遊び人は焔を語る
この世を支える力があるとすれば、それはきっと遊び心
序章 はじまり
視線を上げると、黒板の上の壁掛け時計はもうすぐ終業を告げようとしていた。
気が緩んだのは確かだ。ずっと気になっていた隣席に自然と注意が向いたのも、そのためだろう。
クラスにも学年にも、通常とは異なるデザインの制服を着こんだ生徒が複数名存在する。
通常、男子は詰襟、女子はセーラーワンピース、色は共に濃紺の、ごく一般的な洗練された制服だ。
しかし一部の生徒は、一線を画した臙脂色のブレザーを着用している。軍服に近い形状で、濃厚で鮮烈な色合いは、昨日の入学式からずっと目立っていた。そのブレザー姿が隣に座っているともなれば、好奇心が刺激されるのは自明の理。話しかける機会を持てずにいたことも手伝って、興味は深まるばかりだった。
何気ない風を装ってちらりと様子を伺えば、左隣の男子生徒は、丁度ノートをめくって下敷きを入れ直そうとしたところだった。
そのノートに並んだ文字を思わず二度見した。文字の手習い本を開いているのかと錯覚する程端正な文字が並んでいる。随分な能筆だ。
感心しきっていると、こちらの視線に気づいた隣席の生徒が振り向いた。
(やば)
ジロジロ覗き込んで不審がられたかもしれない。しかし相手は特に気を悪くした風もなく、むしろにやっと、人好きのする笑みを浮かべた。
程なく、終業を告げるベルが鳴り響いた。
身軽そうな奴
「やっぱり噂ってことか」
「そうです。完全な噂です」
きっぱりと断言すると、相手は両手に持った下敷きをさらにずいっと近づけた。目前に掲げられた下敷きには、色彩豊かにアニメ絵が描かれている。魚を模したファンタジー風の船の前で、大勢のキャラクターたちが和やかに笑っていた。記念撮影のようだった。
苦笑しつつ身を引くと、久住聡は話を続けた。
「良家の子女御用達、国立州立有名私立大学特別推薦枠確定、無試験学費免除の特待生学科だって、結構話題になってたけど」
「……なんか落語に出てきそうなフレーズですが」
「確かに。口にしたら、結構笑える内容だよな」
にやつきながら空っとぼけると、相手は盛大に嘆息した。
「勘弁してくれよ。ちゃんと入試は受けたし、学費も収めたって。てか、その噂がどういう経緯で立ったのか、こっちが聞きたい。おかげで昨日からこのかた、ずっと視線が痛いのなんの」
聡は相手の制服を指さした。
「その制服な。特殊芸能科専用、赤ブレザー。入学式でもかなり目立ってた」
「やっぱり? 今年から色々変わったって聞いてたけど、初っ端から悪目立ちさせるとか、どんな試練だよ」
げんなりとした声音ではあるものの、それほど堪えているわけではなさそうだ。同級生の非難軽蔑、好奇の目に迷惑はしているようだが、畏縮はまるでなかった。
不自然に会話が途切れた。暫しの沈黙の後、とうとう聡は降参した。
「それで、その下敷きはいったい何?」
嘆息交じりに問うと、待っていたとばかりに、突き出したままの腕をようやく下げた。下敷きを胸に構え、身を乗り出す。
「や、だって君、このアニメに反応してたじゃないか。まさかこんなに早く同志に出会えるとは思ってなかった」
下敷きの向こうから、笑みを浮かべた顔が現れる。これといって特徴のない、標準的な顔立ちだ。黒髪の下、強い光を宿した焦げ茶の目が印象的だが、今はにやっとして、共犯者を見つけた悪ガキのような顔つきをしている。
小さく吹き出して、違う違うと手を振った。
「字、上手いなって思ってさ」
ちょいちょいと指で示すと、彼は開いたままの自分のノートに目を向け、ああ、と頷いた。
「まあね。自慢していいなら大いにするぞ。これに関しては、結構頑張った」
「書道家目指してるとか?」
「一時期その気になった。でもああいうのって芸術性とかも必要らしいだろ? 綺麗に書くだけじゃなくて、感性に訴えかけるとか何とか? そういうのはさっぱり分からん」
お手上げだと言わんばかりにぼやく姿に、聡は少し笑った。
(名前は確か、塚本。塚本孝助だっけか)
昨日のホームルームでの自己紹介では、赤ブレザーにばかり気を取られて、塚本の人となりを判断する暇はなかった。自分の個性を印象付けようとする奇抜な言動や振る舞いなどなく、型通りの無難な自己紹介をしていた。容姿同様、良くも悪くも印象は普通。アニメ好きに関しては、趣味は人それぞれ、押し付けてこなければ問題はない。
何より、
(随分身軽そうな奴だな)
そう判断して、聡はようやく緊張を解いた。
特殊芸能科
名門と名高い立花本陣学園の高等部は、普通科、商業科、機械工学科、芸能科の四つの学科と、通信教育の受講生を外部から募集している。その他に学校案内のパンフレットに記載のない学科が存在する事は、入学前から知られていた。
特殊芸能科。
新入生の間でその学科はすでに話題になっていた。
学園側の説明では、特殊芸能科は、国の特別指定史跡、星宮跡専門の研究調査員及び警備官、星宮衛士育成を目指した、今年からの新設学科だという。
以前は普通科に所属して、在学中に星宮跡への立ち入りに必要な国家資格、星学士を取得した生徒が、選択科目や課外授業の範囲内で活動を行ってきた。その資格を持つ生徒の入学が増加傾向にあり、本年度より学科を新設したとのことだ。制服が違う件についても、厳格な立ち入り制限のある星宮跡への不法侵入防止策の一環として、こちらもまた今年からの試みだという。
星宮跡は、ある時忽然と歴史から姿を消した古代文明人、古星族の城塞都市だったというのが現在の定説だ。地表の巨石建造物群と地底湖を利用した地下水路に分かれており、入り組んだ複雑な構造をしている。高度に発達した文明の痕跡を現代に伝える歴史的な価値もさることながら、未だに内部のからくりが機能しているとの話もあり、立ち入りには、通常、国家資格と、なにより確かな身元が必要になる。
近年、科学技術の発達により星宮跡の価値が見直されて、研究が盛んに行われるようになった。
学園が敷地内に存在する星宮跡の調査に力を入れているのは有名だ。外部から識者を招き、大学部や系列の研究機関と共に、大々的に調査を行っている。その専門家を早くから育てておこうというのが名目だ。
当たり障りのない説明のように思えて、肝心な部分が抜けている。
(今年の入学者は、資格必須を含めた特殊芸能科の情報を、どこで知り得たのかって話だよ)
聡の知るいかな情報媒体にも、そのような情報は出ていなかった。中等部からの内部進学組か、あるいは学園にゆかりのある生徒あたりが、縁故絡みで情報を得たと考えるのが妥当だろう。
(コネとまではいかなくとも、横つながりがあったってのは、間違いないだろうな)
そこはいい。よくある話だ。新設学科の運営に慎重を期して、入学者の性質を絞ったとも考えられる。
問題は資格の方だ。
国家資格、星学士は、その使い道が星宮跡への立ち入り程度でしかなく、知名度人気度も低い。さらには司法試験に匹敵する難関だとされて、取得するのは専門の学者ぐらいなものだ。受験を控えた中学生が、おいそれと得られるようなものではない。
(どう考えても、裏があるよな)
現在、五稜庁によって一括管理されている星宮跡は、過去、土地ごとの権力者や貴族が占有していた。今もその名残が色濃く残っているため、爵位を持つ者やその縁者は星宮跡への立ち入りに融通が効くという。
おまけに、
(せいぐうえじ)
脳内で頭の悪そうな発音をしてしまうのは、その名称に胡散臭さを感じているせいだろうか。
星宮衛士資格とは、星宮跡の警備官として就労できる資格のことだ。星学士を取得したうえで実技試験をパスすることにより得ることが出来る。この資格を得ると、星宮跡内で武器携帯権と逮捕権が与えられる。
その実技試験の中には、何故か星宮跡の伝統芸能が含まれている。専門機関での教習が必須となるのだが、専門機関とは名ばかりの、ようは貴族の私塾のことで、舞踊や武芸などの免状を貰わなければならない。
よってこの星宮衛士資格、星学士以上のマイナー度合いもさることながら、資格を取るのは貴族の子弟ばかり、陰ではお稽古事資格などと揶揄されている。
そもそも星宮衛士とは、かつて星宮跡警護を務めた武官の称号だ。聡のイメージでは古式ゆかしい装束の騎馬である。そんな名称を資格名として採用しているあたり、貴族の意向が多分に含まれているのはお察しであるわけで。
