まぁ。今まで役人が仕事をサボってたツケが色々と回ってきたんですかね? 」
「恐らくそういうことだろうな」
確かに先の事件のあらましや世論を考えれば成金たちの側からしたら何も悪事を働いていなくとも標的にされる可能性が出てくるし、かといって警備を強化すればかえって怪しまれて標的としてマークされかねない。
警察に依頼したところで事件性が無ければ動けないだけでなく、それ以前に現状の状態では人員が不足気味である。
そうなると彼の様な裏稼業の人間に頼らざるを得なくなってくるのが必然的なのだが。
そうは言っても、同じ様な仕事をしている人間は少なからずいるわけで、なぜ依頼が来ているのかが疑問であるのだが。
とりあえず、ドアが閉められた密室に二人きりである事を確認した上で隠していたものを取り出してその事について切りだした。
「ところで、こいつは何なんですか?そこの端末で調べたら骨董品だってことらしいじゃないですか? 」
「お前さんがいつも使ってるマシンピストルやら何やらでも良かったんだろうが、この狭い部屋じゃあ接近戦にしかならないだろうし、短刀じゃあ邪魔になるだろう?使う事はまずあり得ない体ならそんな骨董品で充分だろう? 」
「それなら、まぁお守りって事にしときますが」
「安心しろ。病院の内部には警備員や見舞客に紛れて【マールス】の連中が交代でうろついてるからな。連中には今回の警備対象を病院内の全ての患者という事にして、しかも訓練扱いだから怪しい人物がいたらすぐに対応するさ」
「訓練って事は無料で病院の警備に当たってるって事ですか? 」
「そうだな。私が警備を依頼しようとしたら病院内で警戒訓練を実施することを条件に向こうから言ってきた話だ。」
「なるほど。確かにこの病院なら訓練には丁度よさそうですね」
「連中もこういう世界のことはよく解っているからな。お互いに利益しかない条件にして今後もパイプを作っときたいんだろ?特に、この間の一件でお前さんの能力を目の当たりにしているからあわよくば勧誘したいとも考えての事かも知れん。まぁお前さんが入院している事は伏せてあるし、私がここに来ているのは“弟から患者の警護を依頼されたからだ”ということになっているし、お前さんを警護している理由も表向きは治験患者で新薬の情報漏洩の防止目的の見張り番も兼ねているという事になっているから安心しておけ」
「なるほど。それじゃあ完璧と言っても差し支えなさそうですね」
「そういう事だ」
とにかくこの状況であれば、確かに安心できそうではある。
だが、先の事件でいくら混乱に乗じていたとはいえど、犯行グループの殆どのメンバーはあの状況下でなお逃走に成功しているし、自分がここにいる事を嗅ぎつけられたら警備を掻い潜って来るであろう事は容易に想像できた。
昨夜は考える間も無かったのだが、いざ考えると、その様な状況に置かれている事からか冷や汗が出た。
しかし、現実は意外にも穏やかなもので、二週間、三週間と経っても何も変化が無かった。
いや、細かい事を言えば、傷が回復して抜糸したり痛みに悩まされたりする様な事が無くなり、杖やら何やらが不要になったといった変化は当然あったのだが…。
始まりの出会い
一か月もすると殆どの傷は癒えており、いわゆる普通の状態になっていた。
その間に、各種メディアからの情報を見ている限りでは、事件後に模倣犯が現れたり、同様の犯行がネフィリムによって行われたりする様な事は無く、喉元過ぎれば熱さ忘れるとでも言った具合に報道も沈静化の一途を辿っていた。
無論、断った仕事に成金の警護があった以上、報道統制が敷かれて類似犯罪が起きていたとしても報道されていないだけである可能性は大いにあり得るのだが…。
そんな心配をよそにして気付けば、退院の日を迎えていた。
石塚の車で病院を後にすると一旦、アジトに向かう。
アジトと言っても普段はそこで何かしている様な場所ではなく、石塚が武器庫としている倉庫であり、仕事の依頼があった時に使う。
その性質から見た目に反して、SF映画に出てくる秘密基地よろしく、偽装したコンテナに垂直離着陸機やらヘリ等の滑走路が必要の無い航空機の格納庫が隠されていたり、大型トラックが停められていたりする他は、やたらとセキュリティーが厳重になっている事を除けば、何処にでもある様な、それこそ、外見だけ見たならば自動車整備工場の様な建物でしかないのだが。
中に入るとひとまず私物の入ったカバンを置き、入院中に持たされていた例の銃から弾を抜いて、個別にガンロッカーに放り込んだ。
ロッカーの鍵を閉めていると唐突に石塚が切りだした。
「とりあえずお前さんが入院してる間に仕事用のスーパースポーツタイプと普段用にクルーザータイプのバイクを用意しておいた。お前さんの免許で乗れるようにどちらも登記書類上の排気量は399㏄にしてあるから、検問に引っかかっても問題が出ないようにしてある。とりあえずしばらくはリハビリがてらクルーザー乗り回しておけ」
「了解です。帰りはそいつで家まで向かう事にします」
「クルーザーのキーはお前さんの部屋の鍵にくっつけてあるが、もう1台は別にして鍵置き場に置いてある。そっちのキーも判りやすくバイクのイラストが描いてあるアクリルキーホルダーを付けてキーハンガーにあるから把握しておけ」
「了解です」
ガンロッカーの鍵をキーハンガーに持ってくついでに新しくバイクのキーが取り付けられた自宅の鍵と仕事用バイクのキーの存在を確認した。
「新しくバイクを用意してもらえたのは有難いんですが、この前言ったスピードローダーは用意してくれました? 」
「あぁ。そいつなら全種類用意してある。また急な仕事でお前さんの部屋に色々持ち込むのはあまりよろしくないからな。こっちの世界に片足突っ込んでいるとは言え、一応お前さんは堅気の人間だから堅気らしくしていてもらわないとな。とりあえず飯に行くぞ。約束通り退院祝いに食いたいもん食わせてやる」
「じゃあ“神話のすたみな丼”のドカ盛りサラダセットか“天上逸品”のラーメンと炒飯、餃子の大盛セットで」
「お前さんはホントに…。チェーン店のそんな安もんじゃなくもう少し欲張ったらどうだ?1,000円そこらのもんならいつでも食えるだろ?」
「いやぁ。病院食が量少なくて薄味過ぎたんで…」
「まったく。なら、柳亭の鰻丼特盛なんてどうだ?」
「やっ、柳亭ですか!?柳亭っていったら創業100年を超える老舗で著名人はもとより各国のV.I.P.も御用達の超高級店じゃないですか!?そもそも特盛なんてできます?それにジャケットにシャツといったこんなカジュアルな服装で大丈夫ですか?」
「確かに、あの店はお前さんの言うように超が付くほどの高級店だが、今の店主と私達兄弟は幼馴染でな。電話一本入れれば色々やってくれるさ。むしろ、あそこに気取ってスーツで行くのは一部の奴らだけだよ」
たまにこの様な事を突然言ってのける辺り、本当に石塚秀人という人物の人脈の広さには驚かされる。
ともあれ、自分の財布では絶対に行く事が無いというか、自分の財布では絶対に行く事が出来ない様な超高級店に行けるというのなら断る理由は何処にもない。
ましてそれがV.I.P.以上の特別待遇であるなら尚更に生唾ものだ。
「…っそれで決まりです!」
「鰻は何匹がいいんだ?普通は一匹だが2、3匹は食えるだろう?確かお前さんは普段1食に色々作って更に米だけで2合は食ってたよな?まぁいいや、景気よくその感じでいくか? 」
こちらの返事など聞く気も無かったのか、殆ど独り言の様な勢いで言うや否や電話をかけ始めた。
「…あぁ。私だ。久しぶりだな。最近、弟は顔を出してるか?…そうか。で、今日は店の感じはどうだ?よかったら助手を連れて行きたいんだが大丈夫か?…そうか。なら特注で鰻3匹と米2合の超特盛ってできるか?助手が如何せん大食らいでな、常識的な値段ならそっちの言い値で大丈夫だぞ。…そいつはよかった!じゃあそれと大盛1つ用意してくれ。大体2時間ちょいくらいで店に行くから、頼んだぞ」
珍しく陽気な顔をしている辺り、単純に自分が行きたいだけの様にも見えてしまうのだが、触れないでおいた方が良さそうである。
フリーランスの医者である弟がそういう店を度々訪れるのは職業柄あり得る事で全く違和感は無いが利三の事を“助手”と形容している辺り、当然と言えば当然なのだが、一般人には職業を偽っているのであろう。
電話を切るなり、早く車に乗る様に急かしてきた。
いつも、仕事の後はこの倉庫でトラックから乗り換えているが今回は同じ車で出入りする形だ。
倉庫を出るなり少々飛ばす様子を見るに表情にこそ出さないものの相当上機嫌な様だ。
いつもこの様な様子なら本当に何処にでもいる気のいい紳士なのだが。
「どうした?私が陽気になるのがそんなに不思議なものか? 」
こちらの気を即座に読むのを見ると、やはりその様な生易しい人物ではないと再確認させられる。
「そうですね。あまり記憶に無いので」
「確かにそうかもな。お前さんとはそれなりの付き合いになるが、こういう風に出かけるのは下手をしたら初めてかも知れん」
「そうですね。色々と叩きこまれた頃から今まで、こういう事は無かったですし」
そう、この二人がこうやって食事に出かけるという事は本当珍しい事である。
出会ってからそれなりになるが、そこからして普通で無かったのだから。
―――そもそも二人の出会いは本当にちょっとした事がきっかけだった。―――
利三は大学を卒業後、民間企業に就職していたのだが、入社前に説明があった内容やハローワークの求人票といった公的書類に記載されていた事業内容と全く異なる業務を担当することになった事や劣悪な労働環境に耐えかねて仕事を辞め、労働局に訴えを起こして法に基づいて支払われた慰謝料を得て、元の職場を廃業に追い込んだ解放感からショットバーで独り酒を飲んでいた。
そんなところ、運悪くその後ろで客の酔っ払い数名が喧嘩を始めた。
そういう事は店員が始末を付けるか、店で警官を呼んで何とかするのが常識であるし、無関係の人間がわざわざ割って入る事でも無い。
それ故に、最初は店員が仲裁に入ったのを確認すると大人しく飲んでいたのだが、何を間違えたのか酔っ払いが彼を目掛けて酒のボトルを投げ、彼がテーブルに置いていたグラスを直撃して砕け散った。
仲裁入っていた店員とは別の店員が慌てて彼のもとに駆け寄り粉々になったグラスや飛び散った酒を片づけながら色々とフォローをしていたのだが、いつしか大乱闘になっており、そこにまた同じようにボトルが飛んできた。
彼はそれを後ろ向きのまま掴み取り、テーブルに置いたのだが、それが気に食わなかったのだろうか、喧嘩をしていた酔っ払いが罵声を浴びせながら再びボトルを投げつけてきた。
相変わらずの反射神経と言うべきか、容易くボトルを掴み取ったのだが、三度目となるとさすがに彼も黙ってはいられなかった。
むしろ、だいぶ酒が入っていたし、見ず知らずの他人に飲んでいた酒を台無しにされたのだから尚更だ。
「ドタマに来たぜ…」
そう呟くや2本のボトルの首を持ち大乱闘の中に割って入るとボトルを刀の様に振り回し、たった一人で十数名を倒してしまった。
しかも、倒された人間も命に別条は無いどころか外傷は殆ど無く、気絶しているだけだった他、ボトルも無傷で警官が駆け付けた時に彼はその中の酒を飲んでいた。
その為に利三も傷害や過剰防衛の疑いで捕まりそうになったのだが、同じく店内にいて一部始終を見ていた見ず知らずの客や店員の証言と防犯カメラの映像から念の為、管轄の警察署に向かう事になった。
その後、喧嘩を始めた酔っ払い共はといえば、取り調べをしていくうちに粗が出て、殆どの者が別件逮捕からの実刑判決という事になっただけでなく、関係元に色々と捜査のメスが入り逮捕者が芋づる式に挙がった様だ。
利三に関してもいくら防犯カメラの映像や証言があったとは言っても過剰防衛等で事情聴取が行われたのだが、状況が状況だった事もあり“厳重注意”という形でとりあえずは済んだ。
事情聴取を終えて警察署を出た時に彼を待っていたのが石塚秀人その人だった。
当初は利三が酒のボトルに傷を付けず、大乱闘状態の群衆をものの数分で全員気絶させた事から興味を抱いての事で単なる気まぐれからの行動だったらしいが、色々と話を聞くうちに専属の仕事人に育て上げるのに相応しいと考えたらしく、金銭面で生活の面倒を見る代わりにまずは弟子として訓練を受けるという取引を持ちかけてきた。
その後、様々な技能や知識を叩き込まれ、気が付くと元々心得があった剣術は我流ながらにも大幅に進歩しただけでなく、銃器の取り扱いにも精通し、その頃には訓練と称して月に一度、一週間程は世界中の紛争地帯の戦闘地域のど真ん中に放り込まれてはたった一人の第三勢力として、文字通り孤軍奮闘する様になり、気付けば師弟関係から仕事人とマネージャーという現在の関係が構築されていた。
窓の外を眺めながら、何の気は無く昔の事を思い出して物思いふけっていると石塚が唐突に切りだした。
「まるで、何か思い出に浸っている様だな」
運転している為こちらを見ることは出来ないのだが、まるでこちらの顔を見て心情を察しているかの様な口ぶりだ。
この辺りはやはり、軍人や傭兵として、今まで何度も死線を潜り抜けてきた経歴からか、それとも、単純にこちらの心情を察しているだけなのか、本当に謎が多い。
ともあれ、相変わらず上機嫌な様子で、傍から見れば親子で外出の様にも見えるかもしれない。
「ところで、さっき電話で“助手”って言ってましたけど、一般人に対しての表向きは何の仕事をしている事にしてるんですか?少なくともキナ臭い仕事じゃないって事は想像出来ますけど、万一にも話を合わせられなかった時の為に…」
「それか?なぁに、簡単な事よ。普段の“表向き”はガンスミスだが、一般人には傭兵時代から“戦場カメラマン”を名乗っている。実際、傭兵をやりながら撮影した写真やお前さんを紛争地帯に放り込んだときについでに撮影した写真はいい副業になったからな」
「なるほど。それなら傭兵だった頃も、今の表の本業のガンスミスとしても海外を転々としていたところで“取材”という事にしておけば一般人には誤魔化しが効きますね」
「まぁ。あまり目立つ事はまずいから殆どを本業のカメラマンに売りつけて“戦場カメラマン”の肩書が付く程度の物しか、私の名義では報道機関に発表してないがな」
つまり石塚から写真を買ったカメラマンは石塚のスケープゴートである一方、カメラマンからするといわばゴーストライターの様なものであるのだろう。
聞いたところで答える事はないので聞くだけ無駄であるから聞きはしないが、腕は良くとも鳴かず飛ばずであったカメラマンが石塚から買った写真をきっかけに、名を馳せる事になった事も恐らくあったのは想像に容易い。
むしろ、実際に紛争地帯に放り込まれて現場を見てきたからこそなのだが、今になって思えば、どう考えても一端のカメラマンには危険過ぎるというか、護衛付きの従軍記者だったとしても行く事は難しい最前線で撮影された写真が出回っている事から余計にそう考えてしまう。
とはいえ、どちらにとっても利益しかない事であるし、撮影した本人からしたら、アリバイ工作である他、物事のついでにした割のいい副業で、口ぶりから察するに戦場写真には全く興味はないのだろうが。
そうこう話しているうちに、駐車場に止まった。
車を降りて少し歩くと、目の前には老舗高級店らしい荘厳な趣の門構えが広がっており、場違い感をどうしても感じてしまう。
こちらの気を知ってか知らずか、石塚は相変わらずの上機嫌で、何のためらいも無く表門の暖簾を潜って行く。
まぁ助手という事で話はついているし、何も悪さをしているという事でも無いので、大人しく後に続く事にした。
入口の扉を開けると、和服姿の従業員が出迎えに現れた。
そして、店の主人に電話で予約をした事を伝えるとそのまま奥座敷に通された。
入ってみればそこはかなり広い部屋で、小規模な宴会なら行えそうな具合だ。
