転換
選択しろ
1 朝
彼は今朝、何かを盗まれていることに気付いた。ただ、それがなにかはわからない。きっととても大切なことに違いない。昨日の同じ時間にはあったような気がする。昨日の晩はわからない。
そしてそれはどこにあったのだろう。彼は部屋を見回す。たった今さっき気付いたということは、ネクタイをネクタイ掛けからはずし、締め、スーツを着るという流れの中のどこかで、それがあった場所が目に入ったのだろうか。ないということが無意識に違和を感じさせ、それの不在に気付かせたのだろう。と彼は推測するが、キャビネットの上の置時計、ばらばらに立てかけられた雑誌、ほこりをかぶったテレビ、香水、DVDプレイヤー、それらが乗ったデッキ、そのなかに彼の記憶を呼び覚ますものはなにもなく、それよりも目の端に捉えた時計の針が指す八時二十分が彼を別の焦燥に導いた。
そうだ、とにかく仕事にいかなくては。彼はつぶやくと、忘却の空白を部屋に残したまま家を出る。駅までの道を歩き、電車に乗り、揺られている間も、何を盗まれてしまったのかずっと考えていたが結局思い出せずにいた。
2 上司
オフィスにはいつもより落ち着きのない雰囲気が漂っていた。普段、午前中は真剣な不利をしてパソコンに向かい合い、時間を潰している連中が、そわそわとしている。彼は最初、なにかと思ったが、卓上にあるカレンダーを見て気付く。ああ、そうか、今日は決算賞与が出るかもしれない。
早いものは、すでに朝の時点でネットバンキングの残高をチェックしていたらしく、成績の良いもらっていそうな社員にかまをかけている。彼は期待をしていなかった。成績は別に良いわけではない。というか基本的に自分は向上心をもてない人間なのだろうと知っていた。押しに弱く、一度も社内で表彰などかすめたこともない。そして彼の思う自分のもっとも駄目な部分はミスを犯してもそれを隠し、しかもそれがばれないところ、悪い時は他の社員の所為になる、しかしそれでも罪悪感を覚えないところだった。
昼休憩の時間になると上司からじきじきに賞与の明細が配られる。彼の会社では紙、彼はそれを開かないまま鞄の中にしまう。なかには数分後トイレに立つ社員もちらほらいた。
仕事が終わり、彼はオフィスを出る。エレベーターまで歩くと、もう電気はまちまち消え、廊下は薄暗くなっていた。エレベーターのボタンを押して待つ。その間に黒いコートをスーツの上から羽織りながら上司が彼の隣に並んだ。
驚いたか?
上司は聞く。
彼は何の話ですかと聞き返す。
賞与だよ。
賞与?
そうだ。まだ見てないか?
ドアの上横にあるランプが狐色に点灯し、エレベーターが階に到着する。彼は先に中に入り開のボタンを押し上司を導く。次に閉のボタンを押しドアが閉まる。エレベーターは静かに落ちていく。
それは、と上司は話を続ける。
それは現時点でのお前の全存在価値だと思うことだ。それ以上でも以下でもない。至極妥当な数字だ。
ええ。
彼は頷く。
お前は確かに積極性に欠ける。ただ既存の顧客との商談や事務作業をそつなくこなすお前も俺はまた知っている。数字に見えないところでお前を評価しているものもいる。数字がすべてだと考えるものも当然いる。だが、たしかにお前に足りないのは数字だ。次の賞与の時にはきっと見えない部分は評価の埒外になるだろう。どうするかはお前次第だ。
エレベーターが一階に着く。
じゃあな。よく考えておけ。そしてお前がお前自身をどうするのか、選択しろ。
上司はエレベーターを出て、彼に背を向けたまま軽く手を上げ、外の夜の方向に素早く消えていった。
彼は鞄から給与明細を取り出す。端を切り、片面を破る。彼が予想をしていたよりもずっと大きな数字がそこにはあった。彼は視線を上げ、上司の背中を見る。自動ドアの向こうの宵街の中へそれは消えていく。
3 娼婦
