高校・総合学習~原発は廃止するべきか

2011年秋。ある高校の総合学習の風景。東日本大震災を経て、わたしたちは原発を廃止するべきなのか。白熱の議論が展開した。

2011年度2学期 総合学習・相倉クラス32名
                      
磯村 健太
小牧 聡
斉藤 涼子
篠原 ローラ祐子
橘 美歩
倉持 純一
松井 宏
峰岸 有花

浅井 怜一
石野 沙希子
伊藤 のぞみ
大島 悠樹     
河原崎 純
栗原 力哉 
高橋 木の実
森田 奈々

島袋 波那
片瀬 愛
菊池 祐一
国井ファーガソン マイケル純
佐藤 基美
土谷 明
原田友紀乃
本間 悟

石原 智仁
小口 彩香
高瀬 理子
友利 英輔
朴 紅珠
福沢 亜柚果
松本 浩
三浦 広海

(本文始)

 「あの日から、もう、半年経った」
2011年9月のその日、相倉さんは教壇の上から、いつもどおりの穏やかで控えめな微笑を浮かべて静かに切りだした。そしてくるりと背を向けると、黒板に力強く大きな文字を書き始めた。
 『原子力発電所は、廃止するべきか?』
 コトリ、とチョークを置く音が、思いがけない大きさで響く。相倉さんは生徒たちを振り向くと、落ち着き払って32人一人ひとりの顔を見回した。
 「高校1年生には早すぎる質問だろうか?」
 夏休みが終わったばかりの、最初の総合学習の時間。期末試験のない科目の気楽さで、生徒たちは質問をされても身構えることなく、私語をかわして笑ったり、タオルやノートで自分を扇いだりと、くつろいだ表情を見せていた。
満杯の教室は真夏とさして変わらない蒸し暑さだった。大きく開け放った窓のおかげでほんの少し、肌をなでる程度に空気の動きが感じられていた。その窓が面している校庭では、体育の授業の準備運動だろうか、リズミカルな笛の音が遠く鳴っている。まだ誰も、相倉さんの抽象的な質問に答えようとする生徒はいなかった。
相倉さんは視線の合った生徒一人ずつに、やわらかく目配せをして問いかけを重ねた。
 「・・・高校生には、難しすぎるテーマだろうか。僕は、そうは思わないんだ。
 15歳の君たちは、原発問題なんて、自分には関係のないことだと思っているかもしれない。でも、これから大人になる君たちこそが、この問題と真剣に向き合わなくちゃならないんじゃないかと思っているんだ」
 生徒たちに向かって、相倉さんはひょろりと長い上半身を折るようにして、かすかに身を乗り出した。 
 「だって5年後には、君たち全員が『選挙権』を手にする。立派な成人になっている。そのころにこの国は、この重要な問題にはっきりと結論を出さなくてはならないはずなんだ」
 相倉さんは黒板の端まで移動して、自分の書いた大きく角張った文字が全部、生徒たちから見えるようにした。また自らも、しばらくじっと眺めていた。
 「『原発は廃止するべきか』。2学期の総合学習では、このテーマについて、みんなでディベートしたい。そして6回のクラスを終えた時に、僕たちはなんらかの結論に達している、ということにしようじゃないか」 
 教室はいつのまにか、不思議なほど静まっていた。たった今まで陽気にさんざめきながら、ばさばさと音をたてて自分を扇いでいた生徒たちが、戸惑ったような表情で、相倉さんに付き合って視線の向きをそろえ、黒板の上の大きな文字を黙って見つめている。
 相倉さんはそんな生徒たちに向き直ると、ちょっと微笑んで眼鏡の位置を直し、淡々と言葉を継いだ。
 「ではさっそく、始めてみようと思う」

(改頁)
 
 教室は相倉さんの指示で、座っている位置をもとに4つに分けられ、8人で1グループを作った。机だけを集めた4つの島ができると、8人ずつてんでに椅子を引き寄せてその島を囲んだ。グループ分けの作業の間、生徒たちはいつものようにはしゃぎ、にぎやかに椅子や机を引き摺った。騒々しい活気が、教室に戻ってきた。
 「よし、いいね。・・・じゃあまず、このグループ。君たちの役柄は『国民』だ」
 相倉さんが教室の右前に陣取った島を指差すと、『国民』と指名された生徒たちから小さな笑い声がまばらに起こった。相倉さんは長い腕を高く上げて、その後ろ側のグループを指す。
 「次はそっち。そのグループはちょっと難しいけど、『企業』の役だ。『企業』グループは電力会社も含む、この国のすべての会社を代表する、日本の屋台骨だ」
 「うっそ」「ありえないよね」
 『企業』グループの生徒たちは、口々に不満を漏らして笑いあった。
 「企業は日本経済を支えている。すごく重要な役目を担っているんだ。しっかり頼むよ」
 相倉さんは、場違いに楽しげな笑顔で応じると、次にその隣のグループに向かって、「そっちは『諸外国』だ。でも、特別にこのクラスでは日本語をしゃべってもいい」。生徒たちがどっと沸く。
「最後のグループは『政治家』とする。君たちは国民を代表する重要な立場だ。法律も作れるし、外国と折衝もできる、選ばれた人たちだ」
鋭い口笛や冷やかしの声が飛び交う中、相倉さんは4グループの見取り図を黒板に描いた。相倉さんが背を向けている時間が長くなるにつれ、生徒たちの話し声は高まり、とうとう教室中がかしましく交わされる何十もの私語の嵐で満ち満ちた。相倉さんはそれでも落ち着いて板書を終えると、教壇の真ん中に戻って、慣れた身振りで喧騒を鎮めた。
「では、ルールを説明しよう。この4グループは、期末まで途中入れ替え無し、ずっと同じメンバーだ。8人はざっくばらんに話し合い、意見を出し合い、方針を決める。そしてその裏付けとなるデータを、協力して集めるんだ。これから3カ月の間、君たちはテレビや新聞、特にインターネットを通して、洪水のような大量の情報に接するだろう。その中には、君たちの議論に役にたつ情報もあれば、そうでないものもある。出所の不確かな、怪しい情報に接することもあるだろう。君たちが手にしたデータは確かなのか。気をつけてみてほしい。
そうそう、ディベートにはスポーツと同じで、ルールがある。このクラスでのルールを書いてみた」

相倉さんはA4判の紙を各島に1枚ずつ配った。
ルール①個人ではなく、グループの立場で意見を述べる
ルール②反論はどんどんする。しかし個人攻撃は不可
ルール③必ず全員が発言すること
 
 また堰を切ったように、生徒たちがしゃべり出した。「なにこれー」「無理じゃね?」「しゃべらないやつとか絶対いるし」・・・
 相倉さんは苦笑した。
 「②や③は、ホームルームのやり方とだいたい同じだよ。特殊なのは①だけだ。4つのグループで役割を分けたのだから、その役割に沿って意見をまとめてほしいんだ。だって、ここで話し合うのは、日本の針路だから。このクラスでは、みんなは全国民を代表して、本気で国の将来について議論したいんだ」
 再び私語がうねりのように広がったが、相倉さんは涼やかに微笑んで、例の身振りで教室を鎮めた。
「正直に言って僕にも、うまくできるかどうかあんまり自信がないんだから、君たちまでそんなに否定しないでよ。実際、この授業プランを職員室で検討した時は、ほかの先生方にもとても心配されてしまった。今までやったことがないことだし、もしかしたら途中でやり方を変えたくなるかもしれない。その時は遠慮なく提案してほしいんだ。みんなで相談して、変えるべきは変えていこう。
 では、これがだいたいの行程表だ」
 相倉さんは模造紙を広げて黒板に貼った。

第1回 グループで議論する
第2回 グループの合意をつくる
第3回 『国民』『企業』が発表を行う
第4回 『諸外国』『政治家』が発表を行う
第5回 結論を導く方法を決める
第6回 結論を導く
 
 「第1回目の今日は、グループの中で話をしてみよう。さあ、まず8人が向かい合って。この8人で助け合い、全部で6回の授業をやり抜くんだ。弁の立つ人もいるし、議論が苦手な人もいるだろう。しかし、全員が意見を出して、その意見を8人みんなで真剣に考えるように、努力してほしい」
 生徒たちはまだ授業の流れを呑みこめないように、ざわざわと落ち着かなかった。相倉さんは腕を高く振り上げて、黒板の真ん中を指差した。
 「『原子力発電所は、廃止するべきか?』
 1回目の今日は、グループの大方針を決める。やり方はそれぞれのグループにまかせるよ。今日は最初だから、一人ひとりが賛成か反対かを表明してみよう。大丈夫、意見は後でいくらでも変えていいんだから、まずは勇気を出して思ったことを言ってみよう。
 口に出してみることはとても大事だ。不思議なんだけど、口に出せば、自分が何を考えているかを、自分で気づくことができる。口に出して初めて、本当の自分の考えはそうじゃないと気づくこともある。それに意見を言えば、きっと仲間が助けてくれるよ。矛盾や弱点を指摘して、修正するきっかけをくれるかもしれない。賛成を表明して、発言者を力づけてくれるかもしれない。そうやって、少しずつ取捨選択や修正を繰り返して、8人ともが納得できる意見を練り上げていこう。
 一つだけ気をつけてほしいのは、ルールの①、自分の『立場』を忘れないことだ。みんなはこのクラスでは、高校生1年生じゃない。それぞれが『国民』の代表、『企業』『政治家』『諸外国』の代表なんだ。
 時間はたっぷりある。そのうちコツをつかめるよ。まずは、ぼちぼちでいいから、始めてみよう」

(改頁)

 相倉さんは最初に『国民』グループに歩み寄った。
 『国民』グループの8人は、近づいてくる相倉さんを見つめたまま、所在無げに視線をさまよわせていた。相倉さんはおかまいなしに微笑みかけた。見開けば大きな目が、笑うとたくさんできる深いしわの一本に紛れるほど、細くなる。
 「やあ、『国民』グループ。この8人は4つのグループの中で唯一、自分自身の立場も代表している。でももちろん、国民すべてが高校1年生ではない。お年よりもいれば赤ちゃんもいるし、自営業の人、会社で働いている人もいれば、子育てをしている人もいる。だからこの中でも役割を決めよう。もちろん、8人だけでは、すべての国民の立場を反映することなんか無理だ。だけど議論をするために、ここは大づかみで立場を分けてみたいと思う。
 たとえば、そう、松井と橘は福島在住だと仮定してみよう。小牧と峰岸は東京都民でどうかな。そして峰岸は2人の子どもを持つ母親だ。倉持は原発メーカー職員。斉藤は商店街の組合長だ。磯村は長崎、篠原は広島の人にしてみよう。誰か、書いておいてくれる?」

 松井宏・橘美歩=福島県民、小牧聡・峰岸有花(母親)=東京都民、倉持純一=原発メーカー社員、斉藤涼子=商店街の組合長、磯村健太=長崎県民、篠原ローラ祐子=広島県民

 書記を買って出た橘美歩がノートに書き取りながら、つぶやいた。
 「私が被災地の人の役なら、もう、議論も何もないです。百パー結論は決まってる。原発にはぜったい反対です」
 「私も私も。だって私、子どもが2人いるって設定なんでしょ? うちはまだ幼稚園の弟がいるし、お母さんは3月以来、しばらく水道水は使えないとかって、血相が変わっちゃってほとんどパニックだったもん。最初のころなんか、子どもはお風呂もダメだとか言ってたんだよ? ママ友のチェーンメールとか真に受けちゃってさあ。チェーンメールってめちゃめちゃなの、ガセネタばっかり。大人ってあんなの信じるんだね。うちは原発とかもう、精神的に不可能な感じ」
 峰岸有花が早口でまくしたて、ね、ね、と同意をうながすように7人の顔を見回す。磯村健太が面倒くさそうに腕をゆっくりと頭の上で組む。
 「じゃ、このグループは原発廃止でよくね? も、決まりじゃね?」 
 「賛成」「賛成」「私も」と声が続いた。
 相倉さんはにこにこ頷きながら、『原発メーカー』役の倉持に顔を向け、指をひらひらさせて発言を促した。
 「倉持、メーカーはどう?」
 倉持は落ち着かなげに体を細かく動かしながら、「僕は・・・」と言いかけたものの、他の7人の視線が自分に集中しているのに気づいて思わず言葉を呑みこむ。
 「倉持は、難しい状況にいるんだ。だって君は、原発を作った会社の社員の立場だ。自分の作った原発が廃止になったら、君の会社はどうなってしまうのかな。自分の立場をよく考えて、会社員としての主張をしてほしい。
 だって、そういう人が現実に、日本にたくさんいるんだからね。その人たちの声を、ここでは倉持が代弁しなくちゃならないね」
 相倉さんにはげまされ、倉持は顔中に汗をかき、目をぱちぱちさせながら口を開いた。
 「そうですね、その、原発をなくしちゃったら、僕の勤めている会社が倒産して、失業するっていう立場ですよね? そうすると、僕の立場からは、原発はないと困りますよね・・・。だからあの、原発は続けるってことで」
 「うっそなにそれ。まじ信じらんねえ」。低い横柄な声が遮った。松井宏が発言と同時に長い脚を組みかえた。ガタン、と脚が机にぶつかる音が響いた。
 それほど大きな音ではなかったが、倉持ははっと黙りこんで下を向いた。ほかの6人も松井の様子をうかがうようにちらちら視線を送り出した。
 相倉さんはグループ一人一人の顔を注意深く見ていたが、誰からも声があがらないのを見ると、松井に向かって笑いかけた。
 「松井。今言ったことを、もう少し、言葉を省略せずに、なるべくたくさん使って言い直してみてくれないか」
 松井はきょとん、として相倉さんを見上げた。
 「たくさん? えっと、つまり、『まじ信じらんない』でなくて・・・『私には、まったく本当に信じられません』とかかな?」
 「そうじゃなくてさ」、眉根を寄せて生真面目に考えている松井の顔を見ながら、相倉さんがげらげら笑いだした。
 「松井は、倉持の意見には反対だと表明したんだよね? しかも、倉持の意見に驚いたように、反射的に強い言葉が出たから、ちょっとだけ意見が違うというよりは、おそらくはまったく逆の意見なんだろうね? だったら松井は、なぜ、それほどまでに反対なんだろうか。その理由を僕たちみんなに、具体的な言葉を使って、分かるように説明してほしいんだ」
「ああ。それは・・・だって、倉持は自分の勤め先の代わりに、一般人を犠牲にするって言ったわけですから。それはジコチュ-すぎるんじゃないかと思ったわけですよ。立派な理由ですよね?」
「そうか。松井は福島県民の役だ。彼らの立場から発言したんだよね。じゃあ今度は、原発をどう思っているか、福島の人たちの考えを、ここのみんなに説明してもらえないだろうか」
 「説明も何もないでしょう。今言った通り、俺たちを犠牲にすんな、って気持ちですよ」
 「犠牲。どんな犠牲なのかな」
 「えっ。だってそれはみんな・・・だいたい知ってるじゃないんですか? みんなが知ってるよりもっと詳しくなんて、それは俺にはわかんないですよ。だって俺は被災地に行ったわけじゃないし。そもそも高校生だし」
 松井は気を悪くしたように膨れ面をした。
 「でも、3月11日以来、松井はテレビのニュースを何度も見たんじゃないかな? それ以外にも、まったく被災地と接する機会はなかっただろうか。この学校でも4月に被災地支援のバザーを開催したね。覚えているよ、松井は中心になって活躍してくれたじゃないか。みんなで手分けして被災地に何が必要か調べたり、被災地の状況をウェブで調べて壁新聞を作って、町内に配りながら寄付を頼んだりしていたね。現地で何が必要なのか調べるために、被災地の高校生とも、OAルームからウェブカメラで通信をした」
 松井は何度か細かく頷きながら、口を開いた。
 「俺はあのバザーの運営委員をやっていたんで。だから南相馬市の避難所の高校生たちと、通信するメンバーの一人だったんです。
 バザーの収益で何を送ったらいいか知るために現地と連絡したんだけど、通信中は、なんだか、向こうの人たちが、俺としゃべってくれていることさえ、なんていうのか、・・・ずっと申し訳ないような気分だった。親父さんが亡くなったとか、妹がまだ見つかっていないとか・・・そんな状況を聞いていて、聞いているこっちが、まじ、息苦しくなるほどで、」
 思い出しながらぽつぽつとしゃべっていた松井の口調が、だんだん熱を帯びていった。
 「命は無事だった人たちも、不便だとか物がないとかってことより、一番話したがっていたのは、福島県が放射能で汚染されていることだった。本当に怖がっていたよ。通信中に、相手の子のおばあちゃんが無理やり代わって出てきて、俺なんかに泣いて訴えたんだよ、孫たちが『被爆者』になるなんて絶対嫌だって。俺、まじで、これってひどい事態だなって思ったんだよ。
 たとえ原発メーカーの社員が全員クビになったって、福島県の人口より人数的には圧倒的に少ないし、被曝よりクビの方がマシだし、第一犠牲になる人数が少ない方がいいだろ。そういう意味。だからな、倉持が失業するとかたいした問題じゃないってこと」
 「そうですよね・・・」
倉持がうなだれると、
 「そうだよ倉持」「冷てっ」「空気読めよ」
 松井に加勢する声が続き、倉持は肩身が狭そうに体を揺すって下を向いた。
 「待って。みんな、ちょっと待った」
 相倉さんが割って入った。
「倉持は、倉持の立場から、正しく意見を言ってくれたんだよ。倉持個人の意見ではないのだから、倉持に対して感情的な批判をするのは意味がないし、だいいちルール②違反だ。ごめん、つらい役を振っちゃって、悪かったね。よくやってくれたよ、倉持」
 相倉さんは倉持の後ろに立って、頭にぽんと手を置いた。
「一方で、松井の言ってくれたことも、もっともな意見だよね。福島にはとても大きな犠牲が生じている。放射能で汚染された地域の人たちは、自分の家を離れ遠くに避難させられている。先月には政府から、特に原発に近い地域は長期間帰れない見通しだと発表されたね。住民は避難所や仮設住宅や、県外で生活している。仕事や健康のために、やむをえず家族がばらばらに住んでいる人たちもいる。これから先も、かなりの期間は、そんな暮らしが続く・・・。地震と津波でなく、その後の原発事故こそが、日常の普通の生活や、安心安全なんて言葉や、これまで築き上げた財産を、あとかたもなく破壊してしまった。3月11日以降、福島のニュースは、見ていて胸が締め付けられるような内容ばかりだった。
 原発事故の後、少し時間がたってみると、直接人間に対しての悪影響だけじゃなくて、食物の被害も心配だということがわかってきた。汚染された食物を食べれば、内部被曝する。・・・内部被曝、なんていう特殊な言葉が、この国では説明なしで通じるようになっちゃったんだね。避難を免れた地域も、やはり放射能汚染の恐れがあって、農産品が売れなくなる被害を受けている。放射能の汚染被害は、屋外で育てる野菜だけでなく、予想外のところまで広がっていた。2カ月前のことを覚えているかな。7月に、牛肉や堆肥の汚染も判明して騒ぎになったよね。今は各地でいろいろな品目について検査が行われているから、汚染はほかにも続々判明していくのかもしれない。最悪の場合、主食のコメにまで被害が出るのかもしれない。というか、微量であっても放射線量の測定値が増えるという意味でなら、被害が出つつあるのは確実だ。それに放射能は、我々の手の届かない地中や地下水に長くとどまる。簡単には除去できない。これから新たにどんな汚染が判明するのか、考えるだけでも身震いするようだ・・・。
 子どもを持つ親御さんたちは、食べ物だけでなく、福島から飛び散っている空気中の放射線量をとても気にかけている。子どもには、大人より影響が出やすいということが分かっているからだ。しかもこれらの影響は、目に見えない。自分の目で危険性を判断することが不可能なんだ。計測してみて初めて、放射線量がまばらに高いホットスポットが存在することもわかった。気づかないうちに被曝しているかもしれない。少しずつ健康を蝕まれているのかもしれない。こうした深刻な不安が今、日本中を覆っている」
 8人とも真剣な表情で相倉さんを見上げていた。差し迫った危機感はなくても、重苦しい不安感は誰もが共有しているものだった。高校生であっても、2011年9月に、一点の曇りもない晴れ晴れとした心持ちでいることは不可能なことだった。
 「それにしても」
 相倉さんはちょっと間を置いた。
 「なぜ福島に原発がたくさんあるのだろうか。
 福島は東北地方なのに、福島第一原発は東京電力のものだよね。つまり、地元のためには発電していない。福島第一原発で発電する電力はすべて、東京電力の管轄する関東地方に送っている。それなのになぜ、発電施設が関東地方ではなく東北地方にあるのか。福島の人たちはなぜ原発を受け入れたのかな。
 どう思う、橘?」
 「え・・・。都会より田舎の方が、なにか、その・・・向くからかな?」
 「田舎の方が、何に『向く』の?」
 「えっと、余っている土地があるっていうことじゃないの? 東京は人でいっぱいだから、余分な場所がなかったんじゃない?」
 「うーん、確かに福島に比べると東京は狭いね。でも、東京にも埋め立て地があるよね。あるいは、もっと埋め立て地が必要なら、新しく埋め立てることも可能なんじゃないかな。そういう意味では東京に空き地がまったくないわけじゃなさそうだ。千葉側にだって海沿いに空いた土地が結構あるんじゃないかなあ。巨大なテーマパークやレジャー施設があるくらいだから。
実は、基本的に電線が長ければ電力は減ってしまうから、効率という意味でも、本当は発電所は近くにある方がいいんだ。それなのに原発の建設地として、なんで東京や近郊ではなく、福島が選ばれたのだろう。
小牧はどう思うかな?」
 「土地の値段が、福島の方が安かったからじゃないんでしょうか」
 「なるほどねえ。値段か。確かに土地を取得するコストは安いだろうね。うん、それは一つの理由かもしれないね。でもそれだけかな。そのほかにはどう? 誰でもいいよ」
 8人とも困ったように顔を見合わせた。
 「何も思いつかないかな? では、もう少し時間をかけようか。次回までに調べてみてくれないだろうか。特に、福島県民役の松井と橘は」
 橘は頷いて、ノートにメモをした。
 相倉さんは、今度は磯村と篠原に向き直った。
 「さて、君たちの役柄は広島と長崎の人だ。
 今回の原発事故の後、僕はとても不思議に思ったことがあるんだよ。そのことを一緒に考えてほしかった。
それは、人が長時間、低い量の放射線を浴びた場合の健康被害が、具体的にはっきりわかっていないことなんだ。そんなのおかしくないだろうか? だって、日本はかつて原爆を落とされた唯一の国なんだよ。それによって、どんな被害が生じたかを、世界で一番分かっているはずじゃないのだろうか。広島や長崎は、人間だけじゃない、土地や海や食べ物も放射能で汚染されたはずだ。その広島や長崎で、地元で取れる食べ物を食べ続けた人たちにどんな被害が出たかを調査して、きちんとした分析をしていると思っていた。
 でも実は、放射能と長期間触れた場合の健康被害についてのデータは、十分には無かったんだ。正直、とてもびっくりした。原爆による広島・長崎の市民への被害や、世界中の大気中でたくさんの核実験が行われていた1960年代も、周辺の住民への健康調査さえ行われていないか、行われていても一部だけで、それはしかも機密扱いで今も公開されていないものが多いといわれている。だから今回の事故でも、周辺の住民へ長期的にはどんな影響があるか・・・どのくらいの放射線を浴びたら、何年後に何の病気になる確率がどのくらい高まるのか、などの予想が明確にはたてられないんだ。
 みんなも、3月以降放射能について散々耳にしただろう。政府の責任ある人たちや学者でさえ『いますぐに健康に影響のあるレベルではない』という、ちょっと意味不明の言葉を繰り返している。もっとも統計的な数字を出されて『どこに住んでいる何歳の人は、何十年後に発病する可能性が何パーセント』と言われたって、僕たち一人ひとりにとってそれが実際、引っ越しをしてまで避けた方がいいのか、普段通りに生活していていいのか、判断がつかないよね。具体的な話じゃないと一般の人は困ってしまう。何が起きているのか理解できない、どう行動したらいいかわからないということは、とても人を不安にするものだ。そのせいでパニックさえ引き起こしかねない。大規模ではないにせよ、ある種のパニックは既に起こった。3月に、関東地方で水や保存食やガソリンの買い占めが起きたね」
 相倉さんの顔からいつもの穏やかな微笑が消えていった。8人もいつになく顔を上げてまっすぐな視線を返した。 
 「パニックって言えば・・・外国人の友達はみんな、すぐに日本を脱出しろって、メールや電話をしてきた。被災地からは離れているのに、『生きているのか』って心配する電話がじゃんじゃんかかってきたんだよね。最初はうれしかったけど、だんだんいやになっちゃった。アメリカでは、原爆よりも今回の事故の方が汚染がひどいって、ニュースで言ってるって。本州にはもうほとんど人が住めなくなると本気で考えていたみたい」
 篠原が自分の腕を強くつかみながら言った。
 「今回ばらまかれちゃった放射性物質の量は、原爆よりもずっと多いんだって。たしか、ウランが原爆の何百倍分だとか言ってた気がする」
 「うそ」「信じらんない」
 女子3人が反射的に叫んだ。
 「本当だよ。向こうの報道を見ていると、日本列島は完全に汚染されたってことになってる。だから外国人の避難は素早かったし、その後半年経っても、契約していたのに色々口実をつけて来日しない芸能人とかいっぱいいるよね」
 「怖っ。もう異論なんかあるはずないよね。まとめると『原発は廃止』でいいよね?」
橘が確認する。
 「ちょっと待って」
 相倉さんが教室の隅から小さな丸椅子を取ってきて、小牧の隣に座り込んだ。相倉さんの顔には、またいつもの半分笑っているような柔和な表情が戻っていた。相倉さんは先刻とうってかわって気軽な口調で切りだした。
 「時間はまだたっぷりあるから、ちょっと回り道をして、ほかのことも考えてみようよ。
たとえば、そう・・・3月11日の後、『輪番停電』がしばらく続いたね。僕の住んでいる地域は信号機まで止まって、すごく困ったけど・・・みんなはなにか影響がなかったかな」
 「うちの地域は大変だった。ひどい時なんか、1日2度も、2時間ずつ停電したんだよ」。斉藤涼子が唇を突き出して顔をゆがめた。
 「うちも。部活から帰っても、シャワー浴びられなくて。でも駅の近くのスポーツセンターは停電しなかったから、コインシャワーを使いに行ったよ。駅の近くだけは停電しないなんて、不公平だよね」と橘。
 「え、ほんと、センターのシャワー使えたの? 知らなかったなあ」
 篠原がうらめしそうに言った。
 「うっそ、知らなかった? ごめん、私は友紀乃からのメールで知ったの。ローラの家も停電してるって知ってたら、転送したんだけど・・・あの時は道路挟んだ向こう側の家は電気ついてたし、どこのだれの家が停電したんだか、全然わかんなくて」
 「いいよ。結局夜遅くには電気通じたから、お風呂入れたし。でも3月はすっごい不便だったな。暖房止めて寒かったし、暗くて宿題もできなかったし、もうたくさんって感じ」
 「今はさ、もう停電しなくなったね」
 磯村が割り込んだ。
 「今のところは電力足りているんでしょう? そもそも足りないっていうのがウソだとか、ネットで読んだよ」
 「そうなの?」「え、本当?」
 女子の反応に、磯村が得意そうに肩をそびやかす。相倉さんがちょっと心配そうな表情をした。
 「うん、そんな話も出るよね。僕もテレビのニュースで聞いたことがあるし、新聞に載っていたのを見た。そもそも、電力消費量のピークが午後2時だとして集中的に節電を求めたけど、午後2時というデータの根拠は存在しないって説もある。本当は夜8時以降じゃないかと試算する人もいるけど、電力会社がデータを公表しないから、ちゃんと検証できないんだね。家庭が消費する電力についても、正確な統計がなくて、電力会社が多めに見積もって計算したらしい。一家に大型冷蔵庫が複数あるような想定で計算していたといわれている。それを政府も鵜呑みにしたんだね。政府の出している情報も、政府自身が収集したデータではなく、借り物のデータだったとすると、何を信じていいのか全然わからなくなっちゃうよね。政治家の中には、もっと正確なデータを公表するよう東京電力に迫った人もいるけれど、東京電力はデータが存在しないとして公表しなかった。
 でも実際のところ先日解除されるまで、政府は東日本に対して夏場はざっと15%の節電を求めていた。電気をたくさん使う企業は、節電を義務として負わされたんだ。それ以外の小さい会社や家庭にとっては努力目標なんだけど、みんな協力してなるべく電気を使わないようにしてるから、僕たちのいる教室もとても暑かった。節電義務が解除されても、さあ冷房をつけよう、という風潮じゃないよね。だからこの教室も今、こんなに暑い」
 その言葉で、8人とも改めて蒸し暑さを思い出したかのように深いため息をついた。小牧が機械的な動作で自分を扇ぎ出した。 
 「政府の出す統計情報が不正確だとしても、もし今、日本中で動いているすべての原発を停止させたら、電気がもっと足りなくなるのは物理的に確実だ。もし原発を全部止めたら、今よりもっともっと節電を求められるだろう。不要不急のゲーム機の使用とか、ケータイとかね。自動販売機も止められるかもしれない」
 「え、・・・」
 8人とも、うんざりした表情を浮かべた。
 「もう3ヵ月ほどしたら冬になる。もしその時に原発が全部止まっていたら、暖房の使用も制限が厳しくなると思う。生活にかかわってくる問題だ。そのほかにも影響が出る。春先に、プロ野球のナイター照明が槍玉にあがって、開幕時にもめていたことを覚えているかな。そこから察するにスポーツイベントは確実に何らかの制限を受けるだろう。アイドルのコンサートも大規模なものは難しいかな。電車の間引き運転や輪番停電が復活する可能性だってある。石油ストーブが多いとはいえ、雪国の生活は大丈夫だろうか。
 どうだろう、こうして色々な影響を考えても、君たちの結論は『原発廃止』でOK?」
 「でも・・・不便なのは私も嫌だけどさ、原発が危ないなら止めた方がいいよ。不便なんて、健康とか命とかには代えられないよね?」
 斉藤がおずおず口を開いた。
 相倉さんは持っていたファイルを手早くめくって、新聞の切り抜きを1枚とり出した。
「こんな記事があるんだけど」

菅首相:「脱原発」方針 米倉経団連会長インタビュー 「経済成長落ちる」と反論
2011/07/20 毎日新聞 朝刊
 ◇将来、新設可能性も
 経団連の米倉弘昌会長は19日、毎日新聞のインタビューに応じ、菅直人首相が表明した「脱原発」方針に対して、「原発に一定程度依存しないと(電力不足で)国内産業がどんどん海外に逃げ、雇用が守られず、経済成長が落ちる」と反論した。そのうえで、福島第1原発事故後、電力各社が凍結している原発の建設計画についても「安全基準を見直し、対策を施したうえで(自治体が認めれば)新設の可能性もありうる」と述べた。(中略)再生可能エネルギーが安く安定供給できるようになるには「10年以上かかる」として、当面は「原発に頼らざるを得ない」と指摘した。さらに、「再生可能エネルギーの比率をどの程度引き上げられるかにもよるが、場合によっては原発の新設もあり得る」と述べ、日本経済の成長戦略を踏まえたエネルギー政策を議論すべきだとの考えを強調した。