わかりやすく言ってしまえば、テレビドラマなどで悪い政治家や官僚が利害関係にある相手とそういう話をする際に使われる料亭の個室の様な所だと言っても差し障りない感じの趣の部屋で、窓からはライトアップされた純日本庭園風の中庭が見渡せる様になっていた。
中庭には大きな池があり、いかにも高そうな錦鯉が泳いでいて時折、水のせせらぎに加えてししおどしの音が響き、程良いBGMとなっていた。
和座椅子に座ると従業員からおしぼりとお茶を差し出された。
注文は既に電話で済ませていた事もあるからか、注文の品が来るまで少々かかる事を告げると下がって行った。
「やはり高級店だと色々違いますね」
「そりゃあな。下手にミシュランの星付きの料亭や寿司屋行くならこの店の方が従業員教育もしっかりしているからな。それに、解りづらいが、窓は全て防弾ガラスになっているし、各所に防犯カメラが仕掛けてあるだけでなく、小型の盗聴器発見器とその電波を妨害する機械を従業員全員に常時携帯させて情報漏洩に細心の気配りをしているらしいからな」
「なるほど。一般客に紛れてV.I.P.狙いのパパラッチやら何やらが入ってくればすぐにわかるって事ですか」
「そういう事だ」
いくら高級店とはいえ、ここまでセキュリティーの厳しい店は恐らく存在しないであろう。
要人が訪れるときにはS.P.が下見をして従業員の身元確認に盗聴器の捜索、狙撃可能ポイントの封鎖等を行う事は何処の店でもある事ではあるが、あくまで一時的なものであり、常時行う事はまずあり得ない。
そもそも会員制の店でもなければ、高級店でもいわゆる“一見さんお断り”の店では無いのでそこまでする必要は無い。
何気なくスマートホンでこの店について調べると店のホームページに辿りついた。
ホームページの情報によると、極端な話、この店は味で勝負して代々続いた店で、原材料に拘っている他、高級旅館並みの優れたサービスと従業員を確保する為に人件費を惜しまなかった結果、それらの物が値段に反映されて、気付けば高級店となっていた鰻屋でしかないという。
そして、店側のスタンスとしては、来る客がたとえ一国の国家元首だろうと、基本的に特別扱いはせず、通す席は予約の有無や人数に応じて決めているという。
防犯カメラは元々保安目的だった様だが、要人が訪れる様になってからは少しでも多くの客が来られるようにという計らいからS.P.が他の客を追い出す様な真似を極力しないように防弾ガラスや盗聴器発見装置を導入したのだという。
情報通りならどうやら、この奥座敷に通されたのは単なる偶然の様で少しだけ安心した。
そんな事を調べていると前もって注文していた料理を店主自ら運んできた。
それはまるでチャレンジメニューかとでもいった大きな器に盛られたものと、大きめの器に盛られたもので、この場においては違和感があったが、特注である故のものだからと言えば納得できなくは無い。
鰻丼以外に肝吸と香の物がと茶碗蒸しが付いておりどれも高級感が漂っている。
料理を運んできた店主は利三を見るなり
「お前さんが例の大食いの助手か?そういう客は大歓迎だから、いつも以上に腕が鳴ったよ。本当はそういう客にたくさん来て欲しいから他の店より量は多くしているし、本当は安く出来たらいいんだが、赤字出して質を落とす事はしたくないからその辺で葛藤があってね。どうしても高くなっちまうんだが、今日は腹いっぱい食ってってくれな!」
と話しかけてきた。
どうやら料理人としては自分の作った料理で客が喜ぶ顔を見る事を生きがいにしている様で、高級店と呼ばれる事は好んでいない様子である。
「では、お言葉に甘えさせて頂きます」
そんな会話をしている横で石塚は既に箸を付けているあたりマイペースなのだが。
巨大な丼の蓋をあけるとかなりの量のものが入っていたが無理やり詰め込んだという訳ではなく美しささえある辺りはやはり大衆店とは一線を画している。
店主が下がったタイミングで料理に手を付け始めた。
個人的な食べ方で最初に茶碗蒸しに手を付けると今まで口にした事が無い、優雅な味が広がり、それだけでも笑顔がこぼれてしまった。
それから丼の蓋を開けテーブルに置かれた山椒を程良くかけて口にする。
さすがは高級店と言うだけあってか本当に味が良く感動の念さえ覚えた。
そんなものを腹いっぱい食えるのだからこんなに嬉しい事は無いだろう。
どれも絶品で、少々値段は気になるが自分で支払う訳ではないし気にしていたら味がわからなくなりそうなので気にする事はやめて箸を進めた。
食事を終えて店を後にすると、再びアジトに向け車が走り出した。
GPSによる位置特定等を避けるためこの車にはナビ等は付いておらず、会話が無ければ聞こえてくるのはエンジン音やらロードノイズの類だけで相変わらず静かである。
運転している石塚はともかく、そんな車に乗っていては眠気が来てしまう。
まして、食後ともなれば尚更だ。
若干ウトウトしてきたのを抑える為に窓を開けて空気を入れ替える。
時間的な事もあってか夜風が気持ちいい。
そして、ふと、空を見上げるとそこには満点の星空が広がっていた。
思えばこうやって夜空を見上げるのはいつぶりだろう。
石塚秀人という人物に出会う前の自分はというと、田舎から抜け出したい一心で上京したはいいが、特にやりたい事も無く、ただただ無駄に時間や金を消費する日々を過ごし、メディアからの情報を鵜呑みにしていた結果、さらに多くの物を失い“意識を持った個人”ですらない、それこそ“傀儡”。
“傀儡”と言えば聞こえは悪くないかもしれないが、言ってしまえば、社会という“傀儡回し”に操られるだけの“操り人形”でしかなかったのだ。
それ故に、今こうして石塚の下で悪党を始末するこの仕事は、この腐った社会を作り出した悪党共への報復であり、過去の自分を否定する作業でもある。
そういった面ではネフィリムのテロ行為に対しても共感出来なくはない。
だが、だからこそ、尚更に彼らの行為に憤りを感じている。
夜風を浴びながら車窓から夜空を見上げ、その様に物思いに耽っていると、アジトに着いた。
アジトに着くと荷物をまとめ、キーハンガーから自宅の鍵やら何やらの付けられたキーホルダーに手に取り石塚が用意したクルーザータイプのバイクに向かおうとすると
「言い忘れていたが、クルーザーの件はお前さんのアパートの大家に伝えてある。向こうからの話だと、7番の駐輪スペースに停めるようにとの事だ。あと、左側のパニアケースにバイクカバーやチェーンロックを入れてあるからそれを使っておけ」
と石塚が話しかけてくる。
こちらに背を向けてパイプをふかしている辺り相変わらずであるのだが。
「了解です。では、お先に失礼させて頂きます。今日は御馳走様でした」
「構わんよ。とりあえずお前さんが乗りやすい様にクラッチやブレーキレバーは堅めに調整してあるが、初めて乗るバイクだから気を付けて乗って帰れよ。それと、今のところは仕事の予定は無いからいつもの方法で連絡入れるまではゆっくり休め」
「わかりました。では」
右側のパニアケースに荷物を収納してキーを差し込みスタータースイッチを入れ、のんびりとアジトを後にした。
V型エンジン特有の重たいエンジン音と振動が心地よく感じる。
色々と調整されているお陰で初めて乗る車体でも非常に乗りやすかった為、特に危なげも無く無事にアパートまで辿り着いた。
アパートに着くと指定された駐輪スペースに停めてパニアケースからカバーやチェーンロック、私物の入ったカバンを取り出し、チェーンロックとカバーを掛けて部屋に向かった。
しばらくぶりの帰宅だったので階段下の郵便受けを開けると、投函されたダイレクトメールやチラシの類がかなり溜まっていた。
単身者向けのワンルームタイプのアパートである為、ピザや寿司などのデリバリーのチラシが高頻度で投函されるのは理解できるし、気には止めないのだが、分譲住宅や建売マンションのチラシを投函してくる不動産業者には正直な話、腹が立つ。
家が買えるだけの財力があればこんな安い賃貸物件になど住んでいないのが本音であるし、今までピンはねされた報酬を考えたらとっくにそれだけの資産はあったはずであるから尚更だ。
まぁ、現在の様にしていた方が法的に見て資産はほぼゼロだし、役所の杓子定規に照らし合わせて収入も無いという扱いから税金や社会保険料などは安上がりであるのだが。
とりあえず投函されていた物を選別し、不要なチラシの類はゴミ箱に入れ、ダイレクトメールや割引券の類に目を通し階段を上がって自室に向かう。
自室のドアポストを見ると6週間も部屋を空けていたからか、公共料金の請求書と共に督促状も入っていた。
止められるまでまだ期限が2週間近くあったので、翌日にコンビニのATMで現金を引き出すついでに支払うことにして、コーヒーを入れる為にやかんをコンロにかけながら荷物の整理を始めると、私物のオイルライターが傷だらけになっている事に気付いた。
入院中、動ける様になったところで、色々と警戒して、広く流通している銘柄の煙草と使い捨てライターを売店で購入して使っていたし、喫煙も極力控えていたので、全く気付かなかった為、気付かなかったが、新しい傷がこれでもかという位に付いていた。
このオイルライターは元々、量販店の会員カードのポイントで入手したおまけの様な物で、本来の定価も千円ちょっとであり、たいした事が無い物ではあるが、一応は一流メーカーの製品で、戦車に踏みつぶされても修理対応という永久保証が付いた逸品ではあるし、素材も強度が高い物が使われているため、傷は付きにくい物ではあるのだが、ここまで傷が付くと自身がいかに金属片やら何やらに曝されていた事に改めて気付かされた。
まあ、傷だらけでも、機能的には一切問題が無いのだが。
元々さほどの物が入っていたわけではないのでほとんど時間はかからなかったが、荷物の整理が終わると同時にやかんが鳴ったのでコーヒーを淹れた。
コーヒーを飲みながら葉巻の入った金属ケースのキャップを開けた。
このケースにもやはり傷や凹みが付き、塗装も剥げていたが中身は無事であった。
いつも“仕事”の際にお守りとして持っている葉巻はラッパーと呼ばれるたばこ葉で吸い口が閉じられておらず、元からパンチカットという切り方で吸い口が切られている為、そのまま着火出来る。
この葉巻はいつも無事に帰宅したときに吸っており、自宅に置いている電熱式のライター以外の物では着火しない。
葉巻の愛好家と言うわけではないが、やはりガスや電熱式ライター以外で着火すると、燐の匂いやオイルの匂いが混ざってしまうし、それを嫌がっていること以外に、無事に帰宅してからでなければ吸えない状況をあえて作り出す事で、自身の気を引き締め、生還率を上げる様にする目的もあるのだが。
とにかく、葉巻をふかした事でようやく自身が無事に帰宅したのだという事を実感した。
安堵した事もあるが、コーヒーを飲み終えると今度はテキーラのボトルに手を伸ばし、ショットグラスに注ぎ、一気に飲み込む。
原産国であるメキシコでは、食塩を舐めライムやレモンを口へ絞りながら楽しむのが正統な飲み方とされている様だがここは日本であるし、食塩を舐める事は高いアルコール度数から喉を守るためとされるが、その効能が無い事を知っているので、ストレートをショットグラスで一気飲みするのが彼流の楽しみ方となっている様だ。
「ふぅー」
一気飲みした事から溜息が漏れた。
そして、空になったグラスを置くと再び葉巻を口にした。
葉巻に関しても、今口にしている太巻きの物や細巻きで紙巻きたばこと同様のサイズのシガリロにしろ、普段愛飲しているフィルター付きのリトルシガーにしろ、広義では葉巻として扱われる物は本来であれば全て、口の中で煙を転がしてその香りを楽しむ物であるのだが、彼の場合、普通の紙巻きたばこ同様に、深く吸い込み肺に煙を入れている。
細巻きのシガリロやリトルシガーならまだしも、大半の人間は葉巻を初めて吸った際、誤って肺まで吸い込んでしまいむせ返るのが普通であるのだが、彼の場合は健康診断で計った限りで言えば、肺活量自体は成人男子で非喫煙者の平均値の2倍近い数値がある。
だが、解剖したら恐らく彼の肺はタールで真っ黒になっているだろう。
それでも、高山では慣らし無しで激しい運動が出来たり、長時間素潜りで活動出来たりするだけの肺活量があるからなのか一般的な吸い方は無視している。
その一方、舌は敏感な様でしっかりと香りも感じとっているらしい。
その為か否かは別問題となりそうではあるが、かなり薄めの水割りにした焼酎やウイスキーも一口飲めば、消去法で大体の銘柄は解ってしまうし、食品の熟成度や痛み具合に止まらず、大雑把ではあるが、使われている添加物や調味料も把握できてしまう。
そういう能力も“裏稼業”では時に役に立ち、護衛など“仕事”の際には暗殺を企てて毒物を盛った物を警護対象の口に入る前に除外出来るなどといった事では重宝している。
ただし、彼も人間である事に違いはないため、いかに毒物や劇物に対する耐性が一般人よりあるとしても、それなりにダメージを受けるため、石塚が用意している万能解毒剤は必須であるのだが。
“万能解毒剤”というとかなりの効能のある薬の様に感じられるが、実際のところ漢方薬の様に効果がある様々な薬物を合わせて作られた物であるので、摂取した毒物や劇物に対応してない成分は効果が無いというか場合によっては、副作用が大きく出ることもある両刃の剣でもある。
ただし、副作用といっても“仕事”に支障をきたすレベルのものではなく、軽い片頭痛や酷くてもせいぜい油脂などの消化が悪い物を大量に口にしたときの様に腹を下す程度のものである。
しかし、ここまでの特殊能力を得たのは本人も理由は解っていない。
身体能力に関して言えば、幼少期からしばらくの間、町内のスポーツ少年団の柔道教室で鍛えられていた他、10代の頃に学校の部活動で剣道を始め、友人の誘いから道場に弟子入りして段位を取得してはいたのだが、出来るだけ真剣に近付けた模造刀を借りて演武で使った経験こそあれ、居合の経験は無く、真剣は記憶にある限りでは偶然立ち寄った教育委員会主催の刀剣の展示即売会で拵えを外した刀身のみの物を専門家の案内の下で触れた程度だし、それはあくまで美術的な鑑賞目的での事で、実際に使用する様になったのは今の裏稼業を始めてからの事である。
ただ、彼が真剣を使いこなしている背景としては、独学で覚えたナイフ戦闘術や杖術、槍術の他、武道における師弟関係のあり方の一つで、まずは師匠に言われた事と型を守り、その後、その型を自身と照らし合わせて研究し、より良いと思われる型を作る事で既存の型を破り、最終的には型から離れて自由になり、型から離れて自在になる事が出来るという“守破離”の概念の中で“破”の部分が突出した結果、彼なりの“我流”が出来上がった部分での賜物なのかも知れない。
その結果なのか、大長巻と呼ばれる全長が2mを超え、刀身とほぼ同じ長さの柄を持つ大太刀から拵えを改造してナックルブレードの様にして改造した短刀まで様々な日本刀の扱いに長ける様になっていた他、独学で覚えたナイフ戦闘術に杖術と槍術の応用で銃剣道の真似事が出来た為に、必要に応じて自動小銃には銃剣を着脱して使用している。
それ故に接近戦に関しては特に得意分野になっているのだ。
さらに、色々と石塚から叩き込まれた事もあり射撃もオリンピック選手並みの腕を持っている。
ただ、この辺りに関していえば訓練を重ねればある程度は会得出来る事であり、超人的な身体能力を得る事には必ずしも繋がらない。
むしろ生まれつきはどちらかと言うと貧弱だった為、生まれつきのものでもない。
かといって、ドーピングなどの事も無いのだが。
実際のところ“仕事”の際に飲んでいる錠剤もビタミン剤などの単なるサプリメントでしかないし、スポーツ選手が受けるドーピング検査や様々な薬物検査を受けたとしても、陰性反応しか出ない。
その為、薬物による身体強化は行われていない事は明白だ。
そもそも、彼の超人的な能力は訓練や薬物による身体強化によって得たわけではない。
だとしたら、いつ、どの様にしてこの超人的な身体能力を手に入れたのか?