彼が家に着く頃にはもう日が変わりかけていた。空気は冷えていて、暗い空には半月が出ている。彼は家のドアの前に立つと、微かに震える手を鞄の中のポケットに入れた。しかしそこにはいつもあるはずの鍵がない。次に鞄を大きく開きなかを隅々まで探るが見つからない。スーツやコートのポケットにも入っていない。ドアノブを回してみても当然ドアは開かない。
なんてことだ。彼は舌打ちをする。確かに家を出るときはかけていったはず。でなければ今家が閉まっている説明がつかない。やはりどこかになくしたのか。会社のロッカーの中か。あるいは落としたのか、それともまさか俺は鍵も閉めずに家を出て行ってしまったのか。そして今俺の家のなかにはまさか空き巣がいるのか。いずれにしても大家はもう寝てしまっているだろうから中には入れない。たしかに今朝は盗まれたもののことをずっと考えていたせいで、記憶がおぼつかないし、そんなうっかりミスをする可能性もありえる。一体俺は何をやってるんだろう。鍵よりも大切なものなんてあるはずがない。
彼はホテルにでも泊まろうと思い駅に引き返す。駅前には外国人の客引きがちらほらいるばかりで、ひとけはなくなっている。
彼はそれをかわしながら、駅前に唯一あるビジネスホテルに入った。しかし入口には満室の立て札があり、仕方なく引き返す。漫画喫茶に泊まろうと思ったが隣の駅まで歩かなければいけない。彼にはもうその気力はない。彼は少しの間逡巡したがやがて軽く息を吐くと駅の反対側の出口まで歩き狭い路地の方に入っていった。そして薄ピンクの汚れた看板が光るラブホテルへと入る。
狭く黴くさいエントランスにはモニターに各部屋が映し出され並んでいる。モニターの灯りが消えているのが埋まっている部屋。灯りが点いている部屋もまだ一つだけ残っていた。彼はモニターの下にある休憩と宿泊のボタンのうち宿泊を選ぶ。それから受付に移動すると中年の女性(顔は磨りガラスで隠れている)が、料金を言う。彼は払う。鍵を渡される。
彼はホテルの一室に入ると深くため息を吐く。そしてベッドに体を投げ、しばらくの間天井を見上げながら考え事をする。とりあえず、明日午前中に大家に言って鍵を渡してもらおう。仕事はどうするか。体調を崩したことにして、遅刻しようか。会社の連中には評価が上がって早速うぬぼれたと勘違いされるかもな。
彼はひとりで苦笑いをし、煙草を吸おうと内ポケットに手を入れる。しかし取り出した箱の中には煙草はもう一本も入っていなかった。彼はまた舌打ちをすると、鞄から財布を取り出し、コンビニで買ってこようと部屋を出ようとする。
しかし彼がドアノブに手をかけた瞬間にドアが二回、ノックされる。彼は驚き少しの間かたまった。一体誰なのだろう。彼は思う。何か掃除婦が忘れ物でもしたのか。
もう一度ノック音。彼はためらいつつゆっくりとドアを開く。そこには見覚えのない若い女がいる。男のように短い黒髪で、背が高く顔がとても小さい。眼は大きく深い黒の色をしていて肌は死人のように白く体は病的に細い。女は伏し目がちに男をちらちらと見て言う。
モチヅキさん?
彼は突然のことに言葉を返せず呆気にとられている。この女は誰だろう。なぜ俺を知っているんだろう。どうして俺がここにいることがわかったのだろう。女は彼が返事をしない所為か胡乱な眼で彼の眼を見ながら答えを待つ。
違う?
そうだけど。あんたは誰なの? 彼は言葉を返す。
マツリです。よろしく。
マツリと名乗ったその女は軽く頭を下げて大きな黒のブーツを脱いで部屋にあがりこんだ。キャリーバックをベッドの傍に置き中を開いてポーチを取り出しベッドの上に置く。次にポケットから携帯を出す。バックの中には手枷やローションやジョークグッズが入っている。
ちょっと待てよ。俺は風俗を呼んだ覚えはない。
冗談でしょ。
彼女はぞんざいに答えると携帯を耳に当て店に到着の連絡をする。すぐに切りもう一度彼に視線を向ける。
本当だって。
あなたモチヅキさんなんでしょ? あなたが覚えがないのならなんで私はあなたの名前を知ってるの? なんで受付はあなたの電話を受けたの? どうしてオンラインであなたのクレジットは支払いを済ませているの?
