波が揺れる

しっとりとした気配と、たちこめる海のにおい。
降ったり、やんだりしていた雨は、過ぎ去ったばかり。
肌にふれる、特有の、生温かい大気の心地。

とじた傘の先から、ぽとりと雫がおちる。
地面でわれて、ぼやけていく。
音もたてずに。

ぽとり。

ぽとり。

沁みゆくように。

「ここ、久しぶりに来たよ」
わたしがつぶやくと、宗兄もうなずいた。
「おれも。なんだか、前来たときよりも…なんだろうな、海が、近い」
宗兄の言葉は、なんとなくわかるような気がした。
物理的に近づいたわけではなくて、感覚的に。
それは、時間が流れた分だけ潮騒を吸いこんだ、このくたびれた木製のベンチだったり、錆びついた漁船の一部だったりした。

結婚、かな。
ぼんやりと思う。

宗兄と会うのは2か月ぶりくらいだと、ふと気づいた。
ずいぶん会っていないと思っていたのに、そうでもないらしい。

いつもはふらりと家に寄っていくのに、今日は呼び出しだった。
なにか、特別な、報告なのかもしれない。

呼び出しといっても、家から歩いて行ける距離の、海を眺めることができるベンチ。
気持ちばかり公園のようになっている、さびれた場所。
誰がここに座るのだろうと思う。けれど、案外、若い恋人たちには貴重な場所らしい。
人の気配がないところは、きっと誰もが探している場所。
ベンチからみえる景色は、波止場の漁船と、白い煙をはくコンビナート。
にごった海。
陽が落ちたら、どこまでも、どこまでも、まっくろな海。
コンビナートのきらきらとした明かりが、水面をひそやかに照らしてくれるけれど、それは静かに波立つ瞬間だけの、たよりなくて、はかないもの。

近づくほど、海の気配は濃さを増していく。
水のなかにいるときの、息苦しさにも似た感覚。

海辺の工業地帯に生まれたせいか、海の存在を感じるたびに、懐かしさにとらわれる。
そこにずっと住んでいるというのに、不思議だと思う。

宗兄が、煙草をとりだす。
でも、それは煙草ではなかった。
水蒸気がでる煙草のおもちゃ。
本物に近いクオリティだけれど、味はしないもの。
「ねぇ、宗兄、たばこやめたの」
聞くと、宗兄は、笑う。
「瑞希は、ほんとおれに興味ないんだな。いつの話してるんだよ」
「うそ、そんなに前?」
「半年くらいかな」
「気づかなかった」
「吸わないくせに、これが煙草じゃないって、よくわかったな」
「一時期、流行ったから」
わたしは、少し顔がこわばるのを感じながら、応じた。
宗兄が煙草をやめる。それは、やはり今日の呼び出しの理由を裏付けているようにも思えた。

宗兄がはきだす細く透明な蒸気は、街灯がほんのりと照らす青白い闇へ立ちのぼる。
コンビナートにともる灯りが、きらきらと騒がしく見えるのに、不思議と周囲の音は遠く、静かだった。

「相模に異動が決まったよ」
宗兄の声が、潮がけむるような大気のなかにとけていく。
「え?」
「本社へ異動。来月から」
「相模・・・って、どこ」
「神奈川」
動揺したけれど、どこか冷静な自分もいる。
わたしは、とにかくうまく反応しなければ、と気をはる。
「栄転ってこと?」
明るい声をあげる。
自分ではない誰かが話している。本当の自分は、膜の外側にいる。
そんなふうに俯瞰している自分がわかる。
気をはる、というとき、わたしはいつも、こうなる。
宗兄が気づかなければいいのに。
大丈夫だ。
うまくやれる自信はある。
「栄転か。まあ、本社だし…そうなるのかな」
宗兄は気がなさそうに言った。
「おめでとう。よかったね」
「うん、まあ、ありがとう」
「この町、出て行くんだね」
「そうだな」
「彼女は?一緒に行くの?」
「彼女?」
「いるって言ってたでしょ」
「いつの話だよ」
「…あれ」
「もう2年くらい、いない」
「…そうだっけ」
「そうだよ」

少しのあいだ、時間が固まったように、動かなくなる。
この感覚はなんだろう。
ああ、そうか。
わたしは、ほっとしている、と思い当たる。
結婚するという話だと思っていたから、寂しくなると思った。
でも、それはちがったようだった。

「2年って、健全な男性だったら、彼女ほしい時期じゃないの?モテるくせに」
気楽をよそおって、聞く。
恋愛の話をするのは、どれくらいぶりだろう。
なんとなく、触れたくなかったし、触れられたくなかった。
宗兄の方に顔を向けると、目があう。
のぞきこむような、探るような、視線だ、と思う。
宗兄の瞳のなかが、揺れているのがわかる。照らされた波をうつしているみたいに。
「ふうん。こんなにながく幼なじみやってるのに、まだおれのこと男としてみてくれんの?」
そう言って、宗兄は、うすく微笑む。
そんな表情はみたことがなかった。
瞬間、今日は、「いつもとおなじ」ではないのだと、わかった。
「宗兄は、男だよ」
「そうだな」
「こう見えて、わたしは女」
「そうだな。彼氏はどうなった?」
「それこそ、いつの話?いいよ、わたしの話は」
「さみしいやつ」
「そっちこそ」
宗兄が立ちあがって、自動販売機に向かう。
わたしは、身じろぎもできず、じっとベンチに座ったままでいた。
街灯の下に気持ちばかり植えてあるツツジの花が、雨にぬれたままで、白く浮かびあがる。
きれいだ、と思う。
透けた花びらの、一枚、一枚をかぞえる。
確かな理由もわからない焦燥にかられて、ひたすらに、気持ちをしずめることを考える。
そのうちに、宗兄がもどってきて、温かいコーヒーを渡してくれた。
てのひらのなかの缶コーヒーのあたたかさに、いつもの自分が戻ってくるのを、じんわりと感じる。

変わる瞬間、というのは、ものすごいエネルギーをつかう。
そして、怖くて、せつない。

「おれさ、瑞希に、会いたい。明日も、明後日も、来月も、来年も」
宗兄は、缶コーヒーを両手で包むようにもち、視線を落としたまま、告げた。
波音のように、おだやかな声音で。
それから、視線が合う。
目をそらせなくなる。
宗兄は、困ったように、笑っていた。
「異動、先週わかったんだけど、やっぱり瑞希に言っておこうと思った」
吹っ切れたような、表情。
そのとき、閃光のように、射しこんだ答えに、息をするのを忘れそうになる。

ああ、そうか。
わたしは、この人に、そう言いたかった。
ずっと、前から。

宗兄に会うと、いつももどかしい気持ちになった。その理由は知りたくなかった。
考えたら、立ち止まってしまうと、わかっていたから。
いつも、ふれないようにしていた。

でも、焦がれていた。

「わたしも、会いたい」
思いのほか、はっきりと答えることができた。
同時に、声がつまる。

言えたら、不思議なくらい安心できた。

「なんで泣くんだよ」
宗兄の声が聞こえる。

ぼやけた視界に、揺れる波をとらえた。
いつまでも同じではいられないから、前に進むしかない。
せつなさと、少しの怖さをかかえて。
変わる。
今日が、今が、その瞬間だと、わかった。

波が揺れる

他サイトにも、のせているもの。

波が揺れる

宗平・27才、瑞希・24才。幼馴染のふたり。宗平の転勤により、ふたりの関係に変化がおとずれる。関係が変わるそのときをかいた短編。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-15

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