 「『経団連』は日本を支えるトップ企業、製造業などを中心とした集まりだ。その代表である会長が、原発を廃止すれば電力不足で産業が困り、海外へ出てしまうと言っている。そうすると日本はどうなると言っているのかな。
 篠原、どう?」
 「雇用が守られないから、失業者が増えて、景気が悪くなります」
 篠原がはきはきと答えた。
 「うんそうだね。日本の景気が後退するから、原発廃止に反対するという主張だ。原発を今すぐに廃止すれば、代わりの電力が確保できないから、自動車業界や機械メーカーが節電に協力する結果、モノを作る能力が落ちて、輸出量も減る。一方の消費者側も、賃金も下がるから、モノを買わなくなる。これが景気の悪化といわれるものだね。原発を廃止すると、そういう悪い循環が起きますよ、っていう主張が書いてあるんだ。
 景気が悪くなれば、もちろん影響は製造業だけでは済まない。高校生の君たちだって、直接悪い影響を受けるんだよ」
 「え、僕たちも? どんな?」
 小牧が驚いて聞き返す。
 「まず、就職戦線が今よりもっともっと大変になる。高校生も大学生も、卒業後の就職先が減る。今現在も就職は厳しいと言われているよね。でも実のところ先進国の中では、日本の失業率の4%から5%で、それほど悪い数字じゃないんだ。アメリカは9%くらいだし、多くの国は日本より大変な状態なんだね。しかし、原発を止めると景気が悪くなるのが事実なら、日本もこれから数年で失業率が10%、15%と急に上がっていくかもしれない。失業率15%というと、この8人が就職を希望していてもそのうち1人か2人は失業者ということになる」
 相倉さんは両隣の小牧と磯村の肩に手を載せる。2人は迷惑そうに身をよじり、相倉さんは笑って手を引っ込めた。
 「日本は高齢化も急速に進んでいるんだったね。20歳から64歳までの働くことができる人たちの数は、日本全部の人口に比べて、どんどん少なくなっている。いまのところは『働ける人口』は全人口の6割ほどだけど、この『働ける人口』の中には専業主婦や学生も含まれる。だから『実際に働いて経済を支えている人たち』はもっと数が少ない。超高齢化と雇用の不安とが同時に進む社会がもう目の前にあるのかもしれないんだ。
仕事がみつかった人でも、賃金が比較的安いとか、その仕事がずっと貰えるかが保証されない、非正規労働者と呼ばれる人たちも増えているよね。景気が悪くなれば必然的に、正社員でさえ解雇される危険性が高まってくる。それに、これは統計の数字にはなかなか出ないことだけど、自分の希望通りの仕事がみつかる人の数は本当に少なくなるだろう。仕事で夢がかなう可能性がとても小さい。みつかった仕事をいやでもやるしか生活する手段がない。そんな社会って、どうかな。安心して、夢や希望を持って生活できるかな、峰岸はどう思う?」
 「・・・それはもちろん、すごい不安だと思う。だって私には子どもが2人いる設定なんでしょ? 専業主婦だったとして、ダンナが失業したら、そっこうで生活できなくなっちゃう」 
 「でも、ちょっと待って。原発がなくなったら、必ず景気は悪くなるって決まってるんですか? この経団連の人の言うことは、絶対正しいの?」
篠原が切り抜きをつまみあげながら尋ねる。 
 「それはいい質問だね。未来の予言だから、必ずそうなるかどうかは誰にも言えない、人間は神様じゃないものね。でも使える電気の量が減るのは、物理的に確実なことだとさっき言ったね。そして、減ったままでは困る。工場が止まってしまうのだから。今のところ、これに代わるエネルギーとして、電力会社は火力発電所を再稼動したり新設したりしているけど、実はその燃料となる石油やガスの値段が高騰しているんだ。なぜだと思うかな、橘?」
 「え・・・私よくわかんない」
 「理由はたくさんあるよ。一つでもいいから、思いついたことを言ってみてよ」
 「え・・・」
 橘は助けを求めるように峰岸の顔を見たが、峰岸はぱっと目を伏せた。倉持が小さな声で橘にささやく。「日本が買うからじゃないの?」。橘は頷いて、相倉の顔をうかがった。
 「そうだね倉持。正解だ。でも、それだけじゃない。他にはどう?」
 「・・・ドイツとか、原発を止める国も、これから石油を買うからですか?」と篠原。
 「篠原はよく物事を知っているね。ドイツは福島の原発事故を受けて、原発を将来廃止することを表明した。ただ、必要な電力はとりあえず隣国から買うと言われている。自然エネルギーの利用も既にかなり進んでいるんだ。でももちろん、火力に力を入れる可能性もあるから、その意見も間違いじゃないね。篠原、とても知的な意見だったよ。
 でもドイツよりもっと大きな燃料の消費地があるんだ。今、世界中で、中国やインド、トルコ、ブラジルなどの新興国が急ピッチで工業化を進めている。みんなも社会の時間に勉強したよね。これらの地域の人口は巨大で、だから大量のエネルギーを必要としているんだ。けれども、石油やガスや石炭は埋蔵量に限りがあるよね。化石燃料と呼ばれるこうしたエネルギーは、地中にあるものを掘り出しているだけで、たとえば工場なんかで合成して新しく作り出すことはできない。少なくとも今のところはできないんだ。そうなると、限りがあるものは、欲しい人が多ければ、欲しい人同士が競争するから値段が高くなるんだ」
 「新興国かあ・・・」
 篠原が遠い目をする。相倉さんは指を折りながら続けた。
 「それで、燃料の値段が高くなると、その燃料を使って作り出す電気の値段も上がる。電気を使う企業の収入は減る。企業の収入が減れば、働く人の給料も減り、もっと悪くなれば雇用自体が不安定になり、人がモノを買わなくなっていく。そしてその影響で景気が悪くなり、企業の収入が減り、また給料が減り・・・こうやってどんどん、悪化が連鎖していくんだ」
 「じゃあ・・・原発をなくす、ってことは、確実に不幸になる、ってことになっちゃうわけなのね?」
 峰岸が不安げにたずねると、相倉さんはにっこり笑った。
 「景気は悪くなりそうだね。でも不幸になるのか。それは、どうなのだろう。それは峰岸自身や、国民ひとりひとりが、どう感じるかによるよね。もっと節電を頑張って、ゲームも冷たいジュースも我慢して、就職戦線がめちゃくちゃ激しい競争で、たとえ就職できても失業に備えて貯金して、物価が高くなるから買えるものも少なくなるし、老後も不安だらけ・・・こんな生活をしても、100年に1度原発事故が起きて、多くの人たちを犠牲にするよりずっといいと思っているならば、その人は不幸ではないのかもしれない」
 篠原の目がその意見を受け入れるように挑戦的に光り、何かを言おうと口を開きかけたが、
 「無理だよ、それ。生きていても、なんにも楽しいことないじゃん。少なくとも僕は、そんな世界じゃやっていけない」。磯村が情けない声でうめいてがっくりと肩を落とした。
 「でもそれでも、私はそれでもやっぱり原発には反対だな」と、峰岸が下を向いたまま早口でつぶやいた。
 「私も、原発廃止賛成」。篠原が磯村に向かって、フッと片頬で笑った。
 「さあ、議論が可能になってきたんじゃないかな。原発廃止派と、容認派と、意見が分かれてきたように思う。もう少し、8人で話し合って、よく検討してみてよ」
 相倉さんはにっこりと微笑むと、丸椅子をつかんで立ち上がった。

(改頁)

 相倉さんが近づいてきても、『企業』グループは肘をついたりそっぽを向いたり、協力的とはお世辞にも言えない態度で迎えた。
 「やあ、『企業』のみんな。どんな感じかな?」
 「相倉さん、見ての通りだよ。無理だね、だって俺たち、ほんとは企業じゃないもん。企業のことなんか何もわかんないよ。バイトの経験ぐらいしかないしさ」
 大島悠樹が口をゆがめて抗議した。
 「まあまあ、そう言わずに、力を貸してよ。たしかに企業役は難しいよな。4グループの中で、たぶん一番難しいかもしれない。君たちの苦労はよくわかるよ」
 相倉さんは丸椅子を引きずって、大島のすぐ横に座りこんだ。
 「企業って、会社のことだろ。うちの親父がいつも、会社の偉いやつなんてろくでもないやつばっかりだ、って言ってるよ」
 相倉さんは大島の頭に片手を載せる。
 「そうじゃない『偉いやつ』もきっと世の中にいっぱいいるさ。
 企業といってもいろんな種類があるよね。議論のために、役回りを決めよう。大島は建設会社になってくれ。栗原が電力会社。高橋は自動車だ。石野が観光業で・・・あとはそうだな・・・浅井が百貨店、伊藤は食品。河原崎が商社で森田は運輸だ、この2人は輸出入にかかわる仕事だな。みんなそこの会社の『偉いやつ』だ」
 失笑のような笑い声が漏れた。伊藤のぞみがノートをとる。

 大島悠樹=建設、栗原力哉=電力、高橋木の実=自動車、石野沙希子=観光、浅井怜一=百貨店、伊藤のぞみ=食品、河原崎純=商社、森田奈々=運輸

 「じゃあまずは注目の電力だな。栗原。君の意見を聞こう」
 相倉さんが長い指を組み合わせて、発言を待った。
 「もちろん、電力会社だから、原発存続。俺個人は違うだよ、でも電力会社の立場ならぜったい存続」
 「うん、そうだよね。じゃあ栗原に賛成の人はほかにいるかな?」。相倉さんは7人を見回す。「あれ、高橋。自動車は賛成じゃないの?」
 「賛成・・・かも。だって、たしか自動車工場も、輪番停電で困ったんでしょう?」
 「そうそう、そうだったよね。自動車の生産ラインが停電で止まって、製造台数が落ちたんだったね」
 相倉さんはファイルをぺらぺらめくって新聞の切り抜きを出す。
 「これは震災1ヵ月後の記事だ。ありとあらゆる産業に影響が出ている様子だね」

東日本大震災 景気、失速の恐れ 部品不足で生産停止も
2011/04/10 東京読売新聞 朝刊
 東日本大震災の発生から1か月近くがたち、日本経済への様々な影響が表面化している。被災地では企業の生産や交通網、小売店の営業などが少しずつ元に戻りつつあるが、処理が長引く原発事故や深刻な電力不足が、今後も経済全体に悪影響を与えるのは確実だ。生産の停滞や消費の冷え込みが続けば、日本の景気が一気に下降局面に向かう恐れもある。
 宮城県石巻市の精密部品メーカー、堀尾製作所は地震で生産が止まった。国内従業員は50人ほどで、自動車用のオーディオ部品を大手部品メーカーなどに納めている。中国ではDVDのデジタル情報を読み取る部品を作り、世界シェア(占有率)が2~3割に達する。
 石巻の工場は3月24日に生産を再開したが、今月7日に余震が起き、直後から堀尾正彦社長の携帯電話に取引先から相次ぎ電話が入った。同社の動きが幅広いメーカーに波及するからだ。堀尾社長は「今後もフル稼働できる」と説明する。
 「早く生産を始めないと他の地域に顧客を奪われる」との危機感から、被災地の企業は復旧を急いでいる。東北経済産業局が8日時点で青森、岩手、宮城、福島の主な製造業百数十社に聞いたところ、約半数が操業を再開した。
 大手では、トヨタ自動車が8日、グループのセントラル自動車宮城工場(宮城県大衡村)と関東自動車工業岩手工場(岩手県金ヶ崎町)を今月18日に再稼働すると発表した。日産自動車のいわき工場(福島県いわき市)も18日から操業を再開する。日立製作所の日立事業所(茨城県日立市)も3月末に復旧した。
 ただ、生産の再開はまだ手探りだ。
 特に約3万点の部品を使う自動車は、一つでも部品が欠けると生産ができなくなる。自動車用半導体(マイコン)で世界シェア4割を握るルネサスエレクトロニクスの主力の那珂工場(茨城県ひたちなか市)の操業が7月まで止まる見込みで、「在庫がなくなれば再び自動車各社の操業が止まる」(業界関係者)とささやかれる。
 電機でも、ソニーが原材料や部品の不足で国内や海外工場の一部生産ラインを停止。4月下旬と5月下旬に発売予定だったホームシアターシステムの発売日が未定となった。
 部品に加え、首都圏などでは電力も足りない。ブレーキ大手の曙ブレーキ工業は3月中旬、工程が止まれば型に流し込む金属が固まってしまうため、計画停電の対象になった群馬県館林市の鋳物工場を全休にし、代わりに休日に操業した。
 東京電力の計画停電はひとまず打ち切られたが、夏場の電力不足はさらに深刻となる見込みで、大企業は25%、中小企業は20%の節電が求められる。
 日本自動車工業会は、自動車や鉄鋼、化学などの業界ごとに輪番で工場の停止日を決める「輪番休業」を日本経団連などに提案する方向だ。ただ、業界や企業ごとに電力の利用状況などが異なり、調整は難航必至だ。生産への打撃が広がれば、工場を海外に移す動きが加速する恐れもある。
 一方、震災の影響は日本製部品を使う海外企業にも及んでいる。米フォード・モーターは今月4日から1週間、米ケンタッキー州の工場で大型車の生産を止めた。クライスラーも、カナダ・オンタリオ州にある工場とメキシコ工場の2か所で残業を取りやめた。
 米アップルの多機能携帯端末「iPad(アイパッド)2」も小型電池や高精細画面用のガラスが日本製とみられ、今後、部品の確保が困難になるとの見方が出ている。
(以下略)

 「計画停電って、風呂に入れないとかいう、ちっこい問題じゃなかったんだね」
 大島がしみじみと感心したように言った。
 「うん、そうだね。企業にとってはたしかに死活問題だった。生産量が落ちて、輸出量も落ちたということは、製造業だけでなく商社や運輸も困ったってことだね」
 相倉さんの言葉に、河原崎と森田が顔を見合わせて頷く。
「ということは僕たち2人も、原発に反対はできないってことですね」
 「さあ、次は原発反対派の声を聞こう」と相倉さん。
 「はい」と伊藤のぞみが手を挙げた。「私、食品業の立場からは、ぜったい原発反対です。個人的にも反対ですけど。だって、お茶とか牛肉とか、セシウムが付いているとかで大変な騒ぎじゃないですか。これからずっと、こんな心配が続くかもしれないんでしょう。すごい怖いことだと思うんです」
 「そうだね。食品業界は安全が命だ。ほかの業種はどう?」
 「観光業の立場からも反対です。東北観光は大打撃って聞くし。それに何よりも、外国からのお客さんが日本に来なくなっちゃった。私の行っている英会話教室も、あ、『私』って企業じゃなくて私個人だけど、何人も外国人講師が帰国しちゃって、春先は授業できなくなってたくらい大変だったんだよ。だから個人的経験からも、観光業にとって原発事故は本当に大迷惑」と石野沙希子が続ける。
 「こんな議論さ、やっても意味無いよ。だって立場が全然違うわけじゃん。食品や観光は反対、製造業は賛成。当たり前だよね。どうやったら結論を一つになんてできるわけ?」
 大島が眉をしかめて、隣の相倉さんに異議を述べた。相倉さんは大島に向かってやわらかく微笑むと、
 「まあまあ、まずは全員の意見を聞いてみようよ」
 と小声で返した。それを見ていた浅井怜一が、相倉さんの意を汲むように、右手を軽く挙げて発言した。
 「百貨店も原則は反対です。だってやっぱり、百貨店は食品をたくさん扱っていますから、食品に汚染の被害が出ている現状からは、原発には反対せざるをえません。
 ただもう一つの立場もあるんです。店舗としては、停電が起きるのは困ります。4月には僕の家の近くのデパートは、営業時間を短くしてしまっていました。僕はたまに、放課後に母と待ち合わせて映画を見るのですけど、閉店時間が早まったせいで、4月は一度も行けませんでした。もちろんこれは、僕個人の立場からの発言ですが、デパートの立場からしても、母と僕という常連客を2人失ったわけです」
 「それじゃ浅井は、半分原発に反対だけど、半分は賛成ってこと? お利口さんの言うことは、違うねえ」と栗原があてつけるような薄笑いを浮かべる。
 「悩ましいところですね。百貨店が営業するために電気は必要です」
 浅井はひるまずに落ち着いて認めた。
 「でも電力不足はいずれ、自家発電などの導入で解決できるかもしれません。実際、さっき言った百貨店は、そういう試みをすると公式サイトで告知していました。電力については、企業が自助努力で改善することが可能ですよね。それに比べると、放射性物質の方は自助努力じゃどうにもなりません。さっき相倉さんがおっしゃったように、水や野菜から始まって、肉や土や、放射性物質が影響を及ぼす範囲はもっと広がるのかもしれません。さらに言うと、風評被害に関しては、僕たちは完全に無力です」
 「浅井くん、さっすがあ。やっぱり秀才だなあ」
森田が目をくるくるさせて感心した。浅井はちらりと目を向けて微笑んだ。
 「いいえ、そんなことないですよ。僕の母がミニコミ紙の契約ライターをしているので、いろいろ調べてくるんです。僕の知識はほとんど母の受け売りです」
 「今、浅井から『風評被害』というキーワードが出たね。去年の夏に食中毒事件が起きた時も、何度も耳にした言葉だったよね。今回の風評被害は、どんな被害だったんだろう」。相倉さんが8人に発言をうながす。「みんなの家の話でいいよ。ちょっと過剰反応かな、とみんなが思ったような例はないだろうか」
 森田が「はーい」と手を挙げて応じた。
 「うちのお母さんね、牛乳を買わなくなっちゃった。肉もだめなんだから、牛乳はもっとだめかもしれないって。お母さんも、気にしすぎかなって自分で言ってはいたんだけど・・・」
 「え、まじ? 牛乳は誰かがチェックしてから売っているんじゃないの?」と石野が急き込んで遮った。同意見を募るように、ほかの6人の顔をきょろきょろ見回す。「うちのお母さんは、売っているものは大丈夫だからって、普通に買ってるよ。ていうか私、毎朝飲んでるよ。だめだったの? お店で売ってるものは、検査とかしていて、基本大丈夫なんじゃないの?」
 石野の剣幕にも、森田はのんびりと答えた。
 「うん、うちのお母さん、わりと神経質なんだよねえ。でもさあ、牛肉の時は、もうお店で売られた後で、誰かが食べちゃった後で、実はセシウムが入ってたっていう話が出たじゃない? 給食とかにもなっていたんでしょ。だからお母さんは、産地には悪いけど、牛乳も安心できないって言うんだよね。どうしても買うなら、ちょっと高くても北海道のとかがいいって言ってる。念のために、ってね」
 石野はみるみる凹んでいった。
 「なんかそれ、奈々が言うわりには説得力あるなあ。・・・えー、だって私、毎朝飲んでるものなのに・・・いまさらそんなことを言われるのはいやだなあ。まさか、もしかして、みんなのうちもそうなの?」
 「さあ? 俺んち、牛乳飲まないからね」と栗原。
 「チーズやバター、ヨーグルトだって牛乳から作っているんですから同じことですよ」。浅井が淡々と述べると、栗原が浅井を睨みつけた。高橋がおどけて片手を広げ、栗原の視線を遮ってみせる。「うちのお母さんは牛乳を毎日買ってるけど、どこの牛乳なのかは私、気にしたことなかった。自分のお母さんが選んだものなら、安全だと思うじゃない? 私は奈々のお母さんの気持ちも、沙希子のお母さんの気持ちも、両方わかるなあ」
 腕組みをして考えていた大島が割り込んだ。
 「ちょっと、確認したいんだけど。福島産の牛乳が今、スーパーに並んでいるとするよね。それを森田のお母さんみたいに買わないのが『風評被害』ってことなの? たとえばさ、全然関係ない九州産の牛乳まで誰も買わないんだったら、それは根拠のないとばっちり被害だろうよ。でも東北産なら、放射線量が低くて基準以下だったとしても、もしかしたら子どもに悪い影響が出るかもって心配だから買わない、ってことなんだろ? 横に北海道産が並んでたら、大体の人はそっちを選ぶよね。みんなそうだろう? なるべく原発から遠い地域の牛乳を選ぶのは、いわゆる『生活の知恵』ってやつじゃないの? だって、スーパーの棚に並んでいるものの中から選ぶのは、金を出して買う側の、権利でしょ? なんか『風評被害』って言葉は、こっちが『加害者』にされたみたいで、超気持ち悪いんだけど」
 相倉さんは「ほう、なるほどね」と感心して、大島の疑問を復唱した。
 「農協は放射線量を検査して、基準値以下の結果が出た牛乳だけを販売している。しかし、それを避けて買わないのも、消費者の権利であり合理的な選択だ、という意見だね?
 この大島の意見に賛成の人」
 7人ともためらわず手を挙げた。
 「全員が大島に賛成だね。しかし今のは高校生としての意見じゃないかな。みんな、このクラスのルールを思い出して、企業の持ち場に戻ろう。自分が何の業種の人間だったか、自分の立場を思い出そう。
 さあ考えて。考えたね? 改めてもう一度きくよ。大島の意見に賛成の人」
 7人とも困ったようにそわそわした。
 「ひとりの消費者が、ある品物について『心配だから買わない』選択をするのは一見合理的だ。自分の知識の範囲で、より安全だと思える物を選んで買う決定権は、個々人にある。じゃあ、みんなが『合理的な消費者』になり、福島産品を避けたら、どうなると思う。
食品会社の伊藤はどう思う?」
 「そりゃあ、福島産の牛乳だけが売れ残っちゃうと思います」
 「そうだね。その可能性が高いと僕も思う。東日本中のたくさんの店で、大量に福島産牛乳が売れ残ったとする。浅井の百貨店や伊藤の食品会社には『売り上げの落ち込み』という被害が出るだろう。だから、福島産牛乳にはもう損をしたお店から発注が来なくなるよね。このようにして福島の酪農業が壊滅的な打撃を受ける。
 これは福島産牛乳だけにとどまるだろうか。現状では『より安全に見える』食品を求める結果、西日本や北海道産品が同じ商品棚に並んでいれば、より福島に近い東北や北関東の農産物は選ばない傾向があるようにも思う。
 もしこの『合理的行動』が全国規模で継続して繰り返し行われれば、同じように、東北と北関東産の牛乳が大量に売れ残る。よって東北と北関東産の酪農家も打撃を受ける。その結果、東日本で牛乳の品薄を招き、小売業者は西日本から牛乳を買う。牛乳は急な増産はできないから、・・・だって牛は生き物ですぐには大きく育たないからね、日本全国で牛乳が品薄になり、乳製品の価格が高騰する」
 相倉さんが8人を見回す。伊藤が小さい声でつぶやく。「価格が高くなるくらいは、この際、仕方ないんじゃないかな。みんな許してくれるよ」
「そうだね。価格が高くても、それが必要なものなら仕方なく、あるいは納得して買う。酪農家が不当に儲けているのではなくて、原因は原発事故だとわかっているのだしね。
ただ、牛乳の価格が高くなると事態は確実に次のステップに移る、と僕は思う。おそらく河原崎の会社が次なる一手を打つんじゃないかと思うんだけど、それは何をするのだかわかる? 河原崎、どう?」
急に名指しされた河原崎は、へどもどして下を向く。
「僕が? ええっと・・・僕は、商社で・・・」
「そう。河原崎は商社だ。貿易を行う会社だね。
きっと河原崎の商社は、中国産などの牛乳をたくさん買い付けてきて、日本市場に流すんじゃないかな。どうかな? これまでは国産の牛乳が新鮮で安全でおいしいとされ、市場を満たしてきたけれど、原発事故のせいで信頼は得られなくなったし、品薄になった。商社にとって、儲けにもなり消費者にも喜ばれる、絶好のチャンス到来じゃないだろうか?
河原崎が輸入すると、森田の運輸が全国に運び、安い外国産牛乳が大量に出回り始めるだろう。企業として理にかなった行動だ。浅井の百貨店、伊藤の食品もこれらの牛乳を取り扱う。なにしろ国産が品薄で高価だから、必需品を安く買いたい消費者の期待に応えるため、また企業として利益を上げるためにはやむを得ないのだ。
しかしその一方で、牛乳を生産しても売れなくなった国内の酪農業が大打撃を受けるだろう。安い外国産が入ってきたため、高すぎて売れなくなった国産牛乳は、市場から退場する。酪農家が一度廃業を決めて牛を処分してしまうと、再開は簡単じゃないんだったね。もし何年後かに牛乳が売れるチャンスが来ても、既に酪農は衰退し、日本から消えていることになる。
これが、消費者が、念のために安心な牛乳を選んで買うという『生活の知恵』に基づいた行動がもたらすかもしれない、一つの結末だ。誰にも悪意はなかった。消費者は合理的な行動をした。そして企業も、合理的に動いていた」 
 8人ともあっけにとられて相倉の口元を見つめていた。
 「あのう・・・つまり、東北の牛乳を買わなかったうちのお母さんが、間違っていたってことなんですか?」
 森田が無邪気に尋ねた。
 「森田、もはや問題はそんな小さなところに、ない」。栗原がぴしゃりと決めつける。
「そんな言い方ないよね」「ぜんぜん間違ってないよ」「仕方ないことじゃん」。女子が森田をかばうが、森田は首をかしげて口をとがらせた。
 ややあって、河原崎がおずおずと手を挙げて相倉さんに聞いた。 
 「それじゃあ・・・どうすればいいんですか? 僕が牛乳を輸入しなければよかったの? それなら、輸入は禁止しちゃえば?」
 「自由経済の国ではそうはいかないなあ。それに河原崎の会社の輸入を阻止しても、別の会社がするだろう」
 「それじゃあ、全部の会社に呼びかけて、みんなで団結して輸入しないようにするとか」
 「日本中の商社が? もしそれが可能だとしても、外資系の商社が輸入するだろうね」 
 「結局、『利益』だけ考えたら、このグループは『原発賛成』だよ。俺は建設業だから、原発の施設とか作った方が儲けになるんだし、賛成するしかないよね。食品だって百貨店だって、結局利益重視だろ」
 大島が投げやりに発言した。 
 「でもさあ、食品はやっぱり安全が『利益』なんじゃない?」。伊藤が反論する。「安全じゃないと思われたら、売れなくなっちゃう。そうしたら儲けも出ないでしょ」
 「もし原発を廃止して、景気が悪くなるのが確実なら、企業はみな売り上げを減らしますし、食品業界も打撃を受けます。そういう意味では、食品業も例外ではなく、原発廃止の悪影響を受けますね」
 浅井が冷静に答えた。
 「ほらほら。企業は結局、大事なのは利益だろ?」
 大島が勝ち誇る。 
 「あれ。もしかするとだけど、大島は、企業が利益を追求することは正しくないことだと考えるのかな」
 相倉さんがにっこりと笑ってたずねた。大島は、驚いて振り向いた。 
 「へ? ・・・それは、まあ。相倉さんだって、みんなが勝手に利益を追求すると、酪農が潰れる話をしたばかりじゃん。利益ってさ、だいたい誰かを犠牲にするものだろう?」
 「なるほど、一理あるね。他の人間なり企業なりを犠牲にしても儲けちゃいけない、という考え方だね。大島、いまさらだけど君っていいやつだよな」
 大島が発言の裏を探るような視線を向けたが、相倉さんは大真面目な顔をして何度も頷いた。 
 「『企業』って、他の何を犠牲にしても利益をあげたい、という強欲なイメージを持っているのだろうか。みんなもそう思うかな? 大島に賛成?」
 「それは、まあそうですよね。ある程度は仕方ないと思うんです。企業は、利益を追求するために努力するものですから」と浅井。ほかの6人も目顔で賛意を表した。
 「うん、そうか。では、ひとつ質問をしたい」
 相倉さんは考えをまとめるように、しばらく宙を見つめて、人差し指を立てた。
 「『企業の使命』とは、なんだろう」
 あまりに茫漠とした質問に、8人は力が抜けたようにしばらく天を仰いだ。
 「やっぱり、儲けること、なのでは?」と浅井。
 「うん。浅井は正しい。では、どうして企業はそんな、いわば『身勝手』が許されるんだろうか?だって、自分の利益だけを追求するなんて、さっき大島も言ったけど、実に身勝手なことだよね。たとえばある高校生が、自分の成績だけを追求して、試験前に友達にノートを貸さなかったら? たぶん嫌なやつだと思われて、仲間はずれにされたり悪口を言われたりするよね?」
 「たしかにそうゆう傾向はありますね」
 浅井が無表情に答えると、ほかの7人が顔を見合わせてくすくすとしのび笑いをした。
 「そうだよね。高校生の自己中心的態度は、仲間に許されない。とすると、なぜ企業は公然と自分勝手なことをしても許されるのだろう。他の企業を出し抜いて新しい製品を売り出した企業や、1社だけで何兆円も儲けた経営者が、神様のように崇められるのだろう。
 実は、企業はこの社会の仕組みの中でも、とっても優遇されている存在なんだ。たとえばある年に売り上げが減って赤字が出た場合には、その企業は税金をまけてもらえる」
 「え、そうなの?」
 「まあ、条件はあるけど、払う税金はとても少なくて済む。そのために儲けが少なかった会社は、できるだけ経費を増やして、赤字決算に見せようとさえする。でもそうした赤字の企業も、自分たちが営業するために必要な、道路や橋や治安や、そうした税金で提供されるサービスを大いに利用しているわけだね。たとえ税金からお金をもらって公共事業を請け負う企業であっても、期末に赤字であれば色々な税金の支払いを免除される。公共サービスや税金を利用して、そのぶん他の人たちに負担させていることになるんだ」
 「ひでえな。不公平だ」と大島。
 「ひどい、か。確かに大島の意見にも一理ある。でもそうやって企業が優遇されるのには、何か理由があるんじゃないだろうか。なにも理由がないのかな? もしあるとすれば、それはどんな理由かな。さあみんな、考えてみて」
 相倉さんは穏やかな微笑を浮かべて、考え込んだ8人を見回す。
 「難しいかな。じゃあ、質問を変えてみよう。みんなの中で、ご両親の少なくともどちらか片方が会社勤めだという人はどのくらいいる? パートタイマーでもいいよ」
 森田以外の7人が手を挙げた。
 「そうか。じゃあ君たち8人のうち7人もの人が、企業から親御さんが貰う給料の一部を使って生活していることになるね。それって、ものすごく多い比率だよね。どうかな、この割合が、企業が優遇される理由の一つだとは考えられないかな。雇用を生み出し、給料を払うことで、従業員と家族の生活を支えること。企業はこれによって『社会貢献』をしている。君たちは、企業のおかげでご飯を食べているんだ」
 8人は疑わしそうな顔を見合わせた。
 「でもそれ、企業のおかげなの? 働いている親のおかげじゃないんですか?」と伊藤。
 「もちろん、直接君たちを養っているのは親御さんだよね。でも、国民一人ひとりが、独立して事業を営むのは簡単なことじゃない。能力や資金や環境は、誰にでも平等に備わっているわけではないからね。農家もお店も、自営業者は、黒字を目指して努力するけど、赤字になってしまう可能性もあるよね。しかし会社勤めをしていれば、毎月決まった額を会社から給料として払って貰えて、絶対に赤字にはならない仕組みだ。特別な知識や能力や資金がない人も、安定した収入を得て家族を養えるんだ。そうした雇用を国民に提供するのが企業の役割だ。他にも重要な役目がある。たくさん儲けた分を使って研究開発に投資し、技術を進歩させ、便利で快適な生活を提供するのも企業だ。企業同士が支えあったり、海外と交流したりすることもある。儲けが出たらたくさん納税して地域を潤したり、儲けの一部を慈善活動や文化事業に使って社会に還元したりするのも重要な役目だ。だから企業が赤字の時には、国が税金を免除したり、特殊な場合には税金をつぎ込んだりして支えることさえある。その企業がもし行き詰まって、大勢の従業員がクビになったら、その人や家族の生活が壊れてしまうから。技術が失われたり、その企業が支えている別の企業まで悪影響を受けたりするから。それに、その企業が立ち直っていずれ黒字を出せるようになれば、今度はたくさん納税して社会に貢献してくれるから。
 社会に貢献するという大きな使命のために利益を追求する、それが本来の企業の姿なのではないか。
 ・・・どうかな、大島、君の企業に対する印象は、少しは変わっただろうか」
 大島は目を見開いたまま、ゆっくりと頷いて言った。「たしかに、そんな風にSは、考えてみたことがなかった」
 「企業は重要だと授業の冒頭で言ったね。みんなでもう一度、企業の立場に立って、原発の問題を再検討してほしい。電力不足や停電をがまんし、景気が悪くなって失業者が増えても、原発を廃止するべきなのか。また地元の人たちや食品の安全を犠牲にしても、景気や生活の便利さを優先させて、原発を存続させるべきなのかを・・・」
 8人とも当初と打って変わった真剣な表情を浮かべて、思案に沈んでいった。相倉さんはその様子をうれしそうに見ながら、そっと丸椅子をつかんで立ち上がり、『企業』グループを後にした。

(改頁)
 
 相倉さんが近づいた時、『諸外国』グループは大人っぽく談笑をしていた。何人かが椅子を寄せて相倉さんに場所を譲ると、相倉さんは微笑んで丸椅子を置き、背中を丸めて座り込み、会話に耳をすませた。
 「イタリアは原発を廃止するかどうか、国民投票をして決めたんでしょう。だったら日本もそうすればいいのに、どうしてやらないの?」
 「人口が多くて面倒だからじゃない? ドイツは、投票はしないで、首相が原発反対に意見を変えたんだよね? 日本もこの前、そうしたんじゃなかったっけ。あれ、でもその後、首相がまた代わったから・・・」
 「どっちにしても、世界中が原発を廃止する方向なんでしょう。じゃあ、日本もそうするべきだよね。それが世界の一員としてのつとめだから。っていうことでOK?」
 「うん。異議なし」
 8人が言葉を交わしている様を、相倉さんは微笑んでながめた。
 「誰がどの国なの?」
 「どの国って決めてないけど、マイケルは米国籍だから自然にアメリカの立場かな。あとはイタリアとドイツのことを、基美から聞いていたんです。基美のお爺さんが元外交官で、基美はヨーロッパのこととか詳しいんです」
島袋波那が答えた。佐藤は謙遜して、大げさに首を振って見せる。
 「じゃあ、役を分けてみよう。国井がアメリカ。原がイギリス。土谷がイタリアで佐藤がドイツ、菊池がフランスで本間がオーストリア。片瀬が中国で島袋がトルコってところかな」

 国井ファーガソン・マイケル純=アメリカ、原田友紀乃=イギリス、土谷明=イタリア、佐藤基美=ドイツ、菊池祐一=フランス、本間悟=オーストリア、片瀬愛=中国、島袋波那=トルコ。原がルーズリーフに手早く書きとった。

 「僕がオーストリアって、なんで? なんか唐突な感じ」と本間。
 「そう。陸続きの四方をよその国に囲まれた、とても小さな国だね。資源をほとんど持っていない。海もない。みんなもよく知っているように、歴史ある音楽の都だから観光客はとても多いけどね。
 実は、原発はそんな国にこそ向いていると思われているんだ。資源がない国が自前で発電するためにね。コストも比較的安い。火力発電所と違って温室効果ガスも出さない。大気汚染の原因にもならないクリーンなエネルギーだと、長い間もてはやされていた。
 だからオーストリア政府も原発を作った。けれど完成と前後して行われた国民投票で、原発は使わないことに決まった。莫大なお金をかけて建設したのに、なんと一度も発電に使われないまま閉鎖したんだ。もう30年以上も前のことだよ。その後チェルノブイリで原発事故が起きると、今度は原発を持たない決意を憲法に書き込んだ。オーストリアは、経済発展や生活を便利にすることより、安心安全を選びとった国なんだ」
 「へえ、すっげえ。進んでるんだね」
 本間がちょっとくすぐったそうな顔になった。
 「さっきの様子だと、『諸外国』グループとしては、日本に原発を放棄するよう勧めるという結論になったのかな」
 「そうです。だって日本は地震国ですから。これからまた大地震が起きる可能性が高いし、津波もくるかもしれない。ヨーロッパはそんなに地震や津波がないから、事情が違います。日本は原発を放棄した方がいいと思います」
 佐藤基美がまとめてみせた。
 「イタリアやドイツは、どうして原発をやめる方針をとったのだったっけ?」
 「イタリアは国民投票です。ドイツは政治家が、3・11の日本を見て、原発が怖いとわかったので、廃止を決めました」
 「よく勉強しているね、佐藤。じゃあ、イタリアやドイツは、原発を止めた後、足りなくなるエネルギーをどうやって穴埋めするんだろうか。佐藤は知ってるかな」
 「ええと・・・太陽光とか風力とかの自然エネルギーだと思います」
 「その通りだね。ほかには?」
 佐藤は首をひねって、ほかのメンバーの顔を見回す。
 「火力とか水力?」と土谷。
 「それもあるだろうね。既存の施設を目いっぱい利用したり、新規に建設したりするかもしれない。だけど、もっと簡単な道もある。どうだろう、片瀬?」
 「え・・・わかりません」
 「手元に何かが足りなくなった時、すぐに必要になったら、君たちは普通どうするんだろう。シャープペンシルの芯がなくなったら? 消しゴムが見当たらなかったら? 片瀬はどうする?」
 「席が隣だし仲がいいから、波那ちゃんに借ります」
 「そうだね。ドイツもそう考えるんじゃないかな。隣の国から電力を借りる。もちろんお金を払って購入するんだ。ヨーロッパは陸続きで、送電網が国境を越えて張り巡らされている。だから日本と違って、電力を買ってくることが容易なんだね。
 では、ドイツに電力を売るのはどこの国だろう」
 片瀬は片手を口にあてて考え込む。
 「片瀬は隣の席で仲のいい島袋から借りると言った。ドイツの隣で、豊かな発電能力のある友好的な国はどこだろうね?」
 「ああ・・・フランスだ」と佐藤。
 「正解だ。じゃあそのフランスは、どうやって発電しているのかな」
 相倉さんが挙手をうながすが、誰も答えない。
 「それは、原発だ。フランスは原発先進国だったね。今回の福島の原発事故の後処理にも、フランスの企業が力を貸している」
 「・・・それじゃあ、ドイツは原発を廃止する意味がないじゃん。ていうか、フランスに危険を押し付けるわけ?」
菊池が不満そうに声をあげる。
 「ドイツの場合も日本と同じく、原発は全電力の4分の1程度をまかなっていた。だから、急に原発を止めてしまうと、それを補う電力をすべて新規に作り出すことは難しい。石炭や石油、天然ガスを使った火力発電も増やすのだろうけれど、火力は温室効果ガスの排出が多いという別の問題がある。当面は他に手段がないのだろうね」
 「でもドイツは福島の事故を見て、原発をやめることにしたんでしょう? だったら、なぜフランスはそうしないの?」
菊池がたずねた。
 「なぜかというのは難しい問題だけど、やはり国土が広い割に、石油をほとんど産出しないことは大きな理由じゃないだろうか。核保有国なので原発の技術に自信があるということも理由だろう。フランスは原発による発電が全電力の7割を占めている、世界に冠たる原発大国だ。それに福島の事故のずっと前から、日本の原発の運転は、フランスの協力なくしては成り立たない」
 「えっそうなの? 日本よりフランスの方が、技術が上なの?」
 8人とも意外そうに驚きの声を上げた。
 相倉さんはファイルのページをめくり、1枚の切り抜きを取り出した。
 「今回の原発事故が起こるずっと前に、子ども向けのこんな記事が新聞に載っていた。フランスが日本を助けていることも書いてあるけど、他にもいろいろ興味深い事実があるよ。ちょっと読んでみてくれる?」
 相倉さんが、あちこちに赤線を引っ張った記事を机に置くと、8人が頭を集めてのぞきこんだ。
 「これを見ると、原子力発電の仕組みや、簡単には処理できない猛毒の廃棄物が出ること、その処理方法が決まってさえいないことがよくわかるよ」

 2010年2月20日 夕刊 3 夕刊be土曜2面

(ニュースがわからん! ジュニア版ワイド)プルサーマルって、どんな仕組み?