それは俺にもわからない。
それとも私が嫌なだけ? チェンジなら可能よ。女は気怠げに言う。
いや、そういう話じゃない。
彼は首を振り答える。これは新手の詐欺か? 美人局か? 彼は考える。しかし、それならどうしてすでに金は払ったなんて言ってくるのだろう、そう言っておいて後で請求するつもりか、それともまさか彼女は俺のストーカーなのか? 彼は女の顔を見る。それは美しかった。しかしその眼の下の暗がり、虹彩の鈍さ、何度も気怠げに首を傾ける仕草から、女にはどこかうしろめたいような傷のイメージが付きまとった。やはり俺はこの女自身ではなくて、この女を伝って誰かの罠にはめられようとしているのかもしれない。
で、どうするの? するの、しないの? 選択しなさい。
女は彼に迫る。
選択をしろ。彼の脳裏に上司の言葉がよぎる。上司の姿と目の前の女の姿が重なる。選択をしろ。
わかったよ。やるよ。
彼は息を吐きながら観念したように言う。彼はなぜそうしたのか自分でもよくわからなかった。もう料金の支払いも済んでしまっているというのならキャンセルしても料金がかかるだろうし、どうせなら、という考えか、あるいは単純に、同じ名前の人間と彼が人違いされているのかもしれない、そんなわずかな可能性からからだろうか、いや、彼はハッキリそれを否定する。単純に女の見た目が、仕草が、雰囲気が、彼の性欲を刺激しただけだ。
秒針の音が静かな部屋に響く。
シャワーから出ると、彼はまたスーツに着替える。枕の端のほうに置いた携帯を彼はつかむ。もうすでに夜の二時を過ぎていた。あの女がこの部屋に来てから二時間が経ったということになる。男はベッドに横たわっている女の死体に目を向ける。
やっぱり、選択なんかするんじゃなかったな。男は呟く。
男はベッドに腰を下ろし、なにが起きたのかもう一度整理しようとする。俺は一体なにをしたのだろう。記憶は乾いた粘土のように少しずつ破片となり、こぼれていく。
裸になる女。胸の間にある蝶の刺青。たしかあの蝶はクロホシウスバシロといったか。腹には切り傷を隠すようにテープのようなものが貼られている。体を這う細い蛇のような女の舌。皮膚に走る鋭い歯の感触。彼を笑いながら見下す、彼女の真っ赤に染まる眼。人間の目じゃない。なにかとてつもない悪意そのもののような眼。そして爪が伸びた。そうだ、俺の目の前で、彼女の爪はナイフのように長く伸びた。あるいはナイフを実際に隠し持っていて、それがそう映っただけなのか。その爪が喉元にくい込む。首筋に痛みとぬるい液体の流れる感覚、彼女の眼、雪に撒かれた血のように白から赤に染まっていく女の肌、白くなっていく髪。彼女の胸から飛び立つ、彼女の蝶。
記憶はここで止まる。男は危険を感じてきっと反撃したのだろう。女の体は血まみれにまって、体中に切り傷の跡がある。
彼はもう一度女の体を見る。髪は黒、爪も短い、閉じられた目を開いてみても、ただ、石のように白い半球のなかに黒い瞳があるだけ。彼は軽くため息をつくと、女の体にシーツをかぶせ、隣のベッドに寝転び、そのまま眠りについた。
4 元妻
朝になると彼は一度家に帰った。大家のばあさんは早起きだ、だから例えまだ家のドアが閉まっていたとしても、合鍵を貸してくれるかもしれない、そう思った。しかしその必要はなかった。ドアノブに手をかけるとドアはすっと開いた。やはり空き巣だったのか。彼は顔を顰める。ただ、特に部屋を荒らされている様子はない。彼はリビングに入るとテレビをつけて洗面所から持ってきた髭剃りを使いながらニュースをざっと見る。髭剃りが終わると、駅前のコンビニで買った、タバコとサンドウィッチの入ったビニール袋の中からサンドウィッチを取り出して立ったまま食べる。
どうせあの女の死体もすぐに見つかって、ニュースになるんだろうな。彼はそんなことを考えながらもう一度部屋を見回す。やはり、盗まれたものは帰ってきていない。もう永遠に戻ってこないのだろうか。そのきっかけだけでも思い出せればな。それがなにかはわからないが、今彼にとって一番関心のあることだった。それさえ見つかれば、全てがうまくいくような気すらしていた。
身支度が終わると、仕事に行くまでの間少し休もうと彼は思った。なにせ昨日は色々とドタバタしていて肉体も精神も疲れ果てていた。彼はリビングのソファーにワイシャツを着たまま横になりテレビを薄目で見る。
これ、飲んでいいかな?