聡はため息を漏らす。
(ようするに今年の特殊芸能科新入生は、上流階級様かもしれないってことね)
学園の敷地内であるため、在校生の星宮跡への立ち入りには便宜を図っているとの情報もあるので、特権と断言はできない。ぜんたい星宮跡にも興味はない。
しかし面白くないのは確かだ。
特殊芸能科は、入学時に星学士資格保持が最低条件だ。それが建前である可能性は高い。
やんごとなき身分の子女御用達学科、などと噂されるのも、無理らしからぬ話だ。
それに加えて、学科を独立させた割には、これまで通り、所属生徒は普通科のクラスに満遍なく振り分けられるという、謎采配。
実際このクラスにも、塚本以外の赤ブレザー姿が、男女各一名、存在する。他学科に比べて少人数であること、必履修科目が普通科と同じであることを理由に挙げているが、ならば学科を独立させた主旨に矛盾が生じる。
特殊芸能科の位置づけが、どうにもあやふやだ。 件の癇に障る噂が流布したのも、そうした背景が原因と考えらえる。
入学に先立って早い時期から入寮していた聡は、同じ寮の進学組に特殊芸能科の噂についてそれとなく尋ねたところ、塚本同様、皆呆気に取られていた。
進学組の話では、星宮衛士については承知済みで、進路に余裕のある生徒が「少し変わったことやってるな」とか「まあ、伝統は大切だし」程度の認識しかないとのことだ。
在校生の間で特別話題になるようなこともなく、所属する生徒数もごく僅か、遠目にもその活動は細々として、地味に見えたらしい。
ただ、良家の子女という言葉に当てはまる生徒は本当にいるそうだ。その点については、一部の生徒の間でおかしな方向に盛り上がっていたとかなんとか。
学科として独立する話は以前からあったので、取り立てて騒いだりはなかった。新入生の身上を勘ぐるようなこともなく、制服についても、その派手さに呆れているだけで、むしろ悪目立ちぶりに同情的だった。
特殊芸能科にまつわる噂は、やはりただの噂であるとみて間違いない。しかし諸々の背景を鑑みて、全ての疑惑が払拭されたわけでもなく。
(何かこう、ピリピリしてるよな)
制服の他、学生寮も別棟で、学科生は一まとめにされているそうだが、それさえも特別待遇だと不平を漏らす者が、入学式前から目に見えて増えている。
こうなると、噂の真偽に関わりなく、学園の人間関係や運営に支障が出るのではないだろうか。
現に他の特殊芸能科、通称、特芸科の生徒は、クラスに馴染めず、休み時間でも着席したまま身を強張らせて、居心地悪そうにしている。
(そう言えば、不正入試があったって話も聞いたっけ。火のない所に煙は立たずって言うけど、噂が広がるの早すぎないか? 誰かが意図的に流してるような……)
「で、このアニメについては、どう? 興味持った?」
思案に沈む聡に全くお構いなしに、塚本は喜色満面で問いかける。
「え?あー、うん。すまん、さっぱり分からん」
率直に白状した。会話を合わせるために適当に相槌打つと地雷を踏む。この手のマニアへの対応は、中学の時に散々学んだ。
「あー、やっぱり……」
塚本は盛大に落胆した。諦めの方が強い所から察するに、
「人気ないのか、そのアニメ」
「いや、あったんだよ、物凄く。……二十年前だけど」
「二十年って、そんな大昔のかよ。生まれる前だぞ」
驚くと、塚本は悄然と項垂れた。
「『響界伝ホムラ』って言うんだー、面白いんだぞー……」
言葉が尻つぼみになり、意気消沈して肩を落とす姿に聡は失笑する。確かに、下敷きの隅をよく見れば、随分古い年号が記されている。
「何だってそんな古いアニメにハマったんだ」
「親の趣味。子供の頃に一緒に観て、以来この通り。ちなみにこのアニメ、オレの人生の指標です」
「それはまた壮大だな。……ちょっと待て。ならその下敷き、二十年前の品って事か」
「そうだぞー。マニア垂涎の逸品だぞー。お宝だぞー」
力なく言って、下敷きをパタパタと前後に振る。お宝の割には扱いはぞんざいだ。前髪を煽られて、聡はこらえきれずに声を上げて笑った。
特殊芸能科2
特殊芸能科について探りを入れる目論見は、とうにばれていたらしい。
「こっちとしても、直接聞いてくれた方が助かる。特に今は、変な誤解解いておきたいし」
変に気負い込むわけでもなく、笑みを履いた顔つきは感じが良い。言われて聡は意気込んだ。
制服のポケットから生徒手帳を取り出す。ケースのおもてには校章、裏は窓から生徒証明証が見えるようになっており、開くと校則などが記載された冊子と透明な板が収納されている。板の上部を左右に引き出すとそれはキーボードで、校章が表示された四角い画面が宙に浮かび上がった。
学園の母体である立花グループから、市場に出回る前のテスト運用品として学園に提供された携帯端末機だ。外部ネットへの接続制限はあるものの、シンプルな機能で使いやすいため重宝している。
キーボードを操作し、ワープロ機能を立ち上げて「よし」と頷く。
「あれ、えらいやる気?」
聡の行動を見守っていた塚本が少々怯んだ様子で呟くが、
「当然、遠慮なくいくぞ」
前置きして、聞き取りを開始する。
「特殊芸能科ってのは、全体どんな学科なんだ。伝統芸能を修得するって話があるだろう。具体的に何をやってるんだ」
聡の質問を受けて、塚本は考え込むような素振りを見せると、
「もしかして、こういうのを想像しているのか?」
手にしたままの下敷きを掲げて、返し返しゆっくり動かす。舞踊の扇のつもりらしい。
「それじゃないのか」
指さすと、塚本は下敷きを下げた。
「これだけじゃなくて、工芸品作ったり、武芸極めたり。広い意味での芸能」
「職業技能ってことか」
そもそも芸能とは、技術や技能、それに秀でた才能を指し示す言葉だ。舞台芸術や音楽はもちろん、工芸や武芸、様々な芸道、果ては医術までもを、かつては芸能と一括りに呼んでいたという話は聞いたことがある。
「星宮跡にかかわりのある、ありとあらゆる職業技能を特殊芸能と呼んでいる。伝統芸能との違いは、最近科学も含まれている点かな。学科名の由来だよ」
特殊芸能は大雑把に三系統に分かれて、音楽や舞踊といった芸術系、刀剣術や弓術、槍術などの武芸系、職人から科学者までをひっくるめた技術系があり、星宮衛士資格を得るには、そのいずれかを選択して技能修得する必要があるとのことだ。
「ゲームの職業スキルみたいだな」
思い付きをそのまま口にすると、塚本は意表を突かれたように目を瞬いて、「だよな」と、口の端を上げた。
芸術、武芸系は、星宮跡の祭事で奉じるための決まった型が存在し、貴族の私塾、いわゆる家元や道場で教習を受けなければならないとのことだ。選択するのも貴族の子女が多く、才能や家柄にも左右され、お稽古事資格と揶揄されるのは、この点が原因だろうと、塚本は少々迷惑そうに推測していた。
「俺たちに特芸科に求められるのは、技術系の特殊芸能――スキルな」
近年、人の出入りの増えた星宮跡は、警備も兼ねて電子機械化が進み、中は電気も通って、通信機も使えるとのことだ。ただそれらの機器は星宮跡専用にカスタマイズされた特注品で、
それも機械工学系の技術者が目をむくような、かなり独特な形状だという。専門家が不足しているため、この機器の仕組みを重点的に学ぶとの話だ。
また、免状については、当然のことながら技術系は必要はなく、むしろ芸術系も武芸系も、その修練の過程で段位や免許を得るだけで、畢竟、不要であると塚本は断言した。
「実技試験の詳細はまだ知らないけど、修得したスキルをいかに星宮跡に役立てることが出来るかが課題になると思う。スキルの熟練度は求められるけど、歌ったり踊ったり、作った物を審査されるわけじゃないんだよ」
聡は拍子抜けしつつ、端末の情報を更新した。
(お稽古事資格とか、先入観に惑わされているな。……慎重にいこう)
「機械工学科でも良さそうなものだけど」
専門機器とはいえ機械類を扱うのであれば、設備の整った機械工学科の方が、効率的に技術スキルを修得出来そうなものだが。
聡の指摘を、塚本は渋い顔つきで否定する。
「スキル修得ばかりじゃなく、星宮跡の内部構造と規則を覚えなきゃならないんだ」
「内部構造って、未だに動いている仕掛けとかいう」
「地下水路と水車な。この校舎の下にも続いているぞ」