本人も知らなければ、仕事人として彼を育てた石塚ですら知らない。
この能力に関して言えば、実を言うと本人が知らないと言うのには実は語弊があり、正確な事を言うと“忘れさせられているだけ”なのである。
―――遡る事、十数年前、彼がまだ10代前半の頃の夏休み―――
夏休みと言っても特段な変化も無く、毎日を退屈に過ごしていた事に嫌気がさし、年齢的に車両免許も取得でき無かったので、たまに夜な夜な家を抜け出しては、スポーツ用品店で部品を調達して、彼好みに改造を施したマウンテンバイクで人の気配のない神社や、何かしらのいわれがある場所などに懐中電灯を片手に訪れて、神秘的超常現象の類と遭遇しようという下らない遊びを独りでしていた。
いくらそう言った昔話が残されている場所とはいえ、所詮は山の中にある寂れた神社だったり、ただの大岩に注連縄飾りが施されていただけの場所だったり、年月を経て風化し、原型が崩れかけている石像だったりといった物で、実際問題、神秘的な超常現象などと遭遇する事は無かった。
―――ただ一か所を除いては。―――
街の中心地にひっそりとあり、高山からの雪解け水が湧きでている小さな泉。
古くは水源として重宝され、この街の人々の生活を支えていたもので、それ故か水神伝説や様々な信仰のある場所で、上下水道が整備された現在に至ってもこの泉の湧水を使う者も多くいる他、パワースポットとしても有名で、観光資源にもなっていた。
彼は知らなかったのだが、実は彼の行動は、この泉を中心に彼が住んでいた街を一つの巨大な召喚陣にした儀式を知らず知らずに行っていたのだった。
彼が最後に訪れた場所、町の中心地にあるその小さな泉こそが儀式の完成地であり、そこには伝説に語り継がれてきた様に、強大な力を宿した水神がこの街の守護神として祭られていた。
語り継がれてきたその伝説によると、遥か昔、この地は幾度となく神々の戦場となり、度重なる戦乱から荒廃し、この世のありとあらゆる災いが渦巻く悪意の巣窟で、邪神が統治し妖怪や魔物が蔓延り、この世の終焉の地獄絵図を具現化した様な有様であった。
その様な地にも人々の生活はあり、村を形成していたのだが、邪神に服従する形で何とか生きてきた。
ある日、容姿が良く、純粋無垢で穢れの無い人間の娘を一人、二回目の新月の晩までに生贄に差し出す様に邪神が要求してきた。
日没後は生贄の祭壇に一人にし、祭壇周辺に人の立ち入りは一切禁止し、もし、二回目の新月の夜までに差し出さなければ、村を全て焼き払い根絶やしにすると警告したという。
その恐怖から、村人たちは必死に協議し、一人の娘を差し出す事にした。
その娘は、大半の村人が絶望しながら生きているこの様な地に生まれて尚、希望を持ち続け、他人を疑う事を知らず、男勝りに気と腕っ節は強かったが、騙されても人を恨む様な事はしなかった他、容姿も良く非の打ちどころの無い良く出来た娘だった。
そして、約束の二度目の新月の夜、娘が座る祭壇のもとに邪神の遣いとして一匹の龍が降り立った。
その龍は百鬼夜行の妖怪や霊獣の群れを一撃で消し去る程の力を持ち、目にした者はその恐ろしくも美しい姿に魅入られて身動きが取れなくなってしまうといわれていた。
しかしながら、生贄とされた娘はその純真故か、恐怖を覚える事は無くその龍に対して慈しみを持って接した。
その為、龍はたじろぎ、娘のその純真さに魅了されていった。
今まで力と恐怖による支配しか知らず、邪神の言葉を鵜呑みにしていたが故に、その純真さから投げかけられてくる娘の言葉から邪神の悪事を知り、娘と村人を救う事を決意し、邪神に反旗を翻す事にしたらしい。
そして、娘と共に村を訪れた龍は村人と娘を安全な山中に連れて行き自らの張った強力な結界で保護したという。
夜が明けても龍が娘を連れてこなかった事に憤慨した邪神は自身の懐刀で自らの軍勢の中で最強であった龍が万一にも倒された事を鑑みて戦力を整え、翌晩、宣言通りに村を焼き払いにかかる為、自ら指揮に当たってその軍勢を差し向けたのだが、あろうことか、腹心の龍が反旗を翻していた為に、物量で勝っていても天下無双の一騎当千攻撃に遭えば当然の事ながら怯んだものの、その圧倒的な物量で押し通し、戦いは、昼夜を問わず繰り広げられた。
その結果、さすがの龍も疲弊していたのだが、龍が保護した娘が結界から出てきた事で事態は再び変化した。
当の本人も知らなかったのだが、人間として生まれたものの彼女の真の正体は慈愛の神がこの世に遣わせた巫女であり、この状況下で覚醒して、疲弊していた龍に癒しと力を与えた。
その後、龍に乗って共闘し、邪神が生み出す圧倒的物量の軍勢を駆逐し、数か月に及ぶ戦いからついには邪神を倒したという。
結果、村人に一人の犠牲者を出すこと無く、村への損害も軽微なものとなった他、邪神から解放され、地獄絵図としか形容出来なかった地からは、その影は無くなり平和となったのだそうだ。
そして、龍と娘が結ばれた後、龍は自らの今までの行いを悔い改める為に、水神となって村人の為に泉を作り、自らの牙と鱗で鏡と二振りの太刀を作った他、その地と泉を守る水神となったのだという。
そして、正しき力を求めて召喚儀式を行った者の中でも、ある一定の条件を満たした者で、水神が与えた試練を乗り越えた者には力を与える様になったのだという。
この伝承では、鱗から作られた鎧と牙から作られた二振りの太刀がそれぞれ分祀された場所、村人達が匿われていた山、生贄の祭壇の場所は泉を中心に正五角に位置している。
そして、それぞれの場所を五芒星の書き順で回り、泉に到達する事で召喚陣が完成する。
それらの場所は数多の時を経た現代においては、迷信の類のみが残される形となっており、儀式の事もほとんど忘れ去られてしまっている。
それもそのはずで、たとえ儀式に成功して召喚陣を完成させられたとしても、伝承にある様に一定の条件を満たす事が出来た者でなければ水神を喚よび出す事は出来ない他、喚よび出せたとしても、水神が与えた試練を乗り越えた者にだけ力を与えるため、この儀式を完璧に成功した者は皆無であるし、伝承には残されていないのだが、成功した者は水神から力を与えられる一方で、水神と接触に成功した時の記憶を消されてしまう。
そのため、現代では、儀式の事を知っている一部の者からも迷信とされており、儀式の存在自体が半ば忘れ去られていた。
儀式によって彼が意図せず水神を喚よび出した時、龍の姿で姿を現した水神はその姿を歓喜の表情で見つめる少年にこう言った。
「悠久ノ時ヲ経テ、我ヲ喚よビ出シセシ者ヨ、何ヲ望ミ何ヲ欲スル?欲スルノナラ、ソノ“力”ヲ我ニ示セ」
そうは言われても、意図せず喚よび出してしまったし、願う事は山ほどあるが唐突に聞かれては答えられない。
それよりもU.M.A.(未確認生物)の様なものとして認識しているため、その様なものが日本語を話しているという状況の方が彼の好奇心をくすぐり、願い事なんかよりもかえってこの状況の方が彼にとっては望ましかった。
「あんた、人間の言葉が解るのか?ていうか願い事って、まるで昔話に出てくる泉の精霊だな」
「成程。貴様ノ心ノ内ヲ読ト、ドウヤラ貴様ハ召喚陣ノ事ハ知ラズニ此処マデ辿リツイタト言ウ訳カ。ソノ強運ハ、ナカナカ面白イ」
「確かにあんたの言う通りだけど、こっちの質問にも答えてくれ。心の内が読めるなら、こっちが何処の誰かお見通しだろうし、自己紹介は要らないだろ? 」
「我ノ姿ヲ目ニシテ尚、物怖ジセズ、我ニ問イ返ス、ソノ度胸ニ対シ答エテシンゼヨウ。我ハ、コノ地ヲ守護スル水神【ミズチ】デアル。我ガ試練ヲ乗リ越エ、ソノ“力”ヲ示セシ者ニハ我ノ“力”ヲ与エル者ナリ」
「成程ね。要するに俺はあんたを召喚する儀式を意図せずにやってたって事か。なら、その試練とやらに挑ませてもらう事にするよ。どうせ考えてる事は筒抜けなんだろ? 」
「貴様ハ本当ニ面白イ」
そう言うと水神は何処からともなく一振りの太刀を取り出して彼の前に投げ置いた。
「これは? 」
「今カラ貴様ハ我ノ創リシ結界デ、試練ニ挑ンデモラウガ、丸腰トハイカヌ。貴様ニハ、コノ太刀ガ向イテイルノデハナイカ? 」
「成程ね。まぁ、剣道は段持ちだから丁度いいか。欲を言えば、模造刀とはいえ打うち刀がたなの方が使った事がある分、いいんだがな。聞くつもりは無いが、それを出さない辺り何かあるんだろ? 」
懐中電灯を左手に持ち替え、脚元に投げ置かれた太刀を手に取ると、異変は何の脈略もなく生じていた。
音も無ければ光も無い。
ただ一瞬にして、彼の周りに見える風景の全てが入れ替わっていた。
そう、まるで色彩を反転させた写真の様でそれまで見えていた風景とは真逆の風景といって過言ではない。
うす暗く、黒い霧がたちこめていて視界は数十メートル程度しかないが、それでも先ほどの夜闇と比べれば段違いに明るい。
そこで見える風景を形容するならば活火山の噴火口の様なゴツゴツとした岩肌の大地で、草の根一本生えてはおらず、所々から蒸気の様な物が噴出している。
さらに、空を見上げれば不気味なほどの茜色に染まっており、そこには何も無く、ただただ永遠に不気味な茜色の空があるだけだった。
手元を見ると左手に持っていた筈の懐中電灯は無くなっていた一方で、右手に持った先ほどの太刀はちゃんと存在していた。
そして、何処からともなくミズチと名乗った先ほどの龍の声が聞こえてきた。
「コノ場所ハ、我ガ固有結界。貴様ノ目ニ映ル物ハ、コノ地ノ過去ノ姿」
どうやらここは固有結界内で目に見えているのはミズチの心象風景の様だ。
言ってしまえば、ここは仮想空間で現実ではない様である。
「成程ね。要するにここは、テレビゲームの中みたいなもんって事か。だったら、ちょいと遊んでいってやるとしようか」
そう呟くと彼は手にした太刀をベルトに差して、抜刀の準備にかかる。
模造刀とはいえ、演武で日本刀を使った事がある経験からか、本で仕入れた知識からなのかは不明であるが、ベルトに差すにしても世間一般で日本刀の代表格になっている“打うち刀がたな”の様に刃を上向きにしているという事では無く、ちゃんと刃を下向きにした正しい差し方をしている。
状況は呑み込めた様で呑み込めていないが、武器を渡されたという事は何かしらの相手をさせられるのだろう。
鯉口を切ると同時に周囲を見渡してすぐに抜刀した。
初めて手にする太刀の刀身の正確な長さや重量バランスは鞘から抜かなければわからない。
それ以前に、いつ何が襲ってくるかわからないという事もあるし、太刀の抜刀方法は知識の上ではあっても実際にやるのとでは異なってくるため、早々と抜刀して構えていた方が確実である。
とにかく、抜刀しなければどうしようもない事だけは確かだった。
抜刀と同時に軽く振り、基本である正眼の構えを取り重量バランスの確認を行った。
そして、一度構えを解くと再びミズチの声が聞こえた。
「貴様ハ鞘ヲ捨テヌカ。マズハ合格ダ」
「今まであんたを喚よび出した奴らは終わったら刀身を収める事を考えてなかったのか?鞘を捨てたならその時点で敗北した様なもんだし、だとしたら俺から見ても生きて帰れたとは思えないが」
「…」
今度は返事が無い。
まあ今はそんな事はどうでもいい。
こんな地獄絵図の様な固有結界からはとっとと、おさらばして夜明け前に帰らないと抜け出して遊んでいたことがばれて大目玉を食らってしまう。
とりあえず抜刀したままの太刀を片手に前に進みだした。
一歩、また一歩と進んでいくのだが、一向に変化は無い。
相変わらず目に映るのは荒廃した大地と不気味な程の茜色に染まった空だけである。
動きやすさを重視して、ジーンズとTシャツにスポーツシューズといった軽装のいでたちで家を抜け出していたため、歩きづらいという事は無かったのだが、何も無い事は退屈だ。
とりあえず、慣らしも兼ねて退屈しのぎに軽く太刀を振り回してみた。
するとどうだろう。
勢い余って近くの岩に強く当たってしまった。
「あっ」
(やっちまった。)
そう思ったのだが、当たった手応えと同時に岩が斬れていた。
慌てて刀身の岩に当たったのであろう部分を確認するのだが、僅かに砂などの付着物こそあれ、刃毀れや傷の類は一切無い。
鞘に納められていた段階で反り具合は把握できたし、抜刀した時に刀身の長さこそ目視してはいたが、刃紋や地肌はもとより刀身の見た目は一切見ておらずここで初めて見たのだが、柾目肌と呼ばれる種類の地肌を持つ刀身は磨きあげられた鏡の様に輝きを放ち、刃紋は広直場と呼ばれる造りであり、計算されたかの如く程良く付いた反りと相まって、ある種の美しさすら醸し出していた。
まるで美術刀ですら凌駕する見た目は神々しくもあるだけでなく、意図せず岩を斬ったとしても傷一つ付かない
いくら優れた刀匠が作成した最上大業物でも、これほどの物は存在しない。
というよりも日本刀の素材で使われている玉鋼の強度を考えると傷の一つとて付いてもおかしくないはずだ。
だが、今、目の前に存在するそれは、一切その様な事は無いのだ。
固有結界内だとはわかっているが、手応えは確実にあったし、斬れた岩を手にするとそこには確かに大きさに見合った質量があった。
その断面を改めて見返してみる。
誰がどう見ても不自然な程に一部の面が研ぎ澄まされた鏡面の様に滑らかで、SF映画のワンシーンで見られるレーザーで斬り裂いた物の断面の様にも見えた。
「なんて切れ味してやがる。これじゃあ下手こいたら自分が斬れちまうな」
そう、勢い余って当たっただけでこの様な切れ味なのだ。
もし、手を滑らせれば、普通の日本刀以上に自身の肉体を傷付けかねない。
そんな事を考えているとまた声が聞こえた。
「安心セヨ。ソノ太刀ハ操ル者ヲ傷付ケル事ハ無イ。ドウヤラソロソロ扱エソウダナ。デハ、本番トシヨウ」
声の主に問い返そうとしたと同時に地響きが起きバランスを崩したが、太刀を地面に突き立て踏ん張った。
そして、顔を上げるとそこには巨大な怪物が仁王立ちしていた。
「コレハ、我ガ創リシ土人形。サア、思ウガママ戦ウガヨイ」
声の主が言い終えるか否かのタイミングでその怪物は巨大な腕を振りかざし襲いかかってくる。
とにかく体制を整えないと話にならないので、何とかして一度、距離を置いた。
離れて見るとその怪物に頭部は存在せず、その代わりに阿修羅の様に三対六本の腕があり、一対は人間の物と同じ様な構造をしているものの他の腕の先端部はそれぞれが独立して事なった姿をしている。
蟹の鋏の様なもの、アイスピックの様なもの、棘付き鉄球の様なものに盾の様な板状のものといった具合だ。
更に、バランスを取る為か長い尾を二本振りかざしており、その先端は三又に開いたり閉じたりを繰り返していた。
恐らく地面に突き刺してアンカーとして使うのだろう。
その辺まで考えて土人形を創る辺り、それなりの経験がミズチにもあるのだろう。
だが、感心している暇は無い。
何せ自分は渡された太刀こそ持っているにしろ怪物と対峙しているのだし、ここを抜け出すには怪物を倒さなければならないだろう。
とにかく、一度、呼吸を整えると太刀を構えなおした。
そして、襲い来る巨腕を受け流しながら斬りかかる。
だが、盾で阻まれ、僅かな一部分に傷を与えられても、有効と言える一撃は何度やっても与えられていない。
「やっぱりただの岩と違って頑丈に創ってやがる」
さらに言えば、頭部が無いし、眼と思しき物が見当たらず、何処に眼があるのか解らない。
そう、すなわち死角が解らないのだ。
むしろ、六本の腕と二本の尾がある以上、同時に八方向に攻撃出来る。
それ故、一度攻撃をかわしてもすぐに次の攻撃にさらされるし、今の自分はアクションゲームのキャラクターの様に立体的な動きは出来ないため、攻撃を受けた時は、防ぐなり受け流すのが第一の防戦一方の戦い方になる。
とにかく、まずは一本でも腕なり、尻尾を斬り落とさなければ、一対一でも多勢に無勢と言って相違ない。
「竹刀で出来ても太刀で出来るかどうかは解らないが、竹刀で出来て太刀で出来ない通りは無い」
そう呟くと再び正眼に構え、怪物の正面に向きあう。
そして、太刀で怪物の攻撃を受け流すと共に、切っ先で螺旋を描く要領でそのままの勢いに任せて斬り込んだ。
その結果、腕を一本破壊する事に成功した。
「あと七本。いけるか…」
とにかく、これで死角は出来つつある。
だが、相手も単なる土人形では無い様で、壊された腕の部分の隙を隠す様に、そして、こちらの攻撃を学習したかのように、攻撃モーションを次々と変えてくる。
だが、彼も一応は段位を持っているレベルだ。
その様な事も想定の範囲内であるため、引き際に反撃したり、攻撃を攻撃で打ち返したりと様々な方法を組み合わせては攻撃パターンを変え、時間をかけて何とかして腕や尾を破壊していく。
そして、半分まで破壊に成功したところで、一気に斬り込みをかけた。
土人形が避けようとしたことにより怯んだその一瞬の隙を突いては更に攻勢に転じた。
そして、胴体を左上方から右下方に向けて斬り裂いた。
その勢いで土人形は大地に倒れ込んだのだが、まだ完全に倒せたわけでは無く、倒されてなお、攻撃を繰り出してくる。
だが、それは悪あがきの様な攻撃であり、回避は容易くそのまま胴体の上に乗り太刀を突き立てて止めを刺した。
この時には、体力も尽き果てて、突き立てた太刀の柄頭にしがみつきながら辛うじて型膝立ちを維持していた。
太刀を突きたてられ、止めを刺された土人形は彼の下でその原型を崩していき、最後は土くれと化していった。
その様を見届けていると、再び声が聞こえた。
「上出来ダ。貴様ノ能力ヲ認メヨウ」
声の主がそう言うと、土くれの中から水晶玉の様な見た目の光り輝く球体が浮き出して来て浮遊していた。
「サア。ソレニ触レルガヨイ。ソナタニハ更ナル力ヲ与エヨウゾ」
気力だけで、何とか立ち上がり、言われるがままその球体に触れてみる。
すると、土くれに刺さっていた太刀が抜けて宙に浮きその球体と一つになった。
その刹那、凄まじい衝撃と轟音、光を放ち目が眩んだ
そして、気付くと辺りは元通りの暗闇であったが、先ほどの球体が光を放ちながらミズチと彼の間に浮遊し、周囲を照らしていた。
そして、見るとベルトに差していた筈の鞘は消え、脚元には懐中電灯が転がっていた。
「“力”ヲ示セシ者ヨ。我ハソナタヲ認メヨウ、ソシテ、貴様ニハ約束通リニ我ノ“力”ヲ授ケヨウ」
ミズチがそう言うと光りを放つ球体は彼の身体に吸い込まれていった。
光源が脚元の懐中電灯のみとなった事でとりあえず懐中電灯を拾い、再びミズチと対峙する。
「あんまりオカルト的な物は信じたくは無いが、あんたの“力”とやらで何か変わるのか? 」
「ソノ“力”ハ、イズレ貴様ヲ護ル物トナル。ソシテソレハソノトキニ解ル物ダ」
「よくわからんけど、要は即効性は無いって事か。まあいいが」
「ソレカラ、今回ノ事ハ貴様ニハ忘レテモラワネバナラヌ」
「要するに記憶操作って事か? 」
「安心スルガイイ。儀式ヲ完成サセタ事デ、我ト出会イ、試練ヲ乗リ越エ“力”ヲ得タトイウ記憶ヲ消スダケダ。他ノ部分モ整合性ガトレル様二シテオクノデナ」
「まぁ、水神様にもそれなりの都合ってものがあるから仕方ないか」
「デハ、始メヨウ…」
ミズチの言葉と共に周囲が漆黒の闇に包まれた。
そして、次の瞬間、目覚まし時計の音で目覚めた。
目覚めると記憶から昨晩出掛けた事もミズチの事や与えられた“力”の事は消え去っており、服装も普段寝る際の物に変わっていた。
彼はその様な経緯で水神から力を得たため、その部分の記憶は消されている為に、その超人的な身体能力を持った由縁を覚えていない。
だが、その力によって彼の肉体が守られている他、その力が無くては彼の信じる正義を執行することは出来ないであろう。
そうなれば、当の本人からしてみれば力を得た経緯や記憶を操作された事などは全く意に介していない様だが、いくら水神によるものとはいえ記憶を操作された事で所々に矛盾は生じている為、不都合が生じてしまうことも稀に起きてしまってはいるのだが、この“力”が単に物理的なものだけでなく、強運や回復なども併せ持つ事で何とかなってはいる。
ただ、強運や回復を併せ持つとは言っても“宝くじで高額当選する”とか、“連日の徹夜で疲労困憊でも仮眠を取れば問題ない”という様な事はさすがにない。
まあそこが、いくら水神から超人的な能力を与えられても、記憶操作された本人はもとより周りの人間もその事がわからないという事のからくりの一端を担っているのだが。
それ故に、彼がどうしてこれだけの超人的な能力を手に入れたのかは、水神の記憶にしかない他、明確な物証も無い。
さらに言うならば超常現象によってもたらされた能力では、薬物などで後付けされたものの様に、化学物質などが検出されるなどの不自然な点が一切ない為に、科学的にも解明出来ないのである。