背後からの突然の声に彼は驚き振り向く。すると食卓にいつの間にか女が座っていた。セミロングのブラウンに染まったチリチリに痛んだ髪の毛、そばかすだらけの顔。冷蔵庫から勝手に取り出した缶ビールを片手に持っている。
なにやってんだお前?
彼はおもわず声を大きくして聞く。それは彼の元妻だった。
とりあえず飲んでもいい?
いつからいたんだお前?
彼女は答える前に缶ビールを一飲みして大きく息を吐く。
いや、やっぱりビールは麒麟に限るね。喉越しと後味が違うんだよね。相変わらずビールのセンスだけはいいよねあなたは。あ、いつからいたって質問に答えるなら昨日の夜からだよ。
合鍵持ってたっけか?
持ってないよ。あなたどうせいるだろうと思って。でもいなかったね。鍵空いてたから勝手に入っちゃったけど。ごめんね。でも無用心だよ。
じゃあ鍵を閉めたのもお前か。
あ、まさかやっぱり昨日一回帰ってきてたんだ。ごめんね気付かなかったよ。ホテルでも泊まったの?
ああ、そうだよ。おかげさまでとても良いホテルに泊まれたよ。というかお前何しに来たんだよ。
お金もらおうと思ってきた。で、昨日あんたがいない間に色々部屋の中荒らしたけど、ちっともないね。
お前ひどいな。
彼は呆れ、思う。どうして俺はこんな奴と一度でも結婚してしまったのだろう。たまに帰ってきたかと思えば金のことだ。家裁で思わしい結果が出なかったからって直接盗りにくるやつがあるか。そしてあんなに汚い言葉を飛び交わしたのに、どうしてこんなに飄々と俺の目の前に来られるのだろう。
でもね、別にわたしお金にこまってるわけじゃないから。なくてもどうってことないんだけどね。
彼女は口の端に泡をつけたまま目を細めて言う。
じゃあただの嫌がらせか? 彼は聞く。
とどめ。
とどめ?