学園の敷地深くには、広大な地下水路が張り巡らされて、至る所に配置された巨大な水車が、地底湖から水をくみ上げている。鍾乳洞を利用した史跡地下の全容は、今もって解明されておらず、重要な研究対象になっている。ちなみにその水車によってくみ上げられた上水は、星水と呼ばれて、霊験あらたか、ご利益があるとされている。
「内部構造を学ぶには実地でないと難しいんだ。特に地下水路はかなり入り組んでいて、下手すると遭難する」
「迷子じゃなくて遭難なのか」
「間違いなく遭難する」
真顔で断言するあたり、内部構造は相当複雑なのだと伺える。
「星宮衛士は星宮跡の警備官だから、内部構造を理解しておかないと、話にならないんだよ」
それに、と塚本は続けた。
「星宮跡の、特に城や地下水路にはややこしいしきたりがあって、記録を取るには毛筆を使えとか、ドレスコードがあったりとか、細々とした決めごとが多いんだ」
「じゃあ、その赤ブレザーはドレスコード対策ってことか」
「そう。去年までは五稜庁から制服を借りていたけど、職員と間違えられるし、かといって個人で用立てると服代がかかるからってこれが採用されたんだけど。や、色やデザインは悪くないよ。ただもう少し控えめでも良かったんじゃないかっていうか」
複雑そうに制服を見下ろす塚本に、
「いいんじゃないのか。コスプレみたいで」
とあけっぴろげに評価したところ、たいそう顔をしかめて嘆息した。
「これ以外にも色々あって、正直面倒っちゃあ面倒なんだよ。まあ、早いうちにそ……」
文句を垂れていた塚本は、不自然に言葉を切った。「?」となると、彼はわざとらしく咳払いをして、
「……中の習慣に慣れておかないと、後で苦労するしな。うん」
語尾がぎこちない上に、おかしなところで言葉に詰まったのは気になる所だが、今のところ話の内容に矛盾はないようだ。
歴史を紐解けば、星宮跡は政治の要の場として機能することもあれば、様々な文化の温床でもあり、また幾度となく陣取り合戦の舞台となっている。当時の慣習が、伝統として色濃く残っているということだろうか。
他は星宮跡の歴史を学んだり、警備官としての基礎体力をつけたり、武器の携帯も許可されているので、扱いの指導を受けたりと、様々らしい。武器といっても警棒を使った捕縛術で、銃火器については、塚本曰く「使えない」とのことだ。
「ある程度内部の仕組みを把握した後は、地図を片手に」
「学園の地下迷宮探索か」
弾んだ声で合の手を入れると、塚本は目を反らせて遠くを見つめながら、
「水車の清掃から始まるってさ」
聡は押し黙った。
専用機器を使って、水車のメンテナンスが出来るようになるのが特芸科の最終的な目標だそうだ。
端末に入力した文字を目で追いながら、聡は「うーん」と唸る。
「やってることはなんとなくわかったけど、どうにもその星宮衛士ってのが、半端な印象しかないよな。スキルを持った警備官とか、それこそゲームじゃあるまいし、そんな汎用性の高い人材が本当に必要なのか」
星宮跡という特殊な環境を警備するにあたって、内部の事情に精通する必要はあるだろうが、スキルの習得までを要求するのは、いささかやり過ぎな感が否めない。
(貴族から警備官の人となりについて、注文でもついたかな)
などと、つまらなく考えていると、おもむろに塚本はにっと笑った。彼がこうして笑うと、なぜか興味を向けてしまうのが不思議だった。
「確かにね。来住は星宮祭は知ってるか?」
脈絡なく言われて目をぱちくりさせるが、全国的に有名な初夏の祭りなので頷いた。
「あれだろ。星宮跡に奉仕するイザナと、その付き人の旅路を再現した祭り」
色鮮やかな王朝文化の衣装に身を包んだ参列者たちが、明かりを携えて夜の大通りを練り歩く華やかな祭りだ。行列の長さは一キロにも及ぶという。
聡がイメージする星宮衛士とは、まさにこの祭りに参向する騎馬のことで、行列を先導したり、輿を護衛したりする武官のことだ。
端末を操作してもう一つ画面を表示させ、学内ネットで図書館にアクセスする。読み込みの後、写真付きの記事が表示された。記事はおおよそ聡の知る祭りの内容と相違ない。
「星夜行路。あの祭りに参列しているのは、今では星宮祭保存会のメンバーだけど、昔はみんな星宮衛士だったんだ」
塚本の説明に、聡は怪訝な顔つきになる。
「騎馬だけでなく、付き人全員か? 色々いたよな。大工とか鍛冶師とか」
記事に目を向けるが、写真は輿に乗ったイザナ代と担ぎ手だけで、参考にはならなかった。
「踊り手や吟遊詩人もな。ようはそれなんだよ、特芸科が目指している星宮衛士は。
あの祭りは、昔、妖魔が暴れて国が乱れたときに、イザナが星宮跡に奉仕して、これを治めたのが始まりとされている。けど実際は、一緒に星宮跡に入った付き人たちが、星宮跡の記録から新しい技術を作り出して、国難に対処したのが史実なんだ」
しかつめらしく塚本の説明を聞いていた聡は、ここでようやく合点して「ああ」と声を上げた。
「その付き人ってのが、芸能者だったと」
「そう。当時は星宮跡には本当に貴族しか入れなかった。だから芸能者たちにかりそめに称号を与えることになったんだ。それが星宮衛士。厳めしい名前で誤解されやすいけど、職人や芸人が本来の姿なんだ」
確かにそれなら筋は通る。仰々しい話だが、厳格な身分制度で政治が成り立っていた時代だ。今とは感覚が違うのだろう。
「時代が下がって、いつの間にか貴族の武官をそう呼ぶようになったけど、根幹は今でも変わっていない。俺たちはそれを踏襲することになる」
少し考えて、聡は口を開いた。
「それ、逆じゃないか」
芸能者が星宮跡に入るために星宮衛士の称号を得るはずだったのが、星宮衛士になるためにスキルを修得するのだから、本末転倒だろう。
聡の指摘に、塚本は苦笑して、
「伝統的に、スキルを持った警備官、ってところが、重要らしい」
結局最初の疑問に舞い戻っただけだった。呆れて半眼になるものの、伝統に合理的な根拠や解釈を求めること自体が不毛なのかもしれない。そういうものだと強引に納得する他ないようだった。
特殊芸能科3
「特芸科の進路は、やっぱり五稜庁か?」
現状、星宮衛士資格取得者を募集しているのはそこだけだ。
塚本は不敵な笑みを浮かべた。
「安心安定の国家公務員。完璧な人生プラン」
ビシッと下敷きを構える。おもてはキャラクターたちの記念撮影であるそれは、裏は頭部に星型の飾りのある、勇ましくも親しみやすいロボットが描かれていた。五稜庁の紋章である五芒星の代わりらしい。ふふんと鼻を鳴らしてにやりとする塚本を、聡は白々と見つめて返して、
「ブラックだよな」
「あれっ、何で知ってるのさ?」
「随時求人募集かけてるだろう。どう考えても怪しいし」
驚く塚本に畳みかける。ネット検索で得た情報に穿った解釈をしただけだが、図星を突いたらしい。聞けば応募に必要な資格、星宮衛士は及び星学士資格を持つ者が極端に少ない上に、持っていても民間に流れて、万年人手不足に陥っているらしい。
塚本は深々と嘆息した。
「特芸科の就職先は今んとこそこだけっていうか、期待されてるし。俺が入るまでには、待遇改善して欲しいよ」
入学間もないとはいえ、特芸科に所属し、星宮跡に出入りする以上、五稜庁の常駐職員がどのような勤務状態にあるのかを目の当たりにしているのだろう。自分の将来の職場、その現実を横目に授業を受けるのは、何ともやるせない話だ。
「星学士が難し過ぎるんだよ。そうだ、塚本はどうやって突破したんだ?」
一番疑問に思っていた点を質問する機会が巡ってきたと、聡はつい身を乗り出す。が、塚本の返答は、聡の好奇心を軽くあしらうようなものだった。
「二級以上の学科試験はな。三級は真面目に勉強すれば、誰でも受かる。現に俺、中二の時に取ったし」
塚本は赤ブレザーの内ポケットから生徒手帳を取り出し、端末を操作して聡の前に差し出して、自慢げににっと笑う。
「な?」
宙に表示された顔写真付きの資格証に、聡は驚いて目を見開く。まじまじと凝視すると、確かに免許の条件欄に三級と記載されている。
「等級あったのか」
「元からマイナー資格だし、学生限定であまり知られてないみたいだけど、星宮跡に入るだけなら三級で事足りるんだよ。調査となると二級以上が必要だな。試験の難易度も一気に跳ね上がる」
全くの新情報に、聡は完全に毒気を抜かれた。
「てっきり資格免除されてると思ってた」