正義の正体
どういった経緯があったとはいっても超人的な能力を得た事でこの様な裏稼業もこなせているわけで、それ故に日々の生活が何とかなっている事に異論はないだろう。
葉巻を銜えながら私物のスマートホンの電源を入れると、通知が溜まっていた。
仕事の際には身元を隠す目的から毎回、用意されたものを使用しているし、入院中もそれを私物と同じアカウントに切り替えて使っていたので基本的なメール等は受信して、プライベート関係と連絡は取り合っていたのだが、一つのアカウントで複数の端末が使え無いことがあるからしかたのない事ではある。
とりあえずは再起動してアカウントの同期を取って様子を見たが、バックアップがちゃんと取れていた為、作業自体は数分とかからずに終了した。
とはいえ、アナログ人間の彼としては、やはりデジタル機器に関してはどうしても苦手意識は否めない。
特にスマートホンやタブレット端末などのこういう精密機器なら尚の事である。
銃器の類に関して言えば、戦場でも排莢不良や弾詰まりを起こしたところでボルトハンドルを動かしたり、部品を外すなどして物理的に問題解決が可能であるし、刃物の類も刃毀れを起こしたり、折れたとしても一応は使い道がある。
それに対して、精密機器の類は専門的な知識や工具類、基盤等の新規の部品が無いと分解修理は不可能である他、物理的なトラブルが無くとも、コンピューターウイルスやデータの不具合などの電子的なトラブルで動作不良を起こすので、非常に困る。
科学技術の進歩は確かに生活の利便性を高めはするが、一方でアナログの方がいい事もある。
嘘か真かは別にして“NASAが無重力空間でも使えるペンを開発するのに巨額の研究費用を投じていた頃、ソ連の宇宙船では鉛筆を使っていた”という話があるが、わざわざ巨額の費用を投じなくとも既存の技術で対応出来るものはそれで充分だと彼は考えている。
そういった事から、バリケードを破るのに関しても彼の場合、最新型の誘導弾発射兵器よりも、骨董品といえる類の大砲の方を好んでいるし、彼の身体能力をもってすれば仕事内容いかんでは、明治時代に旧大日本帝国陸軍で採用されていた銃剣搭載型のボルトアクション式カービン銃である四四式騎兵銃でも事足りるのだ。
そういう事もあって、最低限の装備として日本刀とマシンピストルを2丁携行しながらも、故障に備えて、それと同じ弾薬に対応させるように改造したリボルバー拳銃を使っている。
しかしながら、実際のところは状況に応じた得物が本人の意向に関わらず用意されるために、最新型の銃火器や個人携行誘導兵器に留まらず、ヘッドマウントディスプレイ照準システム等の最新の装備類を使う事が多い。
ただ、そういう類の物はバッテリー等の付属物のせいで重量はもとより、体積も嵩張る他、ケーブル等が邪魔になる事もあるだけでなく、それらを実際に配備している国々の軍でも実戦での使用履歴が浅い事から信頼性の問題もあり基本的に好んで使ってはいない。
極端な言い方にはなるが、仕事の為に用意された得物が他に無いために仕方なく使っているともいえよう。
それでも毎回必ず指定した最低限の装備品を用意している辺りは石塚も理解を示してはいるとは言えよう。
もっとも、彼の場合は日本刀を攻撃だけでなく防御でも使っているが故に短刀の一振りも無ければ、それこそ文字通り“死活問題”であるのだが。
とりあえず、葉巻を吸い終えると風呂の支度を始める。
そして、浴槽の湯に浸かるが本当に心地いい。
やはり6週間ぶりに帰宅した事もあるのだが、自宅という場所はやはり落ち着くものだ。
風呂からあがると、布団を敷いて横になった。
色々と気になる事は往々にあれども、やはり、自宅にいるという安心感からかほどなくして眠りについた。
そして、久しぶりに夢を見た。
夢の中は何もかもが無かった事の様な世界で、超人的な能力も無ければ、危険な裏稼業に従事している事も無い。
そこには誰もが望むいわゆる“普通”の日常を送る自分がいた。
現実世界の自分は大学を卒業して、普通に就職したが、その劣悪な環境で色々と感覚が狂い、一般人が言う“普通”とか“常識”というものが何なのか解らなくなっていた。
ただ、学生時代に法学を専攻していた他、社会学等の講義も受けていた為、法律や条例といった杓子定規に当て嵌めた形での感覚は残っていた。
裏稼業に関して言えばI.C.P.O.の要請があっての超法規的な事で無ければ、明らかに法に抵触しているし、いくら犯罪者相手の仕事とは言え、後ろ盾の石塚がいなければ、彼も法的には犯罪者以外の何物でもない。
そういう硝煙臭い仕事をしていると夢の中という場所は非常に居心地がよく、出来ればそこに留まっていたい気持ちになる。
ただ、訓練を受け始めた頃に至っては、いつ訪れるかわからぬ“死”の恐怖から酷い悪夢にうなされ汗だくになって飛び起きる事がざらであったが、世界中の紛争地域や戦場を渡り歩いているうちにその恐怖にも慣れ、水神によって与えられた超人的な能力と相まって、いつしか“死”の恐怖を忘れてはいたのだが。
―――だが、それでも、現実は辛い。―――
同世代の友人達は次々に所帯持ちになって行くし、自衛官や警察官、消防士といった危険を伴う仕事をしている者もいる事はいるが、それでも彼ほど危険な目に遭う仕事もしていない。
言ってしまえば彼は、自ら生命を投げだすに等しい事をしているとも言えるし、その様な事をしていると、普通の人より一層“隣の芝生は青く見える”のだ。
マイナス思考かもしれない事だが、そういう背景からも現実世界にいるときよりも夢の中の方が余計に居心地がいいだろう。
むしろ、現実世界では“裏稼業”をしているよりも、余程のブラック企業で無い限りは、世間一般のサラリーマンの方が金銭面でも安泰だ。
それでも彼が“裏稼業”を続けている背景には、司法や行政が手を出せない悪党をその手にかける事で彼の求める“正義”が執行できるし、組織に属さない事で無駄な派閥争いや政治ゲームに付き合わされて苦労する様な事もないといった利点もあるからなのだ。
正直な話、民間企業だろうと官公庁であろうと“組織”に属するとどんなに小さい組織でも、そこではほとんどの場合、派閥争いや出世レースといった面倒事が付き物だし、能力主義を謳っていても努力の一つもできない様な無能な人間が嫉妬心から邪魔をしてくるのは確実だ。
その背景としては、資本主義からくる利権争いや学歴主義という就労差別が横行し、無能な人間を有能な人間に育成するためのシステムが法的にも社会的にも構築されていない事もあるのだが。
そういうモノに気付いてしまうと本当に世の中が嫌になってくる。
そして、そういったくだらない事が積み重なった結果、格差が広がりその結果として、富める者はより財をなし、貧しい者はより貧しくなり、搾取する者と搾取される者の二極化が起こっていた。
先のネフィリムによるテロもそういった事から起こるべくして起きたのかもしれない。
インターポール等の後ろ盾が無ければ、法的に見れば彼も“犯罪者”であると言えるが、だとしてもそれは司法機関に依頼された事であるし、その行為自体“超法規的処置”という事で“不問”に処されているというか実質的には、法による行為と似通っている。
そういうところからネフィリムの言う“正義”にも共感する部分はあったとしても、その行為は彼にとっては到底許せるものではない。
―――眠りについてからどのくらい経っただろうか。―――
窓から入ってくる太陽の光で目が覚めた。
枕元に置いている電波式のデジタル目覚まし時計に目を向けるともう昼を回っていた。
今さら食事を摂るのも準備が面倒だし、時間的に夕食の時間が遅くなる為、食事は抜いて軽く出掛ける事にした。
特に行き先といえる場所も無いのだが、街中をぶらぶらと散策し、ウィンドウショッピングをしたり、古本屋で掘り出し物の文庫本を探したりしてから行きつけのコーヒーチェーン店を訪れる。
2階建の鉄筋コンクリート造りで若者向きの様相をしているこの店は1階フロアこそ全席禁煙であるものの、2階フロアが全て喫煙席になっている他に、サービスで無料のカードマッチを配布していることで、近年“禁煙ファシズム”とも揶揄される“健康増進法”の施行により肩身が狭くなった彼の様なヘビースモーカーにとっては非常に居心地がいい。
他にも、系列店でしか使えないのだが、会員カードを兼ねたプリペイドカードで支払いをすると通常料金から割引が課されるし、キャンペーン等で更に割引特典がある事もある他、フリー電源もある事から度々訪れている。
さらに、近隣に系列店が数店舗ある為、満席でも近隣店舗の空き状況を店員が把握している為、空きのある店舗を案内してくれる事も魅力である。
割引適用後の値段より10円程度安い他のチェーン店も存在はするのだが、そちらはフリー電源も無ければ、喫煙席の数も少ないし、恐らくは業界最安値であるために、店員のサービスの質も低ければ、客の民度も低く、マナーの悪い客も度々いるし、他の客に迷惑をかける客がいたところで、店員も積極的に注意したりなどは全くない。
そのため、いくら10円程度安く、塵も積もればとは言っても、そちらにはあまり行く事はないのだ。
セルフサービスなのでレジでコーヒーを注文し、適当な席に座るとポケットからいつものリトルシガーとオイルライターを取り出し、コーヒーを片手に火を着ける。
店内のテレビモニターでは音声こそ切られているのだが夕方のニュース番組が映し出されていた他、周囲を見渡すと、読書をする人や、ノート型やタブレット型の移動端末で作業をする人、スマートホンを操作する人など様々な客がいる。
こういう風景を見ると自分が“裏稼業”で置かれている状況がいかに異常な物か再認識させられる。
それに、こういう平和な環境を見ることは、彼の行為を自己肯定する事にも繋がる。
彼にとって“裏稼業”は『悪党に裁きの鉄槌を下すのは自身の存在を肯定する』という手段に過ぎないのだが、こういうものを見ると『自分が汚れ仕事をする事でこの世界が守られている』と自身に言い聞かせる事ができる。
人には言えない“裏稼業”を仕事にしているという事はそれだけで社会から浮いてしまうし、そうでもしないと実際問題、超法規的措置として処理はされていても、非合法な部分がある以上は後ろめたさが残ってしまうためとも言えるのだ。
店内のモニターにふと目を向けると、先のネフィリム関連のニュースが相変わらず流れていた。
傷が疼くので、入院中はテレビもインターネットニュースも見ないようにしていた為に情報不足だったし、店内のモニターは音声も字幕も出ないのでテロップだけ見て判断するが、あれ以来、世界各国で同様の事件が発生していた様だ。
だが、それらは手口こそ類似の事件とはいえ、反資本主義を掲げるものだったり、過激派が起こした宗教テロだったりといった具合で、手口だけ真似た模倣犯に過ぎず、ほとんどの犯人が逮捕されている様だった。
そうなるとネフィリムのメンバーを未だに逮捕できていないどころか目星すら付いていない日本の警察の無能さを実感するが、それはもう彼の知った事ではない。
とりあえず、のんびりとコ―ヒーを口にしながらリトルシガーを数本吸い時間をつぶす。
そして、コーヒーを飲み終えると、返却口にカップと灰皿を戻し、家路についた。
夕食時とあってか街中の飲食店からは人が忙しなく出入りし、周囲には様々な料理の匂いがたちこめていた。
それと同時に居酒屋の店前にはメニュー表や看板を持った呼び込みが立ち始め、夜の繁華街を形成し始めていた。
この街は駅を中心にして東西南北に分割される形で学生街と大型商業施設、繁華街と住宅地という4つのエリアに別れている。
そのためか、繁華街の治安は決して良いとは言えない一方で住宅街や学生街は至って平和である。
言うなれば、犯罪者は繁華街に封じ込められているとも言えなくもない。
だが、地元警察もそれをわかっているのか、彼の生まれ育った田舎ではあり得ない程、交番が設置され、昼夜を問わず、頻繁に警官が巡回して犯罪の抑止を行っていた。
利三としてはこの10%の人員をネフィリムの事件に回せば解決に向けて進展がありそうに思えるのだが、相変わらずくだらない縄張り争いがある様で、やはり所属警察署が違うと関係は無くなるのだろう。
本当に日本の縦割り行政のシステムや縄張り、利権争いには呆れてしまう。
のんびりと歩いていたが思ったよりも早く帰宅できた。
一応、郵便受けのダイヤルキーを回して開け、中を見が特に何もなかったので、まっすぐ部屋に向かう。
そして、適当に夕食を作り、後片付けまで早々と済ませて風呂に入り床に就く。
翌朝は起きてから例のクルーザータイプのバイクで出掛ける事にした。
カバーとチェーンロックを外し、再びパニアケースに収納してシートに跨るとキーを回し、セルスイッチを押してエンジンをかける。
399ccの排気量の割に心地いいエンジンの重低音が鳴り響く。
そして、クラッチレバーを引きギアをニュートラルからローギアに変えるとスロットルを回して走りだした。
マニュアルトランスミッション車は速度に応じてギアを変える必要がありその分スクーター等のオートマチック車よりも操作が難しいのだが、一方でそれがまた面白いところでもある。
彼の所持している免許では普通と付けば特に縛りは無く自動車もバイクも乗れるし、免許の条件に眼鏡使用等を義務づけられてもいない。
これは彼が特別なわけではなく、同じ条件で免許を所持する者は多い。
ただ、彼の場合は運転が楽なオートマチック車が苦手で、マニュアルトランスミッション車を好んでいるという天の邪鬼な部分があるため、そこは他の者とは異なるのだが。
アパートのある入り組んだ路地から大通りに出て加速していくと風が気持ちいい。
よく晴れた青空の下を快走することはバイク乗りにとっては至高の時間といえよう。
目的地など元々決めていなかったが、気分に任せてとりあえず海を目指すことにして走行中に見た道路標識から脳内に地図を描くと共に大雑把にルートを決めながら走り抜ける。
日本の主要幹線道路、とりわけ江戸幕府によって制定された“旧五街道”に相当する国道は全て、東京の日本橋を起点に張り巡らされているため、おおよその現在地と方位を把握して幹線道路を走行すればだいたい合流するため、地図やカーナビを使わなくともおおよその目的地には到着できてしまう。
道路標識だけを頼りに幹線道路を走行してしばらく行くと徐々に潮風の匂いがしてきて思ったより早く海岸線に近づいていると認識した。
そう言えば江戸時代以前は現在の品川の辺りまで、もともと海の中だったが長い時間をかけて埋め立てを繰り返し、現在の地形になったとも聞いた事もあったが、電車を使うとお台場や汐留などの海沿いで観光地の様な場所でも乗り換えなどがあり、同じ23区内であれどもそれなりに時間がかかってしまう。
それに、電車内でじっと座っているのと自身で運転しているのとでは集中している事などもあってか体感時間にだいぶ差が出る。
誰かが読み終わった漫画雑誌に加え、新聞やゴシップ雑誌の類が電車内の網棚に放置されていて、それに目を通してみては戻したり、スマートホンを車内のWi-Fiに接続したりして、オンラインゲームやWebサイトにアクセスしたところで移動時間が退屈な事に変わりは無い。
そういう面では自身で運転する自動車やバイクは全く退屈しない。
まぁ退屈して居眠り運転などすれば、重大な事故に繋がりかねないし、そもそも彼の場合は警察の外郭団体が免許証の記録と照合して発行している無事故無違反の証明カードを所持しているいわゆる“優良ドライバー”であるため、検問や職務質問で停止要請を受けた経験こそあれ、そういった危険な運転は元からしていないのだが。
それに、こういうクルーザータイプのバイクは元々長時間の移動に適した設計がなされている事もあってか、乗員にとって負担の少ない快適な巡航を実現しているため、疲労が蓄積されにくいので、こういった外出には非常に適している。
その一方で、仕事用として用意されているスーパースポーツタイプのバイクは元々レース用に開発された車両をベースにしていたり、各メーカーがレース活動で得た技術を応用したりして作られたもので機動性やスピード重視の性格となっているため、急な加減速も容易に行える他、小回りも利くために狙撃による一撃離脱戦法もしやすい。
そういう理由からも、仕事用と通常の移動用がわけられている事は非常にありがたい。
とりあえずしばらく走るなり休憩するためにコンビニの駐車スペースにバイクを停めた。
一息入れるために店内に入り、缶コーヒーや清涼飲料水の類が陳列された冷蔵棚に向かい、色々と物色する。
色々と迷ったのだが、結果として店頭の機械で淹れるタイプのアイスコーヒーを購入して、ガムシロップとコーヒーフレッシュを大量に入れてかき回し、カフェオレもどきを作り、それを持って、店前のスタンド灰皿に向かった。
愛飲しているリトルシガーに火を着け、カフェオレもどきに口を着けた。
ガムシロップの入れ過ぎか、はてまたコーヒーフレッシュの入れ過ぎかは不明だが、口内を甘い味が占拠する。
その一方でリトルシガー特有の味も広がってその甘さは相殺されるのだが。
リトルシガーとカフェオレもどきを一通り味わい休憩するとコンビニのトイレで用を足し、再びバイクに跨り、エンジンを起動させる。
クルーザータイプ特有のエンジン音が鳴り響きエンジンを温めた。
それによる轟音で周囲の注目を集めている事は否定できない事実であるのだが、その様な事を気にする彼ではない。
コンビニの駐車場を出るなり、運が悪い事に10t トラックが後方に付き、煽られた為に嫌がおうにもスピードを出す羽目になったのだが、それでも法定速度で走るという対抗手段を講じて公道を進み、目的地の海を目指した。
その道中、海を目指した標識とすれ違ったのだが、そんなことは気にも留めず勘だけで目的地を目指した。
その結果、時間は最短ルートよりかかったのだが、予定通りに海岸に到達した。
欲を言えば、適当な駐輪場にバイクを停めて、海水浴などを楽しみたいところではあるのだが、思いつきで来た事もあってか運が悪い事にまだ海開きをしていないし、水着の類も用意していない。
そのため海水浴はもとより、ライダーブーツでは砂浜を闊歩する事さえ躊躇われる。
近くの自動販売機でコーラを購入し、リトルシガーを吹かしながら、なんとなくではあるが、ウェットスーツを着込んでサーフィンやヨット遊び、ボディーボードに興じて遊んでいる若者達に目を向けた。
海上は波も低く、静けささえある様相だが、こういった場所の方が初心者向けであるのかもしれない。
実際のところ、その道をそれなりに潜り抜けてきた人間はハワイのパイプビーチでサーフィンを楽しみながら技術を磨くとどこかで聞いた事がある。
利三はと言うとサーフィンやボディーボードの類に一切の興味は無いし、やれと言われたとしても全くやる気は無いのだが、見る分には一切の偏見は持っていない。
その為に、素人が練習でこういった平穏な海で技能を磨く事にはおおいに賛成だし、それを見て自身のモチベーションを上げている面も多少なりとも存在している。
さらに言うなれば、自身のおかれている状況から平和な一般人にフォーカスを当てれば、自身のおかれている状況がいかに異常な物かという事を再認識する事ができるため、麻痺している感覚をいわゆる一般人の“正常”に近付ける訓練にもなっている。
むしろ一般人が言うところのいわゆる“普通”の感覚がマヒしている事から監が見ても、絶対的に必要な話にはなってくる事に他ならないと言って過言ではないと言っても問題ないのであるのだが。
そんなこんなで数日を過ごしていったのだが、ある日帰宅して郵便受けを開けると、エアメールの封筒が入っていた。
先の人質事件の際は急務だったために石塚が直接彼のアパートを訪ねる事になったのだが、普段は世界各地の代行者がエアメールを送り、そこに記された暗号文を解読して指定日時に指定された場所で合流している。
封筒ではなく中の手紙自体に封蝋をしてある事を除けば、暗号文とはいっても決まった法則で読めば解読は容易なもので、書いてあるままの日本語の文章で読んでみると、さもない内容の旅行先からの手紙になっている。
そのため、解読後はシュレッダーにかけたりする必要もなく、普通の可燃ごみとして処分したところで何ら問題ない。
というより何らかの事で彼に嫌疑がかかり当局の監視対象となった場合でも、ごみの中からこのエアメールを発見して捜査員が見たところで、交友関係者が旅先から送ったもので、捜査資料としての価値は無いと判断するだろう。