彼の質問に、彼女はニヤリと笑みを浮かべて答える。
いや、最近さ、興信所使って調べたんだけどあんた負債だらけなんだってね。原因まではわからなかったんだけど、それでわたし可笑しくなっちゃって。最後の砦として銀行とか自宅とかにお金でも隠してんのかな、って思ったんだよね。隠してたらとどめにそれすらも奪って行っちゃえばさすがのあんたも絶望するかなってね。でもさっき通帳も見たけどまぁひどいもんだね。あんた、すっからかんじゃない。やっぱりよかった別れて。確かにその布石はあったんだよねぇ。あんた金銭管理ずさんだったものね。クレジットの明細すら見ないんだもん。そのくせプライドだけは高いんだから、なんで一度でもあんたなんかと結婚したゃったんだか。
彼は黙ったまま元妻を睨みつける。彼女は彼の顔に怒りの色が拡がっていくのを確認して、嬉しそうに頬を吊り上げている。
お前、今俺に殺されても文句は言えないと思うよ。
彼は冷たい声で言う。それにたいして、女は吹き出して笑いながら答える。
死んだ後にどうやって文句言うの? 相変わらず馬鹿だね。口ではそんな物騒なこと言ってても、実際心は何にも感じていないんだろうね。あんたはそういう人間だもの。でもね、そんなあんたを一度は信じてみようと、わたしもあんたに最後の審理を用意したんだよ。もうその審理は終わっちゃったけどね。予想外のかたちで。でも今となっては一度あんたに下そうと思ってた有罪判決も下す気にはなれない。ぁまりにもあんたという人間が悲しすぎてね。
女は本当にその言葉通り、少し前まで見せていた侮蔑の笑いを薄めて、哀れみの視線を彼に向けていた。ビールの缶を置くと、空の缶が乾いた音を部屋に響かせた。
彼の視線は変わらなかった。女はそれを認めると、じゃあね、とどこか悲しげな声を残して彼の部屋から去っていった。
なんなんだよ一体。彼はイライラしながらビールの缶をゴミ箱に捨てる。
元妻との生活を思い出そうと思っても、彼には漠とした光景しか浮かんでこなかった。つまらなそうにテレビを見ながらソファで片膝をつく元妻、やけに味の濃い料理を食べながらその姿を眺めている自分、結婚した後に、何度か旅行に行こうなんて話も何回か出た。しかしそれが実現するはずもないことを二人ともわかっていた。俺たちは何も生み出せなかった。子供なんて作ったところで、二人も、その子も、不幸になるだけだろう。彼はそう思った。しかし、元妻はまたやけに子供にこだわっていた。自分たちが子供のような癖をして。
家の前の公園から、子供達の遊んでいる楽しそうな声が彼の部屋に届いて。それがやけに彼の耳に響く。朝の陽射しも明るくなり、部屋の床に光と濃い影を落としていた。気温は丁度温かくなってきて、彼はいつの間にか自然と機嫌を直していく。そして幸せな心地すらわいてきた。そうだ。今まで何度だって負債は抱えてきた。ただしそれが真剣な問題になったことはこれまで一度もない。取立屋が家に来たことも、脅すような催促の電話も一度もない。最後はなんとかなるんだ。最悪は破産という手もある。あの馬鹿の言うように、とどめの一撃なんて、俺に対しては存在しない。
彼はまたソファーに寝転ぶと朝の光の幸福を体いっぱいに感じた。何も問題はない。やがて彼のまぶたは段々と重くなり、彼は意識を失っていく。
4 部下
彼が目を覚ますのとほぼ同時に、床に投げ捨てられていた携帯が鳴った。軽くあくびをすると、ソファから起き上がり、頭を傾けて首の骨を鳴らしてから携帯を取る。
もう窓の外は黄昏時で空には金色のうろこ雲が鎖のように連なり、陽は赤く膨らんでいた。子供たちは学校からの帰路を辿って、友達とはしゃいでいる。
それがお前の選択か。
はい? それが上司の声だということに彼はすぐに気付いたがどううまく答えたらいいのかわからず、つい間の抜けた声を返してしまう。
今すぐ来い。でなければお前は終わりだ。
今から出来ることがあるのですか?