「その辺りはかなり厳密だ。学科がなかったのも、真実入学時に資格取得者がほとんどいなかったせいだよ。在学中に資格取るのが去年までの正規ルートだったって、うめのやつが言って……あ」
塚本は「しまった」と言わんばかりに顔をしかめる。どうやらうっかり余計な言葉が口を突いて出たらしい。
「うめ? 上級生か?」
口ぶりから察するに、特芸科所属の身内のようだ。聞き返すと、塚本は何とも嫌そうな顔つきになる。
「いとこだよ。もう卒業して、今は大学部に通ってる。色々やらかして変な目立ち方してたらしいけど」
心底うんざりした様子でぼやくと、
「特芸科は星宮衛士、つまりはスキルを持った警備官になるための職業教育学科だよ。まずは星宮跡に慣れることが、第一目標って事で」
少々強引に話を打ち切った。どうやら、いとこのうめ、について、深く追及されたくないようだった。
「しっかし話を聞くと、五稜庁と学園、なーんか横つながりがあるっぽいよな。職員も爵位持ってる奴が多いって話だし、そこんとこはどうよ」
口の端を釣り上げて意地悪く問うと、塚本はあっさりと認めた。
「横つながりならあるぞ。本当は五稜庁直轄の専門学校を作りたかったらしいけど、現状それは難しいってことで、州立の立花本陣にお呼びがかかったってさ」
あけすけなく言われてやや拍子抜けしながら、しかし話の内容に聡は眉を顰める。
「……それ、星宮衛士育成に積極的なのは国だって聞こえるけど」
「まあな。星宮跡の価値が見直されて、本格的に調査しようってときに、肝心の城や地下水路の専門家がほとんどいない状態で、相当焦ってる」
「? どういうことだ?」
眉を顰める聡に、塚本は下敷きで背後を指し示しながら、
「あの事件で、星宮跡を管理していた貴族の家系がごっそり消えた」
窓の外に目を向けると、晴れ渡った空の下、校舎と木々の緑のはるか向こうに、冴え冴えと青い海が、陽光を照り返して輝いている。
「ああ、そういうこと」
聡は合点して頷く。
かつてそこには巨大な都市、帝都が存在した。
その帝都が一夜で消失するという、前代未聞の大事件から、今年は数えて五十八年を迎える。
「主だった貴族は事件に巻き込まれて行方不明か、あおりを食らって大ダメージだろう。星宮跡の管理に手が回らなくなったんだ。それで国が引き受けることになったけど、中のことはさっぱり分からない。だから残された星宮跡関係の家系から人をスカウトして、五稜庁を設立したんだ」
「それで爵位持ちが多いのか」
言って、はたと気が付いた。
「て、ことは、五稜庁の職員は置き去り様ってことかよ」
「……それ、ここの職員の前では言うなよ」
下敷きの角を向けて塚本は念押しした。
置き去り様とは、帝都消失事件の余波を食らって没落した貴族に対する揶揄で、その憂き目にあった当人たちは、この呼び名をとにかく嫌っている。ともすれば、貧乏暮らしを嘲笑されるよりも深刻に受け止める傾向があり、ほぼ禁句状態だ。
余計な逆波を立てるなと釘を刺されて、
「分かったって」
と、聡は手を挙げる。下敷きを下げて、塚本は続けた。
「それでも人も知識も不足しているから、資格制定して民間から募集かけることになったけど、それも上手くいかないわで、結局専門家を一から育てた方が早いだろうって結論に達した」
「……なんかぐだぐだだな」
聡は顔をしかめた。ようは半世紀以上も前の事件の後処理に、未だに手間取っていたというこだろう。塚本も苦笑しながら、
「人の出入りが増えたのが、一番の原因かな」
「ああ、急に注目を浴びだしたよな」
星宮跡と聞いて真っ先に思い浮かぶイメージは、貴族の所領地に権威の象徴として、でーん、と構える中層ビルめいた巨石群で、景色の一部として、目立ちながら気に留められないのが、星宮跡だった。
「航空機開発のヒントが見つかったって、一時期騒いでただろう。あれが絶賛継続中でさ」
「まだ諦めてなかったのか。飛空艇で十分だろうに」
聡は少々呆れ気味に言った。
この国では、何故か機械が空を飛ぶことが出来ない。何らかの物質が飛行を阻害していると理由づけられているが、詳細は未だに不明で、科学者たちは頭を抱えている。
代わりに低空を滑るように移動する飛空艇が遠距離交通の主力となっている。速度に問題があるものの、鉄道と違って線路の配備が不要なので、コストにも環境にも優しい、安全な交通機関だ。
「技術の研鑽は、人類の使命らしい」
下敷きの絵柄を見つめながら、少々夢見がちなセリフを吐く塚本に、
「ロマンってことか」
聡は気のない相槌を打った。
「ようするに、特芸科ってのは、おき……貴族の欠員補充ってことか」
「そうなるかな。おかげでありもしない噂を流されてるんだろうけど、ホントいい迷惑」
不機嫌極まりない様子の塚本に苦笑しつつ、聡は「?」となる。またしても仕入れた情報との間に祖語があることに気づいたのだ。
「そう言えば、特芸科には、噂通りそれらしい風貌の上級生がいるって聞いたけど、そこはどうなんだ?」
具体的に「それらしい風貌」がどのようなものかまでは聞き及んではいないが、口振りから悪い方で目立っていたわけではなさそうだ。
「私服の人たちのことを言っているのなら、それは通信受講生だろうな。実地教習を合同で行うから、よく間違えられるんだよ」
どうやら情報元の進級組も、思い違いをしていたらしい。関心の薄さが窺い知れた。
「なら、その通信受講生ってのがもしかして」
「全員が全員そうじゃないけど、それなりの名家のご令息ってのはいるな」
面白そうな情報に、聡は思わず食いついた。
「三大公爵家の御曹司とかも通ってるとか」
などと冗談めかして言ってみると、塚本は真面目に頷いた。
「いるよ、日向家や夜州議会の御曹司とか」
想像以上の大物の名前を挙げられて、聡は笑みを浮かべたまま固まる。
「……そりゃあまた、たいそうな御仁ばかりで」
さすがに面喰って、言葉が続けられない。
「星宮衛士資格を取るためというより、星宮跡の状況を重く見て、縁者をここに通わせている。4……士爵への牽制のためらしい」
士爵という単語に敏感に反応して、聡はムッと顔をしかめる。
「連中、ホントどこにでも湧いて出るよな」
台所に大量発生する害虫と同列に語って見せると、塚本も控えめに「まあな」と同意した。
「もう終わりだろうけどな」
「親玉が捕まったとかなんとかだっけか。いい気味。それで、本物の名家のご令息ってのはどうなんだ?」
「確かに彼らは別格だ」
塚本は何かを思い出したような、やや尻込みするような顔つきになる。
「彼らの身なりというか、ドレスコードを弁えた私服のことだけど、それがまた如何にもな感じの礼服で、おまけに服に相応しい振る舞いっての? 品行方正とか、こう所作はピンとしてるのに、沈着で気負ったところがないっていうか。ああいうのを貫禄があるって言うんだろうな。とにかく雰囲気が全然違う人たちだった」
恐れをなしたような物言いに、聡は大いに好奇心を刺激された。
(それは是非ともお近づきになっておかないと)
などと下心丸出しで考えつつ、
「なら塚本はどうなんだ? 実は密かに良いとこの出だったり?」
茶化すように言うと、塚本はぱあっと顔を輝かせた。
「あれ、俺って傍目には、そこはかとなく高貴な雰囲気醸し出してた?」
顎に手を掛けて不敵な含み笑いをする塚本。聡もまた顎に手を掛けて、わざとらしく塚本を値踏みして、ふむと頷く。
「普通過ぎて、逆に何かあるのかと勘ぐったけど、普通だな」
「や、確かに普通だけど。断言されるとへこみます」
情けない顔つきの塚本に失笑し、
「じゃあ、最後の質問な。その普通の塚本がここの情報、何処で知ったよ? やっぱりいとこからか」
普通、という言葉にさっくりと傷つきながら、それでも律儀に答える塚本。
「いや、昔近所に住んでた人が五稜庁勤めで、そこから。将来の事を考えるなら、立花本陣はどうだろうってっさ。国家公務員だし、やる気っちゃあ、やる気だったんだけど」
「現実は甘くなかった、と」
そう締めくくって、聡は端末に入力した文章を保存する。塚本は何も言わずに項垂れた。
予備生
何にせよ、特芸科について欲しかった情報は大方手に入った。
端末の文章に目を走らせて、
「星宮跡に入るだけなら、三級でいいって事か」
一人ごちるように言うと、聡の質問の他に予備知識までを披露した塚本は、やれやれといった風情で、下敷きで自分を仰ぎながら、
「入るだけならね。転科するなら、予備生から始めることになるけど」