今回の文章から読み解くと
“3日後の夜9時に繁華街の路地裏の地下にあるショットバー・イリスで第三者を交えて密談。”
といった内容だった。
場所もさることながら第三者を交えるというのは異例と言える。
差出場所と印璽の刻印もあらかじめ決められた表と対応しているものであるし、封蝋に使われている蝋に石膏が混ぜられているのでブラックライトを当てると蛍光を発する様に細工してある。
特殊な封蝋ではあるが、石膏自体は何処にでもあるし、たとえ鑑識などが成分を見たところで“偶然混入したのだろう”としか思わないだろう。
そういう事まで考慮して準備している辺りは、旧ソ連に存在した情報機関で秘密警察でもあったKGBやアメリカの諜報機関で現行のCIA以上だと言えるかもしれない。
内容も気になる事は色々あるが、当日までは大人しく過ごす事にし、当日の昼間に一度下見に行った。
そして、一度部屋に戻ると、鍵に付けられた十得ナイフを研ぎなおし、コンビニで購入した500㏄のミネラルウォーターの角型ペットボトルの中身が八分目まで入った状態にし、手には速乾性の接着剤を塗ってドライヤーで乾かして、指紋などが付着しないようにし、ペットボトルを尻のポケットに忍ばせた。
そして、潜入作戦での変装の為に覚えた特殊メイクを施した顔にサングラスをかけ、帽子を被って顔を隠して家を出る。
日本という国は銃や刃物はもとより、いくら護身用として販売されていてもスタンガンや特殊警棒、果てまた催涙スプレーの様な非殺傷型の護身用品ですら持ち歩きに対して過敏な所がある。
実際問題、市販の催涙スプレーは大半が主成分にカプサイシンを用いたトウガラシスプレーとも呼ばれるもので、暴徒や野獣の制圧に対して絶大な威力を持つ一方で、たとえ目に直接噴射されても後遺症などが無い安全なものであるのだが、悪用する者も度々いる故に、警官に見つかれば携帯しているだけで取締の対象にされかねない。
一方で、刃渡り6㎝に満たない十得ナイフもポケットに入れていると場合によっては取締の対象とされる様だが、キーホルダーとしてベルトリングから吊るしていた場合は刃渡りが法定内か否かの確認だけで済むといった矛盾もある。
もっとも、十得ナイフの様に多機能小型ツールはレジャーで使う事は多いし、大半の物は刃渡りが5㎝にも満たない他、キーホルダーになっている。
さらに、百円ショップでも相当数が販売されている他、殺傷能力はかなり低い為、それを全て取り締まり対象とする事は法的な問題だけでなく社会通念上不可能な話でもあるからなのだ。
実際問題、職業軍人やスパイでもその様な短い折り畳みナイフでの殺しは不意打ちでもなければ不可能に近いと言って過言ではない。
刃渡りが短い為に致命傷を与える事が困難である事もあるが、折り畳み式ナイフは構造上刃が薄く、本体と柄が繋がっていないため簡単に曲がったり折れたりしてしまうため、在りかが解れば間合いも狭く脅威にはならないと言える。
もっとも、利三の身体能力や受けてきた訓練をもってすればそんな物でもそれなりに使えるが。
ただ、それでも間合いの問題はあるため、水の入ったペットボトルは必要だ。
ぱっと見はただの水が入ったペットボトルである為、隠し持っていて見つかった所でどうこう言われる事も無いし、何処にでも転がっている何の変哲もない物だ。
だが、これが意外と強力な武器になる。
満水状態では、所詮はただの水入りペットボトルなのだが、八分目程度に水が入ったペットボトルは振り回した際に、遠心力で水が集まってハンマーの様になり、早く振り回せる他、質量がある事で相手を怯ませて一瞬の隙を作る。
その隙に次の手を講じて暴漢から逃げる事は普通の人間でも可能だし、利三の様に特殊な訓練を受けている人間ともなると相手が仮に文化包丁で襲ってきても“水入りペットボトル”で刃を受けとめて奪い取り、石塚仕込みの徒手格闘で制圧する事さえ可能になる。
刃物を受けとめられるのは中に水が入っている事で密度が増し、抵抗が増える事で出来る芸当だ。
そのため普段からキーホルダーの十得ナイフはベルトに吊るしているし、深夜の繁華街の裏路地の様な場所に向かう時は水入りペットボトルを尻のポケットに忍ばせている。
警戒しながらとりあえずは時間通りにショットバーに入る。
昼の偵察ではシャッターが閉まっていた為に店内まで確認できなかったが、階段を下りていくとカウンター席と数席のテーブル席しか無い様な店で、店内は先客で賑わっていた。
「お客様、大変申し訳ないのですが、本日予約の方がおられまして、予約席を除きますと、只今満席となっております」
「そうですか。一応お伺いしておきますが、予約者の名前は九十九でしょうか? 」
「はい。お連れ様でいらっしゃいますか? 」
「まぁ。そんなところです」
「では、こちらに。九十九様は既にご到着されています」
そういって案内されたのはカウンターの奥に隔離され、出入り口の扉と注文用に設けられた開閉式の小窓を閉めると完全な密室になるV.I.P.ルームの様な所だった。
「九十九様。お連れ様がご来店いたしました」
マスターが声をかけると石塚が中から現れた。
「おう。よく来たな。とりあえずもう一人が来るまでしばらく待て」
席に座る様に促したのでそれに従う。
促されるままに座るのだが、人の真横に座らされるのは学校の三者面談の様であまり好きではない。
いくら先に到着していたとはいえ一人で水煙草とブランデーを楽しんでいる辺りはこれが目当てでここを指定したのかもしれない。
「予想通りサングラスと帽子で顔を隠したか」
「念のため、この下には例の特殊メイクもしていますし、接着剤で手のひらは覆ってありますよ」
「そうか、なら問題ない」
「どういう事です? 」
「今度の相手は公安ではないからな。同業者だが、広義で言えばヤクザやマフィアに限りなく近いし、サングラスで顔を隠していると信用できないとか言いかねないからサングラスは外しとけ」
「わかりました」
サングラスを外してジャケットの内ポケットにしまうと石塚がメニュー表を渡して好きなものを頼むように言ってくるのだが、なかなか種類が多く迷ってしまう。
こういう時の支払いは100%石塚持ちなので値段の問題は無いのだが、こういう店では何を飲むか非常に迷う。
とりあえずマスターにテキーラの事を尋ねると、メニューには載せていない珍しい銘柄が丁度入ったところで味を見るのに水割りで飲む事を勧められたのでそれを注文した。
普段ならストレートのものをショットグラスで一気に飲む為、残り香を味わうのだが、飲んでみると水割りも悪くない。
水割りのテキーラをちびちびと飲みながらリトルシガーを吸い、待つ事数分、マスターが再び人を連れてきたので、挨拶をするために二人で立ち上がる。
その男は物腰の柔らかそうな見た目の60代手前ぐらいに見える恰幅のいい男だった。
「はじめまして。君が石塚秀人の弟子の“ベルクト”君か?色々と噂は聞いているよ。ワシは“小田切おだぎり 渚なぎさ”という者でね。いわゆるブラックマーケットの商人みたいなものだが君達の様な仕事も請け負っている」
そう言いながら男は握手を求めてきたので応じるが、見た目に反して力強く、一瞬身構えてしまう。
こういう仕事をしていると握手するふりをして暗殺対象を油断させ暗殺を決行する事もあったため逆に自身が狙われた際の事を考え過剰反応してしまう。
「君の手はずいぶん荒れている様だね。接着剤塗れだし、来る前に模型でも作っていたのかな? 」
やはり相手もプロだ。
笑いながら冗談めかしているが、握手しただけで手に接着剤を塗って指紋が付かないようにしている事を見越してくる。
「まぁ。そんなところですね」
平静を装ってはみたが、小田切と名乗ったこの男は全てお見通しと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべている。
そして、席に着くと小窓を開けてマスターを呼んだ。
「マスター。コニャックのストレートをダブルで、あとキューバ産のプレミアムシガーをフラットカットで頼む。」
「葉巻の火はこちらでお点けしますか? 」
「そうして頂けるとありがたい」
ものの数分程度だろうか、マスターがコニャックの入ったグラスに葉巻用の灰皿と葉巻のセットを持って現れる、
マスターはテーブルにグラスと灰皿を置くとポケットからシガーカッターとライターを取り出して、手際良くラッパーをカットし、着火して小田切に手渡す。
渡された葉巻を一口吸うとコニャックを口にする。
利三の様にそれなりのスキルを持った相手を前にして尚、この余裕があるのはそれなりに修羅場を経験してきたからなのだろう。
葉巻とコニャックで一息つくと、カバンから最新型のタブレット端末を取り出して唐突に話を切りだした。
「今回の話だが、まずはコイツを見ていただこう」
そういうと、端末上に4人の人物写真を表示させた。
「これらの人物に見覚えは? 」
「いいえ」
「では、この声に聞き覚えは? 」
そういうと音声ファイルを開いたのだが、その声に聞き覚えがあるか否かを聞かれると、非常に答えづらい。
思い出そうと考えを巡らせていると、小田切はこちらの表情を見て、何やら音声解析ソフトを起動させ、再生しなおした。
するとどうだろう。
先日の立て篭もり事件で聞いた犯行グループのリーダー格と思しき男の声とかなり似通っていた。
あれだけの目に遭わされたのだ、あの時聞いた声は忘れたくても忘れるはずが無い。
「一体どういう事で? 」
「元の音声ファイルから、一般的なトランシーバーのマイクで拾える周波数帯の物だけを抽出して再生したものだが、こちらは聞き覚えがある様だね?」
「まぁ、そういう事になりますが、これをどこで? 」
「この声の主は先ほど見せた写真の中の人物の一人で、表向きは労働問題専門の弁護士をしている」
「表向きと言うからには別の顔がありそうですね…」
「警察はまだ掴めていないが、彼はブラックマーケットに出入りしていた様でね。それと、彼は過去に弁護した人間と未だに連絡を取り合っている様だが、その中には元軍人や元傭兵も含まれている。そして、この間の事件を引き起こした張本人でもある様だ」
「つまり“黒幕”って事ですか? 」
「恐らくは」
そう言いながら再び小田切はタブレット端末の画面を切り替えてその男の写真を表示する。
「それで、今回の要件は? 」
「この男が先ほどの声の主で、名を“長谷川はせがわ 竜太郎りゅうたろう”という。今回の依頼だが、この画像の男達の裏の顔を白日のもとに曝す事への協力要請といったところだ」
「小田切さんのところでそこまで突き止めたのなら、その情報をリークすれば放っておいてもそのうち警察が逮捕するのでは? 」
「それがそうも言っていられない状況でね。その男達は再び同じ様な事をやろうと画策しているらしい」
やはり、前回の事件は序章に過ぎなかったということか。
だが、前回の一件では、要求は無かったし、結果的に起こった事と言えば、世論が変化し、悪徳企業や監督省庁に対するバッシングと大臣の更迭、そういった悪徳企業の商材の積極的なボイコット運動、大弁護士団による度重なる告訴と訴訟が起こったことで、悪徳企業が損をする風潮が広がった。
そして、関係団体からの要請もあり、沈静化を謀った政府が監督省庁に指導対象としていた企業と訴訟案件が過去にあった企業の公表と今回の事件で表沙汰になった問題企業への実態調査に踏み切ったのだが、それらは決して犯行グループにとって直接の利益になる様な事では無かった。
強いて言うならば標的とされた企業は計り知れない損害を受けた他、役員達はおろか管理職に至るまで全員起訴されて廃業に追い込まれた事で怨恨による復讐という事態が起こったと言うのなら理解できなくはないが、廃業に追い込んだ側の人間が第二の犯行を企てていると言う事であれば、話は変わってくる。
どう考えても利益が無い事をしているし、わざわざ法を犯してまでやる意味が解らないからだ。
だが、先の一件でこちらも傷だらけにされた事で犯行グループに対しては心穏やかではないため、依頼を引き受ける事にした。
「後で詳細データは送るが一応、他の3人の名前を教えておく」
そういうと小田切はタブレット端末の画面表示を最大にしてそれぞれの写真を指さしながら説明を始めた。
「リーダー格の“長谷川 竜太郎”は先ほど説明したから省くとして、まずは、この眼鏡の男が“佐藤さとう 明あきら”で官庁に対するデータのクラッキングで前科がある。それからコイツが“中山なかやま 健けん”で、元は優秀なコンピューターエンジニアだったらしいが、自作したコンピューターウイルスをばら撒いた前科がある。最後のコイツが“有村ありむら正ただし”だ。恐らくは一番厄介でな、二重国籍で元は米軍海兵隊から米国サイバー軍に転属した経歴がある。幹部二人が前科持ちではあるが、長谷川の弁護で相当減刑されて最終的に“執行猶予判決”になって実際に刑務所には入っていない。とりあえず作戦の話をするとしよう」
今回小田切の提示した作戦は簡単にいうと以下の様になる。
・まずは買収して二重スパイに仕立て上げた人物を数名、依頼者として長谷川のもとに送り込み、小田切の商売敵の法令違反やその秘匿情報を流して企業犯罪を長谷川に認知させた後に、小田切の傘下で動いている私立探偵による幹部メンバーの行動監視を個別に行う。
・そして、ブラックマーケットでの武器弾薬の調達の証拠を固める。
・行動を起こそうとした当日に長距離からの狙撃で車のタイヤを破壊し計画の変更を行わせる。
・再度、計画に移った場合も何らかの妨害工作を行い、こちらの存在に気付いては業を煮やして大胆な行動に移るまでは繰り返す。
・大胆な行動に出た場合も極力生け捕りにする様に減装弾を使用し、確保を前提に配慮した反撃に留める。
・ギリギリまで弱らせ最後は警察隊が到着次第引き上げる。
どうやら“別件逮捕”によって別の犯罪を暴きだすという作戦になる様だ。
ただ、利三としてみれば狙撃や減装弾を使った作戦というのは、警官隊の仕事で自分たちの様な汚れ仕事の人間にはあまり馴染まない。
と、いうより“裏稼業”の世界では常々殺るか殺られるかといった仕事になるので言ってしまえば“殺らなければ殺られる”環境であり手加減をすればそこで殺られてしまうのである。
とはいえ、第二、第三の事件が起きる前に止められるのならばそれに越したことは無い。
何にせよ今は小田切の策に乗ってみる方が良さそうではある。
「成功を祈る」
一通り説明を終え端末を回収すると、小田切はグラスを持ち上げそう言った。
こちらもグラスを持ち上げて返礼する。
「とりあえず後で詳しい情報は送るから大まかにそれに従って動いてくれ。細かいところはそちらに任せるが。あと、ここの支払いはワシに任せてくれるか?一応は依頼主という立場になる以上はそのくらいはしても問題ないだろう」
「こちらとしてはお言葉に甘えさせていただきますが、ベルクトの装備品はこちらで決めさせて頂いて構いませんね? 」
「あぁ。問題無い。必要とあればブラックマーケットの商人の意地でどんなものでも用意する」
「では。お願いします」
そう言うと石塚がグラスを空にして立ち上がったので慌てて一気に中身を飲み干し後に続いた。
店を後にして表通りに出ると、そこには“迎車”表示のタクシーが待ち構えており、乗る様に促される。
どうやら石塚がいつの間にか手配していたらしい。
そして、そのまま自宅付近の路地裏で降車して石塚と別れ、次の連絡を待った。
詳しい事はタクシーの中で渡されたスマートホンに転送される他、必用な連絡はそこに繋がる様に設定してあるらしい。
どういう事になろうとも連絡は翌朝以降になる筈なので、とにかくシャワーを浴びて寝る事にした。
そして翌朝、渡されたスマートホンの着信音で起こされる。
画面を見ると石塚からの着信で、何事かと思い通話を受ける。
「起きたか?どうやら小田切の予想外の事が起きた様だ!とにかくすぐに準備してアジトに来い!」
用件だけ伝えると、こちらの話など聞く事無く通話は切れた。
とにかく、何か不測の事態が起きた事に変わりは無いので急いで身支度を整えてバイクに跨りアジトに向かう。
しばらくこういう仕事をしてきているのだが、先の人質事件もそうだし、今回の件にしてもこういう事は初めてだ。
それだけネフィリムという組織の行動は破天荒極まりない。
公安組織の手に負えない事例は今までもいくらかはあったのだが、こちらが依頼された内容の任務さえ遂行すれば最終的には解決してきた。
森江 利三という一個人の挙げた成果やその存在が表に出る事は無いし、最終的な手柄は全て表側の公安組織に奪われてしまうがそんな事はどうでもよかった。
彼自身、表に出て注目される事は望んでいないし、この世界に足を踏み入れた時には失うものは何も無かったし、新たに欲する事も無い。
唯一、彼が望むのは彼自身を作り出した世の中に蔓延る悪に対して、自身の正義の鉄槌を下す事だけ。
言ってしまえば“私恨の念”の他に理由などは存在せず、その為だけにこの仕事をして自身の存在の証明をしているに他ならない。
とにかく、なにが起きたのか全く想像出来ないのだが、先を急いだ。
そして、アジトに到着するなり、飛び込むようにドアを開けた。
そこでは石塚が様々な機器を操作し、忙しなく動いていた。
「一体、何が起きたのですか!」
現在何が起きているのかという疑問の言葉が開口一番に口をついて出た。
「どうやら連中が動きを見せた様でな。前々からメディアに叩かれていた所が何ヵ所も早朝から続けざまにサイバー攻撃を受けてデータが流出している。しかも、今回はサイバー攻撃のみで、前回の様に人質を取ったりしていない」
「それって、自分たちの管轄外というかネットワーク上の事はサイバー部隊にでも任せとけばいいのでは?」
「いや、それがそういうわけにもいかなそうでな。単なる偶然やも知れんが、どうやらサイバー攻撃と連動してそこの重役共が次々と交通事故を起こしてる様でな。そこらじゅうで大騒ぎだ」
「“事故を起こした”って事は加害車両に乗っていたって事ですか?重役ともなれば運転手が付いている事も多いですけど、そういう運転手って秘書と兼任してる事が多い分、そうそう変わるものではないですから、常識的に考えて事故を起こす事は少ないのでは? 」
「まぁ。一応のところ中央分離帯に突っ込んだとかそういう類の物損事故だけで死者は出ていないと聞いている」
「なら、単なる偶然なのでは? 」
「だといいんだがね。サイバー攻撃の犯行声明が出ている以上は、またいつ何が起きても不思議じゃなさそうだ」
「じゃあ。何かあったらすぐに出られるように召集かかったという事ですか? 」
「そうなるな」
とはいえ、何か嫌な予感がしている。
それは経験から来るものなのか、それとも他の事が原因なのかは一切不明であるが、とにかく拭えないものである。
石塚が様々な方法で情報収集を試みているが、ネットワーク上の情報流出や糾弾する声明が出てくるだけで、前回の様な行動は現状起こっていない。
正直、こちらとしては前回の様に暴れられた方が目に見えるだけ動き易い。
このアジトのサイバー攻撃対策は攻撃を受けたとしてもその瞬間にコンピューターに取り付けられた爆薬が起動して自爆し、物理的にシャットアウトさせるというかなり極端なものになっている。
その為、使用時意外はハードディスクユニットを取り外しているし、ネットワークから独立した機械を使って複数のユニットを並列化してバックアップを常時行っている。
もっとも、複数のサーバーを経由しないとこのアジトのコンピューターには辿りつけない為、こちらはそう簡単にサイバー攻撃を受ける事はあり得ない。
―――アジトに着いてからどのくらい時間が経っただろう。―――
石塚の持つ様々な情報網を駆使しても入ってくる情報は全てサイバー攻撃の情報だけであり、先の人質事件の様な行動は一向に見られない。
それどころかこれらの情報流出で金融市場は大混乱となり多くの投資家が多大な損害を受けた他、付随する形で円相場も急激に悪化していった。
これは、下手なテロよりもタチが悪い。
宗教勢力の過激派武装集団による爆破テロなどは被害が目に見えるものであるし、その効果は限定的と言えるのだが、金融市場に対する打撃は下手をすれば世界規模に波及する。
―――サイバーテロ―――
そう表現した方が相応しいかもしれない。
たった数時間で国内はおろか海外に至るまで波及する攻撃を行ったあたり小田切から情報の上がった4人だけで起こした行動ではない事は間違いない。
もし、これがネフィリムの本当の目的だとしたら?