 愛媛県(えひめけん)の四国電力伊方(いかた)原子力発電所で、国内二番目の「プルサーマル発電」が始まります。「日本には欠かせない取り組みだ」という人たちがいる一方で、疑問(ぎもん)を持ち、反対する人たちもいます。プルサーマルとは、どんな仕組みなのでしょうか。

 ●燃料リサイクルし原発で活用
 物質(ぶっしつ)は、目にみえない小さな粒(つぶ)(原子〈げんし〉)でできている。原子の中心には「原子核(かく)」があり、それは「陽子(ようし)」と「中性子(ちゅうせいし)」というもっと小さな粒でできている。原子核に中性子をぶつけると、原子核が二つに分かれ(核分裂〈かくぶんれつ〉)、新しい中性子が飛び出す。この中性子が近くの別の原子核にぶつかることで次々に核分裂がくり返され、大きな熱エネルギーが出る。
 原子力発電所(原発〈げんぱつ〉)は、この熱を活用している。自然から掘(ほ)り出(だ)されるウランという物質を集めて燃料(ねんりょう)(核燃料)として原子炉(ろ)に入れて核分裂させ、この時にでる熱で湯をわかし、その水蒸気(すいじょうき)で発電機を回して電気を起こす。光のようなもの(放射線〈ほうしゃせん〉)が出るが、石油を燃(も)やすのと違(ちが)って煙(けむり)や火を出さずに高い熱をつくれる。ウラン1グラムで、石油2千リットルを燃やすのと同じ熱が出せる。
 使った核燃料は、放射線を出す燃えかすになるが、中にはまだ使えるウランや、ウランが変化してできたプルトニウムがふくまれている。プルトニウムはウランに似(に)た性質(せいしつ)を持った物質で、核燃料に使える。これらを取り出して原発で再利用(さいりよう)(リサイクル)すれば、資源(しげん)を節約でき、廃棄物(はいきぶつ)を減(へ)らせる。石油や石炭、天然ガスなどの資源が少ない日本にとっては都合がいい方法だとして、国は、原発から出た使用済(しようず)み核燃料をリサイクルすることにしている。
 リサイクルしたウランとプルトニウムを混ぜた燃料(MOX〈モックス〉燃料)を原発で使うことを、「プルサーマル」という。プルトニウムを、原子炉(サーマルリアクター)で使うことから、日本で作られたことばだ。昨年秋、九州電力玄海(げんかい)原発(佐賀〈さが〉県)で、初めて実用化された。今年中に、伊方原発のほか、中部電力浜岡(はまおか)原発(静岡〈しずおか〉県)、関西電力高浜(たかはま)原発(福井〈ふくい〉県)でも始まる予定だ。
 電力会社は将来(しょうらい)、全国の16~18基(き)の原子炉でプルサーマルを行う計画。世界中では、2008年末までに、58基で6350体のMOX燃料が使われた。

 ●計画の将来には不安も
 原発は、二酸化炭素(にさんかたんそ)を出さないため、地球温暖化(おんだんか)の防止(ぼうし)に役立つ。しかし放射線は、人が浴びるとがんになったり、周りの環境(かんきょう)に悪影響(あくえいきょう)を与えたりする。だから原発では、放射線を出す燃えかすなどは外に出ないように管理しているが、事故(じこ)でもあれば、それらがもれ出さないとも限らない。
 プルサーマルで使うMOX燃料は、ウラン燃料より核分裂のコントロールが難(むずか)しい。毒性(どくせい)も強いため、とても注意深く扱(あつか)う必要がある。電力会社や国は、きちんと運転、監視(かんし)して、その内容を国民に知らせなければならない。
 実はプルサーマルは、関西電力の原発で最初に行われるはずだった。ところが99年、イギリス製のMOX燃料の検査資料(けんさしりょう)に、うそが書かれていたことが分かって問題になった。02年には、東京電力が原発のトラブルを隠(かく)していたことが分かった。こうしたことが続いたことで、原発のある県などが不信感を持ち、プルサーマルを始めることに慎重(しんちょう)になったため、計画は10年も遅(おく)れた。
 計画の将来に不安を持つ人も多い。国が青森県六ケ所村(ろっかしょむら)に計画中の使用済み核燃料のリサイクル工場や、MOX燃料工場の完成は遅れている。試運転でのトラブルや、安全審査(しんさ)の長期化が原因だ。放射線を出す燃えかすを、最後はどこで処分(しょぶん)するのかもまだ決まっていない。リサイクル費用が高くつくことも分かったので、プルサーマルを進めることに疑問(ぎもん)を持つ人も少なくない。(香取啓介〈かとりけいすけ〉)

 ◆はってんはっけん
 ◇学んでみよう
 <1>日本の原子力発電
 <2>プルトニウム
 <3>高レベル放射性廃棄物
     *
 <1> 日本の発電の内訳(うちわけ)は火力(66%)、原子力(25.4%)、水力(7.9%)、太陽光、風力など(0.7%)の順。国は原発の比率(ひりつ)を40%に上げたい考え。原発は17カ所54基あり、建設(けんせつ)・準備中(じゅんびちゅう)が14基。3月には日本原子力発電敦賀(つるが)原発1号機(福井〈ふくい〉県)が運転40年になる。

 <2> 日本は40年以上、核燃料のリサイクルを考えてきた。イギリスやフランスに使用済み核燃料を送り、プルトニウムを取り出してMOX燃料を作らせ、「高速増殖炉(こうそくぞうしょくろ)」で使うはずだった。高速増殖炉は、使った以上のプルトニウムを作り出せる特殊(とくしゅ)な原子炉。日本は、福井県敦賀市の高速増殖炉「もんじゅ」で研究していたが、95年の事故で運転を止めたままだ。プルトニウムは、核兵器(かくへいき)の材料にもなる危(あぶ)ない物質なので、使わずにたくさん持つと外国にも心配をかける。このため、しばらくプルサーマルで使うことにした。

 <3> 使用済み核燃料からウランやプルトニウムを取り出した後のゴミを、高(こう)レベル放射性廃棄物(ほうしゃせいはいきぶつ)という。高温で放射線を出すため、ガラスに溶(と)かして固め、金属容器(きんぞくようき)で保管(ほかん)。将来は300メートル以上の地下に埋(う)める。最終的な処分場所(しょぶんばしょ)は、反対が多く決まっていない。

 
 「これ・・・つまり、もしかして、日本は国内で処理できないし、処分場所も決まっていない、核のゴミを生み出し続けているって書いてあるんですか?」
 いち早く読み終わった片瀬が、驚いたように叫んだ。
 「そう書いてあるように、僕にも読めるね」
相倉さんは落ち着き払った様子で、片瀬の顔を直視して頷いた。
 「処分って、埋めるしか手段がないの? 埋めるって、どこに埋めるんだよ」
「間違って出てきちゃったらどうすんの。土とか地下水とか大丈夫なのか」
 「そんなの無責任すぎる。最っ低」
 続々と、驚きと怒りの声が湧き上がり、他の3グループが一斉に『諸外国』を振り返った。相倉さんは口を挟もうとせず、そんな8人の姿をしばらく黙って見守っていた。
 やがて、相倉さんがゆっくりと口を開いた。常日頃とはまったく違う、悲しみをたたえた苦しそうな声に、8人はぎょっとして口をつぐんだ。
 「みんなの気持ちは、僕にはよくわかる。僕も君たちとまったく同じなんだ。3月までは何も考えなかったんだよ。原発が核のゴミを出すことや、そのゴミを処分する方法が決まっていないことにさえね。本当はこんな風に記事にはなっていたんだ。この記事の日付を見て。原発事故の起こる1年以上も前に、子ども向けに、誰にでも分かるようなやさしい表現で、こうやって説明されていたんだね。大人たちは、こうした記事やニュースで問題を理解して、とっくの昔に、今の君たちのように驚いたり、怒ったりすることは可能だったんだ。ところがそれをしなかった。
そしてあの日、運命の3月11日が過ぎて、僕はやっと考えて、やっとまともに驚くことができた。今度こそ、あんまり驚いたので、心臓がぎゅっと痛くなったくらいだった。原発が危険だということだとか、学者や政治家がそれを知っていてあえて危険を冒して原発を作ったとか、その事自体に驚いたという意味ではない。
僕が驚いたのは僕自身になんだ。あまりにも愚かで無関心だった自分に驚いて、腰が抜けちゃったよ。気づいてみれば、原発が危険だという情報は、こんなにも、テレビにもネットにも新聞にも雑誌にも、そこら中にあった。ちょっと調べるだけでびっくりするほど、すぐに手の届く身近な範囲に、放射能の怖さを警告する情報はたくさんあったんだ。それなのに僕は何も知ろうとしなかった。僕は新聞をとっている。テレビのニュースもよく見る方だ。聞いたり読んだりはしていたはずなのに・・・右から左に受け流し、他人任せにして、考えようとしなかったのだ。他の人はともかく、仮にも高校で子どもたちを教える立場の僕自身がねえ・・・? 僕はそのことに驚き、今、猛烈に後悔している。
原発はそもそも、日本にできたときも未完成の技術だったし、いまだに完全なコントロールはできていない。とても未熟な技術だった。それなのに、安全なのだと電力会社に言われ、根拠も無く信じ込んできた。いや、『信じ込んできた』なんてウソだよ。本当は、何も気にしなかったのだ。無関心だっただけだ。事ここに至るまで、どうして我々大人は、誰も真剣に考えようとしなかったのだろう。なにもかも電力会社任せにして、安全だと聞かされ安心し、たくさんの電力をただ消費することが、快適でラクチンで都合がよかった。その結果が、あの原発事故じゃないだろうか。
いったん事故が起きると、原発は危険すぎて近づくことさえできないほど、得体の知れないものだった。21世紀の現代の日本でさえ、だ。世界に誇る技術力があると言っていながら、みんなも知っているとおり、事故の直後に大人は右往左往するばかりで無力だった。原発は『メルトダウンしていない』と発表されていたけど、実はメルトダウンしていた深刻な事故だったことが、後からわかって発表された。専門家さえ、どんな事故なのか正確に判断ができないんだ。事故から半年経った今でも、誰一人、原発の中心部・・・格納容器の中がどうなっているのか、確認できた者はいない。燃料が溶けて、どこまで漏れているのか、まだわかっていない。もし格納容器も突き破っていたら、地下水を汚染するレベルまで到達してしまうかもしれないんだ。事故の終わりはまだ遠い先だろう。スリーマイルもチェルノブイリもまだ処理が終わっていないのだから、福島も、僕たちが死ぬまでの間に、処理が完全に終わることはないんだ」
 「こんなことが許されるの? いったい誰が許したの?」
原田がかすれた声で誰にともなくたずねた。
 「原発建設の決定を下したのは、国民を代表する政治家たちだ。理由はたくさんあったのだろう。
 まずは絶対に安全に運転するという自信があったのかもしれない。もちろん過信だったと分かった。
加えて、一つの考え方としてだけど、もしかしたら、進歩には犠牲がつきものだと、事故の可能性を容認したのかもしれないね」
「なんだそれ。うそだろう?!」
菊池が叫び、ほかの7人も鋭く厳しい視線を相倉さんに向けた。相倉さんは穏やかに8人に目を配りながら、淡々と言葉を継いだ。
「恐ろしい考え方だと思うかもしれないけど、実は利便性のためにリスクを取るというのは、ありふれた考え方だ。
たとえば身近な例だけど、自動車は便利でも、交通事故は怖いよね。日本中で毎年5千人近くもの人が交通事故で死んでいく。けがした人まで含める死傷者数だと、なんと90万人にもなるんだ。日本国内だけで1年に90万人、これってものすごい数だよね。それでも、人を傷つける危ない道具だから車を廃止してしまおう、とは誰も言わない。そんなの極端すぎる意見だといって、きっと誰からも相手にされないよね。鉄道も事故を起こす。航空機も、宇宙船も、とても危険な乗り物だ。すごいスピードが出て、一歩間違えばコントロールできなくなる恐れがあるんだから。それでも、乗り物を廃止しようという人は非常に少ない。もっと安全な乗り物、もっと安全な道路を作るため、進歩することを信じて、たくさんの人が努力を重ねているんだ。飛行機でもロケットでも、もしも、危険が少しでもあることはやめようと考えたら、技術の進歩はそこで止まってしまう。ある意味では、『一定の犠牲者』を前提に、乗り物が存在している。もし原発も例外じゃないとすれば、『一定の事故の犠牲者を想定している』・・・そういう考え方は、成り立たないだろうか?」
 声にならない非難の声が、悲鳴のように漏れた。
 「どんな技術にも、進歩にも、犠牲はついて回る」
 相倉さんは静かにつぶやいた。
 「でも、原発の場合、『一定の危険がある』なんてレベルじゃないよね? もっと広範囲で、被害者数だってずっと多いでしょう? それでも許したなんて。それを許した政治家は・・・大馬鹿だとしか言いようがないよ」
本間ががっくりと下を向いてうめいた。
 「本間の気持ちはわかる。本間の言葉は3月11日以降の、日本人の気持ちをそっくりそのまま代弁しているよ。今回の事故は、もっとも強硬な原発支持者、原発に研究人生をささげてきた学者の気持ちさえ打ちのめし、変えさせたんだ。今回のことで、原発推進派から、反対派に立場を転じた人たちは随分いる。政治家にも。ドイツの首相もそのひとりだったね。しかし、いくら危険だと証明されても、やはり、地球上からすぐに原発がなくなることはないんだ。
 危険性について、アメリカで育った国井もよく知っているだろう、スリーマイル島の事故や、君たちが生まれる直前に起こったチェルノブイリ事故という大きな二つの事故の時に、一般の人たちにも危険性はよく知られた。それよりなにより、日本は原爆を人間に対して使われた世界で唯一の国だ。僕たちの国は、放射能の怖さを、どの国よりも身をもって知っていたはずだ。
 ・・・・僕は、君たちに一つ考えてほしいことがある。これほどまでに危険だと知っていて、なぜ人々はあえて、原発を使い続けているのか」
 8人はぼんやりと呆けたように目を見交わす。
 「人類がどうしようもなく馬鹿だからなんだろうか、さっき本間が言ったように?」
 本間が何かを言いかけて、言葉をつまらせた。
 「どうだろう。学者も政治家も、愚かなのだろうか」
 「僕には、馬鹿としか思えなかったから、そう言ったんだ。だって事故を起こすかもしれないって分かっていて、事故が起きると収拾がつかない、誰の手にも負えない危険なものだということも分かっていて・・・それに、無事に使えている間も、処理できない超危険な核のゴミが出る・・・それも分かっていても原発を作ったっていうの? 僕にはわけがわかんないよ、実際」
 「そうだね。しかし明白に危険だと分かっているのに、作ったのだとしたら、そこに何にも理由がないはずはないんじゃないか。だとしたら、その理由はなんだったのだろう。人の命と引き換えにするほどの理由とは、なんだろう」
 相倉さんは辛抱強く同じ質問を繰り返すが、誰も答えようとしなかった。相倉さんは本間を励ますように見た。
 「別の質問をしよう。さっきオーストリアの話をしたね。オーストリアは原発を作った。国民の反対に遭って結局は使っていないんだったね。ではなぜオーストリアは、国内に反対意見があるのも承知で、原発を建設したのだろうか」
 「・・・資源を持たないからだって、さっき言っていなかったっけ・・・」
 「本間、僕もその通りだと思うよ。石油も天然ガスも産出しない、太陽光や風力を使おうにも国土が小さくて効率が悪い。そんな国に、原発は夢のエネルギーだったと想像できる」
 「でも、オーストリアは原発を動かさなかったんでしょう。日本と違って馬鹿じゃないから」
 「利口、馬鹿、というのは、これほど真剣で重大なテーマを扱う時に、適切な表現なのかな。だって現実にはとても複雑に、様々な立場の人や考え方が入り組んでいるのだから、単純に利口と馬鹿の2つに切り分けて考えることは難しいよね。
 もう少し違った視点から問題を見てみよう。これまで人類は、戦争をいっぱいしてきたね。君たちが世界史で学んだ通り、人類はお互いを憎みあい、何度も何度も繰り返し殺しあってきたんだ。国境や宗教などのほかに、戦争の大きな原因の一つは、資源を巡る争いだった。
 特に近代の戦争は石油を巡る争いだ。太平洋戦争は、石油をほとんど持たない日本が、国の成長のために国土を無理やり広げようとして起こった。桁外れに多くの命がこの戦争で失われた。
 これまでそうだったというだけじゃない。今も、日本の近海でも、領海を巡って複数の国が争っている。この争いは、その海底に天然ガスなどの資源が埋まっていることがわかってから激化した。遠い中東やアフリカの紛争に、常に欧米諸国が介入するのも、石油の行方が心配だから、という面がある。
 石油や石炭は化石燃料だ。地中に埋まっているけれど、掘り尽くしてしまえば無くなってしまう。しかし一方で世界の人口は、特に中国やトルコなどの人口は巨大で、しかも爆発的に増え続けているんだったね。しかもそれらの国々は、ものすごいスピードで経済的に成長し、工業化を進めている。燃料も食料も水もどんどん必要だ。新興国が工業化を進めれば、既存の資源を使い尽くすのはもう目前のことなんだ。そうなると、少し方向を間違えば、人類はまた限られた資源を巡って争い合い、凄惨な血の犠牲を払うことになりかねない。
・・・こういう考えはどうだろう。日本は、石油を求めて世界大戦を引き起こしたことを、深く悔いた。そして戦争という大きな過ちを二度と繰り返さないと誓い、そのために石油ではない、新たなエネルギーである原発に夢をつないだんだ。しかも技術が進歩すれば、核燃料のリサイクルが可能になると思っていた・・・いまだにリサイクルは実現していないけれど」
 「話が大きすぎて、僕にはまったくついていけてない」
菊池が途方に暮れたようにつぶやく。
 「うん、そうかもしれないね」
 相倉さんも、ほっと息を吐きだして背中を丸めた。
 「原発を作った動機は、実際には複数あったはずだ。それを当時を知らない僕たちが決めつけることはできない。でも、なんて言ったらいいのかな。すごく危険なものを、危険だとわかっていて覚悟の上で作った。それには、何か深い理由があるはずじゃないか。戦争をなくしたいという人類の悲願は、その理由のうちの、大きな一つなのかもしれない。そんな風に考えると、原発をたくさん作ってしまった大人たちを、単純に責められない気がしないだろうか?」
 8人とも押し黙り、考え疲れた顔を見合わせた。
 「このグループは『諸外国』だ。だけど、日本で原発事故が起これば、それは世界中の人たちに影響を及ぼす。既に国境を超えて大気と海の汚染は広がっている。もしかしたら明日、もしかしたら1年後、世界のどこかの別の原発が爆発事故を起こすかもしれない。その影響はいやおうなく世界中が受けるんだ。
 日本がこのまま原発の運転を続けてよいのか。やめるべきなのか。また、それぞれ『自分の国』はどうするべきなのか。世界は今後、どうあるべきなのか。真剣に考えてほしい」

(改頁)

 相倉さんが丸椅子を携えて、4つ目のグループに歩み寄った。
 「やあ『政治家』諸君。もっとも責任が重い立場のグループだね。議論は進んでいるだろうか」
 「私たちはどう分かれたらいいんですか。与党と野党とかでしょうか」朴が尋ねた。
 「僕は、分かれなくてもいいとも思うけどね。政治家は国民みんなの代表なのだから。でももう役割を振り分けていたなら、それでやってみよう。誰が何の役なのか、僕にも教えて」
 朴がノートを広げて見せた。

 友利英輔=総理大臣、小口彩香=原発担当大臣、高瀬理子=野党党首1、石原智仁=野党党首2、松本浩=与党幹部1、三浦広海=与党幹部2、福沢亜柚果=少数政党1、朴紅珠=少数政党2

 「面白い分け方だねえ。それで、今のところどんな議論になっているの?」
 「まず、僕が脱原発を表明しています」と友利。「で、野党からは『原発をもっと安全なものに直して、使いつづけよう』と提案がありました。で、与党の中を脱原発でまとめようと思ったんですけど、まとまらなくてバラバラだ、ってとこです」
 「へえ、なんだか実際の政治と似たような経過をたどっているようだね」
 相倉さんがおかしそうに笑った。
 「それで、なぜ与党は意見がまとまらないの?」
 小口が手を挙げながら発言した。
 「私は、担当大臣として反対です。だって、原発をすぐ止めちゃったら、電力が足りなくなるんでしょう? 相倉さんさっき『国民』たちのところでそう言っていましたよね。だから、それだと国民が困るから、総理にちょっと待ってくださいって言ってるんです。代わりのエネルギーを何にするのか決めて、確保してからでなきゃ、無責任だって」
 「そうだなあ、責任感は政治家のとても重要な資質だね。小口は大臣にふさわしい判断をしようとしている。それで、何が原発の代わりになると小口は思うの?」
 「そこなんですけど、さっきネット検索してみたら、今のところは火力発電所をフル稼働して補っているんですって。でも、火力発電って、二酸化炭素とかの、温室効果ガスを出すじゃないですか。それだと、地球温暖化が進むからよくないって、そんなの常識だし・・・。今は非常時だから、仕方ないとは思うんですけど。でもずっとこのままでいいのかな。政治家ってそのあたり、何を一番重視して判断するべきなんですか?」
 「それは政治家個々人によるねえ。しかし地球温暖化とは、いいところに目をとめたね。それは大切な論点だ。ほかの代替エネルギー候補は検討してみたの?」
 「一番いいのは、太陽光とか風力発電にすることですよね」と福沢。「二酸化炭素も出さないから地球に優しいし。だから原発は廃止して、自然エネルギーを増やすの。時代は、エコですから」
 「自然エネルギーの導入は、今すぐに実現できるのかな。福沢、どう?」
 「え、だってもう使われている技術じゃない。急いで作って、日本中で使えばいいんでしょ?」
 「じゃあたとえば、原発を停止して、足りない電力をまかなうのに必要な太陽光パネルは、ざっとどのくらい必要だと思う?」
 「全然、見当もつかないです」
 「そうだよねえ。実は計算した人がいて、ざっと1万平方キロという説があるみたいだ。もっとも、将来太陽パネルの機能が進化したら、もっとずっと狭くて済むのかもしれないけどね。1万平方キロと仮定すると、それは日本の国土のおよそ37分の1、県で言うと青森県より少し大きいくらいだ。不可能ではないかもしれないけれど、かなり広大な面積だ。日本は国土が狭く、山が多く、発電に適した平地が多くない。太陽光が当たらないと発電できないから、夜間は役に立たない不安定さもある。雨でも発電量は減る。自然災害が多いから、火山灰が降ったり浸水したりして、たくさんのパネルが一気に破壊される恐れもないとはいえない。それに、パネル自体もまだとても高価だ」
 「じゃあ、風力は」
 「そうだ、風力も期待されているね。でも日本の国土の狭さという点が、太陽光パネルの場合と同じくネックになりそうだ。まず風が十分強く、いつも吹いていて、人里離れているけどあまり離れすぎもしないところを探さなくてはならない。結構、条件にかなった場所は少ないんだ。東北ではうまく稼動している場所もある。しかし以前、ある自治体が設置したところ、目論見よりも発電量がずっと少なくて、訴訟騒ぎになったこともある」
 相倉さんはファイルを探して、新聞記事をとりだした。

茨城・つくばの風車損賠訴訟:早大8900万円賠償確定 市の過失7割--最高裁
2011/06/11 毎日新聞 朝刊
 茨城県つくば市が市内の小中学校に設置した風車(風力発電機)が計画通りに発電しなかったとして、予測発電量を算定した早稲田大などに賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第1小法廷(桜井龍子裁判長)は9日付で、双方の上告を棄却する決定を出した。早大に約8958万円の賠償を命じた2審判決(10年1月)が確定した。
 市は04年、学校に風車を設置して環境教育に生かしながら売電する事業を計画。発電量の調査を早大に依頼した結果、採算が合うと判断し、約3億円をかけ19校に23基を設置。しかし、ほとんどの風車が回らず、発電量は予測の約4分の1となり、採算が合わないため事業を凍結。大学に工事代金約3億円の賠償を求めて提訴した。
 1審の東京地裁判決(08年9月)は早大の過失を7割、市の過失を3割と認定し、早大に約2億900万円の賠償を命じた。
 これに対し、双方が控訴。東京高裁は「市は電力会社などから風力不足を指摘されたのに、計画を再検討しなかった」として過失割合を逆転。双方が、判決を不服として上告していた。【伊藤一郎】

 「設置する前にちゃんと調査はしたんだろうけど、うまく稼働しなかったみたいだね。自然エネルギーっていうと、ものすごく良いもののように聞こえるけど、色々問題は多いんだね。
そうそう、太陽光パネルも風車もだけど、電線を通ると電力はだんだん減るから、本当は電線をなるべく短くするために、設置場所はなるたけ都会に近い方が効率がいい。でもそれがなかなか難しいみたいだ。太陽光は場所がたくさん必要だから土地代の高い場所は無理だし、風車は健康への影響があるかもしれないからなんだ。まだよくわかっていないんだけど、風車が発する低周波が、頭痛を引き起こしている疑いがあって、やはり訴訟になったこともある。人口の多い地域に、電力需要をまかなえるほどたくさん作れるかは疑問なんだ」
相倉さんはごそごそとファイルを探して、別の切り抜きを取り出した。

提訴:風力発電、余生吹き飛ぶ 「低周波音で」兵庫・宝塚の男性、淡路島の家に住めず
2009/11/18 毎日新聞 大阪夕刊
 ◇販売会社「迷惑施設ではない」
 近くにできた風力発電施設の低周波音などで頭痛や耳鳴りに悩まされ、夫婦で余生を過ごそうと淡路島に購入した家に住めなくなったとして、兵庫県宝塚市の男性(67)が大阪市内の住宅販売会社を相手に、4000万円の損害賠償請求訴訟を大阪地裁に起こした。「風力発電ができると説明しなかった」とする男性側に対し、被告の会社側は「風力発電は迷惑施設ではない」と反論。風力発電と健康被害の因果関係も大きな争点になりそうだ。【日野行介】
 先月5日に提訴。訴状によると、男性は05年11月、兵庫県南あわじ市の土地約600平方メートルを2100万円で購入。約5000万円かけて住宅を建て、夫婦で転居した。しかし06年11月、約400メートル北東側の丘陵地にある風力発電が稼働すると、2人とも頭痛や耳鳴り、不眠などの症状が出始めた。耐えられずに08年9月には宝塚市内の旧宅に戻ると、症状は治まったという。
 男性側は「風力発電が出す騒音や低周波音、電磁波が健康被害の原因」とし、「販売会社は住宅を購入した当時、風力発電施設ができるのを知っていたのに説明しなかった」と主張。これに対し、会社側は「風力発電は(健康被害を引き起こす)迷惑施設ではなく、売買時に説明する必要はない」などと答弁書で反論している。

