サブヒューマン
【subhuman】形容詞:1.人間には不適当な 2.少しも人間的でない、人間としてふさわしくない
ラウールはもう死にたかった。
最近は、カウチで寝て起きてを繰り返していた。
扉の向こうから独りでに愉快なお話がやってこないのを確認するように。
冷えたフロアタイルの上にはウォッカの空き瓶とコピーの束が乱雑に散らばっていて足の踏み場もない。
レーラからの留守電を再生しても、がなりたてる声しか入ってないのは明白だ。
不意にカウチから起き上がり、シワだらけのシャツを纏う。
今日にはここも引き払わなければならぬ。
「無様だな」
部屋の惨状をみて毒づく。
先月、仕事をクビになって、金も底が見え始め、物価が高いこの国には居られる見通しが立たなくなった。
恋人のレーラにも一昨日にクビがバレ、今の貴方はどうしようもない駄目人間だと彼女の部屋で罵られた。
それでもまだ足りないのか、私が変わることを信じているのか、電話に、仕事のこと、これからのことを懇懇と怒気を含んだ声で吹き込むのだ。
以前の私はデザイナーとして働いていて、ささやかながらそのことに矜持もあった。
レーラは同じデザイナーでも業界では名の知れたデザイナーで、私は零細企業の雇われデザイナー。
昨今はムック本が思うように売れず、デザインの印象を一変させたいということで社のものは全て外注となり、お荷物となった私はすぐに切られた。
仕事の関係で知り合ったとはいえ、普段仕事の話はしなかったのでしばらくの間はバレなかった。
彼女のことを愛しているかと聞かれたら、そうでもない。
こころは妬みでいっぱいだった。仕事でどうしても勝てぬから恋愛関係を持ち、プライベートでは上の関係を築こうという意地汚い理由で彼女と交際した。
そんな最低な自分にそろそろ耐え切れなくなっていた。
仕事上でコンプレックスを抱えながらも、働くことは好きであった。
企画の話で同僚と夜中まで話し合い、目論見が見事当たった時は同僚と抱き合って喜んだものだ。
「さて、片付けるか」
部屋を見渡してラウールはつぶやいた。
片付ける。なにもかも。
整理する。この人生を。
ゴミを集め、今まで仕事に欠かすことの出来なかった資料や書籍を縛って街頭のダストボックスに入れ、
電話会社とこの部屋の持ち主に解約書類を送付する。
ストーブやキッチン用品はまとめて買取屋に引き取らせて少しだけ今後の足しにした。
テーブルとカウチ、なにも入ってない棚とクローゼット、元から飾ってあった絵。
他に何もなくなった部屋を見てため息をつく。
ラップトップとタバコだけ名残惜しげに仕事用の鞄に詰め込んだ。
―――もう何度目だろうか。こうして逃げるのは。
そう、ラウールはいつもこうして逃げてきた。
友人や会社の人間との関係から、目指していたはずの夢から、大切にするはずだった恋人からも。
フリーランスとして生きていけると思っていた20代前半。
(次はアメリカか、イタリアか、それともアジアの新興国か。そこで働き口を見つけて…。
いや、なにもかも忘れて旅してもいいか。それとも、私は5カ国語話せるのだ、これを活かして翻訳家にでも転職するか…)
次々と浮かんでは消える、意志の弱い想いを見送って扉の前に立つ。
振り返ってモノが無くなって初めて来た日と同じ状態になった部屋。
原因不明の涙が溢れてくる。
―――やり直しだ。また、やり直せばいい。
神だか心の中の妄想の塊だかがそう囁いた。
「そうか。やり直しか…」
鞄を抱え直す。滲む視界は夕焼けで赤く染まっている部屋を美しく現像している。
死にたがっていた気持ちが消え失せ、萎びていた世界が赤に溶けて、広がっている。
大切だったものを忙殺され、汚い感情を纏って、
かつての僅かにあった愛おしい想い出を忘れていく日々。そんな私の人生を塗り替えるように、赤は、フロアタイルに広がる。
そして、ラウールはそのどこかノスタルジックな色に気付きを得るだろう。
何度目かのやり直しを、また、始めればよいだけなのだと。
サブヒューマン