その為に世論を動かす必要があったのだとしたら?
あの時の犯行声明に書かれていた[腐った文明社会を浄化するための聖戦]というのがこのサイバーテロを示唆していたのだとしたら?
そう考えると全て合点がいく。
だが、誰一人その事に気付かずこの結果を招いてしまった。
とにかく利三としては今すぐにでもネフィリムの本拠地を叩いてこれ以上の被害を食い止めにかかりたい。
その一心で、気付くとキーハンガーからガンロッカーや大型銃火器の収納されている部屋の鍵などを手にしていた。
「まだ、連中の拠点が不明なのに武装してどうする? 」
石塚の一言で我に返った。
確かに石塚の言う通りに他ならない。
怒りの感情に任せて武器を手にしたところで敵の所在が不明である以上それは全く意味をなさない。
「確かにそうですね。とりあえず落ち着きたいので、近接戦武器の点検だけしますけど、構いませんよね? 」
「それは構わないが、分解はするなよ」
「わかってます」
そう言うと刀剣類の保管されている部屋の二重扉のロックを解除して入り、刀剣の選別していく。
この部屋には槍や薙刀、長巻に大太刀といった近代戦では文字通りに“無用の長物”と言える物から銃剣やサバイバルナイフといった近代的な物、果てまた短刀を改造して製作されたトレンチナイフとかナックルブレードと呼ばれる類の物に至るまでの刃物は一通り保管されている他、砥石や打粉といった整備道具も一級品を揃えている。
とりあえずはどんな状況でも使えそうな物を適当に選んで持ち出す。
そして、作業台として置かれている広いテーブルに置くと、鞘から抜いて刃の状態を確認する。
利三は元々、刃物が好きで趣味でナイフの収集や刀剣の展示会にも度々足を運んでいる。
その趣味が高じて、自宅で使っている刃物の研ぎ直しなどを日頃から行っており、独学で覚えたと言ってもその腕は下手な金物屋や刃物店の職人に匹敵するレベルであり、100円ショップの包丁が高級包丁に勝る程の切れ味に変わってしまう程だ。
それほどの腕ならこんな裏稼業をするよりも、そういった類の店で働いた方が良さそうだが、ほとんどの物が使い捨てにされる現代社会ではほとんど需要が無い。
むしろ、そういう仕事をしているのは伝統工芸レベルの職人を除くとほとんど存在しないのだが。
定期的に手入れを行っている為に錆や刃毀れといった類のものは無く、当然の事ながら今すぐにでも使える状態にある。
一通り点検を終えると元通りに収納した。
部屋を出ると石塚が近寄ってきた。
「コンビニ弁当で構わないからこれで二人分の適当な昼食と夕食をまとめて買ってきてくれ。釣銭はいらん」
そう言いながら石塚は裸の現金を渡してくる。
「飲み物はいつものお茶で大丈夫ですか? 」
「ああ。あと、スナックバーも忘れるなよ」
「了解です」
彼が点検をしている間に石塚は情報収集を引き続き行っていたのだが、相変わらずといった具合で変化が無かった様で、長期戦になる事は間違いなかった。
実際の戦闘にならないこの状況にあっては利三も得物の点検を済ませた以上、その場で待機していることくらいしかやる事が無い。
とりあえず、受け取った現金を財布にしまい、乗ってきたバイクで最寄りのコンビニに向かった。
そして、適当に買い物を済ませると再びアジトに戻った。
アジトに戻り買ってきた物を渡すと、石塚はすぐに電子レンジで温め始める。
どうやら腹が減っていた様だ。
自分の分を取り出して残りを冷蔵庫に入れる。
冷蔵庫とはいっても食料品や飲料水の類は普段は入れられておらず、基本的には薬品などの保管庫として使っているのであるが。
基本的に長時間使う事の無いこのアジトではあるが、上下水道が完備され、トイレは勿論の事、小型旅客機のギャレー程度の設備は整っている。
もっとも、その設備が普段使われるのもほとんどが武器の整備関連かせいぜい湯沸かし程度なのだが。
とにかく、長期戦になるという事であれば、間違いなくソファーで仮眠をとる事になるだろう。
利三にしてみれば個人的にこういう長期戦は嫌いであるし、それ以上にこういう問題はとっとと片づけてしまいたい。
少なくとも小田切からもたらされた情報が真実であるなら犯人の顔は割れているので、所在さえ掴めばこんな事はすぐにカタが付く。
だがしかし、それが何故か出来ない。
実際問題、小田切の方でもありとあらゆるツテや情報網を駆使して情報の収集に当たっていると連絡は受けているのだが、公安組織ですら掴めなかった主犯格4人を突きとめた小田切の情報網を持ってしても何処からサイバー攻撃が仕掛けられているのか突き止められずにいた。
複数のサーバーを複雑に経由していたとしても理論上は逆探知する事が可能であるのだが、今回の件では、それに加えて、第三者のパソコンを何重にも遠隔操作していたりするなど複雑極まりないらしい。
さらに、次から次にサイバー攻撃が行われたのならなおの事、特定が困難になる。
―――そんな中、情報収集の為に電源を入れていたテレビ画面が突然切り替わった。―――
画面に映し出されているのはアナウンサーや著名な学者などではない。
コンピューターグラフィクスで作られた人物で音声合成ソフトを用いて作られたであろう声で淡々と話を始めた。
どうやら今度は電波ジャックを始めた様でスマートホンに内蔵されていたテレビで様々なチャンネルを確認していくのだが、全てのチャンネルで同じ映像が流れている。
さらに、小田切から再びもたらされた情報によるとキー局や衛星放送はもとより、地方のローカル局や街頭ビジョン、インターネット放送局や極小規模のラジオ局に至るまで徹底的に乗っ取られている様で、合成された音声は同じセリフを常に繰り返している。
「我々は“ネフィリム”天より下りし巨人なり。今ここに金の亡者と化し、悪行を繰り返す守銭奴とその手駒に裁きを与える。今、画面に映し出しているこれらは我々が正義である事の証明である」
そして、画面にはサイバー攻撃を受けた企業の行った企業犯罪とその証拠、違反している法令の羅列された文章がコンピューターグラフィクスで作られた人物の上を通る形で、次々とスクロールされて映し出されていた。
電波ジャックされているのでテレビの中継で街中の反応を確認する事は出来ないし、この状況では恐らく街中はパニック状態であるだろうから下手に外に出るのは危険極まりない。
とにかく、今はいつでも動けるようにして小田切からの情報と石塚の指示に従うしかない。
だが、頭ではそう理解できていても、気持は焦る一方だ。
それを察したのか、石塚は彼に地下の訓練場へ行くように勧めてきた。
―――地下訓練場―――
そこは石塚が作った訓練施設で石塚自身が銃器の試射を行っている場所であると同時に、利三も定期的に訓練を行っている場所である。
地下に作られているものの、その広さはなかなかのもので、一般的な体育館程度はある。
そこは鉄筋コンクリートの壁で半分に仕切られており片側が射撃レーンで残りが立体投影装置とセンサーを利用した戦闘訓練施設と格技場になっている他、洗濯乾燥機とユニットバスが申し訳程度に取り付けられている。
戦闘訓練施設では立体投影装置を利用した仮想空間での戦闘訓練が可能であるし、格技場には稽古で使う道着や防具、竹刀や木刀、刃引きの刀剣類はもとより、真剣や投げナイフ等の刃物類に加えて大量の巻藁が用意されている。
靴を脱いで一段高くなっている格技場に上がり板張りの床に巻藁を並べる。
そして、真剣が保管されているロッカーの鍵を開け、そこに並べられた真剣の中から適当な物を一振り選び手にする。
訓練用とはいっても、その切れ味は折り紙付きのもので、刀身の触り方を間違えると指の2、3本は簡単に飛ばされてしまうだろう。
剣道や居合道といった武道では道場内は基本的に裸足が原則で稽古の際は道着に着替えて道具を身に着けるのだが、実戦に近い形での斬り込み訓練を行う為に道着には着替えず、靴だけ実戦訓練用の上履きに履き替えると真剣はベルトに差して抜刀し、並べた巻藁を次々に斬り倒していく。
そして、感覚を掴むと今度は切れ端を蹴り上げて、それを空中で斬る。
彼の振るう真剣で斬られたそれは宙を舞いながらさらに斬られていき、最終的に細かな藁の残骸と化していた。
用意した巻藁を一通り廃棄物に変えると刀を鞘に納めてロッカーにしまう。
そして、その廃棄物と化した巻藁を片づけて、その場の清掃を済ませると、今度は隣の戦闘訓練施設に向かう。
この訓練施設は立体投影装置を用いて様々なプログラムの仮想空間をランダムに作り出すもので着弾、被弾などの判定は張り巡らされたセンサーによって行われ、一発でも被弾判定を受ければ即終了となるいわゆるサドンデス形式をとっている。
ここでの訓練は真剣や実銃ではなく、刃引きの刀や発火式モデルガンを使う。
見た目や材質はかなりいい加減で玩具にしか見えない様な作りではあるものの、形と重量バランスや激発時の反動等は本物と全く変わらない。
見た目がかなり粗雑なせいか不明なのだが、使用するヘッドギアに火薬式のダミーカート、詰め替え用の火薬等は湿気などで火薬が使い物にならなくなる事を防ぐ目的もあって、専用の保管庫に収納されているが、それ以外のものは扱いが雑になっており、拳銃や銃剣、サバイバルナイフの類はビールケースの様な箱に無造作に入れられているし、小銃や刀などある程度の長さがある物は傘立ての様な入れ物に無造作に収納されている。
とりあえずメインコンピューターの電源を入れ起動完了までの時間を使ってモデルガンのマガジンにダミーカートを装填する。
粗雑な見た目のモデルガンとはいえ、仕組みこそ実銃と大差が無いと言って過言ではない。
特にマガジンは実銃でもその内部構造は単純で言ってしまえば弾薬を込めたケースに弾薬を送り出す為のバネやゼンマイが組み込まれただけの物に過ぎない事から仕組みは改変しようが無い。
ただ、装填するダミーカートは実物とは異なっている為にスピードローダー等は使えないのだが。
そのため、ダミーカートを装填していくのは非常に骨が折れる作業である。
とりあえずは作業しながら時折、機械のつまみやスイッチなどを操作し準備を続けた。
そしてヘッドギアに電源を入れて本体との同期を無線通信で行う。
同期がとれた事を確認し、ヘッドギアを被った。
そして、模造刀をベルトに差し、銃剣付きの自動小銃にサプレッサー付きのマシンピストルのモデルガンを2丁手にして訓練場に入る。
防音扉を閉めてヘッドギアのバイザーを下すとそこにはかなりリアルな光景が広がっていた。
何度も使った事のある施設ではあるが、やはりこのグラフィックとリアルさには驚かされる。
コンピューターが作り出した仮想空間であるため、最初にバイザーには作戦内容とクリア条件、現在置かれている状況が表示される。
今回はテロリストに占拠された街中が戦場となり、ターゲットの殲滅が主な任務である様だ。
この部屋の床はどういう仕組みになっているのか不明であるが、床自体が全方位に稼働する為、前進しようが後退しようが、物理的に本人は一定の場所から動く事は無いのだが、バイザー越しに見る立体投影装置の作り出す仮想空間ではかなり移動している。
物影に隠れて様子を覗いながら前進し、警戒中のターゲットの死角から刀で一突きし、一撃で仕留める。
そして見つからない様に警戒しながら前進していく。
ヘッドギアからもたらされる視覚や聴覚の情報は人工的な物であるし、刺したり斬ったりといった感覚は無いのだが、銃の反動や床が動く事で非常にリアリティーがある。
その為どちらかというと、格闘訓練よりは動く相手に対する射撃訓練の方が向いているのかもしれないが。
とにかく、このまま訓練を続ける。
バイザーに映される映像では様々な場所からターゲットが現れては銃撃してくる。
実体は無いが見える壁を盾にして弾丸をかわし、反撃する。
次から次に現れるターゲットを倒しては進み、プログラムを遂行していく。
予備のマガジンは用意していないので一撃でターゲットを仕留める様にヘッドショットを心がけて攻撃する。
実際には空砲であり、銃口から弾丸は出ないためマズルフラッシュをセンサーが捉えて弾道をシミュレートして、命中判定が行われる。
そうやって訓練を行っていたのだが、被弾判定による終了ではなく、メインコンピューターから強制終了された。
バイザーを上げてコンピュータールームの窓を見るとそこには石塚が立っており、コンピューターのマイクを使い、ヘッドギアの通信機越しに話しかけてきた。
「小田切が持つ情報網と私の情報網を合わせて調査した結果、連中の居場所の特定に成功した。詳しい話があるから上に上がってくれ」
そう言い残すと石塚はすぐにその場をあとにする。
この混乱の中、ほんの数時間で居場所を突き止めたという辺り、石塚や小田切の情報網はそうとう優れているものだし、居場所が把握できたという事は少なからず状況が好転したと言えよう。
ただ、心配なのは前回の一件で連中と警察隊が衝突した際には警察隊は完全に面目丸潰れにされた事もあるわけで、ここで居場所が特定された事をリークした場合、それがどんな結果をもたらすかという事は想像に容易い。
名誉回復に向けて功を焦り、無謀な突入作戦や下手に追い詰めて自爆でもされたらそこでまた被害が発生する可能性すらある。
とにかく訓練で使っていた物を手早く片づけると、すぐにそのまま階段を上がる。
階段を上がり、もとの部屋に戻ると石塚はプロジェクターを起動させて色々と準備を行っていた。
「丁度今、準備が整った所だ。とりあえず、説明を始めるが問題無いな」
「もちろんです。自分はいつもの薬とお守りの葉巻さえあればいつでも出られますよ」
「ならばよし。だが、出るときはちゃんと食事を済ませてからだな」
そう言うと石塚は部屋の灯りを弱めプロジェクターに投影を始めた。
そこにはこのアジトの場所が青い点で示された地図が表示されていた。
このプロジェクターは石塚の手元の端末で操作され、同時に複数の情報が投影できる他、拡大や縮小、表示形式の変更も幅が広く、地図も地球儀の様な表示から三次元マップの様な表示方法まで様々だ。
「この数時間で色々と集めた情報によると、連中の前回の犯行は今回の件の第一段階だった様だ。それで、現時点で連中のメインコンピューターが存在しているとされるのはここから200km離れた山の中にあるこの赤い点が示す建物の様だが、その場所が非常に厄介でな。元々は企業の研究施設だった様だが十数年前に土地ごと個人に売却されている上、記録によると大規模な改修工事も行われている様だ。しかも、登記上の所有者は戸籍上だけの存在にも関わらず、他に違法行為は一切無く、確定申告などの手続きも毎年行っていた為に、現実に存在しない人間だという事は誰も把握出来なかった様だ」
「要するにそれだけの期間をかけて準備に当たっていたと? 」
「そう言う事になる。ただ、小田切からの情報で得た例の4人の経歴と比較すると、土地の売買や建物の改修に連中は関わる事は不可能であるから、元は別の人間がこの計画を立案したのだろう。
そう言うと例の4人の経歴がまとめられたデータが地図と同時に表示された。
「つまり、4人とは別に黒幕がいると? 」
「もしくは4人がその人物の意思を継いで犯行に及んだかといったとこだな」
「どっちみち、敵は4人では済まなさそうですね」
「そう言う事になる。この建物の内部に関する情報は皆無で、研究施設だった頃のデータも残されていないし、山奥ということもあって、人の出入りも把握出来ていない。」
「それじゃあどうにも出来ないのでは?単独で斬り込みかけるには無理がありそうですし」
「そこでだ。今回も“マールス”との協力戦になる」
「それ以前に警察は動かないのですか? 」
「あぁ。前回の件もあるしな。それに、恐らく警察もクラッキングを受けているのは間違いない以上下手な情報共有は危険だ。そういう事で小田切の案を軸に我々だけで突入作戦を行う。一応、インターポールにはこの作戦についての情報共有をアナログ回線での暗号通信で行っているから後始末は問題無い。」
「なるほど。と、なるとこの建物内の武器弾薬は片っ端から持ってく事になりますね」
「いや、お前さんの腕ならコイツで充分だろう? 」
そう言うと石塚は暗がりから軽機関銃を取り出した。
この分隊支援火器は通常は着剣用のラグ等は付いていないのだが、色々とカスタムが施されており、銃剣が取り付けられる様に着剣用のラグまで後付けされている。
ベルト給弾式のこの銃はマガジン式の物と違い、ベルトリンク同士を繋げば理論上は弾帯の長さの分だけ連射が可能である(もっともベルトリンクを収納するボックスの容量が200発という制限はあるのだが)。
個人的な意見としては銃身交換が非常に簡単であるし、下手に大容量マガジンの小銃を使うよりは弾帯を大量に身体に巻き付けて携行できるので大量に弾薬をばら撒けるこういう銃は独りで多数の人間を相手にするのには最適だと考えている。
ただ、極論を言ってしまうと、対戦車ロケット弾の使用もできる四連ランチャーを対人兵器として使用すれば大多数を一発で仕留められる事から、交換用の弾薬を持てるだけ持って人間戦車とでも形容した方がいいような装備でもすれば多勢に無勢といった状況でも、一応のところは問題無い。
だが、連射が効かないし、弾薬も嵩張るため携行可能な弾薬もあまり多いとは言えず、弾切れを起こせばデッドウエイトになりかねない短所がある。
とにかく今回の作戦では利三を中心にした突入部隊とアシスト部隊を編成し、奇襲をかけるという事になりそうだ。
しかし、本当に山奥の建物がネフィリムの本丸なのだろうか?