 「でも頭痛とか不眠とか、そんなの原発事故よりマシでしょ。放射能は、頭痛なんてもんじゃない危険レベルだもん」
 「福沢はそう思う? でも実際に自分が毎日頭痛に悩むようになったら、耐えられるだろうか。もし耐えられても・・・つまり自分のことは多少がまんできても、愛する家族が苦しむのには耐えられないものだよね。原発を廃止する代わりのコストだから、自分の娘の頭が痛くても仕方ないと、福沢のお母さんは考えるだろうか? 僕にはそうは思えないな」
 「うーん、確かにうちのお母さんには無理かも。心配性だし。・・・でも、そんなことばかり言ってたら、結局風力発電まで使えないことになってしまうじゃない?」
 「そう、難しいねえ。それも一つの理由になって、だからこれほど原発が増えたのかもしれないね。
 自然エネルギーへの切り替えが進まない理由は、ほかにもある。たとえば、電力をタネから発電すると考えた場合、原子力はそのタネが小さくても、ほかの方法とくらべて格段に大きな電力を生み出せるんだ。原発を他の自然エネルギーで代替しようとすると、とんでもなく大きな面積や大量の燃料が必要だったり、複雑な送電システムが必要だったりするんだ。
 日本が、こうやってさまざまな選択肢の中から、原発に頼ることを選択してきたことは、まったくの間違いだったのだろうか? その歴史認識も、政治家諸君には考えてもらいたい」 
 「間違いに決まっているよ。だって3月11日以降の状態を見れば、明らかじゃん」
 「今の状態は、原発建設を初めて決めた当時の政治家が予想できただろうか? 政治家は学者ではないし神様でもない、いわば普通の人たちの代表なんだよ」
 それまで黙っていた三浦が、小さい、しかしはっきりとした声で発言した。
 「実はさ、俺のじいちゃんは、子どもの時に広島で被爆してる。黄色い原爆手帳を持ってるんだ。今の状態なんか見なくたって、日本が原発なんか作っちゃいけないことは、ずっと前に明らかだったんだよね。日本は原爆の酷さを、広島や長崎の被爆者の苦しみを、そんなにあっさりと忘れてしまったってことなんだろうか」 
 相倉さんは微笑を消して、三浦の目をじっと見つめた。
 「三浦。とても勇気ある発言をありがとう。
 もしかしたら、この事実は、三浦には信じがたい、受け入れがたいものかもしれない。しかし実のところ、日本の政治家が原発建設を決めたのは、1955年前後。戦後10年、原爆投下からたった10年しかたっていない時期だった」
 ため息のような驚きの声が複数漏れた。三浦は無言のまま、大きく息を吸い込んで相倉さんを見つめた。
 「たった10年後。なぜ」
 相倉さんの目を正面から見据えて、三浦がたずねた。
 「三浦は、なぜだと思う? みんなはどう?」
 誰一人答えられず、重苦しい沈黙の時間がすぎた。相倉さんは穏やかに待っていた。8人の顔をかわるがわる、励ますような微笑を浮かべて見回していた。
 「1950年代の日本なんて、みんなには想像もつかないだろうねえ。50年代、世界では東西冷戦の構造が明確になり、朝鮮戦争が起こる。日本ではテレビ放送が始まり、高度成長期を迎えた。僕どころか、みんなのご両親でさえまだ生まれていないくらいの、遠い昔だ。でも、みんなは日本史を勉強しているはずだよね。だからその知識をフルに使って、想像してみてほしい。
1945年。2発の原爆が初めて人類の頭上に落とされ、むごたらしい結果をもたらした。この中には、去年の修学旅行で原爆記念館に行った人も多いだろう。僕も今まで何度も行って、当時の写真や資料を見た。顔に穴があき、眼球が失われ、白い骨さえむき出しに見えている無残な姿の被爆者たち。水を求めて折り重なって倒れている夥しい数の遺体。人類がもたらした最も残酷な結果だ」
 「・・・それなのに」、三浦がつぶやく。「それなのにどうして」 
 「どうしてなのか。それは大きな疑問だけど、逆に、何も理由がないはずがない。そう思わない? だからその理由を、みんなにも考えて欲しい」
誰も声を発することができなかった。相倉さんも目を見開いた真剣な顔つきで、8人に向き合っていた。
「いくつかの答えは、これから回を重ねていく中で、他のグループからもたらされるかもしれない。既に、答えにたどりつきかけているグループもあった。この問題は、時間をかけて、みんなで注意深く考えてほしいんだ。
 ところで」 
 相倉さんはひと息つくと表情を緩め、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
 「歴史の問題はひとまず置いて、自然エネルギーの話題に戻ろう。自然エネルギーはコストが高い、という話はまだだったね。導入すると電気代が上がると言われている。かなり上がるんじゃないかと試算する人たちもいるよ。電気代が上がるとしたら、そのこと自体は、みんなは構わないのだろうか」
 「だってしょうがないよね。非常時だから、それくらいはみんな、がまんするんじゃない?」と朴。
 「あとで『国民』がなんていうか、彼らにも実際にきいてみたいね。だけど、政治家はいつも国民と対話しながら対応を決められているわけじゃないよね。ある程度は国民の反応を予測して、ものごとを決めることが必要になる。だって、たとえば原発の『ベント(換気)』をするかしないか、国民に聞かれても普通の国民は『ベント』なんて何だかさっぱりわからないし、それをやったらどんな影響があるのか見当もつかないし、その場で説明されたとしても、判断なんてできないよね。そうこうしている間に、原子炉が爆発してしまったら大変だ。だから政治家には、必要な知識を持った人たちと相談しながら、素早く判断する権限と責任を持たされているんだ。急場をしのいで一定期間経った後で、国会を解散して選挙を行うことで国民の判断を仰げばいい、という手続きになっているんだったね。
 さあ、では質問に戻ろう。自然エネルギーを導入するために、国民がある程度高い電気代をがまんするとして、どのくらいまでの値上げなら許容範囲だと予想するのかな。ここらへんは空気を読み間違うと大変だよ。だって、不用意な判断をすれば、有権者は次の選挙で政治家に手痛いしっぺ返しをするかもしれないんだからね。友利総理、どうかな。いくらまで値上げしようか?」
 「あの、すいません。僕はまず、自分の家の電気料金がいくらくらいなのかも知らなくて・・・」
 「そうだね。4人家族で平均6500円ぐらいと言われているな」
 「じゃあ、・・・1万円くらいまでならOKかな」
 「すごい、なかなか気前がいいね。つまりだいたい50%アップまではがまんしてもらえそう、ということだね?」
 「・・・はい。この際、仕方ないです。大人たちだってみんなそれくらいの値上げは、賛成するんじゃないかなあ」
 相倉さんが片眉をつり上げながらほかの7人を見回すと、みんな小さく頷いてみせた。
 「他のみんなもだいたい賛成のようだ。では、電気料金を50%増として、製造業全体で計算してみよう。日本の製造業全体の電気料金は年間で8兆円以上らしい。50%アップなら、12兆円だね。うーん、なかなかものすごい金額だ。4兆円もコストが上がったら、当然、製品の売値は上げないとならないだろうね。
 国内企業だけなら、西でも東でもみんな同じような電気料金だ。でも、競争相手は国内だけじゃない。製造業としてのライバルは、まずどこの国の企業だっけ。石原?」
 「えっと、韓国とか?」
 「そうだね。では韓国の電気代はどれくらいかな? 資源エネルギー庁の資料によると、日本の6割程度。つまり40%安いんだ」
 相倉さんがファイルをめくり、資源エネルギー庁の2006年の統計を机に置いた。
 「どうかな。もし電気料金を50%引き上げれば、計算では韓国の2.5倍になる。日本の製造業は国際競争力をこれまでどおり維持できるだろうか。これは『国民』グループでも見せた新聞記事だけど、原発事故後、経団連の会長が原発廃止に反対する意見を表明している」
 相倉さんは今度は新聞記事の切り抜きを取り出した。
 「この中で経団連会長は、電気代が高くなったら、企業は海外に出ていき、国内産業が衰退すると警告しているんだ。この会長は、友利総理の提示した電気代アップ案を黙って受け入れるだろうか?」
 友利はかぶりを振って椅子の背にもたれた。
 「実は、友利の提示してくれた数字は、自然エネルギーを導入したとして試算された実際の数字よりずいぶん高い。もし友利やほかのみんなが賛成した50%アップまでを国民みんなが容認するなら、自然エネルギー導入はお金の面では可能なんだ。ただし、家庭が賛成でも、企業は賛成できないだろう。製造業にとって電気代の値上げは、死活問題となるかもしれない。海外の企業との競争に敗れて、立ち行かなくなる企業が出るだろう。電気代の代わりに人件費を切り詰めようと思うかもしれない。または海外に拠点を移し、国内で人を雇わなくなる企業が続出するかもしれない。どちらにしてもその結果、日本の失業率が上がって景気が今以上に後退し、国自体が危機的な経済状況を迎えるのかもしれないんだ。
 どうだろう、友利でも、ほかの誰でも、50%増という数字を変える意見はあるかな」
 「じゃあ、何パーセントまでなら、企業もがまんできるんですか?」
 高瀬が面倒くさそうに訊いた。
 「その数字がわかれば、そこまで料金をを上げれば。それでその料金で可能な分だけ、とりあえず自然エネルギーを導入すればいいんじゃない。様子見で」
 「それ、いい案かもね」と石原が賛成した。
 「現実的だよね」と小口。
 「そうだね。ここまでは料金だけの問題だ。料金だけなら、いくらまでなら容認できるのか、相談することも難しくないかもね。しかし一方、安定性の問題もある。太陽光パネルや風力は、その日の天気によって発電量が変わるから、安定性に欠けたりコストが高かったりする弱点があるんだったね。そうした不安定なエネルギーを、企業は受け入れるだろうか。『今は梅雨で、発電能力いっぱいの発電はできないので、節電に努めてください。でも、電気代は下げられません』という制度になるのかもしれない。そうすると節電を求められる製造業は、やっぱり生産量を落とさざるを得なくて、その結果・・・」
 「そんな複雑な問題、私たちに解けるわけないじゃん」
 高瀬があきれたようにさえぎる。
 相倉さんは言葉を止めて、困ったような笑みを浮かべた。
 「うん、高瀬の言うことはもっともだ。・・・そしてこの国の方針が定まらない理由も、その複雑さにあるんだろう」
 「だから、大人でも解けない難しい問題なんでしょう? 私たちにどうしろって言うわけ。高校1年生だよ?」
 「君たちと、いっしょに考えたいんだ」
 相倉さんは生真面目に答えた。高瀬は口の中で何やらつぶやくと、ぷいと横を向いてしまった。
 「高瀬、君は思ったことをずばりと言う勇気を持っている。今の意見もとても貴重な意見だよ。だって、真実だからね。この問題は高瀬の言う通り複雑で、大人でも、専門家たちにも解決できない問題だ。テレビのニュースや討論番組で、学者や政治家が長時間議論しているけど、何時間かけても、僕たちを納得させるようなすっきりした解答が示されたことなんて一度もないよね。みんな『それでは時間がきたのでこの辺で』とか言って、お茶を濁して終わっちゃう。
 でも、彼らが答えを出せないから、だから僕たちも何も考えなくていい、なんていう事にはならないんだと僕は思う。原発事故は、この先数十年は終わらない。3月11日以降、事故を収束させるためにさまざまな手段が講じられた。本当はやりたくないことさえしたんだよね。原子炉の格納容器から『ベント』で汚染された気体を抜いたり、高濃度汚染水を海に流したりした。空気中に散った放射能は関東の水道水を汚染した。土も、食べ物も被害を受けた。原子炉の冷却がうまくいかず、水をヘリコプターから落としたり、消防用のホースを使ったり、あの手この手を講じて、今やっと冷却装置が稼働する段階までたどりついたんだ。しかしいまだに原子炉内の燃料を十分に冷やして、もう安全だと言える段階までは至っていない。この事故が落ち着くまでにまだまだかかる。一時的な処理に30年かかると仮定すると、そのころ君たちはもう45歳だ。子育てをし、政治や経済の実務を担っている世代になる。
 もしかしたら君たちこそが、中心になってこの原発問題に向き合い、解決しなくてはならない世代なのかもしれないんだ」
 「原発なんて、私たちが作ったんじゃないじゃない。なんの責任もないじゃん」
 高瀬はふてくされたようにつぶやく。
 「そうだよ。しかし知らず知らず、大きな恩恵を受けてきた。それは大震災の後、輪番停電が始まった時、君たち自身が不便な思いをしたことで証明されてしまった。今は節電に努めているけど、そのおかげでどんなに普段、電気を無駄遣いしていたかを日々思い知っている。エアコンもゲームもテレビもパソコンも自動販売機も、電気があってこそだ。僕たちは、恩恵と同じように、負担も引き受けざるをえないんだ」
 「わかったよ。でもそれ賢い人たちがやって。私、頭悪いから難しいことはわかんない」
 相倉さんは高瀬のそむけた横顔をしばらく見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
 「頭が悪いなんて、高瀬がもし本気で言ってるとしたら、とんでもないことだ。高瀬だけじゃない。高校1年生の君たちは、生まれた時からインターネットが身近だった世代だ。僕たちの世代が小さいときには想像すらできなかったほど、大量の情報を手にし、使いこなしている。君たちはなんでも調べることが可能だ。今も、各グループの机に端末があるけど、この端末を操作して、アメリカの大学やロシアの博物館にだって瞬時に行ける。特に2カ国語を母国語として使いこなす国井や篠原にとっては、いとも簡単なことだろう。世界中の知識は、この端末を通して君たちのものなんだ。この魔法のような環境を使って知識を集め、信頼できる仲間たちとこの場で話をしよう。
 今おろおろと大騒ぎして、政治も科学技術も信じられなくなり、疲れきって喘いでいる上の世代を見てほしい。君たちはこんな風になってはいけない。大人の姿を見て、反省して、二度とこんな間違いを起こさないようにしなくてはいけないんだ・・・」
 そっぽを向いたままの高瀬に、小口がためらいがちに話しかけた。
 「理子。私だって頭がいいわけじゃないけどさ、考えなくちゃいけないと思うよ。私はわかりませんって投げちゃうのは簡単だけど、今それを言ったら、福島の人たちに対して、申し訳なさすぎる気がする・・・」
 高瀬は小口の言葉に、はっと表情を変えた。
 「なんか、偉そうなこと言ってごめんね」
 「や、こっちこそごめん。彩香の言う通りだよね。ついていけないかもしれないけど、とりあえずは、なんていうか・・・聞いているよ」
 相倉さんはほっと安堵の笑みを浮かべた。
 「高瀬ならきっと、有益な発言をしてくれると思うよ。
 次の回以降は、グループで話しあったりいろいろ調べたりしてもらうんだけど、このグループには特に調べてみてほしい言葉がある。『発送電分離』だ」
 相倉さんは、白紙に素早く5文字を書いて机に置いた。
 「先進国では既に進められている制度だ。何を分離するのか。分離すると、何がよくて、何が悪いか。政治家はどうしていくべきなのか。次の時間に、みんなで話し合ってほしい」
 相倉さんは丸椅子を引いて立ち上がり、大股で教壇へ戻った。
 「さあ、もう時間をすぎている。続きは2週間後だ。起立」

(改頁)

■第2回

 相倉さんは、クラスに入ってくるなり、行程表を黒板に張りながらみんなを急き立てた。
 「さあ、始めよう。今日は行程表の第2回。グループの合意を作ることがテーマだ。時間の許す限り議論をしてほしい。
 この回は、グループで根拠を探しながら主張を固めていってほしい。図書室とOAルームは自由に使っていい。ほかのクラスも利用しているから、譲り合ってね。端末はこの教室でも使える。チャイムが鳴る時間までには戻ってきてほしい。
 では、解散!」
 相倉さんの合図で、各グループは一斉にしゃべり出した。相倉さんはファイルと教室の隅の丸椅子をつかむと、『政治家』グループに近づいて座りこんだ。
 「先回言われた『発送電分離』、あのあとすぐに調べました」と朴紅珠。
 「朴、君の努力にはいつも本当に感心させられるね」
 朴はうれしそうに顔を赤らめた。
 「さっそく、朴の発表を聞こうよ」
 相倉さんは姿勢を正し、朴は急いでノートをめくる。
 「ええとですね。日本では、電力会社が電線も所有していました。『電線も』といったのは、原発や火力発電所などの発電施設を所有していて、その上に電線も、という意味です。つまり、電力の『発』も『送』も同じ会社が担っています。これを分離しようというのが『発送電分離』という考え方でした。以上です」
 「うん。そうだね。よくまとまっていてわかりやすい」。相倉さんが満足そうに目を細めて頷く。「朴は、何を使って調べたの?」
 「OAルームで調べました」
 「ネットを使ったんだね。どう、『発送電分離』の検索結果はたくさんでてきただろうか?」
 「はい。ニュースサイトがいっぱい上位に出ました。同じニュースサイトでも日付の違うページが引っかかっていたので、最近ニュースで繰り返しこのキーワードを扱っているようでした。確かに、いったん調べて意味がわかってしまうと、ふだんのニュースを聞いていても、発送電分離が話題になってるな、とわかったんですよね。多分それまでも、耳に入ってはいたんでしょうね。でも言葉の意味がわからないから、気にとめなかっただけだと思います」
 「そうか。他のみんなはどうだろう、発送電分離って、これまで聞いたことあった?」
 7人とも首を横に振った。
 「実は僕も恥ずかしながら、震災後初めて気づいた言葉なんだ。調べてみたら、3月11日以前にもニュースが取り上げたことは何度もあった。新聞や雑誌にも出ていた。だから、本当は知っていたはずの言葉なんだ。でも、僕も朴と同じで、ちゃんと気にとめて聞いていなかったみたいだ。
 原発事故の後は、発送電分離という言葉が、ニュースで扱われることが急激に増えたね。朴、特にどんな場面で使われていただろうか」
 「えっと、私が見た中の一つのニュースでは、ベンチャー企業が自然エネルギーで発電した電気を使って貰おうと計画しても、電力会社が送電線を使わせてくれないから、自然エネルギーが普及しないんだと言っていました」
 「そうそう。電力会社が発電も送電も一緒に担うと、『電力自由化の妨げになる』なんて最近ニュースでよく言っているよね。このことが、以前から一部では問題にはされていたんだけど、原発事故の後は大いに注目されているんだ。
 原発に頼っているシステムは、電力会社にとってはとても効率がよかった。原発は一つ作ると、莫大なエネルギーを日夜出し続ける。電力は水や石油と違って溜めて置くのは難しいから、昼も夜も大量に使ってくれることが、原発にとっては都合がいいんだね。だから電力会社が旗を振って、オール電化住宅の普及にも努めてきた。大口の需要家には、電力をとても安く割り引いたりもした。
 事故が起こらないうちはこうした大量生産・大量消費のバランスがとれ、比較的『安価』なコストで『安定』した発電ができて、企業や家庭に『必ず買ってもらえた』。
 『安価』だというのは、石油を発電エネルギーとして使わないから相場に左右されずに済むことが大きい。日本は石油を輸入に頼っているということは習ったね。ウランも外国から買ってくるんだけど、石油ほど購入量が多くない。原発を一度建ててしまえば、発電コスト自体は安いと考えられていたんだ。
 『安定』しているという意味は、停電が少ないということだ。調べてみるとわかるけど、国によってはしょっちゅう停電するところもある。発電の絶対量が足りなかったり、電線の整備がうまくいっていなかったりと理由も様々だ。米国みたいな先進国でもたびたび停電は起きている。だけど日本は停電がとても少なく、電力会社は信頼されているんだ。そんなわけでこれまでは誰も、電力会社が発電と送電を握っていることに、文句をつけなかったんだ。うまく物事がまわっているときって、誰も文句は言わない。たとえ声を上げても、面倒くさい人間だと非難されるだけで、味方してくれる人は少ないものだよね。
 『必ず買ってもらえる』というシステムは、別の言葉では、地域独占とも言う。関東と静岡は東京電力、東北は東北電力、北海道は北海道電力・・・というように、戦後は全国で10の電力会社が、地域ごとに発送電を独占しているんだ。その地域では、電力会社は1社だけ、という意味だ。競争相手がいないから、価格の競争は起きない。料金の決め方にも批判が多いんだけど、電力会社が必ず儲かる電気料金を設定できるような仕組みになっている。普通の企業だとそうはいかない、高くしたら売れなかったり、安くしたら儲からなかったりして苦労するんだけど、日本の電力会社に関しては、まったくリスクがないんだ」
 相倉さんは一呼吸置いて、懸命にノートをとっている8人を見回した。
 「つまり、電力会社だけ、ほかの企業と違って、えこひいきされているってこと?」。松本が手をとめて、首をひねりながらつぶやいた。
 「その通りだね。こんなに電力会社に有利な仕組みが許されるのは、彼らが電力の供給という、とても重要な役目を担っているからだ。・・・と説明されたら、どう。『政治家』の君たちは納得するかな?」
 説明がいきなり質問に変わり、俯いて書き取っていた8人は、あわてて顔を上げて忙しく視線を交わす。相倉さんと視線がぶつかった福沢が、仕方なしに答える。
 「え・・・。納得するかって言われても、なんて返事していいかわからないですけど。何か必要があって、そう決まっているんじゃないんですか?」と福沢。
 「そうだねえ。何か必要があるのかなあ」
相倉さんが微笑んだ。
「それも調べてみてほしいな。電力会社が有利な条件で営業している必要性を。これはインターネットで調べられるのかなあ。ちょっと難しいかもしれない。もし簡単に調べがつかなくても、あきらめないでね。みんなで相談して、いくつか仮説をたてて検証するのも、答えに近づく一つの方法かもしれないね。
ところで次に、こんなデータがあるので、見てほしいんだけど」
 相倉さんは、付箋をたよりに本を開いて机に置いた。

『有力企業の広告宣伝費2010年度版』日経広告研究所刊
東京電力 販売促進費 238億9200万
       広告宣伝費 243億5700万 ・・・

 「おおもとがこの専門誌なので持ってきたけれど、このデータ自体は雑誌やウェブマガジン、個人で活動しているジャーナリストらがこぞって取り上げている。だから専門誌のデータだけど、たどりつくのは難しくない。調べれば身の回りのメディアを通して見ることが可能だ。
 広告宣伝費が1年で200億円とは、気が遠くなるような金額だねえ。公表しているだけでもこのような莫大な金額が、テレビで放映するCMや、新聞などの広告掲載料として支払われている。こうしたお金の動きは、どんな効果をもたらすのだろう。特にマスコミに対して、どんな影響を及ぼすだろうか。また、さっきの電力会社『えこひいき』システムとも、何か関係があるのかなあ」
 8人が身を乗り出して数字を読み始めた。
  「電力会社からお金を貰っているのは、マスコミだけではない。公表されている数字として見ることはできないけど、政治家や自治体にも献金とか寄付とか、学者たちにも研究費などとして、お金がたくさん流れているといわれている」
 「学者も電力会社からお金を貰うの?」
 「そうだね。企業が学者にお金を出すのは、それほど珍しいことではないよ。奨学金という形で個人に出したり、講座を設ける費用を大学に寄付したり。また宣伝も兼ねたシンポジウムの講師に招いたり、企業内で勉強会を行う際に呼んで謝礼を払ったり。そうやって特定の企業にお世話になった学者たちは、その企業に恩を感じても不思議はないよね。一般論だけど、そうやって企業は、自分たちの味方をしてくれる学者を増やしていくことができる」
 「へえ・・・学者さんって、学問的に正しいことしか言わないものだと思ってた」
 朴が憮然としてつぶやいた。
 「もちろん学者自身は、自分の説が正しいと思って、発言をするのだろうね。学問的に正しいことを捻じ曲げたりはしないだろう。でも、白黒つけられる問題じゃない場合・・・まさに原発は廃止するべきか、というような問いに関して、どちら側に立つかを問われた時、・・・いつも自分の研究を応援してくれる企業の側に立つという気持ちは、なんとなく想像できるよね」
 相倉さんはちょっと悲しそうな顔をした。
 「学者の世界はとても厳しい。好きな研究を続けていくと、食べていくのが大変になってしまうこともよくあるんだ。でも原子力みたいな花形分野は、電力会社のような企業から研究助成金がたくさん出て、食べていける可能性が高いし、ものすごい勢いで研究が進んでいるから世間の注目も高い。名声や地位が得られる可能性がある・・・そういう分野は、やはり魅力的だよね。そして原発反対派には、そうした地位や資金や名声が、まるで約束されていなかった、としたら」
 「学者さんまでそんなものに左右されるの? なんだか私、人間不信になっちゃうな」
 朴が頭をかかえた。
 「学者だけじゃないよ。政治家の多くももちろん献金を貰って、原発を推進してきたんだ。マスコミも、広告を掲載する名目で、毎年多額のお金を貰っていた。だから現在原発があり、それを監視する制度がゆるくて、大事故が起こったことについては、電力会社だけじゃなくて日本全体に広く責任があるのかもね。
 特に君たちはこのクラスでは『政治家』だ。献金などを受け取っていたことがばれたら、その経緯について『国民』の厳しい質問にさらされるかもしれないことを、覚悟しておくように」
 相倉さんは重々しいつくり声で宣告した。8人は「まあ政治家はねえ」「マスコミだって」などと、小さく舌打ちしたり悪態をついたりしながら、相倉さんから資料を受け取った。
 「おや・・・少し意外だなあ。君たちはこの電力会社の、多額で不審な支出を見ても、そんなには驚かないんだね?」
 「学者まで貰っているとしたら驚きだけど。でも、電力会社のマスコミへの影響力は、結構有名な話じゃない? だって、5月ごろだったっけ、タレントが原発を批判して、キー局のドラマの仕事を干されたり、事務所を辞めたりしてネットで話題になったでしょう」
 「そうそう、私、結構彼のこと好きなんだけどな。ちゃんと自分の主張があるって、かっこいいよね。でもそういう人に限って潰されちゃうんだよね」
 松本と高瀬がけだるそうに応じた。
 「だいたいさあ、政治家は腐ってるよね。カネくれる方にすり寄るなんてさ」
 「高瀬、君もこのクラスでは『政治家』なんだよ」
 相倉さんがいたずらっぽく指差した。
 「だから君も、国民から非難を受けたら、答えなくちゃならない立場だ。大金を受け取っているなら、その理由をね。でもまあ、カネを受け取った方の理由は簡単に想像できるけど、なんで電力会社側は大金を配ったりしなくてはならなかったのだろうか。その理由を考えてみると、今まで思ってもみなかった視点が浮かんでくるのかもしれないねえ」
 高瀬は天井を向いて考えていたが、無言のままだった。
 「全然間違っているかもしれないけど」
 三浦が真面目な顔で、ためらいがちに切り出した。
 「相倉さん、前回の、日本が原爆投下から10年で原発を作りはじめたっていう理由なんですけど。あれからずっと考えたけど、俺にはわからなかったんです。今相倉さんが言ったような、お金の話とかがその理由なんですか」
 「うーん。今言ったような、電力会社の宣伝や接待は、その当時行われていたとしても、今ほど派手ではなかったと思っているよ。そのあたりはよくわからない。
 ほかのみんなはどう、三浦と同じように考えてみてくれた?」
 「あの・・・」友利がおそるおそる口を開く。
 「うん。友利」
 「思いついたことを言ってみるだけなんだけど。石油ショック、とかは関係ある?」
 「オイルショックは原発建設の10年以上後、1970年代の出来事だね・・・まったく無関係ではないけど、時代が違うなあ・・・」
 相倉さんは左右に首をひねって言葉を探した。
 「日本が原発を作ると決めたのは、1950年代だ。日本が第2次世界大戦で敗北して間もないころだ。お金もない。物もない。空襲で焼かれた町は徐々に再建されつつあったけど、国内の産業は、何もかもめちゃめちゃに壊れている。しかし、そんな状況にもかかわらず、日本の復興はものすごい勢いで進もうとしていた。
 なんでそんなパワーが生まれたのだったっけ。教科書に載っているから、君たちはもう知っているはずだよね。どうかな、石原?」
 「朝鮮戦争が始まって特需が生じたから、って習いました」
 「そう、正解だ。
 日本のすぐ近くで、ソ連とアメリカという超大国の『代理戦争』がはじまった。朝鮮が南北に分かれて、内戦を始めたのだ。その戦争を遂行するため、アメリカは日本を拠点にし、物資を調達した。それが『特需』だ。日本の製造業は輸出によって急成長したんだ。
 その特需に応えて生産をするには、エネルギーが必要だよね。でも、日本には石油はほとんどなく、輸入するしかない。石炭を主要なエネルギーとしていたが、効率が原油より劣るのは明らかだった。もっと効率よく、安価で、資源のない国に適する発電システム。そこで選ばれたのは原子力、核の力だった」
 「原爆が落とされた国なのに?」
 「そう、三浦がそこを疑問に思うのはもっともだと思う。国内でも多くの人たちが疑問に感じて反対したのも事実だ。しかし、原子力を『平和利用』しようというスローガンは、多くの国民の心をつかんだ。敗戦で傷ついた人たちの心に、科学技術は未来への夢と希望を与えたんだ。みんなも知っている漫画『鉄腕アトム』の連載が始まったのは、まさにこの時代だ。原子の力で動くロボットの物語で、主人公の名が『アトム』、妹の名は『ウラン』だ。原子爆弾が英語でアトミック・ボムだということが忘れ去られたかのように、アトムは好意をもって広く受け入れられた。とても象徴的な出来事じゃないだろうか。原子力は『死の兵器』から『夢のエネルギー』へ姿を変えたんだ。
 その後製造業、そしてそれを支える科学技術力は、日本の新しい看板になって、日本を敗戦後たった30年足らずで、世界第2位の経済大国にまで押し上げた」
 三浦は言葉を失ったように聞き入っていた。
 「原発に反対する人たちも、急激な経済発展の恩恵は受けていた。製造業と関係ない仕事の人でも、たとえ電力をほとんど使わない田舎暮らしの人たちも、日本が経済大国になったおかげで、年金や医療体制、治安や豊かさなどの恩恵にはあずかっている。それにアメリカに次ぐ世界第2位という燦然と輝く勲章は、敗戦で誇りを失っていた国民に、どれだけ勇気を与えたことだろうか。人々は勤勉に働き、丁寧なものづくりで信頼を勝ち得、科学技術力と経済力で世界に尊敬されるようにさえなった。先進国の一角として国際舞台に立ち、アメリカが貿易赤字に苦しんだ際には、驚いたことに、超大国アメリカを助ける役割を演じるまでになったのだ。人々は希望と自尊心を取り戻し、高度成長期をものすごい勢いで駆け上がった。
 戦後10年の、原発導入が政策として間違っていたのか・・・判断は難しい。いわゆる『安全神話』、原発は絶対に事故を起こさないという神話が間違いだったことは今回、福島の事故で証明されてしまった。しかしもし原発がなかったら、果たして、敗戦後の、世界を驚かせた日本の復興と高度成長があっただろうか。あるいは友利がさっき言った、1970年代の石油ショックは乗り切れたのだろうか。今の平和で豊かな日本があっただろうか」
 相倉さんは押し黙った8人の様子を見ながら、答えを待たずにそっと腰を上げた。
 「日本は今、深く傷つき悩んでいる。でも君たち『政治家』は、そんな中でも判断することから逃れられない。正しい道かどうかわからなくても、情報が足りない段階でも、批判されることを覚悟の上でも、判断を迫られる宿命が『政治家』にはある。
 時間の許す限りぎりぎりまで、議論を続けてほしい。日本の将来を背負っている、君たち8人の健闘を祈るよ」

(改頁)