「予備生ね。それこそ芸能科が多いって聞いてたけど」
学園の高等部では、在学中一度だけ転科を認めている。元は芸能科への配慮だったらしい。
州立歌劇場の俳優養成所と言われる芸能科への入学希望者は、群を抜いて多い。狭き門に殺到する俳優志望者への救済措置、あるいは念願かなって芸能科へ入学したはいいが、途中で自分の才能や将来性に見切りをつけた者のために始まったのが試験を伴う転科予備生制度で、希望学科への転科を目的とした特別講習を受けることが出来る。勿論他の学科への転科も同様の措置が取られている。
「特芸科は腕章つけてるから、すぐわかると思う」
塚本の言う通り、特芸科希望者のみ予備生は腕章の着用が義務付けられている。その情報は、事前に進級組から得ていた。
今年の特芸科予備生の、素行の悪さについても、だ。
聡はちらりと塚本の背後を見やる。視線の先には窓際の席に着席する生徒が、不貞腐れたように頬杖をついて窓の外を眺めていた。その腕には臙脂色の腕章がある。
唐突にその生徒が振り向いた。あろうことか聡と目が合う。相手は驚いたように目を見開き、忌々しそうに睨みつけてくる。鬱屈をため込んでいるような険のある目つきだ。
聡は口を歪めた。
(またやらかした)
と、思った直後。
「なんか用?」
案の定、不機嫌極まりない口調で詰問されて、聡は内心ため息を漏らす。塚本は「うん?」と首を巡らせた。
「ああ、悪い。今特芸科の話しててさ」
塚本の時と同様、覗き見していた聡に非はある。勤めて平静に、当たり障りなく謝罪すると、相手は「ふん」と鼻を鳴らしただけで、それ以上追求はしてこなかった。再び頬杖をついて、窓の外に顔を向ける。
実のところ、不機嫌そうに窓の外に顔を向けていた姿は、塚本の会話の最中、ずっと視界の隅に捕えていた。
(平田芳郎だっけ。面倒臭そうな奴。こういう手合いは、変に刺激しない方がいいだろうな)
そう判断して、塚本との会話に戻ろうとした矢先。
「平田はこれ知ってる?」
塚本が進んで地雷を踏みに行った。体の向きを変えて、片手に持った下敷きを顔の横にかざして指で示す。聡は思わず閉口する。黄昏を決め込んでいた平田はのっそりと振り返った。案の定、話題を振られて気分を害したようで、眉間に深く皺を刻んで、先程より鋭く睨んできた。
「知るかよ」
威圧するように吐き捨てると、再び顔を背けた。聡は呆れて口を歪める。
(初っ端からそんな刺々しい態度じゃ、この先苦労するだけだと思うけど。感情に任せて突っかかってくるタイプじゃなさそうだし、こっちから手出ししなけりゃ、問題はないか)
などと人となりを判断する。何にせよ、積極的に交流を持ちたい相手ではない。
塚本はと言うと、平田の返答に一人でダメージを食らって、再び落ち込んでいた。勿論、平田にきつい返答を投げかけられたことに対してではなく、アニメ好きの同志を得られなかったことに対する落胆だ。
聡は件の下敷きにそっと目を向ける。ずっと手にしたままでいるところから察するに、思い入れは相当あるようだ。相槌打たなくて正解だったと聡は仕様もなくため息をつくと、塚本に進言した。
「アニ研とか漫研入った方がはやくね?」
「考慮しとく」
見計らったかのように始業ベルが鳴った。
教室にて
会話はそこで打ち切られ、「あれ、もうそんな時間?」「やばいやばい」などと、二人揃ってあたふたと次の授業の用意を始める。ベルが鳴り終え、一拍の後、教師が入室し、型通りの挨拶が行われて授業が始まった。
準備の遅れた聡は慌てて教科書を開きながら、心の中では特芸科の噂について考えていた。
(今の話が全部でないにしろ、噂はやっぱり噂だってことだよな。それも相当悪質だ)
進学組からの情報があったとはいえ、実際聡も塚本の話を聞くまでは、特芸科に対する猜疑心は強かった。自覚はなかったが、どうやら聡自身、相当噂に毒されていたようだ。
(噂をまいてる奴がいるとみて間違いない。広がりの早さを鑑みても、やっかみ程度の可愛い嫌がらせじゃないよな。組織だってやってるってことか?)
(こんなことをやりそうな奴らと言えば……士爵、しかないよな)
帝都消失という大事件後、貴族制度、特に末端の下級貴族は衰退の一途を辿り、貴族とは名ばかりの冷や飯食いにまで没落している。いわゆる置き去り様だ。
その下級貴族に成り代わって台頭してきたのが士爵で、事もあろうに皇族の傍流を自称し、我が物顔で政治経済に首を突っ込みだした。聡が貴族に対して鼻持ちならない印象が強いのは、彼らの欲に飽かせた下品な振る舞いが原因だった。
三大公爵家をはじめ、未だ健在の名だたる名家は、この事態を放置して所領地に引きこもり続けた。士爵たちを対立するに値しない新参者と見下ろしている節があり、自ら動こうとしないのだ。過去の栄光を身内同士じめじめと忍んでいるなどと陰口を叩かれようと、彼らは態度を改める気は毛頭ないようで、相変わらず時代遅れともいうべき気質を固持し続けた。
聡のような地位とは無縁の人間にとっては、どっちもどっちで、雲の上の人々のやり方に、せいぜい白い眼を向けるのが精一杯だったのだが。
それが一変したのは一年前。
国は士爵に対して身分詐称を明言し、大々的に取り締まりを始めた。
政界や財界を牛耳っていた親玉が死んだとか、公爵家がとうとう本気を出したなどと噂は尽きないが、詳細は不明で、単純に国が重い腰をようやく挙げたという認識が一般的である。
だが、いくら取り締まりが始まったとはいえ、半世紀以上にも渡って続けらえた士爵の横暴がそう簡単に収まるはずもなく。
(実際、俺が特芸科の噂に反応したのも、連中がらみかと思ったわけだし)
良家の子女とは名ばかりの、品性のかけらもない士爵たちの不道理がまたまかり通ったのかと危ぶんだのだ。
(それにこの学園は、連中の恰好の的でもある)
立花本陣学園、その後ろ盾には立花グループが存在している。そしてその立花グループを運営しているのは、
(立花公爵家)
この国の三大公爵家に数えらえる名門中の名門。
聡はそっとため息を漏らす。
(断言はできないけど、疑いは濃厚ってことか)
(目的が何であれ、かなり危ないかもな)
表立った情報は出ていないが、後のない士爵共が、暴力的な手段を講じ始めたと話も出ている。
(波乱の予感しかないぞ、これ)
などと危惧しつつ、しかし一人で悩んだところでどうしようもないと思い直した。
(後でほかの連中に話してみるか……)
何となく気になって塚本の様子を探ると、やはり焦って教科書を開いていた。アニメの下敷きをノートに挟みこむのを認めてつい笑ってしまう。
むわっと生暖かい風が横っ面に吹き付けられたのはその時だった。
ぞわっと背が粟立つ。まるですぐ近くで吐息を吹き付けられたような感覚だ。生き物の体臭と排泄物を混ぜ合わせたような、どぶ臭いような、それでいて鼻孔の奥をつんと刺激するひどい悪臭がして、聡はうっと息を止め、裾で鼻を覆う。
(なんだよ、この臭い)
悪臭に淀んだ空気が、ねっとり皮膚にからみつくような気がして、その不衛生さに総毛が逆立つ。
原因を探して周囲を見回そうとした聡は、しかしぎくりと固まった。
「……!」
間近で、ぐひゅるうぐひゅるうと笑いを含んだ嫌らしい呼吸音がする。
すっと頭から血の気が引くような気がした。引いた血の行先は腹の底で、得体の知れないない何かが教室にいると悟った途端に、聡はなぜか、怯むどころか猛烈に腹が立ったのだ。
怒りに任せて、
(なに笑ってんだよっ!)
ばっと勢いよく振り返る。しかしそこに広がるのは折り目正しく着席した生徒の姿だけで、皆静かに授業を受ける日常の風景が広がるばかりだった。
怪訝に周囲を見回せども、おかしなところは一つもなく、むしろ聡の様子に気づいた生徒が、不審そうに眉をひそめてこちらを見るだけだった。いつの間にか悪臭も消えている。聡は顔にあてがっていた腕を下ろした。
教師の声よりも、かりかりと文字を書く筆記具の音の方がやけに耳につく。
(なんだんだったんだ、今のは……)
毒気を抜かれて、やや自失気味の聡は額に手を当てる。
(気を張って、変に鼻が効いたのか? 俺、実はけっこう疲れてるとか?)
首をかしげながら、何にせよ異変は去ったので、授業に集中しようと気を取り直す。
ふと隣席から忍び笑い聞こえた。反射的にそちらに目を向けて、聡は眉をひそめる。
(……?)