確かにこれだけの大規模なサイバーテロを行うには大規模なコンピューター設備が必要になる事は言うまでもないのだが、そこにいなくても操作する事は不可能ではない。
むしろ、場合によってはそこを物理的に破壊してトカゲの尻尾の様にする事も可能なのではないだろうか?
だが、そうだとしてもそこを攻略すればこれ以上のサイバーテロは防げるかもしれない。
対症療法と言っていいかもしれないが、現状で出来る事など他には無さそうである以上、やるしかないのだ。
アナログ回線での暗号通信でマールスと連絡を取り合い、合流する。
マールスの偵察部隊からの報告ではネフィリムの本丸と思しきその建物は高い塀で囲われ、ネットワーク回線以外は外部と完全に遮断され、ライフラインの類も全て自給自足している様だ。
つまり、奇襲とは言っても正面突破以外の選択肢は通常あり得ない。
だが、そうなると自爆を誘発するだけでなく、足止めを受けている間に更なる被害を生みだしかねないのだ。
とにかく、現地にも行かないでどうこうと言っていられる状態ではない。
状況が状況である為に、急いで食事を済ませるとトラックの荷台にありったけの武器と弾薬に加えて、コンテナにしまってあったオフロードバイクを引っ張り出して燃料を入れて積み込んだ。
そして、指定の合流ポイントでマールスと合流し、本丸と思しき建物に向かう事にした。
アジトを出ると予想通りと言った具合に外は大混乱の様相を呈しており、かなり労力を割かれた。
それはマールスも同じ事であった様で合流ポイントでしばらく待つ事になり結局合流できたのは明け方だった。
合流ポイントはいわゆるキャンプ場の様な所で、バンガローも並んでいてトラック数台が集結しても違和感が無い。
傍から見れば管理者がこの非常事態に際し、利用客の為にトラックで荷物を運んできた様にしか見えないだろう。
ついでにこの場所はネフィリムの建物よりも高い場所にある為、地の利がある。
確保していたバンガローで作戦会議が開かれた。
当初は正面突破しかないと踏んでいたが、到着するまでの間に偵察隊が掴んだ情報によると、ここから見えるエリアは目に見える様な形で人の行き来などの警戒はあまりされておらず、たまに人影が見えるだけになっている様だ。
恐らく、キャンプ場利用客がバードウォッチングなどで双眼鏡や望遠カメラなどを使った際に見えてしまう為、違和感を無くすための工作であろう。
人影があった事から考えて、地雷などは無さそうだがいくら人の行き来が少ないとは言っても監視カメラやセンサーの類はかなり強固に張り巡らされているであろう。
一般的なセンサーやカメラなどを無効化する為の電子戦装備はあるし、そのあたりは問題無いのだが、明るいうちでは目立つので、様々な形で偽装して監視を続けながら夜を待つ事になった。
その間にそれぞれで必要な装備の身支度に入る。
基本的な装備は前回とほぼ同じであるが、主武装を軽機関銃に変えた他、前回の屋内戦で最初こそ長尺の日本刀が真価を発揮できたが、狭い通路ではかえって邪魔になってしまった事もあったし今回は単独突入ではない為、大型火器や長尺の日本刀は置いていく事にした。
その代わり、予備弾のベルトリンクを4本身体に巻き付けた他、予備マガジンを前回より多く持って行く事にした。
―――日が沈み周囲を静寂が包み込む―――
運が良いのか、今日は偶然にも新月の様で空は晴れ渡り、夜襲には最適な環境だった。
ライト等は一切灯さず、暗視ゴーグルを頼りに前進していくと程なくして壁の下に辿り着いた。
集結ポイントに配置された狙撃部隊のスポットマンからの通信で人影が無い事を確認すると、各自でガス式の発射機を使い、壁の上部にアンカーを撃ち込んだ。
そして、ロープを伝って壁の上に登りきるとセンサーやカメラ類を用意した電子戦装備を駆使して探し、無効化させる。
問題無い事が判明すると巻き上げたロープを垂らし、手早く壁を下りると二手に別れてそのまま建物沿いに進み突入場所を探した。
混乱で警察が身動き出来ない事や夜間という事もあってか警戒が緩んでおり、難なく潜入に成功した。
潜入後はさらにそれぞれが二手に分かれ、計4チームでそれぞれ制圧に向かう。
元が研究施設という事があるからか建物内は非常に入り組んだ構造をしており、まるで迷路である。
各自ネックセットの無線機を使い、無線連絡を取り合いながらそれぞれの状況を確認するが、最初に仕留めた警戒要員以外のネフィリムのメンバーとはなかなか遭遇しない。
やはり、ここは本丸では無かったのか。
その様な疑念が頭を過る。
だが、しばらくすると様々な場所から銃声や爆発音が響き渡り、無線の向こう側から断末魔の様な叫び声が聞こえた。
(まさか!あの精鋭達がやられた!? )
考えたくはないのだが、状況柄そう判断せざるを得ない。
他のチームがやられたとしてもここは退く事は不可能だろう。
こうなった以上は、自分と行動しているメンバーで、何とかするしかない。
賭けではあるが、とにかく安全を確保する為に先へ進んだ。
そして、しばらく進むと無線に通信が入った。
「久しぶりだなBastard」
この声の主は忘れもしない。
間違いなく長谷川 竜太郎だ。
「お前は!?長谷川 竜太郎か?まさかあの精鋭を倒したのか? 」
「ほぉう?あれが精鋭とはね。しかし、そこまで辿りついていたのか?褒めてやるよ。それから安心しろ、誰一人、致命傷は与えていない」
「お前らの目的は何だ!? 」
「“正義の執行”それだけだ」
「テロリストが“正義”だと?笑わせるな!」
「ふっ。貴様とて“同じ穴の狢”ではないのかな?まぁいい。ここまで辿り着いた褒美にお仲間は全員解放してやろう。だが、貴様には独りで地下3階まで来てもらおうか」
そう告げると無線は途切れた。
とにかく長谷川の言う通り利三だけが狙いならマールスだけでも撤退させて、次のチャンスを狙った方が確実である為、行動を共にしていたメンバーに他のメンバーの救出と撤退を指示して単独で地下を目指した。
そして、地下1階に到達するとそこに二人の人影が見えた。
ネフィリムの人間である事は違いないし、少しでも戦力は削いでおく必要があるので、すぐに軽機関銃を構えて発砲する。
だが、中々当たらない。
アジトを出る前に一応試射していたし、石塚が調整した物であるから銃に問題は無い筈である。
「いきなり発砲とはご挨拶だなぁ」
「俺たちじゃなきゃとっくにお陀仏だ」
この声には聞き覚えが無い。
だが、その顔は小田切に見せられた写真の人物の“佐藤 明”と“中山 健”だった。
「佐藤 明に中山 健とはクラッカーコンビか?その動き、単なるクラッカーでは無さそうだな」
利三は銃を構えながら問いかける。
「名前と顔が知られているとは俺たちも有名人の仲間入りって感じかな?なぁケンケン」
「そうだね。まぁ執行猶予付いたとはいえ前科者だから知ってる人間は知ってるかもだけど」
当たっていないとはいえ大量の弾丸を浴びせられて尚この余裕である。
まるで弾丸の未来位置が予測できると言わんばかりだ。
いくらなんでも2対1というのは分が悪い。
とにかく体勢を立て直す為に、軽機関銃を撃ちながら一旦退き、柱を盾にする。
弾薬の残りも少ないため、身体に巻いていたベルトリンクを二本外して、残りの部分に繋ぐ。
その間にマシンガンの反撃を受けたが、幸い当たらずに済んだ。
(狙っても当たらないなら…)
“狙っても当たらない”その状況を打破する為に、利三は大博打に打って出た。
―――とにかく断続的に引き金を引き続けて狙わずに乱射する。―――
カタログ上は一分間に800発近い発射速度を誇るこの銃は400発少々の弾薬を使い切るのに時間は一分も要らなかった。
足下が空薬莢だらけになったが、乱射した銃弾が運良く二人を捉えた。
そして、怯んだところで一気に攻め込み銃剣の斬撃と銃底による打撃で追い打ちをかけて四肢を封じ、二人同時に戦闘不能状態にした。
関節を叩いて外し、腱を斬ったが、念のために結束バンドで拘束し、銃剣の切先を突き付けて問いかけた。
「お前らはなぜ奴に協力した?そして、奴の目的は何だ!」
「口が裂けても言えるかよ」
「殺すならとっとと殺せ。どうせ俺たちは死ぬんだからな」
「どういう事だ? 」
利三の問いかけに反応を見せる前に突然、二人とも苦しみ出しその場で事切れた。
「一体どうなっていやがる?関節外して筋を斬って行動不能にしたが、死ぬほどのダメージは与えていない筈だ…」
頭で考えてもその場の現実が変わるわけではないので、とにかく先に進む。
ベルトリンクを再装填して、警戒しながら先に進み、地下2階に到達すると再び人影に遭遇した。
先ほどの事もあったので、恐らくこの人物は残りの二人のうちのどちらかであろう。
今度は1対1のタイマン勝負であるため、先ほどよりマシだと言えそうだが、単独行動ができるという事は先の二人より戦闘能力がある可能性が高い為、気を引き締め、発砲体制を整えて問いかける。
「有村正か?それとも―――」
「あの場にいた長谷川や前科者の二人だけでなく、俺の名前まで把握できているとはなかなかやるな。まあいい、かかってこいよ。」
言うが早いか有村がベルトで肩から吊り下げて構えていたガトリングガンは次の瞬間に雄叫びを挙げて、その室内に弾丸が飛び交っていた。
ガトリングガンから止めどなく飛んでくる弾丸をかわしながら反撃をする形で応戦したため室内は大量の弾丸が飛び交っていた。
弾丸の発射速度や威力では有村のガトリングガンの方が大幅に上であるものの、電動式で複数の銃身を持つその特徴から初弾発射までの立ち上がりに若干のタイムラグがある事や本体とバッテリー、弾薬の重量が大きいために小回りが利かない事で利三も何とか対応できた。
だが、そのタイムラグを狙って撃ち返すのだが一向に被弾していない。
そうこうしているうちに、突入時は1,000発あった軽機関銃の5.56mm弾がついに尽きてしまい、デッドウエイトとなったが、それは相手を油断させる事に繋がったし、近接戦を得意とする利三には逆に好都合で、一瞬の隙を突いた着剣戦闘でガトリングガンの駆動部を破壊し、銃剣で両肩と脚を突き刺して行動不能に陥らせる事に成功した。
そして、身動きが取れなくなった有村の太腿に銃剣を突き立てて再び問いかけた。
「これは一体どういう事だ? 」
「…答える義理なんかない…ここで俺が殺られてもお前は必ず死ぬ…そして…俺たちの意思は…」
言葉の途中で苦しみだし、有村は最期の力を振り絞って腕を上げ、隠し持っていたデリンジャーを自らの頭に当て自決した。
それは一瞬の事であったし、腕をあげた時は最期の反撃だと考えて間合いを取ってしまった事が悔まれた。
だが、無線で地下3階まで来る様に言ってきた長谷川本人と遭遇していないという事は、長谷川は、テレビゲームのラスボスの様に待ち構えているだろう。
とにかく長谷川がこの場においては最後の敵となりそうなので、弾切れの軽機関銃から銃剣を外してその死体の衣服で血を拭き取ると鞘に収め、軽機関銃本体はデッドウエイトでしかないのでその場に投棄し、マシンピストルを両手に持ち先を急いだ。
そして、中枢部と思しき場所に到達すると不敵な笑みを浮かべた長谷川が立っていた。
その場の空気は独特で、今まで感じた事が無い不気味なものだった。
幹部を3人倒されてもなお、この余裕を見せているのは何か特異な能力を持っているか、単なるハッタリなのかは不明であるのだが、本当に不気味だ。
「長谷川竜太郎か」
銃を向けられているのに物怖じせず、武器を手にする素振りも見せないまま長谷川は答える。
「よくここまで辿り着いたなBastard。褒めてつかわそう。だが、その強運もここまでだ」
そう言うと長谷川は腕を上げ、どこからともなく不思議な輝きを放つ剣を取り出した。
とにかく状況が掴めないので、攻撃を受けない様にマシンピストルを乱射しながら間合いを保つ。
だが、何処から取り出したか不明な人の背丈程ある大剣を振りかざす長谷川は自身に向けて放たれる銃弾を次々に無効化してしまう。
その剣速は利三のそれを上回るかもしれない。
そんな長谷川に対して、銃を乱射するというその行為は尚更弾薬の無駄遣いに他ならず、予備のマガジンも次々と空になって弾薬も底を尽き始めた。
弾切れを起こしたその刹那、一気に間合いを詰められ危険な状況に陥ったのだが、弾切れの銃など邪魔でしかないので、投げつけて回避し、代わりに短刀を抜いた。
間合いや一撃での威力は一般的な日本刀のそれに劣るのが、短刀の二刀流の方が素早く多くの攻撃を繰り出せる利点がある。
幾度となく二人の刃がぶつかっては刀身が火花を散らした。
それでもなお長谷川の剣は折れる事無く健在で不気味な輝きを放っていた。
薄暗い地下の空間に金属が打ち合う甲高い音が幾度となく響き渡り、その火花が二人の顔を照らし出していた。
激しい打ち合いによって利三の刀は徐々に消耗し、刃毀れを起こし始めていた。
そして、何度目の打ち合いになっただろうか。
ついに両手の短刀が折れてしまい、とっさに抜いた銃剣も大剣相手に片手では簡単に弾かれてしまった。
(殺られる…)
そう思った瞬間、利三の肉体から眩い光が発せられ長谷川も予想外の事態に怯む。
その光と共に二振りの太刀が現れ、彼の手に納まると同時に頭の中に謎声が響き渡りこう告げた。
「選バレシ者ヨ、我ノ与エシ真まことナル“力”ヲ今ココニ覚醒めざめサセン」
全く意味が解らなかった…。
だが、それは彼の記憶から消されていたミズチが彼に与えた力に他ならず、その太刀は伝承にあるミズチの牙から作られたものが時空を超えてこの場に具現化したものだった。
「何なんだこれは…。まさか貴様も“魔剣”を手にしたと言うのか? 」
光に動揺した長谷川の方から間合いを広く取ったので何とか窮地は凌いだが、この二振りの太刀は一体どこから現れたのだろう。
「魔剣?一体何の事だ? 」
「そっちがようやく本気を出したというのならこの“グラディウス・レフェレンダリウス”の真価が問われる時が来たか…」
そう言うと長谷川は一瞬にして姿を変えると同時にその剣は先ほどと異なり禍々しい光を放ちだした。
その剣が放つ禍々しい光は長谷川自身を包み込みその見た目はまるで空想上の悪魔か魔物がこの世に姿を現わしたかのような様相で、おぞましい一方で不気味ではあるが美しさも兼ね備えていた。
―――“グラディウス・レフェレンダリウス”―――
ラテン語で“審判の剣”名の持つ“魔剣”を長谷川が手にしたのは些細な事がきっかけだった。
―――今から遡る事十数年―――。
長谷川がまだ弁護士となる以前、ネフィリムという組織を立ち上げるよりも前の話になる。
利三が偶然やった様に長谷川もまた“この世界の者ではない者”即ち神や悪魔、妖の類を召喚する事に成功していた。
ただ、長谷川の場合は利三の様に偶然、儀式を完成させたというわけではない。
元々、長谷川という男は大学院で考古学研究を行っていた。
その研究の中で当時は誰もが単なる御伽噺とか、言い伝え程度で研究の価値が無い物としていた伝承に心を奪われて、まるで何かに憑かれたかの如き様相でその伝承を解析していた。
―――その伝承とは―――
“古代文明では神や悪魔などがこの世に現界し、神々が人々に善たる行いを示し、その一方でそれに背いた悪行を行った人間を悪魔が始末する事で人々は平和な暮らしを送る事が出来ていた。
しかし、神の一族の中に反逆者が現れ、悪魔の力を宿した剣を授けた。
そして、その剣によって人間は自分たちを裁く事を命じられ、神々の行いである善行に背いた者をその剣によって次々と粛清していった。
それにより他の神々と悪魔の一族の怒りに触れ、人間達は神からも悪魔からも見放されてしまい、自らの意思で善悪の始末を付ける事になっていった。
その剣は神職となった者に代々受け継がれ、神職者とその師弟によって善悪の判断を行い、神から与えられたその剣で裁きを下す裁判が行われていた。
しかし、その剣の持つ力は絶大で持つ者を神にも悪魔にも変える程であった為に、神職ではない者が力を求めてその剣を狙い、動乱の時代が訪れてしまったという。
その為、剣を持った神職者達はそれ以上の騒乱を防ぐ為に剣の封印を決め、その剣の力で一度全てをやり直す事にしたそうだ。
そして、剣の封印と共にその古代文明は崩壊し、全てが無かった事になっていった。
その剣の封印は悪行を行う物たちを裁く意思を持つ者以外には解けず、また、その剣が必要とされない為に人々は宗教などの様々な方法で悪を封じ込めて来た。”
という口伝で語られてきた伝承で、古代文明の存在した場所や剣の封印されている場所などは一切伝えられておらず、それこそ誰かの作った寓話か御伽噺の様な物としか捉えられない内容だった。
だが、長谷川はこの伝承の語られている地域が複数存在した事。
また、神話や宗教の教えの中に神々から何らかの物を与えられたという記述が必ずと言って良いほどに存在している事、そしてそれと並行して文献に残されている古代の審判等の記述を元に独自の目線で解釈を行い、様々な研究を行い、数年の時を得てついにはその古代文明が存在したとされる場所を突き止める事に成功した。
だが、それは同時に考古学界を揺るがす大発見と言える物で、神話に出てくる神々やバベルの塔の存在までも肯定する事になる他、世界中の宗教を全て否定し世界を混乱に陥れる可能性さえあり得る様な物でもあった。
それ故に発掘調査は長谷川と数名の人間だけで極秘で行いその伝承にある剣の発見まで全てを隠蔽する事となった。
そして、発掘チームとして集められたのが長谷川 竜太郎、佐藤 明、中山 健、有村 正の四名で後に【ネフィリム】の幹部となる者たちだった。