 『国民』グループは、小さなメモをたくさん作っている途中だった。橘美歩が手元に集めて読み上げた。
 「ええと、まず『節電』、これは必須だよね。『火力発電』、今のところ原発が停止している分は、火力でなんとか穴埋めしているんだよね。あとは、『太陽光発電』『風力発電』『地熱発電』『水力発電』『バイオ燃料』『スマートグリッド』『天然ガス』・・・『天然ガス発電』って、『火力発電』に含まれるよね。『石油』『石炭』『天然ガス』はまとめて『火力発電』か。ほかにはなんかある?」
 「アメリカでは最近、『シェールガス』がホットな話題だけど」と篠原。
 「なんなの、それ?」
 「んー、深いところにある天然ガス、かな。以前は掘る技術がなかったんだけど、最近掘り出せるようになったんだって。今まで天然ガスっていうとロシアや中東が輸出するものだったんだけど、シェールガスがアメリカで大量に埋蔵されていることがわかったの」
 「へえ。それ、日本では出るの?」
 篠原は忙しくキーボードを打ちだした。
 「うーん、残念だけど、出ないみたい。でも日本の海底にはメタンハイドレートはたくさんあるんだよ。これも天然ガスの一種なんだよ。ただ、実用化はまだできていないんだ・・・」
 「日本が今利用できるものじゃなきゃ、しょうがないじゃん」
 磯村がつまらなそうに言った。
 「そんなことないよ。アメリカと日本は仲がいいから、アメリカで天然ガスがいっぱい採れるなら、日本も利用できるじゃない。中東やアフリカだと、いつ政治が不安定になるかわからないし、アメリカで取れるっていう意味は大きいよ」
 「でも結局、シェールガスも、火力発電だよね。バイオ燃料も、結局は燃やすんでしょ。二酸化炭素が出るよ」
 橘が冷静に指摘した。
 「今、原発の代わりには、石炭と石油と天然ガスをいっぱい燃やして発電しているんだよね。シェールガスが加わったとしても、地球温暖化一直線じゃん」
 「そうだけど。でもシェールガスが大量に掘られるようになったら、天然ガスの価格が下がるかもよ? 燃料の値段が安定するって、それは一応、良いニュースでしょ?」
 篠原が諦めきれないように食い下がった。
 「アメリカにとってはそりゃ、いいよね。外国に売って儲けるんでしょ」
 橘が冷たくあしらった。
 「そういえばこの間、ケーブルテレビの特集で『海流発電』っていうのをやってた。それも代替エネルギーの候補に入れたいな」と斉藤涼子。
 「『水力』と同じじゃないの?」。橘が確認する。
 「違う違う。『水力』は陸上でダムとか利用して発電するやつでしょう。海流発電は、ダムとか作らなくていいの。小笠原諸島の沖とか、黒潮と親潮がぶつかっている所とか利用して、海の中で水車をたくさん回して発電するようなイメージだったよ」
 「え、そんなことできるんだ?」と小牧聡が目を輝かす。「それいいじゃん、日本の近くって海流いっぱいあるよ。僕はよく沖で釣りをするけど、小さい船なんかに乗ってると、海流とか潮流とかの、ぐぐぐぐって引きずられていくような、怖いぐらいのパワーを感じるもん。あれで発電できたらすごいと思うな。それ、もう実用化されてるの?」
 「それが、まだなんだって。国の研究予算がなかなかつかないって話だったよ。海を利用した発電はほかにも、海面と海中の温度差を使った方法もあるみたい。海を使って発電ができるなら、日本はめっちゃ有利だよね。だってさ、まわり全部海だもん」
 斉藤が目を輝かせて答え、興味深げに近寄ってきた相倉さんを見上げた。
 「海で発電か。斉藤、僕もそれはきいたことがある。たしか、実験を始めた国内の団体もあったと思うよ。ぜひ詳しく調べて、みんなに教えてね。
 ところで『国民』グループは、もう原発を廃止するかどうか、方向は決めたっていうことなのかな」
 いつもの丸椅子をセットしながら、相倉さんがたずねた。
 「原発は廃止したい、ということで、だいたい合意しています」と篠原ローラ祐子が答えた。「福島の人も、広島や長崎の人も、気持ちはいっしょです。峰岸さんも『母』の立場から廃止を強く主張しました。それで、みんなで倉持くんを説得しました」
 峰岸有花が甲高い笑い声をあげた。「実際、ほとんど説得するまでもなかったんだけど」
 相倉さんは倉持純一を振り返る。
 「倉持は、本当に納得したの?」
 「はい。個人的には原発には反対ですし。原発メーカーは辞めて、別の仕事を探すことにします」
 倉持が姿勢をただして決意を述べると、笑い声が広がった。
 「そうか。一方で、原発を廃止する際の課題については、解決済みなのかな?」
 「電力不足で景気が後退する問題ですよね」と磯村健太。「だから今、みんなで停電を起こさなくて済むよう、代わりの手段を検討中なんです。ひとりひとりが思いつく方法をメモにして、書き出しているところなんです」
 「そうか。それで海流発電の話が出てきたんだね。なるほど。ただ心配なことがある。原発を全部止めた分を補うだけの量を、海流発電みたいな、研究中のエネルギーだけで確保できるのかな。いますぐに、全部の量を?」
 「そんなこと、見当もつかないです。計算できるんでしょうか?」と篠原。
 「使えるものは使って、できるだけ調べてみて。一市民だって、努力次第で情報を手に入れることができる時代なんだから」
 「ネットとかでは、本当は、安定している方法だから、火力発電所を増やすべきだっていう意見が多かったんです。テレビでもなんかの特集番組でやっていました。日本は石炭を利用する技術が世界一だし、石炭なら埋蔵量も多いから、100年以上もつんですって。
 でも、それじゃあ二酸化炭素がいっぱい出て、温暖化もとめられない。だから私たちは、自然エネルギーを増やしていく方向を話し合っているんです」
 「気持ちは分かるよ。地球温暖化防止のために、これまで国際社会は一生懸命だったんだからね、3月11日までは。急に方針を変えることは難しいだろう。ただ、自然エネルギーは不安定な要素が多い。太陽光も風力も欠点があるから、これまでも基幹のエネルギーにはならなかったんじゃないかな」
 「でもそれじゃあ、自然エネルギーで、原発を止める分全部の電力をまかなえなかったら、原発は止めてはだめだって結論になるってことなんですか」
 峰岸が不満そうにたずねた。
 「いや、そんなことはないよ。でも計算上足りないままだったら、『企業』や『政治家』グループが原発廃止に納得してくれないかもしれないね。特に政治家たちはね。だって彼らは政策のリスクやデメリットも調べたり考えたりして、全国民に説明しなくてはならないからね。君たちがぜひ実現したいと思う政策であれば、それをやっても大丈夫ですよ、デメリットがあってもこうやって解決できますよ、という説明ができた方が、相手を説得しやすいんじゃないかな。
 たとえば『国民』が、原発を廃止してくれるなら節電に努めます、ケータイもゲームも要りません、自販機も不要です、と主張したとする。けれども『企業』はそれでは賛成できないと言うかもね。だって彼らはモノを作り出すための電力が必要だからやたらに節電を約束できないし、ケータイやゲームやジュースの売り上げがなくなったら、そもそも生産活動をしていけないのだから」
 「そっか・・・。じゃあ企業が必要な分だけ火力発電でまかなって、あとは国民が節電する、とかなら?」
 橘が提案すると、篠原が首をかしげた。
 「でも家庭の節電だけでそんなに効果あるのかなあ? うちは3年前にオール電化の工事をしちゃったから、このあいだうちは一生懸命節電したけど、正直、電気料金はたいして変わらなかったんですよね」
 「家庭の消費電力って、全部の電力のうち、どのくらいにあたるんだっけ」
 相倉がきくと、倉持がキーボードをたたいた。
 「資源エネルギー庁のデータによると、だいたい全体の3分の1です」
 「ありがとう倉持。それなら、節電の効果も決して小さくはなさそうだね? でも家庭だけの節電では無理で、残り3分の2は、企業の節電に頼らなくちゃならないんだな。この夏は大口消費者には節電義務が課されている。だから成功したのだとも言えるね。
 それに家庭は、篠原が言ったようにオール電化の家もあるから、たくさんの節電を期待するのは難しい」
 「なんでうち、オール電化なんかにしちゃったんだろ・・・」
 「いや篠原、オール電化自体は、悪いことじゃないよ。メリットもたくさんある。たとえばお年寄りや小さい子どもがいるうちでは、火を使うのが危ないからと導入を決める人もいるよね。高層マンションみたいにたくさんの人が住む集合住宅だと、そのうちのたった一人の火の不始末が大変な事故につながりかねないから、やっぱり理由があってガスを引かない物件もある。あとは、地球温暖化の問題だ。電気は地球に優しい、環境に優しいと宣伝されていた。原発の発電方式は、石油を燃やす火力発電と比べて、二酸化炭素を出さないからね。いいところもいっぱいあったから、それなりに普及したんだよ」
 「そうなんだ・・・」
 「車も最近、ガソリンではなく電気で動くものが普及しだした。世界中が、化石燃料を使わない方向へ動いているんだよ。この流れは間違いじゃない。君たちも勉強してきたよね。地球温暖化による異常気象や海面の上昇も、大きな問題だからだ。
 そうそう、温室効果ガスの排出制限も、簡単なことではないと学んだよね。これまで制限がなかったところに制限をするのは大変なことだ。制限って、それ自体、各国の製造業の効率という面では、よい影響は与えない。たとえば無制限に黒い排気をモクモクと、出し放題出していた工場に、『排気をきれいにする装置を新しく導入しなさい』と制限を要求すると、そこには今まではかからなかった新しい費用や時間がかかるわけだよね。
 温室効果ガスの排出規制には、まず発展途上国が抵抗をした。産業革命以来、地球温暖化を進めたのは先進国の責任なのだから、先進国が先に規制をするべきで、発展途上国にはしばらく猶予を与えるよう主張したんだ。ある意味、正しい主張だよね。しかしいつまでもそうしていては、地球環境が破壊されて手遅れになってしまうかもしれない。だから国際会議で国同士が何度も話し合いを重ね、ようやく合意をつくり、みんなその合意の枠組みの中で削減を目指している。
 そうした中、日本だけが大震災を理由に、火力発電を増やして二酸化炭素を大量に放出すことが認められるだろうか? 震災があったから一時的には許してくれても、国際社会がいつまで大目に見てくれるだろうか。これは後で、『諸外国』にも意見をきいてみてもいいかもしれない」
 「いろいろ障害が多いってことなのね」
 橘がため息をついた。
 「あたりまえじゃん、簡単だったら、とっくに誰かが答えをみつけてるよ」と松井が応じる。
 「そうだね、松井。でも、僕はしみじみ思うんだけど、高校1年生が、原発についてこんなに真剣に議論するのは、日本で初めての出来事かもしれないよ。だから、もしかしたらこのクラスで、目から鱗の斬新な答えが生まれるかもしれない」
 「何言ってんの相倉さん、ちょっと頭を冷やした方がいいよ」
 松井は呆れたようにつぶやいた。
 「夢みたいなこと期待されても困るんだよ。ここはハーバードとかじゃない、ごく普通の高校なんだしさ。そんな現実逃避していないで、大人が自分たちで真面目に考えなっつーの」
 相倉さんは吹き出した。
 「いや、まったくだね。松井の言うとおりだ。
 僕は夢をみているのかもしれないなあ。賢い高校生たちが、ある日立ち上がって宣言するんだ、『大人にはもう任せられない。僕たちが大人になる時代には、二度と原発事故なんか起こさないよう、僕たちの世代がちゃんと話し合って方法を考えます』ってね。なんとその中心にいるのは、僕のクラスの生徒たちなんだ・・・」
 相倉さんはゆるんだ表情で遠くを見つめていたが、8人の乾いた視線に気づくと照れ笑いをして、丸椅子の上で姿勢を正した。
 「わかった。話を戻すよ。
君たちは原発廃止で固まったと言ったけど、政府と電力会社がこんな提案をしたとしたら、どうだろうか。
 今回、福島と同じ地震と津波に襲われたものの、女川原発はおおむね無事だった。それは、建屋やタービンを設置した場所の盛り土が、福島第一原発より一段高かったからだ。だから、これから地震学者としっかり協議して、盛り土の高さを再検討する。そして全国の既存の原発で高さが足りないものは高くする。もしくは海側に強固な堤防を作って守る。この方法でほぼ完璧に補修をするから、以後、もし東日本大震災と同規模の大地震が起きても、原発の安全は保証する。だから今までと同様に原発を稼動させよう。 
 さあ、どう答える?」
 「ぜったい、ぜーったい、だめです」と峰岸が即答した。
 「なんでだめなのかな、峰岸。ほぼ完璧に修繕するって誓うよ?」
 「そんなのもう金輪際信用できない。今『完璧』って言いました? それ、ウソだから。もう私たち、わかっているので騙されません」
 「『完璧』じゃなくて、『ほぼ完璧』って言ったんだよ・・・ずるい大人の使う言葉だ。
よしわかった。こんなずるい言葉で君たちを説得するのは、もう無理のようだね。
 でも女川原発が東日本大震災でも『ほぼ無事』だったのは、本当のことだよ。それなのに福島第一原発が事故を起こしたから、設置場所もメーカーも古さも違う全国すべての原発を止めて廃止するのは、ヒステリーだという意見もあるよね」
 「ヒステリー? 失礼ねえ!」
 峰岸が甲高い声で叫んだ。
 相倉さんは苦笑いする。
 「ごめんごめん、今のは本気で言ったんじゃないよ。日本の野党幹部が6月、イタリアの国民投票の結果を評して使った言葉だ。イタリアでは原発の稼働に反対の人たちが勝った。そうしたらその幹部は、イタリアの人たちが福島の事故を見て、『集団ヒステリー』を起こして原発に反対した、と公の場で発言したんだ」
 「へえ、いい大人がね。信じらんない」
 峰岸が険しい表情を崩さずに断罪した。
 「それはともかく、『女川提案』に戻ろう。みんなも何度か耳にしただろうけど、東日本大震災みたいな大きな地震は、千年に一度の大災害だと言われている。もしそれが正しくて、大規模な地震がこの先千年起きないとすると、その長い間ずっと地震を恐れて身を縮め、経済成長を捨てて原発を廃止するのは、愚かだという人がいても、おかしくないかもしれないね。どうだろうか」
 「千年先には、僕たちも誰一人生きていないですからね」と小牧。「でもだからこそ、千年間は無事だなんて、そんなの誰も保証できないでしょう。たとえば、海で地震が起きなくたって、原発の真下に断層があって裂けちゃったり、いきなり近くの山が噴火して、溶岩や火砕流が襲ってきたらどうなるの」
 「小牧、実にするどい意見だねえ、敬服する。そうだ。怖いのは地震だけじゃない。一応、現在できるかぎり地質調査を行って、危なくないところに原発を作っていることにはなっている。でも、日本は地震も火山も多い国だから、どこだって危ないと言えば危ない。
 よし、君たち『国民』はなかなか頑固だね。じゃあ、改築したり補強したりしても、原発は維持してはいけないんだね?」
 「無理だね」
 松井がとどめを刺すように低い声で言い放った。
 「それは、二度と福島の事故を繰り返さないためなんだね?」
 8人とも深く頷いた。
 「よし、では、原発を停止する。
 原発に関係する仕事はすべて失われる。大量の失業者が出る。火力発電所が増え、市場で高騰を続ける一方の石油を、高値で購入せざるを得なくなる。必然的に電気代が上がる。高い電気代に困った製造業は海外に生産拠点を移す。その分、国内の雇用が失われる。失業者が増え、景気が冷え込み、賃金は下がる。加えて超高齢社会が到来し、少子化は進み、稼ぎ手が減る結果GDPは下がりつづける。
実際、1人あたりのGDPは現在すでに世界20位くらいまで落ちているという計算もある」
 「20位?」「うそでしょ」
驚きの声がいくつもあがった。相倉さんは手元の資料を幾枚かめくってデータを探した。 
 「あった、あった。統計によって多少順位はばらつくようだけど、国際通貨基金の2009年の統計によれば17位だ。国際通貨基金という団体は、世界中の国の経済について分析して、詳しいデータをいっぱい調べて公開している。どこかの国の経済が知らないうちに悪化しないように、そうやって監視しているんだよ。公式サイトは日本語版もあるから、興味があったらのぞいてみるといい」
 相倉さんはいくつかのグラフを机に載せた。
「経済力だけではなくて、かつて日本が誇った科学技術力も、他の国がめきめき力をつけているせいで、相対的に衰えてきた。今ここで原発廃止を決めれば、原子力の分野で、日本が後進国になるのは間違いない。原子力は発電や兵器だけでなく、医療にも利用されているから、医療分野でも立ち遅れるだろう。やがて製造業も日本の主な産業ではなくなり、産業の中心は観光と病院・介護施設などのサービス業に移るかもしれない。
 君たちはそんな風に社会が変わる中で、失意の20代、30代を過ごすことになる。日本はだんだん貧しくなり、社会保障が削られる結果、格差が広がることも大いに予想される。怖いのはその時、国が負っている莫大な債務の負担に耐えられるかということだ。もし国がお金を返せなくなったら、大変なことになる。国が破産して、ほかの国に助けて貰わなくてはならなくなるんだ。そうなると、もはや先進国とは言えない。貧乏で働き口もない人が増え、夢や希望は失われていく。前回、磯村はそんな暮らしには耐えられない、と言った気がするけど、その気持ちは変わらないかな?」
 「・・・変わらないです。僕は、家も金持ちじゃないし、成績もいい方じゃないし」
 磯村が弱々しく答えると、小牧がため息をついた。
 「まだ高校1年だぜ? しっかりしろよ。勝負はまだ始まったばかりだよ」
 「でも僕、競争なんてそもそも性格的に無理だし」
 相倉さんは磯村と小牧のやりとりを見守っていたが、ためらいがちに口を開いた。
 「競争を避けて、経済力も科学技術力もほどほどの国でいい、という考えもありだと思うよ。既に日本の若者は、海外旅行や車の所有に、あまり興味を示さなくなったと言われているよね。経済発展をしてそれに見合った消費をしなくても、幸せな生活ができるのではないかという考え方は増えてきた。北欧の国がよく例に出される。規模の大きな経済ではなく、人口も減る中、国も経済発展を追わずに福祉国家としてやっていければよいのではないかと。それなら、原発は要らないかもしれないね。
 だけど経済が弱くなるっていうことは、色々なところに影響する。景気という字が表すように、経済は人の気持ちにも影響するんだ。心配なのは、低成長で、しかも高齢者の多い世の中になった時、若者の夢が育たなくなるということだ。日本は第2次世界大戦後、製造業と科学技術の進歩で、いわゆる右肩上がりの成長をしてきた。人は、未来を信じているから、今の生活が苦しくても、がむしゃらに働いてその時期を乗り越えられる。もし未来が見えなければ? 自分や、自分の子どもたちの幸せを信じられなかったら? その時は、一体何を目標に頑張ればいいのだろうか。
 目標、希望というものを見失った社会に、僕たちは戦後初めて突入しようとしているのかもしれない。勉強自体が好きな人は、勉強自体を目的にできる。でも勉強が嫌いな人は、苦労して勉強する意味を見失ってしまっても不思議ではない。だってずっと終わりがない、何度も受験を経ても就職も競争、転職も競争なのだから。一生懸命勉強したからといって、報われるとも限らない。だからといって多くの人が学ぶことをやめる選択をすれば、日本が世界に誇る知識水準が落ちていってしまう。教育の平均的なレベルの高さは、この国の持つ大事な宝物の一つなのにね。そして優秀な人材は、日本で夢を持つことを諦めて、海外へ出て行ってしまうかもしれない。いわゆる頭脳の海外流出だ。
 一定の割合で働けない人や働かない人がいても、他の勤勉な人たちが支えて社会は成り立つ。だけど働かない人が大半になった時、社会はどうなってしまうのかな。
 僕が今言ったことは、原発をなくしたからといって、必ず起こることではない。もし人々が夢を持てなくなっても、GDPみたいな数字がすぐに下がるわけじゃない。人の内面的な変化なんだ。でも数字に直結しないからって、モチベーションが下がることを軽視するのも、危険な気がする。経済が下向きになる時代に、具体的にはどんな影響が生じるのだろう。8人で考えてみてくれないかな。僕は、すでに社会で地位を得ている大人の意見なんかじゃなくて、これからその時代を生きなくてはならない、当事者の君たちの意見が聞きたいんだ」
 相倉さんはファイルを開けると、思い出したように言った。
 「そうそう。そういえば前回、課題を出したよね。なぜ福島に東京のための発電施設があるのか、松井と橘は考えてみてくれた?」
 「えっと、一応調べました。でも、よくわかりませんでした。距離が遠すぎなくて、・・・あと、東京よりも人口が少ないから作りやすい、というぐらいしか想像できなかったんですけど」
 橘が答えると、相倉さんはファイルから1枚の紙を引き抜いて渡した。
 「これは、原発がある福島の自治体に対して、経済産業省から1年間に渡された交付金のリストだ」

2011年5月13日AERA
 ■原発立地自治体への交付金一覧
 [2009年度、千円以下切り捨て。資源エネルギー庁調べ]
 ※交付金は原発立地市町村だけでなく、隣接の関係市町村や都道府県へも与えられるが、立地市町村に対する経済産業省のものに絞った。
《東京電力》
 福島第一原子力発電所1~4号機 福島県大熊町    15億2483万円
《東京電力》
 福島第一原子力発電所5、6号機 福島県双葉町    18億5041万円
《東京電力》
 福島第二原子力発電所1、2号機 福島県楢葉町     8億1461万円
《東京電力》
 福島第二原子力発電所3、4号機 福島県富岡町     9億1476万円

 一同は凍り付いたような表情で、数字を見つめていた。
 篠原が何度か顔を上げ、ものを尋ねるように相倉さんと目を合わせたが、結局また目を伏せて数字を凝視した。
 「原発建設を受け入れた自治体には、こんな風に、巨額のご褒美があった。地方自治体はこうしたお金で、ハコモノと呼ばれる豪華な建物を建てたり、医療費の助成に使ったりした。原発のある自治体は、中学卒業まで子どもの医療費は全額無料にするなど、手厚い行政サービスを持つところが多い。こうした保障を、地元の人たちは電力会社から受け取ってきたんだ」 
 「つまり・・・地元の人たちが、原発の危険性を承知して、受け入れたってことなんですか? そんなまさか・・・お金のために、なんですか?」 
 倉持が信じられないといった表情で頭を何度も振る。
 「これがリスクの対価だと、具体的に認識して受け取ったということではないだろう。でも、原発が危険だということをまったく知らなかった、というのは、正しくない表現かもしれない。薄々は知っていただろうね。これほど多額のお金を毎年受け取りながら、何も危険性を疑わなかったと言われても、ぴんとこないよね。大金であればなおさら、まったく危険でないのなら、なぜこんなにお金が貰えるのだろうか、と考えるのが自然だ。隣の市町村より格段に、目に見えて贅沢な施設や制度を持っていた。それが原発の見返りだということも知っていたし、原発で働く人たちが毎日生活に使うお金で地元のお店も潤ってきた。税収も増えたし、お祭りなどの行事や文化・スポーツ事業には常に手厚い寄付があった。
 しかし、お金を受け取っていたからといって、単純な正義感から、原発のある地元の人たちを責められるだろうか。どう見ても今回、強制的に故郷を追われた住民たちは被害者だ。まして、避難命令の出た自治体のいくつかは、周辺の自治体だ。原発が直接立地しているわけではなく、税収などの恩恵もそれほど多くなかった。あるいは恩恵がほとんどなかった地域もあるはずだ。そうした地域の住民たちは、完全な被害者だ」 
 「そんな・・・。もし、そうだとしたら、同じ被災者でも、周りの自治体は被害者だけど、原発のある自治体の人たちはある意味加害者でもある、ということになってしまうのでしょうか? つまり、自業自得だ・・・と?」
 篠原が目を見開き、かすれた声でたずねた。
 「原発事故の原因は間違いなく天災だった。でも、誰もが安全神話を信じ、危機性の判断や対応を人任せにしていたことについては、住民もいくぶんかの責任はあるだろう。そういう意味では、知らん顔をしていた人たちは、みんな加害者である・・・という考え方も成立するかもしれないね。原発が立つ前からの古くからの住人でも、本来は反対していたのに、お子さんやお孫さんが原発からのお金で潤う現実を見ると、電力会社への批判を引っ込めてしまったかもしれない。都会の人たちは、地方の人たちに危険を押し付け、知らぬ顔を決め込んだ。電力会社は『原発は危険ではない』と言い、あとは札束の力で立地を迫った。国は電力会社に対して監視を甘くし、『安全神話』をでっちあげる共犯者になった。しかし危険ではないと言いながら、なぜか莫大な交付金が地元に支払われた・・・矛盾だらけだ。
 もし、誰かがこの矛盾に気づいていたら? もし、気づいた人間が見て見ぬふりをせずに、告発の声を上げていたら? 周りの人間が、声を上げた人間に共鳴し協力していたら? 手厚い公共サービスが何の代償なのかということに、素朴で当然の疑問を持っていたら? 残念だけど、そんな奇跡は起きないまま、運命の3月11日を迎えてしまった。
 君たちも、もう一度よく考えてみてほしい。『国民』は単なる被害者で、何もする力も義務もなかったのかどうか。何も自分で主体的に考えようとせず、知らされたことだけを信じ、これからもずっと、国民は単なる被害者だと主張するつもりなのか、をね」
 相倉さんは少し青ざめた顔でそう言うと、静かに腰を上げた。8人は、驚きと怒りの入り混じった複雑な表情で、相倉さんを見送った。

(改頁)

 『諸外国』グループは、たくさんの資料を積み上げて議論をしていた。相倉さんはグループの近くにそっと腰を下ろすと、邪魔をしないように聞き耳をたてた。
 「原発から出る核のゴミの処理に、気が遠くなるほどものすごい年月がかかるっていう話は、『100000年後の安全』っていうタイトルで、映画にもなっているらしいんだよね。近くでは上映していなかったからまだ見られていないんだけど、OAルームで過去記事を調べていたら、新聞の1面でも取り上げられていたの。まじびっくりするよ。これを見て」
 佐藤が新聞記事の切り抜きを取り出した。

 [編集手帳]6月6日  
2011/06/06 東京読売新聞 朝刊
 今から10万年前は、最後の氷河期が訪れる前の間氷期と言われ、人類はマンモスなどと共に生活していた。では、10万年後の世界はどうなのか◆フィンランドでは、原子力発電所の高レベル放射性廃棄物を格納する地下500メートルの最終処分施設の建設が進められている。放射能レベルが十分低下するまで維持できるよう設計され、耐用年数は10万年とされる。公開中のドキュメンタリー映画「100、000年後の安全」でも紹介されている◆処分場の記録は公文書館に残すが、10万年後の人類に解読できるだろうか。考古学者が発掘しないよう、絵の標識で警告するといい。いやその頃には、氷河に覆われているのでは……。そんなことを科学者らが、真剣に論じていた◆日本の場合、特殊なガラスで固めて、30~50年にわたり専用施設で冷却した後、深さ300メートル以上の安定した地層に処分することになっている。安全性は十分に確保できるとされている。しかし、処分候補地は未(いま)だ決まっていない◆10万年後の世界は人知を超えるが、後始末は済ませておかなければならない。それが「文明」と言うものだろう。

 「この映画は、公式サイトもできたし、ネットやツイッターにはかなりたくさん情報が出てる。でもなんだか、これが現実のことだなんて信じられないよね・・・原発から出るゴミの処理には、すごい長い時間がかかるって聞いてはいたけど、10万年もかかって、しかも埋めておくしかないだなんて」
 「10万年、ねえ? ・・・それって、どのくらい先なんだろうねえ?」
 土谷が呆けたようにたずねた。
 「ええっと、10万年前が氷河期の前だっていうんだから・・・わかんないよ。想像もつかない。きっとそのころ、人類は地球以外にもたくさん住んでいて、地球外生命体とも交流があって、・・・そんな宇宙の中では日本とかフィンランドなんて、単なる町内会ぐらいになっちゃってるよ。だから、危険なゴミを埋めた場所が、未来の人たちにわからなくならないように、どんな風に目印をつけるのか、真面目に話し合ってるんだって。つまり、フィンランド語とかが10万年後にも通用するかどうか分からないわけじゃん」
 佐藤が困ったような顔をして説明しながら、だんだん笑い出してしまった。
 「ありえない。てか頭おかしいよね」
 「ほんと」「馬鹿みたい」
 相槌が次々に続いた。
 「10万年も後処理に時間がかかるようなもの、そんなものを作り続けるなんて信じられないよね。日本中に50基以上あるんでしょ? それにこれからは中国とかトルコでも原発をどんどん作るんでしょ。日本からもトルコに輸出するとかなんとか、記事が出てるよ、ほら」
 本間が何枚かの切り抜きを机に並べる。
 「まだ、作る気なんだ。もういいかげんにしようよ」
 「ほら、北朝鮮に作る軽水炉とか言ってたやつ、これも原発」
 本間がさらに切り抜きを置きながら説明した。
 「このままだと世界中に原発ができるのかなあ。それで世界中で核のゴミが出たら、それを、どうするつもりなんだろう」
 原田がうんざりしたように聞いた。片瀬と島袋がそれに応じて検索を始めた。
 「とりあえず、どこかに埋めるみたい」と片瀬。
 「えっと、ガラスで固めて、安全な地層の中に埋めるんでしょ。その後の処分場・・・その10万年後まで埋めておける場所ってことだよね、それは、どこの自治体もみんな嫌がって、日本ではまだ決まってないみたい」と島袋。
 「そりゃそうだ」
 片瀬と島袋が端末のキーボードをかわるがわるたたいた。
 「島袋、いま『安全な地層』って言ったよね? それって、10万年後まで、安全って確約できる、って意味?」
 菊池がゆっくりとした口調で問い詰める。
 「さあねえ。そのあたりはよくわからないなあ・・・」
 片瀬が画面から目をあげて、伸びをしながら答えた。
 「どうしてさ、大人ってここまで無責任でいられるわけなのかな?」
 菊池の声が怒気を含んだ。
 「誰もそんな先まで生きてはいないんだから、責任を持ちたくても持てないんじゃないの?」
 土谷がなだめるように割って入る。
 「自分が生きている間さえ無事なら、なんでもいいっていうのかよ?」
 菊池が今度は土谷に向き直った。
 「そんなこと言うけど、正直、私たちもさあ、たとえば電気使えるようになったら、もうそれでよくない? それでとりあえず満足して、福島のことなんかとりあえず忘れちゃうんじゃないの。同じだよ、大人も高校生も」
 片瀬が目をそらしながら、口の中でつぶやいた。
 「最近テレビ見てても、なんか無理やり被災地のかわいそうなネタを探して、報道してるような感じがしない? 実際もう正直、被災地の映像や、原発の状況なんて、みんな見たくなくなったんじゃないの」
 「愛、言い過ぎだよそれ」「不謹慎だよ」
 佐藤と島袋がそろって非難の声をあげた。
 「そう? でもさ、ハイチやニュージーランドの大地震の時も、最初は募金とかバザーとかやったけど、結局すぐ忘れちゃったじゃん。みんな同じだよ」
 「・・・私は愛の気持ち、なんとなくわかるな」
 原田が遠慮がちに言葉をはさんだ。
 「最初は私も、ガチでニュース見てたよ。震災が起こった日は金曜日だったじゃない、だから日曜の夜までテレビつけっぱなしにして見てた。でも1週間くらいしたら、見ると胸が詰まってくるっていうか・・・私もうちの母親も、ニュースを見ていると苦しくなるから見られなくなって、映画専門チャンネルとか見てた。そりゃ、罪悪感はちょっとあったけど」
 「そんなの冷たくない? 苦しんでいる人がいるってことを、知っておくのは一種の義務だと思うよ」
 佐藤があきれたように言う。
 「でもさ、ずっとあんな映像ばかり見ていたら、頭おかしくなっちゃうよ。基美は平気なの? 私は耐えられないんだよ。なんだか自分が普通の暮らしをしているのが、いたたまれなくなっちゃうし」。片瀬が申し訳なさそうに、しかしきっぱりと言った。「私は、あんなかわいそうな映像みながら、ごはんとか食べられない」
 島袋が頬杖をつきながら、遠い昔を思い返すように言葉を継いだ。
 「そういえばいつのまにかなんとなく、普通の生活に戻ったよね。計画停電も終わったし。節電期間も終わったし。・・・これって確かに、さっき言ってた核のゴミを埋める事とたいして変わらないよね。埋めちゃって、見えなくなったら、とりあえずそれで忘れたことにして普通の生活に戻るんだね。いつのまにか、本当に忘れちゃってる。人間って自分に直接関係ないことに対しては、そういうものなんだよね」
 一同は黙り込んでしまった。相倉さんがそっと身を乗り出して、話の輪に入った。
 「君たちの現状分析が事実だったとしても、それのままでいいかどうか、評価するのは君たちだよ。今の状態をよしと追認する必要なんかない。10万年間、危険な放射性廃棄物を地中に埋めておくのが間違いだと思ったら、それを声に出してほしいんだ。
フィンランドの映画の話が出ていたね。明らかに、具体的なメッセージを発信する映画だったんじゃないかな。ということは、そのメッセージを受け取って共感した人は、映画を作ったフィンランドの人たちや、同じ感想を持った人たちと、連帯していける希望があるんじゃないだろうか」
 「連帯・・・」
 国井が顔をあげた。
 「確かに、たとえ日本が危ないことはやめると宣言して、原発をすべて廃止しても、隣の中国や韓国で稼動していたら、そこの事故は日本にも影響する。原発をやめるにしても、日本だけやめればいい、ということにはならないですよね。それじゃあ意味がない」
 相倉さんは国井に向かって大きく頷いて微笑んだ。 
 「そのとおりだね。『諸外国』グループにふさわしい発言だ。
 それにもし日本だけが原発をやめた場合、ほかには困ることはないのかな。電気代が上がったり、景気が悪くなるという主張はあったね。ほかにはどう、何か考えられる?」
 8人は首をひねった。
 「誰かが言っていたね。日本はトルコに原発を輸出するつもりだと。
 原発を作り、維持管理するのは先端の科学技術だ。我々はこれをすべて『悪』として、手放してしまって、よいのだろうか。
 たとえば、こんなことは考えられないだろうか。
 もし将来どこかの国で、『完璧な核燃料サイクル』が開発されたとする。放射性廃棄物の処理方法も、それを再利用して発電に使う技術も、画期的な方法が見つかる。そして、そこには既に原子力技術を捨てた日本は参画していない。完全に他国の技術だ。すると、資源を持たない日本は、安くて安全なその技術を、喉から手がでるほど欲しい。だけど、それはすべて他国から買わなくてはならない。
 もし自国で技術開発を続けていたなら、日本がその核燃料サイクルを生み出していたかもしれない。諸外国がほしがり、特に後発の経済大国、中国やインド、トルコがこぞって買う。そうすれば日本は経済力や技術力を保ち、先進国として尊敬されているだろう。
 しかし2011年に、核関連技術をすべて捨て去ってしまっていれば、数年後に原発先進国から脱落する。国内で廃炉にした原発の管理さえ、廃炉後何十年もかかるにもかかわらず、他国に頼らなくては不可能になる。
 どうだろう。日本は原発の技術をすべて手放し、科学技術の可能性を捨ててしまってもよいだろうか」
 「・・・相倉さん。本当に、ああ言えばこう言うんだね。どうやったらいつも、そんな無理めの設定を考えつくのかなあ?」 
 菊池がげんなりと頭をかかえてみせた。相倉さんは無邪気に微笑む。
 「無理め、かなあ。僕はもしかしたら、ありうるかもしれないケースだと思うんだけどねえ。無理か無理じゃないか、決めつけるのはよくないと思う。今回の原発の事故だって、『想定外』だと言い訳しているうちは、真摯な反省は進まないと思うし・・・」
 菊池はあてつけがましく深いため息をついた。ほかの7人も渋い表情で上目遣いに相倉さんを見た。相倉さんは苦笑いすると立ち上がり、「まあでも、8人で考えてみてよ」と言うと、丸椅子を片手に静かに離れていった。

(改頁)