塚本は口元に笑みを浮かべていた。ややうつむき加減で、目元は髪の影に隠れて判別つかないものの、何かを楽しむような、あるいは挑むような表情に見えたのは、気のせいだろうか。
癇癪
特殊芸能科は選択科目のために席を空けることが多い。塚本を含め特芸科の面々は、三時間目が終了した直後に慌ただしく荷物を担いで教室を出てしまい、左隣は今は空席だった。午前中はもう、この教室へは戻ってこないだろう。予備生の平田もまた席をはずしている。こちらはただの私用のようだ。
「どうだったぁ、特芸科は」
前席の生徒が振り向いた。妙に間延びした浮かれた口調で、意味もなくにやついている。
休み時間などで何度か言葉を交わた相手だ。
「どうもこうも、普通だよ」
素っ気なく答えながら、筆記具を片付ける。話して分かったことは、平田とは別の意味で、交流を持ちたくないタイプということだ。
「うそうそ、絶対なんかあっただろ? 教えろよお」
陽気で粘っこい口調が妙に癇に障って、聡はむっと口を閉ざす。最初の会話からずっとつっけんどんな態度を取り続けているにも関わらず、何かとちょっかいを出してくるこの生徒に、聡はいい加減うんざりしていた。
(こいつ相当な粘着質だぞ。平田といい、なんか近くに、面倒なのが集まってないか)
内心悪態をつきながら、しかしそれ以上に、上手くかわせずにいる自分自身に戸惑いを覚える。
(やっぱ入学したてで、余裕ないのか、俺)
過去、こういった手合いと縁がなかったわけではない。あしらい方もある程度身に着けたはずだというのに、この生徒に対しては、何故か必要以上に身構えてしまっている。
(ああ、また……)
気付いて聡は嘆息した。おまけになぜかこの生徒に限って名前を覚えられないのだ。昨日の自己紹介の時に名乗っているし、名簿を見れば分かるはずなのに、どうしても記憶に残すことができない。
(性格が合わないのは確かだけど、それほどまでに嫌う理由なんて、今のところないぞ)
首を傾げていると、前席の生徒――ひとまずは名無し君としておこう――は、大儀そうに体をこちらに向け、椅子の背をまたいで座り直した。断りなく聡の席に肘をつき、上体を乗りだしてくる。
(ホントうざい)
苛立ちながら、しかし表情にはおくびにも出さずに、しっしっと手を振った。
「人様の陣地に無断で侵入しない。ほら、のいたのいた」
こういうタイプは、遠慮したり躊躇ったりした分だけ図に乗る。こちらの意見は、はっきりと主張しておかなければ、どんどん増長するだろう。
「ええー、けちくせー」
などと悪びれた様子もなく笑い、それでも一応腕はどけた。
「それより特芸科。さっき話してただろ? どうよ、やっぱり、お高くとまってる感じ? いいとこ育ちでっす、とか、アピールしてた?」
下からのぞき込むような目つきで尋ねられて、その馴れ馴れしい態度と口調に苛々しながら聡は答えた。
「普通だよ。それに噂は悪質なデマ」
「またまたあ、なわけないって。あいつら絶対、優遇されてるって。制服見りゃ、分かるだろ? 腹立つってーの」
文句を垂れているというよりは、同調を求めるような口振りだ。それに言葉の隅々から、卑屈さが滲み出ている。聡は勤めて平静に、しかしきっぱりと言った。
「何度も言わせるなよ、普通だった。もういいだろう」
かなり強引に会話を打ち切ろうとするものの、相手はやはり聡の態度には無頓着で、ひたすら自分の不満を口にする。
「いやいやいや、絶対おかしい、おかしいーって」
何度も同じようなセリフを繰り返す相手に、段々腹が立ってきた。特芸科の待遇について不満があるというより、今の不穏な空気に便乗して面白おかしく騒ぎ立てたいだけなのは明白だ。
(くだ巻きたいだけなら、別の奴とやれよ)
むかむかしながら、トイレに行く振りでもして、ここから離れようかと考えていると、横合いから別の生徒が声を掛けてきた。
「特芸科の話だろ。俺らも聞きたい」
塚本の前席の生徒が、椅子に背を預けながらこちらを向いている。その彼の席の側で一緒に話し込んでいた二人の生徒もまた、同意するようにこちらを見ていた。聡は呆れて半眼になる。
「ずっと聞き耳立ててたろ。今さら何知りたいっての」
塚本との会話に周囲が注目していたのは知っている。グループで話し込みながら、チラチラとこちらを伺う者もいれば、素っ気ない素振りを装いつつ、しっかり耳をそばだてる者など、とにかく耳目を集めていた。
やや刺々しく指摘すると、彼らは取り繕う様に笑いあう。
「悪い、口挟む隙がなかったんだよ」
「盗み聞きに忙しくてか」
「だいたいそんなとこ」
あっさり白状する姿に、聡は白々しい気持ちでため息を漏らす。
(所詮は他人事ってやつか。みんな仲良く、なんて言うつもりは毛頭ないけど、もう少し周囲に気を配れよ)
この先の学園生活に水を差されたような気がして、どうにも面白くない。
グループの一人が、困惑顔で口を開いた。
「こっちもさ、気になって色々話しかけてはいるんだよ。けど、向こうも向こうで壁作ってるっていうか、こっちと関わりたくないっての、ひしひしと伝わってくるんだって」
「そりゃ、これだけ注目浴びて、引いてんだよっ」
言っておいて、聡は苛立ちのために語気が荒くなっているのを自覚して、改める。
「……例のあれは確実に噂だ。振り回されてると、空気悪くなるだけだぞ」
窘めるように言うと、流石に彼らも決まり悪そうにする。
「でもさあ」
名無し君が、性懲りもなく口をはさんできた。
「国家公務員とか、上級職だよなあ。いいよなあ、もう就職先決まってるとか」
視線をグループに向けたまま、聡は抑揚をきかせて答える。
「……待遇悪いってさ」
「いいじゃんかあ、上級職、うらやましぃー。それに私服オッケーとか、ホント何様って感じだよなあ?」
「……それ、通信受講生だから」
「ええー? そんなの知らねーし?」
わざとらしくとぼけるその姿に、聡は確信した。こいつはとにかく、特芸科を悪し様に罵りたいだけだ。
「どうでもいいっしょ、そんなのは。それより塚本だっけ。オタとかありえねーし、最悪じゃね? つかキモ過ぎて」
「お前、ホントいい加減にしろよっ!」
怒鳴ってから、はっと我に返った。見れば、周囲はしんと静まり返っている。話しかけてきたグループの面々は面喰った様子で聡を見つめている。教室内の他の生徒たちも、怪訝そうにこちらの様子を伺っていた。唯一、怒りを向けられた当人だけは、自分が怒鳴られたことに対して全く自覚がないようだった。
「あっはは、おっかねーの。なあに怒ってんだよお」
にやつきながら聞こえよがしに言われて、聡は臍を噛む。
(やらかした)
沸点は高い方だと思っていたのに、よりにもよって、入学間もない大事な時期に、教室で癇癪を起してしまったのだ。今後の人間関係に大きなマイナス要因を作ってしまい、聡は盛大に顔を引きつらせる。
(てか、俺、なに興奮してんだよ。特芸科に興味はあるけど、大して思い入れなんてないって。いや、今はそれどころじゃない。軽いジョークでも言って、この場を乗り切らないと、癇癪持ちのレッテル張られる)
頬を引きつらせて、弁明の言葉を探していると、意外なところから助け船が出された。
「なに? 喧嘩?」
背後から声を掛けられて、振り向くと、そこには平田が立っていた。外出から戻ってきたらしい。不審そうにじろじろと聡やその周囲の生徒を見回す。あからさまに不機嫌な顔つきで睨めつけられて、凄まれた全員が鼻白む。
「や、なんでもない。ちょっと声が大きかっただけ」
しどろもどろに説明にならない弁明をすると、平田は興味を失ったように鼻を鳴らして、自分の席へと向かった。周囲の状況など意に介した風もなく着席して、頬杖をついて外を見る。不審と嫌悪の矛先が平田に向いた。
(すまん、平田。ちょっと感謝する)
心の中で礼を言い、もしかしてこいつは良い奴かもしれない、いや、多分良い奴だと、都合よく評価しなおす聡だった。
立花本陣学園
花州西端に位置する立花本陣学園は、海を臨む千綴山の裾野に広がっている。
入り江を利用した学園専用の飛空艇ターミナルがあり、桟橋には送迎艇が停泊している。ターミナルを抜けると、学園の正門は目の前だった。
鉄柵に囲われた敷地への入口、石の門柱を抜けると、山麓の星宮跡まで一直線に伸びる緩やかな登りの大通りを挟んで、左手に中高等部、右手に大学研究部と別れて施設が建っている。
中高等部の施設のみに注目すると、門を入ってまず目につくのが、機械工学科が所有する離着陸場で、アーチ型屋根の格納庫には、二隻の飛空艇が収容されて、学科生によって常に整備されていた。
大通りを進むと、前庭を持つ大講堂が現れる。芸能科の学舎でもあり、年に数回、外部に向けて、演劇やコンサートが開かれる本格的な劇場だ。