極秘の発掘調査故にこの四人が集められたと言っていいのかもしれない。
そして、発掘調査では数カ月がかりであったものの、剣以外の様々な遺物が出土し、それだけでもかなりの成果があったのだが、剣を見つけなければ、それはまだ調査の過程でしか無く、調査は難航していた事に他ならない。
だが、調査の過程で発掘された遺物にあった石板と立体パズルの様な物が事態を好転させた。
そこに記されていた幾何学模様の配列を見ていた佐藤と中山が偶然にもその配列が二進法に基づいたものである事に気付き、他の遺物の幾何学模様も同じ様にして解読していき、石板に記された物を解読する事に成功した。
どうやら石板が遺跡の地図となっていたらしい。
そして、その地図の通りに発掘調査を行うと、神殿跡が判明した。
その場所を大規模に掘り起こすと地図にあった通り巨大な神殿跡がそこに存在していた。
そこは人工的に形成した様な立方体の岩が積まれていて、そこの中心は円の中に不思議な幾何学模様が施され、ギリシャのパルテノン神殿やエジプトのピラミッド、古代マヤやアステカの遺跡を全て合成した様な謎に満ちた物だったのだが、その内部は祭壇があるわけでもなければ床に幾何学模様が羅列され、祭壇のあるべき場所には直径2mに満たない円が描かれ、その中心に謎のくぼみが開けられていただけであった。
しかし、中山が偶然落とした立体パズルの様な物がそのくぼみに嵌まると、突然地響きが鳴り、円の部分が一気に沈降していく。
円盤と共に長谷川たちは地下に向かって吸い込まれていく。
ある程度落ちるとその円盤はスピードを落として安定し、ついには地下の空洞で停止した。
現状が全く不明なので、持っていたライトで中を照らすと奥に続いており、周囲を見渡すと鏡が設置されていたので、円盤の様な足場から降り。試しに穴から差し込む太陽光を鏡に反射させてみると、その光が複数の鏡に反射して地下の空洞の全貌を映しだした。
そこは地下神殿とでも呼んで差し支えない人工的な構造物で、数千年も前に造られたとは到底思えない。
まるで最近造られたかの様な様相で遺跡の一角とは到底思えないものだった。
「おい!あれを見ろ!」
突然、有村が叫んだ。
その指差す先に一同が目を向けるとそこには台座に刺さった一本の剣があり、格子で囲われていた。
それを見て一同は足下を確認しながらそこに向かった。
そこは何千年も人間が踏み込んでいない場所でありながらまるでつい最近造られたかの様な佇まいを呈していた。
足下を確認しながら剣が刺さった台座を目指す。
先ほどの仕掛けはもとより、今まで人が踏み入れた形跡が無い以上、人の侵入を防ぐトラップや何かの仕掛けがある事もあり得る為に数十メートル進むだけでもかなり慎重になってしまう。
一般的な成人の歩行速度はおおよそ分速80mだと言われているが、ここではその速度で歩く事はかなり危険であろう。
万が一に用心しながら前進していくが、その心配はまるで不要であったかのように何事も無く、台座の前に到達した。
台座を囲っている格子は不思議なもので、意を決した長谷川が触れてみると、その感触は金属や鉱物特有のそれではなかったし、かといっても、何かの樹脂や植物のものとも全く異なるもので、試しにポケットナイフを当ててサンプルの採集を試みたが、ステンレス製のナイフがボロボロになってしまう程のもので、それこそ“謎の物質”という言葉でしか、表現出来ない様な代物だった。
その未知の物質で出来た格子越しに見るその剣は格子が謎の材質で出来ているという事すら忘れてしまう程に不思議な魅力を備えており、その場にいた一同が何かに憑かれたかの様に魅入られていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
その場にいた面々が完全に時間を忘れて魅入られていた中、最初に触れた長谷川が我に返り声をあげた。
「おい。こいつはもしかして、もしかすると伝承にあった“裁きの剣”ではないのか? 」
その言葉でその場にいた者達も我に返り、慌てて手帳に書き写した資料を探した。
「もしかすると、その通りかもな…。だとしたら大発見じゃないか? 」
長谷川の問いに有村が答える。
「だとしても、この格子を何とかしないとあの剣には触れられないな。金属や鉱物では無さそうだが、サンプルを削り取ろうとしたステンレスナイフを逆に削ってしまう様じゃあ相当の硬度がありそうだな」
一般的に刃物を“研ぐ”というのは同時に刃を鋭くする為に、刃物を削る事でもあるので、その刃物の材質より硬い物を使う。
安物の砥石でもセラミックスなどが用いられる。
彼らの知識からして、この格子を構成している物質は、最低でもセラミックス以上の硬度がある事は想像に容易かった。
だが、一般的に硬度が高い物質は衝撃に対する耐性である靱性が低くなる、すなわち硬度と靱性は反比例する事が知られており、ダイヤモンドでもその硬さとは裏腹に、金属のハンマーで叩くと容易く粉砕されてしまう。
つまり、硬度が高いという事はそれだけ耐衝撃性が低いという事でもあるだろうから大型のハンマー等で叩けば、もしかすると何とか破壊出来る可能性があった。
そこで、近場に転がっていたレンガ程の大きさの石を渾身の力で有村が叩き付けて見るが、叩きつけた石が粉砕されただけで、格子には傷一つ付けられなかった。
「こうなるとそれなりの道具が必要か…」
長谷川の口から吐息が漏れた。
しかし、その不安はすぐに消えた。
諦めから足下に目を向けると、そこには古代から現代に至る複数の文明で使われていた文字が刻まれていた。
ヒエログリフ、ルーン文字、キリル文字、漢字の様な様々な字体が複雑に混ざって羅列され、何かの暗号の様になっていた。
その様相は文章というよりは模様として見た方がしっくりくる様な様相だ。
方膝立ちの姿勢になると調査の為に持ち込んでいた鞄から、ハケを取り出してそこにいた者たち総出で細部を可視化していく。
足下に刻まれたそれを隠していた砂埃を丁寧に取り払っていくが、隠れていたものを可視化すればするほど、謎が深まって行く。
発掘調査の過程で地層の中ではなく、遺物と共に約5億年前に当たるカンブリア紀の生物の化石も多数出土していた為、この遺跡の年代を知る方法は炭素年代測定等の科学的な方法で行っていたが、機器の異常は一切無い状態で複数の機器を用いて何回繰り返しても何故か結果に大幅なバラつきが出ていた為に、年代測定に確信が持てなかった。
ただ一つ、どの測定方法でも一致していた結果は、1千万年前より古代を示していた。
最古の人類である“サヘラントロプス”が生息していた年代が600~700万年前であるという事を考えるとこの数字は人類が現れる前であり、どう考えても整合性に難があった。
測定結果がもし、正しかったならば今目の前にあるもの全てが存在してはならない存在と言って良いだろう。
仮に旧約聖書における“バベルの塔”の記述通り太古の昔の人類が同じ言語を使っていたというのが真実だったとしても、この文字の羅列は普通の人間なら複数の言語の組み合わせの様にしか見えない。
だが、彼らは違った。
先ほどの格子に触れた事で何らかの知識が入って来たのか、読めてしまったのだ。
砂埃を全て払いのけ、全文が現れた時、誰が指示したというわけでもなく、それぞれが遺跡の仕掛けを作動させていた。
そして、格子が消えると共に長谷川が台座に刺さっていた剣を抜くと、辺りは眩い光に包まれた。
長谷川が手にしたその剣は先にもまして禍々しくも神々しい不思議な輝きを放っていた。
その光は柄を伝って長谷川の身体に流れて行き、ついにはその身体を包み込んだ。
光が長谷川の身体を覆い尽くしたその刹那、爆発の様な光が放たれ、遺跡を中心に数キロの範囲が飲み込まれた。
そして、爆心地である長谷川の身体に剣が吸い込まれると光は消え、辺りは静寂の闇が支配していた。
そこは、先ほどまでいた遺跡の内部ではなく、調査の為に乗って来たトラックの荷台だった。
四人が一斉に外に出て、月明かりを頼りに周囲を見渡す。
トラックの運転席に人影は無く、風景から見て移動したとは考えられないのだが、ベースキャンプや資材はおろか、遺跡すら消えていた。
「スベテハナカッタコトニ、コノ、ツルギ“グラディウス・レフェレンダリウス”トソノチカラハ、ヒキヌイタモノニ、テツダッタモノニハ、チカラノイチブヲサズケタ。ドウツカウカハ、ジブンシダイダ」
四人の頭の中に不気味な声が響いた。
「一体どういう事だ?誰なんだ? 」
堰を切った様に有村が叫ぶが、その問いに答える者はいない。
だが、彼らは感覚で把握していた事が一つだけあった。
その肉体には人知を超えた力が宿っていた事、そして、その力は身体的なものだけではなく知能的なものにまで及んでいたこと。
各々が顔を合わせ、先ほどの声の言う通りにその力をどう使うか各々が決める事にし、この事は四人だけの秘密としてトラックで空港に向かい帰国の途に就いた。
帰国後の動静は暫くの間はそれぞれだったが、各自の事情もあってか、その力に導かれたからか【ネフィリム】という組織を立ち上げ、再び四人で様々な行動を起こすに至ったというのが彼らの過去であり、超人的な力を得た背景なのだ。
そういった事から利三と今、対峙している長谷川や、先に交戦した三人は常人ならば回避不能な弾幕を意図も容易く回避してのけたり、かなりの重量がある銃火器を軽々と取り扱う事が出来たりした様だ。
先の三人より強大な力を誇りそれを解放した長谷川の刃とミズチから与えられた真の力を覚醒させた利三の刃が激しく火花を散らす。
どちらも人知を超えた力が与えた武器であり、その力が衝突するという事は、今までの闘いとは全く異なるものだった。
どちらの剣速も通常では考えられない速度で動いており、それに伴う形でその身体も残像が残る程の早さに達していた。
その戦いは徐々に激しさを増していき“力”の解放により利三も姿を変えていた。
身体に太刀が馴染んで行くのを利三が感じれば感じる程、彼に与えられた“力”は解放されていき、本人が気付かないうちにその身体は龍の鱗の鎧で覆われていた。
それに呼応するかのように、長谷川もさらに力を解放していく。
もし、普通の人間がこの闘いを見ていたら、異形の者同士の決戦に見えたかもしれない。
人知を超えた存在から与えられたその力による闘いは激しさとは裏腹に美しさもあったかも知れない。
だが、もし、そこに普通の人間がいたとしたら、その刃がぶつかり合う衝撃派でただ事では済まないだろう。
それは闘っている当事者である利三にも言える事で、鎧が無ければ彼の皮膚も大気との摩擦で灼かれてしまったかもしれない。
それ程に二人の動きは素早く、残像が幾重にも重なり、その剣速は常軌を逸していた。
各々が人知を超えた存在によって与えられた力を持ってして行われているこの闘いでは広義の科学で立証された物理法則など全く意味を成さず、この地下の部屋自体が異空間となっていると形容する他ない。
長谷川の剣も利三の太刀もそれを構成する物質は最新科学でも証明出来ない代物であるし、まして彼らの今の姿はシルエットこそ人間の姿ではあるものの、その実体はどう見ても怪異的としか言えず、それこそ妖怪絵巻や多数の悪魔を描いた絵画の中に紛れていても違和感が無い。
しかし、その一方でそれぞれの肉体からは光が放たれており、見た目とは裏腹に神々しさも兼ね備えていた。
その光と刃が散らす火花が相まって、闘いの衝撃で光源が破壊され暗闇に包まれていたこの部屋でも互いの存在を認識出来たし、間合いを取る際に壁や柱の位置を認識する事が可能となっていた。
しかし、いくら周囲の状況を把握出来る状態になっていると言っても、互いに殺るか殺られるかという状況であると、仮に一瞬でも周囲の状況を確認できたとして、使える時間は1/1000秒も無いだろう。
その時間で周囲の状況を把握出来る人間は常人ならばまずいないし、人知を超えた存在から与えられた力を持ってしてもせいぜい視野にある柱の位置を把握するのが限界だった。
人知を超えた力と言うのは不思議な物で人体に係る負荷でさえ相殺し、通常であれば何らかの肉体的なダメージが出る程の動きをしても何ら変化は無く、まるで永久機関でも取り込んだかと思うほどだ。
それ故、この闘いに於いては、どちら一方の体力が尽きて勝敗が決まるという結末はあり得ず、どれだけ与えられた力を解放して相手を圧倒するかという事でしか決着は着かない。
その点で長谷川は利三よりも力の扱いに慣れている事からして有利であり、それ故に意識的に自身の姿を変える事が可能だった。
長谷川は状況に応じて姿を変える事でその力を最大限に引き出し、攻撃方法も単なる斬撃に留まらず、その剣速から強力な衝撃波を発生させ、飛び道具の様に使用したり、残像を盾にしたりするなど多種多様な攻撃を繰り出していた。
その攻撃はかすめただけで鉄筋コンクリートの壁が抉られ、中の鉄筋がむき出しになる程の威力があった。
それだけの威力を持つ斬撃武器は通常存在しえないし、もしもコンクリートに斬りかかれば大概は折れてしまうのが関の山だ。
だが、利三の目の前にいる長谷川はそれを容易くやってのけただけでなく、一振りでコンクリートの床に巨大な切り傷を残した。
この様な怪物は利三の裏稼業でも今までに遭遇した事はなく、対処の仕方などわからないし、どんな状況だとしても結果というのは努力や思考、経験などというものでそう易々と変わる物ではなく、それこそ“なる様にしかならない”のだ。
最善の策として、今の利三にとっては目の前にいる長谷川という強敵に対して自身の持てる力と過去の仕事で培った能力を駆使して闘う以外に方法はなかった。
だが、いくら長谷川がかなりの強敵となっていっていても、闘いの中でミズチの力を解放し、その太刀を手にして闘いの中でその力の扱いを習得していった利三にとって、その脅威は徐々に薄れていき、予期せぬ長谷川の攻撃を受け流して回避し、激しく打ち合っては何度となく追い詰める事に成功していた。
だが、いくら追い詰めてもその度に長谷川とその剣は姿を変え、人間のものとは思えない様な攻撃を繰り出してくる。
いくら力の使い方を闘いの中で習得していったといっても、長谷川がその姿を変える度に間合いも変化し、予期せぬ方向からも斬撃が降り注いでくる。
水神に与えられた力が覚醒していても、二刀流でなければその攻撃は確実に利三の身体を捉えていたかも知れない。
しかし、石塚から叩き込まれた格闘術や紛争地帯での経験、そして彼の持つ“正義”への執着心がその“力”をより強い物に変えていた。
そして、何度とない激しい打ち合いの果てに長谷川の剣は折れ、ついに打ち倒すに至った。
そして、ようやく観念したのか利三の問いかけに対して長谷川は薄れゆく意識の中でこう答えた。
「貴様の信じた正義に我々の正義が屈する事は無い…。私はあくまで“概念”であり、この世界がこのまま、搾取する者とされる者の二極化を続けて行く以上、私は何度でも蘇る…」
「どういう事だ? 」
「………………。貴様にもいずれ解る時が来る…。だが、“貴様の正義”と“我々の正義”が正しいのであれば…“本当の正義”であれば我々は共闘する事になるだろう…」
「テロリストの片棒なんざ担ぐ気は無いな」
「長谷川竜太郎という存在はもう、この世から消えてしまうが、私はあくまで一つの正義としての“概念”に過ぎない…。貴様は我々以外の黒幕の存在を危惧しているやもしれんがその様な者はいない。そして、ここで、この存在は朽ちたとしても、この意思は繋がって行くだろう…。貴様が果たして、どこまでその“正義”を執行出来るのか再びの受肉の時まであの世から見させて貰うよ…」
そう言い残すと長谷川は元の姿に戻っていき、最後は光の粒となって爆ぜるように消えてしまった。
そして、利三の手にしていた太刀も気付くと姿を消していた。
今、利三も目の前で起こった事に関しては恐らく科学で解明する事は不可能だろう。
それに長谷川の最期の言葉の意味など理解出来ない。
だが、これだけは言える。
自身の信じる正義が何であれ、その反対に位置しているのは必ずしも悪ではない。
こちらから見てそれが悪だったとしても別の方向から見たらたとえそれが不法行為であっても正義となり得る。
もしも長谷川の意思を継ぐ者が現れることがあっても彼はその身が朽ち果てるその時まで戦い続けるだろう。
そして、それは彼の運命なのかも知れない。
それが、利三の運命だというのなら最後まで立ち向かおう。
どんなに困難が待ち受けていたとしても、そこに何があったとしても未来は自身の手で切り開いて見せる。
そう胸に誓うと彼は現場を去る。
だが、来た道にある筈の死体は尽く消え去っており、この闘いの謎がさらに深まっていった。
だが、そんな事は気にしている余裕は無いし、後の始末は石塚に任せるのが妥当といえよう。
とにかくこの場を出てベースキャンプに戻る方が先決だ。
ベースキャンプに戻り、石塚に事の頓末を報告する。
「認めたくは無いがやはり、科学でも解明出来ない事は存在するか。あとの事は任せておけ」
予想に反した回答だった為、拍子抜けしたが、それでいいのかもしれない。
石塚に全てを任せ利三は帰路に着きその後は元の生活に戻って行った。
長谷川との闘いで水神の力を扱った事もあってか、今までの生活に戻った後は裏稼業の方もいくらか楽になっていたのか少し余裕があった。
そして、今日もまた、石塚から依頼を受けてバイクに跨り仕事に向かった。
Mad Justice
大賞の落選作ですが、評価シートの内容を取り込み再編成した作品です。
そういう経緯があるのでコメント等は随時募集しています。