不在証明
※BBCの21世紀版sh/erlockの二次創作
薄暗い室内は、暖房のお陰で快適な室温だった。
だが、そこに流れる空気は、その暗闇を質量化させたかの如くに重く、息苦しささえ感じさせる。
誰もいない居間。他人の煩わしさに翻弄されずに済み喜ばしい筈。
しかし、その一人掛けのソファーが空であると言う不在証明は、酷く心を掻き乱す。
貫くような胸痛に、喘ぐ様に息を吐き出した。
それはあくまで感情的なものであり、物理的になされたことではない。
探偵の理論的な理性は、感覚的は部分を一蹴してみせるが、黒く硬く冷たい何かが探偵の肺を満たしているような気分は、どうしても拭えなかった。
その原因を、探偵は知っている。
昨夜。やはり同じように薄暗い室内。そこにもう一人の男がいた。
彼は、ひとり掛けのソファーにぐったりと身を沈め、寝息を立てていた。
砂色の髪は闇眼にも鮮やかで、まるで仄かに照らす常夜灯のよう。
彼の表情は、その寝息に違い、酷く歪んでいた。
まるで首を絞められているかのような、その表情に、探偵は僅かな違和感を覚えていた。
探偵は、彼の沈むソファーの前に立った。
シャワーを浴びてきたばかりの探偵は、濡れた髪をタオルで覆い、彼を見下ろしている。
そして、彼を起すべく、手を伸ばした。
刹那
探偵の手が払いのけられ、銃口が突きつけられた。
「動くなッ!両手を頭に乗せて跪け…従わなければ、お前を殺す…ッ!」
一息に怒鳴りつけられた言葉は、彼の口から発せられたものだった。
殺気の篭った眼光は鋭く、従わなければ発砲も辞さない、その気迫が探偵に叩きつけられる。
彼が、眠っていた彼の手が、探偵の手を払いのけ、そして銃を突きつけてきたのだ。
時間を少しだけ戻せば、探偵と彼はある事件の捜査に参加していた。
中東のテロリストだった。
彼は、彼独自の理論で既に4人の欧州国家要人を爆殺していた。
5人目の犠牲者は、英国政府の要人たる人物であることを兄より知らされた探偵は、警部と共に中東のテロリストを探し当てる。
テロリストが最終的に逃げ込んだ場所は、下水道だった。
独特の腐臭と湿度に満たされた英国の暗部は、不快指数を高めることにより集中力を掻き乱す。
結果として、探偵と警察はテロリストを取り逃がすこととなったが、捜査過程に得た情報から、テロリストの潜伏先を割り出すことに成功した。
そこから先は、警察の仕事だ。
探偵と彼は、より遅くに下宿先に帰ってきたのだ。
二人とも疲労困憊であったが、探偵の気分は上々だった。
テロリストを取り逃がしたのは失敗だったが、理論派のテロリストとの攻防戦は、探偵の知的好奇心と聡明なる頭脳の活用を大いに促してくれたのだ。
だから気付かなかったのは、無理も無い。
彼が、下水道の半ばあたりで、険しい表情のまま、苦しげに喘いでいたことに。
下水道の汚臭を洗い流し、気持ちの良い気分で彼の前に、探偵は立った。
彼は、ひとり掛けのソファーにぐったりと身を沈め、寝息を立てていた。
砂色の髪は闇眼にも鮮やかで、まるで仄かに照らす常夜灯のよう。
彼の表情は、その寝息に違い、酷く歪んでいた。
まるで首を絞められているかのような、その表情に、探偵は僅かな違和感を覚えていた。
探偵は、彼の沈むソファーの前に立った。
シャワーを浴びてきたばかりの探偵は、濡れた髪をタオルで覆い、彼を見下ろしている。
そして、彼を起すべく、手を伸ばした。
刹那
探偵の手が払いのけられ、銃口が突きつけられた。
「動くなッ!両手を頭に乗せて跪け…従わなければ、お前を殺す…ッ!」
一息に怒鳴りつけられた言葉は、彼の口から発せられたものだった。
殺気の篭った眼光は鋭く、従わなければ発砲も辞さない、その気迫が探偵に叩きつけられる。
彼が、眠っていた彼の手が、探偵の手を払いのけ、そして銃を突きつけてきたのだ。
「…シャー…ロック……!」
彼は眼を見開き、探偵を凝視していた。
そして、その視線を僅かにずらし、探偵の背後の室内を見た。
彼の表情が殺気混じりのものから、驚愕に変わり、やがて、恐怖を滲ませていくのが分かる。
額にはじっとりと汗をかき、彼は力なく銃を降ろすと「すまない」と小さく呟いた。「…厭な、夢をみたんだ…許してくれ」
「戦場の夢かい」
「!」
弾かれたようにジョンは、探偵の灰色の目を見つめていた。
「…何故…」声が、掠れる。
「今回のケースは中東を思い出させる要素が多かった。犯人が中東の人間であるから当然だがね。あの下水道での追跡も君の記憶を呼び覚ます一要因になったんじゃないか。君は以前、野戦病院は湿度と腐臭が酷かったと語ったことが------」
早口に推論を、いつものように語りだす、それが止まった。
それは、あまりに目の前の彼が憔悴していたからだ。
「その通りだよ」搾り出すように、彼は告げる。「…今回は、アフガンを想起させる要素が多かった…これは俺自身の弱さの問題だ…君にまで不快な思いをさせて、申し訳ないと思ってる」
「ジョン、僕は-------」
「シャーロック」
彼は立ち上がった。探偵の表情を見ることなく。「すまない…一週間ほど、俺は出てくるよ。出来るだけ、連絡はほしくない」
「ジョン」
「そうしないと」彼は苦しそうに、呟いた。「…俺は、君も殺してしまうかもしれない…」
と。
あの時、彼は戦っていた。自身の心の傷と。
それなのに、探偵はその傷を暴き、晒し、斬り付けたのだ。
彼の心の傷の深さを認識していた。
だが、理解はしていなかった。
その結果、彼を追い詰めた。
殺気混じりの眼光。突きつける拳銃。
恐らく本気で殺そうと銃口を向けた相手が探偵であると知り、愕然としたのだ。
奥底に眠る忌まわしい記憶と経験は身体に染み付き、剥がし落とすこともできやしない。
その葛藤を見ず、ただ事象の推論を並べ立てるなど、暴力以外のないものでもなかった。
それでも、彼は、探偵を責めはしない。
「ジョン」
探偵は彼の名前を呼ぶ。
彼のソファー。誰も座らないそれは、彼の不在証明。
座る彼を見下ろすように、探偵は肘掛に手をつき、ソファーの座面を見下ろす。
「…ジョン…すまなかった…ジョン…」
届かぬ謝罪。それは誰にも聞かれずに霧散する、儚い懺悔のよう。
”気にするな、シャーロック…それより、朝飯にしよう”
幻の彼が微笑む。砂色の髪を揺らし、優しい笑顔で彼は探偵を抱き寄せる。
彼が許してくれることを、望んでいるのか。
彼が許してくれることを、待っているのか。
「…ジョン…」
幻の彼に口づけてもらうように、探偵はソファーの背に唇を寄せた。
2011.1.12
不良保育士コウ
不在証明