その先には歩道として舗装された並木の横道がある。植えられているのは桜ではなく常緑樹で、目に清々しい緑が風に揺れて木漏れ日を落としていた。
並木通りに面して山の手には、教員棟を中心に、東に中等部校舎、西に高等部校舎と、それぞれ一塊に建っている。在籍者数三百名弱のこじんまりとまとまった中等部校舎に対して、五倍の在籍者数を誇る高等部は、校舎の他に専門施設も併設し、設備は充実していた。
老朽化に伴い立て替え工事が済んだばかりの校舎は、ガラスをふんだんに使った近代的なデザインで、かといって際立って斬新でもなく、周りの景色とほどよく調和している。
その対面には傾斜を利用したコンクリートの観覧席と、桜はここに植えられている。満開を控えた薄紅の下には、各種球技のコート、芝生や土のグラウンド、体育館や切妻屋根の道場などが配置されている。寮は学舎の裏手に、緑に埋もれるようにひしめいていた。
昼休み
高等部校舎東北、中庭を臨む三階建て食堂棟一階は、天井からガラスの照明器具が吊るされた明るく開放的な空間だ。床はレトロな木材、全面ガラス張りの窓に対して垂直に、十二人掛けのテーブルが規則的に並んでいる。席数500以上の広いフロアは、授業を終えた生徒たちで賑わっていた。
本日の日替わり定食を前に、聡は額に手の甲をあて、ぐったりと肘をついていた。
「よくこれだけ絞ったな」
向かいの席で、端末画面に目を通しながら蕎麦を啜っていた井上秀行は、呆れた声を漏らす。テーブルには昼食の乗ったトレイの他に、画面を表示した端末が二つ置いてある。塚本から得た情報を検証しての感想だ。井上の、オフフレーム眼鏡の理知的な面差しはしかし、言葉とは裏腹にピクリとも動かない。聡は顔を上げて、ふっとシニカルに笑った。
「まあな。俺の情報収集集能力を侮るなよ」
「で、その見返りがボッチか」
哀れ、と付け加えて、井上はどんぶりを傾けて汁を啜る。聡は両手で顔を覆った。先の休み時間における癇癪がたたって、クラスメイトから昼食の同伴を遠回しに断られた聡は、藁をもすがる思いで井上にメールを送ったのだった。寮の同室で、中等部進級組の井上は、聡に学園の情報をもたらした当人である。
「いや、俺もまさかあの程度で、いきなりハブられるとか思ってなかった」
どんよりと重く顔を上げる。落ち込んでいても仕方ないので、昼食に取り掛かる聡に、井上は非常にまっとうな見解を示した。
「ようするに、揃いも揃って例の噂に振り回されているわけだろう」
「ごもっともです、はい」
茶碗を片手に、叱られたように顔を伏せた聡は、悄然としながら鶏のから揚げにかぶりつき、そのジューシーな味わいに慰められて、あっさりと気力を取り戻す。立花グループの外食産業部が運営するカフェテリア形式の食堂は、定食から単品、甘味までを網羅した豊富な品揃えに加えて、レストランに引けを取らぬ味、そして何より安さですこぶる好評だ。
「まったく、笑えんよ」
茶を一口飲んで、心底うんざりとため息を漏らす井上に、聡はから揚げを胃に収めてから言った。
「井上こそ、随分ご機嫌斜めみたいだけど、なんかあった?」
「おおありだ。こっちもこっちで噂話で持ち切りだが、それ以上に」
井上の言葉を遮るように「ぎゃははっ」と品のない笑い声が、食堂中に響き渡る。大した音量だ。反射的に声のした方を振り向いた聡は、食堂の中央付近に席を陣取る集団を認めて、半眼になる。
「なんだ、あれ」
数名の生徒が、通路を塞ぐように椅子を引いて座っている。皆一様に体格は良いが、前屈姿勢で鈍重な印象だ。話し込みながら、時折ぎらぎらと光る眼で周囲の様子を伺い、自分たちの振る舞いが場に不和をもたらすのを楽しんでいるように見受けられる。中にはテーブルの上に腰を下ろし、椅子の座面に足を乗せる者までいて、柄の悪さを意図的に強調しているようだった。
「特芸科予備生」
抑揚を抑えた声で井上が言った。見れば確かに、腕に臙脂色の腕章をしている。その予備生に通路を遮られて、トレイを持った生徒たちが迷惑そうに、あるいは怯えるように迂回していた。聡はそれらを白々と眺めて、
「あー、あれか。素行が悪いとか言ってた」
「あの中の三人がうちのクラスにいる」
クラスメイトとは言わずに、わざわざ婉曲した言葉を選ぶ当たり、井上のクラスの状況が見て取れた。不機嫌の理由を察して、聡は同情気味に、
「きつそうだな」
「そろそろ限界だ」
「あ、いたいた」
明るい声がして、小柄な男子生徒が聡の隣席にカツカレーとサラダ鉢の乗ったトレイを置いた。同室の機械工学科所属、一色昭だ。早くも制服を着崩してはいるが、だらしないというより、快活な印象がある。寮は四人部屋で、残り一人、商業科の永倉仁については、所用につき辞退するとの意をメールで受け取っている。
一色の登場で、特芸科予備生から関心がそれ、僅かに場が和む。
「よっす、お疲れ。あれ? なんか暗いけど、どしたのさ。あ、まさか飯がイマイチで落ち込んでたとか?」
本気で危ぶむ一色に、聡は苦笑する。
「なわけないって。ちょっとクラスで色々あってさ」
「ふーん? やっぱ勉強ばっかしてると、精神衛生よろしくないのかね?」
軽快な口調で他人事に言うと、一色は席につき、用意した昼食、大盛ご飯に並々と注がれたカレーと、その上にここぞとばかりに乗っかる分厚いカツをじっくり観察して「おおう」と目を輝かせる。
「ここの学食、メニュー盛りだくさんだろ。だから今月はこっちで食べることにしたんだ」
うきうきとした口調の一色に、聡は笑いながら、
「ああ、機工科は弁当派が多いんだっけか。一カ月契約だったよな?」
「そ、弁当も悪かないけど、献立固定されてるからさ。実習始まったら、昼にこっち来るの、結構大変よ。じゃ、いただきます」
礼儀正しく手を合わせて、一色はカツに先割れスプーンを突き立てる。黙って会話を聞いていた井上が呆れて言った。
「幸せな奴」
「おおう、幸せよ。美味い飯が食えるだけで、人生丸儲けよ」
井上の嫌味を軽く受け流して、カツをかじると、以降一色は、口と皿との間を、ひたすらスプーンを往復させて無言になる。旺盛な食べっぷりだ。井上は何も言わず頭を振って、かやくご飯の椀を手に取った。入学式前日に慌ただしく入寮した一色は、大雑把だがこだわりが少なく、几帳面で少々気の短い井上とは、一見相性が悪いように見えて、実はいいコンビじゃないかと、こっそり見立てる聡だった。
「ま、確かに飯が美味いのは有り難いよ。昼食代の心配もいらないし」
「計画性は必要だがな」
「わかってる。でもさ、一カ月ごとのお小遣いって、なかなかありそうでなかったアイデアだと思うよ」
一カ月の昼食代は、学費の中から定められた金額が、電子マネーとして携帯端末機に振り込まれる仕組みになっていた。その中から学食や売店を利用したり、弁当を定期購入したりと選ぶことが出来る。現金のチャージも可能であるため、利用の幅は広い。
「去年から始まった試みだ。金の使い方を覚えろって事らしい。もっとも、立花グループが、生徒の嗜好データを収拾していると言われているが」
「さすが、抜け目のないことで」
「以前は一カ月分の食事券だったんだが、転売が横行してな。昼を抜いて、貧血で倒れる奴がでた。それで監視のために電子化した。食事の記録が残るから、体調崩すと、端末の個人情報、調べられるぞ」
「なんか怖いな。てか、そこまでするなら、無料にすればいいんじゃないのか?」
「事件が起こるまでは無料だった」
「事件?」
「生徒を装った複数名の部外者が入り込んで料理を食い荒らした。壮絶な食いっぷりでな、中等部高等部共に、用意してあった品の六割、しかも肉系をメインに平らげた」
唖然となって箸をとめた聡は、危ぶんで聞いた。
「……ここの警備は大丈夫なのか」
「立花技研の防犯カメラは年中無休二十四時間稼働している。すぐに犯人は捕まった。小学生だ。外部から招いた星宮跡研究者の子供らで、面白半分に入り込んだと自白したらしい。ちなみに反省の色はなく、その後三か月ほど、不定期で続いた」
「親共々締め出せよ」
話の内容にげんなりと顔をしかめて、
「ガキ共より、のさばらせている連中が問題だろ。捕まっても繰り返してるって事は、周りがそうさせてるんだよ。ガキの悪戯で済ませるからだ。強盗や窃盗扱いにしろって」
不機嫌に意見すると、井上もまた頷いた。
「研究者は締め出した。が、子供らは性懲りもなく入り込んでいるのを目撃されている。保護者へも通達したが、効果はなくてな。どうやら身元が割れて、開き直ったらしい。ゲームのつもりか集団化して、とにかく手が付けられなかったとの話だ」