 「でも、原発はやばいよ」
 大島が発言している横に、相倉さんがそっと座りこむ。大島は座ったまま椅子ごと小刻みに動いて、相倉さんに場所を譲った。
 「企業に尊い使命があるとしても、何をしても許されるっていうわけじゃないよ。やっぱり原発はやばいだろう。これほど危険だってみんなようやっとわかったわけだから。今が原発を廃止するチャンスなんだよ」 
 栗原が腕組みをして宙を見上げた。
 「大島の気持ちはわかるよ。それはわかる。でもさ、急には廃止できないじゃん。ネットでは、火力発電で足りるって言っている人もいるけど、正直、それが本当なのかどうなのか、調べがつかないんだよ。なんとなくだけど、数でいくと、原発全廃には反対の意見の方が多かった気がする」
 「火力発電だけで計算上は足りても、だめなのか?」
 「石油がいつか無くなった時に困るとか、空気が汚染されるとかって問題もあるじゃないか」
 「火力だけじゃなくて、水力とか風力とか、安全なものは何でも使うんだ」
 「やっぱり自然エネルギーか」
 「だから、それだと足りないってば」
 次第にとげとげしさを増す言葉が飛び交う中、浅井が1枚の新聞記事を机に載せた。
 「本当に電力は足りないのでしょうか。この記事はしばらく前に、ツイッターで話題になっていたんです。さっき図書室でコピーしてきたんですけど」

2011年8月1日 朝日新聞朝刊

家庭の電力推計、2割過剰 政府の節電要請、根拠に疑問符

 真夏のピーク時、東京電力管内の家庭が使う電力の政府推計が、経済産業省資源エネルギー庁が調べた実測値よりも2割多いことがわかった。政府は節電メニューを示して家庭にも15%の節電を要請しているが、消費量を多めに見積もったため、家庭に必要以上の節電を求めたことになる。
 エネ庁が5月に公表した推計によると、真夏の午後2時の家庭での使用電力は、在宅で1200ワット、留守宅と合わせた平均で843ワット。東電がエネ庁に提出した昨夏ピークのデータを元に推計した。全使用量は6千万キロワットで、東電はこのうち家庭を1800万キロワットと見積もった。
 この値は実測データよりかなり高い。エネ庁が、電気料金と使用量との関係を調べる目的で、推計とは別に実施した調査によると、昨夏ピークに在宅世帯で1千ワットで、今回公表の数値より200ワット少なかった。シンクタンク「住環境計画研究所」も、エネ庁の委託で2004~06年度に電力需要を調べた。夏のピーク時に世帯平均670ワット、管内全体では1200万キロワットというデータが得られたが、エネ庁はこの数値を今回の推計に使わなかった。
 エネ庁が家庭向けに示した「節電対策メニュー」に従うと、1200ワットの15%にあたる180ワットの節電はエアコン利用を減らさないと達成できない。だが、1千ワットの15%にあたる150ワットなら照明などエアコン以外の工夫で間に合う。東電企画部によると、電力使用量の詳細は大口契約の一部しかデータがなく、エネ庁に出した数字は様々な仮定をおいて推計した。「家庭の使用分は実際より大きめの可能性がある」(戸田直樹・経営調査担当部長)と説明する。
 エネ庁は東電のデータを検証せずに使ったという。担当者は「あくまで推計の世界」と話している。
 (松尾一郎、小宮山亮磨)

「なんだか小難しくてよくわかんないけど、要は役所の出した電力消費量の数字がウソだったってこと? お手上げ。これじゃ、何を調べたって根拠にならないじゃない。政府や電力会社が出すデータも間違いだっていうなら、いったい何が信じられるわけ?」
 石野がやけっぱち気味につぶやいた。
 「信じられる情報かどうか、調べて取捨選択するのは、情報の受け手側の責任だよ。もちろん発信側にも、間違った情報を出さない責任がある。でも責任は片方だけにではなく、両方にある。一つのメディア、一人の人からの情報に頼るのじゃなくて、主体的にいろいろなメディアにアクセスして、それが正しいかどうか吟味する積極的な姿勢が必要とされているんだ」 
 相倉さんが、週刊誌の記事を出した。
 「ついでだからこれも見てくれる? 東京電力が1年で200億円以上を、政治家やマスコミに渡しているっていう記事なんだけど」
 8人が頭を寄せ合って数字を確認し、8人ともが大きくため息をついた。
 「この週刊誌の記事をそっくり信じるなら、つまり政府だけじゃなくて、テレビや新聞も信用できないってことよね。彼らのデータや記事も、莫大なお金を貰って、操作されている可能性があるってことになるわよね」
 石野が淡々と結論付けると、森田も同調するようにため息をついて仰向いた。石野は森田に説明するようにつけ加えた。
 「少なくとも、新聞でもテレビでも、正しいと決めてかかるのは危険よ。そもそもみんなご都合主義よね。テレビなんか、口では節電しろって言いながら、深夜放送さえやめようとしないわけだから・・・」
 「でも、放送局も企業なんだから、彼らも利益を出さなくちゃならないんでしょ」と伊藤。「従業員を守らなくちゃならないわけだし」
 「そんな風に、あっちこっちいろいろな視点からものを見ていたら、いくら議論しても結論なんか出やしないよ。原発は廃止する方がいいって、最初みんな言ったじゃないか」
 栗原が苛立ちを隠さずに言った。
 「でも、廃止したらどうなるか企業の立場で考えたら、良い事ばかりじゃなかったじゃない? 気分だけで決めちゃ、だめだよ。どんな影響があるのかまで、責任を持って考えないと」
 伊藤がとりなすように栗原を見つめた。
 「確かに、頭の中ぐちゃぐちゃなのは、私も同じ。栗原くんの気持ちはすごくわかるよ。でも、きっと原発を作った人たちは、事故が起こる可能性があるかとか、もし起こったらどうなるかとか、核廃棄物のこととか、それでも原発が必要なのかとか、このクラスみたいに、いろんな視点からは考えなかったんだよね。私たちがここで考えることは確かに面倒だけど、これを投げ出しちゃったら、その大人たちと同じだよ。将来またひどい後悔をすることになるような気がするんだ」
 栗原は伊藤と目を合わせ、ほかのメンバーの表情もうかがうと、口をへの字に曲げて「わかったよ」とつぶやいた。 
 「うーん、すごいな」と相倉さんがつぶやいた。「高校生としては原発廃止で一致していたのに、ほかの視点、企業の立場で考えて、違う結論を出すこともできている。君たちは、本当に冷静な分析をして、その上で議論ができているんだね。こんなに君たちがすごいなんて、本当に、うれしい驚きだよ」
 相倉さんが力づけるように8人を見回した。
 「他の人の立場にたって考えられる、ということは、とても大事な能力だ。その能力を持たない人は、実はとても多いんだ。残念ながらね。
 原発を推進してきた人たちの多くは、『安全神話』にしがみつき、反対派の意見に耳を貸さなかった。もっと悪いことがある。それは、正直に情報を出すことをためらったことなんだ。
考えてみてほしい。『事故を起こす可能性がある』なんていう趣旨のデータがあった場合、それを出したら、反対派の人たちから『それ見たことか』と勢いづいて攻撃されるよね。推進派は、本当はその悪い状況を短期間で改善できる自信があっても、反対派がその改善をする前にデータを手に入れたら、推進派への攻撃をエスカレートさせて、結果的に推進派は苦境に立たされるかもしれない。推進派の説明をちゃんと聞いてくれないかもしれない、と疑っているんだね。もしかしたらそんなお互いへの根深い不信感が、推進派がこれまでの多くの事故や危険情報を隠した、一つの原因なのかもしれない。
 原発反対派の人たちも、批判一辺倒で議論の邪魔をし、原発の功罪を冷静に分析しなかったのではないだろうか。推進派の人たちが、リスクを承知であえて、敗戦国復興の悲願を原発に託したのだとしたら、その切ない願いを理解しようとしたのだろうか。
 もし賛成派と反対派が、お互いの理想を実現するために、情報を共有し、互いの意見を尊重して話し合っていたら、二者ともに合意できるプランが見つけられていたかもしれない。その結果、設計の古い福島第一原発はもっと早く改修され、3月11日の震災に耐えたのではないか・・・。
 一つの可能性でしかないし、いまさら言っても仕方のないことではあるけれどねえ・・・」 
 相倉さんは唇を引き結んで下を向いた。 
 「相手の立場を考え、意見の背景を考えることは、たしかに栗原が言ったように、議論が長引いて停滞することでもある。それでもなお、時間や手間がかかったとしてもなお、お互いにとってより良い解決にたどりつける道なのではないだろうか。
 もしそうだとしたら、このクラスには希望があるね。お互いの立場にたって議論ができる人たちがこうして集まっているんだから。議論が袋小路に入ってしまったと思うときも、希望を捨てずに話し合ってほしい」
  「でも、さっそくその、袋小路なんですけど」
 浅井が難しい顔をして腕組みをした。
 「とにかく企業は電力が必要で、しかも安くしてほしい。それには原発が向く、でも一方で原発は危険だとよく分かりました。解決策なんてあるんでしょうか。専門家でない僕たちは、代替エネルギーの開発がどのくらい進んでいるのかなんて分かりませんし・・・」 
 「そうだねえ。でも、方針を決めることはできるんじゃないだろうか。日本では、企業が先進的な技術開発をしてきた。日本の企業が本気で代替エネルギーの開発に取り組めば、実は可能なのかもしれないね。
 たとえば野党議員が、こんな発言をしている」

 自民党は電力会社から金をもらい、立地自治体に補助金を出しやすい制度を整えてきた。経産省は電力会社に金を出させて公益法人を作り天下っている。東芝や日立などメーカーに加え、建設業界など産業界も原発建設を後押しした。電力会社は大学に研究費を出し、都合の良いことしか言わない御用学者を作り出す。多額の広告代をもらうマスコミは批判が緩み、巨悪と添い寝してきた。政・官・産・学・メディアの五角形が『安全神話』をつくった(2011年5月5日朝日新聞朝刊、河野太郎インタビュー)

 「政府は原発に偏って税金を使ってきたということなんですね。これからは、自然エネルギーも原子力と平等に扱ってお金を出してほしい、と政府に要望するべきだ、ということでしょうか。たとえば電力会社が原子力に使うお金と同じだけ、税金から補助金を出すとか?」
 「それは、もちろん可能だろうね。納税者が払った税金の使い道なんだから、納税している人たちが要望すれば、変わっていくよ」
 「だったら、自然エネルギーを開発しましょう。日本の科学技術で」
 「それしかないよね」 
 企業グループの顔に幾分明るさが戻ったところで、時間終了のチャイムが鳴り出した。相倉さんはその場で立ち上がると、大声で告知した。
 「さあ、次の時間はいよいよプレゼンテーションだ。
2週間後の次回は、まず『国民』と『諸外国』の2グループに発表を行ってもらう。大変だろうけど、準備をしておいてね」

■第3回

『国民』グループの発表

 「私たちは、『原発は廃止するべき』だと合意しました」
 凛とした篠原の声が教室に響きわたった。
 「理由は、原発が危険だからです。
 私たちが最初に出した結論と、結局同じでした。何度話し合っても、やっぱり結論は変わりませんでした。これまで事故例もあったのに、隠されたものも多く、国民は、原発が絶対に安全なのだと騙されてきました。騙されたというか、よく考えもしないで無批判に信じた人が多かった。でも、事故が起こることがわかった今、私たちは遅ればせながらでも、原発の廃止を主張します」
 次に松井と橘が立ち上がった。
 「俺は『福島の人』という設定でした。俺たちは、原発は安全なものだときいて、建設に同意したはずです。説明が間違っていたと判明したわけですけど。
 いったん大災害が起きると、俺たちの暮らしはめちゃめちゃに壊れてしまいました。こんなことになる可能性があったなんて、誰も教えてはくれませんでした。いまだに、あと何十年このままなのか、専門家も政治家も、誰も具体的な説明ができません。一生懸命、昼休みや放課後にも手分けして調べても、この事故の収束が何年後なのかは、わかりませんでした。健康被害や、食べ物の汚染も、どのくらい怖いのかさえ調べがつかない。誰もわからない、誰も手がつけられないような危険なものは、本当は作ってはいけなかった。実際に被害を受けている地元の人間の立場から、原発に反対を訴えます」
 松井が橘の方に顔を向けて、続きを促した。
 「気づいてみれば、なんで福島県に東京向けの原発があるんだろう、ってそれが疑問でした。福島原発は、東北電力ではなくて、東京電力の施設です。
 まず、人口が東京より少ない田舎だから、選ばれたんだという仮説が出ました。みんなで調べたけれど、電力会社や福島県のサイトには、はっきりとした答えはありませんでした。
 でも、この『人口が少ないから』という言葉の意味を改めて考えているうちに、私、ぞっとしちゃったんです。だって、原発を作るときには、作ろうとした人たちは地元に、原発は安全だ、という説明をしていました。ネットにたくさん出ています。地元の人たちのブログにも。だけど、東京湾に作るのではなくて、人口が少ないからという理由で福島を選んだなら、それは、万一事故が起きたときに避難させやすいため。首都に被害を出さないため。犠牲を小さくするため。もし本当なら、それは福島に対してあまりにもひどい。ひどすぎます」
 橘は泣き出しそうな顔で、声を震わせた。峰岸がすぐに側に寄って橘の手を握った。
 「原発の立地を決めたのは、『企業』と『政治家』だ。この2グループは、橘の今の告発に答えられるかな。誰でもいいよ」
 相倉さんが口を挟んだ。
 『企業』グループの栗原がおそるおそる手を挙げ、相倉さんが頷いた。
 「俺は・・・『電力会社』役なんで、仕方なく言うんですけど。
 あの、一応、専門家の人たちが、地質とか調査して、福島のあの辺りがふさわしいって結論を出したらしいことにはなっていました。なんかのニュース番組で、当時の設計の責任者がそう言ってましたもん。大きな地震がないからって・・・もちろんその認識は甘かったけど。あと、けっこうな津波が来ても一応、想定内なら耐えられるように堤防も作ったし、国の基準通りに安全なものを作ったんだって。
 でもそもそも国の基準がゆるすぎたって話、だったんですよね。だから、責められるのは仕方ないけれど、電力会社だけに責任はないっていうか」
 「おまえ、国のせいにするのかよ。根拠ちゃんとあんのかよ?」
 『政治家』グループから友利がやじを飛ばした。
 「だからさ、テレビでそう言っていて」「おまえはいつもそうやって、いいかげんなネタを・・・」
 クラス中が一斉にしゃべり出し、2人のやりとりをかき消した。
 相倉さんは落ち着いてたたんであった新聞記事のコピーを広げると、マグネットで黒板に貼った。それからいつもの身振りで喧騒を静め、記事を指差しながら読み上げた。

安全指針「間違いだった」、原子力安全委員長、抜本的見直しへ。
2011/05/20 日本経済新聞 朝刊
 原子力安全委員会の班目春樹委員長は19日の記者会見で、「長期間の全電源喪失を考慮する必要はない」とした原子力発電所に関する安全設計審査指針について「明らかに間違いだった」と語った。東京電力福島第1原子力発電所の事故調査の進捗を見ながら、原発に関する指針類を抜本的に見直すという。
 福島第1原発では、外部電源に加え、非常用電源までも使えなくなり、運転停止後の原子炉を冷却できなくなった。
 指針が強調する多重防護の考え方についても班目委員長は「想定外の津波でも非常用電源は守られました、でなければならない。(安全対策に)穴があいていた」と述べた。

 「栗原の言っていることは、間違っていないみたいだな。国の基準自体が、今回の事故の現実と比べて、非常に甘いものだった。国がこうして認めている。しかも、その危うさに、責任者の何人もが気づきながら、その指摘を放置したという証言もある・・・」
騒ぎは倍に膨れ上がった。個別の会話がまったく聞き取れないほど、言葉がダンゴ状の塊になって鳴っているようだった。
 相倉さんは『国民』グループに合図して、いったん8人を着席させた。そして篠原に1枚の紙を示して、何か話しかけた。篠原がそれを覗き込んで細かく頷いた。
 「みんな、聞いてほしい」
 相倉さんが教壇に戻っていつもの仕草をすると、生徒たちはいやいや静まった。相倉さんは微笑んで『国民』グループに合図し、今度は倉持と斉藤が起立した。
 「私は商店街の組合長の役で、倉持くんは原発メーカーの人です。商店街は食品も扱うし、最初から食の安全重視で、原発反対の立場でした。でも原発がなくなれば倉持くんは失業しちゃう。だから福島県にも、もし原発が絶対安全だったら、そこにあってもいい、あった方がいい、という人はたくさんいるはずです」
 「僕は最初、たった一人、原発賛成の立場で、とても困りました」
 倉持が弱々しく本音を語ると、くすくす冷やかすような笑いが起こった。
 「でも、途中から、篠原さんが僕の味方についてくれました」
 「だって、倉持くんが1人だけ違う立場だし、おとなしいから反論しないし、まるでディベートにならないんだもん」
 篠原が正直に答えると、笑い声が起こった。
 「篠原は義侠心があるな。弱い者を助ける心意気があるって意味さ。それで、どんな主張をしたのかみんなに説明して」
 篠原は頷くと、紙を1枚黒板に貼った。それを見た『政治家』グループから「ああああ・・・」という落胆の声が複数あがった。
 「これは、電力会社の1年間の支出項目です。広告費などに莫大な金額が使われています。ほかにも、国会議員のブログに、こんなデータもあります」

2007年の企業広告費のランキングをいただいた。
それによると

1 トヨタ  1054億円
2 松下電器  831億円
3 ホンダ   816億円
以下、ソフトバンクモバイル、花王、イトーヨーカ堂、日産、KDDI、シャープ、サントリー、キリン、ベネッセ、イオン、キャノン、資生堂、アサヒビール、高島屋、そして
18 東京電力 286億円

東京電力が供給量では電力全体の約三分の一なので、広告費を3倍すると電力会社全体で858億円、それに電事連などを足すと1000億円になると推計する研究者もいる。この推計があたっていれば、トヨタに並ぶ金額だ。

それはともかく地域独占している電力会社がこんな量の広告宣伝を必要としているのだろうか。

 篠原が目をきらめかせながら鋭く宣告した。
 「本来、地域独占で、広告なんかしなくても電力を必ず買ってもらえる会社が、巨額の宣伝費を使っている。何のために? 最初は何のためなんだかよくわからなかったけど、どうして福島に原発があるのかって話をしていた時に、はっと気づいたんです。電力会社や国は、建設予定地の政治家とか、マスコミとかに、莫大なお金を払っている。自治体も、東京とかだったらお金は持っているからほしがらないし、住民が大反発するから、原発は作れない。でも福島なら、お金があまりなくて、仕事もない。だから、福島なら、お金で解決できるんだってことが。 
原発のある地元の自治体は国から交付金を受け取っているから裕福だった。それ以外にも地元の人たちは、原発関連の施設に高い給料で雇ってもらえるとか、働く人たちが地元で使うお金で、生活が潤った。お金の誘惑に逆らえなかったのかもしれない」
 「でも、地元の人たちは、安全が前提だったんでしょう」と朴。
 「そんなわけないと思います」と浅井。「考えればすぐに分かることですから。本当に安全なら、ちょっと説明に困るようなお金なんか貰わなくても、みんなが受け入れますよね。だって原発がそこにあるだけで、固定資産税という自治体の税収は増えるんだそうです。雇用も増えますし、人も集まるから活気も出ます。本来いいことばかりです。それなのに更にお金を積まれる。矛盾しています。どうしてそこに気づかなかったんでしょう、住民はともかく自治体の人たちは、原発が危険であることに気づいていながら、その上でお金を受け取っていたんです」
 浅井の断罪に憤慨して、何人かが立ち上がった。
 「なんなのそれ。それじゃ事故が起きても、地元は文句言えないってこと?」。高瀬が叫ぶ。「浅井、あんた馬鹿じゃないの。そんなわけないじゃん。どう見たって、地元の人は被害者だろう? 失礼だよ!」
 「高瀬の言うとおり」相倉さんが割り込んだ。「地元の人たちは間違いなく被害者だ。
それにこれまでお金を受け取って潤ってきたとしても、地方自治体としては、住民のためによかれと思ってやったことだ。なにより、絶対安全だという政府の説得があった。政府がそう言うのだからと、思考停止したのかもしれないね。
もちろん中央といわず地方自治体といわず、政治家が思考停止はしてはいけない。だから、彼らが愚かだったということもできる。でも、考えて欲しいんだ。実は全国民も知っていたはずではなかっただろうか。東京のための電力を作る原発が、なぜか地方にあることを。原発を受け入れた自治体にたくさんお金を払う法律は、ちゃんと国会を通った法律なんだよ。国民の代表が公開の場で審議したんだ。マスコミも報道したはずだ。もし自治体が莫大なお金を受け取る代わりに住民を見殺しにしたというなら、日本全体が同罪だ、ということにならないかな?」
 「僕たちのせいだって言うの? 高校生にそんな知識があるわけないじゃないか」。菊池が大声で叫んだ。
 「でも俺たちだって、今年の3月より前に、もしこの授業を受けていたら、原発について知識があったはずだ。大人はもちろんだけど、高校生だって真面目に考えれば、ちゃんと分かったことじゃないか」。松井も大声で怒鳴った。
 クラス中が騒然となる中、菊池と松井がひときわ大きな声で罵り合った。
 「いや、君たち高校生にはなんの責任もない。今、責任を問われているのは、僕たち大人世代だ」
 相倉さんが落ち着いて二人の争いを止めた。
 「わからない、興味が無い、知らないと言って、考えることをしないできた人間のせい、この国のほとんどの大人たちのせいだ。だって、松井が言ったように、高校生の君たちはほんの数回の授業で、もう原発問題の本質にたどり着こうとしているのだから。この問題の調査は難しかったかな? 実は、興味を持ちさえすれば、いとも簡単に、しかもほぼ無料で手に入る知識ばかりだったんじゃないか。
 君たちも、5年後10年後には、『なにも知らなかった』と言っても許されない年齢になる。その覚悟は今から持っていてほしい」 
 誰もが平静さを失ったように、教室中が険しく声高な私語で満ちていた。その中で突然、峰岸が立ち上がった。甲高い声が響き渡った。
 「私は2人の子どもを持つ母親という設定です。感情論と言われても、もう、えらい人たちが隠し事をしたり大嘘をついたりすることを、知ってしまいました。国のやることは信用できない。ヒステリーと言われても構わないから、すぐにすべての、原発の停止を求めます!」 
 「ヒステリーなんて言うやつがいるとしたら、その方がおかしいです」
 斉藤も立ち上がって峰岸の隣に寄り添った。「私たちはちゃんと代案も検討しました。原発に代わる、新エネルギーを、いくつも考えました。ネットにはたくさん情報がありました。太陽光や風力は既に実用化されていて、家庭用の蓄電池が普及する将来に向けて『スマートグリッド』の実験だって始まってます。みんなも知っているように、電気自動車を使ったりしながら、今はためておくのが難しい電気を、家庭でためておける方法です。
 世界中で、今まで掘れなかった天然ガスを掘るとか、日本の海にいっぱいあるメタンハイドレートを使う研究も進んでいます。原発に頼らなくて済む日は近いかもしれないんです。少なくとも、研究は進んでいるんです。この原発の事故で、研究はなお一層、進むはずじゃないでしょうか。
ほかにも、今回初めて調べたんですけど、有力な発電方法として、『海流発電』を紹介します」
 斉藤は、海流でプロペラを回す仕組みを描いた模造紙を黒板に貼った。
 「海流発電も、たくさんある新エネルギーの可能性の一つです。まだ実験段階で、弱点もありますが、日本は黒潮や親潮に近い海洋国家なので、開発できればものすごく重要なエネルギー源になるでしょう。第一、地球が回転している限り、海流は止まりません。いくら使っても尽きないエネルギーです。
 ほかにも太陽光パネルの発電能力も進歩していますし、宇宙に太陽光パネルを設置する研究もあるらしいです。送電方法が課題みたいですけど。風力も水力も、研究すればもっともっと効率がアップするかもしれない。
 考えてみてください。ここで研究をやめて、火力発電に頼って化石燃料を買えば、お金は海外に支払ってしまって終わりです。でも新エネルギーの研究開発をするなら、その研究費は国内の研究者や企業に支払われるし、建設する段階では建設業に払われるし、雇用を増やし、地元を潤し、国中に循環していきます。つまり、お金が国内で回って、景気が良くなる、いいことずくめなのです。
 楽天的に考えてもよければ、もし新エネルギーの開発に成功したら、その技術を海外に高く売り、日本の景気が良くなるきっかけとなるかもしれません。第一、世界中から尊敬されると思うんですよね。
 結論として、私たちは、自然エネルギー研究に税金を投入するよう『政治家』に求めていきます。そうした政治家に投票するよう、周りの有権者たちを説得します。私は商店街の組合長役なので、少なくとも商店街の票は取りまとめてみせます。
これが私たち『国民』の選んだ道です」
 斉藤がきっぱりと宣言した。
「いよっ、組合長!」
小牧の掛け声とともに、『国民』グループの7人が一斉に拍手を始めた。斉藤も照れ笑いをして拍手に加わった。相倉さんも顔中に誇らしそうな笑みを浮かべると、大きくゆっくりと両手を打ち鳴らした。割れるような共感の拍手がクラス中を包んでいった。

(改頁)

『企業』グループの発表

 「正直、あんなに『国民』が場を盛り上げた直後で、すごいプレッシャーなんですけど・・・」
 河原崎が切り出すと、笑いとともに「ガンバレ!」という野次が四方八方から飛んだ。
 「『企業』グループも、原発は廃止していく、という結論自体には反対じゃありません。でも、それには長い長い時間がかかるので、とりあえず今止まっている原発の中で、大丈夫そうなやつを選んで、再稼動させることにしようと思っています」
 『国民』グループからブーイングが起こり、河原崎は困ったように気の弱そうな笑いを浮かべる。
 「僕も、これが受けのよくない意見なのは分かってます。でもさあ、そこは立場が違うんだから仕方ないですよね」
 「もちろん、立場が違えば結論は違っていい。だってそのために役割を分けたんだからね。じゃあさっそく、結論の根拠を説明してもらおう」
 相倉さんが満足げな微笑を浮かべて、両手をこすり合わせた。
 大島が立ち上がった。
 「『即刻、全部の原発廃止』は、本当は理想だと思う。だって3月11日に、原発は危ないとわかったのだから。
 でも企業の立場からだと、すぐに電力を止められたらリアルに痛い。今、政府が要請している節電も、大きな企業には義務になっている。そうすると製造業は、平日に工場を止めたり、西日本に拠点を移したり、海外に出たりしないとならない。その結果、売り上げや雇用に響くから、日本の景気が悪くなる。
 でも落ち着いて考えてみると、今年、千年に一度の災害が起こったんだから、理論上あと千年は災害は来ない。だったら900年くらいは原発を使っていられるんじゃないかと判断しました」
 「ほう。なるほどねえ」
 相倉さんは興味深げに眉をつり上げた。
 「ちょっと待ってよ。そんなの確率の問題じゃん。もっと早く地震がくる可能性だってあるし、だいたい千年に一度って東日本大震災だけのことでしょう? 東南海地震が近いって、理科の時間にも習ったじゃん」
 『国民』グループから斉藤がつっこんだ。
 「それも分かってるよ。東南海地震は30年ぐらいで起こるという説があるから、東南海エリアの原発をとりあえず急いで廃炉にしよう。常識的な対応だろう? でも、日本海側の方は動かしたっていいんじゃないかな? しばらく地震がないかどうか、それを科学者がちゃんと調査し直して、決めるわけよ。実際、東南海エリアど真ん中の浜松原発を、5月に止めたようにね」
 大島が、反論を想定していたように即座に応じた。
 「でも地震の予想なんかあてにできないって、今回の大震災で分かったよね。だいたい、東北の人たちが心情的に、今後、原発の稼動を認めると思う? 原発の再稼動には地元の了解が必要なんだって、どこかに書いてあったよ」
 篠原が斉藤の援護に入る。
 「じゃあ篠原が反対なら、900年も原発を動かさなくていいよ。もっと短く・・・たとえば500年ぐらいでもいいけど。それならどう?」
 「え、どうって私に聞かれてもねえ・・・第一そんなこと、こんな風に交渉で決めていいことなのかなあ・・・」。篠原が目をぱちくりさせる。
 「ともかく、千年に一度ってくらいに珍しい地震が起きたからって、そっこう原発を全停止するなんて、やっぱりちょっと過剰反応だって思うんだ。感情的にはすごくよくわかる。多分、今地元で多数決をとったら、廃止派が圧倒的だろう。でも、現実にたくさんの企業が困るんだ。それは考えなくちゃ。不便とかいうレベルの話じゃないんだ。日本の経済を支える企業の生産量が落ちて、売り上げがへこんで、人間が大勢解雇されるっていう、まじで痛い話なんだよ。
 自然エネルギーとかで、その分がまかなえないか、けっこう真剣に調べてみた。可能だという説もあれば、不可能だという説もあった。どっちが多いかはわからないけど、こういう事は結局、やってみないと結論が出ない。とにかく思ったんだけど、わからないことがまだ多すぎるんだ。でもわからないことだらけだからこそ、原発をすぐやめても大丈夫なんて簡単には言えないと、多くの企業が考えることは、わかったような気がする。なんか自分で言っていて、何を言っているのかわかんなくなってきちゃうけどさ・・・。
 とにかくさ、500年間でもだめだっていうなら、とりあえず100年でも50年でもいいから、原発は動かしておこう。もちろんとことん修理して、堤防も作って、検査もしてからだ。だって3月11日までは、おおむね無事に動いていたし、女川原発は3月11日の大震災でも無事だったんだから。日本には技術がある。方法はあるんだと信じよう」 
 大島は、斉藤と篠原の顔をかわるがわる見ながら言葉を継いだ。 
 「信じよう、とかいまさら言われても。だって技術がなかったから事故が起こっちゃったんじゃなかったの?」。斉藤は疑わしげにつぶやくと、同意を求めるように篠原を振り返った。篠原も困ったようにため息をつくが、言葉が出てこない。
 「それってちなみに、『企業』グループ8人全員が合意した結論なのかな?」
 相倉さんが考えながらたずねた。
 「はい」。伊藤が答えた。
 「たしか最初は、賛成派と反対派が分かれていたんじゃなかったっけ?」
 「はい。私も含めて食品関係の役柄の人は反対で、あとの業種は賛成でした。でも、だんだん、わかってきたんです」
 伊藤はちょっと胸を張って、『国民』グループに向き直った。
 「最初は、食品業界にとっては、原発なんて迷惑なだけだと思っていました。『風評被害』のこともありましたし。私は、もっと気軽に考えていたけど、『風評被害』は分析すると、すっごい恐ろしいものだとわかりました。『風評被害』って、主婦がスーパーで普通に牛乳を選ぶ行為だけで、日本の酪農自体を潰しかねない、ということだったんですね。なんだか私も、これから食べ物を買うとき、考えすぎちゃってトラウマになりそうな気がする。
 だけど、そんな風評被害より、もっと恐れなきゃならないものがあるので、原発を動かしておかないわけにいかない、と心を決めました。怖いのは、・・・うまく言えないけど、なんだっけ、連鎖反応みたいなものが起きることなんです」
 「連鎖反応って?」。松本が尋ねると、一生懸命答えを探す伊藤に代わって、浅井が話を引き取った。
 「伊藤さんの言う意味は、企業はほかの業種と密接につながっているということです。食品も、商社が扱って輸入や輸出をして、運輸が運んで、小売が売る。そうした業種は、建設業や自動車メーカーの仕事も担っています。だから、一つの企業が困ることで、ドミノを倒すみたいに、経済界全体が困るかもしれないんです」
 「なるほどね。でもそれが、『風評被害』より影響が大きいと伊藤が思うのは、どうしてなのかな?」
 相倉さんが尋ねると、伊藤は再び口篭もり、助けを求めるよう浅井を見た。再び浅井が片手を上げて発言を求めた。
 「それは企業が、日本の経済を支えているからです。多くの人は企業で働いています。だから、企業の経営が傾けば、失業者が出たり、お給料が減ったりします。そうすれば、景気が悪くなって、人が物をたくさん買うことがなくなって、もっと景気が悪くなって、企業の倒産も増えることになります。そうしたらもっと失業者が増えて・・・納税額も年金も減って、日本全体がだめになってしまいます」
 「でも、酪農が潰れること自体も、大変なことだよね。農業に従事している人たちも、失業してしまうよ」
 「そうなんですけど」と伊藤。「でも私は食品業役なので、自分の工場で扱う材料の放射線量検査をするとか、測定結果をすべて公開するとか、そういう努力を精いっぱいして、風評被害をできるだけ防ぐつもりです」
 「なるほど。食品業界が自主検査をするんだね。責任を持って解決方法も示している。伊藤、それはとても真摯な議論の姿勢だ」
 相倉さんが褒めると、伊藤は恥ずかしそうに笑った。
 「でも、もう一度きくけど、電力はやはり原発に頼らなきゃいけないんだろうか。そこはどうだろう。他のエネルギーじゃだめなの?」
 浅井が右手を挙げて発言の許可を求めた。
 「すみません僕ばかり発言して・・・。
 ゼネコンで働いている父から聞いたのですが、日本が敗戦後に、製造業で経済発展を遂げた原動力として、原発以外は考えられなかったそうです。事故が起きない間は、資源の無い国に安く大量の電力をもたらす、夢のような技術だった。もし石油だけに頼っていたら、石油を持つ中東の政治情勢に巻き込まれ、コンスタントに発展できる平和な国ではいられなかったかもしれないのだと言われました」
 「なるほどね。浅井はその意見を検証してみた?」
 「同じような意見がネット上にはありました。でも本当のことなのかどうかは分かりませんでした。大学で経済学を専攻している姉や、記者をしている母にも聞いてみました。母や姉は、原発には反対の立場なのですけれど、原発がなければ高度成長ももっと緩かっただろうという父の意見自体には賛成でした。自国でエネルギーを生産できるということは、他国の情勢に振り回されないで発展していける根拠になるのだそうです。
 父はそれに加えて、日本が経済発展してきたように、これから経済発展をしたい国、まだ貧しくてお金がない国にも、原発を利用する権利があるのではないかと言っています。先進国だけが原発を利用して発展し、それぞれ事故を起こし、ではもう危険だから世界中で廃止しようと勝手に言えるだろうか、と。だって自然エネルギーはまだ発電能力が低すぎて、世界中の電力源にはなれないし、石油や天然ガスは限りがあるし、採掘できる地域も偏っています。みんなが石炭だけに頼ったら、大気汚染や温暖化が進みます。資源を持たず輸入するしかない地域にとっては、お金の問題もあります。後進国でお金がなければ十分なエネルギーを得られず、もしまた石油ショックみたいなことが起きたら、大変な打撃を受けてしまいます。そういう意味ではやはり、原発を持っておくことが、安定した発展のために重要だと思います」
 クラスは静まりかえり、特に『国民』グループは心配そうに発表の行方を見守っていた。
 最後に栗原が立ち上がった。
 「俺は今回『電力会社』役です。電力会社としては、科学者や国に協力をしてもらって、どんなにお金がかかろうと、全部の原発になるべく完璧な改修工事をすることを誓います。
 これは、電力会社自身のためじゃなくて、国内の企業のためです。なんなら原発自体を全部売り払って、改修の資金を作ってもいい。とにかくメンテナンスをしっかりやって、原発を再稼動させる。そうすれば3月11日までと同じように、電力を企業に提供できて、企業は雇用を守れる。企業ががんばって稼がなきゃ、税収が増えないから、被災地復興のための資金もできない。しばらくは踏ん張っていれば、そのうちに、別の企業が新エネルギーを、先端技術を駆使して開発する。それまでは頑張ってつながなきゃ。そうすれば、新しい雇用が生まれるし、新エネルギーの技術を世界中に売って、もう一度経済発展できるかもしれない。
 『企業』グループの結論は、とりあえずの原発維持。将来もし廃止するとしても、数百年くらいかけた、ゆっくりとした原発廃止です」
 栗原は言葉を切ると、仕方がないだろ、というように両手を横に広げた。残る7人も、栗原の肩や背を慰めるように軽くたたき、着席しようとした。
 突然、拍手の音が教室の一方から響いた。それは意外にも『国民』グループからだった。栗原は最初、その音にびっくりして互いに目を見交わしていたが、やがて顔をくしゃくしゃにして隣の浅井と頷き合い、がっちりと両手で握手をした。『企業』グループの8人は、互いに次々に握手を求めあった。彼らにエールを送り励ますような暖かい拍手は、さざ波のようにクラス中に広がっていった。

