波が揺れる2 さざなみのような空

早朝の海岸は、なにもかもが、とても、静謐だと思う。
海岸線から、海の真ん中にいる宗兄の姿を目で追う。
遠くに、小さく。
離れて眺めるここの海は、水の色も、波の白さも、ひとも、空も、砂も、加工された一枚の写真のように、現実味がない。
てのひらのなかにある、誰かの思い出のなかの、切りとられた場面みたいに。

影が波間に揺れている。
すぐにひときわ大きな波がやってきて、宗兄をおおう。
消える。

消えてしまう。

「宗兄!」

思わず、叫ぶ。

一瞬のうち、波が去って、また姿が浮かぶ。
繰り返す。

怖い、という、このすべてが失われていくような、蒼白に似た感覚は、度々あった。そして、おそらくずっと消えないだろうと思う。

ふりきるように、砂浜に駆けだす。

「このへん、なつかしいだろ」
宗兄の前髪が、車窓からはいりこむ風をうけてゆれている。
なんとなく、目を逸らす。
宗兄の車の助手席は、未だ慣れない。見慣れない景色をみているように、落ち着かない。
「ほんと、なつかしい。わたしがここに来たの、宗兄が免許とったときだったから、10年くらい前?」
「あー、もうそんなになるのか」
「たぶんね。宗兄もわたしも、若かったよね」
「10代のころだろ。そのころ、サーフィン始めたばっかりで、自慢したくて仕方なかったんだよ、きっと」
「そんな感じ。そのときも、宗兄がサーフィンしているあいだ、わたし海岸線を走ってた」
住んでいる町から少し距離があるこの海岸は、波乗り好きな宗兄にとっては庭なのだろう。わたしは宗兄に連れてきてもらったときの、たった一度の記憶しかない。
それでも、そのたった一度が、ここの空気にふれただけで鮮やかによみがえった。
コンビナートが目に映るいつもの海辺とはちがう、ぬけるような空。
砂浜。匂い。
なつかしい、と思う。
なじみはないはずなのに。
「宗兄、ずいぶん玄人っぽくなったね、サーフィン」
「玄人って。もっと他に言い方ないのかよ。まあ、長く続けていれば、それなりに上手くはなるだろ」
10年前に見た、宗兄の波乗り姿を思い出して、思わず笑ってしまう。
「だって、宗兄、着替えるのも苦労してたもんね。さっきは、着替えすごく早かった」
「そこは覚えてなくていいだろ」
宗兄も、笑いながら応じる。
「あっちに行っても続けるの?」
「そうだな。海はそんなに遠くないと思うけど。趣味だから、気が向いたらやってみるかもな」
「今日の午後、出発でしょ。荷造りは?」
「もうほとんど引っ越し業者にもっていってもらったから。あとはこのボードと車だけ」
「そっか。沙和さんが気をつけてって言ってたよ」
「了解。ちゃんとあいさつできなかったな。よろしく言っておいて」
「うん。さみしくなるねって言ってた」
「そうだな。今日、沙和さんは?」
「仕事。夜中に帰ってきて、次の日はふつうに出勤っていう毎日を繰り返してる。いま、ヤマ場みたい」
「大変だな、IT系」
「ほんとにね」
景色はゆるく流れていく。
気づけば、目的の地に近づいていた。
宗兄は駐車場に向かってハンドルをきる。
ゆっくりと駐車をして、エンジンをとめた。
「じゃ、行こうか、瑞希」
「うん」
車から降りると、空が、やっと目覚めたようにまぶしい色になっていた。
陽がさきほどより高い位置にあって、じりじりと日差しを感じる。
もう季節は変わろうとしているのだ、と今さらのように思った。


宗兄が発ってから数日が経過した。
やっと休日がとれた沙和さんと、久しぶりにのんびりと朝食をとる。
食事はいつも大抵わたしがつくる。
今日の朝食は、コーヒーと、トーストに目玉焼きをのせたもの。
コーヒーに癒しを求める沙和さんは、こだわりのコーヒーメーカーを持っていて、本格的な香り立つコーヒーをいつも欲している。
「義兄さんと姉さんのところ、行ってきたのね」
「うん」
沙和さんは、母の妹。5年前、父と母が事故で亡くなってから、ひとりになってしまったわたしを思い、この家に一緒に住んでくれている。
41才、独身、キャリアウーマン。絵にかいたような肩書きの持ち主。
「宗くんなら、義兄さんも姉さんも文句なしだと思うわ」
「何いってるの、沙和さん」
「あなたたちの10年愛がみのってよかったよ、ほんと」
コーヒーカップを優雅に口元に運びながら、沙和さんはあっさりと衝撃発言をする。
「え?10年って、それはないよ」
「なんで?」
「だって、宗兄、彼女いたって言ってたよ」
わたしの言葉に沙和さんはまったく動じない。
「ああ、そう。まあ、宗くんも男だし、そりゃちょっとはいろいろあるだろうけれど」
わたしはさきほどの沙和さんの言葉をゆっくりと反芻していて、気づく。
「って、ちょっと待って。あなたたちってなに?わたしだって彼氏いたことあるし、宗兄のことを意識したのは、最近だよ」
「ああ、そう。瑞希の場合は、気づいてなかっただけよ。わたしは気づいてた」
まるで先見の目をもつ占い師のようなことを言う。
沙和さんは、それから口をつぐみ、じっとわたしを見つめている。
それから、ふっと息をはいた。
「大丈夫だよ、瑞希」
おだやかな、いつくしむような口調で、沙和さんは言った。わたしの目を、まっすぐに、見つめたままで。
「あなたは大丈夫。揺れても、大丈夫。ちゃんと、越えられる。だから、自分を信じることだよ」
沙和さんは、確信に満ちたように言葉にする。
わたしに、未だ闇がまとわりつくように引きずるものがあるということを、沙和さんは気づいていたのだと、知った。
自分でも、わかっている。
頭ではわかっているのに、どうして、思うように心がついていかないのだろう。
自分は弱い。でも、それを直視したくない。
逃げたい。
でも。
逃げられない。
怖さ、や、不安、を越えるのは、自分にしかできない。
 
あの海岸線から見た、波に消える宗兄。
繰りかえし、何度も思い出される。
その場面が、消えてくれない。
 
大丈夫。宗兄は、いなくならない。
生きている。
わかっているのに。

静かに、コーヒー豆が匂い立っているようなダイニング。
外は雨がしっとりと降っている。
「今日からしばらく雨なんでしょ。梅雨入りしちゃうのかな。ずいぶん、早いよねぇ」
沙和さんが、窓の外をながめながらつぶやく。
「もう6月だしね。それにしても、梅雨にはまだ早すぎない?」
わたしは立ちあがりながら、応じる。
「雨、意外と嫌いじゃないのよね、わたし」
沙和さんの言葉に、わたしは少し笑う。
「実は、わたしも。なんか、落ち着くから」
 
しばらくしたら梅雨にはいる。
それがあけたら、また季節が変わる。
立ち止まらずに、動いていく。

波が揺れる2 さざなみのような空

他サイトにものせているもの。

波が揺れる2 さざなみのような空

付き合いはじめた宗平と瑞希。宗平は転勤のため、町を去る。「波が揺れる」の続編。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-18

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