「とんだギャング集団だな。普通に警察案件だろう」
聡は顔をしかめた。井上は諦めきった様子で、
「犯人は分かっている。学園は事を荒立てたくないようだ。問題は彼らがどこから入り込んだかだ。この学園の周囲は山と海で交通手段はバスか、あるいは送迎艇に密航したかになるが、どちらも利用した痕跡はない。おまけに猿のようにすばしっこくて、現行犯でも捕まえられなかったらしい」
「人間じゃなくて、本物の猿でしたってオチじゃないよな」
「その指摘はかなり前から出ている。残念だが人間だ。あまりにも頻発するので、中等部と同じ給食にするという話も出たのだが、生徒からの反発が強くてな。金を持たせるという結論に至ったわけだ」
「そりゃ、そうだろう。そんな分別のないガキ共のために、こっちが不利益被るなんて、ごめんだぞ」
呆れ返って、味噌汁を啜る。ふと椀を傾ける手が止まった。
「そいつらって、もしかして臭かった?」
「臭い? 体臭のことか?」
「むしろ口臭と言うか……、いや、食事時に話す内容じゃない。忘れてくれ」
怪訝な顔つきの井上だったが、それ以上は追及してこなかった。授業中に感じた不快感については、気のせいとしてすでに片付けている。それに蒸し返すと、あの悪臭が蘇りそうな気がして、聡は口をつぐんだ。
「食事券にしてからは被害は止んだ。転売の問題もこれで」
井上は自分の端末をつつく。
「解消と相成ったわけだ」
「それは何より。……どうかしたのか?」
井上が難しい顔をしていることに気が付いて、問いかけると、
「いや、ただ、今年からは特芸科だな、去年までは普通科特殊芸能コースだったんだが、奨学金制度を利用する生徒が多かったと聞いていてな」
井上の言葉に、ピンと閃いた。
「まさか貧血で倒れたのって、そいつら?」
意味もなく声を顰める聡に、井上は不承不承頷いた。
「そうだ。特芸コースに所属するのは、何らかの事情で家が経済的に困窮している者が多かった。おそらく下級貴族も含まれていたのだろう。暗黙の了解と言うやつでな、中等部にも奨学金を受ける特芸コース志望者はいたから、学内ではかなり有名で、有名過ぎて、誰も大っぴらには口にしなかった」
「腫物扱いに気を使ってたってことか。てか、それ初耳」
「俺にもわきまえくらいはある」
しゃあしゃあと言ってのける井上に、聡は押し黙る。どうやら、聡の噂好きを懸念して、一部情報を秘匿していたらしい。
「ならそれらしい風貌の生徒が通信受講生だってのも知ってたのか?」
少々気を悪くして問うと、井上は顔をしかめる。
「それは俺も知らなかった。そもそも特芸コースは、星宮跡の伝統保存が目的だ。管轄が国へ移譲されたとはいえ、古巣をおもんかばる良家――上級貴族は少なくない」
「つまり、上下に関わりなく貴族が所属していたのは事実で、例の噂はある程度的を得ていた、と」
「五稜庁へ就職するのは、奨学金制度受給者だけだったようだが」
聡は少し考えて、
「五稜庁は人手不足だって話だよな? つまり奨学金と引き換えの身売り的な?」
「言葉は選べ」
井上が冷やかに窘める。
「下級貴族の不遇は国の不手際に相違ないが、言い出したらきりがない。彼らは差し迫って、将来、安定した職を求めていたし、国も方針変換してごたついていた。利害は一致している」
「……釈然としないんだが」
「政治とはそういうものだ。それに特芸メンバーは、進路が決まっているためか、学園生活は余裕があるように見えていた。久住が期待するようなネガティブなイメージは、ない」
語尾をことさらに強調する。聡は肩を竦めた。
「それ、高等部の話だよな? 随分詳しいみたいだけど?」
聡と違って、井上は周囲の出来事にどちらかと言えば淡泊だ。その彼が、ここまで突っ込んだ事情を知っているとなると、何らかの情報源があったとみた。
「中等部の頃、特芸への進学志望者がクラスにいてな、他とは毛色が違うので気になって話を聞いたのだが、彼の実家は爵位こそないものの、かなりの資産家で、星宮跡の伝統芸能――特殊芸能科か、に興味を持っていると言っていた。道場にも通っているとかで、そう、武芸系とかいうのに分類されるのだろうな」
「そいつ何組? 名前は?」
思わず自分の端末に手を伸ばす聡に、井上は呆れて、
「上代という名だよ。中等部では有名だったが、去年の暮れに事故で大怪我をしてからずっと入院している。うちのクラス名簿の名前があった。担任の話では復学は近いそうだ。――彼は特芸科に進学すると明言していたし、特芸メンバーは星宮跡へ入る際、着替えていたからな。それで通信受講生と混同していたのだろう」
情報の祖語について、聡にではなく、自分に言い訳をしているような口調だ。片手で端末を操作しながら、聡は苦笑する。
「なら、通信受講生の上級貴族は、塚本の話通り、士爵連中への牽制でわざわざここに通ってたのか。ずいぶんとご苦労なことで」
少々呆れ気味に言うと、
「その辺りについてはこっちが初耳だ。が、言われてみれば、思い当たる節はある」
考え込むような井上の言葉に、聡は顔を上げた。
「大学部か星宮跡の方に、黒塗りの外車が大挙して押しかけたことがある。騒ぎはすぐに収まったが、今思えば、あれが士爵連中だったのだろうな。身なりの良い者を見かけるようになったのは、それからだ」
そう言えば、と井上は加える。
「食い逃げ事件と同じ時期だったな。どちらも俺が入学した直後だ。星宮跡の調査に外部への門戸を開いた頃だ」
「星宮跡がらみで、おかしな連中が押し寄せたってことか……」
端末から手を放して、窓の外に目を向ける。手入れの行き届いた中庭の一角に、ごつごつとした岩石が静まり返って鎮座している。所々に金属質の輝きを放つそれは、星宮跡の一部で、様々な大きさの岩石が、学園内に散在している。岩石だけではなく、星水の拝受口や水場など、星宮跡関連物は事欠かない。
(あれってそんなに重要なのかね)
文化財にとことん興味のない聡は、首を傾げながら土地の歴史を物語る史跡から視線を戻すと、あ、と思い出す。
「肝心なとこ聞き忘れてたけど、その良家の子女ってのは、具体的にどんな風貌なんだよ」
聡の質問を、井上は一言で片づけた。
「見れば分かる」
素っ気ない物言いに、半眼になる。相変わらず冷静さを装っているが、すました表情が微妙に空々しく(なにかあるな)と察するものの、口を割らせるのは容易ではないと判断して、質問を切り替えた。
「じゃあ、その上代ってのは、どんな奴?」
「優秀だった」
即答だった。中等部で学年十位以内の成績をキープし続け、なおかつ生徒会に所属していた井上が断言するのだから、その優秀さは推し量るべしである。
「少々武芸に打ち込み過ぎなきらいはあったが。――特芸コース専攻者は、皆優秀だった。中等部の話になるが、学力以上に、感覚や感性に優れて、口が上手いわけではないのに、特に上代などは無口に分類される方だというのに、よく人をまとめていた。行事の裏方を勤めて、文化祭や体育祭は、それで成功していた」
聡は二個目のから揚げを口に運び、井上の言葉と一緒に咀嚼して、のみ込む。
「特芸科は優等生の集まりだったってことか」
「そうだな。だが、誰もそれを鼻に掛けたりはしなかった。上代はともかく、そうあるべきだと躍起になっている節があった」
家庭環境が影を落としていたのは、聞くまでもなさそうだ。井上が聡に対して口を閉ざしていた理由を何となく理解して、少々気まずくなる。噂好きを公言して憚らない聡とは言え、こえまで幾度となく経験した失敗が、この事案について、分別を持つようにと告げていた。
(まあでも、聞かなきゃ分からないってもの、あるけどさ)
どうしたものかと思案しながら、茶を啜っていると、「ぎゃっははっ」と爆笑する声が、聡の後頭部を殴りつけるように響いた。すっかり失念していた特芸科予備生たちだ。俯いて湯呑を口元から離すと、
「……優秀なんだよな?」
視線を落としたまま確認する。
「……去年までの話だ」
絞りだすような井上の言葉には、怒りが滲んでいた。
「それに彼らは特芸科ではなく、普通科だ。うちのクラスの特芸科生は休学中の上代と外部入学の女子二名だけだ」
憤然と言葉を切り、少し目を逸らせて井上は続ける。
「その女子らに、予備生が絡んでな。置き去り様と、随分な大声で呼んだわけだ」
「は?」
余りの幼稚さに聡は開いた口が塞がらない。井上もまた、その言葉を口にしたことに羞恥したらしく、若干居心地悪そうに話を続けた。
「彼女たちも今の久住と同じ反応だった。――つまり、その塚本氏同様に彼女らも普通の家庭出身ということになるのだろう。が、どうにも引っかかる……」
「引っかかると言えばさ」
遊び人は焔を語る