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■第4回

『諸外国』グループの発表

 「僕は前回のグループ発表を聞いて、やっぱり日本は原発を廃止するべきと思いました」
 国井がきっぱりと結論を述べた。
 「理由は三つあります。
 まず、日本の政治家には意志が足りません。ものすごく危険な道具を使っていることを自覚して、正しい情報を速やかに公開し、正しい原発の運転をしようという、意志が弱いと思います。アメリカはTMI、スリーマイルアイランドの事故の後、とても努力し情報公開にも努めた。だから今、安全に運転できています。たとえば、福島第一原発と同じ古い型の原発は、アメリカでは早くから危険性が指摘されて、補修が進んでいました。
 次に、土地の狭さ。アメリカはたとえシビアな事故を起こしても、その土地を捨てて逃げられます。でも日本は狭いから無理で、本州が全部一度にだめになります。
 最後に、国民が政府や電力会社をもう信用していません。だから原発の継続は無理なのです」
 続いて原が立ち上がる。
 「私はイギリスの役です。調べてみたら、フランスほどではないけれど、イギリスにも原発がたくさんありました。でも、イギリスには地震がほとんどないのだそうです。だから危険は少ないみたいで、原発をこれからも使っていくようです。でも地震国家の日本は、止めたほうが安全だと思います」
 土谷が続いた。
 「僕はイタリアです。イタリアは3月11日以降に行われた国民投票で、原発廃止を決めました。政府は進めようとしていたけれど、国民は反対したのです。日本も、国民投票を行えばいいんじゃないかと思います。僕は、この間の『企業』の発表に共感しました。イタリアも日本も大きな国じゃないけど、頑張って先進国になった。国民が選択するなら、より安全になるよう修理した上で、原発を使っていくのも、ありだと思います」
 「私は違います」佐藤が立ち上がった。「私はドイツです。ドイツは3.11後に、首相が脱原発を決めました。でもその代わりに使うのは、フランスの原発が作る電力。これじゃ意味がないです。危険な原発を他国に押し付けるなんて。東京が福島に押し付けているのと、同じ事になってしまうんじゃないかと思います。原発を廃止すると決めるなら、地球上で全部廃止しないと。温室効果ガスなんかの時は、世界中で話し合って、排出を減らすことに決めたじゃないですか。原発も話し合えばそうできるはず。日本が先頭にたって、廃止を呼びかけてほしいと思います。ドイツも、共鳴するはずです」
 菊池祐一は、複雑な表情で口を開いた。
 「僕はフランスです。今、福島で、事故処理を手伝っている国です。
 いろいろ調べたけど、フランスは原発先進国で、日本にも技術を提供している。特に日本で反対が多くて稼動できない、ウラン燃料の再処理も引き受けている。それで、日本に戻して埋めるんです」
 菊池はしばらく唇を噛んでいたが、顔を上げた。
 「第2回のクラスで、佐藤さんからフィンランドの映画の話を聞きました。『100000年後の安全』という映画なんですけど、その映画のことを『国民』や『政治家』グループは知っていますか?」
菊池は映画の公式サイトの1ページを黒板に貼った。

誰にも保障できない10万年後の安全。放射性廃棄物の埋蔵をめぐって、未来の地球の安全を問いかけるドキュメンタリー。 毎日、世界中のいたるところで原子力発電所から出される大量の高レベル放射性廃棄物が暫定的な集積所に蓄えられている。その集積所は自然災害、人災、および社会的変化の影響を受けやすいため、地層処分という方法が発案された。

 フィンランドのオルキルオトでは世界初の高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場の建設が決定し、固い岩を削って作られる地下都市のようなその巨大システムは、10万年間保持されるように設計されるという。

 廃棄物が一定量に達すると施設は封鎖され、二度と開けられることはない。しかし、誰がそれを保障できるだろうか。10万年後、そこに暮らす人々に、危険性を確実に警告できる方法はあるだろうか。彼らはそれを私たちの時代の遺跡や墓、宝物が隠されている場所だと思うかもしれない。そもそも、未来の彼らは私たちの言語や記号を理解するのだろうか。

「僕はすごい衝撃を受けました。だって、10万年。10万年ですよ。事故を起こした福島第一原発が冷えて停止するまで何カ月も時間がかかると聞いて驚いていたけど、そんなの大したことじゃなかったんですね。発電した後に出る核廃棄物の方はもっとずっと大変なんだ。10万年なんて、想像もつかない先まで、僕たちは核のゴミを管理し続けなくちゃならない。東日本大震災は、千年に一度の大震災と言われているけれど、千年に一度起こるなら計算上は10万年の間に100回、あのレベルの大震災が起こることになります。地殻変動とか、隕石の衝突とかは? テロや戦争は? 10万年の間に、そうした別の危険も、全然可能性がないのだろうか。そんなこともまったくわからない、誰も保証できないのに、無責任に、埋めておくしか処理方法がない危険物を生み出し続ける。こんなこと、どこの国だろうが、許されるはずがない」
 「でも、私の立場では、原発を全部なくしてほしいとは言えないんですよね・・・」。代わって片瀬が立ち上がりながら続けた。「個人的には、本当は原発を世界中からなくしてほしいけど。でも、今の私の役は『中国』です。これから10億の人口をかかえて、工業化を進めようとしている巨大な国です。だから原発は不可欠なんだとネットニュースの記事で読みました。人口が増えすぎて、燃料も食料も足りなくなる日がもう近いんですって。だから原発を使って、生産力を上げる必要がある。でも、中国って、この間の鉄道事故を見ても、先端技術は持っていないし、人命よりも面子優先じゃないかって批判された国ですよね。もしそれが現実なら、そんな国で原発を作って、事故を起こさないなんて、もし誓われたとしても信用できない。地震も多いみたいだし。私は、日本に原発をやめてもらって、一緒に中国もやめさせてほしい。日本と中国、両方の住民のために」
 「私も。つまり、『トルコ』も」と島袋。「トルコは外国から、原発を作る技術を買おうとしている国みたいです。でも安全なのかどうか、3月11日以降、トルコもどうしていいかわからないと思います。前回、『企業』グループが原発は発展途上国には必要なんだ、という話をしていました。それは、なんだかすごく説得力があって・・・確かに、中国やトルコには、まだまだ必要かもしれないと思いました。
 でも、やっぱり日本さえ管理できない危険な設備を、発展途上国に作って、うまく管理していけるなんて思えない。中国は最近、シェールガスと呼ばれる天然ガスがたくさん埋蔵されていることもわかったんだそうです。というか、掘って利用できる技術が発達したんですって。だから、原発に頼る前に、火力発電を増やした方がいいと思うんです。確かに二酸化炭素の排出量は増えてしまうけど・・・温暖化は進んでしまうかもしれないけれど、それでも、中国の原発で爆発事故でも発生したら、陸続きのたくさんの国々が影響を受けます。もちろん、空気や海が汚れたら日本だって困る。だから、やっぱり、原発は廃止するべきだと思います」
 最後に土屋が立ち上がった。
 「僕はオーストリア。とても特殊な国です。国土が小さく、資源を持たない。産業も多くない。一時原発を作りましたが、国民投票で、稼動を止めた国です。
 オーストリアからも、『国民』も『企業』も、方法やかける時間は違っても将来の原発廃止を目指しているのだから、日本にも一度、国民投票をすることをお勧めします。こんなに重要なことは、他人まかせにせず、国民ひとりひとりが考える機会を持って、ちゃんと決めたほうがいいと思うからです」
 全員が発言を終えて、相倉さんを見た。相倉さんはそれまで黙って発表を聞いていたが、たいそうゆっくりと口を開いた。
 「君たちはそれぞれ役割を振った国の立場を踏まえて、真剣に考えてくれたんだね。とても熟考された、知的な意見ばかりだった。おそらく、実際に各国の政府首脳に意見を言って貰っても、内容はほとんど変わらないんじゃないかと思うくらい、練りあげられた意見だったよ。それは本当に素晴らしい。
 だけど・・・」
 相倉さんは言葉を詰まらせ、『諸外国』グループの机につかつかと歩み寄った。
 「この間も言ったように、国際社会ではいろいろな国が密接に関係しあっている。この日本の原発事故は諸外国にとっても、けっして他人事ではない。しかし君たちの発表は、なんだか日本を遠巻きにして、安全な高い場所からものを言っているかのようだ。
もう一歩、こちら側に近づいてきてはくれないだろうか」
 8人は驚いたように相倉さんを見つめた。
 「大震災後、たくさんの国々から日本は、物資の面でも、精神的にもサポートを貰った。とても支えられたんだ。世界中が日本を励ましてくれていたね。
 しかしその後すぐに日本人は、日本が輸出した魚の切り身に、ガイガーカウンターが向けられていることに気づいてびっくりした。工業製品までもが放射線量をチェックされていた。日本からの物資を積んだ船が、寄港を拒否された。ヨーロッパでは既に、チェルノブイリ事故の経験があったから、ある意味とても自然な行動だった。しかし一般的な日本人の多くは、自分たちが汚染源として扱われたことにショックを受けて、君たち外国との距離を少し、縮こまらせてしまったような気がする。
 さあ、国際社会の重要なメンバーである諸君。今の萎縮した日本には、君たちの側から近づいて、手を差し伸べてはくれないだろうか。そうでなければ、君たちからのせっかくの提言も、日本人の心には届かないかもしれないよ」
 相倉さんが穏やかに微笑しながら、ほかの3グループを振り返る。
 「逆に、僕たち日本人は、『諸外国』に何を求めるのだろう。同情だろうか。援助だろうか。
 どうだろう。誰か。諸外国は心の底から、日本を助けたいと思っていてくれているよ。ただ、どうしたらいいか分からないんだよ。だから、誰でも、思いついたことを言ってみてほしい」
 しばらくの間、沈黙が支配した。ややあって、三浦が座ったまま、ぽつりとつぶやいた。
「今は、何かモノがほしいわけじゃない。ただ・・・俺たちを、仲間外れには、しないでほしいんだ」
 「そう、そうよ。日本をいじめないでほしい」峰岸が早口で続けた。
 「ずっとサポートしてほしい。お金の問題じゃなくて、技術とか知恵とか。これから何十年もずっと事故に向き合わなくちゃならないから。日本だけじゃ心細い」。絞り出すように河原崎が言った。
 「日本を怖がらないで。日本から逃げないでほしい」と小口。
 「・・・日本の輸出品を、ちゃんと買ってほしい」
「そうだよね、検査をするのは当たり前だけど、もしそれで放射線量が基準以下だってわかったら、受け入れてほしい」
 「前みたいに、観光に来てほしい。福島から全然離れているのに、秋葉原とか、大阪や京都にまで観光客が来ないなんてさびしい」
 次から次へと声が重なっていく、そのたびに頷きながらも、相倉さんは寂しげな、もどかしそうな表情になっていった。
 「『諸外国』のみんな、聞いてほしい。今上がった要望は裏返せば、日本がいま現実に足りないものなんだ。日本は国際社会から疎外され、仲間はずれになりつつあると感じている。日本の製品は怖がられ、疑われている。万が一、福島原発の事故処理に失敗すれば、もしくは別の原発で別の事故が起きれば、日本自体が国際社会から永遠に見捨てられるのではないかと、心のどこかで感じ、とても怯えているんだ。どうやったら君たちは、この日本の人たちの声に応えることができるだろうか」
 『諸外国』の8人はしばらく身じろぎもしなかった。何人かが口を開きかけたが、何も言葉が出ないまま口を閉じた。誰もが、何かを言いたいと思っているのに、何を言ったらよいのかわからず、言葉を探しあぐねていた。
 突然、菊池が机に両手をつくと、椅子を蹴るようにして立ち上がった。それでも言葉が出ずに苛立ち、思わずこぶしで机を叩いた。そして、叫んだ。
 「とにかく、とにかく誓います! とにかく、日本を絶対に見捨てない!」 
 クラス全員の視線が、あっけにとられたように、菊池に集中した。菊池は頬を紅潮させ、そのたくさんの視線を、足を踏ん張って真正面から受け止めた。 
 「僕たち国際社会は、日本の農作物も買う。もちろん放射線の検査はするけど、決められた数値以下だったなら、それを食べる! もし数字が基準値を超えたとしたら、それを理由に日本を非難するなんて間違いだ。そんなのは当たり前じゃないか。人間だったら、むしろ日本人が今食べている食糧が大丈夫か心配して、代わりに食べられるような物を集めて、・・・少なくとも小さな子が食べる分くらいは、援助物資として送ってあげなきゃならないはずだよ。
諸外国は協力する。今すぐには無理でも、たとえ反対する国がいたとしても、僕たちは、世界中を説得します」 
 菊池の言葉を聞きながら、次第に満面の笑顔に変わった国井が椅子から跳び上がると、菊池と音高くハイタッチを交わした。 
 「僕も祐一に賛成、大賛成だ!
原発を持つ国家は必ず連帯して、日本を支えて事故に対処しなければならない。だって事故は、またいつか起こるかもしれないじゃないですか。今度は日本ではなく、自分の国や、自分の国のすぐ近所で起こるかもしれない。ここで日本を見捨てれば、自分の国の一部を見捨てるのと同じことです。福島の事故を、次に生かす貴重なチャンスを失うんだ。放射能が危険でわからないことが多いものなら、このひどい事故も人類にとって重要な経験になるはずだし、そうしなければならないはずです。福島の、苦しんでいる被災者のためにも。チェルノブイリの被害者のためにも。
僕たちは連帯する。連帯して、日本とともに闘います」 
 そこに興奮と暑さとで顔を真っ赤にした友利がばたばたと駆け寄り、菊池と国井の手をわしづかみにして力いっぱい振り回した。 
 「感激だ! 僕は『日本の総理大臣』として、心から、心の底から君たちにお礼を言うよ!」 
 ゴールを決めたサッカー選手のように抱き合って喜ぶ3人を、はやしたてる声と指笛の音とが交錯し、教室中がどっと湧きあがった。最も冷静で、最も大人しい生徒までもが大口を開け、机を叩き、足を踏みならして笑い転げていた。

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『政治家』グループの発表

 「実は、最初に言っておくと、私たちの結論はまだ、完全には出ていないんです」
 小口が立ち上がると、どんよりと曇った重たげな口調で言った。
 「私は、原発担当大臣です。うちのグループも最初は、原発廃止で異論はなかったんですよね。その前に、太陽光エネルギーとかちゃんと導入して、それからなら、原発は廃止して全然構わないと思っていました。
 でも、調査すればするほど、それが難しいことがわかってきたんです。だってまだ自然エネルギーの設備は整っていないし、今すぐ設置できたとしてもコストが高すぎて、電気代の安い韓国とかアジアの国に製造業が出て行っちゃうのを止められない。『企業』グループの発表にもあったけど、そのあたりはどのグループももうわかっていますよね。
 景気が悪くなってもいいなら、原発を止めてもいいのかもしれないけど、政治家としては、そういうわけにもいきません。景気が悪くなれば『国民』や『企業』から批判される。進むのもだめなら退くのもだめって感じなんですよ・・・」 
 「そもそも、原発を導入したのがものすごく昔、1950年代だって、今回初めて知りました」
 三浦が代わって続けた。
 「俺にとっては一番ショックな事実だった。原爆投下から10年で、日本は原発を作ったのだということが。でもそれは、その時の政治家が無謀で鈍感だったからじゃなくて、戦争に負けてボロボロだった国を建て直そうとしたから、という理由があることを知りました。ちゃんとした理由がそこにあったんだということがわかると、それまでと違って、原発が今あること自体を批判することはできないんじゃないかって思ったんです。原発のおかげで経済大国になったのであれば、原発を廃止するということは、もう経済大国でなくてもいい、という選択なんじゃないだろうか。それは、政治家が国民に黙ったままで、選んでいい道ではないような気がしました」
 朴はいくつかの記事を手にして立った。
 「今回、本当にいろいろな事が分かりました。すごく勉強になりました。電力会社が、地域で1社だけと決まっていて、必ず儲かる仕組みになっていること。その儲けから、ものすごい額が政治家やマスコミに流れていたこと。そのせいかどうかはわからないけど、電力会社は原発や火力発電所だけじゃなくて、電線も全部所有していること。電力消費量とか、情報のすべてを1社で握っているために、公表したくない情報は隠せること。
 放射能が怖い、ということとは別に、こういった電力会社のシステムが問題なんじゃないかと思いました。もっとちゃんと誰かが監督して、電力会社に不利な情報も出させれば、3月11日に間に合って、古い原発の改修工事ができていたのかもしれない。
 私は、少数政党の役なんですけど、こんな重大な問題では、与党だとか野党だとか、全然関係ないことだと思います。とにかく政治家はみんなで今までの問題すべてを洗い出して、専門家にも頼んで、どうすればいいか知恵を出し合って考えなくちゃならないと思います」
 高瀬と石原が立ち上がった。
 「原発を廃止したい人が多いなら、廃止すればいいと思う。でも別に、このまま廃止しなくても、何年かすれば『国民』や『企業』なんて、事故のことも全部忘れて、どうでもよくなると思います。ただ電気を安く使えさえすればね」
 高瀬が面倒くさそうに言うと、石原があわてて付け加えた。
 「僕たち2人は野党の役なんです。政治家は国民の声をきくものなんでしょうけど、じゃあ国民が何を考えているのか、それを一生懸命考えましたが、結局分からなかったんです。輪番停電みたいなのは困る、電気代が高いのも困る、原発が事故を起こすのも困る、だから原発は困る。でも景気が悪くなるのも困る、職が減るのも困る。結局、国民なんて何の責任も追おうとせずに好き勝手な文句ばかり言っていて・・・」
 『国民』グループからの非難の声が複数上がり、石原は顔を真っ赤にして反論した。
 「そっちの『国民』グループのことを言ったんじゃないよ。そうじゃなくて、世間一般の人たちってこと。そう思うことって、全然ないですか?」
 「僕はそれ、すごくよくわかる」
 友利が座ったまま声を上げた。
 「僕は今回、総理大臣役だけど、なんかこのところ感情移入しちゃってさあ。ニュースキャスターとかが、上から目線で偉そうに総理大臣を一言で切って捨てるじゃん。『情けない』とか『とにかくちゃんとやれ』とかさあ。『じゃあ対案を示せよ!』って、気づくと思わず怒鳴っているんだよね、テレビに向かってさあ。
 一般の人たち・・・っていうかうちの親も、テレビに映っている政治家に向かって、やれ無責任だとか、頭が悪いとか、無能だとか、言いたい放題じゃん。9月に総理大臣役になってから、自分が文句言われているようで、本当に気分が悪かった。政治家は、いろいろな人や企業の立場に立って考えたり、いったん答えを出してもその影響を考えたり、答えが間違っていないかどうか情報を集めたり・・・決断が重要だって分かっているから、身動きがとれなくなるんじゃないか。僕はこのクラスでそれがよくわかった。それなのに世の中の大人たちは、ワイドショーのキャスターみたいに無責任な批判ばっかり。心底、むかつくんだよね」
 『政治家』一同は友利の言葉に、深く大きく頷いた。 
 「先月、藁からセシウムが出たとき、私も思ったんだけど、」
 福沢が続いた。
 「牛の餌になる稲藁は、とっくに刈り取られて室内にあると官僚が思いこんでいて、汚染の可能性を考えなかったことを、マスコミがみんなで叩いていましたよね。実は藁は田んぼにさらしたままになっていて、そんな農家の作業の実情を知らないのかって、批判されていました。うちでとっている新聞も、社説で『現場を知らない行政』だと非難していた。
 でもさ、本当なら、実情を知っている人が誰でもいいから早く、官僚の人とか政治家とかに教えてあげればよかったんじゃないの? 現場の農協の人は気づかなかったの? 誰も自分がなんとかしなきゃならないとは思っていなかっただけなんでしょう。その社説を載せた新聞社だって、大勢の記者が東北にいるはずなんだよね、わざわざ何人も記者を送り込んでいるって、紙面に書いてあったし。藁に注意情報が出ていないことだって、取材すればわかったことなんじゃないのかなあ。
 自分で気づかなかったのに、よくそれで他人がやっていることを非難できるなって感心しちゃった。マスコミや国民ってそんなに偉いの? まるで、よくいうクレーマーとか、モンスター・ナントカじゃない?」 
 「そうだよね」と松本。「本当は、みんな初めての事態なんだから、協力しなくちゃならないのにね。大人はみんな、無駄に他人を非難しているばかりに見える。政治家だって、謝りすぎだよ。謝らなくちゃならないこともあるだろうけど、明らかに今回はマスゴミが、あんたナニサマってくらい付け上がりすぎていると思うよ」
 腕を組んで考えていた友利が、ゆっくり立ち上がった。
 「そうなんだよ。やっぱり、原発廃止のなんのとかのより先に、まず人間が、なっていなかった気がする。政治家も、電力会社も、マスコミも。そして国民もね。
 発送電分離とか、地域独占体制をやめることとか、まずなんでもやってみようと思います。それで電力自由化をして、自然エネルギーにも電線を開放して流しやすくする。原発を監視する組織をちゃんと作り直して、政府からひっぺがして独立させて、情報公開もさせる。税金から研究費をいっぱいだして、自然エネルギーでも原子力でも平等に研究者を養成します。
 それを全部やったら多分、今までよりずっとましな体制で原発を運用できるんじゃないだろうか。まだ日本は、そういうまっとうで地味な努力をやりきっていないような気がするんです」
 友利は一呼吸置いて、グループの仲間を見回す。
 「みんな、どうだろう」
 政治家たちは半信半疑といった表情で互いに顔を見合わせた。
 「原発を使い続ける以上、そうするのは当然だと思うけど・・・・それをやりますって言っても、もう国民には信用されない気がするよ」
 小口が相変わらず力無く言った。
 「確かに今はそうだけど、それは政治家だけのせいじゃなくて、学者もマスコミも、要は国民全体が、みんな無責任だったからだと思う。これから、国民も変わらなくちゃならない。自分で疑問を持って、調べて、政治家の判断に、賛成反対を言っていけるような国民にならなくちゃならない。そうじゃなければ、どうやって、政治家が正しいことをしているか判断できるんだろう。これまでと同じように、政治家たちに丸投げするなんて、そんなことは、もうありえないんだ」
 友利はじれったそうに身を捩った。
 「政治家だけが政治をする、それじゃだめなんだ。『国民』も『企業』も、政治に関わらなきゃ。なんでみんな知らん顔をするんだ? 国民も企業も、政治家の判断を見守って、監視して、必要な時には応援したり批判したりするべきじゃないのか? その責任に、これまではかけらも気づいていなかったことを、国民自身がちゃんと反省するべきなんじゃないだろうか?」
 全員の視線が友利に集中し、教室は水を打ったように静まっていた。
 「僕は最初、原発廃止を主張したけど、やっぱりだめだ、それはやめた。今の段階で、『政治家』グループが原発の廃止を決めることには反対だ。だって僕たち『政治家』がそれを決めてしまったら、国民がちゃんと自分の頭で考えたり、反省したりする機会が永久になくなってしまうと思うんだ。自分の周りの大人を見てみろよ。政治家も悪いか知らないけど、もしかして自分も悪かったんじゃないか、なんて気がつく人はいないだろう。次にまたひどい事故が起こるまで、原発の問題は全部、忘れられちゃうんじゃないだろうか。今の国民なんてその程度のレベルじゃないの? みんな、そう思わない?
 僕たち『政治家』が今やるべきことは、まずは動いている原発の、できるだけ無事な運転を続けるための努力だと思う。原子炉の冷却とか、修理とか、考えられる限り手をつくして、事故を落ち着かせることだと思う。それに経済が今以上悪くならないよう、気をつけること。つまりなんていうか、まず守備をしっかり固めることが、政治家の仕事なんじゃないだろうか。それより先のこと、原発全体をどうするかとか、その話し合いは、まさに今からなんだ。
国や電力会社は重要な情報を隠していた、っていう批判もされてる。でもそれは、国民が危険情報とかに過剰反応するからでもある。みんな冷静に、聞く耳を持つと約束してほしいんだ。そうしたらこっちも、つまり国側も、メリットもデメリットも隠さずに全部出せる。協力して貰えると確信できたら、それができるんだ。国民といっしょに、知恵を出し合って、これから少しずつやっていくべきなんじゃないだろうか?」 
 友利はその瞬間、本当に日本の将来を背負い込んだ『総理大臣』のように苦悶し、汗だくになり、声を振り絞るようにしてクラス中に訴えかけていた。発言を終えると、ぎょろぎょろと友人たちの顔を見回して、必死にその表情の中に、共感を探ろうとした。幾人かは、目をぱちくりさせたり、あっけにとられて友利に視線を返していた。しかし多くの者が言葉を失ったように、一人ひとりが顔を強ばらせ、俯き、動かなかった。
 相倉さんがゆっくりと、まだ息を弾ませている友利に歩み寄り、軽く肩に手を触れて着席させた。そして教壇に上ると、硬直している32人の生徒に向き直った。
 その顔にはいつもどおりの穏やかな微笑が浮かんでいた。相倉さんは誇らしげに、一人ひとりの姿を目に留めようとするかのように、大きく息を吸い込みながらゆっくりと首を巡らせた。
 相倉さんの声は、わずかに上ずり、震えていた。 
 「どのグループのどの発表も、信じられないほど素晴らしかった。
僕は、何度も何度も、胸をつかれるような思いを味わった。特に今の友利の迫力には、僕は批判される側の当事者として、心から恥じ入り、息苦しくなったほどだった。それと同時に、君たちが大人になる未来への期待が途方もなく膨らんで、まるで目が眩むような気持ちになった・・・」
 相倉さんの言葉が終わらないうちに、時間終了のチャイムが鳴り出した。相倉さんはしばらくじっと目を閉じた。
チャイムの最後の響きが消えるのを待つと、相倉さんは晴れ晴れとした表情で、声を張り上げた。
 「さあ、時間が来た。自信をもって次のステップに進もう。
 次回僕たちは、最終的な結論に近づく。『原子力発電所は、廃止するべきか?』、その結論を出す方法を議論しよう。結論にはまだ早いと思う人もいるかもしれない。議論が足りないと思う人もいるだろう。でも、国民すべてを巻き込むような重大な事態に至った時、時間がいつも十分に確保されているとは限らない。
僕たちの結論を探そう」

(改頁)