俺が見たいのはお前の覚悟だ。
その言葉を最後に電話は切れた。彼は時計を見る。もう六時だ。まったく、どうしろっていうんだ。彼はため息を吐く。今から行ってどうなる。きっと何の仕事もできないなず。あの上司も結局は体育会気質というか、非合理主義的だな。小言を言われるだけなのはわかっている。でも、さすがにこれをすっぽかしたらまずいだろう。
彼は部屋のカーテンを閉め、ビニール袋の中からタバコを取り出し、ライターで火をつけ喫む。部屋で吸うのは何年ぶりかのことで、それほど彼は機嫌を損ねていた。二本だけ吸うと、適当に灰皿に投げ捨て、冷蔵庫からもう一本残っている缶ビールを取り出して、飲む。それからスーツに消臭剤を振りかけ、彼は部屋を出た。
彼が会社の最寄駅に着いた頃、もう空は暗くなっていた。スーツを着た会社から帰る人々の群れに逆行し、彼は早歩きで大通りを行く。駅前に並ぶ高層ビル、その壁に張り巡らされている無数の窓はもういくつか光が消えている。クラクションの音が重なり、響き、空には下弦の月が出て、蝙蝠が街燈の周りを飛んでいる。
会社への近道のため途中人気のないバイパス道に入る。すると煙草屋の前で彼は帰宅途中の部下の青木と鉢合わせる。青木は彼に気付き、はっとしたように、いじっていた携帯から顔をあげて、彼の顔を見る。青木は会社のラグビー部に所属していて、恰幅が良く、声が大きい。責任感もあり、人望も厚い。彼は青木を苦手としていた。その真っ直ぐさがうっとおしかった。
お疲れさん。
彼はきまずそうに、青木に一応声をかける。
青木は返事をせずに、彼のことをじっと見ている。彼は不審に思う。なんだよあいさつくらい返せよ。どうしたんだよ。やがて青木の口許に冷たい微笑みが浮かぶ。
評価が上がったからって、社長出勤ですか。
青木は言う。彼はその明らかな敵意に満ちた言葉に腹立たしさを感じると同時に戸惑いを覚える。それに付け込むように、青木は早口でまくしたてる。
ありえないですよね。賞与をもらった翌日に無断欠勤なんて。あなたには責任感がなさすぎなんですよ。前々から思ってましたが。それにすぐにあなたは他人に責任転嫁する。俺たちが気付いてないとでも思いましたか? 例えばY社との納品トラブルも、あれ、あなたのミスでしょ。なぜか管理簿には木村の名前が書かれていたので木村の所為になりましたがね。木村を辞めさせたのは実際あなたですよ。あなたが犯してるミス、気付かれずに隠してるミス、山ほどあるでしょ? 上司はともかくあなたの下で働いている人間でそれに気付いていないやつなんか一人もいませんよ。今回の査定の件だって会社に投書しようと思うくらいだ。あなたが会社にいる間、それだけは覚えておいたほうがいいですよ。あなたを囲う組織で働いている人間のほとんどが、あなたに嫌悪を覚えている人間だってね。
青木はすべて一気に彼への悪意を吐き出した後で、おつかれさまですとだけ皮肉げに言い残し、足早に去っていく。あえて靴音を鳴らすように、硬音が狭い道に反響する。彼は振り返って小さくなっていくその大きな背中を一瞥する。
青木が入ってしまった後で、彼は青木に言われた言葉を胸の中で繰り返す。あなたを囲う組織で働いている人間のほとんどがあなたに嫌悪を覚えている。ああ、そうなのか。しかし、特にどうとも思わない。たしかに俺が悪かったのだろう。しかし仕方なかった。あいつも俺の立場になればわかるだろう。しかし、周りは敵だらけか。そうか。
彼は踵を返し駅の方面へ戻る。一度、脳裏に上司の顔が浮かんだ。でなければお前はもう終わりだ。しかしその顔は、その声は、微睡みの中の意識のようにすぐに消えた。
5 夜
彼が家の近くまで歩くと、サイレンの音が立て続けに聞こえた。
次から次へ、消防車が、道路を通り過ぎていく。彼は無意識に自分の家へ目を向けると、家の辺りの空が淡黒くなっていることに気付く。彼はまさかと思い、歩調を早める。近づくに連れて人だかりが多くなっていく。騒がしい声の交差が耳朶を叩く。
そして、彼が通りの角を曲がると、燃えている自分の家を確かに目にする。何台もの救急車が停まり、黄色のテープが周りに張り巡らされて、隊員の抱えるホースからは水が勢いよく放射され、黒と赤の混じった炎がそのマンションから吹き出ている。汚水のような濁った煙は、空気に溶けず、槍のように高く空まで突き出し、家の中からは何かが爆ぜていく音が、辺りに群がる人々の怒鳴り声に重なる。
二階から出火したみたい。
タバコの吸殻が原因らしいよ。さっき隊員の人が話してた。
まだ中には逃げられないままの人が何人もいるって。
彼は一人そこに立って、人々の話を聞くとはなしに燃えていくマンションを見ていた。マンションはまるで、夜の中で火を身体中に纏う怪物のように低い唸り声をあげていた。彼の力なく垂れた手は微かに震えていた。彼はそれを見ながら、作りかけのドミノ倒しの端が倒れて、次々と出来損ないのそのすべてが崩れていくように、何かが終わっていくのを感じていた。
ねぇ、おじさん。
不意に彼の意識に声が割り込んできた。幼い女の子の声。彼は弾かれたようにその声の方に目を向ける。
すると、彼の隣に、黒い服を着た小さな女の子が立って、彼を見つめていた。黒く短い髪、小さな顔、大きな黒い瞳、この少女はホテルであったあの女に似ていると、彼は思った。
なに? 彼は少女に聞き返す。同時に彼は少女の顔を記憶の中に探してみたが、やはり見当たらない。
少女は言いにくそうに、戸惑うように、燃えている家に目を向け、それを指差しながら彼にたずねる。
何か、とても大切なものがあの中にあるの?
どうして? 彼は素直に聞き返す。それと同時に、やはりこの子は知り合いではないと悟る。きっと、何かが言いたくて声をかけてきただけだり
だって。少女は唾を飲んでから彼に言う。おじさん、とても悲しそうな顔で見てるから。
彼は自分の顔に右手で触れる。それから少し息を吐き、その手で頭をかく。少し笑い、少女の不安げな、彼を慰めようとしているような顔に目を向ける。
ありがとう。でも違うよ。彼は答える
そうなの? 少女は微かな声で問い返す。
うん。あの中には私にとって大切なものなんてない。大切なものなんて、何もない。
なにも?
うん、私にとっては今や大切なものなんて何も存在しない。あったのかもしれないけれど、それはきっとすべて気付かない間に盗まれてしまったんだ。もうずっと戻ってこない。私は空っぽになってしまったんだよ。とどめの一撃はとっくに果たされていたんだ。私はきっと、ずっと前から壊れてしまっていたんだ。
彼は自分に言い聞かせるように、少女に話す。少女は俯き、何か考え込むように頭をひねり、また小さく笑い、彼に言葉をかける。
でもきっと。少女は意を決したように少し大きな声で言う。まだおじさんは空っぽじゃないよ。
どうして?
本当に大切なものを失くしてしまったなら、失くしてしまったことにも気付かないと思うよ。それが何かわからないかもしれないけど、失くしたことを覚えてさえいれば、いつか思い出せるかもしれない。取り戻せるかもしれない。だから、まだおじさんの中にはそれがあったっていう跡が残ってるっていうだけでも、おじさんには何もなくなんてないと思うよ。
少女は途中自分でも何を言っているのかわからなくなったようで、顔を赤くする。彼はそれを面白く思い、笑う。火は勢いを増して吹き出ている。彼は闇の中で赤く踊るそれを美しいと思った。きっと、死ぬ前に何度も思い出す光景になるだろうと思った。ふと、彼がもう一度隣に視線を落とすと、少女の姿は消えていた。
彼は燃える家を背にして、もう一度駅に向かって歩き出した。そうだ。彼は思う。きっと俺の負債はこれまでにないくらい膨らんでしまったが、もう抱えきれないくらいになってしまったが、まだ俺は生きている。あの少女の言うように、いつかすべてを取り戻せるかもしれない。やり直せるかもしれない。救われるのかもしれない。まだきっと間に合うはずだ。例えもう、死が一刻と近付いていようとも。
彼は立ち止まるタバコを取り出す。ライターで火をつける。小さな火が光る。ふと振り返る、更に大きくなった火が空に吹き上がる。空が割れて、すべての世界の闇が消えていくように思えた。そして、その方から、街燈の近くで軽く舞って、蝶が彼の火に近づいてきた。白の羽に黒の班目。彼はその蝶に手を伸ばすと、無垢だった日の感情のように、手のひらの中で静かにそれは消えていった。
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