■第5回

 相倉さんが入ってくると、教室は既にわいわい議論をはじめていた。相倉さんはしばらくその様子を満足げに見守っていたが、日直が「起立!」の声をかけると背筋を伸ばした。
 「9月に決めた日程は、これまで順調にこなせている。行程表では、今日は『結論を導く方法を決める』回だ。
 いままではグループの中で議論をしたり、調べものをしたりして意見をまとめてきたね。8人という少人数であれば、一人ひとりの意見をじっくり聞くことは、とても有効な方法だった。
 今日は、この32人のクラス全体で、一つの結論を出すことを目指したい。先日、君たちはグループごとに個性的な発表を聞かせてくれた。それぞれの結論には、大なり小なり、違いがあったことを思い出してみよう。
 あの4つの、それ自体よく練られた見事な意見から、どんなふうに一つの答えを導けばいいだろう。誰か、意見を言ってくれないかな」
 「多数決!」
 高瀬が横着な口調できっぱりと言うと、賛同の声が続いた。
 「そうだよね。多数決なら、誰も文句は言えないよね」「賛成」「俺も」
 「私もその意見には賛成です。だって、多数決は民主主義の基本ですから」
篠原の一段と通る声が響いた。
 「さあ、本当にそうだろうか?」
 相倉さんが、『国民』グループを振り返った。
 「多数決は、民主主義の基本なのかな?」
 「え・・・だって選挙とか、国会の議決とか、みんな多数決じゃないですか」
 篠原が不当な非難を受けたように顔をしかめると、「ねえ」とメンバーを見回し、同意を促した。
 「少数の意見が通ったら、その方が問題でしょ? それって、独裁とかじゃないの?」
 「篠原は、本当に博識だね。確かに選挙や議決では数が多い方が勝つ。しかし必ずしも、多数決が民主主義的だとは言えないと思うよ。むしろ多数決の方が、独裁制に似ていることさえある。さあ、なんて説明したらいいんだろう。
 たとえば・・・仮に、このクラスを1時間、自由時間に振り替えるとするよね。このクラス全員が一つのことをして過ごすのが条件だとする。何をしてもいい、自習でも、ドッジボールでも、しりとりでもいいよ。だけど、全員が同じことをするのが絶対条件だ。
 自由時間に何をするか。では、それを多数決で決めることにする。
・・・ここまではいいかな?」
 「いいと思いますけど。だって他には、じゃんけんの勝ち抜き戦で決めるくらいしか考えつかないしねえ」
 片瀬がつぶやいた。
 「じゃあ、多数決で決めることに合意した。その時、たとえばサッカー部の土谷が間髪を入れずでかい声で『サッカーがいい人!』とたずねる。その提案に応じて、18人が賛成したとしよう。では、これでクラス全体が何をするかは決定しただろうか。
どうかな、高橋?」
 「えっと・・・32人中の18人なので、過半数だから、多数派になったわけですから・・・決まりですよね?」
 「高橋の意見に賛成の人」
 ぱらぱらと、ためらいがちにいくつか手が挙がった。
 「では、反対の人は」
 多くの手が挙がる。
 「うん、反対の方がずっと多いね。では反対の人の中から、誰かの意見を聞こうか。
じゃあ森田、どうかな」
 森田が小首をかしげておっとりと発言した。
 「あのう・・・私は運動とかあんまり得意じゃないので・・・OAルームで映画鑑賞とか、がいいです。本当は私は読書がいいんだけど、多分それだと、賛成する人は多くないかもしれないし。映画鑑賞がいいかどうかも聞いてみたら、きっと女子の賛成が多いんじゃないかなあ、と思うんですけど・・・」
 「なるほどね。ではサッカーで手を挙げた18人は、多数派ではない?」
 「えっと・・・『サッカーをやりたいか』という質問については、・・・たしかに多数なんです」
 「そうなんだよね」
 相倉さんは我が意を得たりというように大きく頷いた。
 「森田、大正解だ。『サッカーをやりたいか』という質問について多数派がいたとしても、それは『自由時間に何をしたいか』という最初の質問の答えにはならない。森田が『映画鑑賞が良い人』と呼びかけていれば、もしかしたら賛成する人は20人以上だったかもしれないよね」
 「ああ。そっか」
 高橋が小さくため息をついた。
 「もし『サッカーと映画鑑賞のどちらがよいか』という設問にすれば、サッカーと映画鑑賞の、どちらの希望者が多いかは判明するね。しかし、それはあくまでサッカーと映画鑑賞という二つの選択肢のうちの多い少ないであって、最初の『自由時間に何をしたいか』という質問の答えにはならないだろう?」
 相倉さんは問いかけを重ねた。
 浅井がゆっくり挙手をすると、相倉さんが頷いた。
 「相倉さんのおっしゃることはわかりましたけど、『自由時間に何をしたいか』という質問のまま、多数決はとれないですよね。もっと簡単に、○か×か、で回答できるような質問に変換しないと」 
「さすがは浅井だ。そこが重要なポイントなんだ」
 相倉さんは浅井に向かってにんまりと微笑んだ。思わずつられて、浅井がぎこちなく笑い返す。
 「膨大な数の人間がいる場合に、様々な答えが返ってくることが予想されるような質問で、多数決をとるのはとても難しい。このクラスのように32人なら、最大でも32通りの答えが出るだけだけど、仮に100万人を対象に同じ質問するとしたら、どうかな。ばらばらに自由回答されちゃったら、意見の集計には、ものすごく時間がかかりそうだ。では集計の時間を短縮したい場合には、どうしたらいいだろう?」
 「ある程度、ランキング上位に来そうな答えを絞りこんでから、尋ねます」と斉藤。
 「賢い手だね。選択肢はいくつにしよう?」
 「5・・・とか、10くらい? 最初は10にして、多い中から決選投票するとか?」
「いいねえ。では、最初の10個の選択肢の中には、『サッカー』と『映画鑑賞』は入るだろうか? それと、森田が本当は希望していた『読書』はどうかな?」
 「入る」「要らないって」様々な声が飛ぶ。
 「さあ、どうしようか。ランキング上位に来そうな答えを絞りこむということは、それ以外の希望を持っている人から、本来その人が希望する意見を表明する機会を奪ってしまうことになりそうだね。実はまだ何をしたいか、アイデアを持っていない人たちの回答を誘導する可能性も高いから、どんな選択肢に絞るかは、できるだけ慎重に検討した方がよさそうだなあ」
 「もしそうだとすると、最初の選択肢を決める段階でも、ディベートが必要だってことになるんでしょうか」と朴。
 「その通りだ!」
相倉さんがしたり顔で答えると、高瀬はうんざりしたような表情を浮かべて「面倒くさ」と吐き捨てた。
 「話し合いとか、ディベートとか・・・そんなにしょっちゅうやらなきゃなんないものなの?」
小口が高瀬の肩を持つ。
 「人間関係ぶっ壊れるよな」。栗原が冷やかすように言う。「だから篠原みたいに、理屈っぽいやつは友達少ねーじゃん」
 「あ、言っちゃう? それ言っちゃうわけ?」。松井がおどけてはやし立てたが、篠原はきりりと表情を引き締めて二人を黙殺する。
 「たしかに、いつもいつも議論をする必要なんかないよ。友情にひびが入るという意見も、まあ、ごもっともだ。
でも、ちょっと疑ってほしかったんだ。多数決って、そんなに単純で便利なものではない。使い方には気をつけなくちゃならない、ということを。
 だって、『自由時間に何をしたいか』という問いかけがされたときに、この32人の中で一番声の大きな人が『サッカーをしたい人!』と叫んだとするよね。そして18人が賛成し、多数決で決まったことにされてしまったら、少数派の14人はたとえサッカーが大嫌いでも、たとえ体調が悪くても、従わざるを得ないことになるかもしれないんだよ? 高校の、たった1時間の自由時間の使い道なら、まあ、それでもいいかもしれない。でも、これが政治の世界でも、同じように繰り返し行われるとしたらどうだろうか。たとえば、『国の赤字をどうやって減らそうか』という課題に対して、すかさず大声で『消費税を上げることに賛成の人は手を挙げて』と呼びかける、とかね。誰か頭の良い人が、問題を都合よくすり替えて、巧妙に選択肢を作って多数決を取ることもできてしまう。もし決定に従わされる側が、選択肢を作る過程に関与できない場合、それは正しい民主主義のあり方と言えるだろうか?
 浅井はどう思うかな」
 「もちろん、赤字を減らすためなら、たとえば・・・消費税以外の方法はないのか、その他の税はどうなのかということも、方法を選ぶ段階から、よく話し合って決めるべきだと思います」
浅井が冷静に述べた。
 「そうだよね。相続税や所得税、目的税という別の選択肢もあるはずなのに、消費税だけを議論するなら、誰かがそちらに誘導しようとする意思がすでに働いているんだ。他にも、そもそも税金を増やす以外でなんとかする、という選択肢もあるはずだよね。一つの考え方だけど、このあたりの議論を端折ってしまうと、民主主義的な議論がうまく行われていない、ということになってしまうような気がしてきたね。あれ、でももし、そうだとすると・・・」
 相倉さんはとぼけた表情で、空々しくつぶやいた。
「考えてみると、今の日本は果たして、民主主義国家だと言えるのかなあ?」
 生徒たちは皆、所在なげに顔を見合わせた。
 「話が少し脱線したかな。もう一度、サッカーのたとえに戻ろう。『サッカーか映画鑑賞のどちらがいいか』と尋ねて、32人のうちの30人がサッカーと答えたとするよね。圧倒的多数で結論が出る、でもその後で友人思いの森田が、実は伊藤が足を骨折していることを思い出す。対案として『伊藤さんも含めて全員が参加できる映画鑑賞にしよう』と提案した場合、もしかしたら32人全員の同情と共感を得て、結論がぱたっとひっくり返るかもしれないよね。
 反対に、伊藤が『私は見学しているから大丈夫』と言って、森田も伊藤自身がそう望むなら自分もサッカー派に賛成しよう、となるかもしれない。
 全然別の結論になることもあるかもしれないよ。窓の外を見た福沢が『なんだか雨が降りそう』と気づくかもしれない。そんな時に石原がふと思い出す、『そういえば近くのプラネタリウムが、今日だけ無料開放してるよ。サッカーはいつでもできるから、今日はプラネタリウムに行ってみない?』。それまで共有されていなかった有益な情報がもたらされて、雪崩を打つように一気に結論が変わる場合もある」
 「つまり、多数決は使っちゃだめってことなの?」
 土谷が眉を寄せて尋ねた。
 「そうじゃない。多数決は、意見が分かれている問題に一つの答えがほしい時、とても合理的な方法だよ。ただ注意しなければならないことがある。少数の意見が無視されてしまう恐れが常にあることを、認識することが大事だ。それは、多数派少数派が拮抗している場合だけじゃない。たとえ99対1の圧倒的多数で物事が決まる場合も、その1%の意見を聞いて尊重する手続きがどうしても必要だ。それをしないで、少数派の意見を完全に無視して従わせる制度は、民主主義とは呼ばれない。
多数決をうまく機能させるためには、決定に参加する側にも、能力や積極性が求められるんだよ。だってもし森田が、議論が面倒だからと、伊藤の骨折に気づかないふりをして多数派についたら、どうだろう。福沢と石原が天気やプラネタリウムの無料情報を、知っていながら隠していたら、多数決で得た結論は本当に適切だっただろうか。
民主主義が機能するためには、一人ひとりの主体的な参加が必要なんだ。見て見ぬふりはいけない。前回、友利総理が鮮やかに指摘してくれたように、国民が責任を負わず傍観する国では、民主主義は正常に機能しないんだ」
「つまり・・・今の日本では、民主主義が・・・」
石野が言いかけたが、言葉が途切れて続かなかった。誰もが困惑し、疲れた表情を浮かべていた。
 「相倉さんは、僕たち高校生にはまだ責任がないって言ったけど・・・でも僕たちの親には、この今の日本のぐだぐだ状態に、責任があるって意味なんでしょうか」
 磯村がぽつりとたずねた。 
 相倉さんはしばらくの間、表情を曇らせてその質問に立ちすくんだ。やがてためらいがちに、慎重に口を開いた。
 「磯村の質問は、・・・とても厳しい課題だ。
この国では昔から、議論は避けることが美徳と思っている文化がある。縦割りの社会で、他人の仕事には立ち入らない、口を出さないことが奥ゆかしい態度だと評価される。正義感を振りかざせば疎まれる。『あなたがた大人には民主主義の実行に責任がある』と言われても、ぴんとこない人が大多数だろうね・・・」
相倉さんは、教壇の上をゆっくりと歩きだした。
「民主主義は、この国で生まれ育った概念じゃなくて、輸入された考え方なんだ。だからこの国の文化とは、矛盾する部分がある。
でも、民主主義国家になると決めたのも、この国自身のはずだ。この国の大人たちは、いつかは民主主義の権利と義務とに、目覚めることができるだろうか。・・・僕には正直なところ、わからない。民主主義を維持する責任を果たすため、もし周りと軋轢を起こすのだとしても、それでもなお必要な議論をするという強い意志を持った人間は、君たちもよく知っているかもしれないけど、この国ではあまり好かれない。さっき、栗原と松井が、篠原のことを批判したようにね」
栗原と松井が互いに目配せをしあい、肩をすぼめて、聞き取れないほど小さく反省の言葉をつぶやいた。相倉さんはその殊勝な様子にくすりと笑い、昂然と顔を上げている篠原にも微笑みかけた。
「どんな問題でも、重大な局面で、いつまでも軋轢を恐れて議論を避けているようでは、未来に責任を果たせない。まして、果敢に議論を始める人たちを嘲笑し、足を引っ張ってどうするんだ。『国民』とは、税金で公務員や議員を雇い、任せきりにしていい人たちのことではないんだよ。大多数のそうしている大人たちは、いつか自分の責任に気づいて、周りに疎まれる危険を冒しても、大震災や原発事故と、原因や結果と、知りたくない事実ともちゃんと向き合うことができるのだろうか・・・」 
 相倉さんは見分けがつかないほどかすかに悲しげな表情を浮かべた。
 「文化が変わるためには、ものすごく長い時間が必要なんだと思う。民主主義が日本に根付くまでには、まだまだ、長大な時間がかかるだろう。今、日本に民主主義の成熟した文化は育っていない。でも、3月11日の大震災のような大きな衝撃は、変化までの長い時間を、劇的に短くするのかもしれないね。僕には予言はできないけど、希望を捨てずにいようと思う。文化は一気呵成には変わらない。個人の力で変えられるものでもない。ただ銘々が自分にできることを少しずつ積み重ねていくしかないのだから。
だから大震災の後、僕がまず、高校生の君たちとちゃんと向き合って話そうと思った。君たち32人が5年後に、責任感を持った有権者になってくれるとしたら。それは決して小さなことなんかではない。これが教師である僕の仕事であり、僕にはこれしかできないと自覚したから、このディベートを始めたんだ」
 相倉さんは足を止め、ゆっくりと顔を上げた。 
 「君たちはこれまで、僕が計画した以上に、ずっとうまく議論を重ねてこられたと思うよ。この国で、こうした議論の文化が根付くなら、本当に未来には希望がある」
 相倉さんは高瀬に向かって微笑みかけた。
 「このクラスは、十分に議論を経た。今であれば、高瀬の言うように『原発を廃止するべきか』を多数決で決めるとしても僕はまったく反対しない」
 高瀬は、珍しく自分の意見が採用されそうな様子に戸惑い、小刻みに体を揺らして目をしばたいた。
 「そう改めて言われると、なんだか、やめた方がいいような気がしてきた。何って言えないけど・・・もっとほかに、何かいい方法があるような気がしてきたんだけど」
 「高瀬、もし9月の最初のクラスで『原発は廃止するべきか』尋ねた時に、君がすぐに多数決を提案していたら、僕はきっと大慌てで止めているよ。でも今、僕たちは真剣なディベートを終えて結論を聞いた。それぞれのグループの結論について説明も行われ、その長所だけではなく、問題点や課題も隠さず明らかにされた。
 この時点で多数決を取ることに、もはや僕には不安はないよ。でも高瀬はほかに、より良い方法がないかと尋ねている。どうだろう。誰か、アイデアを持っている人はいる?」
 「はい!」
 浅井が手を高く挙げた。
 「僕は、多数決をとる高瀬さんの意見に賛成です。でもこのクラスだけじゃなくて、学年中・・・もしできれば学校中、それと先生たちにも、決定に参加してほしいと思います!」 
 『政治家』グループからわっと賛同の拍手が起き、クラス中に広がった。浅井は何度も頭を下げて、少しおどけた表情で謝意を示した。
 「うん、だれも異存はないみたいだね。面白いなあ、全校投票か。じゃあ、手続きはどうしよう。浅井の考えを聞かせてもらおう」
 「はい。まず、4グループが各自の主張を文字でまとめます。相倉さんから与えられた最初のテーマは『原発は廃止するべきか?』でしたけれど、4グループから出てきた結論はそれぞれ複雑で、単純に廃止するか維持するか、というだけではとても表しきれません。○か×かの二者択一で投票するのはふさわしくない気がします。僕は、学校中の人たちにも、投票するにあたっていろいろな要素を真剣に考えて貰いたいと思います。だから各グループは、これまでに発表した内容を、A4判1枚くらいにまとめる、というのはどうでしょう? その4つのプランを多数決にかけましょう」
 「なるほど。たしかに『原発は廃止するべきか?』よりずっと良い選択肢になるだろう。○か×かではなく、4つの複雑な選択肢を示して、その中から1つを選んで投票して貰うわけだね。つまり、全校生徒と先生方も、理解力と積極性が問われるわけだ」
 相倉さんは愉快そうに目をきらめかせた。
 「どうかな、みんな」 
 「私も賛成です」と篠原が手を挙げた。
 「全校メールに4つのファイルを添付して送りましょう。それで、次回の授業までの2週間を、選挙期間にするんです。職員室脇と体育館前の掲示板を利用して、各グループが選択肢と理由書を張り出すの。朝礼やメールやホームルームで支持を呼びかけてもいいし。生徒会長の選挙でやるようなことは、この際全部やるべきだと思います」
 「緊急動議!」
 菊池が叫んでひらりと椅子に飛び乗った。
 「職員室の横にでっかい投票箱を設置しよう。超、超、目立つヤツを作るよ。人が通ると動くメカとかもつけて、無視してスルーなんて不可能ぐらいのヤツを『企業』グループでこしらえます!」
 「それなら投票用紙は『国民』で作ります。偽造できないようにちゃんと1枚1枚スタンプでも押して、手間をかけて作らなきゃ。
 じゃあ『政治家』は全校メールの編集作業ね。あと、『諸外国』は掲示用の模造紙とか、朝礼や掲示板の手配をよろしく」
 篠原がてきぱきと指示を出し、相倉さんはうれしそうにその様子を見守っていた。
 「よし、それじゃあこの時間の後半は、グループでA4判1枚・・・字数にして1600字程度で、各々の主張をまとめる作業をしよう。
書式、レイアウトは自由だ。原発を廃止するか存続させるかだけではなく、どのくらいの時間をかけるのか、そしてその間に何をすることが必要なのか。代替エネルギーは十分か、もし十分な電力を得られなかったらどうするのか。総合的なエネルギー政策の大枠を示して欲しい。
君たちがこれから支持を訴えかける相手は、専門的な知識を持たない高校生たちだ。先生たちも、今の君たちよりは詳しくないだろう。簡潔で分かりやすく、生き生きと魅力的な文章を期待しているよ。
 さあ、時間がない。急いで作業にとりかかろう!」
 相倉さんの合図で、蜂の巣をつついたような騒ぎが始まった。

(改頁)

■第6回

相倉さんが、暴力的なほどサイケデリックな配色の巨大な投票箱を抱えて入ってくると、教室が端から魔法をかけたように静まり、日直の号令を待たずに次々と全員が立ち上がった。クラス中が異形の投票箱に対して敬意を表し、穏やかに拍手を始めた。
 相倉さんは投票箱を丁重に教壇の机の上に寝かせると、両手を広げてゆっくりと箱に載せた。 
 「君たちの活動の成果がここにある。たくさんの人が投票してくれたようだね。本当にずっしりと重たいよ」
 クラスの誰もが投票箱を見つめていた。
 「すぐに投票結果を知りたいと思うかもしれない。・・・でもその前に、もうちょっとだけ、君たちと話がしたい。ひとまず着席してくれないか」 
 ガタガタと音をたてて椅子を引き、全員が座った。相倉さんは自然な微笑みを絶やさずに、投票箱の上で長い指を組み合わせた。 
 「この2週間の選挙期間というもの、僕は実に愉快だった。職員室で先生方の様子を観察していたけど、誇張なんかじゃなく、みなさん目を白黒させていたよ。なにしろ前回の授業の終わりに、友利が送付した全校メールのタイトルがまず、度肝を抜いた。
『目覚めろ、日本の民主主義ッ!』」
 はじけるような爆笑がクラス中を包んだ。 
 「投票を促す檄文の出来も素晴らしかった。あれこそ校史に残る名文だね。校長先生が仰天した後で、今度は檄文を何度も音読する様子がおかしくて、僕はおなかが痛くなるほど笑ったよ。その後、いろんな先生方からたびたびお叱りを受けたけどねえ・・・まさに叱られる価値は十分、あった。来客も通る職員室横に、誰がこんなにサイケな投票箱を置くことを許可したのか、なんで自動的に動く仕掛けまで付いているのか、あっちこっちから問いつめられたけど、叱られている間も笑いがこみあげちゃって、神妙な顔をするのは一苦労だった。
 職員室の反応はともかく、僕はずっと、君たちの親御さんにどう思われるだろうかと心配だった。お叱りの電話も何本かいただいたよ。この授業のせいで、子どもが親御さんの言うことをいちいち疑うようになったと苦情を言われた。ある親御さんが子どもを叱ったところ『情報の受け手側にも責任があるので、親が言うことが正しいのか検証してみる』と言われたのだそうだ。これもなかなか傑作だったよ、確かにこのクラスで僕が伝えたことかもねえ。ともかく、反抗的な態度を教師が教え込んだと怒られた。
 それでも、どうしてもこのクラスは必要だと、自分に言い聞かせ続けた。教育にかかわる者として、僕自身のエゴなのかもしれない。でも、今君たちと、原発のことをちゃんと話さなくてはならないと自分に言い聞かせた。それが福島で起こっている恐ろしい事態に直面した、大人の義務だと思ったんだ。
もう君たちには何度も言ったね。原発のことを調べていくうちに気づいたのは、僕自身が原発について何ひとつ知らなかった、ということだった。そして、調べるにつれ、知るにつれ・・・原発についての情報が、決して難しい専門的なものとしてではなく、日常に、テレビや新聞に、ネットに、身の回りのメディアに満ちあふれていたという事実に衝撃を受けた。気づいてみたら、それはとても噛み砕かれた、わかりやすい言葉で書かれていたんだ。僕は本当に打ちのめされた。関心を持ち、落ち着いて注意深く読んでさえいれば、もっと理解できていたはずなんだ。それなのに3月11日まで、自分はそうした大切な情報も、ほかのどうでもいい事とも一緒くたにして、軽く受け流してきた。受け流したことさえ自覚がないほど、右から左にね。教育にかかわる者として、僕は自分を強く恥じた。無関心だった自分の態度を、恐ろしいほど恥ずかしいと思ったんだ。
 そして切実な希望が胸に迫ってきた・・・今、まだ大人でない君たちと、ぜひ一度原発の話をしよう、と。だって恐ろしいことに、僕と同世代や、もっと上の世代の大人たちは、大震災で原発の問題に気づいてなお、問題について議論をするという姿勢を持てないんだ。おそらく、考えもよらないことなのかもね。本来、全員参加が基本の民主主義では、議論の姿勢が不可欠だというのにね。まったく責任を自覚せずに、遠くから、ミスをした電力会社や政治家を責め非難することが、投票にさえ行かない冷笑的で無関心な態度が、今なにか建設的な意味を持つというのだろうか。
 大人たちは、これまで原発をめぐって存続派と廃止派が対立し、知識のある人たちがそれなりに議論をしていたではないか、というかもしれない。でも原発存続、原発廃止、どちらかの意見を持ったとしても、相手の立場に立ってみて、お互いの主張のメリットデメリットを真剣に検討し、理解しあい、必要な批判をし、補完をしあう、そうした信頼関係に基づいたまともな『議論』をしてきただろうか。もっと単純に言えば、『相手の話に耳を傾ける』ことをしてこなかったのではないか。生み出したのは、問題の解決策ではなく、互いへの不信感だけだったのではないだろうか。どちらにしても、細々と行われていたその議論にさえ、周囲の大人たちはまるで関心を示さなかった。
 この国の民主主義は、まるで、不毛の荒野のようだと感じて絶望的な気持ちになった。この荒れ果てた風景に、僕は疲れて力を失ってしまう。なぜだろうね。なぜ今の日本の大人たちは、まともな議論ができないのだろう。あるいは昔から、議論する能力など一度も持たなかったのだろうか。
議論は、民主主義の礎だ。この深刻な原発問題に直面してさえ議論できないのであれば、この先どんな問題に行きあたっても、冷静に合理的に解決することはできないだろう。ただ無責任に、自分以外の誰か『強い指導者』、『頭の良い政治家』待望論を口にしながら、遠巻きに見ている傍観者だらけのみじめな国になってしまう。
 聞いたことがあるかな。『民主主義において、政治は民衆を映す鏡』とたとえることがある。とても厳しい言葉だねえ。政治の姿は、国民の姿そのものなのだ。むやみに政治家を批判すれば、天に唾することになる。今、社会はむやみやたらに政治家を非難し、政治家とともに自分自身をおとしめてはいないだろうか。
 むやみに、という意味は、自分を省みずに、ということだ。政治家が能無しだというのであれば、代わって自分が立候補し政治家になって、代案を示さなくてはいけない。またはそれが可能な人材を政治家にするべく、自分の時間や資力を割いて行動しなくてはならない。それが民主主義のルールなのだ。もしそのルールが守られなければ、口先だけの無責任な批評家があふれてしまう。それは最も避けなくてはならない事態のはずだが、残念ながら今この国には、軽薄な批判ばかりが聞こえてくる。『ちゃんとやれ』『誰かやれ』。具体的な方法を示すことなく、ただただ、連呼している。
だから僕は、まだ高校1年生の君たちに、まず議論とは何であるかを知って貰いたいと考えたんだ。当初、自分と反対の意見に鋭い言葉を投げつけたり、感情的になったりする場面も見られて、実ははらはらしていた。でも、次第に設定された立場に立つことに慣れ、また相手の立場を理解して、友人と意見が割れることを恐れず、勇敢に批判を受け止め、批判に率直に対応して意見をまとめた。信頼関係を築きながら議論が重ねられていく姿に、僕は心を揺さぶられた。
君たちは、本当にすごい。この栄光ある投票箱が象徴する大成功は、君たち32人のものだ。でも、このクラスがとびきり優秀だから、成功したのだろうか?
もしかしたらそういう面もあるかもしれない。だけど、僕は優秀なのは君たちだけではないと思っているよ。
日本中の、どの高校の1クラスであっても、僕たちがたどってきたような成果を上げることが可能だと信じている。僕は今、君たちの成功を目にしたから、興奮して舞い上がり過ぎているのかもしれない。でももし、この授業を他のクラスでも、他の高校でも、日本中の高校でも行えたとしたら。5年後、この国の未来が大きく変わるような気さえするんだ!」
相倉さんは晴れやかな顔でぐるりと首を巡らせた。32人の生徒たちも賛意を示すように、達成感に輝く明るい視線を返していた。
「今月は11月。あの大震災からまだ8カ月しか経っていない。福島の事故を伝えるマスコミの報道は、たしかに毎日繰り返されてはいる。でももうトップニュース扱いではなくなった。テレビのアナウンサーも、どこか淡々とニュースを読んでいる。新聞も事故や被災地の話題を、特別なことでもない限り1面に置かなくなった。そして、一般の人たちも事故の事を忘れていく。日々の自分の仕事に忙殺されていく。政治は政治家がやるものだからと、原発からも福島からも目を背けていく。
 『脱原発』を表明した総理大臣もすでに交代した。原発をこれからも維持するのか。廃止するのか。春先にはあれほど百家争鳴だった論争が、早くも最近は、一部の人だけのものになっていないだろうか。
 でも、君たちは多分これから、必要な議論が行われていないこと自体に気づき、疑問を感じたり、あるいは一部では議論が続いていることに安心したり、または逆に危機を覚えたりするのだろう。そうした事を、まだ高校1年生でありながら、自分自身の頭で考えられるようになった。とても心強い変化が起こったんだ。
 もうまもなくだ。5年後、いよいよこのクラスの全員が、実際に選挙権を手にする時がくる。君たちの出番がやってくる。その時に、この授業で学んだことが、君たちが物を考え、行動する際の助けになるはずだ。
なにか物事を選択するにあたっては、問題を知ろうとする能動的な姿勢が重要だったことを。
違う立場の人と意見を交わせば、より広い視野を得られたことを。
議論を交わすにつれ相手との距離が変化したことを。互いをより深く知り、今まで気づかなかった相手の知識や知恵に驚き、尊敬しあうようになっていったことを。
立場の設定がまったく違う者が、相手の言葉を理解しようと注意深く耳を傾け、意見の背景に思いを巡らせ、自らの意見を近づけていく姿を、ここにいるみんなが見た。これが民主主義の土台だ。互いを尊重しなければ、議論なんて不可能なのだ。
 意見があべこべでまったく妥協点が見いだせなかった時、それを突破する力になったのは何だっただろうか。共感が生まれた時は、そこにどんな経緯があったのだろうか。それぞれが経験した議論の過程は、とても貴重な民主主義の種だ。
 今のこの国には、このクラスほど恵まれた環境はそろっていないかもしれない。政治も、経済も、まるで深い霧の中で道に迷い、途方にくれているかのようだ。しかしこれほどの大惨事を経て、多くの人たちが現実に苦しむ中で、国民が変わらないでいることなどできるのだろうか。3月11日の大惨事を経て、大人たちはやっと自分のこと以外にも感心を持ち、多くの人が切実に変化を求めて行動を始める準備をしているのだと信じたい。この6回のクラスが、こうした切迫した状況の中で行われた事も、どうか記憶しておいてほしい。
 君たちは5年後、大学に進んだり、社会や海外に出たりしている。その時、周りの人たちと、たとえば今のこのクラスのような関係を作ろうと努力することがあるかもしれない。そうだとすれば、このクラスの経験は32人だけのものじゃない。どんどん共有され、広がっていくだろう。民主主義の種が、芽を出して成長していくんだ。
 君たちがこれから、議論を続けていくことを選択してくれるなら、月並みな表現だけど、普通の教科をしっかりと学び続けてほしい。だって、わかったよね、社会の重要な問題について考える場合に、知識がどんなに大切かを。あやふやな言葉や頼りない記憶では、仲の良い友人さえ説得できず、もどかしい思いをしたことを。対立する意見を持つ相手なら、なおさら説得するのは難しい。君たちはたくさんの科目を勉強している。毎日毎日大変だろう。でもそれは、いい大学やいい会社に入る手段というだけじゃない。君たちの意見の土台を支える力なんだ。だから民主主義に教育は不可欠だと言われるんだ。
 知識だけではない。議論の中で、批判されながらも粘り強く意見を述べる姿に何度も感銘を受けた。批判されるのを承知で、あえて発言する勇気も見た。分かり合うことを諦めない姿勢はとても重要だ。
 『無理』とか『ありえない』とかいう言葉も、よく使われたよね。感覚を瞬時に周りに伝えられる、君たちの仲間の誰もが使う便利な表現だ。くだけた場面での言葉としては嫌いじゃないけど、こうした言葉をいつ誰に対しても、どこででも使っていいわけではない。間違った場面で、たとえば真面目な議論の場で使えば、相手との会話を断ち切ることにならなかっただろうか。有益な意見を聞く機会を逃すことにならないだろうか。反対に相手に自分の思いを伝え、相手から意見を引き出すには、どんな言葉が有効だっただろうか。言葉はとても大事な道具だ。使いこなせる人になってほしい」
 相倉さんはいったん言葉を切ると、苦笑した。
 「僕は・・・今、膨大な要求をしているよね。
教師って、いつも生徒に要求するものだけど、そんなに何もかもいっぺんに対応できるわけがない。僕にもわかっている。それに、それでかまわないんだ。いつも手抜きせず努力しつづける必要なんかない。できる人は、それはそれで素晴らしいことだが、誰でもができるわけじゃないこともわかっている。それでも、努力が必要なことではないことでも・・・おしゃべりでもゲームでも、映画やテレビや音楽や、友達や親とのケンカ、恋愛やバイトや読書、近所のおじいさんや親戚の赤ちゃんとの触れ合い、なんだって無駄なことなんかない。感情を動かすこと、それはぜんぶ君たち自身の人格を作り、言葉やコミュニケーションの力をつけていくことに役立っている。
ただ、一つだけは約束してほしい。たった一つだけでいい。
 もし君たちが今後、受験や就職や子育てや、自分のことに忙殺されて、傍観しているしかない時でも、世の中で起こっている事に無感動でいてはいけない。自分に関係ないことだと思い込んではいけない。余力ができた時には、かかわってほしい。困っている人がいないのか、将来の自分や子どもが困らないのか、考えてほしい。行動する時間がない場合でも、ただ、知り、考えてほしい。君たちの下の世代への責任を果たすために。
 行動せずに、考えることだけしかできないのは、無駄だという人もいる。下手の考え休むに似たり、考えるだけでは、実際には何も変わらないよね。
 それでも僕は、考えて欲しいと思う。たしかに行動は素晴らしい。でも、闇雲に行動せず、考えて行動することも必要だ。行動に結びつかない考えは、全部無駄だなんてことはない。昔考えたことがいつかふっと蘇り、君たちをつき動かす力となるかもしれない。または、君たちがもっと大きな力を動かすかもしれない。1人ではできないことが、考え、言葉や文字にし、共感を呼ぶことで想像以上に大きな力になることがある。記憶に新しいだろう、今年フェイスブックを使って独裁体制を倒した国々の民衆のようにね。
 体制を倒すなんて、自分たちにはまるで関係ないと思うかもしれないね。自分たちにそんなパワーはないと思うかもしれない。でも人間はふとしたきっかけで本当に、変われるものなんだ。僕は総合学習のプランを決める3月の初め、まさか自分が原発をテーマに授業をすることになるなんて、想像もしていなかった。しかし3月11日が、すべて変えてしまった。今度は、原発問題以外をテーマにするなんて、まったく考えられなくなったんだ。あの震災の日の夜から、照明も暖房も消した真っ暗な部屋で、僕はニュースにかじりついた。そしてそれまで自分が、原発について何も知らなかったこと、僕が物心ついた時には既にそこにあって稼動していたから、というそれだけの理由で、原発について思考停止していたことに気づかされたんだ。
僕は自分が愚かだったと反省した。そうしたら、自分が変わっていった。
 君たちもいずれ、そうしようと望まなくても、変わらざるをえない。今は友達が大事で、部活が大事で、ケータイやゲームが大事という人も、将来仕事を持ち、自分の家庭を持ち、子どもを持ったら、その価値観は変わるかもしれない。何より大事なのは家族の健康だ、と思うようになるかもしれない。あるいは重要なポストでばりばり働いていて、何より価値があるのは国民や世界中の人の幸福で、そのために政治や経済が第一だと考えているかもしれない。・・・その時、まだ福島の事故処理は続いている。その時その時で、君たちはこの原発問題にどう向き合っていくのだろうか。
 この6回のクラスには、問題と向き合うヒントがあった。仲間と一緒に真剣に考え、違う意見に耳を傾け合ったね。こうすることでしか、僕たちが答えを探す方法はない。僕は君たちの姿を見ていて、確信を持つことができた。
 僕は、とても大きな期待を持って、今日このクラスを締めくくることができることを幸せに思う。みんな、本当にありがとう。最高の32人だった。心から感謝する」
相倉さんは眼鏡を外すと、はにかむように微笑んだ。そして教壇を降り、腕を大きく前に差し伸べると、両手を大きく打ち鳴らし始めた。生徒たちも相倉さんに、そして互いに、互いのグループに手を向けあって拍手をした。きらきらと輝き弾けるような音が、相倉さんと、32人自身の健闘を称え祝福した。
やがて教壇に戻った相倉さんは、眼鏡を丁寧にぬぐってかけ直した。そして、おもむろにサイケな投票箱を抱き起こすと、厳かに宣言した。
「それではいよいよこれから、開票作業に移る」

(本文終)

高校・総合学習~原発は廃止するべきか

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高校・総合学習~原発は廃止するべきか

「原発は廃止するべきか」。未来の日本のエネルギー政策をどうするのか。それはむしろ、未来の大人である子供たちが真剣に考えるべきなのではないだろうか。 そう思い立ったある高校教師は、総合学習の課題にかかげる。当初は硬かった生徒たちが、あっという間に白熱の議論を繰り広げ、結論をまとめあげるまでの、3カ月間をスケッチした。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-05-29

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